野武士 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
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1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

武士だった。 ふえね こみち なまる 『や、どこかで笛の音がするぜ : : : 』 『しまった』と伊那丸はすぐ横の小道へそれていったが、そこ ふじ そういったものがあるので、一同はびたと足なみをとめて耳 にも茨のふさぎができていたので、さらに道をまがると藤づる りようりよう なわ の繩がある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。がをすました。なるほど、寥々と、そよぐ風のとぎれに、笛の かんん くもで、、、 のぶしじゅっちゅう じきゅう 事休すーー・伊那丸は完全に、蜘蛛手かがりという野武士の術中冴えた音がながれてきた。 さくやこ わな 『ああ、わかった。咲耶子さまが、また遊びにでているにちが におちてしまったのだ。身に翼でもないかぎりは、この罠から のがれることはできない。 十′し、か、、レ」 『そうかしら ? だがあの音いろは、男のようじゃよ、 『そうだ、野武士らの手から、織田家へ売られて名をはずかし じがい んなやつが忍んでいるともかぎらないからゆだんをするな めるよりは、、 しさぎよく自生ロしよ、つ』 はやし と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすよ』 わき早 - し とたがいに警めあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなた わりこんで、脇差を右手にぬいた。 がみ つきげのうま たもと 切っさきを袂にくるんで、あわや身につきたてようとしたとの草むらから、月毛の野馬にのったさげ髪の美少女が、ゆらり ふんどう きである。プーンと、飛んできた分銅が、カラッと刀の鍔へまと気高いすがたをあらわした。 一同はそれをみると、 きついた。や ? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、 さくやこ こずえ 『おう、やつばり咲耶子さまでございましたか』 スルスルと梢の空へまきあげられていく。 ふし と荒くれ武士ににげなく、花のような美少女のまえには、腰 『不思議な』と立ちあがったとたんに、伊那丸は、ドンとあお わな むけに倒れた。そしてそのからだはいつの間にか罠なわのなかをおって、ていねいにあたまをさげる。 『じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えた につつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。 すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八方からすかえ ? 』 と駒をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろした がたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくに縛りあげ すその が、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの眉をち て、そこから富士の裾野へさして追いたてていった。 らりとひそめながら、 名 ようさん 大 『まあ、そのおさない人を、仰山そうにからめてどうするつも 山 でんないひょうた の里も幾里ものあいだ、ただ一面に青すすきの波である。そりです。伝内や兵太もいながら、なぜそんなことをするんで 士の一すじの道を、まッくろな一群の人間が、いそぎに、いそい でいく。それは伊那丸をまン中にかためてかえる、さっきの野と、とがめた。名をさされたふたりの野武士は、一足でて、 て つばさ つば

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

イ第をーのヾ 水火陣法くらべ も髴 1 あしたっゅ 月の夜には澄み、朝は露をまろばせても、聞く人もないこの ふえ 裾野に、ひとり楽しんでいる箝は、咲耶子が好きで好きでたま らない横笛ではないか。 ゅうが つるぎ しかし、その優雅な横笛は、時にとって身を守る剣ともな り、時には、猛獣のような野武士どもを自由自在にあやつるム チともなる。 おか 今しも、小高い丘の上にたって、その愛箝を頭上にたかくさ ひとみ さげ、部下のうごきから瞳をはなたずにいた彼女のすがたは、 めがみ けしん 地上におりた金星の化身といおうか、富士の女神とたとえよう うるわ よ、つ か、丈なす黒髪は風にみだれて、麗しいともなんともいし くちびるも ふいに、彼女の唇を洩れたかすかなおどろき。 ひとみ その眸のかがやくところをみれば、今が今までしどろもどろ に乱れたっていた、穴山梅雪の郎党たちは、一人の武士の飛配 を見るや、たちまちサッと退いて中央に一列となった。 だよう それは民部の立てた蛇形の陣。 まゆ 咲耶子はチラと眉をひそめたが、にわかに右手の笛を、はげ なめ しく斜めに振って落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあ もうゆう とみた野武士の猛勇は、ワッと声海嘯をあげて、蛇 形陣の腹背から、勝にのって攻めかかった。 りゅう そのとき早く、ふたたび民部の采配が、竜を呼ぶごとく颯と だきよう こつねん うごいた。と見れば、蛇形の列は忽然と二つに折れ、前とは打 すその たけ さくや - 一 つなみ さっ

