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検索対象: 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨
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1. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

の。風越一帯より虚空蔵山は、すべて、千古斧を入れたことの 彦飯田藩は、禄領六万石と公称されているが、山ばかり多いのない檜の密林。なぜ、伐りだしをなさらんか。又、藩の財政、 で、実際は、四万石足らずしかない。大名にとっては、非常窮乏とか承るが、虚空蔵山一帯を入れれば、水田の何万石にあ たいまんしごく 山 たると思いめさるか。近ごろ怠慢至極な沙汰』 に、歩のわるい領地だ。 そこへ、堀美作守が、移封ってきた。今までの領土も六万石と云って、飯田藩の江一尸家老を、てきびしく、叱りとばし 恋 きゅうばう の程度だったが、実収では、減禄された形になる、藩士の窮乏 は、当然になってきた。 いわれてみると、尤もだった。 よしやす そこへもって来て、江一尸表の執政、柳沢吉保から、 千古の処女林、虚空蔵山から、巨材を伐りだして、払い下げ ふしん ゆたか れば、藩の財政などは、たちどころに、豊になるし、又、江戸 ( 二の丸御普請に付ーー ) ひのきざい という名目で、伊那の檜材上納を割りあててきた。その材本送りの費用などは、何でもなく出る。さすが、柳沢吉保であ が、どう考えても、必要以上に、莫大な数なので、江戸家老にる。居ながらに天下の財務と政治をつかさどる器量はある。 と、感、いましこ ; 。 調べさせてみると、二の丸の御普請につかうのは些細な量で、 残余は、柳沢家が染井に建てる別荘ーー六義園に使う為らしい 移封の際、前の領主からうけついだ領地分限帳には、虚空蔵 という報告だった。 山は、飯田領に入っていない。では、隣藩の領地かというと、 そうでもなかった。 『不都合な』 ー・ーただ漠然と、 と、美作守は怒ったが、 ( 御神域、風越、虚空蔵山の二山、上郷下郷に至る ) とある。 「執政となれば、それ位な役徳はあるのが当然。時めく、柳沢 神領にしては、広大すぎる。天領でもない。い わゆる主なき に、逆らっては不利でござる』 子息の鶴之丞は、父をなだめた。鶴之丞の智識や才覚は、す領地だ。 み、おさ 習慣で、代々の領主が、手をつけなかったのであろうが、天 べて、新しかった。時流に棹して、やがては、閣老の一員とも 下の執政、柳沢吉保が、 なろうという考え。 「伐り出せ』 と、云った以上、それは、飯田領のものと公認されたも同様 困ったことには、そう、飯田藩にも、檜の巨材がない。又、 である。 江戸へ送りだす費用にも窮した。 はやうち 早打駕をたてて、柳沢家へ、事情をのべると、吉保は、諸侯 こう、鶴之丞は、解釈した。 の分地図を常に調べているので、伊那の飯田六万石の領土境そこでに、家臣、足軽、五十名はどの一隊をひいて、山支 を、殆ど、そらんじているように、 度で、検地に登ったのであるが、計らずも、例の天壇の柵を越 かみ いや、飯田領に檜の巨材が乏しいなどとは、上を偽るもえて、里の者が、絶対に足をふみ入れたことのない峡谷へかか かざごえ かみ 1 一うしも 1 一う おの めし

2. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

喬助は、 『客か』 『なあに、左様なことは、御心配ない。 これに居らるる采女殿 「左様でございます』 じゅんさい 『さては、鶉斎が、若菜をつれて来たな。ーー美しい娘を連れは、幸にも、柳沢家のおさめの方様の御親戚、そこから、そっ すが と、お縋りあれば、どういう策も講じられると申すもの。 たせむしの釜師であろう』 ただ種々と、費用はかかるが』 『いえ、御領主様からのお使者でございまする』 謎をのこして、旅宿へ帰った。 『何。ーー堀家から ? 』 数度の往来があって、やがて、堀家から莫大な金が、采女の 手紙をひらいて、 手へ届いた。それと共に、鶉斎が、若菜を連れて、訪ねてく 『喬助、どうしよう』 る。 『何だ、一体』 『何かわからぬが、藩邸までお越しねがいたいという。家老の彼は、有頂天だった。 ぜいたく じきひっ 直筆だ』 すばらしい旅装を新調し、金にあかした道中の贅沢をつくし て、江戸へ、急いだ。 そして、先へ着くとすぐ、藍田喬助 『ははあ : : : 。鶴之丞の事だろう』 だけが、柳沢家から、何事かいいっかって、即刻、飯田へひっ 『そうかも知れぬ』 「行ってみたらいいじゃないか。柳沢家とは、特別な間がらで返してきた。 鶴之丞救いだしの膳立てが、すっかり立ったのであろう。村 もあるし・ : : ・』 上修理、梁川甚左の二人は、ふたたび前の人数で、山へ入っ すすめられて、采女は行く気になった。無論、喬助も、つい て行った。 しやく すばらしい歓待と、馳走が、二人を待っていた。美人の酌で むみ、ば ある。喬助は、生地をだして、貪り飲んだ。 家臣が、とり巻きに出る。やがて、家老が挨拶にくる。 世間第一歩 そして、折入っての、懇談だった。 采女は、難かしい問題に、考えこんだが、喬助は、例の奸智 おおおじ 『大祖父、これに在してか』 に富んでいる男、無造作に、一つの奇策を、提案した。 『小源太よな、まあ坐れ : 歩「なる程』 藩臣たちは、感服した。 第 『秋も近う覚えられまする』 だが、実行の問題になると、これは、軽々とはできない。 世・ - ーー委細を幕府に訴えて、その処置を仰ぎ、裏面からは、柳沢『はよう、峰のいただきに、初雪が見たいであろうず』 『大祖父の戯むれごとを』 吉保のカでも借りなければ、難かしいと思われた。 おわ ぜんだ のどかな日だ、鵯が頻りと啼 ひ上どりしき

3. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

身を起して、うろうろと、歩みかけた。 みだって、絶えたものと諦めるには及ばない。屹度、わしも片 彦其角は、抱きとめて、 腕を貸しましよう』 『ばかな事を言わっしゃい。行った所で、狂人あっかいにされ温い言葉を聞けば聞く程、お品は、涙が出てならなかった。 いのち 山 るだけの事だ。悪くすれば、生命があぶない』 氷のように閉じていた硬し . 。 、、いこ、人情の湯が注がれて、いっさ 『どうせ、あの山彦が返らねば、生きていられぬ私でございまんに、溶けて、涙になるのだった。 恋 『さ : : : 泣いて居ないで、その辺まで行けば、駕もあるし : : : 』 なだ 『そんな短気を云うものじゃない。名器のある場所さえ分ってと、其角は、手を曳かぬばかりに、宥めすかして歩みだした。 いれま、、 。しつか、時節というものが来る。気永に、その時節を すると、二人が気づかぬ間に、越前堀から永代橋の袂へかけ 待ちなさい』 て、水も、空も、真っ赤に夜が染められている。物々しい人影 「でも、みすみす : ・・ : 』 のうごきが察しられた。殊に、其角が今しがた辞して来た柳沢 「まあ、そう一図に嘆かないで、暫く、茅場町のわしの家へ来の中屋敷の方では、何事が起ったのか、わあっと云う高潮のよ おり て、凝と、よい機を待つがよい : : : 的のない、慰め言を云うの うな人数の声であった。 ではなく、この其角にも、少し思案があるのだから』 『やっ、出火か ? 』 ふだん たたず 其角はたった今、平常から出入している柳沢家の奥家老に用共角は、そう思ったらしく、お品の身を引き寄せて佇立んだ 談をすまして、提灯を借りて戻って来た途中なのであった。そが、火事にしては、騒いでいる範囲が広すぎるし、乱れ飛ぶ提 の途中で、お品に遭ってこういう話を聞くというのも何かの縁灯の火も方角が一様でなかった。 であろうし、その話に嘘や偽りはない様子だし、おさめの方 あくらっ の、非道な慾望と、それを取巻く市橋采女や喬助の悪辣ぶり なでし 、義憤を覚えずにいられなかった。 星影撫子花 ますみ ましてや、旧交のある十寸見源四郎の娘だ。何んな事をして かくま かえ も匿ってやろう。そして山彦を奪り回してやろう。死んだ友達 たむけ への手向にもなるし、思い上った柳沢の愛妾おさめの方や軽薄『何処へ失せたか』 な人間共への見せしめになる。 『川筋川筋』 そう考えて、 『川には、橋番所の者と、船手が出ている』 おか 『お品さん、悪いようには決してせぬ。この其角を信じてくれ『陸を探せ』 るなら、とに角わしの家まで一緒においで。その上での相談と 『油堀の方へ、走ったらしいぞ』 しようじゃないか。柳沢一門の権勢振りには、誰もが、慴れて槍、六尺棒などを、手に手に持って、一かたまりの人数が駈 ひそ キ、か′、 じっ あて きちがい おそ きっと 716

4. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

て、魔の天壇、虚空蔵山を伐りひらくのじゃ。この儀、申しつ侯へも、よしなに、取り計らうでござろう』 『執政の御縁故であろうとは、夢にも存ぜず、失礼仕った。何 彦けたそ』 くんゅ とぞ、よろしく』 一場の訓諭をした。 山 如才のない若殿だった。鶴之丞も、采女も、元禄の現代人 小屋の横からのそいていた采女と喬助は、 あたま いわゆる当世型なので、意気は大いに合った。 『さすが、大名の子息、頭脳はあるし、弁舌も爽やか、立派な りようじ 恋 ものだ』 傷の療治もしたいし、準備もあるというので、鶴之丞はいっ たん近侍を連れて飯田の城へ帰った。然し、釜師村の住民が、 と、感服していた。 逃亡してはならぬというので、家来半数以上は、山に残った。 すると、鶴之丞は眼ばやく、 『オオ、きのう出会うた武芸者、其方共二名だけは、唯今申し喬助も采女も、むろん、頑張っていて、稀、童壇、天壇へ登 かか っては、お品の姿をさがしていた。 渡した事には関わりはない。勝手に下山いたすがよかろう』 めった しかた 然し、三絃の音は、あれから滅多に聞えなかった。 采女は、為方なくそれへ出て、挨拶した。 『いや、昨日、武芸者などと申しましたが、吾々二名も、実又、何うしたか、彼女の姿も、絶えてみえない は、柳沢家の秘命をもって、ちとこの山に詮議のある者。目的 を相果すまでは、死んでも、下山はいたさぬ所存』 『なに柳沢家の』 苦行精進 じっ 黙って、小屋にカ 疑わしげに、凝と、眸をこらしていたが、 くれた。やがて近侍が出て来て、 高山の空は、清澄になった。 『若殿のお召でござる。これへ』 りようらん 案内に従いて入ると、鶴之丞は、席を設けて、炉端に坐って植物は、繚乱と、咲き誇った。六月の末である。雲が白い すっかり、 傷が癒えて、飯田城から出直してきた堀鶴之丞 ちょうしよう 采女は、やや誇らしく、自分が柳沢家の寵妾おさめの方のは、藩の剣道師範や、腕ききの若侍をすぐって、百名あまり、 徳兄弟であり、吉保には非常に寵用されていることを、まず以狩猟いでたちゃ、野支度の軽装で、登山してきた。 ふいちょう て、吹聴しこ。 槍組、鉄砲組、弓組。 それに、兵糧の荷駄だの、典医だの、小さな戦争ほどの準備 鶴之丞は大いに驚いた。殆ど、座を辷りそうに礼儀やことば ていねい を叮嚀に改めた。それから、采女が、名絃山彦を携えて、このだった 山へかくれたお品をさがしに来ているのだと仔細を話すと、彼出迎えに出た采女を見かけると、 たた は、その苦心を称えて、どんな力でも貸そうと云った。 「やあ、山彦は、まだお手に入らぬか』 『ぜひ、お力を拝借したい。その代りに、帰府のうえは、柳沢鶴之丞は、真っ先に訊いた ひとみ うねめ さわ たずさ ろばた がんば たまたま

5. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

名人気質の藤十郎は、恐怖を忘れて、見恍れていた。友蔵根府公に呼びとめられて、 『なんじゃ』 どこかへ、逃げてしまったらしい。彼もさすがに、全身の 骨が、がくがくと鳴るようだったが、崖の蔭に身を避けて、人振り向くと、眼の前に、空駕をすえて、根府公が云った。 あや 『人足たちを殺めたのはわしだ。道中の旅人たちを、常々、強 間と人間との相搏っ谺を聞いていた。 二十人に余る雲助や荷持人足は、一瞬の間に、半分ほどに減請っている悪党共、これで少しは山の風儀が直ろう。罪になる っていた。多くは頭蓋骨を砕かれて俯ッ伏したのである。投げならわしが負う。おぬし、この駕へ、乗るがいい』 『えつ、駕に乗れと ? られて、枯れ枝の一片みたいに、深い谷間へ逆さに落ちて行っ 『さればさ、湯本や小田原に泊ったのでは、すぐ大久保藩の役 た者もある。 薄野呂の根府公と、ふだん馬鹿にしていただけに、残る人数人に捕まるほどに、わしが、おぬしの身の危くない所まで、今 夜のうちに、連れて行ってあげるー・ー・』 も、なかなか退かなかった。死にもの狂いで獲物を振ってかか すすき かっ 『どうして一人で駕を、担げるものですか。お志はうれし るのだ。然し、その息杖などは、根府公の巨大な体には、芒が が、所詮、逃げるわけにはゆきますまい 江戸表まで行き 触るほどにも感じないらしい。束にして引っ奪くると、束に掴 んで、相手の頭を叩き伏せた。叩かれた者は、坐ったきり、二着けば、柳沢様のお袖に縋って、何とか、助かる途もあるだろ 度と起っ様子もない。 『柳沢 ? ・』 『野郎つ、覚えてけツかれつ』 ぜりふ 問いかえした根府公の眸の光に、藤十郎は思わずぶるっとし 捨て科白をのこして、相手の残りが、一目散に逃げてゆくの た。根府公は首をかしげて、 を見ると、根府公は、藤十郎のそばへ寄ってきた。そして、 柳沢、ははあそうか、そんな土地の名が、あったかな』 『これでござるな、手形は・・ーー』と、左の掌に、それを掴ん『 『土地の名ではない、三ッ子も知る将軍様の寵臣、柳沢出羽守 で、彼の前へ突きだした。 『有難い。これさえ戻れば、ご贔屓先へ、迷惑をかけずに済み吉保侯のことじゃ』 『ふーム、そんな人を、おぬしは存じ上げているのか』 ます』 できあ 今度、駒込の染井に、六義園という大した御別業が竣立がっ 細かに引き裂いて、ロで噛んで、そして谷間へ投げ捨てた。 しよせんのが て、そのお招きには、大名、旗本は申すに及ばず、京都から 『だが : : : 大変な事になった。所詮、遁れぬ災難事、そうだ、 人 で、当日の豪勢な御宴遊 も、お公卿衆すらおいでになる。 自首して出よう』 超 に、わし達、一芸のある者は、挙って天下からお招きになるの さすがな藤十郎の足もとも、ふらりと、乱れていた。地に置 る ナいた大小を拾って、それを手にかかえると、よろよろと、 - 失神じゃそうな』 『して、何日 ? 』 翔したように、関所の方へ歩みかけた。 『弥の末の二十七日』 『太夫ーー』 さわ こだま ひいき うぶ やよ、 すが こぞ 〃 7

6. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

そ 「待ってくれ。 話が外れたが、それとお品さんの事と、何 と、一蝶は膝を打って、云い出した。 やよい の関係りがあるのかな ? 』 『ほかではないが、この弥生の末には、永い普請にかかってい りくぎえん 『あるではないか。よう、考えてみさっしや、 た柳沢の下屋敷が出来る。染井の六義園というのがそれじゃ。 べっそう その別業びらきには、成上り者の柳沢侯らしく、前代未聞の催『じゃあ、その別業開きの機に何か ? 』 『さればさ、一趣向あろうというものではないか。いずれ、そ し事をやるという』 べっそう 『六義園の別業開きならば、わしの手許へも、廻状が参っておの日の余興には、芸事好きのおさめの方や吉保侯の事じゃ、例 の山彦も、秘蔵顔して、持ち出されるに極っている』 る』 『今日、訪ねて来たのも、これに就ての相談だが、紀乃国屋文『あ、成程。ーーそして策というのは』 『愚考もあるが、紀乃国屋様にもひとっ相談してみつしり思案 左衛門様がいうには、共角宗匠や、一蝶などの、俳諧仲間だけ かそうしゅこう を練っては何うか。柳沢の権勢には、誰も表面は伏している でひとっ何か仮装の趣向を考えてくれというのだ』 が、心の裡では、皆憎んでいるし、正義に強いは江戸の人間の 「ほ : : : 仮装などするのか』 ごうしゃ 「秀吉公の醍醐の花見に真似て、それよりも豪奢に、吉保侯一持ち前じゃ、必す不為な事にはなるまい』 たてばやしはん と、説いた 代の語り草にしようというのじゃ。何せい、館林藩のお小納戸 やが の微禄から、この泰平の世に、十五万二千石の大名になり、将お品の同意を得て、軈て其角は一蝶と連れ立って、京橋堀の ちょう 軍綱吉公の寵を一身にあつめ、金銀改鋳の元締めとなり、権勢紀文の家へ訪ねて行った。 と巨富とを併せて占めた柳沢一門が、誇りがましくやろうとい うのだから、いやもう、馬鹿気た位な贅沢振りだろう』 『そんな話だ。 ・権門に拶もねるようで、行くのは嫌だが、 焚火羅漢 たた 行かねば、後が祟るだろうし』 けつべき 『長いものには巻かれろだ、そんな潔癖を持った日には、今日 えん つきあ の交際いは出来ない。あの紀乃国屋文左衛門様さえ、当日の宴関所の松の間に見える富士の姿はまだ真っ白であった。湖水 なぎさ 遊には、仮装をして、団子も売ろう、茶汲みもやろう、芸人のの汀には寒々と冬鳥が日を慕ってかたまっている。都は桜花も うすらい 真似もしようという位だ。そのほか、常々お出入の者ーーー奈良咲こうというのに、箱根の頂上は、まだ薄氷の張りそうな冷た 漢、茨木屋、三谷、駿河屋などの豪商は元より、御普請の棟さだ 0 た。 やくしゃ 羅梁、都下の名妓、俳優衆、笛師、三絃の名手、能の上手、その箱根権現の参道並木にある人足立場の小屋には、荷持だの、 ひるどき 火他、わしのような町絵師にいたる迄、お客方の接待役に、趣向馬子だの、雲助だのが数十人、がやがやと午刻と見えて、飯を 焚を競って出る事になっているのだから : : : 其角どのも是非一役食っていた。 うしろ はだか は持たねばなるまいて』 小屋の背後にも一かたまり、毛脛一本の裸体男が、焚火をか ゅう ぜいたく か わ たきび ら おり かん うわべ し』 たきび 727

7. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『なんじゃもないものだ。おぬしは、罪がふかい』 どは毛頭ない。 彦『何うして ? 』 あらましの事情を打明けてから、 『あれが、信州の山出しとは受けとれぬ。美人ではないか』 『お品さん、ちょっとおいで』 山 『信州にでも、美人は居る』 本名を呼んで、彼女を、そこへ招いこ。 『駄目駄目。ぬけぬけと、左様な曲弁をいたしても、この一蝶『わしの友人、英一蝶どのだ。何んな事を打ち明けようと 恋 が騙されようかそれに、、、 とうも何処かで見たような : も、口外するような人物ではないから、安心して、このお方へ てな ? ・考え出して、その白ばッくれた顔を、剥いでやらも、よくお願いしておくがよい』 ひきあ ねばならぬ』 と、紹介わせた。 と、腕を拱んで考えていたが、軈てのこと、膝を打って、 一蝶の事は、亡父の源四郎からも常々聞いていた。お品は、 ますみ 『そうだ , 今のは、十寸見源四郎の娘、お品さんじゃないか』隔意なく、身上を話した。亡父源四郎が、上方で殺害された事 図星をさされたので、其角は、黙然と笑ってみせた。そうだ も、伝家の名絃「山彦」が、今では、奪われて、柳沢家の愛妾 とも、そうでないとも云わずに、にやにやして居るのだった。 おさめの方の手にあることも告げた。 『何うじゃ、其角どの、恐れ入ったか』 一蝶は、情熱家だった。其角以上に、江戸っ子で侠気に富む うち 男だった。お品の永い苦難の話を聞いているうちに、眼の裡に 『うむじや分らぬ。違いなかろう』 涙をたたえていたが、やがて、義憤に燃えるような顔をして、 『 , つむ : : : 』 『ひどい奴だ ! 』 『はてさて、瞹眛な。恐れ入ったら入ったと云うてしまえばよ と、おさめの方の策謀と、又それを敢てさせた柳沢吉保の権 しレ』 力を憎んだ。 きっと 『ここでは、ちと話しかねる。一蝶どの、真面目に、おぬしに 『心配するこたあない、捨てる神があれば助ける神、屹度、山 おり 少し相談があるが、座敷へ上ってもらえまいか』 彦は機を見て、おさめの方の手から奪り返してやる。其角ど 家は薬師の境内であるし、垣の低い草庵なので、参の人のの、そうじゃないか』 しの 顔が絶えず外を通る。で、敷物を座敷へ移すと、一蝶も、 『そうは思うが、何せい、相手は天下の宰相をも凌ぐ勢の柳沢 、よ ) 0 、 『相談といえば、わしも実は、例の六義園のお催しに就て、紀家 オしくら此っ方に理窟はあっても、歯がたたない』 乃国屋文左衛門様から、其角どのの意見も聞いてくれと言われ『ーーお品さんの口から聞けば、一頃噂の高かった伊那の山男 たので、やって来たのじゃ。 : ではまず、お邪魔しようか』 小源太の暴れ廻ったのにも、正しい理窟はあったのだ。所詮、 と、部屋へ通って、縁の障子を、閉めきった。 尋常な事では駄目だから、何とか、奇策をめぐらすのさ』 俳諧師の其角と、画家の一蝶とは、風雅以上に親密な友であ『その策があるかしらて ? 』 った。元よりその親友へ向って、其角は、隠しだてをする気な『無い事もない。 : 有るとも、いや眼の前にいい機がある』 きかく やが しお しよせん 120

8. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

お品は、怺えていたものを、わっと、涙や声や、あらゆる感 に、水禽が啼きぬいていた。 むせ 『だがの、お品さん、相手は三百諸侯さえ、頭の上らぬ程、権情と一緒に、そこへ咽び投げて、 力のある柳沢吉保様の愛妾だよ、いや、その柳沢様が相手だと『太、太夫様つ。お品は、眼が醒めました。もう、これきり あや いちはしうわめ : きよう限り : : : 女々しく嘆いてはおりませぬ』 いってもいい。源四郎さんを殺めたのは、市橋采女と、もひと 『じゃ、私のいった事を』 りの悪い浪人者だが、その指がねは、おさめの方と、柳沢家の 『胸にこたえました。そのお言葉を忘れずに : : : 屹度、屹度 なんで女のお前に、仇が討てよう』 権力がさせたのじゃ。 『でもー ・ : 太、太夫様』 『それ、それ、また泣く。泣いている場合ではない。死んだ源『オオ、やるか』 四郎さんへの孝行は、めそめそと欝いで、痩せ細っている事で『死んだ気で』 なぐさ ひとみ はありませぬそ。ほんとに、源四郎さんの霊を慰めて上げたけ と、濡れた眸をあげて言った。 かたき 『それでこそ』 れば、ここで、敵を討つ以上の意地を出すことじゃ』 藤十郎は、膝を打って、 『意地を』 そなた 『されば、カずくでは、御老中の権威に及びもないが、芸道の『十寸見源四郎の血をうけた其女といえる。恥を話せば、わし こせがれすはだし たるや 上でなら、御老中はおろか、天下の人々に、頭を下げさせる事とても、昔は貧しい樟屋の小伜、素裸足に、縄帯をしめて育っ ますみ もできる。抑、そなたの家は、初代十寸見源四郎以来、三絃た者じゃが、或時、空樽の車を曳いて戻った父親が、粗相をし の名人が続いた血すじ、お品さんで、三代めじゃ。名器山彦をたとやらで、名も知れぬ、勤番侍の無礼討ちにあい、口惜しい いのち 生命と守って、天下に、三絃十寸見家の名をとどろかすような無念で、ならなかったが、先は大藩の御家来、カずくでは、及 それが、何よりも死んだ源四郎さんばず、何うか見返してやりたいものと、住吉神社へ、生涯妻は 名人になって下さい たむけ への孝心じゃ、手向じゃ。そして権力をかさに非道を振舞う、娶りませぬと迄ーー・今にみろ、今にみろの一念を、歌舞伎の芸 はじめ かたき 吉保や、おさめの方や、市橋采女などへ対しても、立派な、敵道に打ち込んだのが、今日の坂田藤十郎になる動機であった。 一念、貫らぬ事はない、お品さんも、今の無念さを、源四 を討ったというものじゃ。ーーー坂田藤十郎が、こう手をついて 郎さんの怨みを、おのれの魂に刻みこんで修業したら、きっ 頼みまする』 まっげ ゆだま 胸と、名人になれましよう。よいかの、頼みますそ』 お品の睫毛は、湯珠のような涙を、しばたたいていた。 あえ 『有難うございました。必す、お誓いいたしまする』 が、大きく喘いた そなた ひとこと 『む。わしも、その一言きいて、安、いした。では、其女へ、返 情『どうだえ、決心は』 して上げる品がある』 人『は : うしろ 静に、後へ手をのばした。そして、床脇に立てかけてある一〃 名『私の考えは、違っているだろうか』 挺の三絃を、彼女の前へ、横に置いた。 『違っていたのは、私の考え方でございました』 みずとり そもそも ふさ や ちょう めと とお とこわき きっと

9. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

( 馬鹿なっ ) 屋、香具屋、漆器お手道具。 何か腹が立った。 かそえてみると店長屋は、十七軒ある。 柳沢は、幕府の権力を利用し、御用商人たちは柳沢を利用し 各、暖簾を競って、 とかく たらいまわ そして兎角ロう て、盥廻しに利の取引をやっているのだ。 『お買い求めください』 るさい大奥の女達には、こんな甘いことで欣ばせて措く。 『何か、お気に召しませんか』 ( あさましい世相だ ) 『お安ういたしておきまする』 彼は、平家村一門と自分の復讐以外にも、この浮わっいた世 『こちらは、茨木屋で』 相に、眼の覚めるような天譴があって当然だと思った。 『てまえ共は、奈良屋でー・ー』 思いつつ、何気なく、絢爛な帯地や呉服もののいつばいに取 と、客を呼んでいる。 のぞ それが、おかしそうに、店の前に立ちよどんでいる人々は笑り乱れている紀乃国屋の暖簾の蔭をさし覗いて通り過ぎると、 なぜならば、この十七軒の売店では、品物は随『もし、御浪人』 っていた。 と、そこから追いかけて来た手代風の男がある。 意に売りはするが、一文も、代価は取らないからである。 これが来賓をよろこばす為の趣向の一つであった。大奥の女『此方か』 『左様で、こさいます』 中たちには、人気があって、何処の店の前もいつば、だ。 あかまえ ひょうきんなり たすき その手代も、剽軽な身装だった。紀乃国屋と染めぬいた赤前 赤い襷をかけて、手代や番頭に扮して立ち働いているのは、 ひが たすき 雨童組という御用商人で、当時の金持番附にも、みな一流どこ垂に、派手な緋鹿の子の襷をかけていたが、その襷を外して、 もしや、貴方は、伊那小源太様じやございませんか』 ろをしめている富豪連であった。 紀乃国屋文左衛門、奈良『ーー 顔へ顔を寄せて来て、いきなり耳のそばで、ずばっと云った 屋茂兵衛、大紋屋嘉助、茨木屋幸斎などという顔ぶれが、 ものである。 『ありがと , っ ~ 孖じます』 ′一ひいき 『まいど、御贔屓さまで』 小源太は、恟っとして、 品物をつつんだり、金をもらう真似をしたりしているから、 『何じゃと ? 』 それが又、景物になっていた。 屹度、男の顔を見直した。 慾と、興味で、大奥の女人たちは、 間 『帯地を見せて賜も』 の『その櫛を』 絃『手筥を』 管絃の 管と、奪い合うように、無数の手がそこにのびていた。 小源太は、前を通って、 くし のれん かすけ ふん だれ きっと よ てんけん けんらん のれん ノ 35

10. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

き纒 , フ。 『何うなすった ? 』 彦当惑そうに、女は、暫くあしら 0 ていたが、折助たちの言葉と、十徳の男は、提灯を、倒れている彼女の上に翳して云 0 鵬 や行動が次第に露骨なものになって、貞操のあやうさを感じるた。 かんにんぶくろ 山 と、堪忍袋の緒をやぶったように、突然、女はあざやかに一人『はい、有難うございます』 かどづけごぜ 『かあいそうに、門附の瞽女じゃないか。三味線が折られてい 恋の男を投げつけて、さっと、闇へ走り出した。 『あっ、偽せ盲目だっ』 る。商売に困るだろうな』 『捕まえろツ、食わせ者だ』 『御親切様に : ・・ : 』 折助たちは、追い重なった。 一人は、編笠をつかみ、一人身づくろいを作って、女は千断られた笠の緒を、白い顎の下 は三味線を引っ奪くって、彼女の身ぐるみ、大地へたたきつけ に、結び直していた。 じっ 凝と、十徳の男は提灯をその顔に向けて、右からーー左から びつくり 慥めるように眺めていたが、やがて吃驚したように、 ちち 『もしやお前さんは、十寸見源四郎の娘のお品さんじゃない カ』 亡父の旧友 と、云った。 無造作に折れる柳と思ったところが、案外手強い。 折助たち お品は、思わず跳び退がった。 は、その反撥に、顔を打たれて、 この江戸に亡父の源四郎の名や自分の顔を見知っている人 しゃ 『洒落れた真似を』 は、もうそう多くは居ない筈であるし、殊に自分は、半月はど かす と、兇暴な血をよけいに煽られて、狼藉な争いを描きはじめ ~ 則に、やっと堀家の邸から見張の眼を掠めて町へ逃げ了おせた めくら 体である。編笠に顔をかくして、偽せ盲目の真似をしていたの すると一人が、何を見たのか、急にあわてて逃げてしまっ もその為だった。 だのに、柳沢家の提灯を持ったこの男 ちょうちん た。見ると、提灯をさげた十徳姿の男が近づいて来る。その提が、自分や亡父の名までを知っているのは、よくよく此っ方に 灯の紋は主人の柳沢家の定紋であった。後の折助たちもそれを運がないのだと、驚きもし、嘆きもして、思わず身構えを取っ 見ると、 たのであった。 『あっ、誰だろう ? 』 然し、先の男は、それに依 0 て、にお品〈向 0 て危害を加 兎に角、逃げ出さずには居られなかった。提灯の光は足早に えるような気振はない。それに身装も、宗匠頭巾に十徳という 此っ方へ向って駈けつけて来る。狼狽して走った折助の影と行至って、温厚そうな人物だし、年齢も五十前ではあろうが、相 ちが ともだち あお てごわ たしか ますみ みなり あご