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検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

がじろう 『えい、やかましいわい』 て、蛾次郎のかげを見すかしている。 『ア痛え、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、こわ 『もしゃあなたは、雨ガ岳のほうから、やってきたのではござ かんにん 馬 れから、気をつけます。か、堪忍しておくんなさい : いませんか』 天 わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、蛾次郎の泣虫 州『ああ、そうだよ』 神『あすこに陣どっている、武田伊那丸の兵は、もう山を下りなること、今にはじまったことではないから、その泣き声も、 かいしんい み たいして改心の意味をなさない。 ましたろうか、戦は、まだおッばじまりませんでしようかし 『・ハカ野郎、てめえに叱言などをいっていられるものか。こん ら』 どだけは、かんべんしてやるから、これをしよって、早くある 『知らないよ、そんなことは。お前はいったいなにものだ』 やじりかじ 『おれかい、おれはさ。もと鼻かけト斎という鏃鍛冶のとこに ししよう ひとなしむら いた、人無村の蛾次郎という者だが、どうもト斎という師匠と、今夜は八風斎の鼻かけト斎も、家にかえって落ちつくよ が、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、今でうすもなく、書斎をかきまわして、大事な書類だけを、一包み かか だいだいみよう はあるところの大々名のお抱えさまだ』 にからげ、それを蛾次郎に背負わせて、夜逃げのように、立ち のいてしまった。 からす 『ア痛ツ。こんちくしよう、な、な、なんでおれをなぐりやが 門をでると、いま泣いた烏の蛾次、もうけろりとして、 る』 『親方、親方、こんな物をしよって、これからいったいどこへ でかけるんですえ』 『蛾次郎、いっ貴様にひまをくれた』 とききだした。 えちぜんきた 『いつ、このト斎が、暇をやると申したか』 『響ばかりで、この人無村では仕事ができないから、越前北ノ しよう 『あ、いけねえ ! 』 庄へ立ちかえるのだ』 どうり 蛾次郎が、くるくる舞いをして逃げだしたのも道理、それ『え、越前へ』 かんべはつぶうさい は、雨ガ岳からおりてきた当のト斎、すなわち上部八風斎であ蛾次郎はおどろいた。 『いやだなア』 ししぶ と、ロにはださないが、肚のなかでは、渋々した。せつか 『野郎 ! 』 、菊池半助が、ああやって、徳川家で出世の蔓をさがしてく ばらばらッと追いかけて、蛾次郎の襟がみをひつつかみ、足 ひとなしむらさいく れたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまら をはやめて、人無村の細工小屋へかえってきた。 ないことだと、また泣きだしたくなった。 ごめんなさい』 『親方、ごめんなさい、 ひま えり つる

