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検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

しよう という悪いやつだよ。そして、盗んだ宝物は、手下を京都へや 伊那丸もおもわず床几から腰をうかした。 はしばひでよし これはきよ、つおいら って、羽柴秀吉に売ってしまったんだ 『ちえつ。これごらんなさりませ』 いしびつ が呂宋兵衛と問答して、鎌をかけてきいてきたんだから間違い と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、中からご ころ みはたたてなし ろごろと転がりだしたのは、御旗楯無の宝物に、似ても似つかのないことなんだ』 『えツ、では御旗楯無をぬすんだやつも、あの人穴の呂宋兵衛 ぬただの石ころ。 『むウ・・ : : 』 伊那丸は顔いろをうしなった。それは無理ではない。武田家と、伊那丸が意外そうな瞳を咲耶子に向けると、彼女も、思 かつより てんもくざんさいご しかけぬことのよ、つに、 重代の軍宝ーーことに父の勝頼が、天目山の最期の場所から、 『わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはお家の 彼の手に送りったえてきたほど大切な品。 あくとう ぞく 賊、八つ裂にしてもあきたりない悪党でござります』 それがないー まゆ と、やさしい眉にもうらみが立った。 ないですもうか しようぎ みはたたてなし 御旗楯無の宝物は、武田家の三種の神器だこれを失って伊那丸は床几をはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめし かけ、 かいげんじ は、甲斐源氏の家系はなんの権威もなくなってしまう。伊那丸ていった。 をはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当『みなのもの、わしはこれからすぐ人穴の殿堂へ駈けいり、呂 宋兵衛の首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。 然である。 一つには、恩義のある咲耶子への助太刀、われと思わんものは 『アア、やつばり、おいらの先生はえらい つづけ、御旗楯無をうしなって、武田の家なく、武田の家なく にいったのは竹童だった。 そのとき、嘆するよう ' して、この伊那丸はないそ ! 』 『ああ、どこまで武田家は衰亡するのであろうか : たん 『お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでも君のお供し と嘆じあわして、伊那丸もつぶやく っえ ・ : 、じようぶ 「大丈夫だよ』竹童は棒切れを杖にしてふいにつっ立ち、気のたさすにはおりませぬ』 ったのすけ おもて 山県蔦之助、忍剣、竜太郎、小文治などの、たのもしげな勇 毒そうに伊那丸の面を見あげた。 士たちは、声をそろえてそういった。 『大丈夫だ大丈夫だ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだ わし やつはわかってるから : : : おいらがちゃんとかぎつけてきてあ『おう、私を入れてここに七騎の勇士がある。咲耶子も心づよ づ く思うがよい、きっと今宵のうちに、きやつの首を、この剣の 箭るからーーー、』 切ッ先にさしてみしよう。忍剣、馬を馬を ! 』 河『なに ? ではおまえがその者を知っているか』 わだるそんべえ ひとあな 『よッ 『ああ知っている。そいつは、人穴の殿堂にいる和田呂宋兵衛 じゅうだいぐんばう けんい しゅじん筆 0 ひとみさくやこ きみ