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

し おうがた 。しよいよ地にもぐる ってかわって一糸みだれず、扇形になってジリジリと野武士の作戦に翻弄されつくした野武士たちょ、、 侠たいご か、空にかけるのほか、逃げる路はなくなってしまった。 隊伍を遠巻きに抱いてきた。 こえ ひちょう 馬 かくよくけいりやく と、咲耶子のいる丘の上から、悲調をおびた笛の音が一声高 天『あツ、いけない。あれはおそろしい鶴翼の計略』 さくやこ く聞えたかと思うと、今までワラワラ逃げまどっていた野武 州咲耶子はややあわてて、笛を天から下へと振って振って振り こつねん 士たちの影は、忽然として、草むらのうちに隠れてしまっ 神ぬいた しようそっ ちまなこ それは退軍の合図であったと見えて、いままで攻勢をとってた。胆をけした穴山一族の将卒は、血眼になって、草わけ、ト うしお た野武士たちは、一度にどッと潮のごとく引きあげてきた様川の縁をかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたら のわき みんぶさいは、 子。が、民部の采配は、それに息をつく間もあたえず、たちまず、ただ一面の秋草の波に、野分の風がザアザアと渡るばか ほんりゅう しやきゅうじん ち八射の急陣と変え、はやきこと奔流のように、追えや追えやり。 おか 狐につままれたようなうろたえざまを、丘の上からながめた と追撃してきた。 咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ微笑をも 『オオ、なんとしたことであろう』 ・一ちょう あまりの口惜しさに、咲耶子はさらに再三再四、胡蝶の陣をらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。 ほのお 『咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないそ』 立てなおして、応戦をこころみたが、こなたで焔の陣をしけ そんご けしん りんとした声が、どこからか響いてきた。 ば、かれは水の陣を流して防ぎ、その軍配は孫呉の化身か、 きりやくじゅうおうみよう くすのき 楠の再来かとあやしまれるほど、機略縦横の妙をきわめ、手『え ? 』 こ、ヒラリとおどりあがってき 思わず目をみはった彼女の前ー 足のごとく、奇兵に奇兵を次いでくる。 たのは、いつのまにここへきたか、さっきまで采配をとって敵 さすが胡蝶の陣に妙をえた咲耶子も、今はほどこすに術もな せいえいむひ くなった。精鋭無比な彼女の部下の刃む、今は次第次第に疲れ陣にすがたをみせていた小幡民部であった。 『 ~ めッ』 てくるばかり。 はず さすがの彼女もびつくりして、止のあなたへ走りだすと、そ 『それツ、この機を外すな ! 』 ろうじ の前に、四天王の佐分利五郎次が、八、九人の武士とともに、 『いずこまでも追って追って追いまくれッ』 すその ねだ こ。、ツと思って横へまわれば、 槍ぶすまをつくってあらわれオノ 『裾野の野武士を根絶やしにしてくれようぞ』 とき ろうどう いのこばんさくあすけもんどのしよう 穴山の四天王猪子伴作、足助主水正、その他の郎党は民部がそこからも、不意にワーツと鬨の声があがった。うしろへ抜け ちやり 神のごとき采配ぶりにたちまち頽勢を盛りかえし、猛然と血槍ようとすればそこにも敵。 めんそか 今はもう四面楚歌だ。絶望の胸をいだいて、立ちすくんでし をふるって追撃してきた。 なぎなた 西へ逃げれば西に敵、南へ逃げれば南に敵、まったく民部のまうよりほかはなかった。とみる間に、丘の上は穴山方の薙刀 きつね へり ほんろう

