いぶか 声のした場所がおかしい。怪訝しい今の空の声。 少しの辛抱、と云う言葉を胸の中で繰返した。 すると、四、五間先の窓がガラッと空いて、 鬘しかも、自分の目的まで観破っている。 誰だい、其処に居るなあ』 稍に、梟の影は見えるが、まさか、梟が口をきく筈もなかろ『おい、 のぞ と、ごろっき部屋にいる若い者が外を覗いた 「はい、私でございます。仕舞い忘れた洗濯物を取り込もうと 『 : ・・誰かしら ? ・』 善 と、鬼気に打たれたように立ち竦んで、お蝶は、凝と仰向い ていた。 『何だ、新参のおさんどんか。今頃、洗濯物を仕舞ってる奴が その白い顔へ、梢を洩れるタ月の光が微かに落ち、何処からあるものか、お月様が出てるじゃねえか』 「ハイ、ハイ。すみません』 ともなくハラハラと本の葉が降った。 お蝶は、台所へ入って、わざと忙しげに、水仕事をし初め すると又、彼女の眸のうえで、再び、 「お蝶、お蝶。せつかく虎定に入りながら、空しく此家を去った。 働いている間も、飯を喰べている間もーーーそして猶、寝床に て何うするか。もう少しの辛抱 : 。自分の使命を果すまで、 入れば、 踏み止まって探ってみい』と云う声がした。 めし ( 菖蒲之助様や紅吉さんは ? ) 今度こそ見た ! その人影を、声の主を ! と、その安否を考えたり、お梶の体を案じたり、一刻も早く 『あっ : : : 貴方は ? 』 露地の木戸口から、母屋の建物の下まで、仰向いた儘、十歩三名が押籠められている場所だけでも探り出したいがと思いっ める。 ほど駈け寄る間に、もう其の影は見えない。 それと又。 チラと見たその人間は、覆面していた。 のぞ 大屋根の端の鬼瓦に抱きついて、覗き込むように、顔だけ出 ( 奥の離室にいる病人みたいな此家の主人は、一体、何んな前 していたのである。 身の人間だろうか 月輪典膳という姓名も、あの病人のも だから・ーー誰であるか ? と云う謎はその儘まだ、お蝶のなのか、耳の右京のものなのか ? ) の胸に残されて、不思議に堪えなかったが、何しろ自分の素性考えれば考える程、蜘蛛の巣の糸を数えるように、それから それと、疑問はわいてくるばかり。 や目的は、充分に知っている者には違いな、。 あみ、は ( ーーそうだ、ほんに私は浅慮だった。柏屋さんや木更津の伊それから四日目の晩だった。やはり眠られずに、夜具を被っ 、んーーーと 豆政様に、あんなお世話をかけて、折角、此家へうまく入り込た儘、うつらうつら考えていると、リ、 ふる んだものを、月輪典膳という此家の主人が、耳の右京と違って徴かな鈴の音が顫えるように鳴った。 『 : : : おや ? 』 いたからと云って、直ぐ見切りをつけて出てしまうなんて : : : ) 、も、つ 思い出すと、毎晩、寝すの番みたいに、玄関に近い小部屋に 彼女は、そう反省して、今、屋根の上から云われた じっ かす おしこ はなれ せわ かぶ 30 イ
月を見つけ、ロをゆすぎ、顔を いることを探りだし、雪辱的に、四国へ渡って来た両名なので そっと、裏の森へ抜けて、小ー ある。 洗う。 かぐらぶえ 森の彼方に、宮があって、月並の祭らしく、神楽笛が聞え『尾けろ』 、、や 囁き合って、喬助は馬を捨て、徒歩になって、見え隠れに、 彼女は、村の人々の中に交じって、食物を求めた。 夕方までに多度津へ着けば、そこから備前の宇野港へ渡る金宿場の軒下を伝わって行く。 采女は、馬の儘、遠くから、 びらぶね 毘羅船が出る。 見張りながら尾けて行った。 