です。その間中、奥様は、部屋の温度をかえないよう、炭をつがれで違ったものが、そこにはあったからだ。 るんです。 私が吉川さんにお会いするのが気が重いと感じたのは、吉川さん ( 朝日新聞論説委員 ) のものを読んでいないに等しいということと、「新・平家」の立派 低い声で毎週報告するのが常だった。 おそ さへの畏れから来ていたのである。お会いして何を話せば好いのだ ろうという心配なのである 吉川さんの顔 しかし、その、い配は、お会いした瞬間、たちまち消え失せてしま 松島雄一郎 った。「やあ・ : ・ : 」吉川さんは、ちょっと、手を上げるようにして、 入って来られた。何という人なっこい顔であろう。いや、いわゆる 昭和二十七年の三月、私が「週刊朝日」のデスグになった時、人なっこい顔というのならいくらでもあるが、吉川さんのそれは、 何ともいえないものがあった。笑ったロ許、目尻のシワのよりぐあ 「新・平家物語」はすでに始ってから二年たっていた。 当時、徳川夢声さんの「問答有用」も連載されていて、扇谷編集い。そこには実に人を和ませるものがあった。 その時から「新・平家」の終るまでの五年間、いや、その後も、 長はいったものだった。 「新平家に、夢声対談、この二つは絶対に強い。あとは、われわれ吉川さんとはよくお会いしたが、私は、いつも、その吉川さんの人 なっこい笑顔に甘えて、とりとめないことをしゃべっては、引き退 の作るトップ記事に全力をつくして欲しい」 吉川さんに始めて、お会いしたのは、そのデスグ就任のあいさつったものだった。 だが、たった一度だけ例外がある。その時のことを思うと今でも に、青梅のお宅にお伺いした時だった。 まだ、自動車が自由に使えないころで、中央線で立川駅まで行何か胸に痛みを覚える。 き、青梅線に乗り換え、二俣尾という小駅で降りて、トボトボと歩昭和三十六年の六月、前進座が「新・平家物語」を上演した。劇 化されたのは清盛の若き日の部分で前進座の意気ごみも強かった。 いて行ったものだった。 途中、奥多摩の渓谷に立派なアーチ型の橋が架っていて、そこで「週刊朝日」でも、ゆかりの「新・平家」のことだからというので 立ち止まって、ほうっと深呼吸した。しかし心の内では、さっきか観劇の愛読者大会を開くことになっていた。 その「新・平家」の上演の迫ったある日、吉川さんにお会いする ら何か気が重かった。 吉川さんのものといえば「鳴門秘帖」「宮本武蔵」などを新聞連ことがあった。驚いたことに、その時いつもの吉川さんの笑顔は、 こわい顔が、 三かけらもなかった。それどころか、実に、きびしい 載中に愛読したことはたしかだった。その他、短いものを、二、 読んだことはある。だが、現に「週刊朝日」に連載中の「新・平家そこにはあった。 物語」も、つい、先日までは読んではいなかったのである。「週刊用件もそこそこにして引き退ったが、どうして、吉川さんがあん 朝日」に行くことになって、あわてて、パックナンパーをひっくりな顔をされたのか、全く見当がっかなかった。 返して読んだ。そして驚いた。今までの吉川さんのものとは、まるだが、やがて理由は分った。吉川さんは、前進座の脚本に、意に 6