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

わだるそんべえ そ』 おけ、いま、天ガ丘の南蛮寺を支配する、和田呂宋兵衛さまの しれもの みうちびとおのだいくろう 『酔いを醒ませ、この白痴者 ! ここをいずこと心得ておるの身内人、斧大九郎とは拙者のことだ』 馬 るそん・ヘえ 『やツ、呂宋兵衛 ? 天た』 むらさきの 州『オオ、ここは紫野の今宮神社、八神殿と心得ておる。それが と、六部と若僧と目ばやくうなずき合って、 るそん・ヘえ てした 神一たいどうしたのだ』 『うむ、呂宋兵衛の手下ときけばなおのこと ! 』 なまよ ほんしよう 早 - むらい 『ははは。生酔い本性にたがわずだ。この・ハカ侍ども、よく 『なおのことどうしたツ』 ひもと か 聞けよ。それ、日の本の武士たるものよ、号 。号きをあわれみ、カ いきり立って駈けあがってきたやつを、グイと右手で猫づか しんぶつ なき者を愛し、神仏をうやまい、 、いやさしく、みだりに猛きをみにつるしあげた若僧、 もんどうむよう あらわさず、知をもって、誠の胸とするのが、真の武士という 『問答無用 ! こうしてやる』 ものーーー』 すこし力を入れたかと、思うと、ふわりと宙へおよがせて 、、と ぜんじようゆか かんむりざくらねこぶ 色白な若僧が、右手の禅杖を床へついてから、喩したが、そ冠桜の根瘤のあたりへ、エェッ、ずでーんと気味よくもたた んなことに、耳をかす彼等ではない。 きつけた。 『エ工、ロがしこいことを申すな。われわれをただの浪人者と 『 , っぬッ』 思いおるか。おそれ多くも、羽柴どのよりお声がかりで、天ガ と、また飛びついてきたやつは、待ちかまえていた六部が、 なんばんじ あてみ 丘一帯の取りしまりをなす、南蛮寺の番士だぞ』 気合をかけた当身のこぶしで、顎をねらってひと突きに、突き 『だまれツ、番士であろうと秀吉自身であろうと、民をしいた とばす . 。 えびぞ げ、神をけがするなど、天、人ともにゆるさぬところじゃ』 なにかたまろう、ウームというと蝦反りになって、階段の中 かんむりざくら 『ゆるすゆるさぬはこっちのことだ。南蛮寺へことわりなし途からデンとおちる。それも、冠桜の根ッこのやつも、神罰 に、ぎようぎようしい祭や踊りをなすゆえに、この神主へかけ覿面、血へどを吐いてたおれたままとなってしまった。 あいにまいったのが悪いか。ゃい、邪魔だツ、そこをどかぬ『わーツ、わあッ よろこ かぐら やおよろず と、うぬらも血まつりにするぞ』 と、かなたで喜ぶ群集の声々、八百万の神々も神楽ばやしの きよう 『きさまたちのいい分は腑におちぬ。秀吉ほどな人物がさようように、興じ給うやと思われるばかりに聞える。 さた のう るそんべえぶか おのだい な沙汰をするはずがない。アアわかった、主もなし能もなし 自分たちから、南蛮寺にある呂宋兵衛の部下と名のった芹大 のぶし くろう に、かようなことをして、良民をくるしめ歩く野武士だな九郎、それを見ると、かッと逆上したていである。ひっさげて もろな ッ いた大刀を下からはらいあげて、二人の足を、諸薙ぎにせんず のぶし 「野武士とは無礼なことを申すやつ。耳をかッばじって聞いて勢いで、またかかってきた。 しんでん ばんし しゅ たみ たけ てん てきめん せっしゃ あご ちゅう しんばっ 238