勘太郎の姿ばかりを、神経にとめていたお品は、まったく思 『それに乗ろう』 お品は心を決め、漠とした行く先を考えた。山へーー人の居いもせぬ二人には、気がっかなかった。そして多度津へ着いた たそが みやま のは、まだ海にタ雲の明るい黄昏れ前であった。 ない深山の道場へと。 みちのり 海辺に近い港の船待ち茶屋に入って、時刻を訊くと、夜の船 多度津迄は、二、三里の道程、ゆるゆる歩いてもタ刻までに ななっ ー間があるので、他の客も、弁当をつか 出は七刻だという。 、油断のならないのは、勘太郎の眼である。 は楽 ~ にノ、。た ) 、か あがな 彼女は、それのみに気を配りながら、善通寺の町を突きぬけてったり、土産物を購ったりしていた。 たしか 慥に いる街道をさっさと歩いていた。 采女と喬助とは、茶店の横で、何か囁き合っていたが、 すると、金毘羅講の一群が行き過ぎた。その後から、二頭のお品であることを見届けると、ついと入って来て、お品の前の しよう 道中馬に、ゆらりと跨がった二人連れの旅の武士が、 床几へ、笠を被った儘、腰を下ろした。 それでもーーーお品はまだ気附かなかった。 『やっ ? 今のは』 しき ねじ 暫くの間、海を見たり、頻りと出入りする雑多な旅客の風俗 編笠のつばに指をかけて、駒の上からくるりと身を捻り、 『藍田。ーー見たか』 を眺めたり、又、もしゃ勘太郎がーーと軒先の人影に気を配っ ているうち、何かの弾みで、采女の横顔が、笠の下からちらと 『似ているが , ・・ーー人違いじゃないか』 しか 『今、摺れちがった金毘羅講の群で、慥とは見えなかったが、見えた。 うしろ 『あっ ? 』 あの後姿ーーー』 『お品かな ? 』 同時に、一方の連れが藍田喬助であることも分って、彼女 すく 「お品だーー・三絃を背負っておる』 は、全身を氷のように硬くした儘、床几へ、居竦んでしまった。 灯二人は、市橋采女と、藍田喬助だ 0 た。 二人は肩を軽く動かした。声の無い笑いを洩らし、威圧と、 ますみ お品の父、十寸見源四郎を闇討ちして、偽の山彦を、名器と無言の脅迫に、 の 思い込んで奪って逃げ、柳沢家のおさめの方から一時は歓心を (- ー。もう、じたばたしても、無駄だぞ ) 港買ったが、すぐ偽物と分って、ひどく不信をうけ、再び、上方という意味を、相手に示していた。 路から手懸りを手繰って、お品が、室の検校の許に身を隠して余りの事に , ーー真逆か采女や喬助がこの四国に ) 0 あいだ たぐ ひとむれ むれ かぶ いや眼の
こ′一と 戸毎の灯りや、火の気を、消させて、宗経は、館とよぶ所の彼女は、顔を紅らめた。 おおななた 土塀門の外に、床几をすえ、大薙刀を立てて、ひかえて居たの幸に、闇である 小源太は、恥らいながら、背を向けた。大きな陣太刀を、 である。傍には、今宵の意外な騒ぎさえ起らなければ、千代の 契りをむすぶ花嫁の座に坐って、否応なく、小源太の妻となる革紐で、背に負っている。その紐を、お品は、慥かと、結びな しろむく おしてやった。 運命だったお品が、その白無垢すがたの儘、俯向いていた。 : ほんとの男性というものは : : : ) ( 男らしい 『ウーム、左も候ず : ・・ : 』 ゆったりと、禅司宗経はうなすくのであった。いかにも、武ふと、そう考えて、胸が、ときめくのだった。 『かたじけのう存ずる。さらば ! 』 陵桃源の奥に、五百年間、世相の推移を知らずに過して来て、 今も掛、平家の祖先の血と誇りとを、その儘、持 0 ている悠長彼女と、大祖父とへ、会釈をして、六尺の巨人、伊那小源太 は、走り去って、誾にかくれた さである。 