そう吾れとわが身を励まして、 ーー七郎麿は軽く笑みを含んで、読み了えたそれを、無造作 鬘『ーーーあいや、七郎麿殿』と、膝を厳しく改めて行った。 に、下総守のほうへ、ばんと返した。 『上使でござれば、言語おゆるし下さい 今日それがし共 『老中御一統の評議のうえといし 、又、物々しいお使者とある ところん しゅんげん の参ったのは、ちと吟味のすじあって、老中評定の上、居所吟故、いかなる峻厳なお取調べでもあるやと思うていたに : : : あ 善味の儀申しつか 0 て参じたのでござる。よう心をいたしてお答ははははは。笑うはかはない、かような児戯ー えあれ』 狂言作者の作り事にひとしいような事、七郎麿には、真面目に 「・・・・ : 何なりとも』 御返事もできぬ』 と、七郎麿は頭を下げて、謹んで聞いていた。 : つ、つくり事といわるるか』 「余の儀でもないが、其方は、表面謹慎を装うてはおるが、時下総守は、そう云わずに居られなかった。おめおめ戻って 折、黒装束に覆面いたしては、各所へ出没して、兇刃をふるは、今度は自己の一身にかかわるのだ。 たくら い、或はよからぬ謀み事をいたしておるとーーもつばら御府内『作り事でなければーー然らば何だと仰せらるるか。明白な言 に於て沙汰する者があるが、左様かの ? 何 , つじゃ』 い開きがない以上は、お疑いは其方の身にかかっておるのじ ゃ。作り事とは云わせぬ』 ただ ごしようらん 暫くの間、耳をすまして、聞いた事を腹中で案じるようであ『わが臣下共にも糺してみよ、又、天道も御照覧あれ。この長 ふた ったが、やがて面を上げると、七郎麿の双つの眼は、ぎらり年月の間、ひたすら公命を惧れて、この七郎麿は、門外はおろ ふくめんいそう と、鏡のように、下総守を射て睨めつけた。 かな事、庭の先へも出た事はない。 : 然るに、覆面異装に姿 『何事かと思いもよらぬ御不審。 この七郎麿が、いっ幽閉を変えて佐賀甚の菖蒲之助とやらーー又、深川の妓紅吉とや しせい の身をもって、左様な振舞いをいたしたといわるるか。 思らーー・そのような市井の軽々しい人間たちをう為に立ち働い うに、御両所がかくお越しある以上、確と証拠があっての上と たなどとは、道化た作り事としか聞かれぬではないか』 したた つぶ 存ぜられる。その証拠、お示しねがいたい』 『でも、その書類を認めた人間は、審さに、其方の行動に眼を 『御覧なさい』 つけ、あらゆる場所に尾行して、調べ上げた者である。その生 と、下総守は冷やかに、風間勘助と伊東市兵衛の二人が探索き証人もあることでござるそ』 して書いた書類の写しを、それへ突き出した。 『然らばーー松平七郎麿の人相も、姿も、篤と見届けておろ ( これへ ) 云うように、七郎麿が顎をひくと、家臣の一人う。雷とやらいう人間と、この七郎麿とが、同一人なりや否 ふる が、顫える手先で、それを主君の前に出した。 を、その生き証人を連れて参られい : ・但し、 かくも忌わし みのが ずっと黙読してゆく、七郎麿の顔いろを、毛ほども見遁き嫌疑をわれにかけたる以上、その生き証人が参って、もし人 すまいとするように、下総守は、片唾をのみながら、額越しに違いなどであったらば、生かしては帰さぬそよ。ーー・下総 ! 白い眼を向けていた。 共方の首も申しうくるぞ』 おもて かたす ひたいご おそ 292
