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検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ゅうぎり ふたつの掌を口にかざしながら、雲ともタ霧ともっかない白う宵のような闇がただよっている いものにポカされている果てへ、声かぎり呼び歩いてきた。返そこでもまた呼んで見た。 五たび六たびも、あかずにかれの名をよんだ。 天辞がない。 ・一だま 常に目なれている景色ではあるが、そこのうるわしいながめ だが林の奥から、さびしい木魂がかえってくるだけで、オー みりよく * 、くや - 一 神にも足元の花にも、なんの魅力を感ぜずに咲耶子は、ひたすイと、あの快活な竹童の返辞はしてこない。 ちくどう 『おや ? 』 ら、すがたの見えない竹童をあんじていた。 ひる とりで みよう きようの午ごろまでは、じぶんと一しょに、砦のおくの櫓咲耶子は妙な音にきき耳を立てて、林のやみへ眸をこらし こたろうん じゅもく に、きのうと同じように油断なく小太郎山を見張っていたの た。なにか非常に大きな力が樹木をゆすったように思える。 やぐら しつのまにか櫓を下りていったきりかえってこない。 われをわすれ、樺の密林へ馳けこんだ。見ると、なかでも大 こばたみんぶ ほか あらわし この四、五日のあいだは、小幡民部をはじめその他の人たちきな一本のの木に、あの竹童の飼っている荒鷲がつながれて みかたはら なまるききゅう かいぬし が、とおく三方ガ原まで伊那丸の危急を救いにかけつけているあった。その飼主の名を呼んだので、羽ばたきをしたのであろ るす みかた だいじな留守 ! その留守のあいだは、味方の武士がこめてい うと、愛しく思えたが、 とりで る砦とはいえ、けっして油断をしてはならないのに、あの子は 『おまえをかわいがっている竹童さんはどこへいったか ? 』 とり・ まアどこへいってしまったのだろう ? と、禽に聞いてみるよしもなかった。咲耶子はまたすごすご 『ほんとに、竹童さんはまだ子供だ。もう日が暮れようとしてとそこをさった。 おろち 、るのに わたしにこんな心配をさせて』 すると、大蛇の背なかのようなものが、笹を分けてザワザワ 咲耶子は不安にたえぬように眉をひそめた。 と彼女についていくーーーそれはかなりまえから先のかげをねめ おこ タ餉どきに帰りを忘れてあそんでいる弟を、父や母が怒らぬまわしていたのであるが、咲耶子は知らなかった。 うちにとハラハラしてさがす姉のような愛が、彼女の眼にこも 林の道が三ッ股にわかれているところへくると、その左右に っていた。 も、二人の人間がかがんでいて、足音を聞くとともに、ムクッ 『竹童さアーー、ん : : ・こ と、つ。こいたよ、フ : 『」 . れ - ド ) やッ ? ・』 そうして、自分の身の危険を、一歩一歩とわすれていった。 『もしかす・ると ? ・』 はげしくいって、キッと小脇差に手をかけて立ちどまると、 第、・つり ぐそく かぶとむし さむらい 露にぬれる草履のグッショリと重くなったのも感じないで、 甲虫のような茶色の具足をつけた侍が、いきなりおどりあが 例の樺の林のほうへかけだして見た。林のあさいところの木って左右から二本の槍をつき向けた。 は、一本一本薄いタ陽の紅になすられているが、奥のほうはも『咲耶子 ! しずかにしろ』 さくや - 一 ゅ・つ洋り て まゆ やぐら * 、くや - 一 かいかっ やみ かばみつりんか せ へんじ - 一わきギ - し 0 ひとみ 、ゆス′ 340