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ちくどう べえ げんじゅっ ましてやいまは、竹童も般若丸を宮内の手にあすけてある兵衛の前でやって見せたことのある初歩の幻術、きわめて幼稚 がじろう 侠 し、蛾次郎もあけび巻の一腰を取りあげられているから、このなものであるが、蛾次郎ははじめてなのでおどろいた。 馬 『、わッ』 天勝負こそ、まったく無手と無手。 - 一うげん 州『ウーム、よくもいまは広言をはいたな』 といって、おもわず顔へ手をやった。すでに体はみだれたの か 神 と、掌につばきをくれながら、竹童がジーツとせまると、蛾 だ得たりと竹童、そこをねらって馳けよりざま、さらにつか 次郎もまた腕をまくりあげて、 んでいた無数の花びらを、エェッと、力いッばい蛾次郎の頭か びわこ 『こん畜生、もう一度琵琶湖の水をくらいたいのか』 らたたきつけた。オオ落花みじん、相手はふんぶんたる白点に - 一ぶし いきなり拳をかためて、電火のごときカまかせに、グワンとつつまれたであろうと見ると、それとはちがって、竹童の手か ほおばね かま 相手の頬骨をなぐりつけていったが、なにをツー と引っぱららパッと生まれて飛んだのは、まッくろな羽に赤い渦のある鎌 くらちょうちょう って鞍馬の竹童 、パッと身をかわしたので、ふたりはすれちが倉蝶々 蛾次郎の目へ粉をはたいてすぐにどこかへ消え いに位置を取りかえ、またそこで血ばしった眼をにらみ合ってしまった。 いよいようろたえた泣虫の蛾次郎、たわいもなく竹童の足が のどぶえ とーーー思うと蛾次郎は、ふいに五、六間ほどとびさがって、 らみにけたおされて、ギュッと喉笛をしめつけられ、さらにう ひきよう つぶて - 一ぶし らんだ 足元から小石をひろった。卑怯 ! 飛礫をつかんだな ! と見らみかさなる拳の雨が、ところきらわずに乱打してきそうなの たので竹童も、おなじように大地のものを右手につかんだ。 で、いまは強がりンばの鼻柱がくじけたらしく、 だが、竹童のつかんだのは、石でもない、土でもない 「こツ、たすけてーツ、神主さま、神主さま ! 』 いと早 - くら あたり一面に、雪かとばかり白く散っていた、糸桜の花びら最前、ここをだしてくれなければ、火をつけるそと悪たれを である。 吐いていた、その弁天さまのほうへ、声をしばって救いをよん 花びらの武器 ? なんになるのか蛾次郎にはわからない。畜 生、すこし血があがっていやがるなと見くびってひろいとった みけん 石飛礫、ビューツと敵の眉間へ打ってはなすと、竹童すばやく ・ヘん 身をしずめて指の先から一片の花をもみだして唇へあて、息を その晩である。 くれて、プーツと吹いたかと思うと、それは飛んで一びきの縞瘤だらけになった蛾次郎と、みみずばれをこしらえた竹童と つぶて きくむらく 蜘蛛となり、つぎの飛礫をねらいかけていた蛾次郎の鼻へコビ が、菊村宮内の住居のほうで、かた苦しくすわらされていた。 丿ついた 昼間、もう少し蛾次郎がやせがまんをしていたら、竹童のた ひとあなじよう くない これはかって竹童が、人穴鹹へ使者としていったとき、呂宋めに殺されていたかもしれない。あのとき、すぐに宮内が馳け しよう いしつぶて くらま て はんにやまる るそん っ すまい べんてん らっか かんめし うす ようち 294

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

られる。 ば、のろしをあげるまでもなく、あの偉大なつばさで一はたき るそんべえ かんしよういんなみき みかた 『やッ ! 呂宋兵衛がいく 、勝頼さまのお駕籠がいく』 で、寒松院の並木にいる味方へ、この様子をお知らせにも飛ん 馬 ちくどう かんし上ういん 人それと見るや竹童は思った。寒松院の並木に待ちぶせているでいける。 なまる るそんべえ 州伊那丸やそのほかの人々に、すこしも早く、このことを合図し そのうえ、たとえ呂宋兵衛が、どこをどう逃げまわっても、 神てやらねばならぬと。 空からそれを見てとることもできるというもの。 こう竹童 といって はかんがえた。 のろし がじろう 狼煙のしたくをしているまには、おお、すぐそこにいる蛾しかし、その時すでに、蛾次郎は、鎖をといて鷲の背へ、フ じろう ちゅうてん 次郎奴が、クロの背をかりて、宙天へ逃げ失せてしまうであろワリと乗っていたのである。 0 『あツ、待て ! 』 がじろう おおわし 蛾次郎を見のがすぐらいは、虫ケラと思えばなんでもない 飛びついていった竹童と、地上をはなれた大鷲とはそのと 力いまここで、せつかくその姿を見たクロとふたたび別れてき、ほとんど同時であった。 がじろうわし しまうのは、なんとしてもしのびない。い つまた、それが蛾次『くそうッ』と蛾次郎、鷲の上から竹をふるって、竹童の肩を じせつ 郎の手から、じぶんの手へ返ってくる時節があるかわからな ビシーツとなぐった。 『↓っ - イ・ツ . : 』と、こらえながら、竹童は、必死につかんだ蛾 じろう さればといってー・ーそれにグズグズ手間どっているまに、呂次郎の足をはなさず、大鷲のつばさが、さッと大地を打ってま そん・ヘえ かつよりこう 1 一そう がじろう 宋兵衛一族が天ガ止から道をかえて、勝頼公をとおく護送していあがるのと一しょに、かれも蛾次郎とともに、無二無三に、 わし しまったら、それこそ、伊那丸さまへたいしてぬぐわれざる不鷲の背中へかじりついてしまった : 忠不義 ! 腹を切っておわびしても、その大罪をつぐなうには あたい 直 : しよ、。 ・ 1 ・十 / . し ちくどう 『ああ、困った』竹童は、髪の毛をつかんで、迷いにまよっ かくて巨大な黒鷲の背には、し 、まやたがいに、敵たり仇たる わし た。合図か ? 鷲か ? 合図か ? 鷲か ? ふたりの童子が、ところもあろうに、飛行する大空において、 どっちへこの身をむけていいカ ひとっ翼の上に乗りあってしまった。 がじろう がじろう 『おお、クロを ? 』かれはとっぜん蛾次郎のいるほうへ征矢の だが、しかしーー鷲そのものは、蛾次郎を敵ともおもわず、 ちくどうかたき ごとく飛んでツた。 また竹童を仇とも思うようすもない。軽々と、二少年を背にの ひってき なんばんじ クロこそは、人間のもつなにものも、匹敵するあたわざる飛せて、そのゆうゆうたるすがたを、南蛮寺の空にまいあがらせ がじろう 行の武器だ、生ける武器だ。クロさえ蛾次郎の手からとり返せた る くろわし わしせ あだ 262