腰もすこし曲がり加減、眼のふちは、青黒く落ち窪み、その 青さと髪の白さとが、顔の上に一種の凄味を漲らしている。烱 姆としているのは眼だけである。いや眼光だけは人一倍するど 銀髪獅子吼 く見えた。 『紀州中納言の嫡、七郎麿景康にござる。年久しく訪るる者と うち 、いかなる下総守は心の裡で甚しくうろたえた。 てなきこの蟄居屋敷へ、突然なる将軍家よりのお使 ( : : : しまった ! 伊東や風間の話とはまるで違うそ ) 御内意にて候や、お聞かせ賜わりとうそんじまする』 この人が四十と、思ったのである。 そういう声さえまるで八十以上の老人だ。 怪人「雷」の本体が、松平七郎麿と的確に知れたので、島田 一とは、何うしても、考えられなかった。 じようそ 紋蔵は老中へ上訴したのである。 『あの : : : あなた様が、七郎麿殿にござりまするかな』 そして、終身蟄居の幕命を破って、勝手に市中へ出たり、或 脇坂弥三郎は、念を押すように訊いた。 しらが 『いかにも』と、白髪を揺るがしてうなずきながら、 る時は、東海道に、或夜は品川の海上にまで、黒衣覆面で出没 ゅうじん している彼をーー羃府の手に依って、切腹させようと計ったの 『当家の幽人七郎麿におざる』 だ。罪科を糺して、いやでも応でも、腹を切るように問いつめ 『唯今、御家臣から伺えば、失礼ながらまだ四十一歳のお年頃 ようとして、これへ臨んだのである。 と承るに、お見うけすると : : : 甚だぶしつけな一 = ロ葉ながら : これは何う見ても、雷とは人間が違っている。雷は ひどく御老年のように存ずるが』 、くら 『あはははは。 : : : 家臣共からもよう云われますわい。然し、 松平七郎麿ではない。松平七郎麿は雷ではないー 此身になってよう考えてみらるるがよい。若年より今日までの見つめてみた所で、そういう答えしか彼の胸にも出て来なかっ 間、一歩の土も踏まず、おおらかなる陽の目にも遭わず。狭い 『ウウム : : いかにもな』 茶室と書斎の窓から、春秋の移りを見るさえ物憂く暮らして、 とき 同じように、脇坂弥三郎も、内心困ってしまったばかりか、 」の日怛、一刻た 今年ですでに二十年にも近いのでおざる。 きゅうもん のろ うれし りとも、胸の愁の晴れ間とてなし、悶々と、世を呪い、人に臆却って、七郎麿の心情に同情して、糺問する事などは、忘れて し、いっともなく、髪も白うなってしもうたのじゃ。鏡を見るしまった面持ちであった。 吼 下総守は思った。 たび吾れながら驚く程にーーー』 しらが 子 語るうちに、松平七郎麿は、胸が迫ってくるのであろう、膝 ( いやまだ分らぬぞ。いくら白髪になっても、まだ年齢が年齢 獅こぶし だ。覆面すれば分らぬじゃないか。騙されて空しく立ち帰った に拳をふるわせ、眸には熱い呪いのように涙を曇らせた。 ら、今度は此身の破滅だ 。ーよし 0 調べて仮面をひん剥いて 銀 やろう ) ちゃく みな おく け ヾっ ) ヾゝ ただ し ーし かめん
『七郎麿は、これにおる。儂が即ち松平七郎麿じゃ』 出したがよいと存じたからでございまする』 にわか 『げつ : : : 貴方様が』 茂右衛門は、家人を呼んで、遽に、土蔵の中を掻き探させ、 ちり いや我が子よ。 今こそそちの父の面、 二十年の塵と闇の中に理もれていたその書類の一束を持ち出さ『菖蒲之助よ。 せた。 よう見やれ』 黴くさい湿気と虫がついていて、書類は殆ど、ばろばろにな雷は、いつもしている覆面を、燈火に向って、初めて解し あたか りかけている。然し、恰も今日の光明を待っかのように、 そな 端麗ーーそして謹厳の風を備えた、黒髪の偉丈夫である。年 二枚は、真っ白だった。 『茂右衛門とやら、たとえ如何ように相成ろうとも、そちに迷ばえこそ、もう四十四、五にもなろうが、逞しくそして若いの ふるほ′一 この古反古を、それがしに譲ってくれだった。 