『見ていやい、よい、慰みじゃ : 『山崩れか、雷かと、今の異様な物音を、これなる女性に問 しつまでも、床几に、凝 宗経は、古びた武者人形のように、、 うて見つるに、あれや、鉄砲とやら申す飛び道具じゃと云う。 すべ としていた。お品も、いっとはなく、平家村の人々と同じよう いかなる猛者も、鬼神も、その神器の前に、刃むかう術はない 味方が、勝つように、又、小源太に怪我のないように、祈 そうな』 りを、歯の根に噛んでいた。 「その為に、味方は、さんざん』 わざ およそ、半刻 『おう、業な有るまい。したが小源太、逸るでない。嘆くでな によしよう そのあいだは、無音の世界だった。渓水の音と、風とよりほ 幸い、鉄砲の事は、この女性から、審さに聞いた。そ じゃく かに声はない。地物は、すべて、寂として黒いだーたった れを、避くるが兵法じゃよ。・ : : 耳を』 夏ではあるが、凝っとしていると、冷気は、肌に霜を感じさ 『はっ . せる。それと、美しいのは星である。地表四千尺の高山の奥だ 『よいか、のみこめたか』 へだ ひしと人の世との隔たりが思い出される 『心得ました』 お品は、ふと、 『早く、行け』 ( 江戸の今夜は、やはりこんな星月夜だろうか。大坂の灯は、 『あっ』 何っ方の方角にあたるかしら ? ) 計走りかけると、 と、考えた。 の『待て待て。太刀の懸緒が、解けかけて見ゆる。嫁御、結んで 急に、布しくなった。 火やられい』 悲しくもなる : 嘘お品に、願をすくった。 ( こんな所にーー ) あご いかずち かけお はや つぶ おと・ - じっ
『ずっと : : : そ、その山寄りの方で』 『銭湯は、すぐ近くだし、昼間の事だから、あっしらも、間違 鬘二度はぜひ、お礼にも出なければならぬ。江戸表へ帰った いはあるめえと思 0 て、おすすめして、出して上げたんで。 おやじ みんな ら、今申した井戸掘の勘十老爺を吟味する必要もあること故、 ・ : すると晩になっても帰らず、皆で騒ぎ出して、方々尋ね廻 あっち わしを案内してくれまいか』 っていると、彼方此方の往来に、紅吉さんの片袖だの、櫛だの 『へい : よ、よろしゅう御座いますが : : も、もう些つを拾ったと云って知らせてくれる者がありましたが、御当人の 善 と、時節をお待ちなすってからでも』 行く方は、それつきり雲を掴むように、今日まで分らねえんで 、こざ , んます』 と、云い遁れがっかなくなった柏屋松は、菖蒲之助の切な言 葉に、苦しそうに口を濁した。 そうそう あくるひ 翌日。 帰る匇々、この新しい事件である。菖蒲之助も、柏屋松も、 ふたりは空しく駿府を去って、日を経て、日本橋杉之森の家 : ふウむと、唸いたまま茫然としてしまった。 へ帰ってみると、出迎えた乾分たちは、 すると、門口から、 『 : : : あ、親分』 『ヘイ、お飛脚』 『菖蒲之助様』 と、飛脚屋の手から、一通の書状が投げ込まれた。 しゅうぜん と云った儘、皆、愁然と首を垂れて、お帰ンなさいまし 折も折なので、 と元気よく云う者もない。 『はて、何処から ? 』 てめえ 『どうしたんだ汝たちは。いやに、陰気な面を並べているじゃ と、柏屋松は、乾分の手から受け取って、封を切りかけた あてながき ねえか』 が、ひょいと宛名書に気がついて、 『親分 : : : お留守中に、又面目ない事が持ち上りました』 『おや。こいつあ、若旦那の名宛だ。佐賀菖蒲之助殿へとして 『なに、面目ねえ事が起ったと。