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

かお見知りおきを』 といい感じを持っていた。おそらく、秀吉は武田家の味方では あく、 と、ていねいに名乗った。 あるまいが、悪意ある敵ではないと信じてきた。 馬 えん 天や、では秀吉公の』 おもえば、ふしぎな縁でもある。 1 一さんきり もん くわな 州と忍剣や竜太郎は、はじめて、五三の桐の紋どころに思いあ桑名でああいう援護をうけて、またまた、この御岳でも、同 ′一、、んきり なさ 神わせて、 じ五三の桐の幕のかげに、武士の情けをうけようとは。 さなだげんじろう じようしゆさなだまさゆき 『真田源次郎どのとおおせあると、上田の城主真田昌幸どのの し やしな ご一子、秀吉公の手もとで養われているとうわさにききました げんじろう だいくろうかにさいぞう が、その源次郎どのでござるか』 大九郎と可児才蔵は、桑名の陣で、忍剣のおもざしを見おば はず 『お恥かしゅうぞんじます』 えていたといった。 と、源次郎はあくまでけんそんであった。 そういわれれば忍剣にも、思いだされることである。あのと ぶしよう 々 - むらい 「やあ、さてはやはりそうであったか。これはお見それいたし き、秀吉に侍していた、あまたの武将や侍のなかに、オカ ・一かつより・一う かにさいぞう ました。わたしこそは、なにをかくしましよう、故勝頼公のわ 、大九郎のすがたも見えた。可児才蔵の顔もあった。 たけだいなまるみつきびとえりんじぜんそうかがみにんけん かいけっ すれがたみ、武田伊那丸君の付人、恵林寺の禅僧加賀見忍剣と快傑と快傑、勇士と勇士、五一一の桐の幕のなかには然とう も、つしますもの』 ちとけ合って、意気りんりんたるものがある。 びしんこがくれりゅうたろう 『じぶんは、おなじく伊那丸さまの微臣、木隠竜太郎という 試合場のほうは、さきほどから、きわだってしずかにな ぐんしゅう てんかい 者』 っていた。群集も鳴りをしずめて、次の展開を待ちかまえてい せっしゃ やまがたったのすけ 『拙者は、山県蔦之助です』 るのであろう。 こま ししゃ ネにたいしては礼をもって酬う ところへ、駒をとばしてきた一騎の使者、ヒラリと降りて、 くらま たつみこぶんじ ちくどう 巽小文治や鞍馬の竹童も、そのことばについてじゅんじゅんそとから桐紋の幕をたくしあげて、はい 0 てきた。 てまね に姓名を明かしていくと、最初に、幕のかげから手招きした可試合の前のうちあわせである。 にみ、い第、ノ いのうえだいく 児才蔵もそれ〈きて話しかけ、酒をのんでいた侍も、井上大九徳川家からは五名の闘士の名をあげてきた。そして、勝ち抜 しよう、・、 てんすう 郎と名乗りあった。 きでは勝敗に果しがないから、おのおの一番勝負として、点数 くわな じんちゅう いっか伊那丸が京都から東〈帰るとき、秀吉は桑名の陣中に勝越しのほうのものが咲耶子の身を引きとるというやくそくを みはたたてなし したしく迎えて、道中の保護をしてくれたのみか、御旗楯無の条件にかそえてある。 かほう 家宝まで伊那丸の手へかえしてくれた。 「承知した』 とよとみけ それいらい、伊那丸も一党の者も、豊臣家にたいしてしぜん もとより、こっちにも異議はなかった。 とう 0 うえだ くわな みかた

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

だいこうえさんか 『昨年はそうであったとうけたまわる』 涯の思い出ともいたしとう存じますゆえ、なにとそ大講会参加 とうし ろん 『陣法勝負などの場合は、やはり論議だけでございましようの一闘士として飛びいりおゆるしくださいますよう』 ねつがん と、熱願した。 カ』 - 一りどう あしがる しやくよう 『足軽何百人ずつを借用して、じっさいの陣あらそいになる場それは一同の希望で、ゆうべも月ノ宮の垢離堂で、血気の面 とうし 面がみな口をそろえていうには、自分たちも闘士として出場 合もある』 とくがわけしさい だいこうえ そうかん し、この秋の徳川家司宰のもとにおこなわれる大講会をして木 『壮 . 観で、一」ギ、りましよ、つな』 ばみじん という意気があがった。 ッ葉微塵にしてやろうではないか と、小文冶はわかわかしい目をした。 つうかい こみみ いなまる 『痛快だ ! 』 伊那丸はふたりの話を小耳にはさんで、 とうしゅう だい上うじ 『武田家の大行事を徳川家に踏襲されるよりは、この秋かぎり 『わしのおさないころは、なおさかんなものであった』 こんぜっ 根絶させろ』 と、とおい思い出を呼ぶ。 しんげんこうざいせい 『それこそわれわれの願うところ、ぜひとも試合にでる』 『さよ、つで 1 ざりましよ、つとも、信玄公ご・在世のころからくら おうこう がんしよく ひかく 『武をもって横行するやからの顔色をなくしてやろうそ』 べれば比較にならないと、町人たちもささやいております』 にんけんえりんじ 忍剣も恵林寺にいたころ、一年、その盛時を見たことがある『武田は亡びても人ほろびずと、天下に名乗りをあげることに ついおく もなる』 ので追憶がふかい。 . てつけっし と、やむにやまれぬ鉄血の士が、膝をまげて伊那丸にすが 『おもえばむねんしごくな ! 』 くちょう とっぜん、童太郎がこうふんした口調で、 みたけ いえ ! ようじ ぶぎよう たけだびし だが伊那丸はーー・ゅうべもいまも、 『お家の行事もいまは徳川に奉行されて、御岳の神前に武田菱 『ゆるす ! 』 の幕一はり見えませぬ』 ひと - 一と という一言を、かれらの熱望にたいしてよういにあたえない と、つよくいった。 めつじん かりにお家のかたちは滅尽するとも、ここに武田ので、 れいせい : だが、冷静にこうしてながめているのもおもしろかろ 人あることを知らせてくれたい』 おう と蔦之助もそれに応じる。 会 び・しよう と、微笑しているばかり。 講忍剣は伊那丸の前へズッとよって、なにかうごかぬ決意をし 大ながら、 柳に風である にくたいど きみ へいほうだいこうえ こしんげんこう ・法わかみ 『若君、昨夜もお願いいたしたとおり、兵法大講会は故信玄公君ながらお憎い態度 ! とひそかに思いうらまれる。 きようみ ようじ しよう こばたみんぶ 兵か ぶふう てんか が甲斐の武風をあくまで天下にしめされた行事、われわれが生また、小幡民部もあまり興味をもたない顔つきで、とりなし じんばうしようぶ ひととせ る。 ほろ 0 ひざ けつき 431

