逃げ - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

はもってのほか、さツ、店や小屋はドシドシとたたんでしまぬかしたら拝殿をけちらかして、あの賽銭箱を引ツかついでゆ - 一うとう どそく ばち しんりよ 神慮をおそれぬ罰あたり、土足、はだかの皎刀を引っさげた 手には刀をふりまわし、足はそこらの物売りの荷を片ッ端か 烏幗子を売っていたおじいさん、鳩のまま、酒気にまかせて・ハラ・ハラッと八神殿の階段をのばりかけ ら蹴ちらしてゆく。 豆を売っているおばあさん、逃げそこなってかわいそうに、・燈た。 ろう 籠の下で腰をぬかしてしまう。 あしだ さらに哀れをとどめたのはーー大勢の客を呼びあつめ足駄ば あい なだれを打って逃げかけた群集も、このさまをみて、どうな きで三方にのっていた歯磨き売りの若い男、居合の刀を持って ・ - うきしん ひょう いたところから、一も二もなく目がけられて、豹のごとく飛びることかと、こわいもの見たさの好奇、いに、遠くからアレョア ち しゆらん レョとながめている。 ついてきた酒乱の浪人者に、血まつりの贄とされた。 すると。 『あぶないぞウ ! 』 しゅばしら ぐんしゅう 八神殿の朱柱のかげから、ヒラリとあらわれた二人の男があ と、なだれる群集。 『よるなよ、つッ』 か びやくえしらさや か 『母アちゃあんーーー』 右の丸柱から駈けよってきたのは、白衣に白鞘の刀をさした すみほうい ひめい きようかん 悲鳴 ! 叫喚 ! 子をかばい、親をだいて、砂けむりをあげひとりの六部、左からぬッと立ったのは墨の法衣をまとって、 わかそう おもて 色しろく、グリグリとした若僧である。 る人情地獄。それは面も向けられない砂ほこり。であった。 うじむし 『ざまをみろ、蛆虫めら』 その二人、 おおで 『祭がやりたかッたら、なぜ天ガ丘へ付けとどけをしておかね手をつなぐように、階段の上へ大手をひろげて、 よ えのだ』 『待て ! 酔いどれッ』 なんばんじ あきな 『商いがしたいと思うなら、ここから近い南蛮寺へ、さきに礼 『ここを通すことはまかりならぬ ! 』 りよく もっ どッちの声も、威力がある。 物を持ってこい』 『な、なんだとッ』 勝手なことを吠えた上に、カラカラッとあざわらった三名の ら 頭をおさえられた狼は、ふんぜんと、牙をむいて食ってか 酒乱。 む やしろ つ ) 0 おおツ、こんどは今宮の社へかけあいをつけろ ! 』 ぶうんすい ケ『、つむ、 しいところへ気がついたそ。すぐ目のまえの南蛮寺『見うけるところ、二匹とも、乞食にちかい六部と雲水。下 かんぬし へ、なんの貢物もせずに祭をするとは太い神主だ。グズグズ手なところへでしやばると、足腰たたぬ片端者にしてくれる かって みつ はみが てん っ・ ) 0 はいでん おおかみ さいせんばこ かたわもの 237

