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検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

うがみやしろかんのんどうたもんどうげつてんどう 『伊勢の陣から引っかえした秀吉勢は、おそろしい勢いで、無お、あたりには、宇賀の御社、観音堂、多聞堂、月天堂、など どうぎん 二無三に北国街道をすすみ、堂木山に本陣をおいて、柴田勢をの屋根が樹の葉のなかに浮いている。 きたしよう 馬 ひる 『宮内さま、もうお午でございます』 天追いちらし、北ノ庄まで馳けすすんでゆくというありさまで やしろ 州す』 社の内から走りだしてきた巫女の少女が、かれの姿をみると - くまもりま * 、 神『ウーム、そうか、北国一の荒武者といわれた、佐久間盛政も こう告げた。だが、宮内はゆううつな顔をうつむけたまま、 それを食いとめることができなかったか : 『う、お午か。やめよう、今日はなんだか食べたくない』 なかがわせいべえ 『佐久間勢も、一度は秀吉方の中川清兵衛を破ったそうです とかぶりをふった。ちいさい巫女はそれを追って、 かせい かわいみどう が、丹羽長秀が不意の加勢についたため、勝軍さは逆になって、 『ですけれど、あの、可愛御堂のなかにいるお方へは、、 しつも しがい えちぜん 北国勢は何千という死骸を山や谷へすてたまま、越前へなだれのように、お粥を作っておけとおっしやったので、もうできて ひ きたしよう て退いたといううわさです。このあんばいでは、やがて北ノ庄おりますが』 の柴田勝家も、近いうちには秀吉の軍 にくだるか、でなけれ『お、忘れていた。じぶんの心がみだされたので、ツィそのこ なま しお がいせんみやげ なか ば生くびを塩づけにされて凱旋の土産になってしまうだろう とを忘れていた。さだめしお腹がすいていよう』 ふうぶん と、もつばら風聞しております』 いつもの通り、あそこへ運んでまいりましようか』 『おうわかった 北国勢の敗軍であろうとは、ここからなが 『あ、両方へ同じようにな』 くない めても、およそ見当がついていた。源五、ごくろうだった。ま宮内は急にいそぎ足になって、境内のかたすみにある六角堂 た用があったら笙を吹くから : : : 』 へ向かっていった。一間の木連格子が、六面の入口にはまって きくむらくない 力なくこういうと、神官の菊村宮内は、天狗の爪からすべり じよう おちるように、よろよろと島のなかへすがたをかくしてしまっ その一方の錠をあけて、宮内はやさしい声をかけた。うすぐ らい御堂の中には、蒲団をかぶって寝ている少年のすがたがあ やまぶきれん、よう いとざくら まんげ がじろう 島にはつつじ、山吹、連翹、糸桜、春の万花がらんまんと咲る。 ふと見ると、それは泣虫の蛾次郎だった。 わいせい からまっ いて、一面なる矮生植物と落葉松のあいだを色どっている。宮 内のすがたは、その美わしい自然に目もくれないで、しおしお と細道をたどっていった。 『どうだな、蛾次郎さん』 ひたたれそで かなりや ようたい かれの直垂の袖をかすめて、まッ黄色な金糸雀がツウーーと と宮内はそこへしやがみこんで、体の、容体をききはじめ 飛んだ。 た。そのようすをみると、かれはしばらく病人となって、この べんてんどう と かわいみどう と、その向こうには、神さびた弁天堂の建物が見えた。な可愛御堂に閉じこもっていたものとみえる。 せ わながひで しよう かちいく てんぐ き ひる かゆ ふとん けんきつれごうし 288