『できたそ』 と、立ちがまえにねらいをすまして、ズドンと火ぶたを切っ かたあし たんじゅうつつさき と ぶなうつろ 岩のかげへ身をくっして片足をおって、短銃の筒先をキッとてはなそうとしたが、その一せつな、山毛欅の洞穴から跳びだ 馬 かいじん でんか むないた したひとりの怪人が、電火のごときすばやさで、かれの胸板を 天かまえた。 にんけん かんぜん 州じッと、ねらいをつける : : : 忍剣のすがたへ。 敢然とついてきた。 神忍剣は身の危険を知るよしもなかった。おそらくかれは、故不意をくッて、 かいせんおしようさいご しんとうめつきやく ひ すず 『あッ 快川和尚の最期のことばーーー心頭を滅却すれば火もまた涼し ぜんき の禅機をあじわって、二十一日の刑をけっして長いとも思 と、よろめいた蛾次は、むちゅうで、相手の襟がみをつか っておるまい。 む。 かいじん ねらいは定まった。 かれの手がっかんだのは、やわらかい獣の毛だった。怪人は ひなわ がじろう けがわ 火繩の火がチリチリと散ったせつなに、蛾次郎の指さきは、猿の毛皮をかぶっていた。 たんじゅうひきがね すでに、短銃の引金を引こうとした。 『てめえだな、いまのしわざはツ』 たんじゅうさかて とたんだった。 かれは、短銃を逆手にして、三つ四つ、毛皮の上からなぐり つけた。 『、わッ』 のど と、蛾次は短銃をおッばりだして、自分の顔をおさえてしま相手はビクとも感じない。グングンと自分の喉をしめつけて ないしん った。そして、べツ・ : と顔をしかめながら突ッ立った。 きた。蛾次は内心、こいつは強いぞとおどろいた。 あまず やろう なにやら、甘酸ッばいものが、かれの顔じゅうにコビリつい 『この野郎、うつかりしちゃあいられるもンか』 もうぜんゅう て、ふいてもふいてもしまつがっかない。 猛然と勇をこして、じゃまになる喉の腕をふりほどいた。 ひらて どこから飛んできたものだろうか。熟柿のすえたのが、 ビシャリと、敵の平手が、すぐに蛾次郎の頬ペタを張りつけ すね 顔の真ン中で、グシャッとつぶれた。 たが、蛾次もまた、足をあげてさきの脛を蹴とばした。 だんりよくこうかん 柿の目つぶし ! 精いッばいな弾力を交換して、ふたりはうしろへよろけあっ 『ちくしよう、猿のいたずらだな』 と蛾次郎は、いまいましく思ったが、まごまごしていると火そのはすみに、相手のかぶっていた獣の皮が、勢いよく、蛾 なわ 次郎の手に引きはがれたので、 繩の火がきえる。 かれは、またあわてて短銃を取りなおした。 『あツ、てめえかッ』 ぜんし そして、 と、かれははじめて、相手の全姿をみてぎようてんした。 『こんどこそは ! 』 たんじゅう きけん たんじゅう じゅくし こ 0 のど けもの けもの けがわ ほっ えり いきお
落ちてくる。 ェイツ、ガリ わからない。そのうちに、・ 『しめた ! 』 という声。うまく投げた鈎のさきが岩松の根に引っからんだ とみえる。 ど 力をこめて手応えをためし、よしと思うとその男のかげ、度 胸よく乗ってきた小舟を蹴ながし、スルスルと一本綱へよじの ばりだした。 胆も太いが手ぎわも いい、たちまち三丈あまりの絶壁の上へ ちくぶじま 死人の顔のように青い月があった。 みごとに手ぐりついて、竹生島の樹木の中へヒラリと姿をひそ にらんでいるかと思うほど冴えている。月も或る夜はおそろませてしまった。 しいものだ。 と。それからすぐに。 ほうらいさん ちくぶじま べんてんどう きくむらくな 昼は蓬莱山の絵ともみえた竹生島が、いまは湖水から半身だ 弁天堂のわきにある菊村宮内の家の戸を、トントントンと根 きょま てしよく している巨魔のごとく、松ふく風は、その息かと思われてものよくたたき起していたのはその男で、やがて手燭を持ってでて きた宮内と、たがいに顔を見合わせると、 まさに夜判をすぎている。 『や』 にしうら ザプーンー と西浦の岩になにか当った。パッと散ったのは 『おお』 やこうじゅ しぶき 波光である。百千の夜光珠とみえた飛沫である。