惑は決してかけぬ。 ましカ』 『えつ、私を子と仰っしやるのは』 みほこら 『五月五日ーー毎年あの蟄居屋敷の雷の御祠で、そちが誕生日 雷の言葉に、元より、彼にとっては、何もならない品 詣りとて来るのをーーーよそながら喜連格子のうちより見るのを やむしろ不気味な物だった位なので 楽しみーーーそちの生成を楽しみにしては来たがー・ー育ての親、 『お役に立ちますれば』 佐賀甚夫婦も、非業の死を遂げ、でも猶、名乗るべき時ではな と、一も二もなく、雷の手にゆだねた。 いと、今日まで洩らさずに居ったが』 雷は、それをすぐ、菖蒲之助の手へ授けた。そして、厳か こ , っ云った。 『では、この菖蒲之助は、松平家の嫡子と生れているのでござ たずさ 『そちは、これを携え、又、紅吉とこの母を生証人として伴れりますか』 『しかにも。そちが生れて、間もなく、この七郎麿に思わざる て、即刻、江戸表へ立て。 そして、お月番老中、若年寄の 方々へ願い出で、事の次第つぶさに訴状といたして、辰のロ評終身蟄居の厳命ーー幼い子を闇から闇へしたくないために、そ の折の小間使、お梶に托して、お梶が嫁いだ佐賀甚へ、そのま 定所の御審議を仰ぐがよいぞ』 『はっ . ま子として置いたものじゃ』 『ああ、では、私の一命を、お守り下さる為に』 菖蒲之助は、両手をついて、そう命に伏したが、 『そして、松平七郎麿様の御助命のことは、何と、お願いの手『幼い時から、女衣裳を着せ、女の児として育てたのも、世を くら 雷続きをいたしまするか。 晦ます為の策だった』 る『それには及ばぬ。七郎麿の生命は、無事健在でおる。この後語れば語るほど、この夜は奇しき運命を各が知る一夜だっ るとも、七郎麿の身には、浮世の何事も降りかかる事はあるまた。 だが、それにしても、まだ、胸に解けぬものがある。それ 8 霽し』 しらが 『えっ : : : それは、何ういう意味のお言葉にござりますか』 は、今江戸表の青山家に死の宣告を待ちつつある白髪の松平七 おごそ とっ おもて
わずらい へ、それそれ密かに手を廻して、充分に、贈り物をいたしてお 『大納言家の多年の憂患も、近いうちに除かれますぞ。 いたから、多分、効き目は充分にあると存するが』 う云ったらもうお察しがっこう、紀州の松平七郎麿も、愈 何処まで、抜目のない遣り口なのだ。 近日切腹と事が決まりそうな様子。何と大納言家に取っては、 その後で、下総守は、それやこれやに費った雑費と、そして 耳よりな話ではござるまいか』 自分の生涯の隠居料として、大納言家からこの際、五千両ほど 『えつ、七郎麿が切腹とは、何うした理由で』 しんぼう 貸下げてもらいたいと、初めて、本音を吐いた 『下総の深謀、見事に功を奏したのでござる』 てんまっ 『考えて置こう』 と、彼は、誇らしげに、そう云って、過日の潁末を、審さに 紋蔵が、あっさり云うと、 話し出した。 七郎麿の蟄居屋敷へ、隠密の草薙六兵衛を入れたことは、紋『何、考えておくと』 下総守は、居直るような語気で、 蔵の智恵でもあったが、その結果はまだ聞いてない。 くちゅう 。これ迄の苦衷も買って貰えず、尾州家として 下総の語るところに依ると、その六兵衛と手筈を諜しあわ『では宜しい こちら は、些細な金を、出すの出さぬのと云うならば、此方から断わ せ、内部の様子を、かなり探り取ったとある。 ちょうど そればかりでなく、恰度、菖蒲之助と、柏屋松の両名が、雷ろう』 と会うため、密かに邸内へ訪れて行った事も未前に分ったの憤然と云った。