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

くだ かんさっ とくがわけ も、心ならず徳川家に降っていましたが、ささいなあやまちか 『おあんじなさいますな、ここに蓑と、わたくしの鑑札があり ん早、い ら、父は斬罪になってしまったのです。わたくしにとっては、 ます。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じようぶで 馬 うら はままつじよう 天怨みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もす』 ・一き製・う - 一うふ わのきち たけだけ 州はやく、故郷の甲府にかえりたいと思っているまに、武田家子之吉は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、筏 おだとくがわ どぶんとそこ 神は、織田徳川のためにほろばされ、いるも敵地、かえるも敵地を濠のなかほどへすすめていったが、にわかに なまる というはめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、伊那丸から水けむりが立った。 さまがっかまってきたという城内のうわさです。びつくりし 『ややッ』と、岸の二人はおどろいて手をあげたが、もうなん て、お家の不運をなげいていました。けれど、今宵のさわぎに ともすることもできなかった。 ねのきち いかだ は、てつきりお逃げあそばすだろうと、水門のかげへ筏をしの 子之吉は、筏をはなすと同時に、脇差をぬいて、見事にわが のどぶえ ばして、お待ちもうしていたのです』 喉笛をかッ切ったまま、濠のなかへ身を沈めてしまったのであ ねのきち とくがわけ - 一しゅ 『ああ、天の助けだ。子之吉ともうす者、心からお礼をいいまる。後日に、徳川家の手にたおれるよりは、故主の若君のまえ ほうおん もりねのきち で、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、森子之吉の本望 あしがる と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい足軽の子とさげであったのだ。 すんではみられなかった。い くとか、頭をさげて、礼をくりか いかだ、、 えした。そのまに、筏はどんと岸についた。 ねのきち 『さ、おあがりなさいませ』と子之吉は、葦の根をしつかり持 い力だ って、筏を食いよせながらいった。 『か 4 にド ) ↓丿よ、 レオし』と、ふたりが岸へ飛びあがると、 あ、お待ちください』とあわててとめた。 ねのきち めぐ 『子之吉、いっかはまたきッと巡りあうであろう』 『いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この濠端 かた を、右にいってはいけません、お城固めの旗本屋敷が多いなか いなまるりゅうたろうそとばり へ入ったら袋のねずみです。どこまでも、ここから、左へ左へ 伊那丸と竜太郎が外濠をわたって、脱出したのを、やがて知 せき はままつじよう おって とすすんで、入野の関をこえさえすれば、浜名湖の岸へでられった浜松城の武士たちは、にわかに、追手を組織して、入野の せき ます』 関へはしつこ。 と - りようめい 『や、ではこの先にも関所があるか』 ところが、すでに二刻もまえに、蓑をきた両名のものが、こ いりの かいせんたつみこぶんじ 怪船と巽小文治 しカ广 みの わきざし みの いりの

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、新手新手と入『さては、またぞろ民部の策にのせられたか』 りかわる城兵におしくずされ、伊那丸がたは、どっと二、三町と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくる 馬 と、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに、目の前に 天ばかり退けいろになる。 州「それ、この機をはずすな』 あらわれた一手の人数。 神 とみずから、八角の鉄棒をりゅうりゅうと持って、まッ先に そのなかから、ひときわ高い声があって、 げんざん 『武田伊那丸これにあり、又八に見参 ! 』 立った又八、 とどろきしようかく - くや - 一 「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一味を『めずらしゃ轟、小角の娘、咲耶子なるそ』 みなごろしにしてしまえ』 「われこそは加賀見忍剣、いで、素ッ首を申しうけた』 と、千鳥を追いたつ大測のように、逃げるに乗 0 て、とうと と、耳をつんざいた。 すその う、裾野の平までくりだした。 轟又八は、田 5 わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の剛 りきあらきだごへえ 力、荒木田五兵衛は、忍剣に跳びかかって、ただ一討ちとな る。 手下の野武士は、敵の三倍四倍もあるけれど、こう浮足たっ てしまっては、どうする術もなかった。彼はやけ半分の眼をい からして、 『おう、山舞第一の強者、轟又八の鉄棒をくら 0 ておけ』 ぜんじよう と、忍剣の禅杖にわたりあった。 りゅう 童うそぶき虎哮えるありさま、ややしばらく、人まぜもせ せつか ず、石火の秘術をつくし合ったが、隙をみて、走りよった伊那 せん 丸が、陣刀一閃、又八の片腕サッと斬りおとす。 なぎなた よろめくところを、咲耶子の薙刀、みごとに、足をはらっ な て、どうと、薙ぎたおした。 又八が討たれたと見て、もう、たれ一人踏みとどまる敵はな 、道もえらばず、闇のなかをわれがちに、人穴城へ、逃げも どってゆく。 じぶん 時分はよしと、にわかに踏みとどまった小幡民部。 突然、采配をちぎれるばかりにふって、 『止まれッ ! 』 つ、 ) 0 と、 さん きびす 算をみだして、逃げてきた足なみは、びたりと踵をかえし すずめ て、稲むらにおりた雀のように、ばたばたと槍もろともに身を ふせる。 とどろき 『かかれツ、轟又八をのがすな』 『お , っッ』 こちょうじん たちまちおこる胡蝶の陣、かけくる敵の足もとをはらって、 らんり な 乱離、四面に薙ぎたおす。 やまがたったのすけたつみこぶんじ なかにも目ざましいのは、山県蔦之助と巽小文治のはたら おにめんとっこっさいなみきりうげんた き。見るまに、鬼面突骨斎、浪切右源太を乱軍のなかにたお じゅうおうむじん し、縦横無尽とあばれまわった。 ひ こばたみんぶ あらて つわもの すき た ふ わイ