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

りひとりの少年がいる。 だが、蛾次郎は、蒲団のなかにねてこそいるが、もうあらか たご全快のていとみえて、宮内の顔をみるや否、ムッグリとそ たか、これは向こうの蛾次郎のごとく不作法ではなくいか冫 こへ起きあがった。そして、 もものしずかに、いるかいないかわからぬようにしてすわって きつれ 1 一うし きくむら 『おじさん、ひどいじゃねえか , どうしたンだいッ』 いたが、木連格子がギーツと開いたので、顔をさし入れた菊村 とどなりつけた。 宮内と目を見あわせ、だまって、頭をさげた。 もの 病人にどなりつけられたので、宮内も少しびつくりしたが、 『うつかりして、昼の食物をおそくいたした。さだめし空腹に なったであろう』 二十日あまりもこの蛾次郎の世話をやいて、いまではすツかり その性質をのみこんでいるから、かくべっ怒りもしなかった。 『どういたしまして、それどころではございません』 くらま ちくどう 『たいそうな元気じゃの。けっこうけっこう、それくらいな勢 こういった者こそ、かの鞍馬の竹童なのである。 からだ くらげ いなら、もうじきに元の体になるだろう』 その日からおよそ二十日ほどまえ、海月のようにただよっ ちくぶじま 『なにをいッてやがるンだい』 て、湖水におばれていた竹童と蛾次郎が、いまなお、この竹生島 かわいみどう の可愛御堂という建物のなかに生をたもっているところをみる 蛾次郎は不平のロをとンがらして、 にしうら ・ヘんてんどうしんかんきくむらくない 『もうとッくの昔に、このとおりまえの体になっているんじゃ と、あの夜か翌朝、島の西浦で、弁天堂の神官菊村宮内の手 にゆうわ なしか。それを、いつまでこんな中へほうりこんでおいて、だで救いあげられたにそういない。そして、柔和で子供ずきな宮 してくれないッて法があるかい。え、 小父さんーーーどこの国へ内の手当が厚かった為に、こうしてふたりとも、もとのからだ いったって、そんなばかな法はないぜ』 冫近いまでに、健康をとりもどしてきたのだろう。 『そうかな、それは悪かったよ』 『ありがとうそんじます。もう体もよはど好くなりましたか と、宮内は、どこまでも好人物らしく笑っている。 ら、けっして、ごしんばいくださいますな。そして、わがまま しよう ひる 『おまけに、笙ばかり吹いていて、まだお午の飯も持ってきてのようですが、どうそわたくしのからだを、この島からおはな くれやしねえ。ちえツ、おらア腹がへってしまった』 しなすッてくださいまし』 『いまじきに持ってきてあげるから、おとなしくしておいでな 竹童が、こういったものごしを見るにつけても、宮内は、向 こうにいる蛾次郎とこの少年とは、なんという性格の違い方だ とびら 宮内はこうなだめておいて、そこの屏をビンと閉めたかと思ろうと思った。 きつれ 1 一うし じよう うと、こんどは、つぎから二ッ目の木連格子の錠をあけた。 たが、かれは、どッちも憎いと思わなかった。竹童が好きな と、みようなことに、この中にも蛾次郎のところと同じようら、蛾次郎も好きだった。イヤ、菊村宮内という人物は、すべ ふとん はなた 一組の夜具が敷きのべてあって、その蒲団の上にも、やはての子供、ーーどんな鼻垂れでもオビンズルでもきたない子で ふとん し たてもの 289