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ようてん 山梅雪入道は、馬からおちんばかりに仰天したが、あやうく鞍かりにも、乗物の上へ、土足で跳びあがった罪ーーゆるし給 ねん つばに踏みこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、 えーーと民部は心に念じていたが、とは知らぬ梅雪入道、ちら ひ 『退くな。たかの知れたる野武士どもが何はどそ、一押しに揉とこの態をながめるより、 きてん しんざんたみぞう みつぶせやッ ! 』 『お、新参の民蔵であるな、いつもながら気転のきいた奴 : : : 』 ろうどう と、うろたえさわぐ郎党たちをはげました。 と頼もしそうにニッコリとしたが、ふとまた一方をかえりみ はたもと 音にひびいた穴山一族、その旗下には勇士もけっしてすくなて、たちまち顔いろを変えてしまった。 あまのようぶさぶり ろうじ いのこばんさくあすけもんどのしよう くない。天野刑部、佐分利五郎次、猪子伴作、足助主水正など は、なかでも有名な四天王、まッさきに槍の穂をそろえておど さくやこ りたち、 咲耶子が振った横笛の合図とともに、押しつつんできた人数 ろう 「お , フッ』 はかれこれ七、八十人、それに斬りむかっていった穴山方の郎 - 一ちょう どう そう と、吠えるが早いか、胡蝶の陣の中堅を目がけて、無二無一一一党もおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、双 うごかく につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、 方互角の対陣であった。 うごうやっ 『それツ。烏合の奴ばら、一人あまさず討ってとれ』 しかし、一方は勇あって訓練なき野武士のあつまり。こなた ぐそく あられ なぎなた と、具足の音を霰のようにさせ、槍、陣刀、薙刀なんど思い は兵法のかけ引、実戦の経験もたしかな兵である。梅雪入道な えもの おもいな獲物をふりかざし、四方にパッとひらいて斬りむすんらずとも、当然、勝ちは穴山方にありと信じられていた。とこ ろが形勢はガラリとかわって、なにごとぞ、四天王以下の面々 - 一ちょう へんげじ 『やや一大事 ! 誰ぞないか、武田伊那丸の駕籠をかためてい は名もなき野武士の切ッ先にかけまわされ、胡蝶の陣の変化自 うきあし げんわく た者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがっか在の陣法に眩惑されて、浮足みだしてくずれ立ってきた。と見 ぬぞッ』 るや、怒りたった入道は、 ふが たちまちの乱軍に、梅雪入道がこうさけんだのももっとも、 『ええ腑甲斐のない郎党ども、このうえは、梅雪みずから蹴散 だいじ 大切な駕籠はほうりだされて、いつの間にか、警固の武士はみらしてくれよう ! 』 そば たづな 両の手綱を左の手にあつめ、右手に陣刀をふりかざしてあわ べなその側をはなれていた。 ら『、い得てござります』 や、乱軍のなかへ馬首をむけてかけ入ろうとした。とそのとき、 法 いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいのーー伊那丸が 『しばらくしばらく、そも我が君は、お命をいすこへ捨てにい 陣 くさりかご 火おしこめられてある鎖駕籠の屋根へ、ヒラリととびあがって八 かれるお心でござるか ! 』 こばたみんぶ 方をにらみまわした者は、別人ならぬ小幡民部であった。 声たからかに呼びとめた者がいる た かご くら も 0