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

お小姓とんば組 へ 4 、、て劔 : ト ~ ル 一将早 ) ~. のン かすみ ありゃなしの霞をすかして、 微風もない春のタぐれ、 かすみ タ陽の光が金色にかがやいている。いちめんの草にも、霞に も、竹童の肩にも。 ようよう 第 , するとやがて、耀々としたタがすみのなかから、あまたの青 すまるた 竹と杉丸太をつんだ車が、ガラガラと竹童のそばを通りぬけ あしがる にんぶ た。そのあとについて、八、九人の足軽と十数名の人夫たち きづち まみ、かり・ が、芹や、鉞や、木槌などをかついで、なにかサワザワと話 しながら歩いてゆく。 すれちがった時に、なんの気もなく竹童がふりかえると、一 あしがる ばんさいごについてゆく足軽が、一本の立て本をかついでい こうさつかためん 生あたらしいその高札の片面に、なにか墨色もまざまざと書 ぎよう いてあったが、その文字のうちに、ふと、武田と読めた一行が あったので、竹童はハッと胸をさわがしたが、 『亠め、・もーし』 れいせい と、呼びとめておいて、つとめて冷静をよそおいながら、 『浜松のご城下へゆくには、これをまっすぐにゆけばいいんで すか : と道にまよっているふりをして、そのあいたに 、足軽が肩に ・一うみ」っ もじめん かけている高札の文字を読もうとしたが、意地わるく、文字面 の裏を向けていて、よく読むことができなかった。 『うむ、ご城下へは一本道だが、まだだいぶ道のりがあるぜ』 『じゃ、日が暮れてしまいましよ、つね』 『いそいでゆきねえ。ぶっそうだから』 - 一うや あしがる 曠野にさまよう子供と見て、その足軽は、さきへ青竹をつん でいった車やつれの人数からひとりおくれて、こまごまと、十 おの あしがる 307

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

がじろう 『蛾・次郎・さんの宀豕はどこだい ? 』 くわばたけ すその おりかどむら 『おれか、おれは裾野の折角村だ、だが今あの村には桑畑の ひとなしむら 馬 かいこばばあ 天蚕婆と、おれの親方だけしか住んでいないから人無村という 州 - - は、つ、が一は′ルレ」、つ 4 / 』 神『親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい』 『知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけト斎っていう なんばんてつ やじりかじ 有名な鏃鍛冶だよ。おれの親方の鍛った矢の根は南蛮鉄でも射 抜いてしまうってんで、ほうばうの大名から何万ていう仕事が えんさく - 一がくれ ひぞうでし 木隠童太郎のために、河原へ投げつけられた燕作は、気をう きているんだ。おれはそこの秘蔵弟子だ』 ようさん しなってたおれていたが、ふと誰かに介抱されて正気づくと、 『偉いなあーーー』竹童はわざと仰山に感心して、 たいまっ 『じゃ、蛾次郎さんとこには、松明なんか腐るはどあるだろう鳥刺し姿の男が、 『ど、つだ、」がついたカ』 あずち とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土 『あるとも、あんな物なら薪にするほどあらあ』 ふくしままさのり 城で、自分の手から密書をわたした福島正則の家来可児才蔵で 『おいらに二十本ばかりそっとくれないか』 おれ ある 『やってもしし冫 、、ナれど、そのかわり俺になにをくれる』 燕作はあっけにとられて、 と蛾次郎はずるい目を光らした。 とうわく いつのまにこんなところへ』 竹童は当惑した。お金もない。刀もない。なんにもない。 思わず目をみはった。 持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、 わし 『お礼には、鷲に乗せて遊ばしてやら。ね、鷲にのって天を翔『しツ、大きな声をいたすな、じつは、秀吉公の密命をうけ て、武田伊那丸との戦のもようを見にまいったのだ、ところ けるんだぜ。こんな面白いことはない』 にわしようせん で、さっそく丹羽昌仙に会いたしが、そのほう、これより人穴 あんない 『ほんとうかい、おい ! 』蛾次郎は、目の玉をグルグルさせ城のなかへ案内いたせ』 『とてもむずかしゅうございます。敵は小人数ながら、小幡民 げんじゅう たいまっ 『うそなんかいうものか、松明さえ持ってきてくれれば乗せて部という軍配のきくやつがいて、蟻ものがさぬほど厳重に見張 っているところですから』 やる。そのかわり夜でなくッちゃいけよ、 かんどう 『どこの城にも、秘密の間道はかならず一カ所はあるべきは そしてお前はどこに待ってい 『おれも夜の方がつごうがいし まき る ? 』 しらはた 『白旗の宮の森で待ってら、まちがいなくくるかい』 たいまっ いくとも ! じや今夜、松明を二十本持っていったら、きっ わし と鷲に乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知しないぜ、お おれは切れる刀を差しているんだから』 と、またあゆび巻の山刀を自慢した。 0 あり こばたみん 726