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ツィつかみ合いをやりたくなるから、向こうへゆくまでの間、 つけて引き分けてくれたからこそ、かれの頭が多少のでこばこ ル、・つほ、つ これをかぶって双方口をきかぬことにしているがよい』 を呈しただけですんでいる。 かたき と、奥へいって持ってきたのは、ふるい二つの仮面である。 『なんとしても、ふたりは死ぬまで、敵となり仇となり、仲よ からすてんぐめん くしてはくれないというのか。アア : : : どうもこまった因縁あおい烏天狗の仮面を蛾次郎にわたし、白い尊の仮面を竹童に わたした。 たんそく それをかぶらせておいてから、宮内はも一つのほうの箱を開 宮内は双方の顔を見くらべて、つくづくとこう嘆息した。 じあい けてふたりの前に妙なものをならべてみせた。 およそどんな者にでも、真心から熱い慈愛をそそぎこめば、 まがれる竹もまっすぐになり、ねじけた心も矯めなおせると信なにかと思って目をみはった蛾次郎が、 おうちゃくかんち じているかれだったが、竹童はとにかく、蛾次郎の横着と奸智『オヤ、独楽だ ! 』と、すぐに手をだしそうになるのを、 ′一うじよう 『まあ、お待ち』 と強情には、すっかり手を焼いてしまった。 あまのじゃく と宮内がそれをおさえて、じぶんの両手に一箇ずつ持ち、さ こういう性質の不良なものでは、日本に天邪鬼という名があ て、ふたりの者へ、たのむようにいうには、 り、西洋にはキリストの弟子のうちに、ユダという男がいた ひごま みずごま あくま ユダの悪魔ぶりにはキリストも持てあましたし、十二使徒の人『この古代独楽は、竹生島の宮にあった火独楽と水独楽という かえん ひんしゆく 人も顰蹙して、あいつはとても、真人間にはなりませんといっ珍しいものだ。この火独楽を地に打ってまわせば、火焔のもえ テレンせつきよう て狂うかとばかりに見え、この水独楽を空にはなせば、サンサ たくらいだ という話を、宮内はいっか伴天連の説教にきい ンとして雨のような玉露がふる : : : 』 たことがあるので、蛾次郎もそれに近い人間かなと考えた。 『おもしろいな ! 』 『では、なんともいたしかたがない。いつまでおまえたちを、 あした ちくぶじまく * 、り 説明をきいているうちに、蛾次郎、もう瘤のいたさを忘れて この竹生島へ鎖でつないでおくわけにもゆかぬから、明日はふ おか 盗んでもほしそうな様子をする。 たりをむこうの陸におくってあげよう』 『これこれ、そうおもしろいことばかり聞いてくれては、わしが とうとう宮内もあきらめてこういいわたした。 話をする意味がなくなる。まだこの独楽にはふしぎな力がたく 『まことに、永いあいだ、手あついお世話になりました』 かゆ 楽竹童は尋常に礼をい「たが、蛾次郎は、〈ン、お粥ばかり食さんあ 0 て、たとえば、じぶんの迷うことを問わんとし、また 独 わせておきやがって、大きな顔をしていやがる , ー・ーといわんばは指すべき方角をこころみる時に、この独楽をまわせば自然に 水 つらこぶ と などとい、つこともあるが、あま そのほうへまわってゆく、 かり、面と瘤をふくらましてそッばを向いたままである。 楽 ・ : 』と宮内はまたなにか考えて、 り話すと、また蛾次郎が勘ちがいをいたすから、もうそのほう ・人 . あした 『明日までにはまだだいぶ間がある。たがいに顔を見ているとのことはいうまい」 たら た いんねん ない みこと

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

あおばえ 『えい、よけいな口をたたきやがると、こうしてくれるツ』 見そこなったな、この青蠅め , えりもと どうよう め・ようほう した と、両方から、猿臂をのばして襟元をつかんでくる。 いまでこそ身は童幼の友と親しまれ、背には地蔵の愛をせお 馬 くない ようこっ 軒ごとの行乞、旅から旅をさすらい歩くながれ人にちがい 天宮内はうしろへ身を押されて、あやうくそとの葭簀につまず ちくぶじま かわいみどうどうもり 州きかけたが、そこまで忍んでいたかれの顔色がサッと、するどないが、竹生島に世をすてて可愛御堂の堂守となる前までは、 かかと 神く変ったなと思うと、踵をこらえてひねり腰に、 これでも、柴の本で、戦塵裡に人の生血をすすりな きくむらくな、 『えいッ』ひとり矢はずに投げつけた。 がら働きまわったおばえもある菊村宮内。 やろう 「おのれ』 『野郎ッ』 ふんぬ わきしつか 『兄弟ーーーツ、仲間のやつらを呼んでこい』 憤怒はついにかれの手を、脇差の柄にふれさせて、今にも、 『お、つッ』 目にものを見せてくれんずと、ぶるぶると、身をふるわせた だっと 「おや、なんでえ、それは』 というとはねおきた一方の男は、脱兎のごとく茶店のそとへ なみき ものご さびがたな 飛びだして、なにか大声で向こうの並木へ手をふった。 『べらばうめ、物乞いがそんな錆刀なんぞをヒネクリまわした ところで、だれがしりごみするものか』 とー・ーー見る間に、くるわくるわ、どれもこれも一くせありげ どうちゅうにんそくさびがたないきづえ 『さツ、でてこい、そとへ ! 』 な道中人足、錆刀や息杖を持ちこんで、 さびがたな 『なんだなんだ』 『その錆刀の手うちを見てやろうじゃねえか』 やろう くなし けっそう たかじぞう 『その野郎か』 宮内の血相には多少おどろいたが、多寡が地蔵さまを背負っ かねたた なまいき かね 『生意気な鉦叩き虫め ! そうさはねえ、その女も一しょにつてあるく鉦たたき、なんの意気地があるものかと、頭から見く つば まみだして、二本松の枝へさかづるしにつるしてぶんなぐれ』びって、思うぞんぶん、唾をとばして罵詈するので、いまはも ぎようそう くな、 理も非もあったものではない う、あのやさしい宮内の形相も、血を見ねばしずまりそうもな み、つを、 まっ黒になって茶店の入口になだれこみ、あッと宮内があき い殺気を見せた。 しよう じぞうばさつおいずる れるうちに、床几の上にすえておいた地蔵菩薩の笈摺を、一人 じぞうばさっ の男が土足でガラガラとけおとした。 かれはふと、そこへ蹴飛ばされてきた地蔵菩薩のお像に目を 『ウーム : とめた。蹴られても、足にかけられても、みじん、つねの柔和 と、宮内のまなじりが朱をそそいで引ッ裂けた。 なニコやかさとかわりない愛のお顔。 ねん しん しかに、とるに足らないあぶれ者とはいえ、一念に自分の信『あッ : じぞうばさっ すがた かたなっか 仰する地蔵菩薩のお像を、馬糞だらけな土足にかけられては、 かれは、刀の柄にかけた手を縛りつけられたように、よろよ もうかんべんすることができないー ろと、うしろへ身を引いた ひ ない なかま えんび しゅ よしず ちゃみせ のき くじ じぞうあー すがた にゆうわ