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

、 - き きよう ゆだんするなツ』 を槍のとッ尖にさしていくのも一興だろう。それツ、この虫け いなまる いうもおそし、その伊那丸は、いきなり横あいの草むらからを踏みつぶしてしまえッ』 馬 こがくれりゅうたろう ろうぐん ら、・ハラバラとおどりだして、木隠竜太郎とともに刀のこじり 天 剣をはらって、うしろの狼軍をケシかけようとすると伊那丸 るそんべえ 州をはねあげ、呂宋兵衛の前へぬッくと立った。 の声が、またひびいた。 神『野武士ども待て、しばらく待て、むりにおし通らんとすれ『ひかえろツ、雑人ども ! 』 きざんだいこじたけだしんげん ば、命がないそ』 機山大居士武田信玄の孫、天性そなわる安容には、おのずか 『おツーー、おのれは武田伊那丸に童太郎だな。秀吉公の威勢をら人をうつものがあるか、こういうと呂宋兵衛にしたがう山犬 ふてき もおそれす、都へ入りこんでくるとは、不敵なやつ。この呂宋武士ども、おもわず耳の膜をつン抜かれたように、たじたじと てなみ すその 兵衛の手並にもこりず、わざわざ富士の裾野から討たれにきた して、われ一番にと斬りつける者もない。 ゅうよ ・カ』 、相手はわずか二人か三人、なにを猶予しているの ひる 内心、胆をつぶしながらも、怯みを見せまいとする呂宋兵衛 だ、ふくろづつみにして、そッ首をあげちまえッ』 ばんおん どごう は、蛮音をはりあげて、刀へ手をかけた。 呂宋兵衛が怒号したとたんに、ズドンツー と一発、つづい しようえん 『やかましいッ ! 』と、木隠童太郎。 てまた一発のたま ! シュッと、硝煙をあげて伊那丸の耳をか わかみ ちちうえかっ 『はるばる、若君がここへ、お越しあそばしたのは、お父上勝する より - 一う くさりか 1 一 わかみとびどうぐ 頼公をお迎えにまいったのだ。その鎖駕のうちに、お身をひそ『おツ、若君、飛道具のそなえがありますそ』 めたもうおん方こそ、まぎれもなき勝頼公と見た。呂宋兵衛、 『なんの ! 』 しんみよう 神妙に渡してしまえ』 と、武田伊那丸、小太刀をぬいて、身をおどらせ、目ざす呂 『なにを、ばかな。いかにも鎖駕のうちには、これから桑名の宋兵衛の手もとへとびかかった。 レつりトよノ ご陣屋へ護送するひとりの落武者が入れてある ! だが好くき 『それツ、頭領をうたすな』 ひとあなじよう なん けよ ! おれも人穴城にいた野武士とちがって、いまでは、南 と、なだれてくるのをおさえて、木隠竜太郎はかれが得意の しゅ 1 一 ばんじ 力しとう 蛮寺を守護する羽柴家の呂宋兵衛だぞ。なんで勝頼をうぬらの戒刀をぬいた。 たちまち、前後の四、五人を斬りふせつ くさりか 1 一 手にわたすものか』 つ、かの鎖駕のてまえまで走りよった。 にんけん 「渡さぬとあらば、なお面白い。木隠童太郎や忍剣が力をあわ と ! , 、駕の屋根にはさっきから、一人の老野武士が立ってい なんじ んぞうがんたんづっ せて、汝らを、この松並木のき肥にしてくれる』 た。その上から、銀象嵌の短銃をとってかまえ、いましも、三 かたはら つつぐち 『わはははは、片腹いたしいいぐさを聞いちゃいられねえ。オ度目の筒口に、伊那丸の姿をねらっていたが、童太郎が近づい だちん オ ! めんどうだが、桑名へのいきがけの駄賃にうぬらの生首たのをみると、オオ ! とそのつっ先を向けかえた。 く、 - りか′一 ごえ るそんべえ 0 か一一 てんせい 266