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

落ちてくる。 ェイツ、ガリ わからない。そのうちに、・ 『しめた ! 』 という声。うまく投げた鈎のさきが岩松の根に引っからんだ とみえる。 ど 力をこめて手応えをためし、よしと思うとその男のかげ、度 胸よく乗ってきた小舟を蹴ながし、スルスルと一本綱へよじの ばりだした。 胆も太いが手ぎわも いい、たちまち三丈あまりの絶壁の上へ ちくぶじま 死人の顔のように青い月があった。 みごとに手ぐりついて、竹生島の樹木の中へヒラリと姿をひそ にらんでいるかと思うほど冴えている。月も或る夜はおそろませてしまった。 しいものだ。 と。それからすぐに。 ほうらいさん ちくぶじま べんてんどう きくむらくな 昼は蓬莱山の絵ともみえた竹生島が、いまは湖水から半身だ 弁天堂のわきにある菊村宮内の家の戸を、トントントンと根 きょま てしよく している巨魔のごとく、松ふく風は、その息かと思われてものよくたたき起していたのはその男で、やがて手燭を持ってでて きた宮内と、たがいに顔を見合わせると、 まさに夜判をすぎている。 『や』 にしうら ザプーンー と西浦の岩になにか当った。パッと散ったのは 『おお』 やこうじゅ しぶき 波光である。百千の夜光珠とみえた飛沫である。だが、そこ といったまま、中にはいって厳重に戸じまりをかい、奥の一 怪魚のごとき影がおどっていた。舟だ、人だ 室に席をしめて、声ひそやかに話しはじめた。 ほっこくぜ、 ぐんし 『め、ツ』 『どうなすった。こんどの合戦に、北国勢の軍師であるそこも きたしよう とが、かかる真夜中に落ちてくるようでよ、、 。しよしょ 7 イノ庄の 面とさけんだのは舟中の男だろう。ほかに人はだれもいない。 仮 またつづいて、やツー という声がかかった、声というよりは城もあぶないとみえますな』 お 気合である。 『おさっしのとおりまことにみじめな負けいくさ。ここへきて しずたけ れ ッと舟から空に走ったのは、鈎のついた一本のなわ。貴殿に顔をあわすのも面目ないが、じつは、賤ガ岳の一戦に み、くまもりま物、 しようとっ ガリッというと手にもどって、上からザラザラと岩のかけらが この方と佐久間盛政との意見が衝突いたし、そのためにいろい ん わ 割れたお仮面 、、も た というこの物音、なんどくり返されたか かギ - げんじゅう ぜっぺき 297