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ところが、そのとちゅうで ながやす しゆくば なにか、長安から耳打ちをされた鼻かけド斎が、ある宿場で 馬 ほどのいいところを見はからって、ド斎が、 天行列がやすんだ時、 がじ - 一う 州「お、ちょいとこっちへきな』 『時にな、蛾次公』 がじろう てまね 神 と、蛾次郎をものかげへ手招ぎした。 と、声をひそめた。 ほおば いつになく、たいそうやさしく手招ぎされたので、蛾次郎は蛾次郎はグビリと頬張っていたあんころをのみくだして、 すぐうれしくなってしまった。 『へ ? ・』 おやかた なんですか、親方』 と、ほかにも用があるのかというような顔をした。 いしな 『まあ、こッちへおいで』 『おまえはたしか、石投げの名人だったな。ほかのことにかけ じようず 『もっと歩くんですか』 ては、ドジでも、つぶてを打たすと、すばらしく上手だった』 との きゅうそく 「ウム、殿さまの駕籠がご休息にな「ているうちに、なにか食『親方あーー』と、蛾次郎は、ド点の顔をゆびさして笑いなが ら、 べたいものでも食わせてやろうと思ってさ』 おやかた すその 「へ、へ、へ、へ、すみませんね、親方』 『いまごろになって、あんなことをいってら。裾野にいたじぶ かまなしがわ ん釜無川の下で、毎日おいらが捕ってきて親方に食べさせた、 はや いわな 『どんなうまいものがあるか、ずッと、この宿場を見てあるきあの鮠だの岩魚だのは、みんな、石でビューツとやって捕った (. ーしよ、つ・か』 んですぜ。ね工、親方、河原の小石をこう持つでしよう、こう てま いわみのかみ 『そんなに手間をとっちゃいられないよ。おれは、石見守さま指のあいだにはさんでネ、魚のやつが、白い腹をチラリと見せ の駕籠がたっと、一しょに、甲府の躑躅ガ崎へ帰らなけりゃな たところをねらって、スポーンと食らわしてやるんです。どん はや らない』 な速い魚だって蛾次さんの石からそれたことはありませんよ。 うち ひでん 「じゃ、あそこにしましよう。あそこの家の : : : 』 こんど親方にもその秘伝を教えてやろうか。ところが、どうし と、指さした。 て、その石の持ち方が、あれでもなかなかむずかしいんでね。 こわめし もちだんご いしな てんさい 餅や団子や強飯がならんでいる。 だから、だれだかいいましたよ、蛾次は石投げの天才だってね』 そこへはい 0 て、奥のひくい恥の間へ腰かけた。 『も、つしし ・も , っしし』 『いくらでもおあがりよ。腹の虫が承知するほど』 と、ド点は手をふって、 ことわるまでもないこと、むろん、蛾次郎もその気でパクっ 『わかったよ、わかったよ。まったくおまえは石投げの天才 いている。 ・一うふ てまね 0 々、き かた かわら と イ 82