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

じよ、つ 咲耶子がただ一人、社前の大楠の切株につっ立ち、例の横笛見る、三千丈の銀河が、ななめに夜の富士を越えて見える。 を口にあてて、音もさわやかに吹いているのだった。 『グウー、グウ、グウーグウ : : : 』 竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていた そのなかで、竹童ばかりが、鷲の翼を羽根ぶとんにして、さ すその らしいが、まもなく、笛の音が裾野の開へひろがっていくと、 もいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。 あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた野武士のか げ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえ せいれつ 冫整ダしたのにはびつくりしてしまった。 咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。 そしてしすかに伊那丸の前へきて、 しようカく 『この者たちは、、 しずれも父の小角につかえていた野武士でご ざりますが、今日まで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、 るそんべえ 折があれば呂宋兵衛をうって仇をむくいようとしていた忠義者 でござります。どうか今宵からは、わたくしともどもに、お味 方にくわえて下さりますよう』 まさに、夜は子の刻の一天。 伊那丸は満足そうにうなすいた 人穴の殿堂をまもる、三つの洞門が、ギギーイとあいた えんえん と、そのなかから、焔々と燃えつつながれだしてきたのは、 時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、小幡民 たいまっ ほのお 部の軍配のうえにおいても、たいへんな違いであった。 半町もつづくまっ赤な焔の行列。無数の松明。その影にうごめ ましてや、今ここに集められたほどの者は、みな平生から、 、野武士、馬、槍、十字架、旗、すべて血のように染まって - 一ちょう じん きた 咲耶子の胡蝶の陣に、練りにねり、鍛えにきたえられた精鋭そ見えた。 なかでも、一丈あまりな白木の十字架は、八人の手下にゆら なんばんにしきじんばおり かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火ゆらと支えられ、すぐそばに呂宋兵衛が、南蛮錦の陣羽織に身 ようよ・つ や 卩を消し、太刀の音をひそませ、箭づくり、刃のしらべはいうまをつつみ、白馬にまたがり、十二鉄騎にまもられながら、妖々 っゅ のでもなく、馬に草をも飼って、時刻のいたるをまちわびて、 と、裾野の露をはらっていく。 すすむこと二、三里、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛 隠る 人待つほどに史くるほどに、夜はやがて三更、玲瓏とさえかえは馬からひらりと降り、二、三百人の野武士を指揮して、見る びしようせい った空には、微小星の一粒までのこりなく研ぎすまされ、ただ まにそこへ壇をきすかせ、十字架を立て、かがり火を焚いて、 * 、くや - 一 0 おおくすのき あだ と こばたみん すその まじんおん芋よういん 魔人隠形の印 どうもん わし てつき

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

『おのれッ』 といいざま、真眉間をわりつけた。野武士どもは、それッ 1 『だれだツ。何をするーー』 だいとう なまる 馬 こだち と、大刀をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。 とその隙に、小太刀をかまえて、いいはなった伊那丸には、 つつじ さきやかた ぶぎ てんせい 武技にかけては、躑躅ガ崎の館にいたころから、多くの達 州幼いながらも、天性の威があった。 てんさいじ じん、、、、 神あなたに立った大男はひとりではなか「た。そろいもそろつ人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな天才児とまで、お かわどうふく つるまきだいとう た荒くれ男ばかりが十四、五人、蔓巻の大刀に、革の胴服を着どろかれた伊那丸である。からだは小さいが、太刀は短いが、 ひちょう たちまち一人二人を斬ってふせた早わざは飛鳥のようだった。 たのもあれば、小具足や、むかばきなどをはいた者もあった。 わっぱ のぶし らんせいうら 『この童め、味をやるそ、油断するな』 いうまでもなく、乱世の裏におどる野武士の群団である。 しらは なまる と、野武士たちは白刃の鉄壁をつくってせまる。その剣光の 『見ろ、おい』と、ひとりが伊那丸をきッとみて、 こだち なまる りんすそでひしもん 『綸子の袖に菱の紋だ。武田伊那丸というやつに相違ないぜ』あいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、斬りむすび、飛 あらし びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも嵐のなかにもまれる ちょうちどり ばくだいおんしよう 「うむ、ふんじばって織田家へわたせば、莫大な恩賞がある、蝶か千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてく たぜいぶぜい それに、多勢に無勢だ る。息はきれる。 うまいやつがひツかかった』 どぞく だいみよう ふじひとあな 「やいッ伊那丸。われわれは富士の人穴を砦としている山大名『そうだ、こんな名もない土賊どもと、斬りむすぶのはあやま つぶ たけだけ の一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかでりだ。じぶんは武田家の一粒としてのこった大切な身だ。しか みずそうしき もおおきな使命のあるからだ 水葬式にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはな おれ と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったの 、すなおに俺たちについてこい』 けつろ にんけん で、一方の血路をやぶって、一散ににげだした。 『や、では忍剣に矢を射たのも、そちたちか』 さんしよううおえじき にんけん 「のがすなツ』 『忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、山椒の魚の餌食にな と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸は芦の っているだろう』 まつなみき っちぐも ヒュッビュッレ J い、つ 洲からかけあがって、松並木へはしった。。 「この土蜘蛛・・ : : 』 伊那丸は、くやしげに唇をかんで、にぎりしめていた小太矢のうなりが彼の耳をかすって飛んだ まつなみ ゅうやみ タ闍がせまってきたので、足もともほの暗くなったが、松並 刀の先をふるわせた。 けんめ、 木へでた伊那丸は、懸に二町ばかりかけだした。 『さツ、こなけりやふんじばるそ』 もんじ と、これはどうであろう、前面の道は八重十文字に、藤づる と、野武士たちは、彼を少年とあなどって、不用意にすすみ すき み なわ の繩がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬける隙も でたところを、伊那丸は、おどり上って、 ち すき くちびる とりで ぐんだん さん たいせつみ ふじ たっ と