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ちんびん り、なお・ハタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持『な、なんじゃッ ? 』 こえ 『シッ : : : 大きな声をだすと、殿さまのおためにもなりません ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいと ちまなこ たけだ、なまる 馬 ぜ。徳川家で、血眼になっている武田伊那丸、それをお売りも もうすので』 天 、っそ , っとい、つことなんで』 州『それは珍らしいものが数あろう』 おもて まいせつにゆうどう 神梅雪入道は、このごろしきりに、堺でそのような品をあつめ『む : : : 』入道はじッと郷士の面をみつめて、しばらく、その だいたん 大胆な押し売りにあきれていた。 ていたところ、思わず心をうごかしたらしい 『けっして、そちらにご不用なものではありますまい。武田の 『とにかく、 通してみろ。ただし一人であるぞ』 おんぞうし 御曹子を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万石や二万石 『はい宀久臣は、さがっていく。 おんし上う の恩賞はあるにきまっています。先祖代々から禄をはんだ、武 入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小 ほろ りつば さむらい や、かつぶくも立派な侍、ただ色はあくまで黒い。目はおだ田家の亡びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただ から、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにして やかとはいえない光である。 なみしま きた売物です』 『取りつぎのあった、浪島とはそちか』 ゆすり めどお ほとんど、強請にもひとしい口吻である。だのに、梅雪入道 『ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます』 てう 『き、っそく、 ハタビヤ、ジャガタラの珍品などを、余に見せては顔いろをうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしな もらいたいものであるな』 ふいちょう どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山 『じつは、他家へ吹聴したくない、秘密な品もござりますゅ 梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこの間までは、武 え、願わくばお人払いをねがいまする』 だかつより という望みまでいれて、あとは二人の座敷となると梅雪はさ田勝頼の無二の者とたのまれていた武将であった。 それが、織田徳川連合軍の乱入とともに、まッ先に徳川家に らにまた急きだした。 しんげんいらいおんこ こうふうちい くだって、甲府討入りの手引きをしたのみか、信玄以来、恩顧 ロ。しかなるものじゃ』 『して、その秘密のロロとま、 のふかい武田一族の燧期を見すてて、自分だけの命と栄華をと りとめた武士である。 浪島という、郷士のまなこが、そのとき異様な光をおびて、 え っ S ・よく この利慾のふかい武士へ、伊那丸という餌をもって釣りにき 声の調子まで、ガラリと変った。 ばはんせんたつまき たのま、 レ化けているが、八幡船の竜巻 。いうまでもなく、武士 ' 『買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。 りつば たけだびしもん このであった。 武田菱の紋をうった、立派な人間です。どうです、ご相談し りませんか』 せ かず こうふん えいカ たけ