ーーー紅吉さんの安否もまだ分ございますぜ』 らね , んとい、つことか』 『はての ? : わしへ飛脚とは、誰からであろう ? わしが 『ところが、その紅吉さんは、つい四、五日前に、突然、帰っ此家にいる事は、知る者はない筈だが』 ておいでになりましたが : 何気なく、封の裏を返してみると、差出人の名前が、ただ一 『えつ、帰って来たと』と、柏屋松は、明るく笑って、 字、 『どうですえ、菖蒲之助様、紅吉さんは、やつばり此家へ帰え耳 って来たそうですぜ』 と、書いてあるではないか。 『ところが : : : 親分、お詫びは、それからの事なんで』 と、乾分たちは、その紅吉が、町の風呂へ行った儘、再び、 姿が見えなくなってしまった事を、審さに話して、 こぶん つぶ けえ
ふと不審に思って、こう鸚鵡返しに云うと、二間ほど先に立そ知らん、彼のうしろには何時の間にか、神野寺の裏手から蚊 鬘ち止った人影は、被っていた頭巾をかなぐり捨てて、突然、白のように湧き出した耳の乾分が各く、大刀を持 0 て、取り囲ん却 で来たのであった。 い歯を見せて笑った。 道理で耳は先刻から、悠々と余裕を見せていた筈。菖蒲之助 『やっ ? 右京だな』 『今の雷 [ ー即ち耳の右京だ。どうだ、声色はうめえものだろが、木切れを持って構えると、むしろ憐れむように、傲慢な鼻 善 の先で笑いだした。 『ち、ちツー ・ : さては又、養母上を』 しんべえ 『お梶の事か。はははは、そう心配するな、お梶は元通り俺が ・・刀十 / だがよくも今夜は、親船の八朔丸に火を放けや れる喬木 っこよ 『ううむ、騙かられたか』 うしろ 『これくらいな事では、まだ埋め合せはつかねえ。狼は血を見背後には迫る無数の敵の影がある。前には勝ち誇る耳の右京 ると狂うし、悪党は火を見ると何んなことをやり出すかわからの抜払った大刀 自分はただ一人だった。しかも丸腰。 ねえそ』 『八幡ー・』 『オ ! おのれ。 と、菖蒲之助は身構えたが、ああ如何にせん、衣服こそ、曾と、神を念じて、有合う棒切れを獲物に、菖蒲之助はその大 っての儘だが、大小は八朔丸で奪り上げられた儘である、身に敵へ向って、一度は身構えてみたものの、 ( ーーーもう最後 ) と、思わざるを得なかった。 は、寸鉄も帯びていないのだ。 そう観念をつけると、彼はここで敵の五人十人を斃して斬り 耳は、当然、その弱点まで見抜いている。と鵁を裂きにかか かばね 死にするよりも、甘んじて、彼等に屍を与える代りにーー養 かる料理番のように、悠々と大刀を抜き払って云った。 『ーーー野郎つ、今までは厄介ながら船底に繋いでおいたが、とのお梶を何う・かして救えないものかと思った。 やこうしている間に、此っ方の足元に火がついてくる。今夜は 又、神野寺にいるという紅吉だの、お蝶だの、弱い彼女たち とどめ も、何とか助けたいと思った。 最期の止刀を刺してやるからそう思え』 たじろ その躊躇ぎを、早くも見て取って、耳は、 『何の、おのれ如きに』 『怯んだか菖蒲之助』 菖蒲之助は、ばっと退いて、有合う木切れを拾って身構え と、嘲笑った。 たとえそれが、白刃のような鋭利な武器にはならないにせ そして、じりじりと詰め寄せて来た大刀に、ばっと風を呼ん よ、一人と一人の勝負ならばと、心に神を念じて起ったが、何で、斬りつけて来た。 たば かぶ おうむ ひる み、つキ、 よゅう