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

言 よう はたして、その日の午後になると、この部落へ、様な落 人穴城の火が、枯野へ燃えひろがって、一面の火ですよ、その かっこ かっせん ために、徳川勢と武田方の合戦は、両陣ひき分けになったかと武者の一隊がそろぞろとはいってきた。各戸の防ぎを蹴破っ するが 聞きましたが、人穴城から焼けだされた野武士は、駿河のほうて、 く、もの 『ありったけの食物をだせ』 へは逃げられないので、多分、こっちへ押しなだれてきましょ とし、ムり 『女老人は森へあつまれ、そして飯をたくんだ』 『えツ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって ? 』『村から逃げだすやつは、たたツ斬るそ』 うち じんや しよくりよう 『家はしばらくの間、われわれの陣屋とする』 『ほかに逃げ道もなし、食糧のあるところもありませんか ら、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみ好き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食物を取りあ げ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その家々へ、 なさん、わたしがここを通ったことは、その仲間がきても、 おおかみ 決していわないでくださいまし、では、先をいそぎますから飢えた狼のごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこん おおかみ と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだ 焼けだされた狼は、わずか三、四十人の隊伍であったが、な にせよ、武器をもっている命知らずだからたまらない。なかに かいこばばあ えんさく にわしようせん - 一うしん おいわけ るそんべえ そして、甲信両国の追分に立ったとき、右手の道を、いそい は、呂宋兵衛をはじめ、丹羽昌仙、早足の燕作、吹針の蚕婆 までがまじっていた。 でいく男のかげが先に見えた。 えんしようばくはぐれん あの夜、殿堂へ、煙硝爆破の紅蓮がかぶさったときには、さ 『ははあ、彼奴は、柴田の廻し者上部八風斎だな、これから北 しよう ノ庄へかえるのだろうが、とても、勝家の腕ではここまで手がすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その かんどう 伸びまい。やれやれご苦労さまな : 他のものとともに、例の間道から人無村へ逃げ、からくも危急 しなの 苦笑を送ってつぶやいたが、自分は、それとは反対な、信濃を脱したのであるが、多くの手下は、城内で焼け死んだり、の とら 早 - 力い たいまん 堺の道へむかって、足をはやめた。 がれた者も、大半は、徳川勢や伊那丸の手におちて、捕われて しまった。 城をうしない、裾野の勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちま 叱 とき ほうしの ひる やとう ほんしよう 法師野の部落は、それから一刻ともたたないうちに、昼ながち、野盗の本性にかえって、落ちてきながら、通りがけの部落 の きト - じよう しん きようばう 士ら、森としてしまった。たださえ兇暴な野武士が焼けだされてをかたつばしから荒らしてきた。そしてこれから、秀吉の居城 ざんぎやく あずち 心きた日には、どんな残虐をほしいままにするかも知れないと、 安土へのばって、助けを借りようという虫のよい考え。 おおかみれん きようふ 家を閉ざして、村中恐怖におののいている ころが、一しょにおちてきた可児才蔵は、こんな狼連につき と か きやっ かれの かんべ ぶうイ、い 0 きた すその ざいほう たい 1 一