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

めくら と思ったが、はやる心をおさえて、なお盲のふりをしながを、コケおどしの刃物なんそふりまわして、よせやい、おれだ がじろう ら、しずかに天ガ丘へのばりだすと、蛾次郎は、それとも知らって、はばかりながら、刀ぐらいは差しているんだからな』 おし 竹童は、唖のようにだまっていた。 しかし、全身の血は、沸りたち、毛もよだつほど怒ってい 『オイオイ、つんばかい ? 』 がじろう めくら 学 / 学 / 、刀 いまは、どこまでも盲のていをみせて蛾次郎に いよいよ図にのって、減らず口をたたきだした。 油断をさせ、その素ッ首をひンねじってやろうと、心の奥にた 『ゅうべはつんばじゃなかったはずだ。盲の上にツン的ときた あっこうぞうごん ひにや、それこそ、でくの坊より成ッちゃあいねえからな。えめきって、かれの悪口雑言を、いうがままにこらえている 『エ工、オイ、なんとかいえよ、なんとか』 えオイ竹童 : : : おッと、こいつは俺がまちがった。おまえは八 がじろう 蛾次郎は、竹童のからだから棘の立っているのに気づかず、 神殿の床下をお屋敷としている、天下のお乞食だッたんだっ いきなり蕎麦まんじゅうをムシャムシャ食べて、 け。それじゃ返事をしないはずだよ。ではあらためて呼びなお 『ゃい乞食、これでも食らえ』 すことにしよ、つ : ちょうし がじろう 蛾次郎、ますますお調子づいて、いまや、その身が竹童の般と、その食いかけを、竹童のロもとへ持っていった。 にやまる 若丸の切ッ先に、まねき寄せられているとは知らずに、ノコノ待っていたぞーー・と、いわぬばかりに 『逃げるな、蛾次 ! 』 コとすぐ後へまで近よっていった。 いうがはやいか、鞍馬の竹童、顔まできた蛾次郎の右の そして、黄色い歯をムキだして、ゲタゲタと笑いながら、竹と、 手を、いきなりつかんでひきよせた 童の顔を、肩ごしにのそくようにしながら、 『あツー , ) いっ』 もし、天下のお乞食さま。おめえ、これからどこへい なんばんじ 『よくやってきた。思いしれ』 のよ。南蛮寺の台所か、それにや、まだすこし時刻が早かろう と竹童は、その利き腕をねじあげて、石段の中途へ、押した ぜ。おあまりは朝飯すぎにいかなけりやくれやしないよ。うふ ふふふ : : : 怒ってるのか。澄ますなよ。はずかしいのか、蛾次おした。 『おう ! て、てめえ目が見えるのか』 まアいいじやアねえか、なア 郎さまにすがたを見られて : と押しふせられながら蛾次郎は、胆をつぶして、ふるえあが 頭おい竹童、おれとおめえとは、いまじや身分がちがってしまっ ひざ すその った。竹童はその上へのって、膝がしらで、相手の腕をおしつ たが、もとは裾野の人無村で、おなじ柿の木の柿をかじりあっ どうじよ、つ 両手で喉と腕首をしめつけて、ビクとも動きをとらせす おれはおめえに同情しているんだぜ。だからよ、 あめ ゅうべだッて、おれから声をかけたんじゃねえか。うまい飴ン 泣 『ゃい蛾次公 ! よくもおのれは、この竹童を、さんざんに恥 棒でもしゃぶらしてやろうと思って、ひとが親切にいったもの へ てき はん のど はもの た筆 259