ばりながら手綱を掴んでいる。色は黒く、眉は濃い、そして髪 に居並んでいた。 彦城下の辻々でも、その若殿と共に虚空蔵山から降りて来るとの結いぶり迄、今様の風俗とはちがっているので、一目で、 源太と分ることは判ったが、群集の想像していたような鬼でも いう伊那小源太の噂を聞き伝えて、 山 なければ、山神でもなかった。馬をも乗り潰しそうな巨大な骨 『その男が、天壇の山神じゃ』 あく とか 格と、飽まで男性的な筋肉とが、柔弱な群集の眼には、超人 恋 的な怪物のように見えたけれど、その唇は紅く、その眸はすず 「いや、鬼じゃ』とか、又 やかに、微笑をふくみ、どこかに優美なところがある。 『鬼でも山神でもない。瞳の二つある山男じゃ』 のと、群集は、怪異な虚説を信じて、その小源太を見よとて絵や唄にあるような、元禄型の美男ではないが、 ( これこそ、ほんとの男性だろう ) 大変な騒ぎだった。 つきあ と、思われるような純男性型の好漢だった。 『何百年という間、人間と交際ったことのない平家村の山武士 列は、飯田の城内に入る。 源太の姿にばかり気をとられていた。小源太 と、その中で、博識り顔の男が云ったが、それだけでも、町藩士たちは、小 の眼も、見るもの、触るる物、珍しそうであった。 人たちの好奇心をそそるには充分だった。 かも 大廊下を、ずしずしと、大きな跫音が踏み鳴らして通る。鴨 『来た、来た』 やがて、風越街道の方から降りてくる一列を見ると、群集居に頭がっかえそうな背の高さである。並居る家臣たちの頭を 見下して、若殿の為に設けてある上座の褥に、ト ′源太は、無造 は、押し合ったが、二頭の騎馬侍が、割り竹を振って、 あぐら 作に、胡坐を組んで坐りこんだ。 『叱いッ 『あっ、そこは』 左右を睨めつけながら駈け去ると、すぐ、静になってしまっ 家臣たちは、狼狽の色を顔に騒がせたが、鶴之丞が眼じらせ 『いや、その儘』 と、常のような駕先の露はらいが聞える。若殿の堀鶴之丞は めりかご と、云ったので、恐縮しながら、眺めていた。小源太は、菓 塗駕のうちに隠れていて、まったく姿が見えなかった。それに つづいて、お品を乗せた塗駕と、山支度の武士が五十名程、子が出れば、菓子を喰うし、茶が出れば茶をがぶがぶ飲む。意 の求める儘に生きている人間という感じだ。人間のうるさい儀 槍、鉄砲をかついで、二列に歩調を練って来る。 式や衒いには少しもこだわらない自然児の姿は、余りにも、傲 『あれだ』 あれかしら ? 』 慢らしく見えた。 たくま 物、強、や 室で、家臣達へ向って、 群集は、指さして、囁き合った。列の中ほどに逞しい巨男鶴之丞は、」 とが ひたたれ もの 『道中、何んな事があろうと、咎めてはならぬ。江戸城へ着く が、具足の上に直垂めいた衣を着て、烱々と射るような眼をく ものし めりかご おおおとこ まん てら にゆうじゃく なみい しとね つぶ
すまい けた水馬が、すぐ住居の裏から乗入れて出来るからである。 のだろうが、女一通りの芸事をやり尽したからと云って、水馬 き . りよう 鬘『美貌よ、 。ししが、佐賀甚の娘は、変りもんだな』 の檮古までさせなくてもよさそうなもんだな』 きず 『あれが珠に瑕で、折角の嫁のロも、みんな駄目になるんだそ『いや、そうでもございますまいよ』 意味ありげに、伊豆八は、眼の隅から鹿十郎の顔を見て、 『そうだろう、あんなのを町人が女房に持ったら、何んな身代『ゅうべもお宅へお訪ねして、ちょっとお耳に入れて置きまし 善 だってつぶれてしまう』 たが、旦那あ今でもあの娘を、佐賀甚のほんとの娘だと思って おいでなさいますか』 『持つなら、お大名か将軍様だな』 世間ではそう云ったが、然し、佐賀甚夫婦や当人のあやめの 『田 5 っているかって、他に何、つとも考えようはあるまいが』 「ところが、そうじゃねえんです』 身にとると、むしろ、そんな事でもして、嫁だの養子にだのと 『じゃあ、貰い子だとでも申すのか』 いうロを断わらなければ、うるさくて堪らなかったかも知れな いのである。 