そして、 で、その図に乗せて、捕方を押しこみ、わざと雷を怒らせ、遂『船頭、舟を返せ』 しらが には、松平七郎麿らしい白髪の老太守までも誘き出して、味方と、吩咐けた ておい 『へい』 にも相当な傷負や死人を出したが、その為に、 ( 蟄居中の七郎麿が、上役人を刃にかけ、言語道断な乱行を働と、船頭は、黙々と又、櫓を持って浜へ漕ぎ戻した。紋蔵 は、突然笑い出して、 じっしよう と、動かぬ実証も取ったので、有の儘を、老中たちへ、書類『あははは。で下総どの、御立腹か』 『山ョり ( 則じゃ』 にして上申しておいたというのである。 『なる程、それ迄の事実があれば、今度こそ、将軍家も御立腹『考えて置くと申したのは、云い方が悪かったかも知れぬが、 わけ 何も、断ると云った理ではない。それに又、何千両であろう して、切腹させろと仰せ出されるかもしれん』 舟『いや、将軍家のお言葉だけを待っていたのでは、何しろ、七と、自分の金を出す訳ではなし、何で御意にもとろうそ。仰せ ととの い郎麿も御三家の一人だから、ひょっと、助けおけいと云わぬ限の金額は、近日のうちに、調えて置くでござろう』 なりイも . ない : そこで実は猶』 『では、御承知下さるか』 ふところ ら と、下総は、懐中から何やら覚え書を出して、 『大納言家の安泰が、わすか五千両で片づけば、安いものであ彅 釣 『御老中のうちでも、羽振のきく、このお方と、このお方達る。だが金は、七郎麿が切腹と相成った上でよろしゅう御座ろ おび しめ ひそ
善魔鬘 る。 殿様と呼ばれている松平七郎麿様でございます』 まわ で今 と、周りの者へ云った。 ここへ人間の鑑別に呼ばれて来た彼女は、一目見て彅 雷は、その言葉を聞くと、愈、愕然として、唇を噛みしめすぐ明言した。 『覆面していらっしゃいますが、その人こそ、七郎麿様に間違 と。 い 1 」六、いませんー・』 彼女の明言が、果して図星を射たものか、雷の覆面はやや俯 向きがちに、徴かに顫いてさえ見える。 風楼に満っ あまた 数多の者は、お千枝の一言で、みな寂としてしまった。 かたず 菖蒲之助もーー又、柏屋松も、共々、固唾を飲んで、お千枝 女は、もう云う迄もなく、役 & 方の廻し者である。 どうき の意外な言葉が、真か嘘か ? と張り詰める胸の動悸をじ そして隠密の名人といわれる草薙六兵衛の姪で、お千枝とい っと抑えていた。 う者だった。 『ふ、ふ、ふ : : : 』と、蜷川下総守は、そのうちに心地快げに お千枝は、元々、紅吉によく似ていた。草薙六兵衛は、そこ から思いついて、更に、この姪を、髪の結い方から衣裳、黒子嘲笑いを洩らした。 かねがね 『おおかた、そんな事ではないかと、予々公儀に於かれても眼 一つに至るまで、そっくり真物の紅吉の肖像と照らし合せて似 いたすら をつけて居ったがーーーやはり幽閉中の七郎麿殿が悪戯でござっ せた上、監視役人の手蔓から奥の女中に住み込ませておいた。 それを突き止める為たな』 それは、雷という者が一体誰か よ ) っ・ ) 0 と、左右を見廻して、 『かりそめにも、公儀の厳命に反き、幽閉の身でありながら、 雷ならば、紅吉を見知っている筈であるから、お千枝の姿を 覆面して勝手気儘な蝣をなされたなどは、まず以て、天下の 見れば一見して驚く筈である。 然し罪人とは申せ、御三家の嫡 ところが、彼女の姿を見て、知ったような一一一口葉をかける者は奇怪事と申すほかはない。 一人もなかった。強いて怪しめば、幽閉中の松平七郎麿だけ男、御処分は将軍家に仰ぎ奉らねばならぬが、ともあれ一応の きようそく ロ書は頂戴せねばならぬ。 その覆面を脱って差し上げろ』 で、初めて彼女が、殿のお居間へ近づいた時、脇息に倚ってい えんきよく 婉曲なうちに、鋭い皮肉を含んで、下総守がそう云うと、 た七郎麿が、 ( : : : あっ ? ) おどろ と同心二三名が、すかずかと側へ寄って、いきなり彼の覆面 と、軽い愕きを唇から洩らしたので、 へ手をかけようとした。 ( さては、この人が ) と、お千枝は、始終、七郎麿の挙動に注意して来たのであ『何するツ』 かぜろう くち てづる ほんもの ま - 一と おのの めきき そむ せき うつ