だが、そこ といったまま、中にはいって厳重に戸じまりをかい、奥の一 怪魚のごとき影がおどっていた。舟だ、人だ 室に席をしめて、声ひそやかに話しはじめた。 ほっこくぜ、 ぐんし 『め、ツ』 『どうなすった。こんどの合戦に、北国勢の軍師であるそこも きたしよう とが、かかる真夜中に落ちてくるようでよ、、 。しよしょ 7 イノ庄の 面とさけんだのは舟中の男だろう。ほかに人はだれもいない。 仮 またつづいて、やツー という声がかかった、声というよりは城もあぶないとみえますな』 お 気合である。 『おさっしのとおりまことにみじめな負けいくさ。ここへきて しずたけ れ ッと舟から空に走ったのは、鈎のついた一本のなわ。貴殿に顔をあわすのも面目ないが、じつは、賤ガ岳の一戦に み、くまもりま物、 しようとっ ガリッというと手にもどって、上からザラザラと岩のかけらが この方と佐久間盛政との意見が衝突いたし、そのためにいろい ん わ 割れたお仮面 、、も た というこの物音、なんどくり返されたか かギ - げんじゅう ぜっぺき 297
ちくどうとおの あしおと あじろがさ 両手で顔をおさ 竹童は遠退く跫音へいくども礼をいったが、 網代笠にかくされて、僧のおもざしはうかがいようもない 、、ひも が、丸ぐけの紐をむすんだロ許の色白く、どこか凛々しいそのえているので、それがどんな風の人であったか、見送ることが 2 手あんやそう 天行脚僧は、衣のそでで陽をよけながら、ジィッと刃をみつめてできなか 0 た。 顔をおさえている指のあいだから、タラタラと赤い血の筋 州いたが、やがてきわめてひくい声で、 神「さてさて珍しい刀をみることじゃ』 ひとみ むりよう - 一ちょう 『あ痛ッ : : : 』 感慨無量な語調をこめて、瞳もはなたずつぶやいた。 と片手さぐりに河原の水音をたどっていった竹童、岩と岩と 『見るもなっかしいことである。これはまぎれもなき伊那丸の ちしお の間から首をのばして、ザアッと流れる水の瀬で血汐をあら 守り刀 : : : 』 、顔をひやし、そして目や髪の毛のあいだに、刺さッた針を 『わたしも、しかと、よ , つに、い得ますが』 きえん 『つきぬ奇縁じゃ : : : おもえばふしぎな刀とわが身のめぐり合一本ずつ抜いてはまた目を洗っていた。 かわやな そのあいたー 以前の場所の楊柳のこずえから、ヒラリと わせよのう』 かいほう よい 御意にござります、あれにたおれている少年を介抱して、ひ飛びおりたひとりの女がある。 かいこばばあ イルマン 女といってもお婆さんだ。修道士の服をかぶった蚕婆 とっ仔細をただしてみましようか』 ふくろ ずきん くろい頭巾の中から、梟のような目をギョロリとさせて、柳 『いや、世をしのぶ身じゃ。それはソッと少年の鞘にもどして あじろがさ がくれに遠去かる三つの網代笠を見おくっていたが、やがてウ おいたほうがよい』 『しかしなにやら、苦しんでおりまするものを、このまま見捨ムとひとりでうなすいた。 つれ いっか河原は暮れている ててまいるのも情ないようにそんじますが』 4 うせい 『オオ、では、河原の水でもすくってきてやれい。じゃが、夢青いぶきみな妖星が、四条の水にうつりだした。 すじよう にも刀のことはきかぬがよいそ。訊けばこなたの素性も人に気伊勢路に戦さのあるせいか、日が沈んだのちまでも東の空だ けはほの赤い どられるわけになる』 たしかにあいつにちがいない ! 』 『あいったー 『承知いたしました : かいこばばあようれいせい こうさけんだ蚕婆、妖霊星をグッとにらんで、しばらく首 と、ひとりが河原へ下りていくと、ひとりは竹童を抱きおこ ちょうちょう して活をいれ、ロに水をあたえただけで、言葉はかけずにスタをかしげていたが、まもなく、黒い蝶々が飛ぶように、そこ からヒラヒラと ~ 疋りだした。 スタといき過ぎてしまった。 『ア痛 : : : どなたですか : : : ありがとうございました。ありが と , っ′ ) ざいました : かっ っ さや っ ばあ せ