『貰い子なら筋は通っているが、あやめと佐賀甚の夫婦とは、 『旦那、いい気なもんじゃありませんか、あやめの奴が、又親子じゃありませんぜ』 きようも川遊びに出て、女だてらに水馬を乗りまわしています『ばかな ぜ』 鹿十郎は一笑にも価しないというように、 永代橋の上に足をとめて、こう云いながら、欄干に肘をもた 『親子でないなどと、何うしてそんな事が云える。何か、証拠 でもある話か』 せかけたのは、元佐賀甚の番頭をしていた伊豆八だった。 あば あやめの誕生日詣りから帰り途の夜に、日頃の野望を遂げよ 『元の主人の内輪を曝くようですが、こいつを知っているなあ ほか うと計って、却って、名も知れない変な浪人者のために大川へ怖らく世間でこの伊豆八の他にはございますまい』 しき ぶち込まれてから、伊豆八は図々しく、一度は店へもどった『先日も来て、そちは何か、頻りとそんな事を口説いていた が、や . はり気まずいものが拭いきれなくて、あの翌日、主人夫が』 『旦那が本気で聞いて下さらねえから張合がありませんや。こ 婦にも朋輩にも無断で、ぶいと店から姿を消してしまった。 それが今、欄干に頬杖ついて、旧主の佐賀甚の住居から油蔵う見えても伊豆八は、証拠のねえような事を云うんじやござい ふ ( ぶて ません』 の河岸を、太々しい顔つきで遠見している 『じや一体、そちはあやめを、何だと申すのか』 連れの男は、町役人の仙波鹿十郎であった。 ちつきょ 『ふふむ : : : 』 『あれやあ、麻布白金台の蟄居屋敷に幽閉されている、松平七 と、あばた顔に、薄ら笑いをのばせ、これも伊豆八と並ん郎麿の実子ですぜ』 てすり 『えっ・ で、橋の手欄へ半身をもたせかけ、 わがまま みは 『金はあるし、 娘だから、吾儘気儘の仕 題にさせておく 驚きの眼を瞠ったが、仙波鹿十郎はすぐ、 しほうだい らんかんひじ 持っている扇子で 772
からその者は又云った。 『養母上、お聞きの通り、雷どのがああ仰せられます故、ちょ 『オオ、やっと追いついたか。あいや、菖蒲之助。最前云い忘っと見届けに行って参りまする』 れたに依って、戻って来たのじゃ』 他ならぬ人の注意ぶかい吩咐けである。菖蒲之助は何気なく ふと声のする木陰を透かしてみれば、そこにはたった山上の方へ一走りと駈けて行った。 今、麓で海と岸とへ別れたばかりの雷が立っていた。 すると木陰の雷は、駕屋へ向って、さっと無言のまま手を振っ た。何の合図であったろうか、駕屋はそれと共に、駕の外から 縄目を廻して、一散に又、元の麓へとそれを担いで駈け出した。 おおかみ 『ー。ー菖蒲つ。 ・ : あれえつ、菖蒲っ』 うしろ お梶の悲鳴が、その中から、後の闇へ長く尾を曳いて聞えた が、見る間に、駕の灯は、無限の闇へでも沈むように、樹々の 間へかくれてしまった。 「あっ、雷どの。ーーー何ぞ御用をお忘れでございましたか』 駕のそばに、、 月膝を折って、菖蒲之助が云うと、雷は暗い本 一方は、菖蒲之助。 いらか 陰に立った儘、 峰道を急いで上って来ると、やがて神野寺の甍が彼方に黒く 『他ではないがーー神野寺の籠り堂の方へは、悪くすると、耳見えた。ちょうど籠り堂の裏手にあたる崖がもうそこに仰がれ の右京がもはや手を廻したかも知れぬ。