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

まぐさ一一や うの馬糧小屋の焼け跡へすッ飛んでいった。 『いちじは曲者に追われて、あやういところであったそうだ がじろう か・ヘがえ しんじよ なんですッとんでいったかと思うと蛾次郎、そこでまだ、カが、ご寝所から壁返しのかくれ間へひそんで、やっとのがれた しり ゃあと よじん ま くせもの ッカと余燼の火の色がはっている焼け跡にお尻をあぶって、 という話、その間に運よく夜が明けましたゆえ、曲者たちは 『オオさむ、寒、寒、寒 ああ、あったけえ、あったけをこえて、いずこともなく逃げうせたそうで』 あいてがたしがい え、あったけえ』 『で、相手方の死骸は ? 』 歯をがたがたと鳴らしながら、凍りきった血をあたためて、 『それがふしぎ、なかには手負いや死んだ者もあったろうに、 ひと - 一こち 人心地を呼びかえすのだった。 逃げるときにもち去ったか、一つもさきの死骸がのこってな おやかた おううんだい し』 そこへひょッこり、親方の鼻かけト斎が、桜雲台の方からも くせもの くもくともどってきた。 『さりとは、いがけのよい曲者、いったい、それはどこの者で』 くろしようぞく ひ おなご げんじかく へつに声もかけない ド点はジロリと蛾次郎の顔を見たが、・ 『黒装束はみな緋おどし谷にいた若い女子、源氏閣へ斬りこん きくむらくない たけだいなまるみうちこがくれたつみ で、菊村宮内のいる火のそばへよりながら、 だ者は、武田伊那丸の身内、木隠、巽の両人とあとでわかっ くらま ちくどう 『定めしゅうべは、びつくりなすったであろう』 た。おお、それから鞍馬の竹童』 と話しかける。 『えツ、竹童も』 つる くない 『おどろきました。火事と思うと、すぐにあの乱入者の剣の音 宮内は久しぶりであの好きな少年を心にえがいた やかた でな。しかし、かくべつな事もなかったようで、まずお館にと そしてその竹童も、無事にこの館をやぶって逃げのびたとド だいなんしようなん みかた っては、大難が小難でなによりと申すものです』 斎に聞いて、敵でも味方でもないが、なんとなくうれしくおば ひ力い 「どうして、意外な被害なので』 えた。 にじいろひ 『ほウ . 』 虹色の陽が高くのばってきた。 きん′一く がいぶん 『いま、役人がしさいを書きあげているが、味方の斬りすてら近国へうわさがもれては外聞にかかわるというので、昨夜の かちゅう っ れた者二十四、五名、手負いは五十名をくだるまいとのことでさわぎはいっさい秘密にするよう、家中一統へ申し渡しがあ げんじかく ろうしよくいとうじゅうべえ み - きた、 ござった。その上、ご老職伊東十兵衛どのが、源氏閣の上からて、ほどなく、躑躅ガ崎一帯、つねの平静に返っていた。 かなやまめづけ いのべくまぞう もんぜっ ました かしんおううんだい 人袈裟斬りになって真下へ落ち、鉱山目付の伊部熊蔵どのも悶絶午後には、重なる家臣が桜雲台へ集ま「た。 ・ヘつじよう にちげんせつばく していたようなありさま、けれどもこれは命に別条なく助かり けれど、それはゆうべの問題ではなく、もう日限の切迫して 旅 ぶよう みたけ へいがくだいこうえ ながやす ましたが』 きた、御岳の山における兵学大講会の奉行を命ぜられた長安の の あるじおおくばながやす ひょう したじゅんびてくば 「ほウ、そんなに ? してここの主、大久保長安どののお身に下準備や手配りの評議。 - 一しよう ・一うしょはままっ ぐみほしかわよ は、なにごともなくすみましたかな』 その公書を浜松からもたらしてきたお小姓とんば組の星川余 や 0 こお みかた くせもの おも ひみつ てお ま たち とう ゅうべ イ 07