ツィつかみ合いをやりたくなるから、向こうへゆくまでの間、 つけて引き分けてくれたからこそ、かれの頭が多少のでこばこ ル、・つほ、つ これをかぶって双方口をきかぬことにしているがよい』 を呈しただけですんでいる。 かたき と、奥へいって持ってきたのは、ふるい二つの仮面である。 『なんとしても、ふたりは死ぬまで、敵となり仇となり、仲よ からすてんぐめん くしてはくれないというのか。アア : : : どうもこまった因縁あおい烏天狗の仮面を蛾次郎にわたし、白い尊の仮面を竹童に わたした。 たんそく それをかぶらせておいてから、宮内はも一つのほうの箱を開 宮内は双方の顔を見くらべて、つくづくとこう嘆息した。 じあい けてふたりの前に妙なものをならべてみせた。 およそどんな者にでも、真心から熱い慈愛をそそぎこめば、 まがれる竹もまっすぐになり、ねじけた心も矯めなおせると信なにかと思って目をみはった蛾次郎が、 おうちゃくかんち じているかれだったが、竹童はとにかく、蛾次郎の横着と奸智『オヤ、独楽だ ! 』と、すぐに手をだしそうになるのを、 ′一うじよう 『まあ、お待ち』 と強情には、すっかり手を焼いてしまった。 あまのじゃく と宮内がそれをおさえて、じぶんの両手に一箇ずつ持ち、さ こういう性質の不良なものでは、日本に天邪鬼という名があ て、ふたりの者へ、たのむようにいうには、 り、西洋にはキリストの弟子のうちに、ユダという男がいた ひごま みずごま あくま ユダの悪魔ぶりにはキリストも持てあましたし、十二使徒の人『この古代独楽は、竹生島の宮にあった火独楽と水独楽という かえん ひんしゆく 人も顰蹙して、あいつはとても、真人間にはなりませんといっ珍しいものだ。この火独楽を地に打ってまわせば、火焔のもえ テレンせつきよう て狂うかとばかりに見え、この水独楽を空にはなせば、サンサ たくらいだ という話を、宮内はいっか伴天連の説教にきい ンとして雨のような玉露がふる : : : 』 たことがあるので、蛾次郎もそれに近い人間かなと考えた。 『おもしろいな ! 』 『では、なんともいたしかたがない。いつまでおまえたちを、 あした ちくぶじまく * 、り 説明をきいているうちに、蛾次郎、もう瘤のいたさを忘れて この竹生島へ鎖でつないでおくわけにもゆかぬから、明日はふ おか 盗んでもほしそうな様子をする。 たりをむこうの陸におくってあげよう』 『これこれ、そうおもしろいことばかり聞いてくれては、わしが とうとう宮内もあきらめてこういいわたした。 話をする意味がなくなる。まだこの独楽にはふしぎな力がたく 『まことに、永いあいだ、手あついお世話になりました』 かゆ 楽竹童は尋常に礼をい「たが、蛾次郎は、〈ン、お粥ばかり食さんあ 0 て、たとえば、じぶんの迷うことを問わんとし、また 独 わせておきやがって、大きな顔をしていやがる , ー・ーといわんばは指すべき方角をこころみる時に、この独楽をまわせば自然に 水 つらこぶ と などとい、つこともあるが、あま そのほうへまわってゆく、 かり、面と瘤をふくらましてそッばを向いたままである。 楽 ・ : 』と宮内はまたなにか考えて、 り話すと、また蛾次郎が勘ちがいをいたすから、もうそのほう ・人 . あした 『明日までにはまだだいぶ間がある。たがいに顔を見ているとのことはいうまい」 たら た いんねん ない みこと
