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検索対象: 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨
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1. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

善魔鬘 けであった。 を捨てて、健脚を誇るように続いて行った。 いや、そうかも知れませんぜ、あやめの体を残しておい ては、後日の証拠になりますからね』 と伊豆八もうなずいた。 悪運乱咲 一応はそう考えたが又、 いかずちみようじんやしろ 『伊豆八、江尸の白金台には、雷明神の社があるぜ』 ぬれ鼠になって這い上った鹿十郎は、 と、鹿十郎が、思い出したように云った。 1 ・ー。何かあの、雷神社と関りがある人間ではあるまいかあ ちつきょ ちょうてい うぶすな 蟹一つ這う影も見あたらない浜砂の長汀を見まわして、こうれは、蟄居中の松平七郎麿の邸の上にあって、あやめの産土神 という深い縁故もある神社だし : , 入きく呶 2 っこ。 お , つついっ』 『伊豆八つ。 『なる程、旦那のいうようにも考えられますが、いかずちと 寒かった、身ぶるいが出る。 は、先刻の奴が、自分で名乗っているのでしよう、自分で名乗 『 : : : おウいつ、伊豆八つ』 ることなら、何とでも云えるじゃありませんか』 彼の身にも、何か変った事が起っている予感がしたのであ『それもそうだな』 あ る。その予感は、中たっていた。 『止しておくんなさい 、旦那は町方の与カ衆のくせにして、少 街道まで、踰めくように出てゆくと、並木の下に、伊豆八はし甘うございますぜ』 あたま 気絶していた。 『鹹い潮水を飲ませられたので、すこし頭脳も変になった。忌 驚いて、手当をすると、伊豆八は息をふき甦したが、暫くは忌しい目に遭ったものだ』 『つまらないのは伊豆八です、何の為に、箱根くんだり迄、あ ばっとしていた。やっと心が落着いて、鹿十郎のすがたを見る と、それも惨めな濡れ鼠である。 やめの後を追って来たのかわからなくなりました』 『どうしたのだ ? 』 『ーー伊豆八、そう嘆くなよ、そちの恋は、諦めものだそ』 お互いに話し合ってみたものの、いかずちと名乗った不思議『あやめは、助かる見込みがありませんか』 さむらい いのち な侍よ、、 。しったい何者なのか、どうしても解せなかった。 『生命に別条はなくても、そちが一生涯を打ち込んでも、あや こっち 此方の素姓をよく知っているのも不思議の一つであるし、 めとは恋が成り立たん。 又、あやめの体を攫うように奪って行った目的も皆目考えられ『なぜです、なぜですか旦那。わたくしは、こうして憂い目や 辛い目に遭えば遭うほど、意地でも、あやめを自のものにし おくそく 強いて臆測すれば、鹿十郎があの突嗟にもふと頭にうかんだてみせる気ですが』 ように「耳」の右京の同類の者ではないかという疑いが残るだ 『ところが : : : 驚くなよ伊豆八、あれやあ女性じゃないそ』 よろ さら みだれざき かえ から み、つキ、 かかわ おんな あきら

2. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『そうだ、 一心、不退転。 これは死ねとの刃ではない。生か、姫路の城下へと、勘太郎は楽しい新世帯を夢みながら歩い たまもの 彦きろという、童神の賜物。どこ迄、飽まで、強く生き、この一た。山彦は自分の背に負っているし、お品の容子も前とは変っ て、すっかり優しくなったので、彼の得意さといったらない。 心を、退かず、転ぜず、必ず初一念をとおしてみよう』 さびがたな 山 わロロ十 ( 、、 しつも馬か駕を求めた。夜はわざと合宿の多い木賃 紙に巻いた錆刀を、帯の間に秘して、 『勘太郎さん』 をえらび、絶えず他人を側へおいた。 恋 てわざ たど 外へ呼びかけた。 辿り着いた姫路の城下。勘太郎は大工の手業に覚えがあると ふしんば いって、その日から、普請場仕事の手伝いを探しに歩いた。そ 陽なたに転がっていた勘太郎は、む・つくり首をもたげて、 しやくや 『どうだ。考えがついたカ』 して、城下端れの裏店に、小さな借店も見つけ、お品と一緒に 『つきました。 : お前のように、私を田 5 ってくれる人に、無移った。 情ことを言い通して来たのは、まったく私の考え違い。お心に 『さ、約束どおり、夫婦のかためをしてくれ。それさえ済め にやっかい ば、俺あ、こんな山彦なんそ、荷厄介に持ち歩いて居たくはね 従います故、ここを出して下さいませ』 めえ おい、嘘じゃあるめえな』 『何だって。お心に従うって。 え。いつでも、お前に返してやる』 『決して、偽りは申しませぬ。 ですが、こんな島で暮すの 『もう少し待って下さい こうしていれば、夫婦も同じこと。 カ忌ぐ事は、こざいますまい』 『いや、真の誓いを結ばぬうちは、何うして、油断がなるもの 『いや、共っ方さえ承知なら、誰がすき好んで島になぞいるも めえ のか。陸へ行って、俺は日雇いでも何でもするし、お前も働くか。夫婦夫婦といいながら、まだ俺に、奥底まで許さねえのが 4 かー ) い』 気があるなら、日雇いでも何でもするのよ』 おやこ 「そうなら、ほんに欣しゅうございます。何で私は、今迄、貴『でも、亡父の一周忌までは、心の喪がとれませぬ。父娘の礼 儀、女の道、それだけは、立てさせてくださいませ』 方を嫌っていたのか : うさんくせ 『おいお品、あまり調子のいい事をいうなよ。何だか胡散臭え 『一周忌、じゃあ秋までか』 そ』 『え。この秋には、その代り、必ず晴れて夫婦に : : : 』 いのち 『そう疑うなら、私の生命よりも大事な山彦、あれを貴方にお『ちと待ち遠いな。だが、よしよし、くッつきあいの夫婦とい なこうど かせ う奴あ兎角離れやすい。それ迄に少し稼いで、仲人を立て人も 預けいたしましよう。出して下さいつ、後生ですっ』 いやおう 『よしつ、そこ迄いうなら間違いはあるめえ』 招んで婚礼しよう。その場になって、嫌応はあるめえな』 の そとぐるわ 姫路城の外廓に、普請があった。勘太郎は毎日そこへ仕事に 勘太郎は、岩窟の口元から石を退けて、お品をひき出した。 しつか たずさ 約束どおり、名器山彦は、自分が慥乎と携え、通りかかった物通うのだった。然し、例の山彦を背負って行く事だけは忘れな だちん 売り舟に駄賃をやって、彼女と共に、陸へ渡った。 味野港で、身支度だの食物だの、用意をして、一先ず岡山普請場へ行くと、彼は人知れず、それを道具小屋に隠してお おか た・ヘもの あく お つれ とカく

3. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

うしろ て行く先には又、・ とんないい運が展けない限りもございませ ーはっと後の三人は呼吸がつまって、土蔵口に脚が硬ばり 鬘ん、人間一寸先は分らないものでございます、たとえ何処へ行着いてしまった。 ったって、此処よりはよいに極っておりますから』 すく ひと・一と ばんやり竦んでいた佐賀甚は、今、お蝶の云った一言に、ふ 三つの顔は、髪の毛をそそけ立て、大きく眼をみはった儘、 めん と心を励まされたらしく、鈍い眸の底に、 刹那の表情を仮面みたいに持ちつづけていた。心臓を搏たない 善 ( そうだった ! ) 人間のように自失していた。 うなず と、頷くような光をちらと動かした。 に、声までもカづいて、 のしつ、のしつ : : と誰か此っ方へ歩いてくる。 「 : ーー歩く ! 歩く ! 徳二郎、わしは歩いてゆくよ。どんな 見ると・ーー片手に血の垂るる刀をぶら提げ、眼を大きく瞋ら 運がその先にないとも云えないからの』 した田宮右京なのである。 『えつ、そのお気持になって下さいましたか』 お蝶もわが事のように欣んで、 お蝶とお梶は、折重なってそこへ俯っ伏した。 しのたま 『御新造様、私の肩にお縋り遊ばして。ーー徳二郎さん、ちょ 途端に、びゆるんと空に鳴った刃が、鎬に溜っていた血を土 っと先へ行って、中庭の木戸を開けておいて下さい、お草履は蔵の壁へパラッと撒い 出ていましたね。 : それから、もしゃ誰か起きていないか、 「斬るそっ、逃げると ! 』 そこらをも一度よく見廻って』 右京の怒鳴った下から、ばたばたと土蔵の奥へ走り込んだ跫 『よしよし、じゃあお二人の足元を気をつけてあげて、すぐ後音がした。佐賀甚の他に人はいない、佐賀甚に違いなかった。 から尾いておいで』 『ふてえ奴だっ』 罵りながら右京は中へ追い込んで行った。 徳二郎はそう云って、忍び足に、先へ土蔵から出て行った その隙だっ が、廊下づたいに十歩も歩いて行ったかと思われる頃、 た、お蝶は無我夢中に、お梶の手を引っ張って、中庭へ飛び降 てんどう 『ーーーぎやっ ! おッ ! お蝶ツー りたが、庭本尸は開いていないし、頑動しているので、分り切 擘く絶叫ひと声と共に、中庭の辺の大地へ、どすんという物っている出口さえ見つからす、奥座敷の雨戸の外をまごっいて 音がひびいた。 いると、 何だえまあ、今の変な声は ? 』 思いがけない女の独り語と一緒に、そこの廊下の雨戸が一 水は深 枚、中からガラリと半枚ほど開いた ) びつくり 開けた方でも吃驚したように、 『あれつ。誰だえ ? 誰なのさ ? つんざ すが ひら ののし 202

4. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

しろもの 『自体、町奉行なんて代物なあ、自分の手下や岡っ引が、博奕『おう山助、町見廻りか』 とばが をやるのも御存じなく、その岡っ引に賭場狩りさせたり、賄礼記、、、い , くじ ゅうちょう 賂、狎れ合い公事、いかさま御評議、泥棒より太え老中だの若『左様な悠長に見えますかな、私はもう半月程も、奉行所へも 、 - まよ どしより 年寄だの、大奥だの、そんな方にや手入れもできねえくせに我が家へも帰らず、こうして、幽鬼の如く、彷徨い歩いておる のですが 成程、 『叱つ。ーー鬼の手下のが来た』 めくば 言かが、眼配せして、人群から抜け出すと、後に尾いてそこ湯に入浴らず、髪の手入も怠っているのであろう。鬢には埃 らの町人も辻の四方へ散らかってしまった。若いーーー眼に一種りが白ッちやけているし、頬は蒼ぐろく削げていた。 己は、直感に のすご味のある同心ていの武士が、その後へ来て、 『では、忠信を召捕るために』 『ちえッ』 したうち 『されば』 舌打を鳴らしながら榎の落首を、びりつと剥ぎ取った。 と、山助はほっと息をついた。彼がこんな鉛のような感情を そして、たった一人、立ち残っている石川礼記の姿を見て、 抱いて、他人に嘆息をきかせることなどは珍しかった。 『おう、御令息ではございませぬか』 卩・ー忠信めを縛めぬうちは、奉行所にも帰らぬ、我が家の門 を踏まぬと、大言を吐いて出役いたしたので、武士の面目、意 地でもーーと昼夜寝食を忘れて、かくは歩いていますが、きょ 無事一日 うで十七日目ーー何の手がかりもない始末』 『察し入る』 かさいさんすけ ネ言。目がしらが熱くなった。同時に、こういう熱心な配下 葛西山助は廿六歳、南町奉行随一の腕ききで又、同心中一番 を持った父の立場を、よけい苦しかろうと察しられた。 の年少者だった。 して礼己様には ? ・』 土佐守はその就役以来、 『例の道場へ』 ( これは使える男 ) ともっかまっ かなす と見たので、難局にばかり山助を向けていたが、いつも立派『では、金杉まで、お供仕りましよう』 しようげんばしたもと ぞうじようじ 日 に功を奏し、同僚をあっといわせるので、悩む齲歯は山助に抜山助は、増上寺の境内へ歩きだした。将監橋の袂まで来る あだな 一かせるに限るというので , 丨ー居合の山助という綽名があった。 かたやまばっとうりゅう 事実際に又、山助は片山抜刀流の達人でもあるという事でもあ『今既は、この辺の船人足、釣舟屋、廻船組などを一巡洗いあ っこ 0 げてみるつもりです』 無オ と、海の見える漁師町の露地へ入って行った。 お互いに顔は見知っているので、 し えのき てめえ は っ ばくち わか と、 は から おこた ほおあお まわり びん イ 07

5. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

0 これはもっと降ってくる。父上、門屋根の下は、雲間から濡れた月が、磨きたての鏡のように冴えかえる。 雨へ参りましよう』 がたんと、大戸の音が遠くする。やがて、足駄の歯が石だた ね駈け出して、自分も門廂の下へかくれた。礼記は、扉へ耳をみをひびいて来るように思える。 『お肩が濡れるといけません』 つつけて、 『静かだ : いるのかな』 女の声だ、女といえば、香夜より他の者である筈はない。だ ひと・一と 礼記は想像がっかない。 妹が、死と、つこ しオ一言が、ばかに心にこだわって来た。ちょ 『門を、八文字に、開けてくれ』 っと入ってみようかと考えた。土佐守は、暗然と、雨を見てい る。 そう云うのは、男の声である。かんぬきを外す。ギ、ギ、ギ しぶき ぞうり はかますそ 駒寄せをたたく細かい飛沫が、草履を濡らし袴の裾を濡らと正面の門の両袖がしずかに左右へあいた。とたんに、ばちん じゃ ふたり めりあしだ と、蛇の目の傘がそこから開いて、塗足駄と、男足駄と、男女 し、やがては、雨樋のこばれが、ばたりと、肩を打つ。 あいあいがさ 「風邪をひく。 ・ : 私でも寒い位ですから : : : 父上、蓑をお持の足が胸から上を傘にかくして門のうちから相合傘で歩いて出 て来た。 ちいたしましょ , つか』 『そうだな』 男は、蝦色の旅差刀を一本、平帯の結びをやや横っちょに、 いんろう 片裾をぐいと折って一ッ印籠。 土佐守の唇は、むらさき色になっていた。骨ぶるいをしてい すこしつりあわない連れではあるが、女は、姫様風に、腰揚 るのである。見かねて、礼記は潜り門を押した。そして、二、 をたらりと垂れて、帯は屋敷むすび、そして、頭巾であろ 三歩邸の内へ駈け入ったと思うと、 えめ・もと 『やっ ? う、襟元は濃い紫ちりめんの布耳でかくれている。 : 父上っ : : : 』 『ころぶと 、いけないぜ。足もとに、気をつけて歩きねえ』 あわただしく戻って来て、門の外へ、飛び出してしまった。 みおも 妊娠なので、男が、そう注意するのであった。いかにも、物 やさしく他にひびく。 『おやっ ? 』 紫 雨に背をうたれた儘、礼記は、がたがたと、戦慄した。土佐 がくぜん 守は、愕然とした余り、血でも吐いて、起てないように、泥濘 『誰やら、玄関から、人が出て来ます。静かに、その辺へ隠れの中へ、両手をついて、失神していた。 うしろ すると相合傘の男女の後から、 ておいでなさい』 すそ 「待てツ、忠信』 礼記に云われる儘、彼は、塀の裾に、礼記は天水桶の蔭に、 じゃ 槍のように鋭い声が、呼びかけた。男は、蛇の目傘を、少し じっと、しやがみ込んでいた。 すこし風が出て、雨は、さっと霧になって翔ける。そして斜めにして、 もんびさし てんすいおけ みの かたすそ くもま ろいろたびざし ふたり みが ひらおび せんりつ めかるみ ・一しあ

6. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

よいまつり かがりび 『人身御供を出さねばなりませぬ。 今夜は、おわかれに、 宵祭礼、村は、笹や、赤い紙布や、神楽や、篝火のなかに賑わ あす 村の者がより集まり、明日からは、火祭りでござりまする』 った。鶉斎の家には、その晩も、次の夜も、人々が押しかけ 『ふーむ』 て、酒に酔い、赤飯をたき、夜もすがら飲み明かした。 まつり 可笑しかったが、誰も彼も、真面目なので、笑えなかった。 最後の晩だった。祭礼の三日も、今夜かぎりという宵の八刻 ひっ み、かき たいまっ 鶉斎は泣いていた。若菜も、老人にすがりついていた。だ 頃 , - ー・、・白い櫃と、楙をもった神官と、それから、松明をかざし ならわ が、昔からの習慣しなので、未練に、狂いはしなかった。観念た全村の老幼男女が、炎の行列を練って、天壇の奥の院へのば していた。 って行った。 夜になると、一人の神官が来た。部落の者が大勢、集まっ 白い櫃の中へ、生贄となって入るはずの若菜は、その夜、こ イ、かもめ・ て、二人をなぐさめながら、酒宴をはじめた。 っそり、せむしの鶉斎に手をひかれて、里へ逃げてしまった。 ま たいまっ 何う考えても、 采女と、喬助も、その中に交じっていたが、 涙ながら、見送る者ーー・行列について松明をかざしてゆく者 山神に若い女性を贄に供えるなどという事は、考えられないこ 神官も部落の人々も、それは、知らなかった。 とであった。それに、采女は、深山の花のような若菜に、、 しつ采女と、喬助だけが、知っているだけである。喬助は、途々、 のまにか、恋ごころを感じていた。江戸へつれて行って、みが : だが、あまり、寝ざめがよくねえなあ』 つぶや いたら、どんなに美しかろうと想像した。 と、呟いた 『なぜ』 でーーーその晩、 とが 采女は、聞き咎めて、 『若菜の身は、わしに預けろ』 と、 『貴様は、そんなに、お品に、未練があるのか』 と 『もう、こうなったから云うが、実あ、山彦を奪り返したら、 『驚くことはない、わしに、一策がある。必ず若菜の身は助け てやる。その代りに、わしがたずねている山彦という三絃、どお品の体は、俺が、女房にもらいたかった』 ひとこと うも、天壇の奥の院にあるらしい。それを、皆して探してくれ『ばかな。弓の折でも、一言も口をあかない女が、何で、貴様 のいうことなどに従うものか。舌を噛んで、死ぬだろう』 ぬか』 ひまつり 翌る日は、どっちにしても、奥の院へ、火祭礼の供え物や『だから、諦めてはいるが : よくちょう かっ ・しめかざ と、丁を着た村の者が担いでゆく、白木の櫃を、未練そう ら、掃除やら、注連飾りなどに、こそって、出向かなければな 櫃 らなかった。采女は、従いて行った。そして手分けをして探すにながめた。 、、′に課へ お品は、その中に、押しこまれていた。若菜の代りに、生贄 白と果して、山彦を入れた桐箱が、拝殿のうちから出てきた。 につかわれたのである。身うごきも出来ない上に、白絹のかい 矢『これだ、これだ』 どりを被せ、息ぐるしく、櫃のふたが、背を押しつけていた。 白彼は、狂喜した。 むかでば ふたかわ 道は、百足虫這いとよぶ狭い峡谷にかかった。二列に歩いて 村の者に持たせて、雀躍りしながら帰ってきた。その晩は、 ひっ かぶ こわめし 、けに一へ かみきれ ひっ かぐら ひっ みちみち

7. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

『せつかく会わせてやったものを、何も文句も苦情もねえの か。別れの挨拶でもしておいたら何うだ。何ッちみち、てめえ は遠からす彼の世の人間、紅吉は今夜以後は、この船世帯の宿 探す死骸 の妻・ーー』 耳は飽まで、相手を恥かしめていたが、何を云っても、菖蒲 誰か。こいつの眼隠しを解いてやれ』 之助が唇を噛んで沈黙しているので、 そして紅吉だ 『ゃい、此奴等を、船底へ叩っ込んでおけ。 耳は、手下の者に吩咐けた。 あたり 菖蒲之助は、顔の布を解かれて、明らかに四辺を見まわし けは、おれの寝間へ連れて行って、静かにやすませておくがい し』 ああ、星月夜だった。 と、まわりの者に吩咐けた。 海は明るい。そして、中川尻の波は夢のように静かだ そしてふと、頭の上の帆車を仰いで、その帆車がキリキリと 『 : : : ウウム』 帆綱に廻り出したのを見て、 うめ と、呻いたきり、彼は眼のまえに俯っ伏している紅吉のすが『待てつ。 誰が帆を張れと云った。まだ碇も早い』 と、呶鳴った。 たを暫く凝視していた。 紅吉の白い指先は、微かに鋺がきを見せていたが、意識は霧帆を張りかけていた手下の一人が、 びん のように遠くなっているらし、。 鬢はみだれ、袖の八ッロは裂『親分、だって今夜のうちに、木更津へ船を廻すんじゃありま せんか』 かれ、心も肉体も、綿のように疲れ果てているのだ。 み 1 つき うっと・ 恍惚と、右京の眼は、それを眺めていたが、 『その前に、する仕事があらあ。てめえ達は、先刻沈めた小舟 『どうだ菖蒲之助、ここまでおれの手は行き届いている。水もを慥めてみたか』 むか 漏らさぬ戦法という手際だ。そのおれに対って、乳くさい挑戦『慥めてみたかとは ? 』 をしたおのれの不明が、今更、間が悪くなりゃあしねえか。 『雷の死骸を探して来い。おれの撃った弾は、雷の胸いたを、 : キよま +6 撃ちぬいているとは思うが、それと小舟の沈んだのとが殆ど一 緒だからーー・万一ということもある』 耳は又、哄笑した。 骸今夜の彼は、常勝将軍にも似た誇りの中にあ 0 た。もうこれ『じゃあ、雷の死骸を探してから、船を出すんで ? 』 かね と思う大きな安心と同時に、予てから悩みの一つで『あたりめえだ。 もうそこらに浮いているだろう。よく探 してみろ』 すあった裏梅家の紅吉までも、完全に手に入れたのであるから、 探彼の得意は他人にわからないほど、想像以上なものだったに相『合点です』 違ない。 手下たちは、猿みたいに分れて、或者は小舟に跳び下り、或 たしか あく ましら いかり 283

8. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

ると、乱岩を跳び、水を躍り、林に駈け入り、殆ど、平地を歩 「ーーーと云えば、もう、やがて近いうちだ』 はるばる 彦『それ故、わしも、遙々大坂表からよばれて、道中を急いで参くのと違わないのである。 ゅうもや 日暮のはやい、 谷あいは、もう紫いろにタ靄がこめている。一 りましたが、こういう目に遭っては、運の尽じゃ。よくよく悪 か 山 日に家を立ったものと見える』 体、何処まで走るつもりだろう。そして、今は何処を翔けてい 「なんの ! 吉日じゃ』 るのか。天か地か。それさえも、藤十郎には疑われた。 恋 ねぶ と、野呂間の根府公は、野呂間らしくもなく、断乎と、首を疑うといえば、一体、この裸体男は、人間か天狗か。或は人 振った。 間でもない天狗でもないものか。何しろ、不思議な目に遭った 『さつ、お乗り召されい、その乗物へ。 お身の体一つに、 ものだと、やや落着いてきてからそう思う。 この駕ぐらいを担うて走るのは脚が踏みしまって却って歩きょ ふと、その時考え出されたのは、この怪人の言語である。初 めは多少、雲助じみたことばをつかっていたが、自分を急きた なわが 手頃な岩を、縄括らめにして、棒の一方へ縛り付ける。藤十てる時のことばには、何となく、雅味があって、古武士のよう よよ、そうなると、判断がっか 郎は、その身ごなしや最前からの怪力をながめて、これは物語な床しい響きすらあった。いい りにある天狗というものではないかと疑った。 さが ど、フ走っこ、、 『天狗だ : : : 天狗かも知れぬ』 オカやや人里に近づいたらしい。夜の彼方に、相 みなだ そう思いながら、云われる儘に、空駕の中へ身を入れると、模灘の波が遠く光っていた。その附近に、美しく燦いているの 根府公は、前へ廻って、ぎしっと、担ぎ上げた。彳 麦で、石が揺は、小田原の城下の灯であろう。 かわ 途中、二、三度水をのんだきりで、ことばも交さないのであ れるし、右の方をのぞくと、深い谷間である。藤十郎は生きた った。不死身のような体力だ。夜になっても、脚を休めようと 心地がしなかった。 は云わない。 『慎乎と、撼まって居召されよ』 云う途端に、駕は、眼のまわるような迅さで、風を切って走その跫音が、ざくつ、ざくつ、と駕の垂れへ砂を蹴上げて来 なみしぶき りだした。 るなと思うと、外には、高い波飛沫が、どうどうと、潮の白煙 『あっー ・ : ああっ : をあげて吠え狂っている。 つりて 幾度か、振り落されまいとして、藤十郎は駕の吊手にしがみ『あっ、海辺だ : またた その波打際に添って、怪人は颯々と駈けている。夜も更けて ついていた。瞬く間に、須雲川の谿谷をぐんぐんと下って、や がて、畑宿のてまえ。 来たのだろう、漁村の灯は、時稀、チラと見えるが、人影も通 かんどう らず、船唄も聞えなかった。 『そうだ、間道をゆかねばなるまい』 : もしつ : : : ちょっと待ってください。乗ってるわ 呟やくと、根府公は、道もないような崖道を、上へ上へと登 ってゆく。まったく、街道を外れて走っているらしい。沢へ下しの方が、疲れたと云っては済まないが、精が喘れた。駕を下 し』 しつか つぶ だんこ はだか さっさっ ときたま かがや

9. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

お百姓はその火のゆらぎで、豊作か凶作か、来年の歳占ないを板橋街道を横ぎると、もう丘にも、川べりにも、茶屋の灯 さえざえ が、冴々と淋しい田舎の中の一町をつくっている。 雨立てると申します』 あすかや よしの まかず 吉野桜の満開がすぎたので、間数の多い飛鳥屋は、だいぶ客 ね『狐が まあ、怖い』 たもと つお鳥が、自分の袂を抱いて、竦むように、畦の曲り道を振りが静かになっていた。それでも大玄関に、夕方、五挺や、六挺 おお いしようえのき の駕籠がついていない事はない。 顧った時だった。衣装榎と呼ぶ、巨きな老樹と欄むらの間で、 江尸町奉行のお嬢様と、身分は秘してあるが宿の者は知って がさりと、跫音がした。 いるし、主の喜右衛門は、下へも措かない。 しやくじい おとなしがわ 幾部屋も並んでいる裏の前がすぐ石神井の音無川 黒い手甲が、笠のつばを抑えている。旅の者にちがいない。 がら たば - 一 灯が映る 煙草のすい殻を踏み消して、 よしの 泡つぶみたいに、明滅してゆく白いものは、飛鳥山の吉野桜 『飛鳥屋さん、部屋はありますか』 よあらし が、かすかな夜嵐にたたかれて、春を彼方へ去りゆく影だっ いけす 香夜の部屋は、その川べりの長い廊下を通って、奥の端れ。 生洲の鯉 中二階であった。二階といっては、そこだけしかない。 二人がそこへ落着いた頃。 すす ちょうちんあすかや 弓き摺って、小間 提灯に「飛鳥屋」と書いてある。呼ばれたのに、不思議はな洗足水をつかった白い素足を、痛そうこ、ー はしごした 物屋の伊三郎は、番頭に、伴われて中二階の梯子下から二間は いが、だしぬけなので、香夜とお鳥が、顔を白くした。 ど前の一室へ、通された。 『どなた様で』 訊くと、 『南ですから、陽あたりはようございます。このお部屋では、 てりふりちょうこまものや いさぶろう しーかか」ーしよ、つ』 『照降町の小間物屋伊三郎でございます。おふくろが一昨年、 ー、ごやっかい 中気に病んだ時、御厄介になりました。お宅の薬風呂は、病後『結構です。すぐ、風呂に入りたいが』 ゆかた 『お浴衣を』 に。よいと聞いて十日ばかり、楽やすみに来ましたが、歩きっ 『やれやれ』 けないので、草鞋まめを拵えましてね』 びつこ たばこいれおじめさんご 跛行をひいて寄って来た。腰の煙草入、緒締の珊瑚、身なり何もかも、体から解き放して、 「王子ぐらいと、見縊って来ましたが、歩くとだいぶある』 力しい。若旦那らしさがある。 一人だし、酒も飲まず、静かな客だと番頭は思った。 『お部屋で。ヘイ : : : ございますとも。なあに、血まめなん 翌る日は、按摩をとっていた。血まめが痛いといって、外へ そ、手前どもの風呂に、二日もお入浴りになれば』 も出ない。 道連れが一人ふえた。 てつこう 0 わらじ、、 すく あぜ としうら おととし うつ あるじ あんま みくび すあし ともな お あなた 0 はず イ 78

10. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

十、亠」、刀 / : を 、、、こも見える 雨『どうした忠信』 ね浪人くずれの重左が、片膝を立てて、冷たい銚子を向けた。 っ『どうもしねえ』 『ひとつ、乾せ』 ちゃづけ 『酒は、よす。茶漬を一杯掻っこみてえな。竹、あそこに見え る飯櫃から、一杯たのまあ』 『おいよ』 猫竹が、腰がろく立っと、 『俺にも』 源五郎がした ひやめし 合羽のまま、源五郎は、五郎八茶碗の冷飯をかっこみなが ら、 『まあ、止めるこったな。江戸町奉行と来ちゃ、生殺与奪の娑 えんま ひかげもの 『これが、江尸の飯の食い納めか』 婆の閻魔だ。日蔭者の意趣返えしなんて、歯が立つもんか』 かんじよう 『よせ、縁喜でもねえ』 忠信は、勘定をおいて、あんこう屋を出た。 わりげすい 仁吉は、首を振って、 割下水の方で、頻りに、大が吠えている。わざと、吉田の岡 ねんぐ 『俺たちゃ、この儘、年貢は納めねえそ、忠信、おめえは、何場所をぬけて、大川の方へ歩いてくると、散々に出た連中が、 うする気だ。兄弟分の新助が、最後を見て、おめおめと、ただまた、寒そうにかたまった。 は江一尸を捨てられねえぞ』 『源五、おめえは、飛ぶんじゃねえか』 『黙ってろいっ』 『ム。そのつもりだったが』 かん 『剃にさわったのか』 『遠慮なざ、要らねえこった。一寸先が、今夜のように、真っ いのち うんてん 『うるせえな、飯を食ってるんじゃねえか』 暗な生命だ。誰が、後になるか、先になるか、運ぶ転ぶとしょ 『悪かった』 うじゃねえか。ふだんの義理は、ふだんの事だ』 忠信が、箸と飯茶碗をおくのを待ちかねて、仁吉は又いい 出『じゃ、俺あここで : : : 』 迷いに引き摺られてきた源五郎は、足をとめて、一同へ別れ 『おらあ、奉行の野郎に、一泡ふかせてやる。石川土佐守を、 をのべた。忠信は、猫竹も序に連れて落ちてくれと源五へ頼ん めんやく こぶん のろま 免役にさせて、この意趣返えしをしてやろうと思うが、何う だ。自分の乾分でもないが、この中では、臆病者だし、野呂間 まね だ、忠信』 だし、それに兇状といえば、猫の啼き真似をしては、空巣へは ねこたけ めしびつ かたひざ 0 か ちょうし 「本気か』 『本気でなくって、どうするもんか』 『ふーん』 忠信は、楊枝笊から、くろもじを一本ぬいて、微笑をもった 唇にくわえた。 指 ようじざる しき よだっしゃ 390