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

『おつ、 く、ワッと声をあげてうれし泣きに泣きたおれた。 しゅうい 期せすして、かれの周囲を、一同のものが ドッと取・りま 宮内も、がくぜんとそこへ飛びよって、 馬 とき ばんどう 天た、ただそのようすを、さびしそうにながめていたのは、坂東『お時さん、どうして ? どうして ? 』 じゅんれい 州巡礼のお時であった。 人ごととは思えないで問いただした。 きゅう きゅう 神 『灸がある ! 灸がある ! これ宮内さま、この子の背なかを 見てやってください。いっかわたしが話したように、わしの村 なら きず まじないきゅう あの棆の枝から落ちて、ふしぎにふたりはかすり傷もなかつでしかすえないお諏訪さまの禁厭灸のあとがある。そのわしの きせき じぞうようじやきくむらくない ちくぶじましんでんこま せばわふし てんかんきゅう た。その奇蹟を、地蔵行者の菊村宮内は、竹生島神殿の独楽、村でも、この背骨の節の四ッ目に、癲細の灸をすえたのは、お くりき ひごま みずごま 火独楽と水独楽をめいめいがふところに持っていた功力であるらの子だけでございます』 ゆらい といって、その由来をつぶさに舌した。 『じゃ、この蛾次郎が、三つの時に、伊勢識りの途中で迷子に きようとうし ほんらいがじろう 本来、蛾次郎は泣いても吠えてもここでその首を、侠党の士したおまえさんの子であったのか』 ゆらい にもらわれなければならないのであるが、独楽の由来の話か 『それにちがいありません。ああ、親子の血はあらそわれな じようしやくりよう くない いのち - 一 ら、いくぶんその情を酌量されて、宮内の命乞いにその首だ やつばりわしにはなんとなく、虫の知らせがありましたに けはやっとつながった。 しんかん たけ おんなおや そのうちに神官のひとりが、どこからか、ふたりの丈に合い と、蛾次郎のからだを抱きしめて、あまやかな女親の涙をと いふく そうな着物をもらってきてくれた。なにしろ、衣服がぬれてい めどなく流すのだった。 とき ては、山を下りるにしても、途中の寒さにたえられない。 蛾次郎はただキョトキョトして、お時の手をすこしこばむよ さあ、着るがよい』 うに尻ごみしていたが、宮内からじゅんじゅんと自分の母であ すそ ・一うへい とうかいどう 、、ばく - い 裾のみじかい着物と膝行袴が、一枚ずつ公平にわたされた。 ることを話されると、東海道で、鼻かけト斎にひろわれたとい おさばなし あのおしゃべりの蛾次郎も、ロをきく元気もなく、ただいくつう幼な話を思いだして、 もおじぎをつづけて、ぬれた着物をそれに着かえた。 『じゃ、おめえが、ほんとのおれのおッ母さんだったのかい』 と まな まっしようめん すると , ーーそのようすを、研ぎすましたような眼ざしで、 と、はじめて、お時の顔を真正面に見つめた。 くる じゅんれい ジーツと見つめていた巡礼のお時が、とっぜん、気でも狂った 『オオ、坊や ! 』 、つこ、 『オオ、おらの子だ ! おらの子だ ! 』 と、そのとたんに、蛾次郎は、一世一代の泣き声をあげてお くびわ と、おどろく蛾次郎の首根ッこにかじりついて、人まえもな時のひざにそのきたない顔を、むちゃくちゃにコスリつけてい とき とき とき しり と イ 98