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

あわ くら ていた。それを見るとなるはど稀代な早足で、日ごろ彼が、胸哀れ竹童、組打ちならまだしも、駈け競べならまだしものこ か しらはま 快かさ に笠をあてて馳ければ、笠を落とすことはないと自慢しているとーーー真剣の白刃交ぜをするには、悲しいかな、まだそれだけ〃 馬 かかと わざ の骨組もできていず、剣をとっての技もなし、第一、腰に差し 天とおり、ほとんど、踵が地についているとは見えない。 おりかどむら ひるたけすそめ 竹童も、逃げに逃げた。折角村から蛭ガ岳の裾を縫って街道てる刀というのが、頼みすくない樫の棒切れだ。 ンドンドンドンかけだし 神にそって、足のかぎり、根かぎり、ド て、さて、 』と立ちどまり、ひょいとあ 『もうたいがい大丈夫だろう とをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろ へ追いついてきている。 『 ~ めッ』 えんさく またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、 「やあい、竹童。 いくら逃げてもおれの前をかけるのは無駄な こッたそ』 はややまめ 『おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな』 秋の水がつめたくなって、鮠も山魚もいなくなった今時分、 あしかわとろ さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふなにを釣る気か、一人の少年が、蘆川の瀞にむかって、釣り糸 えり たたび燕作の太腕が、竹童の襟がみをつかんで、ドスンとあおをたれていた。 むけギ、まにコしつくりかえした。 少年、年のころは十五、六。 かまなしがわ ていのう そこは、釜無川の下、富士川の上、蘆山の河原に近いところ すこし低能な顔だちだが、目だけはするく光っている。鳥の やまばかま である。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまし巣みたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた山袴をは だんねん つる て、手捕りにすることを断念した。そのかわり、彼はにわかに いて、腰には鞘のこわれを、あけびの蔓でまいた山刀一本さし みけん すごい殺気を眉間にみなぎらせ、 ていた めんどう るそんべえ 『面倒くせえ 、いッそ首にして呂宋兵衛さまへお供えするから 『ちえツ、釣れねえ釣れねえ、もうやめた ! 』 かんしやく 覚悟をしろ』とわめいた とうとう、癇癪を起したとみえて、いきなり竿をビシビシと どうちゅうざし あしかわ ひきぬいたのは、二尺四寸の道中差、竹童はぎよッとしては折って、蘆川のながれへ投げすてた。 みみたぶ せきれ、 ね返った。とすぐに、するどい太刀風が彼の耳朶から鼻ばしら 『あ、瀞の岩に鶺鴒が遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥 の辺をプーンとかすった。 うちだ、ひとつ小手しらべに稽古してやろうか』 きたい あしやま そな す とろ 石投げの名人 いしな っ さや めいじん かし さお じぶん っ

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

リと歯をむきながらそのあとから腰をかがめかけた。 しかし、竹童が締めたおされたのも目撃したし、その魁発な よわ - 一し てつじよう ようじん むび きゅうてき と、その弱腰へ、一本の鉄杖の先が、 妖人のすがたは、夢寐にも忘れていない仇敵である。 馬 『これ』と、かるく大いた なには措いても、見のがせないやっ ! 天 っえ 州かるく突いたが、くろがねの杖である。力を入れないようで『おのれ』 ほそむち かた 神も忍剣が突いたのである。 ふりつけてきた、銀の細鞭をかわしながら、なお、忍剣は片 手につかんだ黒衣の袖をはなさない。 かいこばーあ というなり蚕婆は、甲羅をつぶされた亀の子のように、グ 呂宋兵衛はぜったい絶命。 すそ みたけ シャッと幕の裾にへたばってしまった。 『御岳だ ! 』と、叫んだ。 にんけん かいこーーあ みたけ しんもんちか その陣幕をはらいあげて、忍剣は、蚕婆には見むきもせ御岳だぞといったのは、血を見るなかれの神文の誓いをふり いなずま ひき、 4 う ず、飛足を跳ばしておどりこむなり、稲妻のように次のとばりまわして、卑怯に相手をためらわそうとしたものである。 そで ようぞく の間へ、チラと逃げこんだ黒衣の袖を、グッとっかんだ。 『だまれ、妖賊』忍剣は耳もかさない。 あくパテレンるそんべえ 『悪伴天連呂宋兵衛、待て ! 』 ひきもどそうとする力、逃げこもうとする力、とうぜん、べ そで リッと黒衣の袖がほころびた 四 ちぎれた布の一片は、忍剣の手につかまれたまま、よろよろ とまめ・ のまく 『よア」ッ と二、三歩よろけたが、野幕の帳のあいだなので鉄杖のあっか くろひょう というと銀の鞭が、びゅッと、忍剣の腕をつよく打ちかえし いも自由にゆかず、みすみす、黒豹のように逃げこんでゆくう てきた。 しろ姿に、 まさしく和田呂宋兵衛である。にがしてはならない。忍『待て、待て』 剣はそう思った。 と叫びながら、手に残った黒い布をほうり捨てると、そのは みようねんりよく じつをいうと、かれがここへ馳けつけてきたのは、山県蔦ずみに妙な粘力を腕に感じたので、思わず、オヤとふりかえる のすけ かた 之助の遠矢の北がなんとも、ふしんな負けかたであり、解しと、その肩さきへ、 いったん地にすてた黒布がフワッと勢いよ けんしよういっか かねる点が多々あるので、徳川方の勝ちと叫んだ検証の一火やく跳びついてきた。 ひとくじよう 目付役の者に、一苦情持ちこむため、いきおいこんで馳けだし 『やッ』と、肩をすかした。 くびたま てきたのだ。 その首ッ玉をおどりこえて、目の前へ、軽業師のようにモン よかん もとより、ここで呂宋兵衛と出会おうとは、夢にも予感をも トリ打ったものを見ると、どうだろう、思いがけない、まッく からすねこ んよくくさり じか たないのだった。 ろな烏猫、くびわに銀玉の鎖をかけ、十字架をつけているでは めつけやく じんまく ひそく と すんむち たた わだるそんべえ こうら か かめ やまがたった て お ぬの し そで ぜっめい ぬの くろめの かるわざし てつじよう いキ、お イ 60