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

べ、今宮神社の境内で、馬にけられてへドを吐いて、あのまま蕎麦饅頭のお供物である。 なきむしがじろう 気絶していた泣虫の蛾次郎。 きのうのお祭に、氏子があげた物であろう。三方の上に、う 『オオ寒、寒、寒・ : : ・』 ずたかく、大げさにいえば、富士の山ほど積んであった。 プルプルガタガタふるえている。 犬もあるけば棒にあたるー ちそう ひょいと見ると、目のまえには、じぶんの吐いたご馳走や これなるかな、これなるかなと、蛾次郎はそこで、よだれを ふん くず ら、馬の糞やら紙屑やらで、きれいな物は一つもない。 たらして見とれてしまった。 この汚穢だらけな地面の上に、気をうしなって寝ていたかと 『ちえツ、ありがたし、 しゃ がじろう 田む、フと、 いくら洒アつくな蛾次郎でも、さすがにすこしあさま と泣虫の蛾次郎、じぶんのおでこをビシャリとたたいて、神 つば しくなって、今朝の寝起きは、あまりいい気持ではなかった。 さまに感謝したのである。が、さてと口に唾をわかせてみる * 、く と、 『アア、おなかがペコペコだ : いけないことには、厳重な柵をめぐらしてあって、いくら しんばい 起きるとすぐに食う心配。 長い手をのばしてみても、とても、そこまではとどかない。 ゅうべスッカリ吐きだして、今朝は胃袋が、カラッポになっ 『ウーム、いまいましいなア』 そばまんじゅう ているとみえて、食慾ばかりになった目つきで、しきりに、そ宝の山に入りながら、この蕎麦饅頭に手がとどかないとは、 むねん こらをキョトキョトと見まわしながら、 なんたる無念しごくだろうというふうに、胃液をわかせながら 『なにかないかナ、なにかないかナ : : : 』 蛾次郎の目がすわってしまった。だが、こういう事業にたいし 泥だらけな着物もハタかず、ふらふらと立ちあがった。 ては、人一倍の熱をもっ蛾次郎である。たちまち一策をあんじ しんめ きよくど その姿や寝ばけ面が、おかしいとみえて、すぐそばの神馬小 だして、蕎麦まんじゅうの曲取りをやりはじめた。 屋で、白と黒と二疋の馬が、ヒーンと鼻で吹きだした。すると そこらで見つけてきた一本の紐竹、先をそいでとがらせ、柵 からす 頭の上のモチの木でも、鴉がカーツと啼き合わせた。 のそとから手をのばして、三方の上のまんじゅうを上から一箇 虫のいどころが悪かった。 ずつ突いては取り、突いては食べ、ロの中へ五つばかり、ふとこ 『ばかア ! てめえのことじゃねえやい』 ろの中へ八つばかり、まんまと、せしめてしまったのである。 頭と、蛾次郎、鴉をどなりつけて、スタスタと向こうへ歩きだ 『エヘン。どんなものだい、蛾次郎さまのお手なみは』 ひょうろう これで兵糧もでき、目もさめた すると、あった ! あった , 『さア、これから今日はど、つしよ、つ、ど、つしておもしろくあそ みどう ひとつの御堂の神前に、蛾次郎の見のがしならぬものがあっ ば、つか』 わし 富士の裾野をでていらい、鷲に乗って北国も見たし、東海道 ひき ねお すその くもっ まそ」け 257

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

るそんべえ のみならず、人穴城を発した呂宋兵衛も、すぐ六、七町さきようとしたとたん、頭の上から、 ちょう 『わ、いッ』 まで野武士勢をくりだして、四、五百挺の鉄砲組をならべ、い するすると木から下りてきた竹童、 ざといえば、千鳥落としにぶつばなすそと、かまえている。 『なにをするんだッ』 いきなり鷲の上の蛾次郎を、二、三間さきへ突きとばした。 鼻かけド斎の越前落ちに、途中までひつばられていった蛾次不意をくって、尻もちついた蛾次郎は、いたい顔を、間がわる ろう 郎が、木隠童太郎の行軍のなかにまぎれこんで、うまうま逃げそうにしかめて、 『なにを怒ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてく てしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来だった。 かれはまた、その列のなかから、 しいかげんなところで、ぬれてもいいだろう。命がけで、いくさの模様をさぐってきてや ・一んじよう ったんだぜ、そんな根性の悪いことをするなら、おれだって、 けだして、すたこらと、白旗の森のおくへかけつけてきた。 ちく わし たきび 見ると、そこに焚火がしてあり、鷲もはなたれているが、竹なんにも話してやらねえよ』 どう 童のすがたは見えない。 しいとも、もうお前になんか教えてもらうことはない。おい と思った。今だ今だ、菊池半助にたのらが木の上から、およそ見当をつけてしまった』 蛾次郎は、しめた , まれているこの鷲をぬすんで、徳川家の陣中へ、にげだすのは『勝手にしやがれ、戦なんか、あるもんかい』 こっちは、 カまっちゃいられない、 今だ、と手をたたいた。 『ああ、蛾次公なんかに、、 あた 『これが天の与えというもんだ、あんなに資本をつかって、お今夜が一生一度の大事なときだ』 たいまっ 竹童は、二十本の松明を、藤づるでせなかへ掛け、一本の松 まけに、竹童みたいなチビ助に、おべつかをしたり、使をした まっ たきびほのお りしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、理ま明には焚火の焔をうっして、ヒラリと鷲のせへ乗った。 たいまっ 『ゃい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきや、松明をかえ らないや、さ、クロ、おまえは今日からおれのものだそ』 うちょうてん ひとりで有頂天になって、するりと、やわらかい鷲の背なかせ、おれのやった松明をかえしてくれえ』 『ええ、うるさいよ ! 』 へまたがった。 『なんだと、こんちくしよう』 隊蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へま と、胸をつつかれた蛾次郎は、おのれを知らぬ、ばろ鞘の刀 軍いあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあ るので、せいぜい兎の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。 な にも馴れている。 『ょにをッ』 幽 竹童のする通り、かるく翼をたたいて、あわや、乗りにげし竹童は、焔のついた松明で、蛾次郎の鈍刀をたたきはらい つばき しり なまくら 、、ざや わ 9