けの男が、深林の道にまよってウロウロしている。 竹童は、とくいのロ笛を吹きながら、ほかの猿とごッたにな 『オーイ、オーイ って、深林の奥へ奥へとかけこんでいったが、ややあって、頭 すげがさ と彼がロに手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちの上でパタバタバタという異様なひびき。 へかけてきたが、見ればまだ十歳ぐらいの男の子が、たツたひ『おや ? , ー、』と、かれは立ちどまった。小猿たちは、何に さる とり、多くの猿にとり巻かれているので変な顔をした。 おびやかされたのか、彼ひとりを置き捨てにして、ワラワラと 『小父さん、どこへいくんだい、 こんなところにマゴマゴしてどこかへ姿をかくしてしまった。 き」い いると、うわばみに食べられちまうぜ』 『やア : : : やア : : : やア奇態だ』 くらまでら 『おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺の小坊主さんでもな何もかも忘れはてた様子である。あおむいたまま、いっ・まで せがれ し、まさか山男の伜でもあるまい』 も棒立ちになっている竹童の顔へ、上の梢から、・ハラ・ハラと松 『何者だなんて、生意気をいうまえに、、、 イ父さんこそ、何者だの皮がこばれ落ちてきたが、彼は、それをはらうことすらも忘 かいうのが本来だよ。おいらはこの山に住んでる者だし、小父れている。 ふうらいじん さんはだまって、人の山へはいってきた風来人じゃないか』 そも、竹童の目は、何に吸いつけられているのかと見れば、 そうじようがたに 『おどろいたな』と旅の男はあきれ顔に 『じつは僧正谷実際、おどろくべき怪物ーーーといってもよい大うわばみが、鞍 かしんこじ おおわし つばみ、 とえはたえ の果心居士さまとお 0 しやるお方のところへ、堺のあるお方か馬山にはめずらしい大鷲を、翼の上から十重二十重にグルグル かえん 、、つほ・つ ら手紙をたのまれてきたのさ』 巻きしめ、その首と首だけが、双方まっ赤な口から火焔をふき ししよう りゅうじよ、つこはく 『アアうちのお師匠さまへ手紙を持ってきたのか、それならお合って、ジッとにらみ合っているのだ。まさに童攘虎搏より けっとう いらにおだしよ。すぐ届けてやる』 ものすごい決闘の最中。 でし 『じゃおまえは果心居士さまのお弟子か、やれやれありがたい 『や : : : 面白いな。面白いな。どッちが勝つだろう』 人に会った』 竹童おどろきもせず、ロアングリ目、 リして見ていることややし ぜっめい と、男は竹童に手紙をわたしてスタスタ下山していった。 ばし、たちまち、鼓膜をつんざくような大鷲の絶鳴とともに、 おろち そうつばさ 『いそぎの手紙だといけないから、先へこいつに持たしてやろ大蛇に巻きしめられていた双の翼が・ハサッとひろがったせつ - 一うよう すんだん 使う』 な、あたり一面は、嵐に吹きちる紅葉のくれないを見せ、寸断 の と竹童はその手紙を、一匹の小猿にくわえさせて、鞭で僧正されたうわばみの死骸が、・ハ ラ・ハラになって大地へ落ちてき 馬 鞍谷の方角をさすと、猿は心得たように一散にとんでいく。そのた かすみ 翔あとで、 それを見るやや、雲を霞と、僧正谷へとんで帰った竹童。 かしんこじ そうえん 『さツ、こい、おいらとかけッくらだ』 果心居士の荘園へかけ込むがはやいか、めずらしい今の話を告 とど びき さか、 むち こずえ