まろ わかれ 『ア : : : そうか。松平七郎麿様といえば、紀州の分家だが、そは、幼君がお薨死あそばせば、例に慣って、水戸か尾張か紀州 み もりやく と ) 5 鬘の七郎麿は、今の将軍家がまだ御幼名の砌り、お傅役として、 か、御三家のうちから将軍のお世継を立てるはかはない。 あが 江尸城へ勤務っていたのだ』 ろが当時、水一尸には然るべきお方は居ない、尾張も同様だっ 『左様でございましたかな』 で当然、これは紀州家の野心らしいと見られ、幼君が りゅうえい 『ーーその頃だよ、偉い事件が柳営に起ったのは。柳営の事で井戸へお堕ちなされたのは、過失でなくて、七郎麿が突き落し 善 はあり、御系類の暗闘もあるので、一切民間には秘せられてあたのではないかという沙汰が専ら立った』 るが、もう二十年も前の古い事だから云うてもよかろう。 『ははあ : : : 成程』 あの松平七郎麿が、今でもそうだが、終身蟄居になった原因を『ーーー単に取沙汰ばかりでなくだ、御幼少とは申せ、将軍家も ななっ 存じておるか』 すでにお六つか七歳、後で仰せられた一 = ロ葉に、誰かがわしの背 『どうして、そういう秘事を、私たちが知りましよう。 : のを突いて堕したのじゃとお泣きなされたそうな。 : そこで七 けんぎ あ うお梶』 郎麿への嫌疑は、疑うべくもなくなったが、何せい、彼の人も ちつきょ 『はい私も、殿様が御蟄居になるに就て、お暇をいただいたの三家の嫡子、無碍な処罰はできないので、蟄居となった』 でございますが、その由謂れは少しも存じませぬが』 『それが、今日まで、ああして生涯門を閉じて、慎んでおいで なさる原因でございましたか』 『こうなのだ : : : あの事件は』 ふらちし 1 一く と、鹿十郎は酔いに乗って、そうした柳営の秘密に通じてい 「それが又不埒至極さ。なぜならば、自分の職責から云って ることを誇りげに話した。 も、当然、屋敷へ退がったら腹を切っていなければならない筈 ではないか。 : それを何うだ、図々しくも生き伸びて、きょ わかいんきょ う迄二十年もの間、陽の目も見ずに若隠居して暮している』 『何か又、それには深い仔細があるのでございましよう』 光なき人 『生命が欲しいからだろう。 伐ましいユさ、ル ~ きたところ ちつきょ で、暗い自分一代、勿論、終身蟄居はその者が死ぬと一緒に家 とりつぶ 『御幼少の将軍家が、吹上の井戸へ堕ちて、死に損なった事が名はお取潰しになる。子は生んでも、公儀へ届け出る事も出来 ある。 その時、当然、お側に付いていたのが紀州家の松平ないし、その子に家名の相続も許されぬ。何のために生きてい るか気が知れん奴さ、強いて云えば、生き恥掻くために生きて 七郎麿だった』 「へ工、そんな事がありましたか』 いるのかも知れん。 オしふ横道の講釈が長く もりやく 『あやうく、一命はとり止めたが、騒ぎは偉い事だ 0 たろな 0 たが、そういう事情にある松平七郎麿の屋敷の山だから、 う。幼君のお悪戯では済まない、その為に、お傅役が付いてい昼間は憚りあって、あそこの木一尸は開ける事ができないのだろ るのだからな。 しかも折ふし悪い風評が立った、と云うのう、夜分、屋敷の小者が買い物や用事にこそこそ出るので山木 た す わ ちつきょ かくれ む なら つつし