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

隠密落とし がじろう と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけ くわしく弁じた。 むえき せっしゃ 『なるほど、これは拙者がこのへんに音いため、無益の遠路に げ・キ、りゆ・つ つかれていたかも知れぬ、しかし、この激流を、馬で乗っきる 場所があろうか』 とろ 『あるとも、水馬さえ達者なら、らくらくとこせる瀞がある ここだよ、お侍さん・ーー』 と蛾次郎は前に水切りをやっていたところを教えた。 『む。なるはどここは架そうだ。Ⅱ , 幅も四、五十間、これくら いなところなら乗っ切れぬこともあるまい』 あさせ と童太郎はよろこんで、浅瀬から『項羽』を乗りいれ、サ プ、ザプ、ザプ : : : と水を切っていくうちに紺碧の瀞をあざや かに乗り切って、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。 『ありがと、つ』 と、それを見送るとほッとしたさまで、竹童が礼をいうと、 蛾次郎はクスンと笑って、 ありがて 『なにが有難えんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない』 竹童は自分より三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へん なやつだとおもった。 『そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく 殺されそうになったところを、石を投げて逃がしてくれたか ら、その礼をいったのさ』 「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎 といわれるくらい、礫を打つのは名人なんだぜ』 と、ポロ鞘の刀をひねくッて、竹童に見せびらかした。 ざや べん つぶて こん・ヘき とろ

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

てきがたむね ころ ていたかれである。なんで、敵方の旨をふくんで忍剣を殺そう き - 一う としてきた蛾次郎に、むざと奇功をあげさせるものではない。 いか じゅじよう ばっぜんと怒りを発した竹童はあい手が、樹上の忍剣へ、 そげきひきがね 狙撃の引金をひこうとするすきへむかって、かんぜんとおどり かかってきたのである。 しかもそれが、蛾次郎であるとわかったので、かれはもう あまのじゃく きようこそこの天邪鬼を、だんじて、生かしておくことではな いか しゆっせ いぞと怒った。蛾次郎もまた、だいじな出世のいとぐちをつか もうとする矢さきへ、またぞろ竹童がじゃまをしにでたので、 ちくどう もくてき いき . ね 『やツ。てめえは、竹童だな』 目的をはたすまえに、かれの息の根をとめてしまわなければな がレろ、フ いきお おうしゅう と、蛾次郎はひるみをもった声でさけんだ。 らぬと、すごい勢いで応酬していった。 かくと、フ かれが、こうぎようてんしたせつなに、猿の毛皮であたまか まったく人まぜをせぬ格闘がつづいた。 ちめいてききゅうしょ ら身をかくしていた鞍馬の竹童は、 上になり下にころげして、たがいに致命的な急所をおさえっ あしわざ 『オオ』 けようとしているうちに、蛾次郎は竹童のからだへ足業をかけ ぜんし てもと と、その全姿をあらわすとともに、とびついて、蛾次郎の手て、その手元をぬけるや襷、パッとかけはなれて、 たんじゅう にある短銃をもぎとろうとした。 『′「 0 、かッ』 たんじゅうつつ いったん、よろけ合った二つのからだは、闘鶏師にケシかけ と、短銃の筒さきを竹童にむけた。 もうきん られた猛禽のように、また、肩と肩を咬みあって、組んずほぐ 『なにを』 あらそ れつの争いをおこした。 竹童の目にはなにもののおそれもなかった。 ぶな うつろ おど - 一うかい この間うちから、千年山毛欅の洞穴の中にかくれて、毎朝、 蛾次郎はあわてた。かれの狡獪なそら脅しは効果がなかっ きようばく しんけい しよくじ にんけん ひなわ かくとう つつぐち 喬木の上によじあがり神刑にかけられている忍剣のロへ、食餌た。火繩はいまの格闘でふみけされてしまったので、筒口をむ けてもにわかの役には立たないのである。 使をはこんでいた猿と見えたのは、まったく、竹童なのであっ ちょうけい たちば た。一党のうちでも長兄のようにしたっている忍剣が、むごい で、蛾次郎の立場は悪くなった。 の・しんじよう うつろ 家神繩にかけられて山へ送りやられた時から、この洞穴にしのび かれはひどくろうばいして、いきなり短銃を相手の顔へ・投げ 亭こんでいた。 つけ、ばらばらと逃げだした。 そうして、忍剣と苦をともにしながら、忍剣のいのちを守っ それを肩のそとにこさして、一躍すると、竹童の手には、優 菊亭家の密使 きくていけ さる みつし か がわ たんじゅう - 一うか ゆ う イ 89