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

きんぞくおん 瓦の上で、すさまじい金属音を立てた。 そしてまさしく屋根の天ッ辺。 であ おおく ! け 『お出合いなさいー お出合いなされ ! 大久保家のご家中の 『あれだツーーお使者のこえ』 かたがた 方々、あやしいものが逃げまするそ、早く、早く、早くここ 『おお、屋根、屋根の上 ! 』 『のばれ ! 』 こしようよいちぜっきよう み - くや - 一 高きところに声を嗄らしている小姓余一の絶叫が、一同の頭『咲耶子を手捕りにして余一を助けろ』 じゅうべえ み一しす くまぞうしった からけたたましく聞えてくる。 あわてきった十兵衛の指図と熊蔵の叱咤が、若侍たちの先 駆けをあおッた。 廂の上へぬけでるかくし階段をさがす らんま つりがんどう 者、欄間に足をかけて釣龕燈の鎖をつか ' 第「、み、三太郎猿のよくやる離れわざの亜流を 、こころみて、屋根の上へはいあがろうとす さくや・一 よいち る者ーー咲耶子と余一とは、、つこいど わかざむらい から屋根上へのばったのか血気な若侍 にしてもふしぎなくらい、この一番乗りは 骨が折れたが、あとになって心得のある者 ろうかく しゅうちく に聞くと、すべてこういう楼閣には、修築 こうしよう 手入れなどの場合の用意に、エ匠が上下す むね かどたるき る足がかりが棟のコマ詰から角垂本の間に かくしてあるもので、みんな上へ上へと気 ・一うしようぐち ばかりあせっていたので、そのエ匠口には ー′すこしも気がっかなかった。 しかしーーー一せいにとはゆかないが、ど うやらこうやら、ほど経て、上に登ること は登りついた。そしてはじめて、ようすい。 と坂になった屋根の端から首をだ かわら かちゅう ししゃ ひさし わかざむらい けっキ、

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

るまいな』 そのいわれのある古戦場で、その信玄の孫が、わずか二人の ぶ筆よう じゅうしゃ さびがたな 『じゅうぶん、ご奉行とともに、お打ち合せをいたしますつも従者とともに、錆刀で首を落とされるとは、なんと、あわれに いんねん もまた皮肉な因縁よ ! ・一うみ、つ あざみかわぶし と、気の毒がるささやきもあれば、心地よげに嘲む三河武士 『矢来、高札、送り駕、また警固の人数など、そのほうは ? 』 もある 『いちいち、手配ずみでございます』 りようみん とにかく、春もくれかかる東海道の辻には、そのうわさが、 『またその日はうわさを聞きおよんで、あまたの領民があつま こうがぐみ なにかしら、人に無情を思わせた。 るにちがいない。甲賀組、伊賀組の者、残りなく狩りだして、 はな あやしい者の見張りに放ちおくように』 へんそうぐみ 『変装組百人ばかり、もう今日のうちに、ご領内へ散らしてお きました』 たけだいなまるかがみにんけんこがくれりゅう 『ウム、ではもう牢内の、武田伊那丸、加賀見忍剣、木隠童 たろう 太郎、その三人を都田川にひきだして首を洗って斬るばかり 、よい 『御意。もはや、裾野の雲は晴れました』 か うれい 『甲斐ざかいの憂惧がされば、これで心を安らかにして、旗を ちゅうげん 中原にこころざすことができるというもの。家康にとって、伊 ふえね がん ゆくすえ すんだ笛の音がながれてくる。 那丸はおそろしい癌であった。幼少ながら、かれの行末は浜松 のろ あまひこ かん かいじ 城の呪いであった。それを捕らえ得たのは近ごろの快事、いず鬼一管とか天彦とかいう名箝の音のようだ。なんともいえな 、、り げつめい ざんけい おんしよう かいちょうよいん い諧調と余韻がある。ことに、笛の音は、霧のない月明の夜ほ れも斬刑のすみしだいに、恩賞におよぶであろうが、その日の ど音がとおるものだ。ちょうど今夜もそんな晩。 くるまでは、かならず油断せまいそ。よいか、半助』 しらかば 人 る そこは、白樺の林であった。 さては、家康のごきげんなわけは、伊那丸が捕らえられたこ あんうん さらぬだに白い斑のある樺の木に、一本一本、あおじろい月 擲とであるか。と一同はうなすいて、徳川家のため、暗雲の晴れた を 心地がした。そして、城を退ったものは、このうわさを城下に光が横から射している。 首 れいき のったえて、その日のくるのを、心待ちにしていた。そしてかっ 笛がとぎれた時の、シーンとした静寂と冷気とは、まるで深 いくさがみしんげん きようゆう のて軍神の信玄が、甲山の兵をあげて、梟雄家康へ、乾坤一擲の海の底のようだ。けれど、事実はおそろしい高地なのだ。 4 わけっせん みかたはら こたろうんちゅうふくじんば 血戦をいどんだ三方ガ原。 小太郎山の中腹、陣馬ガ恥の高原つづき。 ろうない すその がぐみ けんこんてき 0 おのれの首を投げる人 くびな めいてき は しじま ひと - 一うち 引 7

