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検索対象: 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨
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1. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

ぞ、引っ縛って、元の土蔵へ打ち込んでしまえっ』 と、その襟がみへ手を伸ばしかけた。 さえギ、 『よ、つがすっ』 菖蒲之助は、その間へついと立って、遮りながら、 庭の闇で、答える声がした。右京に使われている手下の男共 『下郎つ、お養母様の身へ、指でもふれるとただは置かぬぞ』 まきわり だった。先刻から、棒や薪割のような獲物を持って、いざと云 帯びている刀の柄に手をかけた。 きりん 姿に似あわぬ烈しい気凛が、その声には満ちていた。思わずえば立ちかかろうとしてその辺に隠れていたものとみえる。 下男だの、風呂番だの、七、八名のそうした男共が、右京の 足をすこし退いて、右京も大刀に手をかけながら、 『云わせておけばつけ上って、よくも、この右京を最前から甘声と一緒にどやどやと縁先へ上って来ようとすると、曲がり廊 みくび く見縊ったな。どうせの事に、てめえ達一人残らずみな殺しに下の陰から、又一人思いがけない強敵があらわれて、珠のよう しった な声を励まして叱咜した。 してやるからそう思えーーー』 『何のー・ー・』とホホ笑んで、『そういう強がりさえ云えば、人 1 ーーおっと ! 少しお待ち。ここは深川の街中だよ、何とか おの は脅えるものと思うて居ろうが、菖蒲之助がこう本身を見せた峠の山賊じゃあるまいし、斧や棒切れを持ち散らして、おまえ 達やあ何うする気だえ。尋常の勝負なら仕方がないが、多勢を 以上、もう汝ごとき者の口先に恐れはせぬ』 かたらって人殺をやる気なら、わたしゃあこれからお奉行所へ 『ロ先と云ったな。これでも口先かっ 馳け込んで、お前たち一人残らず引ッ縛ってやるからそう思う 抜く手の迅さ ! さわ 」カ . しぐ > それとも私もついでに片づけてという気ならば、細腕 びゆっと冷たい刃風が菖蒲之助の耳に障った。 きやっー だけれどお前たち位は相手にしてやる。何っ方にしてもこの縁 と云ったのはお蝶の声であった。菖蒲之助は 先から、一足でも上げちゃあ私の気が済まない。さ、上って来 身を転じて、右京の柄手を握っていた。 『お蝶、わしがこうして悪党を支えている間に、はやくお養母る気なら私が相手、裏梅家の紅吉へかかっておいで ! 』 様を連れて、裏の小舟から何処へでも落ちてゆけ。 : : : 早く 早く』 微かな東雲 お蝶は、ただわなわなと歯の根を鳴らしているだけだった。 てんどう 眼の前に恐しい刃を見たので、気が顛動してしまったものとみ 思いがけない声の主に驚いて、 える。 東 『あっ紅吉だな。てめえは又、おれの邪魔しに出て来たのか』 『くそっ』 あなた 右京が彼方で罵った。 右京は、掴まれている手頸を、懸命に振り離そうと腕がいて 紅吉は、それに答えないで 徴みたが、軈て、地だんだ踏みながら、大声をあげて云った。 『もし、お蝶さんとやら、愚図愚図している場合じやござんす 『ー、ーやいつ、召使の奴等、その二人を逃がしちゃあならねえ おび 、つき しののめ 213

2. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

「俺は、思いきらねえそ。何といおうが、男の意地でも』 一時の怒りが醒めてみると、己れを恥じ、己れを責めこそす わめ 、つき 喚きつつ、半町ほど、宙を飛んで追いかけた れ、お品を憎む気には何うしてもなれなかった。たとえ、先刻 「あれつ の物音が、お品の許へ忍んでくる情人であったにせよ、不義は * 一と 野獣のような影が、お品へ跳びかかって、襟元を噛むように不義として、教え喩してやるのが師の道であり、又、坂田藤十 はず どて てんしょ 抱き竦めた。仆れる弾みに、二つの影は、堤からごろごろと野郎から頼まれた添書に対しても尽すべき知己の徳義ではなかっ の方へ転がり落ちた。 振り抗いでは、逃げるお品。 『わしは、間違っていた ! 』 よろ 跳びかかっては、蹌めく勘太郎 根が正直な人物、そう考え出すと矢も楯もなく、蒲団を刎ね さ、 月は雲の薄墨にいぶされて、何処かを、五位鷺の声が翔け退け、 『まだ、遠くへはゆくまい』 急いで、衣服を着換え、不自由な眼には、月も闇もなく、杖 にすがって、街道へ出た。 めくら 盲人は勘がよい。立ちどまっては耳を澄ましている。お品の 野末の声 跫音を聞き澄ますのであった。 『はて、何う行ったであろう ? この儘別れては、生涯寝 室の検校は、お品を追放して、これで悩みの根を断ったとい ざめが悪い』 どて , っト , っこ、 堤に立って、夜風に吹かれつつ、お品の名を呼び、三、四町 てもと 『ああ、もう誰に頼まれても、女弟子など手許に置くものじゃ ほど行くと、荒々しい男の喚き声と、悲鳴とが流れてきた。 『おおっ どれ、さつばりと、忘れて寝よう』 どうき おのれ まろ いくたびよろ 自分の果断に、幾分か動悸を覚えたが、よくやったと、己へ検校は、堤から転び落ちた。草の根につまずいては幾度か蹌 呟いて、夜具を被った。 めき、声を目あてに、 然し、寝ぐるしさは、前にも増していた。眼は瞑っても、種『お品つ、何うした ? 何うしやった ? 』 ざま 種の事が頭を駆けめぐって、 叫ぶと、一人の男が、突き当った。逃げる跫音、狂い追う ・ : だがお品はわしを恨んでおろう。裏木一尸の音がしたから息。ーーー検校は、あっ、と感づいて、 あす の出て行ったのであろうが、この夜中に家を出され、明日の夜か 『さては、先刻家を窺っていた男は、お品の情人ではなく、こ あて ふびん であい 末らの的もあるまいに。 ・ : 思えば不愍 : : : それもよく考えてみの悪者めか それを不義の出会と疑ってーーーおおわしは、 としがい 野れば、元々、わしが悪いのじゃ。わしの修養が至らぬからで、何たる年甲斐のない : お品の罪では決してない』 慚愧にうたれると、同時に、彼は奮然と、お品の危機を救お つぶや すく かぶ さま ざんき どて * 、つき うかが たて っえ

3. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

いぶか 声のした場所がおかしい。怪訝しい今の空の声。 少しの辛抱、と云う言葉を胸の中で繰返した。 すると、四、五間先の窓がガラッと空いて、 鬘しかも、自分の目的まで観破っている。 誰だい、其処に居るなあ』 稍に、梟の影は見えるが、まさか、梟が口をきく筈もなかろ『おい、 のぞ と、ごろっき部屋にいる若い者が外を覗いた 「はい、私でございます。仕舞い忘れた洗濯物を取り込もうと 『 : ・・誰かしら ? ・』 善 と、鬼気に打たれたように立ち竦んで、お蝶は、凝と仰向い ていた。 『何だ、新参のおさんどんか。今頃、洗濯物を仕舞ってる奴が その白い顔へ、梢を洩れるタ月の光が微かに落ち、何処からあるものか、お月様が出てるじゃねえか』 「ハイ、ハイ。すみません』 ともなくハラハラと本の葉が降った。 お蝶は、台所へ入って、わざと忙しげに、水仕事をし初め すると又、彼女の眸のうえで、再び、 「お蝶、お蝶。せつかく虎定に入りながら、空しく此家を去った。 働いている間も、飯を喰べている間もーーーそして猶、寝床に て何うするか。もう少しの辛抱 : 。自分の使命を果すまで、 入れば、 踏み止まって探ってみい』と云う声がした。 めし ( 菖蒲之助様や紅吉さんは ? ) 今度こそ見た ! その人影を、声の主を ! と、その安否を考えたり、お梶の体を案じたり、一刻も早く 『あっ : : : 貴方は ? 』 露地の木戸口から、母屋の建物の下まで、仰向いた儘、十歩三名が押籠められている場所だけでも探り出したいがと思いっ める。 ほど駈け寄る間に、もう其の影は見えない。 それと又。 チラと見たその人間は、覆面していた。 のぞ 大屋根の端の鬼瓦に抱きついて、覗き込むように、顔だけ出 ( 奥の離室にいる病人みたいな此家の主人は、一体、何んな前 していたのである。 身の人間だろうか 月輪典膳という姓名も、あの病人のも だから・ーー誰であるか ? と云う謎はその儘まだ、お蝶のなのか、耳の右京のものなのか ? ) の胸に残されて、不思議に堪えなかったが、何しろ自分の素性考えれば考える程、蜘蛛の巣の糸を数えるように、それから それと、疑問はわいてくるばかり。 や目的は、充分に知っている者には違いな、。 あみ、は ( ーーそうだ、ほんに私は浅慮だった。柏屋さんや木更津の伊それから四日目の晩だった。やはり眠られずに、夜具を被っ 、んーーーと 豆政様に、あんなお世話をかけて、折角、此家へうまく入り込た儘、うつらうつら考えていると、リ、 ふる んだものを、月輪典膳という此家の主人が、耳の右京と違って徴かな鈴の音が顫えるように鳴った。 『 : : : おや ? 』 いたからと云って、直ぐ見切りをつけて出てしまうなんて : : : ) 、も、つ 思い出すと、毎晩、寝すの番みたいに、玄関に近い小部屋に 彼女は、そう反省して、今、屋根の上から云われた じっ かす おしこ はなれ せわ かぶ 30 イ

4. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

ははうえ 『養母上らしい。お梶様らしい ああ同じ船に捕われて来 ( もしや、雷様の身に、何か不吉があったのではないか ) おそ 鬘て、みすみすそこにお在でになるのに 次にーー彼の胸を襲 0 たのは、真 0 暗な絶望だ 0 た。やりば と思えば思うほど、彼は、縛り付けられている八朔丸の帆柱のない憤怒だった。悪の前に亡びてゆく正しい者の天を怨むさ けびだった。 も折れよと、腕がいてみたくなるのであった。 『ーー何うだ、客人』 眼の前に、同じ運命の荒縄に縛められているお梶をーー助け 善 ることもできないのみか、お互いに眼隠しをされているので、 いつのまにか、耳の右京は、菖蒲之助の前へずかずかと歩み むび 姿を見合うこともできないのだった 9 寄っていた。ーー夢寐の間も忘れない仇敵の声である。眼は見 ひと - 一と と、声をかけようとすればすぐ、側に立ってい 一言でも えない迄も、菖蒲之助はすぐ反射的に る番人が、 『オオ、耳か』 と、体を正した。 『物を云うと、ぶん撲るそ』 と、すぐ麻縄の端を鞅にして、びゅッと帆ばしらの上を打っ耳は、嘲笑って、 ばな て脅した。 『今、おれの手からぶッ撃した鉄砲の音を聞いたか。かあいそ もくず お梶は病身である。もしその烈しい麻縄に一打ちでも撲られうに、雷の奴も、小舟と共に、海の藻屑だ』 たら死んでしまうに違いない。 菖蒲之助は、自分の身よりそれを惧れた。従って、まだお梶菖蒲之助は、身が顫えた。 ああ ひとこと かわ とも一言も口を交していなかった。 噫、やはりそうだったのかー 昼間は、船底に抛り込まれ、夜になると、帆柱の根に移され陰となり日なたとなり、常に自分たちの守護神のように、唯 しき た。今もここに曳き出されて、無念を呑んでいると、頻りに、 一の味方となっていてくれた雷も、遂に、魔人共の毒手にかか いかずち って、斃れたのかー 『雷々』と云う声がする。 『ロ惜しいのか菖蒲之助。ふッふふふ、ふ : : : イヤ道理だ、も ( さては ? っともだ。だが、まだまだこんな事で耳の右京が満足している と菖蒲之助は、神の訪れのように、胸をおどらした。 やが 然し軈て、耳の右京が、左舷のほうで大きく笑ったと思うとと思うと間違いだぞ。まだ会わしてやる者があるから、もう少 し気を慥かに持っていて貰おうか。 ゃいつ、その女をここ ぐわあん。ーーと銃を離れた弾音が大きく夜の海にひろがって、 『わはははは。ざまを見やがれ』 へしょッ曳いて来い』 とも 勝ち誇ったような右京の声が、船を圧して、今までの騒ぎは艫の方でがやがや騒いでいる手下共の影へ向って、耳は、こ う云いながら手を挙げた。 終局を告げたらしく思われた。 小舟から吊り上げた紅吉の体は、そのままな姿で引っ立てら 眼は見えない。体の自由はきかない。 れ、軈て耳の右京と菖蒲之助の間に、突き飛ばされた。 菖蒲之助はただ感覚で、 おど おそ やが ふんぬ ふる

5. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

足を洗って、後から家に入って来た葛西山助と、石川礼記 うかが あしおと 雨は、跫音をしのばせて、案じられる土佐守の部屋をそっと窺っ ねた。 っ ( 憤死したか ) ( 割腹しているか ) それとも又、 ( 気でも狂って居りはしまいか ) と、無言の裡に、不安な想像を抱いて、様子を見に来た。土 のぞ 佐守はその二人がすぐうしろ迄来て肩越しに覗き入っているの たんにしよう も気がっかずに歎異鈔の一章を繰返して読み入っていた。 おうじしっ 善人なおもて往生をとぐ いわんや、悪人をや。 しかるに世の人常にいわく おうじよう 悪人なお往生す 、、に、いわんや善人をやと。 この条 いわれあるに似たりといえどもひが事なり。 こ′一え つぶや 礼記は思わず低声をだして誦した。山助も呟くように何度も うしろ そこを読んだ。その声に、土佐守は気がついて、後へ顔を振り ともしび - 向けた。一旱人の眼と眼が、和やかな涙をたたえて、秋の燈に 、、つば、に、生きることを考えてし 濡れていた。礼記はもう うち なご かさ、 イイ 2

6. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

めは見えていた右京の人格が、それだけに奥底のわからない者で、伊豆八が狼藉しようとしたところを、闇の中から腕をのば つま して、苦もなく、伊豆八を大川へ抓んで投げ込んだ眼もこの眼砌 鬘に映ってきた。 たそが であった。 「 : ・・ : どうせもう黄昏れ、落着いてゆくがよい』 「いえ、お暇をいたしとうごさいます。 ・ : そして改めて』 又、同じ晩。 『改めてとは』 麻布の二の橋辺で、寺の土塀のみねに、猪みたいに屈み込ん 善 で、その折、「耳」という異名のある賊を追いまわしていた捕 『主でも伺って、きようのお詫びを』 手の群を、巧みに、やり過ごしていた浪人も、この眼だった 『待て』 すべ ずっと、右京の膝が坐ったまま辷って来た。はっと思うま てくび に、お梶の手頸は、痛いほど彼の大きな手につかまれていた。 下男の五助はそんな人間とは夢にも知らない。 あるじ この寺でも知っているふうが見えない。 話はおまえで 『詫びならば、主が出直してくる迄もない。 わかるのだ』 元より、お梶が夢にも知らずにここへ来たのは無理もなかっ 『わたくしで分ることならば : : : 何なと、仰せくださいまし やす と易い事だ。 : 女はいつで 声までが遽かにおそろしい 静に、低声で云っているの 『何もそう慄えることはない。い であるが、何となく、圧しつけてくるようなのだ。 も体で済む、おまえが眼をふさげばそれでいいのだ』 かわ 「えっ・ 声も お梶は、激しい動悸に、ロが渇ききってしまった。 出せない。 急に、お梶は骨ぶしを立てて、 『いや、か・ 『は、はなして一「さい』 と、握られている手頸の手へ、一方の指をかけて抗ぎ離そう とする。 『嫌といえば、無理にも従えさせたくなるのが男のもちまえ。 うごきも離れもしないのである。凝と、右京は見すえているお梶』 のだ。 もがけばもがくはど女は美しく見えてくる。 『お梶。 : : : おまえは、正しく女だ、あやめの身代りにその体 を出せ』 : な、なんですって』 身代りに 『初め、おれが眼をつけたのは、あやめなのだ、何で初手か うば早、くら ら、いくらまだ水気のある姥桜にせよ、四十に近い人妻のおめ あやめが、誕生日詣でに、麻布へ行った帰り途、大川河岸えを手に入れようなどと思うものか』 あるじ じっ むれ ろうぜき

7. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『何か』 て聞かせる日が来るであろうとわしも思っていたのだ。 が、望みの日はまだ来ない ! 』 振向いた横顔が、喜連格子にちらと見えた。 とこしえ ・ーーあの、あの : : : 』 『ああそれでは : : : 永劫に』 はず 『永劫にとは云わぬ , ーー・もう暫く。 思わず彼女の息は弾んでいる、にじり寄って、堂の縁へ手の ・ : あやめ、切なかろう まっげ かかる程近づいて行き、そして、睫毛にいつばい涙をためなが が、その儘、平和に、幸福そうにーー・・そちの胸はそうであるま ら、熱い息の下から云った。 いが、世間の眼にはそう見せて、何気のう過ごして居ゃい。よ はたち かね しカ』 『わたくし : : : 今年は二十歳になりました。予て、二十歳にも なったらば、不思議の私の生い立ちと身の素姓ーーーそれから 『でも : : : でも : : : せめてあなた様のお名前だけでも』 『聞きわけのない奴っ ! 』 又、あなた様と私との理由がらだの、佐賀甚のお母様お父様の : と、こ , ついっかの 事なども、詳しく聞かせてやるであろう : 怒ったように云い放ったその声は、さながら雷そのものの響 きつれ′一うし きに似ていた。 年に仰っしゃいました』 はっと、あやめは喜連格子の中の眼に射ら おもて 『ウム : : : そう云うたな : : : そちが物を考える十三、四の年頃れて面を伏せてしまった。 いたち になった時』 先へ廻って堂の縁の下に潜っていた伊豆八も、鼬のように、 『はやいものでございます、そのあやめが、もう一一十歳になり横から首を出していたが、今の一喝に、首をすくめ込んで ました。 ・ : 古い誓いを強いてはいけないかも知れませんが、 と、暫くして、 どうそ、お約束どおり、今夜は私の身の素姓と、あなた様が誰 『あやめ』 なのか、それを教えて下さいませ』 と、ふたたび、堂の中の人は、前のやさしいことばで云っ : 私にはまるでた。 『雷様、あなたは、神ですか、人間ですか。 キ、つき 考えがっきません。母も教えてはくれません。父はなおさら無『晩くなるそ、露に冷えるそ、いつまで五月闇ばかりはつづか ロです。 私は自分を何う考えたらよいのでしようか ? 』 ぬ。 : : : 帰れ、帰ってくれ、又来年会おう』 『一古ーレいか』 ふと顔を上げて見ると、まだその声は耳に残っているのに、 『いくら馴れてはいても、人知れぬ苦しみもいたします』 あの横顔も影も喜連格子に見えなかった。 頻りと啼いて声 す 『 : : : ゆるせ』 はする山時鳥のすがたのように。 『なぜ雷様は、私に謝まるのでございますか』 と 『その理も、後にわかる、何もかも時経てば と ま『では、今夜もまだ』 『そちが二十歳の頃までには、遅くも、すべてを明白に、話し わけ えん ) 0 とこしえ しき 763

8. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

もいない。舞台の右手には、童子の背ぐらいある色鍋島の大花ずっと末席の方の、男の中に、屯をしていた富豪連の中で、 むろざき ばたん 茨木屋幸斎が、すこし、しびれを切らしたように呟いた。 瓶に、室咲の牡丹が挿けてあった。 ・ : 待つぐらいはな : 『勿体ない。 『誰が、山彦を、弾くのでしよう』 こ 1 一え と、大紋屋嘉助が、低声でいう。 「よほどな名人でなければ、三味線に負けてしまいましよう 『だが、何うしたのだろう』 ふじなみこうとう と、伸び上って、幸斎が又云った。 『藤波勾当か』 舞台には、まだ、誰も出ていない 『 : : : でも′」ざいますまい』 ますみ ているだけだ。 『十寸見源四郎が生きていれば、ちょうど : 『永いなあ』 『何を仰しゃいます』 も くり 1 一と あっち さざめき合っていた女の席では、こう云って、傍らの者の袖彼方からも、此方からも、だいぶ、同じ繰言が洩れ初めた。 とカく 殊に酒をのむと、兎角、気のあらびたがる旗本たちの群で を、そっと引いた者もあった。 り、・うわき そして眼で、舞台の両側を見よ、と教えた。 ひじかけ 一段畳を高く積み重ねて、緋毛氈を敷き、肱掛の青竹が、そ『山彦とやら、いっ弾くのだ』 めぐ 聞えよがしにいう者がある。 こだけに、回らしてあった。 今宵の主人役であり、又、時の宰相である柳沢出羽守吉保の何でも、噂の前ぶれによると、その山彦を弾くには、よほど ようえん 顔が小さく見えた。側に、侍いている妖艶な麗人は、寵妾のおな、達人でなければいけない。おさめの方は、随分、人選をし あまた て、今日になる前に、数多の三味線の名手をたずねさせた。そ さめの方にちがいない。 けんよう の結果、宮本検校という名人がひくことになっているのだそう で、一曲、名人と名器の調べが済んだ後は、上方役者の坂田藤 しょイ、 十郎の所作があり、又江戸役者の芸事もある筈だという。 しき 頻りと、そういう囁きは聞くが、待てど暮せど、舞台は依然 として空いている。 その他、一門一族の人々が、今を時めく燭の光にかがやいて『どうしたのじゃ』 火 いるし、特に、吉保の寵をうけている二、三の大名や旗本たち遂に、主人役の席で、吉保の声がした。 灯 おさめの方の眉にも、あきらかに、隹 . 々している不機嫌が見 も、別席にあって、杯を含んでいた。 うわめ える。何か、側の吉保に囁いたらしい。吉保は、再び前より高 市橋采女や藍田喬助の顔が見えたことは勿論である。 い声で云った。 空飯田の藩主の若殿、堀鶴之丞のいたことも当然である。 『誰そ、居らぬかつ。ーーー楽屋におる者を呼べ』 『だいぶ、間があるのう』 ほか 空虚な灯火 と・もしび かしず ひもうせん いろなべしま ひ ら 晃々と、檜板が光っ お 7

9. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

だと思ったことである。敵わないという観念だった、血の中か ( さては何かあったのではないか ? しず 鬘らにじみ上がる口惜し涙だっこ。 と、きようも一日、胸さわぎが鎮まらなかった。 たそが ・ : 舌を噛んで ! で、日の暮れるのを待ちかねて、黄昏れのうす暗い道 貞操を守りきる最後の手段が、もう彼女の苦しげな口の中でを、深川から通って来た。そして、宝石でも探すように、塀の 外をさまよった。 善用意されていた。すると、何事を感じたのか、耳は不意に、 いくら大地を見て歩いても、白い紙包みの石は落ちていなか 身を離して、高い切窓の下へ、いきなり駈け寄った。 った。胸騒ぎはいよいよ昻まる。 その時、外で何か人声が聞えた。 ( ーー適ッきり何か ? ) ふた声ばかり、大きな呶鳴り声が流れたと思うと、ばたばた ああ何か ? あしおと っと跳ぶ跫音も、微かながら響いてきた。 それは堪らない不安だった。 「はてな ? 何だろう』 『お重さんの所へ行って、何うしたものか、相談しようか』 みぞわしおしお 呟きながら、耳は、足元を見た。そこに一本の小楊枝が眼に そう考えて、長い土塀の溝際を悄々帰って来ると、いつもと とまった。小楊枝の先は噛みつぶされて臙脂がついていた。 違う裏門の横に、細い土塀露地のあるのを見出した。 拾い上げてーーーそれと紅吉の顔をじっと睨めつけていた耳あたりに人はいなかった。お蝶はそっと往来から曲がって、 くりや その露地へ入ってみると、ここは邸内の湯殿や厨の水の吐けロ 『あっ畜生。 : これで外の奴へ』 とみえ、物の臭いが鼻を打つ。 鋭敏な彼はすぐ覚ったらしかった。何よりも彼の怖れている 1 ーー ! あっ、これは』 ものは、秘密の洩れる事だった。すぐ扉を押して、耳は、ばっ 思わずロ走りながら、お蝶は、溝際に落ちている白い物へ手 と外へ駈け出して行った。 をのばした。 紙でつつんである小さな臙皿ー 拾いあげて、解きかけていると、 拾う蹙禍 1- ーー誰だっ』 朝にタに、お蝶はこの尾州家の外を、一度すっ廻って、紅吉 と、仲間の由蔵が呶鳴った。 の便りを拾うことを、あれからも怠らなかった。 解いた文を、帯の間に突っ込むと、お蝶は夢中に、臙脂皿を それが、ゆうべも、今朝も、いつもの場所に落ちているその声へ向って抛りつけた。 礫の便りが落ちていない。 この阿女っ』 つぶて わ かな たか いきなり突当りの小門が開 276

10. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

ばんびさしようらく いたが、突然、 千本廂の瑤珞をかすめて、紫いろのけむりが月光のなかへう っすらと靄のように這って見えた。 雨『待てつ』 まね 『若いのー つまらねえ真似はよしたら何うだ。ちと、血の ねと、声をかけた。 もろはだ ひとみ つもう山助は諸肌を脱ぎかけていた。礼記の声に、眸だけを向気が多すぎようぜ』 おか そう云って、可笑しげに、又笑った。ばんと欄で煙管をはた きけて、決意のほどを明らかに示した。 く音がその次に響いた。 礼己は、つと寄って、 『死ぬか ! 』 二人は、思わず跳び別れて、 『誰だっ ? 』 と、やや感情の昻まった声で云う。山助は頷いた。 『 : : : 死を以て、せめて、土佐守様のお退き道をひらきたいと答えはない : たばこいれたた 存じまする』 黒い人影が、煙草入を畳んでいる。のっそりと、千本廂の下 らくたん 0 『父は : そうじゃ、父は落胆もしようが、当然、退役すに、立ち上った様子であった。 る』 山助が続いて、 『何者だっ、そこにいるのは』 『敗者の恥は一時の事、それが、せめてもの』 昻ぶ 0 た感情のまま呼ると、男は、初めて答えた。 『待てつ。わしも死のう』 『わからないか。俺は、忠信の徳次だが』 そなた 『よ、よこっ ? ・ 『わしも死ぬ。其方一人に腹を切らせては世間が歩けぬ。父 は、いずれ、隠居後、二度と役人はすまい。僧門にでも入るお あまりの事に、二人は、却って、腰をついてしまった。 ちが 気質だ。何の望みも絶え果てた。山助、刺し交えてーー』 えりもと ぐっと、彼の襟許をつかんだ。山助は、その眸のつよさに、 止めても止まらない礼記の熱情を感じた。 捕縄の恋人 『では、共々ここで』 『おおっ』 こずえ 二人は、小脇差を抜き合った。森の梢から射す月の斑が、ち濡れ手拭をぶらさげている。上気した小粒の汗をそれで軽く らと、二つの切っ先に露でも弾いたように光った。 ゆかた すると、けらけらと、何処かで笑う男があった。 銭湯の帰り途らしい軽い浴衣がけで、憎いことには、素足に はきもの 贅沢な八幡黒の緒のついた穿物まで穿いていることだった。何 耳のせいでは決してなかった。 はっと、振向くと、五重の塔の階段に、螢のような煙草の火一うしてこれが、江戸全体の与カ同心と、鬼奉行石川土佐守が、 血を吐くほどな、努力を賭していても、まだ、捕まえることので が見える。男は煙草をくゆらしているのである。 たか うなず ぜいたくやわたぐろ てめぐい とりなわ もや かえ らん すあし イ 32