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

がじろう へんじ 『小父さん、 じやアなかった。神主さま、もう蛾次郎も、 と蛾次郎、みようなところでばかていねいな返辞をした。笑 けっして勘ちがいなんかしないことにいたします』 いもしないで竹童はまじめに、 馬 ちくどう 『それで、宮内さまのおたのみというのよ、 。いったいなんでご 天『わかったわか「た、ところで竹童』 州『はい』 ざいますか』 あかひごま 神『この紅い火独楽はそなたに進上する』 とかたずをのむ。 『ほかではないが、ふたりの遺恨を、きようからこの独楽にあ ちくどう といったのは、もらった竹童ではなくって、それをながめたずけてしまって、たがいに 討つか討たれるか、命のやり取り がじろう 蛾次郎である。 をしようという時には、この独楽で勝負をしてもらいたい。そ 『そ、それを竹童に ? : もったいないなあ。じゃおれにも うすれば、独楽はくだけても、そなたたちのからだに怪我はで こっちをくれるんだろう』 きないから』 みずごま 『やらないとはいわない。 この青い水独楽は、すなわちおまえ 『わかりました』 にあげようと思って、とうから考えていたくらいなのだ』 『その儀、きっと承知してくれるだろうな』 はんもん 『ちえツ、、こじけねえ』 『しやア、なんですか ? 』とまた蛾次郎が反問した。 おおわし 虫楽を押し、こ・こ、 , ) オ蛾次郎は、そのままうしろへ引っくり 『たとえば、わたしたちの争っている大鷲を、どっちのものに しゃちほこ かえって、鯱鉾だちでもやりたかったが、また叱られて取りあするかという時にも、つまり、この独楽のまわしッくらで、き げられては大へんと、かたくにぎって踊りだしたいのをこらえめるんですか』 ていた。 『そうだ、そればかりでなく、今日のような場合でも、腹がた 『そこでな、ふたりの者』 ったら独楽で勝った者のいいぶんを通すなり、または、あやま くない きッとあらたまった宮内は、まず少年の心理をつかんでおいるということにしたら、なにもっかみあって湖水におばれるま ほんどう てから、その本道を説こうとする。 での必要もなくなるであろう』 『こんどはわしのいうことをきいてくれる番だぞ。よいかな 欲しいものは与えられ、愉快な方法はおしえられて、なんで おか いぞん 明日この島をでて、向こうの陸へあがってから、もうわしがそ少年の心がおどり立たずにいよう。竹童はむろんそれに異存も ばにいないからよいと思「て、その仮面をとるが早いか、嘩なし、蛾次郎も一言の不平なく、き「とその約束を守りますと や斬りあいをするのでは、今日までの宮内のこころは無になっ しって宮内にちかった。 てしま、つ』 でふたりま、 、つナられた仮面をかぶり、あたえられた独 「 ) もっともでざいます』 楽をかたく抱いて、奥の部屋に、今夜だけは仲よく寝こんでし ま ない なか 296