従って、そこに何んなる。 おとあな 陥し穴が待ちうけておるやも計られぬから、充分に、心を締め すると誰やら、大股に自分の後から来る者があった。びたび て行かねばならぬ』 たと迅い跫音である。何気なく彼はふと振向いた。自分の後か 『わざわざ、その御注意でござりましたか。お心づかい、有難ら同じ道を登って来る人影ー うそんじます』 『おや ? 』 『折角、お救い申した事も、万一あっては、水の泡に帰してし彼の眸は、闇へみはった、 何と、それは雷に紛れもない きかカ ま、つ で、気懸りに思えた儘、小舟を捨てて、取って返し覆面の人間ではないか。 て来たのだがーー念の為、其許が先へ参って、神野寺の様子、 さては、あんなに心懸りにしていたので、自分一人でやるの 探って来られてからお梶どのを連れて行っては何うか』 は不安と思って、後から見護って来てくれたのかと、 ・ : 然し養一人をここへ置いて参るのも ? 』 『それへ来られるのは、雷どのか』 『いや何、拙者も他へ急ぐ事があるが、其許のお帰り迄、ここ 云いながら待っていると、 に立って、お護り申しておる。早う参って、慥と様子を見届け 『おう、今の雷だ』 と、人影は答えた。 狼て参られい』 『では』と、その忠告に従って、 『なに、今の雷 ? 』 ふもと は はや ふもと 引 9
「げつ ? : おお、ほんに』 と、つい口から出まかせに云って、手を引っ張り出すように、 : お蝶さんだってー 茫然として、紅吉は、ただわなわなと唇をふるわせて見つめ谷の家から走り出した。 とっさ 崖から上へ登れば、勿論、奥の母屋、門や塀の固め、とても るばかりーーー何を云う言葉も突嗟には出なかった。 出られる筈はない。 『まあ ! 何うして此処へ』 儘よ、この闇のつづく限りーーー迷う迄も、歩いてみよう。 ひしと、抱き合った儘、お互いに、泣き崩れたが、お蝶は、 お蝶は、転けまろび乍ら、先に走った。元より、道らしい道 はっと気がついて、 もなく、樹木だの、草むらだの、そして、両方に迫っている低 『さつ、逃げましよう。ーー右京が帰って来たら大変ですか とうと - っ い山間を、々と、水が瀬音を立てて流れてゆく。 『いえ、お蝶さん、わたしゃあもう、すつばり覚悟を決めまし 『そうだ、水に教えられて行けば、何処かへ出よう』 そう考えて、二町ほど駈けると、もう歩ける先はない。山の た。菖蒲之助様や、お梶様を助けようと思えば、どうしてもあ けだもの の獣の心に従わねばならず : : : と云って、遁れる道はないし鼻と鼻とが、狭く倚り合って、自然の関門を作っているのだ。 そして、水の流れる所には、一軒の水車小屋が建ってあり、そ 『ええもう、深川の紅吉さんとも云われるお前様が、何でそんこにも番人が居るらしく黄色い明りが洩れていた。 しかも、そこ迄も行かないうちに、紅吉が何かに蹴っまずい な気の弱いことを仰っしゃいますか。もっと、元の裏梅家の紅 た。それは鳴子の付いている伏せ縄だった。忽ち、ガラガラと 吉さんに返って、意気地を出しておくんなさいまし』 『気の強いには負けない私だから、随分今日まで、恥も苦しみ彼方へ - 鳴子が鳴り響いて行った。 も忍んで来たが、菖蒲之助様と添えないものなら、何でこんな くげん ・ : お蝶さん笑っておくれ、わ 苦患をしている効いがあろう。 ぎんだ たしゃあ死にたくなって来ました』 、冰 ぐ銀蛇 『それも無理ではございませんが、今貴女が短気をしたら、自 さいな 暴になってあの右京が、お梶様と菖蒲之助様を、斬り虐んでし まうに極まっておりまする。 