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

『小父さん、小父さん、なんだっておいらの手紙をそんなにほ頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい』 かんにん しがるんだい 苦しいから堪忍しておくれよ。この手紙は大『いやだ』 馬 竹童はきつくかぶりをふった。 天切な手紙だから』 なんじ 『なぜ ? 』 州『なんじゃ、ではこの書面は汝が持っていた物か』 えんばう 神『ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ』 『わからない小父さんだナ、なんだって人がおとした手紙のな わし かをだまって読んだのさ。だからいやだ』 『では今しがた、鷲の上に乗っていたのは ? 』 じゅうじゅうせっしゃ 『ウーム、それも重々拙者が悪かった、ひらにあやまる』 『おいらだよ、アア喉がくるしい』 あ 「えッそのほうか』 『じゃあ話してやっても、 ししか、うかつな人にはうち明けられ ちくどう ったのすけ とびつくりして、竹童をだきおこした蔦之助は、しばらくし なしいったいおじさんは何者 ? 』 しよう こうしゅう 第い第と彼の姿をみつめていたが、やがて、松の根方へ腰をお『父はもと甲州一一十七将の一人であ「たが、拙者の代とな「て おさな ろうにん しなん ろして、心からこの幼い者に謝罪した。 からは天下の浪人、大津の町で弓術の指南をしている山県蔦之 そそう 『知らぬこととはもうせ、飛んだ粗相をいたした。どうかゆる助ともうすものじゃ』 おんみ してくれい、そこで、あらためて聞きたいが、御身はその手紙 『えツ、じゃあ小父さんも武田の浪人かーー・ふしぎだなア : かしんこじ さむらい にある果心居士のお弟子か』 おいらのお師匠さまも、ずっと昔は武田家の侍だったんだ』 『そうだ : ・ : 』竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろか しいかけて竹童は、前に居士から口止めされたことに気が かかと ら薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつを踵のきずついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これ ぶしゅうたかお へはりつけている。 から、居士の命をうけて武州高尾にいる忍剣のところへいくこ ひょしごじゅうのとう かじっ つうちょう こばたみんぶ なまる 『ではさきごろ、日吉の五重塔へ登っていたのも居士ではなか と、また過日、小幡民部から通牒がきて、なにごとか伊那丸の 、、とび・と たか、恥をもうせば、里人の望みにまかせて射たところが、 身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中に 一羽の鷲となって逃げうせた』 ある御方という人こそ信玄のまご武田伊那丸であることまで、 『小父さんは無茶だなあ、おいらのお師匠さまへ矢をむけるの残るところなく説明した。 は、お月さまを射るのと同じだよ』 聞きおわった蔦之助は、こおどりせんばかりによろこんだ。 まつろ ひふん 『やつばりそうであったか、いや面目もないことであった。と武田滅亡の末路をながめて、悲憤にたえなかった彼は、伊那丸 ころで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にあの行方を、今日までどれほどたずねにたずねていたか知れない かがみにんけん る加賀見忍剣ともうすかたは、ただ今どこにおいでになるのか、 のだ おんかた やまがたったのすけ てんみよう また、たずねる御方とはどなたを指したものか、山県蔦之助が 「これこそ、まことに天冥のお引きあわせだ。拙者もこれより のど ししよう せっしゃ