ところが、そのとちゅうで ながやす しゆくば なにか、長安から耳打ちをされた鼻かけド斎が、ある宿場で 馬 ほどのいいところを見はからって、ド斎が、 天行列がやすんだ時、 がじ - 一う 州「お、ちょいとこっちへきな』 『時にな、蛾次公』 がじろう てまね 神 と、蛾次郎をものかげへ手招ぎした。 と、声をひそめた。 ほおば いつになく、たいそうやさしく手招ぎされたので、蛾次郎は蛾次郎はグビリと頬張っていたあんころをのみくだして、 すぐうれしくなってしまった。 『へ ? ・』 おやかた なんですか、親方』 と、ほかにも用があるのかというような顔をした。 いしな 『まあ、こッちへおいで』 『おまえはたしか、石投げの名人だったな。ほかのことにかけ じようず 『もっと歩くんですか』 ては、ドジでも、つぶてを打たすと、すばらしく上手だった』 との きゅうそく 「ウム、殿さまの駕籠がご休息にな「ているうちに、なにか食『親方あーー』と、蛾次郎は、ド点の顔をゆびさして笑いなが ら、 べたいものでも食わせてやろうと思ってさ』 おやかた すその 「へ、へ、へ、へ、すみませんね、親方』 『いまごろになって、あんなことをいってら。裾野にいたじぶ かまなしがわ ん釜無川の下で、毎日おいらが捕ってきて親方に食べさせた、 はや いわな 『どんなうまいものがあるか、ずッと、この宿場を見てあるきあの鮠だの岩魚だのは、みんな、石でビューツとやって捕った (. ーしよ、つ・か』 んですぜ。ね工、親方、河原の小石をこう持つでしよう、こう てま いわみのかみ 『そんなに手間をとっちゃいられないよ。おれは、石見守さま指のあいだにはさんでネ、魚のやつが、白い腹をチラリと見せ の駕籠がたっと、一しょに、甲府の躑躅ガ崎へ帰らなけりゃな たところをねらって、スポーンと食らわしてやるんです。どん はや らない』 な速い魚だって蛾次さんの石からそれたことはありませんよ。 うち ひでん 「じゃ、あそこにしましよう。あそこの家の : : : 』 こんど親方にもその秘伝を教えてやろうか。ところが、どうし と、指さした。 て、その石の持ち方が、あれでもなかなかむずかしいんでね。 こわめし もちだんご いしな てんさい 餅や団子や強飯がならんでいる。 だから、だれだかいいましたよ、蛾次は石投げの天才だってね』 そこへはい 0 て、奥のひくい恥の間へ腰かけた。 『も、つしし ・も , っしし』 『いくらでもおあがりよ。腹の虫が承知するほど』 と、ド点は手をふって、 ことわるまでもないこと、むろん、蛾次郎もその気でパクっ 『わかったよ、わかったよ。まったくおまえは石投げの天才 いている。 ・一うふ てまね 0 々、き かた かわら と イ 82
入れかわりに、そこをすッ飛ぶように逃げだしていったうしろ『 : 姿へ、 『この御岳のまわりかい、それとも、もっと遠い在郷かね ? 』 馬 天やツ、あいつめ ! 』 州石の狛大に手をかけて伸びあがりながら 竹童は小指の爪をかんでいる。 せんめいそっちよく 神『蛾次だ、蛾次公だ』 だれにでも、打てばひびく調子で、鮮明率直なことばのでる と、棗のような目をクルッとさせて、いつまでもそこに見おかれも、そのやさししし。。 、月、こよ一句も返辞ができないで、ただ じゅんれい くっていた。 ふしぎな巡礼の小母さんよと、あいての身なりをながめ入るの しゆくば そして、かれの姿が、犬ころのように、宿場のはてへ見えなみだった。 