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

『できたそ』 と、立ちがまえにねらいをすまして、ズドンと火ぶたを切っ かたあし たんじゅうつつさき と ぶなうつろ 岩のかげへ身をくっして片足をおって、短銃の筒先をキッとてはなそうとしたが、その一せつな、山毛欅の洞穴から跳びだ 馬 かいじん でんか むないた したひとりの怪人が、電火のごときすばやさで、かれの胸板を 天かまえた。 にんけん かんぜん 州じッと、ねらいをつける : : : 忍剣のすがたへ。 敢然とついてきた。 神忍剣は身の危険を知るよしもなかった。おそらくかれは、故不意をくッて、 かいせんおしようさいご しんとうめつきやく ひ すず 『あッ 快川和尚の最期のことばーーー心頭を滅却すれば火もまた涼し ぜんき の禅機をあじわって、二十一日の刑をけっして長いとも思 と、よろめいた蛾次は、むちゅうで、相手の襟がみをつか っておるまい。 む。 かいじん ねらいは定まった。 かれの手がっかんだのは、やわらかい獣の毛だった。怪人は ひなわ がじろう けがわ 火繩の火がチリチリと散ったせつなに、蛾次郎の指さきは、猿の毛皮をかぶっていた。 たんじゅうひきがね すでに、短銃の引金を引こうとした。 『てめえだな、いまのしわざはツ』 たんじゅうさかて とたんだった。 かれは、短銃を逆手にして、三つ四つ、毛皮の上からなぐり つけた。 『、わッ』 のど と、蛾次は短銃をおッばりだして、自分の顔をおさえてしま相手はビクとも感じない。グングンと自分の喉をしめつけて ないしん った。そして、べツ・ : と顔をしかめながら突ッ立った。 きた。蛾次は内心、こいつは強いぞとおどろいた。 あまず やろう なにやら、甘酸ッばいものが、かれの顔じゅうにコビリつい 『この野郎、うつかりしちゃあいられるもンか』 もうぜんゅう て、ふいてもふいてもしまつがっかない。 猛然と勇をこして、じゃまになる喉の腕をふりほどいた。 ひらて どこから飛んできたものだろうか。熟柿のすえたのが、 ビシャリと、敵の平手が、すぐに蛾次郎の頬ペタを張りつけ すね 顔の真ン中で、グシャッとつぶれた。 たが、蛾次もまた、足をあげてさきの脛を蹴とばした。 だんりよくこうかん 柿の目つぶし ! 精いッばいな弾力を交換して、ふたりはうしろへよろけあっ 『ちくしよう、猿のいたずらだな』 と蛾次郎は、いまいましく思ったが、まごまごしていると火そのはすみに、相手のかぶっていた獣の皮が、勢いよく、蛾 なわ 次郎の手に引きはがれたので、 繩の火がきえる。 かれは、またあわてて短銃を取りなおした。 『あツ、てめえかッ』 ぜんし そして、 と、かれははじめて、相手の全姿をみてぎようてんした。 『こんどこそは ! 』 たんじゅう きけん たんじゅう じゅくし こ 0 のど けもの けもの けがわ ほっ えり いきお