二人の為と思うて、逃げて下棒か何か、獲物を持った男が三人、鳴子の音を聞くが早い さし 今のうちに』 おまえに、 『誰だっ』 蛇『でも、どうして、この厳重な屋敷の中から : 銀逃げロは分っているのかえ ? 』 と、外へ躍り出して来た。 ぐ 一人は早くも、お蝶の影を見つけ、一人は又、紅吉へ跳びか と、問われると、お蝶も当惑したが、強って、紅吉を励ます かって、 泳為に、 『 , ーーあっ、谷の家にいる女だ』 『ええ、昼のうちに、見ておいた逃げ道がありますからー。、ー』 のが 3 〃
ている。なぜ今まで気がっかなかったろう ) 『いや、よく話してくれた』 キ、の・つ・ 鬘と、その紅吉が帰るのを、昨日から網を張らせて待っていた 聞き終ってから、鹿十郎は大きな息をついて、 のである。 『 : : : 驚いたものだなあ』 わけ こういう理だ。打ち明けたところを云えば』 と、伊豆八と今更のように、顔を見合せていた。 鹿十郎は、紅吉の或る気持を、べつにんで措いて話し込ん もう往来は陽が高くなっていた。鹿十郎は紅吉の為に、町駕 善 あやめのすけ 彼女の或る気持とはいう迄もなく、彼女が菖蒲之助にを呼んでやって、駕賃まで自分で払い、 恋しているという弱点をである。 『知っているだろうが、八幡下の裏梅家までだ。気をつけて送 『其方が、右京の事に就て、包ます俺に何もかも話してくれるり届けてくれ』 なら、その代りとして、菖蒲之助の身は、俺が保証して、手を と、何処までも親切を示して帰した。 付けねえ事にするが何うだ。 ・ : あの人間も、町方役人とし その駕を見送って、後を閉めると あば ちゃあ、何とか、曝いてみたい所だが、眼をつぶって助けて措『さあ、何うするか ? 』 こうという条件ーー其方にとっては、悪くない相談だろうぜ』 鹿十郎は、大きく独り語を云いながら、腕拱みして、考え込 『よ , フく分りました』 んでいた。 紅吉は、頷いて、 先刻からの話を側で聞いていた伊豆八は、少し不満があるよ 『よござんす、彼のお方の為という事なら、どんな話でも隠さうに、 ずに申しましよう。どうそ、訊いてくださいませ』 『旦那、紅吉にあんな事を云って、ほんとに、菖蒲之助の方 うち 心の裡で、紅吉は正直に欣んでそう云った。菖蒲之助がうるは、手を着けねえつもりなんですか』 さい町方の詮議が遁れるばかりでなく、あの右京は、佐賀甚一 すると、言下に、 家の仇であり、又、菖蒲之助の敵でもある。 それを、お上『馬鹿ア云え』 のカで召捕ってくれるならば、云い分のない好都合と考えたか と鹿十郎は策士らしい笑い方をした。 らである。 『ああ云ったのは、その場の機智というものだ。道を以てすれ で、紅吉はーー今はまるで悪魔の巣にひとしい物となってい ば賢者も偽かれるというだろう。まして女のいちばん弱い所 る佐賀甚の後の状態と、右京の人間というものを、見た儘、思 利用しなくっちゃ嘘だろう』 う儘、すっかり鹿十郎へ話した。 『それなら安心しましたが、手前に取って憎いのは、菖蒲之助 さすがの鹿十郎も、 の方ですからね』 ちゃ ( それ迄 ? ) とは思っていなかったらしく、聞く事一つ一つに 『もうそんな小さな遺恨は打ッ捨ってしまえ。 ・ : とても今度 驚きの眼をみはって、もう心の裡では、てッきり彼奴こそ、強の仕事は大きいぞ』 賊の「耳」と断定しているようだった。 『ですが、ほんとに彼の浪人上りの右京が、噂のたかい強賊の うなず だんてい のが きやっ み、つき 220