ほうねん あいしゅうやみ くなると、竹童はもうそれを放念したごとく、 子をたずねる愛執の闇、生みのわが子をさがしあるく母性の いなまる み、つか′、 『はてな、伊那丸さまやほかのかたがた : : もうお見えになり まよいに、ふしぎな錯覚を起しているお時は、相手のはにかみ そうなものだが』 にも気がっかず、ただ ( もしやこの子が ) と思う一図に、 ふたおや とっ 0 と、つぶやいて、べつな方角へさまよわせた眸を、ふと、狛 『じゃあおめえは、両親を持っているかね ほんとの父 犬のうしろにむけた。 つアんを知ってるけえ ? おめえを生んだおッ母さんはどこに じゅんれい と 1 ーーそのかげに見なれない巡礼すがたの小母さんがポンヤいる ? 』 リと立っていて、自分のほうを穴のあくほど見つめていたの絶えて忘れていた一つのさびしさが、そのだしぬけなお時の ひとみ で、竹童はボッと顔をあかく染め、あわてて眸をひッこめた ことばに、ハッと、竹童の胸をうってきた。 びしよう が、お時のほうはものいいたげな微笑を送りながら、 『坊、おまえは、、 ほろほろと しくつだネ ? 』 と、そばへ寄ってきた。 啼くやまどりの声きけば 竹童はきまりが悪そうに、もじもじとあとへ足を引っこめ 父かとそおもう ばんどうめぐ じゅんれいおんな 母かとぞおもう た。見たこともない坂東巡りの巡礼女が、いきなり年をきい たりジロジロと顔ばかり見つめてくるのが、なんとなくうす気 味のわるいようでもあった。 竹童はだれかに聞いたこの歌一つをおばえていて、父を思う わどこ 『いくっ ? おめえは今年いくつになったえ ? 』 とき、母をおもうとき、寝床のなかや森のかげでひとりこの歌を くり返しくり返ししていると、いつもひとりでに涙がでてきた。 ちちはは 『宀豕はどこ ? 』 かれは、生まれながらにして、父母を知らない。 う み うち なつめ こまいめ ひとみ 0 こま た みたけ と あいて か 早 - い - 一う
と、気の利いたものはないのかい』 『それはやまめといって、みなさまがおよろこびになるお魚で 」さいますがね』 いなかもの 『おや、おまえは : 『みんな田舎者だからよ。おれなんか、京都であんまりぜいた とっく くをしてきたせいか、こんな古い物は食えねえや、べーツ、べ 宮内はさらに眼をまろくして、蛾次郎のまえにある一本の徳 ツ、あー、まずい。なんかほかの食べる物をだせやい』 利と、かれのドス赤い顔とをじッと見くらべた。 『じゃ、こんにやくとお一于はど、つでございましよ、つ』 『酒を飲んでいるな』 ーかと・つ 『芋なんて下等なものはきらいだよ』 厳父のような言葉でいった。 れんこんやきどうふ 『へえ、蓮根、焼豆腐、ほかには乾章魚の煮ましたものぐらい 『へへへへ』と蛾次郎は、さすがに、間がわるそうにガリガリ で』 と頭をかいて、 『ちっとも、おれの食慾をそそらないそ』 『きようはじめて、どんな味のものだか、ためしてみたんで 『さよ、つですか』 カまんして食べてやるから』 「乾章魚をおだし、 ; 『、つ亠ましカ ? ・』 と、箸で皿をつッころがした。 『さつばりおいしくねえや、なんだって、大人はこんなものを だいみよう おそろしくいばった生意気、まるで大名の息子のようなこと飲むんだろうな』 等 - よ、つすし をいっている。やはり都会の少年の中には悪い癖があるなと、 『酒は狂水という、頭のよい人をさえあやまらせる。まして きくむらくなし ていのうじ 菊村宮内、なんの気なしにひょいと見ると、都会の少年ではなや、おまえのような低能児がしたしめば、もう一人前の人間。 ちくぶじま すそのそだ はなれない。わしの見ている前ですてておしまい』 い裾野育ちーー竹生島ではさんざんお粥をうまがって食べたか 『ヘイ・・ の蛾次郎だ 『あれーツ ? 