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

・ハラ・ハラとみだれる穂すすきの槍ぶすまも、忍剣が、自由自 わらばう 在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。藁か棒切れのよう 天「おお ! 伊那丸さま。あれをご覧なされませ。すさまじい火に飛ばされて、見るまに、七人十人と、朱をちらして岩角から すべり落ちる。ワーツという声のなだれ、かかれ、かかれと、 州の手があがりましたそ』 まんざん やま さんどう にんけん げんじろうだけ 神源次郎岳の山道までおちのびてきた忍剣は、はるかな火の海ののしる叫び。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山 を血しぶきに染める。 をふりむいて、涙をうかべた くろぐそくぐみ かいわかそう ほのおそこ 一介の若僧にすぎない忍剣のこの手練に、さすがの黒具足組 『国師さまも、あの焔の底で、ご最期になったのであろうか、 いまがわよしもと きも にんけん 知る人は知る。忍剣はもと、今川義元の も胆をひやした。 忍剣よ、わしは悲しい かがみのとのかみ ばっか かいどう なまる 伊那丸は、遠くへ向かって掌を合わせた。空をやく焔は、か幕下で、海道一のもののふといわれた、加賀見能登守その人の ちちのとのかみ てんせいかいりき わすれがたみ しようが、 れのひとみに、生涯忘れぬものとなるまでやきついた。する遺子であるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上 - うしょ・フ かいせんおしようたんりよく で、幼少から、快川和尚に胆力をつちかわれ、さらに天禀の武 と、不意だった。 ねつけつじ いきなり、耳をつんざく呼子の音が、鋭く、頭の上で鳴った勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている熱血児である。 やりじんとう かいせんおしよう おも あの眼のたかい快川和尚が、一山のなかからえりすぐって、 と思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、槍や陣刀をき ほうもったく ふせぜい たけだいなまるみはたたてなし らめかせて、おどり立ってくる数十人の伏勢があった。それは武田伊那丸と御旗楯無の宝物を托したのは、よほどの人物と見 くろぐそくぐみ とくがわ 徳川がたの手のもので、酒井の黒具足組とみえた。忍剣は、すぬいたればこそであろう。 てつじようこわき しんらさぶろういらい ばやく伊那丸を岩かげにかくして、自分は、鉄杖を小脇にしご新羅三郎以来、二十六世をへて、四隣に武威をかがやかした しようど じゅうりん たけだりようど しまや、織田と徳川の軍馬に蹂躪されて、焦土 武田の領土は、、 いて、敵を待った。 おちゅうど となってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世 『それツ、武田の落人にそういない。討てッ』 しようど くろぐそくぶしよう よび - 一 と呼子をふいた黒具足の部将は、ひらりと、岩上からとびおの中にこの伊那丸ひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、こ せま やり つぶ 1 一うれい った一粒のこった胚子である。 りて号令した。下からは、槍をならべた一隊が迫り、そのなか かいげんじ ひばら なる、まッ先のひとりは、流星のごとく、忍剣の脾腹をねらっ この一粒の胚子に、ふたたび甲斐源氏の花が咲くか咲かない しゆくめいよう、 か、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命も容易ではない。 て、槍を繰りだした。 しやくよすん ざんやく せんごく 『おうッ』と力をふりしばって、忍剣の手からのびた四尺余寸世は戦国である。残虐をものともしない天下の弓取りたち ぜんと つぶたね てつじよう ーツと、槍の千段を二つにおって、天空へまは、この一粒の胚子をすら、芽をださせまいとして、前途に、 の鉄杖が、パシリ どくしゅ きあげた。 あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。 てつじよう すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。忍剣は鉄杖 『択え ! 』と呼子をふいた部将が、またどなった。 たけだ よび - 一 なまる 、かい よび - 一 らん するど ほのお ぎい たね たね きなん おだ め てなみ りん てんびん いわかど じゅうじ