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

女 少 笛『何者 ? 』 樺鉄杖をおさめて、忍剣が廂の上をふりあおぐと、声におうじ そうかん て、ひとりの壮漢が、 じゅし 『巽小文冶ーー』 『豎子 ! まだ忍剣の鉄杖のあじを知らぬな』 と名乗りながら、ひらりと上からとび下りてきた。 「うぬ、その舌の根を ! 』 みかづき とさけびながら佐分利五郎次、三日月のごとき大刀をま 『なんだ小文治どのか、よけいなことをする男じゃ』 っ向にかざして、加賀見忍剣の脳天へ斬りさげてくる。 『でも、あやうく逃げる様子だったから』 よわむしゃ 『おお』 『だれがこんな弱武者一びき、鉄杖の先からのがすものか』 ゅうゆう 『はやまって、失礼申した』 悠々、右にかわして、さッと鉄杖に寸のびをくれて横にな ぐ。あな とおもえば佐分利も一かどの強者、ばんと跳んで『いや、なにもあやまることはござらぬよ』 と忍剣は苦笑して、先に打ちたおした黒衣の影武者をのそい 空間をすくわせ、 くし早、 『ウム、えィッ』 たが、呂宋兵衛の偽者と知って舌打ちする。小文治は敵を串刺 しにして、大樹の幹につき立った槍をひき抜き、穂先の刃こば と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン , と二度三度、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利のれをちょっとあらためてみた。 こがくれやまがた 『して、小文治どの、木隠や山県などはどうしたであろう』 大刀は、氷のかけらが飛んだように三つに折れて鍔だけが手に ま 『童太郎どのは表口から奥の間へはいって、呂宋兵衛のゆくえ のこった。 ったのすけ しそん とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をプンをたずね、蔦之助どのは、弓組を四町四方に伏せて、かれらの 仕損じたり めんじよう きびす と忍剣の面上目がけて投げるがはやいか、踵をめぐらして、一逃げみちをふさいでおります』 しんべんしざい 、こ神変自在な呂 『ウム、それまで手配がとどいておれ、 散に逃げていく。 時こそあれ、 宋兵衛でも、もう袋のねずみ同様、ここよりのがれることはで から おくじようきあ : この井戸はどうやら空井戸らしい、念のため きまいオカ : 『えーイツ』とひびいた屋上の気合。 しゅやり にこ、つしてやろ、つ』 屋根廂からななめさがりに、びゅッと一本の朱槍が走って、 そで ころも 逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや、 法衣の袖をまくりあげた忍剣、一抱えもある庭石をさしあげ しようし て、 ドーンと、井一尸そこへほうりこむ。それを合図に、あとか 笑止、かれを串刺しにしたまま、欅の幹に縫いつけてしまった。 ら駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げ こんだので、見るまに井戸は完全な石理めとなってしまった。 ところへ木隠童太郎が、うちのなかから姿をあらわして、 『オオ、ご両所、ここ ' 『ゃあ、童太郎どの、呂宋兵衛の在所は』 びさし ・一おり くし早、 てつじよう せ ひさし のうてん けやき つわもの つば と たつみ にせもの ありか かか は 783