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

たろう ぐ 太郎と伊那丸は、血刀をふって、追いちらした上、昼まのうち と侍たちが、立ちふさがって、きっと見ると、物の具で身を に、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。 かためた一人の武士が、大地へ両手をついた。 いえやす もん ろうぜき かみたけだ しゅじゅう 家康にちかづいて、武田一門のおもいを知らそうと思った事『お上、武田の主従が、火薬をしかけた上に狼藉におよびまし しん・ヘんまんいち は破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ た。ご身辺に万一があっては、一大事です。はやくお奥へお引 はままつじよう 浜松城の奥ふかくまで入ってきたかいがない。めざすは本きかえしをねがいまする』 じゅうろうた 丸 ! 『おう、坂部十郎太か。たかが稚児同様な伊那丸と六部の一人 おり あいてはひとり , や二人が、檻をやぶったとて、なにをさほどにうろたえること ぞうひょう むしやばしり と、ほかの雑兵には目もくれないで、まっしぐらに、武者走がある、それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、矢 じようへきほそみら ( 城壁の細道 ) をかけぬけた。 倉へむかえ ! 』 じゅうろうた 『はツ』と十郎太が、立ちかけると いえやす 『家康ッ ! 』と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇 のうちからながれきたった一閃の光り 『無礼ものツ ! 』 しりえ とさけびながら、よろりと、後に、身をながした家康の袖 0 を、さッと、白い切ッ先がかすってきた なにもの 『何者だ ! 』 たちかげ とその太刀影を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りま じんとう ぜていった十郎太の陣刀。 しようかたい うって かみ 矢倉へむかった消火隊と、武器をとって、討手にむかった者『お上、お上』 きんじ びようぶ が、あらかたである。 、こして、本 で、家康のまわりには、わずか七、 と近侍のものは、そのすきに、家康を屏風がこしー きんじ 八人の近侍がいるにすぎなかった。 丸の奥へと引きかえしていった。 『無念ッ 筏『火はどうじゃ、手はまわったか』 いえやす ちょうだ ほんまるあずまや 寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の四阿へ足をむけ長蛇を逸した伊那丸は、なおも、四、五間ほど、追いかけて やみ じんとう のていた。すると、闘のなかから、ばたばたとそこへかけよってゆくのを、待てと、坂部十郎太の陣刀が、そのうしろから慕い きた黒い人影がある。 天 と、伊那丸はなんにつまずいたか、アーーーと闇をおよいだ やぐら いなまる 天の筏 てん たけだ いえやす ぐら せん み 0 なまる した や やみ そで