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

よう ! う なまる 『えツ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる根城うなこの怪常な容貌にも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしか 0 となるのでございますか』 ひとあな ちくどう 呂宋兵衛は富士の人穴へきてから、たちまち小角の無二の者 ふかいわけはわからないが、竹童はそう聞いて、なんとなく なんばんじん いげんじ 胸おどり血沸いて、自分も、甲斐源氏の旗上げにくみする一人となった。彼の父が、南蛮人のキリシタンであったから、呂宋 キリシダン げんじゅっ イルマン 兵衛もはやくから修道者となり、いわゆる、切支丹流の幻術を であるように勇みたった。 きわめていた。小角はそこを見込んで重用した。 じゃあく しかし根が邪悪な呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって はいか 、んーう 謀をたくらみ、策をもって、小角を殺し、配下の野武士を手 なづけ、人穴の殿堂を完全に乗っ取ってしまった。 * 、くや - 一 小角のひとり娘の咲耶子は、あやうく父とともに、かれの毒 手にかかるところだった、節を変えぬ七、八十人の野武士もあ すその って、ともに裾野へかくれた。そしていかなる苦しみをなめて も、呂宋兵衛をうちとり、小角の霊をなぐさめなければならぬ たねん - 一うや と、毎日広野へでて、武技をねり、陣法の工夫に他念がなかっ やまだいみようね すその 富士の裾野に、数千人の野武士をやしなっていた山大名の根 ひとあなでんどう 1 一ろしようかくほろ その健気な乙女ごころを天もあわれんだものか、彼女は 来小角は亡びてしまった。しかし、野盗の巣である人穴の殿堂 しようかく いぜん ゆくりなくも、今日伊那丸と一党の人々に落ちあうことができ は依然として、小角の滅亡後にも、かわっている者があった。 わだるそんべえ すなわち、和田呂宋兵衛という怪人である。 ほろば かって、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子の あれほどしたたかな小角が、どうして亡されたかといえば、 るそん・ヘえ やさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなく 自分の腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、 きようゆうばつばっ っても、思いやりのふかい伊那丸と、侠勇勃々たる一党の勇士 つまり飼犬に手をかまれたのと同じことだ。 いみよう るそんべえ たちは、かならずや、咲耶子の味方となることを辞せぬであろ 答呂宋兵衛というのは、仲間の異名である。 もんべえ ロ かれは、和田門兵衛という、長崎からこの土地へ流れてきた じか るそんも なんばんあいのこ 一方、山大名の呂宋兵衛は裾野へかくれた咲耶子の行動にゆ 怪南蛮の混血児であった。右の腕には十字架、左の腕には呂宋文 ちょうじゃ 童字のいれずみをしているところから、野武士の仲間では門兵衛だんせず、毎日十数人の諜者をはなっている。 へきどう - 一うも・つきんぐも 今日も、途中雷雨にあって、ズプぬれとなりながら野馬をと を呂宋兵衛とよびならわしていた。また碧瞳紅毛、金蜘蛛のよ きど、つ ( かい挈、′、・も・ん」、つ 奇童と怪賊問答 0 十・よ洋 おとめ