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

と、気の利いたものはないのかい』 『それはやまめといって、みなさまがおよろこびになるお魚で 」さいますがね』 いなかもの 『おや、おまえは : 『みんな田舎者だからよ。おれなんか、京都であんまりぜいた とっく くをしてきたせいか、こんな古い物は食えねえや、べーツ、べ 宮内はさらに眼をまろくして、蛾次郎のまえにある一本の徳 ツ、あー、まずい。なんかほかの食べる物をだせやい』 利と、かれのドス赤い顔とをじッと見くらべた。 『じゃ、こんにやくとお一于はど、つでございましよ、つ』 『酒を飲んでいるな』 ーかと・つ 『芋なんて下等なものはきらいだよ』 厳父のような言葉でいった。 れんこんやきどうふ 『へえ、蓮根、焼豆腐、ほかには乾章魚の煮ましたものぐらい 『へへへへ』と蛾次郎は、さすがに、間がわるそうにガリガリ で』 と頭をかいて、 『ちっとも、おれの食慾をそそらないそ』 『きようはじめて、どんな味のものだか、ためしてみたんで 『さよ、つですか』 カまんして食べてやるから』 「乾章魚をおだし、 ; 『、つ亠ましカ ? ・』 と、箸で皿をつッころがした。 『さつばりおいしくねえや、なんだって、大人はこんなものを だいみよう おそろしくいばった生意気、まるで大名の息子のようなこと飲むんだろうな』 等 - よ、つすし をいっている。やはり都会の少年の中には悪い癖があるなと、 『酒は狂水という、頭のよい人をさえあやまらせる。まして きくむらくなし ていのうじ 菊村宮内、なんの気なしにひょいと見ると、都会の少年ではなや、おまえのような低能児がしたしめば、もう一人前の人間。 ちくぶじま すそのそだ はなれない。わしの見ている前ですてておしまい』 い裾野育ちーー竹生島ではさんざんお粥をうまがって食べたか 『ヘイ・・ の蛾次郎だ 『あれーツ ? 『また、おまえはいま、たいそうぜいたくをいっていたな、も しゆら ったいないことを忘れてはいけない。この戦国、いまの修羅の 旅と、蛾次郎は目をまろくして、菊村宮内の顔を見た。そし しよく って、しゃぶッていた箸で打つようなまねをしながら、 世の中には、飢えて食をさけんでも、ひと握りの粟さえ得られ たいしよう 変 『めすらしいなア、エ、どうしたえ、大将 ! 』 ぬ人がある』 の 者宮内はあきれかえって、返辞のしようもない顔つき。 わかりました。えらい人に会っちゃった ! 』 やくじ いのち おんじん 蔵永いあいだ薬餌をとってもらった生命の恩人ーーーそれは忘れ『だが蛾次郎、おまえ、近ごろはなにをしているな』 たいしょ・フ こうふじよう ながや てもししし 、、こしろ、いきなり大人をつかまえて頭から、大将ー 『親方のド爺について、甲府城のお長屋に住んでます』 は しよくよく おとな かゆ とま。 げんぶ 四 せんごく あわ 369

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ってゆく。 森の小道でも抜けてきたか、とっぜんそこへ姿をみせた人々 みんぶ なまる やまがたったのすけか 侠 は、民部をさきに、伊那丸をなかに、 うしろに山県蔦之助と加 あとには、ホウ、ホウ、と山鳩の啼くのがさびしげに・ がみにんけん たびよそお じゅんれい 天賀見忍剣のふたりをしたがえた旅装いの一行四名。 そして、ひとりばッち、あとに取りのこされた巡礼のお時 たっしゃ - 一じゃく 州『竹童、よく達者でいたな』 は、孤寂なかげをションポリたたずませて、去る者のうしろ姿 神と、蔦之助が手をにぎる。 をのびあがりながら、 忍剣も肩へ手をのせて、 『アア : : : あの子もちがっていたのかしら ? 』 こたろうざんへん しようそく わかみ はとぶえわ 『小太郎山の変いらい、そちの消息がたえていたので、若君を とつぶやいて、どこかに聞えるあわれつばい鴪笛の音に、な とう はじめ一党の人たちが、どれほど、しんばいしていたかわからんとはなく涙をさそわれて、垢じみた旅衣の袖に、思わずホロ ホロと一涙をこばした。 とりでるすばん 『あの、砦の留守番役を仰せつかって、みなさまの帰らないう 『おう、そこにいましたね、お時さん。いや、息がきれた息が ちに、あんなことになったもんですから : : : 』 きれた。不意に人をうっちゃってこんなところへきてしまうの 「もうそのことはいうな。おわびはわれわれからすんでおる。 はひどいじゃよ、 オし力、いくらあとから呼び返してもふり向きも しかし、きさまどうしてこんなところにボンヤリと立っていた しないで』 じがんえ のだ』 と、そこへ追いついてきたのは、あの慈顔に笑みをうかべた あした みたけだいこうえ つきみや じぞうようじやきくむらくな 『明日はいよいよ御岳の大講会、その前日には月ノ宮の森で、地蔵行者の菊村宮内。 くない みなさまが落ち合うことになっているおやくそくだったそうで 『ああ、宮内さま』 すから、それで待ちどおしくッて、さっきからここに立ってい 『おや、泣いていましたな』 たんです』 『まだ目のさきにチラチラする。ほんとに瓜二つじゃ、あんな りゅうたろう 『ふム、きようのやくそくをぞんじておるならば、童太郎、小 よう似た子供が、どうしてわしの子でないのかしら』 ぶんじ 文治の二人と一しょになっていたのか』 『いやいや、おさな顔はかわるもの、似たというものはあてに - 一りどう 、お二人は先について、森の垢離堂でお待ちです』 なりません』 『そうか。ではすぐにそこへまいろうではないか』 『でも、なんだか、あの二人のどッちかは、わしの子にちがい がさ と、伊那丸が藺笠の前をさしうっ向けてさきに立つ。 ないような気がしてなんねえのでがす』 かいこう それにつづいて忍剣、民部、蔦之助の三人が久しぶりで邂逅「じゃ、おまえさんの尋ねる手がかり、あのお諏訪さまの禁厭 きゅう した竹童をなかに、みなが弟のごとく取りかこんで、したしげ灸が、その子の背中にあるのでも見たのですか』 つきみやけいだい な話をかわしながら、月ノ宮の境内ふかくしずしずとあゆみ去『、 しいえ、そら、どうやらとんと知らんけれど : ったのすけ おお やまばとな とき とき イ 26