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

る二寸ばかりの女の縫針。 かに人はいやしない。そんなことは承知のうえで柿泥棒にきや がったくせにして』 馬 ちくどう ひじ 「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お 天そのとたんに、竹童はおもわず肱をまげて顔をよけた。まえ かやぶき 州の萱葺屋根の家から、射るようなするどい目がキラッとこっち婆さんとこにあったら譲ってくんないか』 神へ光った。 「なんだい』 たいまっ 『降りろ、小曽 ! 』 『松明さ』 たいまっ 見ると、百姓家のやぶれの下から、白い煙がスーツとは 『松明 ? 』 ばあ いあがっている。そこには、一人のお婆さん、麻のような髪を『アア、二十本ばかり欲しいだがなあ』 まゆ なべ うしろにたれ、鍋や、糸かけを前に、月をかけて、繭を煮な『餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ』 がら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている 「ちょッといることがあるんだよ。お婆さんの家に持ちあわせ はないかね』 四 『ねえツ、そんなものは ! 』 柿の木から飛びおりた竹童は、はじめてそこに人あるのを知といった婆さんの顔を見て、竹童は『あッ』と叫んでしまっ らん って、軒先に近より、家の中をのぞいてみると、奥には雑多な た。お婆さんのロの中で光った物があったのだ。三、四本の乱 蚕道具がちらかっており、土間のすみの土べつついのまえに杭歯の間を、でたり入ったりしているのは、たしかに四、五十 たば ぬいばり スパリ、煙本の縫針だ。 は、一人の男がうしろ向きにしやがんで、スハ これだー 草をつけながら火を見ている。 『ごめんよ、あれ、お婆さんとこの柿の木だったのかい ? 』 さっき柿の木の上まで飛んできて頬っぺたを刺した針は まゆなべ 竹童はむッとした。 竹童は繭の鍋をのそきながら、たツた一つおじぎをした。 ばばあ たいまっ 婆さんは、ぎよろッとした目をあげて、 『たぬき婆。もう、松明なんかたのまない ! 』 がき 『なんだと、この小僧』 『人みしりをしねえ餓鬼だ。なんだって、人んとこの柿をだま なや 『よくも、おいらをさんざん悩めやがったなツ』 って盗みさらすのじゃい』 あやま かいこばばあ 「だから謝ってるじゃないかああそうそう、おいらも用があ いきなり腰の棒切れを抜いてふりかぶり、蚕婆の肩をビシリ ってこの村へきたんだっけ。お婆さんどこかこのへんに、物をと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわして婆の口から、 ビラビラビラ。ヒラビラビラビラビラ ! 尓のよ、つな . 細い光線と あきなっている家はないかしらなあ』 ふく けんかじゃ なって、竹童の面へ吹きつけてきた含み針 ! 『でまかせをこけ。この村には、ここともう一軒鍛冶屋よりほ めいばり ど 0 あさ ゆず うち どろばう 120

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

るそんべえ のみならず、人穴城を発した呂宋兵衛も、すぐ六、七町さきようとしたとたん、頭の上から、 ちょう 『わ、いッ』 まで野武士勢をくりだして、四、五百挺の鉄砲組をならべ、い するすると木から下りてきた竹童、 ざといえば、千鳥落としにぶつばなすそと、かまえている。 『なにをするんだッ』 いきなり鷲の上の蛾次郎を、二、三間さきへ突きとばした。 鼻かけド斎の越前落ちに、途中までひつばられていった蛾次不意をくって、尻もちついた蛾次郎は、いたい顔を、間がわる ろう 郎が、木隠童太郎の行軍のなかにまぎれこんで、うまうま逃げそうにしかめて、 『なにを怒ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてく てしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来だった。 かれはまた、その列のなかから、 しいかげんなところで、ぬれてもいいだろう。命がけで、いくさの模様をさぐってきてや ・一んじよう ったんだぜ、そんな根性の悪いことをするなら、おれだって、 けだして、すたこらと、白旗の森のおくへかけつけてきた。 ちく わし たきび 見ると、そこに焚火がしてあり、鷲もはなたれているが、竹なんにも話してやらねえよ』 どう 童のすがたは見えない。 しいとも、もうお前になんか教えてもらうことはない。おい と思った。今だ今だ、菊池半助にたのらが木の上から、およそ見当をつけてしまった』 蛾次郎は、しめた , まれているこの鷲をぬすんで、徳川家の陣中へ、にげだすのは『勝手にしやがれ、戦なんか、あるもんかい』 こっちは、 カまっちゃいられない、 今だ、と手をたたいた。 『ああ、蛾次公なんかに、、 あた 『これが天の与えというもんだ、あんなに資本をつかって、お今夜が一生一度の大事なときだ』 たいまっ 竹童は、二十本の松明を、藤づるでせなかへ掛け、一本の松 まけに、竹童みたいなチビ助に、おべつかをしたり、使をした まっ たきびほのお りしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、理ま明には焚火の焔をうっして、ヒラリと鷲のせへ乗った。 たいまっ 『ゃい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきや、松明をかえ らないや、さ、クロ、おまえは今日からおれのものだそ』 うちょうてん ひとりで有頂天になって、するりと、やわらかい鷲の背なかせ、おれのやった松明をかえしてくれえ』 『ええ、うるさいよ ! 』 へまたがった。 『なんだと、こんちくしよう』 隊蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へま と、胸をつつかれた蛾次郎は、おのれを知らぬ、ばろ鞘の刀 軍いあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあ るので、せいぜい兎の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。 な にも馴れている。 『ょにをッ』 幽 竹童のする通り、かるく翼をたたいて、あわや、乗りにげし竹童は、焔のついた松明で、蛾次郎の鈍刀をたたきはらい つばき しり なまくら 、、ざや わ 9