『また、おまえはいま、たいそうぜいたくをいっていたな、も しゆら ったいないことを忘れてはいけない。この戦国、いまの修羅の 旅と、蛾次郎は目をまろくして、菊村宮内の顔を見た。そし しよく って、しゃぶッていた箸で打つようなまねをしながら、 世の中には、飢えて食をさけんでも、ひと握りの粟さえ得られ たいしよう 変 『めすらしいなア、エ、どうしたえ、大将 ! 』 ぬ人がある』 の 者宮内はあきれかえって、返辞のしようもない顔つき。 わかりました。えらい人に会っちゃった ! 』 やくじ いのち おんじん 蔵永いあいだ薬餌をとってもらった生命の恩人ーーーそれは忘れ『だが蛾次郎、おまえ、近ごろはなにをしているな』 たいしょ・フ こうふじよう ながや てもししし 、、こしろ、いきなり大人をつかまえて頭から、大将ー 『親方のド爺について、甲府城のお長屋に住んでます』 は しよくよく おとな かゆ とま。 げんぶ 四 せんごく あわ 369
こもり・つた しんげん ことに、かれらはすべて、おさない時から子守歌にも信玄の 威徳をうたった血をもっている甲斐の少女だ。国はほろびて も、その景慕や愛国の情熱は、ちいさな胸に燃えている。 、け・ , んに 0 ぐそくまく いま彼女たちが緋おどし谷でつくっている、具足や幕や旗差 ししゅうそめもの じんよ・つぐ かわたびたちかなぐ 物や、あるいは革足袋、太刀金具、刺繍、染物などの陣用具は、 すべてそれ小太郎山のとりでヘ贈るべきうつくしい奉仕だっ そのたのもしい少女は、ちょうど三、四十人ほどそこに やらい へんじ に、この谷へ 咲耶子は夜来の変事をつぶさに話して、いま とりで おおくばながやすてぜい 蔦のかけ橋をいっさんにわたって、咲耶子のすがたをあてに も、大久保長安の手勢がきて、小太郎山の砦どうよう、ぞんぶ じゅうりん 走ってきた少女の群れは、みるまに近づいて、さしまねかれたんに蹂躙するであろうとっげた。 はなわ 笛の下へ、グルリと、花輪のように集まった。 『 : ・・ , ・・ , ・ですからおまえたちはすこしも早く、だいじな品物や、 さくやこ まいりました、咲耶子さま』 仕事の道具を取りまとめて、めいめいの郷へお帰りなさい。そ 1 一しつ たけだびしはたじるし オにか 1 」用て、こさいます・か』 して後日、ふたたび小太郎山に武田菱の旗印を見たならば、ま ししゅう 『いつになくおわるい顔色』 たその時は、緋おどし谷へきておくれ、そして、仲よく刺繍を 『ど , っしました ? ・畔ハ耶子き、ま』 したり染物をしておくれ。わたしは、それを知らせにきたので 『おっしやってくださいまし、わたくしたちのする用を』 いきいきとした少女たちの眸、みな、なつめのようにグルツ 意外ー せ うとみはって 1 ! そしてまだ心配そうに、中央に立ついちばん背 かなしい別れの言葉であった。 はたんきよう 巴旦杏のようにかがやいていた少女たちの頬は、みているま を丈の高い人を見あげた。 こたろうざん 小太郎山にすむ咲耶子と、そこから近い緋おどし谷の者たち に白くあせて、眉はかなしみに曇った。 そで とは、しぜん、いつのまにかしたしくなっていた。かれらはみ 袖をもって顔をおおう少女もある。 らな、咲耶子を山の女神のようにした、、 咲耶子はまたみなを、 拭くのも忘れてあきらかに涙の流るるにまかせている顔もあ 妹のように愛していた。 ひ 笛は、早く早くと呼んでいた - 一ちょう - 一ちょうじんく 緋おどし谷の胡蝶たち、胡蝶の陣を組むのである。 汝ら ! なにを笑うか ? なんじ む めがみ ひとみ もの る。 そめもの まゆ み、ン一 ほお