紀州七郎麿様御行跡に就て だが、御三家の内に、こういう者が出たと世上に聞えて しらべがき おそ 鬘上申し奉るの調書 は、天下大乱の因となる惧れがある。七郎麿の身は、病気の態 ほうきのかみ という分厚い書類が、老中席へ提出された。 として、親族の青山伯耆守の邸へ一時預けとなり、切腹の日 それには、七郎麿の乱行として、今日までの事が、二十何力は、追って改めてお沙汰があり、同時に、検使も差し向けられ るであろうという達しである。 条という項目になって記載されていた。 善 『ぜひもござりませぬ』 一、幕命無礼ノ事 一、上役人殺害ノ事 銀髪の太守、松平七郎麿は、自若として、そうお受けした 一、蟄居中勝手ニ諸人ヲ邸内へ引入レシ事 と使者が戻って来ての復命であった。 サツリグホシイママ 一、家臣ノ乱暴者ニ黒衣覆面サセ、市中横行、殺戮ヲ恣 勿論ーー極く少数ではあったが、七郎麿の侍臣はすべて、ち ニナセシ事 りぢりに浪人して、それぞれ落ち行先を求めて行った。 等、等、等、いちいち列記して、それに明細な説明やら月日 などを、いかにも事実らしく書き添えてあった。 みの 『あきれ果てた御乱行だ』 落ち行く蓑 老中の一部では、その項目の一つが事実としても、当然、切 腹のお沙汰を下さなければなるまいと、強硬な意見を吐いた。 小雨が降っていた。 『御三家といえども、これを捨ておいては、法の威厳にもかか ひさし ほかげ わる』 そばそばと宵の廂を打っ雨音に、柏屋松の家は、灯影は洩れ ているが、しいんとしていた。 と、少壮な若年寄の席から意見を吐く者もある。 『誰かおらぬか』 すでに、この問題は、昨年も起ったことだ。その折も、ずい ぶん論議されたが、何しろ紀州家のーーたとえそれが十数年間窓の戸を外から軽く打つ者がある。傘に粥ける雨垂れの音が も、蟄居している廃人同様なとはいえーー御三家の一人には違・ハシャパシャ聞える。 どなた 、誰方で』 いないので、中には遠慮もし、又やや同情的な者もあったが、 乾分のひとりが、表戸を開けた。 今度は、 『法を曲げてはよろしくあるまい』 だが、そこには誰の姿もない。横の窓際に、蛇の目をさした と、硬論の方が、俄然、多数を占め、書類一切は、将軍家に浪人者の姿が見えた。 ひろう 『松は留守か』 披露された。 その結果、七郎麿には、遂に、切腹の命が下った。そして白『あなた様は』 いかずち 『 ~ 田だ』 金の下屋敷は、即日、破却という厳命である。 はを、や′、 こぶん
白髪太守 これ、誰かおらぬかっ』 守『誰かおらぬかな。 太奥まった幽室の中から、突然、こう甲走った声がする。 髪陽の目も通わぬ松平家の奥殿である。 ! う ! う 白色青白く、眼は光 0 て、白髪の茫と伸びた人物が、あたか も蜘蛛の精のように、絢爛で薄暗い太守の居間から呶鳴るのでた。 それ迄、沈黙していた雷は、左右から触れかけた同心の手頸あった。 『まっ . お召に御座りましようか』 を掴んで、捻じ上げながら、ぬつくと起ち上った。 家臣の一人が、すぐ走って、廊下に膝まずくと、 そして、屋の棟も揺るぐばかりな大音で、 『云わしておけば、わが主君七郎麿様へ向って、罪人の奇怪事『おおさ ! 彼の噬ましい物声は一体何事じゃ』 と、白髪の人物は、身を乗り出して訊ねた。 のと不礼至極な雑一一 = ロ。その上にも、武士の面へ理不尽、なこと 家臣は、両手をつかえた儘、 を』 にながわ と、云 , つが早いか、 一人を蹴とばし、一人を蜷川下総の足一兀『怖れ入りました。