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

さききやくぶん ありありと見えるじゃないかだが今は、死んだかと思った。 つかす、躑躅ガ崎の客分ともっかない格で、のんきに暮らして あぶねえあぶねえ、うつかり起き上ろうものなら、こんどは光っ いるのである。 たほうで、グサリとほんとにやられるかもしれない ) 「もう寝たじぶんだろう』 じじっ こう考えて、死んだまねをしているらしい。、 しや、事実は腰 とは、そのト斎をおそれる蛾次郎が、ビッコをひきながら道 ちょう ねん の蝶つがいがはすれて、にわかに、起きたくも起きられないで道考えもし、神に念じるほどそうあれかしと願ってきたところ しるのかもしれない で、お長屋の灯を見るとともに、また、 - 一第、う 、曽でございますな』 『手におえないイ 『起きていた日には大へんだそ』 くじ と、濠ばたのほうで小文治がささやいた声さえも、かれはハ と、意気地なく足がすくんでしまう。 さっ ッキリと耳に入れた。その話に、自分に対してべつだん深い殺 で、いきなり門へははいらないで、そッと裏へまわってみた たか はめいた ふしあな 意がないのだと覚ると、蛾次郎ははじめて、ホッと多寡をくく り、羽目板に耳をつけてみたり、窓の節穴からのぞいたりして てん みると、天なるかな命なるかな、寝ているどころか、ふだんよ や 『ちえツ、おどかすない』 り大きな声をだして、あのガンガンした声が家の内にひびいて と、腰をさすって、そろそろ首をもたげだした。 『こいつはたまらないそ』 蛾次郎はどうしようかと思った。 ひるまめしゃ じぞうようじゃ 迷子札のような門鑑を番士にしめして、その夜、霜にあった奥には客がきているのだ。昼間、飯屋でぶつかった地蔵行者 きくむらくない キリギリスみたいに、ビッコをひいた蛾次郎が、よろよろと躑の菊村宮内を引っぱってきて、久しぶりに夜の更けるのを忘れ くるわない 躅ガ崎の郭内にあるお長屋へ帰ってきたのは、もうだいぶな夜て話しているあんばい。 くない 更けであった。 とすると、宮内の口から、おれがあそこでお酒というものを じようない じようび ぞうにん 城内の長屋というのは、館につめている常備の侍や雑人たち飲んで見たこともしゃべったにちがいない。親方が、やってき ちょう すまい ろ、つじよう の住居で、重臣でも、一朝戦乱でもあって籠城となるような場た時、台の下にもぐりこんでいたことも、おもしろそうに話し さいしけんぞく す 遇合には、城下の屋敷からみな妻子眷族を引きあげてここに住またろうな。おまけにおやじは、近ごろ、おれが水独楽をまわし たいじ 奇 わせ、一国一郭のうちに大家族となって、何年でも敵と対峙すて小遣い取りをしていることを、うすうす感づいているんだか の と 屋 ることになる。 ら、こんな夜史けに帰ろうものなら、それこそ、飛んで灯にい ふじさんみやく 小太郎山からするずるべったりに、鼻かけト斎はそのお長屋る夏の虫だ。親方のげんこつがおれの頭に富士山脈をこしらえ 馬 おおくぼいわみのかみみうち の一軒をちょうだいして、いまでは、大久保石見守の身内ともるか、弓の折れで百たたきの目に会わされるか、どっちにして じ まいごふだ けん じようか み、と もんかんばんし ながや しも つつじ ひ もん カく みずごま

