山彦 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨
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1. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

でもいわれるか』 『ま、そう、仰せられずと』 『山彦どころか』 『嫌じゃ、嫌じゃ。殿様のお越しを仰いで、そなたも、屹度、 きゅうめい 『なんじゃと』 糺命してあげるから、覚えていやい』 こおうみ にせもの 『古近江の偽物、お使い用にもならぬ駄三味線と存じまする。 『お待ちください』采女は、狼狙して、青ざめた顔を、窓際 嘘と、思し召さば、あれにおる、都一中でも、誰にでも、鑑定へ、持って行った。 まこと をさせて御覧なされませ』 『これから、すぐ、再び上方へ発足して、真の山彦を、近々の たずさ 『これ、八橋殿、よう見てくれ』 うちに、必す携えて帰邸いたします故、殿様のお耳へは 『見るにも、堪えぬ品、御念には、及びませぬ』 『なんの、もう、そなたは信じられぬ』 1 一ゅうよ 「では、偽物か』 いえ。今度こそは、必す : ・ どうそ、暫くの御猶予 を』 『よう、市にも、売物に出る安物。はははは、飛んだものを、 お求めなさいましたな』 采女は、あたふたと、裏門から出て行った。 あお おさめの方は、蒼ざめて、ついと席を立ってしまった。 急病といって、おさめの方は、その夜の会を、あいまいな馳 でも采女は、まだ信じられぬので、それを、広間に持って出走に濁して、席へは顔をださなかった。然し、偽山彦の話は、 て、一同へ見せた。然し、誰も、それを山彦とうなずく者はな誰からともなく洩れて、彼女の無智と、柳沢家の権力への皮肉 噂になっこ。 、食わされたか』 『もう、三絃いじりはせぬ。だが、山彦はあきらめぬ。真の山 采女は、裏庭へ、偽物の古近江を引っ提げて来て、敷石へた彦を、手に入れて、打ち砕いてしまわねば、胸が癒えぬ』 たきつけた。そして、煮え返るような忌々しさを、腕拱みし おさめの方は、徳兄妹の采女へ、そんな意味の手紙を書き、 て、砕けた三絃を睨みつけていると、 金を添えて、使いに、そっと持たせてやった。 『采女つ。ようも、きようは、このおさめに、辛い恥をかかせ采女は、二日ほど、市中の遊び場を駈け廻っていたが、やっ やったの』 と、丁字風呂の二階で、湯女を相手に、酒びたりになっている どな おさめが、居間の窓ごしに恨んだ。 藍田喬助を見つけだして、彼の顔を見ると、頭から呶鳴った。 采女は、面目なかった。庭へ下りて、手をつきながら、 『喬助つ、大変だそ』 『何が』 下『お部屋様、ま 0 たく、手前の粗忽』 南『粗忽ですみましようか、ああして、人まで招いてーー・。殿様『はやく起てつ。飲んだり、遊んだり、そんな事のみ、目的に わらわ 風の名折れでもある。妾は、世間へ顔むけがなりませぬ。もう、 してるから、かような不始末を為でかすのだ』 兇誰へも、姿を見せるのは嫌じゃ、きようの会も、病気というて『一体、何が、どうしたのだ』 『いっそやのーーー山彦ーーー』 めきき あいだきようすけ そう ろうぞ、 めあて きっと

2. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『この三絃に、見覚えがあるかの』 父の魂が頬へ、感じられた。 彦『ございませぬ』 『さ。この上は、少しもはやく、この上方を立ち退いたがよ 7 ふくろ 『嚢を、解いてごらんなさい』 。やがて、偽山彦に気がついて、采女と喬助が、共女を探し 山 いわるるまま、お品は、解きかけたが、ちらと見た紫檀棹のまわるに違いない』 藤十郎は、鬘師の伴蔵を呼んで、お品を、四国まで送ってゆ 恋 ことひら むろけんよう 『あっ ? 』 く事を吩咐けた。讃州の琴平に、古曲の名手、室の検校がい と、驚いて膝へ落した。 る。親しい間なので、藤十郎はそこへ、彼女の身をたのむ為に 添え状を書いて、 『いくら、執念ぶかい市橋采女でも、まさか四国と迄は、探し 当てまい 伴蔵、お前を見こんで、頼むのだぞ。どうか、 讃岐船 途中気をつけて行ってくれ』 っ一 ) 0 と、 よろこ 夢かーーと呆れながら、 伴蔵は、欣んでひきうけた。 ーーだが、それを知って、浮か 『太夫様、こ、これは、父の持っていた山彦ではございませぬない顔をしていたのは、大道具の勘太郎だった。 藤十郎は又、少なからぬ路銀を、お品へやった。お品は、こ いのち めと 『源四郎さんが、生命にかえて、守って来た品、今は愈、尊の恩を、どうして返そうかと思った。生涯、妻を娶らぬという 誓いをたてている藤十郎は、恋は、浮気なものとしていた。で 『この山彦は、市橋采女に、奪われたとばかり思っていました彼は、お品を、自分の妹と思うように心で努めた。 きたなふるめの のに、何うして、太夫様の手に ? 』 途中、目立たぬようにと、山彦は、わざと穢い古布に巻き、 みなり 藤十郎は、にこと笑って、 お品は、背へ斜めに掛けた。そして、身装も旅芸人のように、 きやはん わらじ 『悪人も、そう巧いわけにはゆかぬ。ーー万一の事があっては粗末な手甲に脚絆、足は草鞋、顔は笠。 と、源四郎さんが、持っていたのは、わしが使っていたつまら『旅かせぎの渡り鳥、あっしは、亭主と見せて行きましよう』 ぬ三味線』 鬘師の伴蔵は、笠の上から、手拭で頬冠りをした。 『えつ、それでは、采女や喬助は、その偽物を、山彦と思っ そして、勘太郎に、 て、盗んで行ったのでございましようか』 『こう、似合うだろう』 『ははは、そうじゃ』 と、冗談をいった。 『まあ』 勘太郎は、苦ッばい笑いを歪めて見ていたが、眉間には、隠 ほおず しっと お品は、山彦へ頬摺りした。甦生えった父と会ったように、 しきれぬ嫉妬が燃えた。 さぬ あき うねめ ぶね 上みが したんざお かつらし ゆが ほおかぶ かみがた みけん

3. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

共角と、藤十郎の間に挾まって、お品は裏門の外へ駈けだし『藤十郎様、貴方は、何うして今日の催しにおいでなされたの おび た。変を聞いて、外から駈けこんでくる武士たちと、騒動に脅でございますか』 おびただ えて、外へ逃げだしてゆく夥しい六義園の客とで、門の警戒『わざわざ、招きをうけ、上方から下って来たのじゃ』 『では、私の事は、一蝶様か、其角様に、前からお聞きでござ は、完全に、秩序を失っていた。 のが いましたか』 苦もなく遁れだしたので、藤十郎は、ほっとしながらお品へ 『いや、詳しい事は、その前に、小源太殿からすべて聞いた』 向って、 『えつ、小源太様にお会いなされましたって ? 』 『そなたの孝心と一念が届いて、首尾よく、山彦は奪り回し しめ 『今日も、実はその小源太殿と諜しあわせて、わしの弟子の尾 わしらも共に』 た。こんな喜ばしい事はない。 かんじゃく 上翫雀と名を偽って、六義園のうちへ、忍びこんでいたのじゃ』 と、心から一ムった。 『では ?. 人影のない闇まで来ると、お品は、やっと落着いて、 お品は、足を止めて、振向いた。 「これで、亡父さんの遺言が立ちました』 ばうぜん 私が、山彦を奪って逃げる途端に、何か大騒動の起った 茫然と立って、とめどなく流れる涙に、白い頬をまかせてい のま、、 源太様が、働いた為でございますか』 しんがり 『元より、その助勢があって、殿をしてくれたればこそ、此 藤十郎ほどな経緯は持たないけれど、柳沢の専横に、日頃か やすやす っ方は、易々と逃げることができたというもの』 ら反感を抱いている共角は、 『 : : : 知らなかった』 「よい気味だ。これで、柳沢吉保も、おさめの方も、少しは、 低く呟いたお品の顔は、闇の中でも、紙のように白く見え 眼をさますことだろう。飛ぶ鳥を落す時の執権を相手にして、 そなた かよわい共女が、一念を遂げたというのも、あの山彦にこもっ ますみ 「もしつー ・ : 藤十郎様、又其角様、ここでおわかれいたし ている十寸見源四郎の魂が、名器とわが子の身を、あの世から ます。どうそ、あの山彦を、亡父の十寸見源四郎に劣らぬ名人 護っていなさるからだろう』 : あ、そして山彦の手へ、万代までも、お伝え下さいませ。そればかりが、お願 「ほんとに、自分の力とは田 5 いません。 いでございまする』 すまい 「心配しなさるな、一蝶と文左衛門様が、先へ、京橋の住居へ『何をいうのじゃ、いきなり』 『いいえ、後で、御合点が参ります。わけても、藤十郎様に 道持って行「て匿してある』 『ありがと , っ ~ 仔じ亠工す・』 は、亡父も私も、深い御恩にあずかりました。その御恩も返さ 行 ずに、、い残りではございますが、ぜめては、あの山彦を、亡父 『はやく、町へ出て、駕を拾いましよう』 の 女藤十郎が、急ぎ足に歩みかけると、お品は初めて、彼が、こ源四郎の遺物とおばし召て、生涯、おっかい下さるならば、亡 父も、何んなにか欣びましよう』 こにいる不審を思い出した。 ) 0 いきみ一つ せんおう かえ かたみ めし 1 イ 7

4. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

目次 恋山彦 善魔鬘 きつね雨

5. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『そうだ、 一心、不退転。 これは死ねとの刃ではない。生か、姫路の城下へと、勘太郎は楽しい新世帯を夢みながら歩い たまもの 彦きろという、童神の賜物。どこ迄、飽まで、強く生き、この一た。山彦は自分の背に負っているし、お品の容子も前とは変っ て、すっかり優しくなったので、彼の得意さといったらない。 心を、退かず、転ぜず、必ず初一念をとおしてみよう』 さびがたな 山 わロロ十 ( 、、 しつも馬か駕を求めた。夜はわざと合宿の多い木賃 紙に巻いた錆刀を、帯の間に秘して、 『勘太郎さん』 をえらび、絶えず他人を側へおいた。 恋 てわざ たど 外へ呼びかけた。 辿り着いた姫路の城下。勘太郎は大工の手業に覚えがあると ふしんば いって、その日から、普請場仕事の手伝いを探しに歩いた。そ 陽なたに転がっていた勘太郎は、む・つくり首をもたげて、 しやくや 『どうだ。考えがついたカ』 して、城下端れの裏店に、小さな借店も見つけ、お品と一緒に 『つきました。 : お前のように、私を田 5 ってくれる人に、無移った。 情ことを言い通して来たのは、まったく私の考え違い。お心に 『さ、約束どおり、夫婦のかためをしてくれ。それさえ済め にやっかい ば、俺あ、こんな山彦なんそ、荷厄介に持ち歩いて居たくはね 従います故、ここを出して下さいませ』 めえ おい、嘘じゃあるめえな』 『何だって。お心に従うって。 え。いつでも、お前に返してやる』 『決して、偽りは申しませぬ。 ですが、こんな島で暮すの 『もう少し待って下さい こうしていれば、夫婦も同じこと。 カ忌ぐ事は、こざいますまい』 『いや、真の誓いを結ばぬうちは、何うして、油断がなるもの 『いや、共っ方さえ承知なら、誰がすき好んで島になぞいるも めえ のか。陸へ行って、俺は日雇いでも何でもするし、お前も働くか。夫婦夫婦といいながら、まだ俺に、奥底まで許さねえのが 4 かー ) い』 気があるなら、日雇いでも何でもするのよ』 おやこ 「そうなら、ほんに欣しゅうございます。何で私は、今迄、貴『でも、亡父の一周忌までは、心の喪がとれませぬ。父娘の礼 儀、女の道、それだけは、立てさせてくださいませ』 方を嫌っていたのか : うさんくせ 『おいお品、あまり調子のいい事をいうなよ。何だか胡散臭え 『一周忌、じゃあ秋までか』 そ』 『え。この秋には、その代り、必ず晴れて夫婦に : : : 』 いのち 『そう疑うなら、私の生命よりも大事な山彦、あれを貴方にお『ちと待ち遠いな。だが、よしよし、くッつきあいの夫婦とい なこうど かせ う奴あ兎角離れやすい。それ迄に少し稼いで、仲人を立て人も 預けいたしましよう。出して下さいつ、後生ですっ』 いやおう 『よしつ、そこ迄いうなら間違いはあるめえ』 招んで婚礼しよう。その場になって、嫌応はあるめえな』 の そとぐるわ 姫路城の外廓に、普請があった。勘太郎は毎日そこへ仕事に 勘太郎は、岩窟の口元から石を退けて、お品をひき出した。 しつか たずさ 約束どおり、名器山彦は、自分が慥乎と携え、通りかかった物通うのだった。然し、例の山彦を背負って行く事だけは忘れな だちん 売り舟に駄賃をやって、彼女と共に、陸へ渡った。 味野港で、身支度だの食物だの、用意をして、一先ず岡山普請場へ行くと、彼は人知れず、それを道具小屋に隠してお おか た・ヘもの あく お つれ とカく

6. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

んだ。 をもって、度々、源四郎を訪れてはいたが、いつも、 『もう一度いってみろ』 彦 ( さあ、こればかりは : : : ) うねめ かわ お生憎でした。父が渡すといっても、山 態よく、交していたのである。然し、その采女が、こん度の 山 旅を知って、この京都まで来たとあると、所司代の公用より彦は、古近江と、初代源四郎と、二人の魂がはいっている名 も、目的は、山彦にあることは知れきっている。先も、最後の器、父のほかに、持ち手はありません。私が嫌です』 恋 肚をきめてきたものと見て、それに対する要意をかためねばな『生意気なっ』 とっ、 らぬ。 喬助の腕がうごくのを感じた突嗟に、源四郎は、背をもっ て、お品をかばっこ。 お品の眸は、疑心や暗鬼ではなく、明かな戦意にかがやい くち 『お待ちください』 彼女の眉や紅唇のやさしさは、性格とは、反対だっ ど めくら めしい た。盲目の父をかかえてあらい世を通ってきた意志が、勝気な『退けつ、盲目っ』 わがままむすめ 『気ばかり強い吾儘娘、私がどんなにも、代っておわびいたし 江戸娘の血を、より濃くして、白い皮膚の下にひそめていた。 ます』 『では、渡すか、山彦を』 采女は、陰険な眼を、連れの男へやって、 かけあい しよせん お品は、さけんだ。 貴公、代ってくれ』 『所詮、俺のやさしい懸合ではだめだ。 『さほど、欲しければ、山彦を持つほどの、芸を腕に持ってお 『 , つむ』 あいだきようすけ 藍田喬助は、采女の悪友で、浪人ごろだ。のそと、お品の胸いでなされませ。おさめの方へも、そう仰っしやるがよござん ぼつけんあざ よこびん へ、自分の胸を寄せて行った。横鬢に、木剣痣があるし、眼す』 ろっこっ 『おのれつ』 は、兇悪をあらわしていた。剛健な肋骨は、不気味な迫力をも おやこ 采女は、お品の腕をつかんだ。父娘は、左右へ突き離され 『お品、おめえは何うだ。盲目の依怙地というやつで、親父は お願いでございます。こ だが、おめえ迄が、つまらぬ首を横に振り 「往来のお方つ、往来のお方つ。 相談にならぬ。 の目のわるい私の父を、万太夫座の太夫さんの楽屋まで、連れ やしめえな』 て行ってやって下さい』 『振ったら : ・・ : 何うなさいます』 父の体と、山彦を、一身で守りながら、お品はさけんだ。宵 『よすのだっ ! 馬鹿な強情は』 ちょうちん の四条を、ちらほら通る堤灯だの、人影だのが、わらわらと集 『お生憎でした』 っ一 ) 0 『何っ ? 』 み、つき 『よくいった。お品は人質』 先刻から唖みたいに黙っていた彼女の顔の白さを、恐怖のた いしゅう 采女は、蝟集してきた人影や駕に、それ以上の行動を不利と めと思っていた喬助は、ぬっと腕をのばして、お品の肩をつか あいだ おし ひとじち

7. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

さしえ中尾進 ( 恋山彦 ) 完 ( 善魔鬘 ) 山本武夫 ( きつね雨 ) 日

8. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

あたら こもっている山彦が、可惜、漁師などの手に拾われ、心なき人を、ばっと枯木の間から出し始めた。 るてん 彦や、古物屋の手に流転することを思うと、耐えられない気がす『美しい煙ー。ー。無情な煙。・ : ・ : ああ現世というものは、この る。 煙のほか、神もない、仏もない』 あいくち 山 といって、岩に打ちつけて砕くのも、勿体ない、傷ましい 炎の前に坐って、匕首を抜いた。刃の肌に火の色が煮えるよ 『そうだ、い っその事、炎に焼いて、その煙りに現世の無情をうに流れた。 恋 とむら ながめ、名器の最期を弔いながら自分も共にー 一方の手には、名器山彦を抱き寄せ、暫く、眼を瞑って別れ 勘太郎の寝顔をのそくと、覚める様子もないので、彼女はそを告げていたが、やがて、 『南無・ - ーー』 っと立ち上った。低い丘のような岩を越えると、南の磯へ向っ けず かしら て、巨大な硯に似た岩石が、高く低く、削ったように海へ頭を ばッと、炎の中へ、燻べられた山彦 ! 入れている。お品は、そこらの枯木や、浪に打ちあげられた木途端に、匕首の光りは、。 くっと、真白に上げた彼女の喉笛へ 屑を抬って、一つ所に積み寄せた。 そして、火を放けようとして、体を探ると、落したのか、あ の際、慌てていた為、忘れて来たのか、燧打袋が無い。 『ああ、火すらも、儘にならないか』 不退 うしろ 当惑したが、ふと後を見ると、一丈ばかりの岩石が、屏風重 がんどう ねに折れ込んでいる蔭に、真っ黒な龕燈が一つ載せてある。 そこらは、海鳥の糞が、雪みたいだった。水路の便りに灯す あわやと見えた一瞬であった。 りようし とも 漁師のものか、竜神を祠る夜に燈す火か、とに角、龕燈がある『ふざけるなツ』 ひうち うしろ 以上、燧打道具も、どこかに置いてあるかも知れない。 いつの間に起き出して、後に居たか、勘太郎の足が、お品の すえがんどう そう考えて、近づいて行くと、据龕燈の置いてある奥は、屈手を強く蹴った。 んで這入れるぐらいな洞窟だった。 「あっ とびうお 中には、何を祠ってあるのか、玉石が、墳墓みたいに積んで弾じき飛ばされた匕首が、飛魚みたいに空へ躍り、どこかで ある 手で探りまわしているうちに、 カランと音がした。同時に、真っ黒な煙、真っ赤な火の粉が、 『あった』 ばっと二人をつつんだと思うと、勘太郎は炎の中から、山彦を さび 白い蝋石と錆た金具とを見つけた。鉄の燈明皿には、ほんのつかみ上げて、 僅かながら、油さえある。それを持って出て、お品は、積んで『熱ツ、熱ッ』 ある枯本へ火を移した。 眉に燃えついた火を払ッていた。 ほのお 細い煙のすじが、やがて、ばちばちと音を立て、鮮麗な焔『飛んでもねえ真似をしやがる。もう野放しに為ちゃ置けね すずり まっ ふん ひうちぶくろ はか 一ム のどぶえ

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るという所司代へ、出かけて行った。 体だぜ。それよりは、生きて、無事に、源四郎と暮すことを考 ひやざけ 喬助は、台所へ来て、冷酒を一杯あおり、飯を食った。どうえねえ。 あの山彦も、渡さずによ』 せ空屋敷だし、一時の手伝いなので、仲間たちは、ろくな用も ひざ お品は、膝を向けなおした。 せず、やがて、用人部屋にかたまって、博奕に耽け ? ていた。 『どこか、江戸の秋たあ、違うなあ』 『そんな思案があるでしようか』 わらぞうり み一つキ、 藁草履を摺って、先刻の落葉の火を見たり、裏の竹林を、ぶ『なくって何うするものか。俺を頼れ。 こうみえても、藍 らぶら歩いていたが、やがて、納屋蔵の前へ来ると、あたりを田喬助は、血も涙もある男だぜー・・ー何もさ、山彦が、おさめの じよう 見廻して、錠を外した。 方の手に入ろうが入るめえが、俺にとっちゃ、何っ方だってい 腐った藁の蒸れ、味噌の香、黴の香などが、一つの異臭にない事だろうじゃねえか』 『では : ・ : 私を : ・ って、ぶーんと鼻をうった。 いえ、騙すのでしよう』 『お品さん : : : 。退屈だろうな』 『騙す。ははは、おめえは、俺を疑っているのか。今は、ちょ あきだる 空樽がころがっていた。お品は、ここ二晩、ろくに寝ない青 うど采女も留守だ。その留守を窺ってここへ来た俺の肚が読め とぐち 白い顔を、扉ロの明りへ力なく向けた。 そうなものだが』 『おめえの親父は、よくよく、情なしの頑固者だぜ。まだきょ 『御恩に着ます : ・・ : 』 から うも、山彦を持って来ねえ。 子よりも、三味線が可愛いし 思わず、抑えていた弱点が、絶望と、勝気の殻をやぶって、 とい、つ親が、どこにある』 全身に出た。お品は、縋りついた。そして、父恋しい涙をいっ むしろ 莚をおいて、彼女のそばへ、膝をかかえて坐りこんだ。 さんに頬へながして、 ふびん 『この儘、受けとりに来ねえとすれば、不愍だが、おめえは永『お願いです、逃がしてください』 劫、源四郎のそばへは帰えれねえぜ。 『オ、逃がしてやろう』 ん、何うする』 『えつ、ほんとに』 『何うもしません。納屋蔵で、白骨になるだけでございましょ 彼女は、跳び立った。 『覚悟かい』 その体を、いきなり、喬助は強く抱き仆して、 ュ / カ』 『 : : : 覚悟です。もし、父が負けて、山彦を持って来ても、私 炎うれ は欣しいとは思いません』 と、抑えつけた。 『おめえも、源四郎に負けねえ強情者だな』 獣じみた眼と唇が、彼女の襟もとを嗅ぐようにした。お品は 『芸もないくせに、柳沢様の権力をかさに、名器を持とうと計心臓の上の手を、刎ね退けた。そして、さけびかけると、 『しつ、静に』 獣る、おさめ様とやらの心根が嫌です。何という、賤しい根性』 こおろ 『怒った所で、先は御大身、おめえは今、蟋蟀と同居している『何をつ。あれつ : わらい なやぐら かびにおい がんこもの あそびふ ほお すが だま えり うかが たお

10. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『平に : : : それだけは』 執着だ。 『野をいうな。芸人の愛嬌としても』 ま - 一と 名器の招いた科である。 こき、いますが』 『寔に : : : ぶあいそでは、・、、 よしやす 事の始めは、この春、柳沢吉保の下屋敷で、三絃会の催しが 『嫌かっ』 おり あって、その機、八橋検校のロ添えで、やむなく、源四郎が伝 家の山彦をたずさえて、一曲弾いたのが、因だった。 『どうあっても』 すいせん オカ無性に、眼をつけたのは、愛妾のおさ 吉保も、垂涎し ' ミ、 念を押した。 うしろ たたず とーー彼の背後に佇立んでいた連れらしい武士が、その頑健めの方で、八橋検校を介して、 な肩幅を、ずっと前へ押し出してきた。そして采女の威嚇を代 ( ぜひ、あの山彦を ) いうのである 理するように、逞しい腕ぶしを捲った。 めし、 譲れというのだ。金力と、権力で。 だが、盲印の源四郎には、ききめがない。 ( いくらでも、金を望め ) 『左様 : : : 膠のないお答えながら、ちょうどよい機、この際に、 吉保からも、所望が出た。吉保が、おさめの方に、その希望 おさめ様のお望みも、きつばり、お断りいたして置きまする』 を容れてやりたいにも理由があった。 そう言い断って、源四郎は、わが娘の手を、きつく握った。 三絃の名器として、天下に聞えているのは、烏丸光広から某 お品は又、父の全身を守るような眼で、きっと、采女と二人の 家に贈られて、今は、尾州侯の夫人が、嫁入道具として持って 武士を見つめていた。 なるかみ 父一人娘ひとりである。激しい世路の迫害や陥穽に、いつできたとかで尾張に秘蔵されている「鳴神」と、も一つは、初代 こおうみぜんべえ ますみ も、彼女の眼は、それを観破る聡明さと、闘う光とをもってい十寸見源四郎のために、皷胴の名人古近江善兵衛が、魂をうち めしい そうなければ、何うして、この盲目の父を抱いたこのこめて作ったという、この「山彦」の二つだった。 おさめの方の執着も執着だが、吉保としては、家蔵の誇りも かよわい女性が、ここまで、正しく生きて来られたであろうか。 持ちたいし、自分の権力をも問われる気がした。是が非でも、 という気持になった。 拒まれれば、拒まれるはど、それの、強くなるのが、人間性 より濃き血 きようはく 血 である。幾度も、源四郎の家へ使いが立った。強迫もあった。 だが、源四郎としては、飢えても、死んでも、山彦を離すこ とはできない。 初代の遺物だ。名匠古近江の魂だ。まして 胡麻の蠅や詐欺には、道中も、注意はしあって来たが、まさ よか、市橋采女ともある者が、この京都まで尾けて来ていようとや、芸に生きる身。 市橋采女は、おさめの方の従兄妹とかで、その頃から、甘ロ は、勘のいい源四郎も、聡明なお品も、夢にも思っていなかっ いちはしうねめ かたり たくま うねめ かんせい おり か く がんけん わざわい とが つづみどう かたみ