お耳にふれましたか』 『当りまえ ! 』 へ向って投げつけた。 と、鋭く云って、 『あっーー、狼藉な』 『あれ程な騒ぎが聞えぬ筈はないわ。七郎麿には耳があるそ と、下総は蹌めきながら、赫となった態で、 「たとえ、御三家の嫡男たりと、もうこのうえは、お上の御威よ』 りふじん 『まツ . 。実は唯今、理不尽な役人共が、無断でお邸の内へ それつ、捕り抑え 光にもかかわる事。用捨すべきではないー 押込み御長屋に住む御家来の露島十太夫どのを取囲んで、十太 夫どのをば、松平七郎麿様に相違ないと申し、縄を打とうとい と、部下へ呶鳴った。 たしましたので、役人共と十太夫どのの間に、争いが起ったも 俄然、事態は険悪になった。 ま、 のに御座ります』 風将に楼に満っ 聞くや否ーーー 雷とは、果して松平家の家臣かそれとも、松平七郎麿自身だ 『何、何。あの十太夫を、この七郎麿に違いないと申して縛め つつ , つ、か んとしておるとか。ゆるし難き不浄役人の無礼、いで、目にも の見せてくりよう』 ああこの人こそ、やはり真実の七郎麿であったのか。 烈火の如く怒った太守は、幽居の身も忘れて、長押の槍へ伸 び上ったと思うと、青貝柄の槍を横ざまに抱え、 『あっー・。ーー殿 ! 』 と抱き止める家臣の手も、 『えい、止めるな』 振払 0 て、タタタタと、大廊下から馳け出して来たのであ 0 川 よろ はっ けんらん かっ おもて から
『あ、そうですか して ? ・』 『もしや、栢屋松五郎と佐賀菖蒲之助という者ではないか』 ほうきのかみ よう御存じで』 『御文面に依れば、松平七郎麿様には、愈、青山伯耆守様の 『何か、宿次ぎ早飛脚が、問屋場宛てに参っておる。江一尸の留お屋敷へお預けの身となり、月が替ると共に 遅くも十月上 守中に、身寄の不幸でも出来たのではないかな ? 』 旬には、公儀より、切腹の厳命が下されるであろうとある』 と、状差しの中から、一通の飛脚状を選り出して、手渡して『えっ七郎麿様が』 くれた。 『そ , つじゃ』 『して、そのお手紙は』 『有難うぞんじます』 菖蒲之助は先に行って、一軒の上旅籠の軒下に佇んでいた『雷どのからだ』 『はてな ? 』 ふしん 『何が不審か』 「松。ーーー此処じゃ、此処じゃ』 『いえ : : : 何にしても、それは大変な事になりましたな』 『おお若旦那で。ーーー宿はもうこことお決めなすったので』 にながわ 『いや、まだ極めは致さぬが』 『島田紋蔵や、蜷川下総守などの一派が、七郎麿様の行状や有 『何か今、江尸表から、早飛脚が宿場問屋預けで届いているつる事無い事を並べ立て、幕府を動かしたものとみゆる』 『もいちど、その手紙を、あっしに見せて下さいませんか』 て渡されたが』 『はてな、誰から ? 』 雷の早飛脚を、柏屋松は、繰返してみていたが、 『二人の宛名でございます。まあ、御覧なすって』 『若旦那、こいつあ、何んな大暴風雨でも、今夜は泊っちゃ居 『どれ : : : 』と、軒先に佇んで、雨を避けながら、手紙を見てられませんぜ』 いると、旅籠の若い者が出て来て、 『月の替り迄といえば、後十一日しかない事。それ迄のうち 『どうそ、こちらへお這入り遊ばして』 、雷どのには、是が非でも、正邪を顕かにして、御主君七郎 たす とか、いい座敷があるとか、お腰をおかけなさいとか 麿様の一命をお救けせねば相成るまい』 まと 、フるみ、 蒼蠅く世辞を云って付き纒う。 