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

たけづつはんしようごま したこと、できましたこと、竹筒の半鐘独楽をはじめとしまし しんちゅう こまかじ だら て、独楽鍛冶もたくさんできました。陀羅ゴマ銭ゴマ真鍮ゴ どうけ な かみな マ、ぶんぶん鳴るのが神鳴りゴマ、おどけて踊るが道化ゴマ、 たじま めいじんごま きんぞう 『さあ、それから、それからーーー』 背のたかいは但馬ゴマ、名人独楽は金造づくり、豆ゴマ、賭ゴ まえがみ みやこ ぼうず と、輪になっている前髪たちは、待ちきれないで、あとをせ マ、坊主ゴマ、都ではやっておりまする。そこで手まえのあっ ちくぶじま おうみびわこ かいますのは、近江は琵琶湖の竹生島に、千年あまり伝わりまがんだ。 かえんごま かえんごま きわどいところで、竹童はたくみにおッとりして、 火焔独楽 ! 』 した、稀代ふしぎな火焔独楽ーーはい、 きよく かえんごま げいにんこうじよう 『さ、火焔独楽の曲まわし、いよいよかかりますがそのまえ と、ここに竹童が、にわか芸人の口上をうっして、弁にまか せてのべ立てると、万千代はじめ、とんば組、パチパチと手をに、ちょっと、おうかがいしたいことがございます。どうか、 むしよう 話してくださいまし』 たたいて無性にうれしがってしまった。 しんけん 『なんじゃ ? 独楽まわし』 だが、竹童は、真剣である。 はままっ ど・つけ 物、、、ゆ、つ 口に道化ても肚のそこでは、たえず、伊那丸の危急をあんじ 『あの、近ごろ浜松のご城下で、武田伊那丸という方が徳川さ ているのだ。 まの手でつかまったそうですが、それは、ほんとでございます みやこだがわけいじよう ・カ』 さきに、都田川の刑場へ、したくにいそいでいったあの足軽 じじっ のはなしが事実ならば 『捕まったのはまことじゃ、家来のやっ二人も一しょに』 『ああ、では : 武田伊那丸と忍剣と童太郎とが、。むなしく徳川家の手にさ かわら びしよう けいじようき れて、あさってのタぐれ、河原の刑場に斬られるという、あの 思わす、あおざめたかと思う顔を、むりに微笑させて、 ・一うさっ 『やつばり、うわさはまことでございましたか。それで、さだ 高札が事実ならば たけだ じつに、武田一党の致命的な危難は、目睫にせまっているのめし家康さまもご安心でございましよう。けれど伊那丸や家来 ちゅう のふたりも、なかなか智勇のある者とききましたが、どうして 竹童の胸がなんで安かろうはずはない。かれは、一刻もはやそんなに、たやすく捕まってしまったのでしよう ? 』 こたろうざん 『、いではないか、そんなこと。早くそれより独楽をまわして く、この大へんを、小太郎山のとりでヘしらせたいともだえて まいる。どうしても、四、五日かかる道のりのある小太郎山へ、 見せい』 ねん みやこだ 。しいままわします。ですけれど、じつはこのさきの都田 だ今夜のうちに、かけつけたいと苦念している。 なかま かけ がわ ・一う、つ 楽 とうてい、人のカでおよばぬことをなさんがために、竹童は 川で、そんな高札を見ました時に、仲間の者と賭をしたのでご だいどうげいにん 独 心にもない大道芸人のまねをするのだ。見ているお小姓とんば 、います』 きた、 とうちめいてき やす きなん もくしよう あしがる かけ はおもしろかろうが、ああ、かれには涙の芸であった。 いえやす わ