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

をのせて、忍剣が一人で、棹をあやつりながら湖の中央へと 『白旗の宮 ? ・ : 』と忍剣は見あげて、 舟をすすめていった。 か しらはた なまるおか 「オオ、甲斐も源氏、白旗といえば、これは縁のある何です。 伊那丸は陸にのこって、岸から小舟を見おくっていた。あか - - しん ゅうひ みずも 若さましばらく、ここでやすんでまいりましよう。足も定めし いタ陽は、きらきらと水面を射かえして、舟はだんだんと湖心 おっかれでありましように : へむかって小さくなった。 『あッ と、縁へ腰をおろした。 みがる よろいびつ み 『いや、わしは身軽でつかれはしないおまえこそ、その鎧櫃とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。 こしん ばんしらは どこから射出したのか、一本の白羽の矢が湖心の忍剣をねら をしよっているので、ながい道には、くたびれが増すであろ あめ つづいて、雨か、 って、ヒュッと飛んでいったのであった。 にんけん あられ すうばん 『なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。 たばしる霰のように、数十本の矢が、パラ・ハラ釣瓶おとしに射 ほうもっ まん 大切なご宝物ですから、万一のことがあってはならぬかけられたのだ。 と、その気づかいだけです』 さッと湖、いには水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍 いしびつ 『そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた』 剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまっ 『なんでござりますか』 ひっ 『こうして、その櫃をしよって歩くうちに、もし敵の目にかか 『ややッ』 って、奪われたらもう取りかえしがっかぬ』 おどろきのあまり、われを忘れて、伊那丸が水ぎわまでかけ にんけん 『それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ』 だしたときである。ーーー何ものか、 げんぶく 『だからーーーわしがせめて、元服をする時節まで、その宝物『待てッ』 あず を、この白旗の宮へお預けしておこうではないか』 とうしろから、彼の襟がみをつかんだ大きな腕があった。 ぶっそうばん 『とんでもないことです。それは物騒千万です』 みどう 『いや、預けるというても、御堂のなかへおくのではない。 しず みやいし こわっぱ 名の湖水のそこへ沈めておくのだ。ちょうどここにある宮の石『小童、うごくと命がないぞ』 びつ 大櫃、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか』 ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて得なかっ にんけん こだち いなまるきち 『は、なるほど』と、忍剣も、伊那丸の機智にかんじた。 たたが、とっさに、片膝をおとして、腰の小太刀をぬき打ち の うでね 士ふたりはすぐ何にあった櫃へ、宝物をいれかえ、一滴の水 、相手の腕根を斬りあげた。 もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれ『や、こいつが』と、不意をくった男は手をはなして飛びのい えん あず げんじ えん ま さだ えり おと - 一 みずうみ つるべ