『貴方様にしても、七郎麿様さえそんな厳罰を受けるとなれば ひと 1 一と 『うるせえなあ、まあ待ってくれよ、手紙次第で、何う模様が他人事じゃあございませんぜ』 変るかも知れねえんだからーーー』 『江一尸にいたら、われわれも、すぐ召捕られて居たであろう』 ね 云っている間に、菖蒲之助は、 『とに角、耳という魔物を抑えて、そいつに口を開かさなけれ 『松。一大事じゃ』 ば、尾張大納言家を相手にして、此っ方の勝目はございますま 雁 し』 と、手紙を巻きながら云った。 の 『そうだ。 紅吉を救う事は、それに較べれば小さい事、わ 後『えつ、何か江戸に、変事でも起りましたので』 『飛脚は、雷どのから来たものだ』 しの養父母も、御恩になった松平家の浮沈。ー・・ー・松、夜旅をか たたす じようはた 1 一 たたず おおあらし あきら 363
言葉の激してくるにつれて、七郎麿の胸にも、憤怒がこみあ幾品かを盗み去ったがーーその内の一品に相違ない。偖は、当 さまざま しらが げて来たのであろう。朱をそそいだ白髪の中の顔に、爛として家に押し入った盗賊の手よりその品を受取り、種々の偽り事を 二つの眼が光りを放ち、あたかも銀毛の獅子が怒って吠えるか構えた上、この七郎麿を、罪の上にも罪に墜さんものと、何人 かの陰謀に依って、其方はこれへ参ったのであろうが』 のようだった。 『な、なにを申す。ーーーー上使に対して』 ド総守は体がふるえた。 や、たとえ、上使の名はうけて参ろうとも、此身には、 然し、このまま敗北して帰っていいものか ! と彼は自分を『い、 しった 幾多の敵があることじゃ。その悪謀の一人におのれは相違なか 叱咜して、更に、上使という権力をもって、膝を改めた。 おど 『いや、云わるるな。いかにロ賢く、それがしを脅して追い返ろう』 『云わせておけば、お上の使者に向って、無礼な言葉。その通 さんなどと思っても、そうは参らぬそ』 おど りに、公儀へ復命申すぞ』 『ばかな ! 何で脅かして帰すなどという愚な策を、上使に対 とりただ 『お , つ、 既に、生きて いかようにも、復命いたすがよい して致そうか。お取糺しに理があれば』 おそ はあるものの、世に望みなき七郎麿、何ものにも、惧れはせ 『理がないとは奇怪な言葉。ーーーでは、この一品も、覚えがな ぬ。 ただ惧るるのは、身に覚えなき悪名のみだ』 いと申さるるか』 彼が取り出したのはーー下総守がこれこそ最後の止刺刀と考『ウウム、覚えておれ』 と、身をふるわしながら、書類や証拠の品々を纒めて、下総 えてまだ出さずに措いた、例の印籠と、黒衣覆面などの衣類だ 守は、突っ立った。 そして、脇坂弥三郎へ、 殊に、印籠には、定紋がある。御三家の定紋は、他に類がな まきえ ひょうあん いし、又、その蒔絵をした者は、瓢庵という紀州家のお抱え蒔「戻りましよう。こういう無法な答えでは、充分な吟味もっか あり ぬが、一応、有の儘に、御報告して、再度のお調べを仰いだほ 絵師で、その人間の銘まで入っているのである。 、つがよろしかろ , って』 『この品が、何うしたと申すのか』 これでは、調べに臨んだ意味がないと、一方は考えるのだっ 「其方の所持品であろうが』 げつこう すると、突如、空家のような殿中に、鳴りひびくような大喝たが、余りに下総守が激昻して、あたふたと急き立ったので、 脇坂弥三郎も空しく帰るほかなかった。 で、 吼『だまれつ ! 』 子 七郎麿は肩をふるわせて云った。 『かような品が、何の証拠となろうそ。いかにもこの印籠こ 髪 銀そ、七郎麿が所持品に相違ないが、おおそれ、ちょうどこの夏 そぞく の初め、塀の破れより潜り込んだ鼠賊が、納戸を切り破って、 とどめ ほか らん おと せ なんびと 293