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

みずごま によると、近ごろ、蛾次郎のやつめ、この場の近所で水独楽 『オオ、ド斎どのもこの土地へきているか』 第′いに . ル こたろうざん 侠 それからというのをまわし、芸人のまねをして、銭をもらっては買い食 『小太郎山で、すてきな手柄を立てたんで。はい、 うらき もとき 馬 ちぐうえ おおくばけ いをして歩き廻っているそうだが』 天大久保家の知遇を得ました。元木がよければ末木まで、おか がじろう 『はは亠め・・ : : 』 州げさまで蛾次郎も、近ごろ、ばつばつお小遣いをいただきま と、亭主ははじめて知ったような顔をして、台の下にかがん でいる蛾次郎をちょッと見た。 「けっ一 : フ、けっ一 : っ』 ′一しよう たのむ、たのむ、たのむよ、後生だ。 宮内はわがことのようによろこばしかった。 蛾次郎は台の下で、飯つぶだらけな手をあわせて拝んでい 『なるべく身をつめてむだづかいをせず、お金をだいじにもた る。とーーその時、おりよく宮内が横から立って、 なければいけな、 『ト斎どの』 『お金を貯めてどうするんだろう』 めぐ と声をかけてくれた。 『あわれなものに恵んでやるのじゃ。それほどいい気持のする 『おお ! 』びつくりして ことはない』 きくむら 『菊村どのじゃないか、あまり姿がかわっているので、少しも 『な、なーんだ、つまらねえ』 めしちやわんも ほしだ - 一 と、乾章魚をつまんでロの中へほうりこみ、飯を茶碗に盛ろ気がっかなかった。どうしてこの甲府へ ? 』 なわ 『でかけましよ、つ、、 ) 」一しょこ うとしていると、門ロの繩すだれが・ハラッと動いた おと - 一・一うし上・ばかま ぬッとはいってきた魁偉の男、エ匠袴をはいた鼻かけ斎『おお、今夜は、わしの宅へきてお泊んなさい』 めしゃ じぞ・つようじやばくみ一い 地蔵行者とト斎は、肩をならべて、飯屋の軒をでていった。 である。ギョロッとなかを見まわして、 こぞう ていしゅ 蛾次郎は台の下からはいだして、 『亭主、うちの小僧はきておらなかったかい ? 』 てんゅう ときく。 『アア天佑』 ちやわん、、 ていしゅ お茶をかけて、じゃぶじゃぶと四、五はいの飯をかッこみ、 亭主はうしろをふりむいた。見ると、蛾次郎は、茶碗としゃ おもて ころあいをはかって、ソッと戸外へ飛びだした。 もじを持ったまま、台の下へもぐりこんで、しきりにへんな目、 とかい ) 蛾次郎に ひさしぶりで甲府という都会のふんいきをかいた しきりにかぶりをふっている よくーう は、さまざまな食物の慾望、みたいものや聞きたいものの誘 『へえ、おりませんが』 惑、なにを見ても買いたい物、欲しいものだらけであった。だ 『こまったやつだ : こ′一とげんこっ おやかた が、やかましゃの親方ト斎、つねに小言と拳骨をくださること と、ト斎は舌打ちをして、 よく じようないちゅうげん はやぶさかではないが、なかなか蛾次郎の慾をまんそくさせる 『おれは見ないのでよく知らないが、城内の仲間などのうわさ た てがら 0 めし たく とま のき ゅう 370