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

かんどうもん これ、大手一の門二の門三の門、人穴門、水門、間道門の四『こっちで攻めだす用意をしているのに、・ とこまでもおれに楯 てはい ふつごう つのロ、すべて一時に護るための手配。いうまでもなく出門はをつく不都合な丹羽昌仙。軍師といえどもゆるしておいてはく あいず げんきんむだんもちば せになる』 厳禁。無断持場をうごくべからずー : 、の軍師合図。 やぐらばん であい 恐ろしい血相で、望楼の登り口へかけよってくると、出合が さらに、櫓番へ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎ えんさく ゅうゆう の町人であった、燕作という者をよびあげ、かねて用意しておしらに、上から悠々と昌仙がおりてきた。 ろうじよ・フ いたらしい一通の密書をさずけた。 『おお轟、籠城の用意は手ぬかりなかろうな』 かしら そして口ぜわしく、 「だまれ。いっ頭領から籠城の用意をしろとおふれがでたし すその したく ず。ずかも、夜が明けしだいに、 裾野へ討ってでる支度のさいちゅう 『これを一刻もはやく羽柴秀吉どのにわたしてこいぐく さんみ、、 だわ』 いたしておると、この山寨から一歩もでられなくなる。すぐい したく るそんべえ けよ、なんの支度もしていてはならんぞ』 『ならぬ ! 呂宋兵衛さまから軍配を預っている、この昌仙が と、 ししっし さようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけること えんさく だてん 燕作は、野武士の仲間から、韋駄天といわれているほど足早まかりならんそ』 ふか どうもん しようせん 『めくら軍師ツ。、 力しらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、洞門を な男。頭をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじ おさめ、 閉めてしまってどうする気だ』 きとう 『今にみよ、祈蒋にでたものはちりぢりばらばら、呂宋兵衛さ 「へい、承知いたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の 合戦ののち、いったいどこのお城にお住いでござりましようまも手傷をうけて命からがら立ちかえってくるであろうわ』 そんなことがあってたまるものか』 おうみ あずち と又八が大口をあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈 「近江の安土か、長崎の城か、あるいは京都にご滞在か、まず とう あすけもんどのしよう 疇の列に加わっていった足助主水正と佐分利五郎次などが、さ この三つを目指しておけ』 ちしお がってん 『合点です。では んばら髪に、血汐をあびて逃げかえってきた。 いだてん と立って、クルリとむきなおるが早いか、韋駄天の名にそむ『やア、その姿は 今もいまとて、強情をはっていた轟又八、目をみはってこう 作かす、飛鳥のように望楼をかけおりていった。 さけぶと、裾野から逃げかえってきた者どもは声をあわせて、 かしら の 『一大事、一大事。まんまと敵の計略におち入って、頭領のご じめいしよう あおすじ 足 ふいに自鳴鉦を聞いた轟又八は、青筋をかんかんに立てて生死もわからぬような総くずれーーー』 早りつぶく 立腹した。 つづいて逃げてきた手下の口から、 ばうろ、フ とどろき すま たいざい し てきず たて