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

とがあるんだ』 呂宋兵衛、久しぶりの酒を酌みかわして、話はっきないもよ と、紅船以前のことを、無念そうに語りだす。 馬 きゅうかっ それは、彼が東海をさかんに荒していたころーーーといっても 天名はおそろしい海賊と山賊だが、久濶の人情には、変りのな にんけん べんてんじま ばはんせん 州いものとみえる。 古い話ではない、伊那丸が忍剣にわかれて、弁天島から八幡船 神『なあ、童巻。てめえとおれとは、その昔、天下を二分するよのとりこになった時のこと かし あなやまーいせつ うな元気で別れたんだが、おたがいに、い つまでケチな賊の頭穴山梅雪の手をへて、伊那丸のからだを徳川家へ売りこもう ら ばはんせん とした晩、小幡民部に計略の裏をかかれて、沖の八幡船は焼打 領じゃしようがないなあ』 さかいまちぶよう るそん・ヘえ ちされ、彼じしんは、堺町奉行の手に召しとらえられてしまっ 『しかし呂宋兵衛』 『なんだ』 さかいまちぶようろう 「おめえは富士の山大名とか、野武士の締めとかいわれて、 その後、竜巻は、堺町奉行の牢をやぶって逃亡したが、警戒 ごうせい がきびしいため、こんどは、紅がら色の帆をあげて北日本の海 豪勢な羽振りだってことをうわさに聞いていたが』 へまわり、長崎から往復する呉服船と見せかけて、海上の諸船 『さ、それが残念千万な話で、いちじは富士の殿堂に、一国一 あるじ こわっぱ 城の主を気どっていたが、武田伊那丸という小童のために、とや、諸港の旅人をなやましている。 おちむしゃ 『こういうわけで、おれはいまでも、その恨みを忘れやしね うとう人穴城を焼けだされて落武者となってしまったのだ』 『なに、武田伊那丸だッて』 え。この童巻の息の根のあるうちは、きっと、あの伊那丸と小 『ウム、てめえもうわさに聞いていたろう』 幡民部の野郎を、取ッちめずにはおかねえつもりだ』 ・一うはん・一くふう 『挈」、つか・ いま、船は加賀の北浦に沿って、紅帆黒風のはためき高く、 みずあし いよいよ水脚をはやめている。 と、呂宋兵衛は、聞きおわって、 『してみれば、伊那丸一族は、この呂宋兵衛にも、竜巻にとっ 四 ても、遺恨のつもりかさなるやつ。おれもこれから京へのばっ くろうえもん さんだん 竜巻の九郎右衛門は、杯の南蛮酒をゴクリと乾し、呂宋兵て、秀吉公の力を借り、武田一族を狩りつくす算段をするか 衛へもついでやりながら、 ら、てめえも折りさえあったら、この仕返しをすることを忘れ るなよ』 『ふウむ、そいつはふしぎな因縁だ : : オオそりや、 とうめくようにいったものである。 『いわれるまでもないことだ。 しし力さっ 『じつは兄貴、うわさどころかこの童巻も、あの伊那丸のやっき、兄貴がつれていた男はどうしたろう』 やりぶすま と、家来の小幡民部という野郎には、ひどい目にあわされたこ 『ウム、すっかり忘れていた。あの槍襖におどろいて、胴の間 0 たつまき こばた さかずき・なんばん そ いんねん じ どう 2 りイ

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

騎馬でくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。 『もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい』 すその ぐんせん やがて、裾野の野道がっきて、長い森林にはいってきた。そ ヒラと投げてきたのは一面の軍扇。 そくやたて みんぶ 天民部は即座に矢立をとりよせ、筆をと 0 て、サラサラ八行のこをぬけると、青いさざなみが、樹のまから見えだした。 ばいせつ 「おお湖水へでた ! 湖が見えた ! 』 州詩を書き、みすから梅雪の手もとへ返した。 神司どれ』と、入道はそれを受けとり、馬上で扇面の文字を読み軍兵どもは、沙測にを見つけたように口々に声をもらし やしろ た。そのはとりには、小さな社があるのも目についた。つかっ 判じて しらはたみや かと社の前へあゆみ寄った小幡民部は、「白旗の宮』とあるそ 『む、どこまでもそちは軍師じゃの』 ひざ かんたん と膝をたたいて、感嘆した。その秘策とは、すなわち、これこの額を見あげながら、ロのうちで、 げんけ みはたたてなし ・ : 』とつぶや : 源家にゆかりのありそうな : から馬をすすめて五湖の底にあるという武田家の宝物御旗楯無『白旗の宮 ? いなまる いて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろ をさぐりだし、同時に、伊那丸をもそこで首にしてしまおうと けっそう け・ルみ - ′、 しい血相で、咲耶子をただしはじめた。 いうおそろしい献策。 か 『これツ。武田家の宝物をしずめた湖水は、ここに相違あるま じつは穴山梅雪も、これから甲斐の国へはいる時は、武田の うそ ざんとう 嘘いつわりをもうすと、痛いめにあわすぞ、どうじゃ ! 』 残党もあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためて すその いたところだった。しかし、この富士の裾野なら安心でもある きよりようけっ し、御旗楯無の宝物まで、手にはいれば一挙両決、こんなうま咲耶子は、にわかに神妙になって、そこへひざますいた いえやす 『もうお隠しもうしても、かなわぬところでござります。おっ いことはない。すぐさま都へ取ってかえし、家康から、多大の いしびつ しやるとおり、御旗楯無の宝物は、石櫃におさめて、この湖の 恩賞をうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。 『そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもそこに沈めてあるに相違ありませぬ』 「まったくそれにちがいないか ! 』 梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている『神かけていつわりはもうしませぬ』 民部の献策にまかせて、ふたたび郎党を一列に立てなおし、民「よし、よく白状いたした。おお殿さま。ただ今の言葉をお聞 きなされましたか』 部と咲耶子を先にして、裾野を西へ西へとうねっていった。 ちょうどそこへ、おくればせに着いた梅雪のすがたをみて、 そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささ もくもく ゃいたようであった。かしこい彼女は、黙々として聞えぬふり民部が、こういいながら馬上を見上げると、彼は笑っぱに入っ ひとみ で歩いていたが、その瞳は、ときどき意外な表情をして民部にてうなずいた。 きよどう 『聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水から そそがれた。そんな、こまかい二人の挙動は、はるかあとから み え そうい