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

神州天馬快 『な、なんといわるる ! 』 がくぜん 四人は、愕然として空を見あげた。 『咲耶子どの、その呂宋兵衛は、ただいま小文治どのがこれに て生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう』 『いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそ せむい ういありませぬ。オオ、施無畏寺の境内へかくれようとして様 子をうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられ ませぬ』 しらかばこずえ 咲耶子は、笛を帯にたばさんで、スルスルと白樺の梢から下 てがら りてしまっこ。 山県蔦之助も、さっきの笛合図と、小文治の手柄名乗りをき いて、弓組のなかから一散にそこへ駈けつけてきた。 「や、ことによると此奴も ? とうゆう でかした小文治ーーーと、党友の功をよろこびつつ、忍剣も童 忍剣は、さっき空井戸で打ちころした影武者を思いおこし えり 太郎も、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治て、黒衣の襟がみをグイとっかんだ。と同時に、その顔をのぞ きこんで竜太郎も、おもわず声をはずませて、 は、黒衣の大男を組みふせて、あたりの藤蔓でギリギリとしば ばんじん - 一うもうへきどう りあげているところだ。 『はてな、呂宋兵衛は蛮人の血をまぜた、紅毛碧瞳の男である みごと おお、見事やったな』 はずだが、こりや、似ても似つかぬただの野武士だ、ウーム、 蔦之助と竜太郎があおぐように褒めそやす。忍剣はちょっとさてはおのれ、影武者であったな』 ざんねんがって、 『ええ、ざんねんッ』 どきしんとう たつみ 『どうも今日は、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわ 怒気心頭にもえた巽小文治、朱柄の槍をとって、一閃に突き とう てがら ころし、いまあげた手柄名乗りの手まえにも、当の本人を引っ がけ と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。 とらえずになるものかと、無二無三に崖上へのばりかえした。 しらかば しじゅう すると、白樺のこずえの上にあって、始終をながめていた咲 一足さきに、白樺を下りて、追いすがった咲耶子は、いまし 耶す か、にわかに優しい声をはって、 も権無寺の境内へ、ツウとかくれこんでい「た黒衣のかげを つけて、 『あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま ! 上の手うすに乗じて、 和田呂宋兵衛が逃げのばりましたぞ、はやくお手配なされま 『呂宋兵衛、呂宋兵衛ーー』 と二声よんだ。 やまがたったのすけ るそん・ヘえ レ」、つ 多宝塔 た ふじづる あかえ せん ノ 86

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ちょうど、夜逃げの二人が、人無村のはずれまできた時、 なかに、目立つは一人の将、漆黒の馬にまたがって、身には ぶう * 、い しらさや よろい かしらかぶと ノ風斎がふいにビタリと足をとめて、 鎧をまとわず、頭に兜をかぶらず、白の小袖に、白鞘の一刀を むちすその 『はてな ? 帯びたまま、鞭を裾野にさして、いそぎにいそぐ と、耳をそばだてた。 『あ、あの人は見たことがあるぜ』 『な、なんです親方』 物かげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくっ 『だまっていろ : ・・ : 』 たが、ふと気がついて、 しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなか 『そうだ、そうだ』とばかり、あとからつづく人数のなかにま ひづめ から、とう、とう、とうーーー・と地をひびかせてくる軍馬の蹄、ぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして、越前落ちの途 おびただしい人の足音、行軍の貝の音、あッと田 5 うまに、三、中から、もとの裾野へ逃げてもどってしまった。 あらし だぎようじん 四百人の蛇形陣が、嵐のごとくまっしぐらに、こなたへさして『おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくる くるのが見えだした。 わ。この一時こそ、一期の大事、息もっかずに、いそげいそ ノ風斎は、ぎよっとして、さけんだ。 がじろう な ) - うばく 『蛾次郎、蛾次郎、すがたを隠せ、早くかくれろ』 人無村をかけぬけて、渺漠たる裾野の原にはいると、黒馬の 『え、え、え ? なんです。親方親方』 寺は、鞍のうえから声をからして、はげました。雨ガ岳の火は ノカぐず ! 見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿まだ赤々ともえている。 をけせ』 『敵 ! 』 『ど、どこへ消えるんで ? 『敵にツー・』 と、不意のできごとに、蛾次郎は、度をうしない、まだうろ『討て ! 』 うろしているので、八風斎は、『えい面倒』とばかり、彼をも と、俄然、前方の者から声があがった。四、五間ばかりの小 せんばうないとうきよなり のかげに突きとばし、自分はすばやく、かたわらの松の木へ、 石河原、そこで端なくも、徳川家の先鋒、内藤清成の別隊、四、 しようとっ するするとよじ登ってしまった。 五十人と衝突したのである。 から やみ あんたん 暗憺たる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、槍の折れる音 隊二人が、辛くも、すがたを隠したかかくさないうちである、 うしお 八風斎の目のしたへ、潮の流れるごとき勢いで、さしかかってや人のうめきがあったのみで、敵味方の見定めもっかなかった だよう だようじん きた蛇形の行軍、その人数はまさに四百余人。みな、一ようのが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣は、ふたたび一 じんがさこぐそくてやりめきみ せんじん 、んか 陣笠小具足、手槍抜刀をひっさげて、すでに戦塵を浴びてるよ糸みだれず、しかも足並みいよいよはやく、人穴城の山下へむ つ、 ) 0 うなものものしさ。 くら ひととき わ 7