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

だんごう しばらくの間、竜巻と談合していた梅雪は、伊那丸の面体 そして、えらびだした武士二、三人に、・密命をふくませ、そこ ほ、つび - たみぞう からいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列を、しかと見さだめたうえで、約東の褒美をわたそうといっ 5 どな 馬 あんや た。童巻も心得て、うしろへ怒鳴った。 天の先頭にして、誾夜の街道を、しずしすと進んでいった。 わっぱ 『民蔵、その童をここへ曳いてこい』 神 『へえ』 あこや 民蔵は繩目にかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。 まもなく着いた、阿古屋の松原。 くら やしろしよう ばいせつ 梅雪入道は鞍からおりて、海神の社に床几をひかえた。と拝殿の上から、とくと、見届けた梅雪は、大きくうなずいて、 きや - 一う 『でかしおッた。武田伊那丸に相違ない』 やがて約束の亥の刻ごろ、浜辺のほうから、百鬼夜行、八 あなやま たいまっ はんせん その時、むッくり首をあげた伊那丸は、穴山のすがたを、か 幡船の黒々とした一列が、松明ももたずに、シトシトと足音を そろえて、ここへさしてくる。 ッと睨みつめて、血を吐くような声でいった。 「民蔵、民蔵』 『人でなしの梅雪入道 ! 』 たつまき と鳥居まえで、合図をしたのは童巻にちがいなかった。民蔵『な、なにツ ろく しんげん は梅雪のそばをすりぬけて、そこへかけていった。 『祖父さま ( 信玄 ) の時代より、武田家の禄を食みながら、徳川 かしら ないつう 軍へ内通したばかりか、甲府攻めの手引きして、主家にあだな 『お頭ですか』 いめざむらい 、、、つけた使の首尾はどうだった』 した犬侍。どの面さげて、伊那丸のまえへでおった、見るも 『こちらは、殿さまご自身で、早くからきて、あれに待ってい けがれだ。退れッ』 ます。そして伊那丸は ? 』 / ノ / / 』梅雪は内心ギクとしながら、老獪なる嘲 しよう 『ふん縛ってつれてきた、じゃおれは、梅雪と掛けあいをつけ笑にまぎらわして、 わっぱ なわじり 『なにをいうかと思えば、小賢しい無礼呼ばわり。なるほどそ るから、貴様が繩尻を持っていろ。なかなか童のくせに強力だ の昔は、信玄公にも仕え、勝頼にも仕えた梅雪じゃが、いま から、汕断をして逃がすなよ』 もと めつばう はいでん しゅ きみ 竜巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる拝殿の前へおは、主でもなければ君でもない。武田の滅亡は、お許の父、勝 あんぐ していった。 頼が暗愚でおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、 ′よわじり 繩尻をうけた民蔵は、 馬鹿大将の勝頼をうらむがよい』 : よ , フいッたな ! 』 『ゃいツ、歩かねえか』わざと声をあららげて、伊那丸の背中『ムムツ・ ふどうしんめんば をつく。 その心のうちでは、手をあわせている小幡民部で不道の臣に面罵されて、身をふるわせた伊那丸は、やにわ あった。 ガ・ハとはねおきるがはやいか、両手を縛されたまま、梅雪 しゅび ′ : つりき はいでん なわめ み一カ くび は みとど ひ かつより もと ろうかい めんてい ちょう