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検索対象: 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨
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1. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

・ : もしつ、菖蒲之助様あっ』 すんでの事に彼を悶絶させて、縛り上げてしまうかと見えた つまず なだ 闇に損きながら冷たい板敷を駈けて来ると、何処かで、 ーーー雪崩れ込んで来た右京の手下達が、又どっと雷の うしろ 『おおつ、紅吉じゃないか』 背後から襲いかかって、形勢は遽かに逆転してしまい、同時に ふる と、慄えつくような人馴つかしさを声にこめて叫んだ者があ 刎ね返った右京は刃を拾って、 つき てめえ 『運の尽とは汝の事、今夜こそ生かしちゃ帰さねえぞ』 あらた 『げ . っ ?. : たれですかえ ? 』 猛然と勢を革めて斬りつけて行った。 : この土蔵の中だ : : : 紅吉わからないかっ、おれは 『俺だっ・ 此処の悪党共に騙かられて、こんな所へ抛り込まれてしまった 与力の仙波鹿十郎だ』 半狂人 『ア : : : 誰かと思ったら、仙波さんか。菖蒲之助様をこの辺で 見ませんでしたか。菖蒲之助様の姿を』 『俺はもう何十日も、この土蔵の中へぶち込まれた儘、出る事 女の身 ! 婀娜な座敷着 ! 寄りつく術など有ろう筈は も陽の目を見る事もできずにいるんだ。何で、菖蒲之助の事な 紅吉はおろおろしているばかりだったが、一時の欣びも逆にど知るものか』 『じゃあこの辺にもお出でなさらないのか なって、今度は雷の身も危険に見えたので、 走りかけると、土蔵の扉の網目に顔を押し当てて、鹿十郎が ( 菖蒲之助様は何うしたのか ! 菖蒲之助様は ? ) 喰いつくような声で呼び止めた。 と、彼がここへ来合せて、雷と共に力を協せてくれればよい お前は俺を見殺しに オーー・然しここでこんなに物音がしているのに、彼が『紅吉、俺をここから出してくれつ。 と祈っこ。 まだ姿を見せない所を思うと、その菖蒲之助の身にも、何か危してゆくのか』 『だって : : : それ所じゃありませんよ。此っ方も今、生きるか 険が襲いかかっているのではあるまいか 裾を高く括りあげて、ばたばたと白い足は奥の廊下へ駈け込死ぬか、一生涯の分れ目』 『出してくれツ、何でも、 しいから俺をここから出せつ』 んだ。ーー急に彼女の胸を叩く一方の不安が募っていた。 『頑丈な錠前がかかっているのに、鍵がなければ、何うしよう 人『菖蒲之助様 0 : ・ : ・菖蒲之助様っ : : : 』 もありやしない。 ああ、それよりも、気懸りなのは菖蒲之 敵の中と知りながら、思わずこう叫んでしまった。 狂 何の部屋も、何処の廊下も、何の壁も、暗澹として真っ暗な助様、もしゃ何処かで』 半のだ。佐賀甚の住居の跡というこの広い建物が今は、却って魔鹿十郎は発狂したように、がたがたと蔵の扉を叩いて、 おお からくり 『後生だ、頼む、何とかしておれを救い出してくれつ、紅吉っ 性に住みよい、巨きな機関の暗闇を不気味に抱いていた。 あだ っ一 ) 0 たば きがか 2

2. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

唖の門 のめしい門構え、何ういう大身の下屋敷か 『ーー・汝れつ、ここで逃がしては』 ひさし ほのぐら 菖蒲之助は、昼から持ち続けている執着を飽まで持って、何何気なく仄暗い大名門の廂の下に近づいて、そこらを見廻す と、彼は、呀ッと水を浴びせられたような愕きに衝たれてしま 処までもそれを追いかけて行った。 彼一人と見たなら、図太い右京は逃げなかったかも知れな ・一がね だしぬけ したが、唐突に雷の影に襲われたので、右京も顛動したので木目麗しい門扉や太い角柱には、夜目にも鮮やかな黄金色の 紋金具がちりばめてある。紋は御三家のうちの一軒、尾州大納 あろう、足の限り走って行くのだった。 うらあおい そして、時折、振顧っては、菖蒲之助の影を見、愈 4 、狼狽言家の裏葵。 するらしかった。同じ辻を迂回したり、物影に潜みかけてみた うしろ り、どうかして、後の者を撒いてしまおうとする焦燥が見え おし る。 唖の そのうちに、彼の影は、真っ暗な屋敷小路へ走り込んだ。築 あかし 地の明石河岸あたりかと思える。この辺には、諸侯の下屋敷が 『あツ、奇怪な ? 』 かなり多い 茫然と、菖蒲之助は、宙を見上げた。 『待てッ』 うしろ 右京の影は、もう其処の海鼠塀の上にも、袖門の屋根にも見 菖蒲之助は、遂にこう後から叫んだ。 当らない。 その途端に、意外や、右京の影は、一軒の大きな下屋敷の門 あわただ の前に立っていた。そして、慌しくそこの潜り門を叩きかけ確に、魔の耳は、ここを跳び越えて、邸内へ入ってしまった たが、菖蒲之助の跫音が迫って来たので、袖門の塀の上へ、猫事に間違いはない。 『だが ? 』 のように跳び上った。 おの 如何に菖蒲之助が大胆でも、直ぐ、彼につづいて此処を乗り 『ーーーあツ、汝れつ』 菖蒲之助が、塀の下へ駈け寄って、彼の片足を攫もうとする越える気にはなれなかった。かりそめにも、尾州大納言家の下 びん 屋敷ではないか。壮麗な大名門の柱には、裏葵の紋金具も厳そ と、かえって彼の足が、ばっと菖蒲之助の鬢を蹴った。 かに輝いているではないか。 どんと、塀の中へ地響きがした。途端に、右京の影はもう消 よろ えていた。菖蒲之助は、横顔を抑えながら蹌めいて、もいちど『何うして、右京が此処へ逃げこんだのか ? 』 耳の右京とーー尾張大納言家とーー幾ら考えてみても、何の 声の限り、 関係もあろう筈はな、。 『賊徒つ、待てつ』 逃げる者は道を選ばず、と云うから、さすがの右京も、今夜 と、呶っこ。 は戸惑いして、向う見ずに跳びこんでしまったのかも知れな だが、そう叫んだ声が、すぐはっと自分で憚られた。 うるわ なまこぺい だいな おご

3. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

と、気丈な紅吉は、自分で起ち上ったが、 「おうつ、意趣のある者だ、用捨なくやってもらおう』 かわ ゃぶ と、 と、呀ッ と藪だたみの下へ、横跳びに身を交して、そのま いう声が一人の口から走って出る。 さては、と気がついたのは、耳の右京のいっぞやの宣言ま又、起っ事もできなかった。 「 : : : 菖蒲之助。早速だが、いっそや約束した通り、てめえの である。襲たな ! と菖蒲之助はそう心の底で受け取っただけ いのち 生命、今夜はもらって帰る』 の事である。今更狼狽するほど、彼も不用意ではなかった。 低くーーじりじりと迫って来る不気味な光り物ーーそれは手 『ーーー紅吉どの、そなたは、ここを外せ、はよう逃げい ! 』 さっ ほたる 叱咜しながら、彼は近づいて来る者へ一颯 ! 二颯 ! 螢を槍の鋭い穂先だった。 かば ゃいばふ 今の声は、明らかに、耳の右京のものだった。手槍を持たせ 吹くような刃を揮って、そして片手で、彼女を庇った。 てはこの男の兇暴に翼を付けるようなものだとさえ云われてい 足手まといじゃ、はやく』 『逃げてくれ。 云う間にも、相手の棒切れや脇差は、二人の八方から打ちかる。それ程、右京は短槍を使うことに妙を得ていた。 夕方、思う所があって、八幡近所へ遊びに来ていた事はたし かって来る。体のどこかを打たれたか斬られたかしたに違いな えもの かたが、どこにこんな獲物まで支度しておいたのか、そうした 。紅吉は、悲鳴をあげて、又大地へ仆れてしまった。 とうあっても、菖蒲之 用意から見ても、今夜の彼の布陣は、・ ( 自分だけなら取る術もあるものをーーー ) いのち 彼助の生命を完全にここで絶ってしまおうとするものらしかっ と、菖蒲之助は、心のうちで悔いないで居られなかった。 , のが 女の体がここに仆れてしまった以上、自分だけの遁れる道は考 又、その網の目の中には、右京が、悪党に似げない程一途に えられない。 恋している紅吉というものも、勿論、数え入れてある。 『も , つ、この上は』 「右京か。ーーー待っていた』 夜叉になる事が、たった一つの取る道だった。菖蒲之助は、 刃を振りかぶって、守勢から攻勢へ変った。むらがる人影の中菖蒲之助は、乱れもせず、そう云って、自分の胸いたへ向け なげう られている槍の穂を見た。 然し、背には人数の知れない闇 へ、自ら体を抛って行った。 」こよ、右京が自信に充ちているその槍があった。 血が刎ねた、誰の血か分らない。指の欠けが飛んだ、誰の指があるし、前レ。 か分らない。 追えば逃げるし、退けば追って来る。 菖蒲之助はふと、今別れて来た養の寝顔を胸に描いた。 丁始末が悪か 0 た。 ( いっ迄、相手になっていてはーーー ) と考えたので、菖蒲之助はさっと機をつかんで、仆れている 畷紅吉のそばへ跳び寄り、抱え込もうとすると、 『だいじよぶです、私にかまわないで』 さっ は 227

4. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

迄、お供をさせて戴きましよう』 うしろ 菖蒲之助の後について歩みかけると、右京の眼いろは、急に 嫉妬に変って、 朝ぎり口説 『待て紅吉、おまえはまだ居てもよかろう』 「ありがとうござんすが、もうお座敷のお勤めもすんだ筈でご さいますから』 長い長い塀の続く限り、佐賀甚の地内であった。 あした しくらでも花代をつけて 「明日もあさっても、そちの体には、、 その塀の切れる迄、菖蒲之助は黙然と歩いていた。紅吉も黙 やる』 って下を向いた儘歩いていた。 - 一ひいき 「お断りいたします。あなたばかりに御贔屓になりましては、 ほか ふと、菖蒲之助の影が、自分の側に見えなくなったので、紅 他の御贔屓にすみませんからね』 りようて 『まあ、そう云わずに』 吉が振顧ってみると、彼は、塀の角に佇んで、両掌をあわせ 『いずれ出直して参りましよう、色気を売る稼業が、こんな色て、凝と、瞑目している様子だった。 暫くすると、紅吉のほうへ戻って来て、 消しな風態では』 紅吉は、風に柳とうけながして、菖蒲之助の先へ行く影を追『失礼いたしました』と云う。 紅吉は、話の緒ぐちを見つけたように訊ねた。 って行った。 かんめき 勝手の分っている庭門の閂を開けて、菖蒲之助はもう往来「何を拝んでおいでになったのですか』 『土蔵の中で、舌を物んでお果てなされたお養父様にお詫びを へ出ていた。ほんの微かに、東の空が明るみかけている ちょうど夜明けの期もどこかで啼いて。 していたのでございまする』 『ほんにそう云えば、あの大家の大旦那様が : : : お気の毒な』 「もし : : : 。菖蒲之助様、お待ちくださいませ』 紅吉は、追い着いて、ちょっと恥しそうに、ロ籠った。 『死骸も抱いてやれないというのは、何たる不孝でございま お察しくださいまし』 そう走ったという程でもないのに、息を弾ませているのもおしようか。 かしい。先刻は、獲物を持った男共に向って、あんな気のつよ と菖蒲之助は、懐紙を出して、そっと瞼を抑えていた。 の 『あらましの事は、先程、物陰にいて伺いましたが、随分混み い言葉をズ・ハズ・ハ云って退けたくせに、菖蒲之助と並んで歩き 説だすと、急に肩をすばめて、もじもじと俯向いてしまった。 いった御事情のあるらしい様子。 : : : あなたも御苦労をなさい ロ ますでしようね』 『宿命です。ぜひもない事です』 『あの : : : 』と、紅吉は又、ロごもって、妙にいつもの調子が刀 朝 出ないように、 かよう じっ ぜっ たたず

5. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

ははうえ 『養母上らしい。お梶様らしい ああ同じ船に捕われて来 ( もしや、雷様の身に、何か不吉があったのではないか ) おそ 鬘て、みすみすそこにお在でになるのに 次にーー彼の胸を襲 0 たのは、真 0 暗な絶望だ 0 た。やりば と思えば思うほど、彼は、縛り付けられている八朔丸の帆柱のない憤怒だった。悪の前に亡びてゆく正しい者の天を怨むさ けびだった。 も折れよと、腕がいてみたくなるのであった。 『ーー何うだ、客人』 眼の前に、同じ運命の荒縄に縛められているお梶をーー助け 善 ることもできないのみか、お互いに眼隠しをされているので、 いつのまにか、耳の右京は、菖蒲之助の前へずかずかと歩み むび 姿を見合うこともできないのだった 9 寄っていた。ーー夢寐の間も忘れない仇敵の声である。眼は見 ひと - 一と と、声をかけようとすればすぐ、側に立ってい 一言でも えない迄も、菖蒲之助はすぐ反射的に る番人が、 『オオ、耳か』 と、体を正した。 『物を云うと、ぶん撲るそ』 と、すぐ麻縄の端を鞅にして、びゅッと帆ばしらの上を打っ耳は、嘲笑って、 ばな て脅した。 『今、おれの手からぶッ撃した鉄砲の音を聞いたか。かあいそ もくず お梶は病身である。もしその烈しい麻縄に一打ちでも撲られうに、雷の奴も、小舟と共に、海の藻屑だ』 たら死んでしまうに違いない。 菖蒲之助は、自分の身よりそれを惧れた。従って、まだお梶菖蒲之助は、身が顫えた。 ああ ひとこと かわ とも一言も口を交していなかった。 噫、やはりそうだったのかー 昼間は、船底に抛り込まれ、夜になると、帆柱の根に移され陰となり日なたとなり、常に自分たちの守護神のように、唯 しき た。今もここに曳き出されて、無念を呑んでいると、頻りに、 一の味方となっていてくれた雷も、遂に、魔人共の毒手にかか いかずち って、斃れたのかー 『雷々』と云う声がする。 『ロ惜しいのか菖蒲之助。ふッふふふ、ふ : : : イヤ道理だ、も ( さては ? っともだ。だが、まだまだこんな事で耳の右京が満足している と菖蒲之助は、神の訪れのように、胸をおどらした。 やが 然し軈て、耳の右京が、左舷のほうで大きく笑ったと思うとと思うと間違いだぞ。まだ会わしてやる者があるから、もう少 し気を慥かに持っていて貰おうか。 ゃいつ、その女をここ ぐわあん。ーーと銃を離れた弾音が大きく夜の海にひろがって、 『わはははは。ざまを見やがれ』 へしょッ曳いて来い』 とも 勝ち誇ったような右京の声が、船を圧して、今までの騒ぎは艫の方でがやがや騒いでいる手下共の影へ向って、耳は、こ う云いながら手を挙げた。 終局を告げたらしく思われた。 小舟から吊り上げた紅吉の体は、そのままな姿で引っ立てら 眼は見えない。体の自由はきかない。 れ、軈て耳の右京と菖蒲之助の間に、突き飛ばされた。 菖蒲之助はただ感覚で、 おど おそ やが ふんぬ ふる

6. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

度帰る途 : アアッ、畜生』 然し、一人の菖蒲之助さえ持て余し気味だった所である。雷 : 、抱かれ の怪腕は、苦もなくそれ等の人間を追い散らした。そして、菖紅吉は気がつくとうつつにこうロ走った あわ ている人の顔をじっと見て、吾れに回ると、 蒲之助へ力を協せて、 『斬るな菖蒲之助。斬らずに、刀背打ちくれて、そやつを生擒『オオ、わたしは。 : : : 菖蒲之助様、あなた、どこもお怪我も . り . に - 廿一い』 うしろ 『もう悪党共は逃げ去った。拙者も、この通り、手傷も負わ と云いながら、無手で、右京の背後へ廻った。 ぬ : さ安心して : : : 起てるのか』 『起てます : ・・ : 』 腕に腕を縋らせて 二度帰る途 : ああ恐かった』 『恐しい彼の右京。 勝気な彼女も、始めて、身ぶるいをして、そこらに仆れてい 討てば、討てる機会のあったものを、何で、雷は、討つなとる死骸に眉をひそめた。 : こんな事が度々あって 『どうしましよう、菖蒲之助様。 云うのか は、私は、外へも出られません』 最前から執濃いほど、 『変事があれば、何日なん時でも、わしが駈けつけて行く。気 ( 斬るな、斬るな ) かば と、闘いながら、その相手を、庇っているのか。 を強う持つがよい』 『でも : : : あなたはこれからもう、何処そお宿へお帰りになる 菖蒲之助には、不審でならなかったが、そんな事を訊いてい 、けど る間は元よりないし、無手で、強悪な耳を生擒ろうとする無理のでございましよう』 ねぐら 『定まった塒もない迷い鳥じゃが : な目的の為に、右京は隙を計って、ばっと逃げ出してしまっ 『おねがいですから、もし今宵、お急ぎの御用がないならば、 もいちど八幡裏のわたしの家へ帰って、今夜は泊って行ってく 『しまった』 ださいませ』 と、今更、悔いるように、雷は追いかけたが、右京の足は、 あかり 『でも、女ばかりの、そなたの家へ、男のわしが泊るのも : 天魔のように迅かった。のみならず、忽ち八幡界隈の町の灯の そう云われると、紅吉は、無理にもとは云えなかった。菖蒲 中に隠れ込んでしまったので、水へ落した魚のように、もうそ の姿は見出せなかった。 之助は考えていたが、 『そうだ。ではこういたそうか。いずれにせよ、此処からそな 『紅吉どの : ・・ : 紅吉どの ! なわて 一一菖蒲之助は、畷に残「て、気を失 0 た儘仆れている彼女を抱たを一人で帰すのは心がかり、八幡裏のお宅まで、わしが送 0 て参ったらよかろうが』 き起し、耳に口をつけて、何度も呼んでいた。 しつ - 一 みね 、けど すが かえ たお

7. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

養母様、もう暫く、どうぞ気持を確乎と緊っていて下さいま云って、使が来ておりますが』 せ』 と、縁端から、そっと告げた。 ふと、もらい泣きして、眼をらしていた紅吉は、見向きも 『だいじよぶです : : : ほんの風邪心地、菖蒲之助、心配おしで しないで、 十 / し』 『お断り』 「先には、お養父様を亡い、今又、ここでお養母様にもしもの と、云い捨てた。 事でもあったら、菖蒲之助は、何楽しみにこの先生きて行きま 『でも、これでタ方から六遍も通っていると云って、どうして しようそ。悪人たちと闘う力も失せまする』 も、帰らないんですよ』 『菖蒲之助、そなたは飽まで、あの右京と闘うつもりか』 コつるさいね』 『はい、一家や一身の為ではありませぬ。たとえ、此身が何う なろうとも』 そこを起っと紅吉は、舌打して表部屋へ出てゆき、格子の中 「案じられる : : : 』お梶は、薄い手を、額に当てて、憂いのこに立っていた使の者を、いつもの調子で、たった一声で追い返 してしまった。 もっている息をついた。 「いかにもそなたに、多少武芸のたしなみがあろうとも、彼の 相手は、迚もそなたの手にはおえまい : と云うて、お上の お力を借るわけにもゆかぬわし達の事情でもあるし』 畷八丁 いいえ、それはお養母様のお案じ過ごし、カは彼に及ばなく とも、正義という味方を菖蒲之助は持っております。 うれ あまり話し込んだり、菖蒲之助の訪れた欣しさに、感情も手 、此上、カに欲しいのは、自分の身上を知りたい事です。私 はなぜ、つい此間まで、あのような女姿で育てられて来たか ? 伝ったのであろう。急に熱が昻くなって、病人の呼吸がすこし 熱くなった。 「あっ、それを云っておくれでない』 あわてて、煎薬を与えたり、頭を手拭で冷やしたりしている お梶は、苦しげに、眉をひそめて、突然、夜具の襟に忍び泣うちに、すやすやと落着いて、やがて眠りに入った様子。 きを包んだ。 夜の更けるも忘れて、菖蒲之助はををしていたが、耳元で レ」き ′一しよ、つ : ね、菖蒲之助、後生ですから、時鳴った八幡鐘に刻を知って、 丁『 : ・ : ・時節の来るまで。 『オオ、思わず : ・・ : 』 の来る迄、それだけは、云わないでおくれ』 むせ と、静かに、枕元を離れて、紅吉に後々の事をたのみ、頭巾 そう云って、お梶はなおも咽び泣いた。 このうちかかえ を顔に結んだ。 畷そこへ、此家の抱妓が、 ねえ 『お姐さん、又、山吹のお座敷から、ちょっとでも来てくれと格子を開けて、外に出ると、黙って、紅吉も後から尾いて出 とて かあ なわて たか 225

8. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

「さてはもう一足遅かったか。アアおいたわしい ! 養母上は魚のように光って、一本の脇差が落ちていた。それを拾って手 にぶら提げながら、 そのような目に遭わされておいでになったか』 : 俺をここから出してくれ『生きてるそ ! 俺は ! 』 『菖蒲之助ッ : ・・ : 頼みがある ! と、呟いた。 : その代りにはきっと恩義は忘れないから、何とかして さっき 植込みの樹木が暴風雨みたいに揺れていた。見ると、先刻の その錠前を壊してくれつ』 ろう 悪番頭の伊豆八と腹をあわせて、一時はあらゆる手段を弄紅吉が、右京の乾分たちに囲まれて、死に物狂いで争ってい し、自分を苦しめた仙波鹿十郎ではあるが、その哀れッばい声る これもお梶と同じように捕まえて、魔族が引っ越しついで に縋られると、 ちくてん あ に、逐電する船へ担ぎ込んで行こうという肚であろう。 『オオ、今開けてやる』 一言の下に、菖蒲之助はそう云って、錠前のまわりを小柄でわや手を取り脚を取られようとしている様子に、鹿十郎はうし ろから物も云わずに一人を斬り伏せた。 柄を折ってしまうと脇差を持って抉った。 抉った、小 ふる 口癖につい出たのであろう、脇差を振りかぶって、 鹿十郎は狂喜して声を慄わせながら、 『有難い、この恩は忘れないそ』と、何度も云い続け、そして『御用っ』 どな と、呶鳴った。 又問わない事まで喋舌り立て、 『お梶を担ぎ出して行ったのは、もう半刻ぐらい前だから、ま土蔵の中にいる筈の彼が、ふいに姿を見せたので、さてはも かか だ裏の川べりか、油堀の方にでも、その船が繋っているかも知う奉行所の手が廻ったのかと狼狽して、右京の手下は蜘蛛の子 れないぞ。俺も、ここから出れば、これからは力を貸してやるのように闇へかくれた。 が、早く行って見たがいい』 「紅吉、おれは助けられたぞ、菖蒲之助が出してくれたのだ。 そうだっ、少しも早く、町方の人数を呼んでここへ引っ返 など云った。 して来るとしよう。紅吉、危いから、おまえも俺と一緒に、外 がらっと、菖蒲之助はそこを開けてやって、 『さつ、出たがよい』 へ出てしまえ』 『おつ、かたじけない ! 』 鹿十郎は裏門から外へ駈け出して行ったが、紅吉は尾いて行 鹿十郎は、向こう見すに飛び出して、土蔵の外へぶつ仆れかなかった。菖蒲之助と共に、お梶を救い出して帰らなけれ いのち 転た。そして這い起きながら、菖蒲之助になお感謝しようとした ば、生命がけでここへ米た効いはないと思う。 てはず だが、最初の手筈が狂ってしまった為、どうしても菖蒲之助 が、もう菖蒲之助は養の行く先を探す方に急いでそこを立ち あっち の と会えなかった。彼方此方で、凄まじい物音はするが、迂つか 去っていた。 族 り近づいてゆけば、今のような目に遭う惧れがある ーー・アア助かった ! 』 魔 『紅吉ではないか』 狂喜の眼を耀して、鹿十郎はよろよろと庭へ出た。細長い えぐ かがやか しゃ・ヘ たお こぶん まぞく おそ 243

9. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

四十前後の浅黒い顔色と鋭い眼を持っている侍だった。恰幅 鬘「そうだ : 。この上は、邸内の者へ告げて、抓み出して貰うもよし、風采も堂々としている。 つかっかと、菖蒲之助の方へ摺り寄って、 菖蒲之助は、そう考えて、袖門の潜りを叩いた。 「何処から参った ? い やさ、何処を通って御邸内へ入って来 いくたび そして幾度も、 たのか』 善 「お願い申します。唯今、耳の右京という兇賊をこれまで追い 菖蒲之助は、そういうこの男の声と面貌を、何処かで記憶が やかた つめて参った所、お館の塀をこえて、御邸内へまぎれ込んだ様あったように、心の裡で考えていた。 子。何とそ、引っ捕えて、お下げ渡しくだされたい』 ( そうだ ! 雁帰亭に来ていた客 ) 門を叩いては、そう繰返して云った。 はっと思い出して見直した。 だが、邸内からは、何の返辞もない。 では、彼の声が中 あの酔っぱらいの芸者の金八を相手にして、今日の昼間 へ届かないのかと思えば、邸の内で、誰やらげらげら笑う声がら、雁帰亭の座敷で右京を待ちあわせていたーー島田とかいう して、それは判乎り洩れて来るのである。 侍にちがいなかった。 じっ その内に、その笑い声さえしなくなった。いかに門を叩いて凝と、思わずその顔を見つめていると、島田は、右手を挙げ ほらあな も、事情を述べても、洞穴へ物を云っているように何の反応もて、とんと、菖蒲之助の肩先を突きながら、 ないのだ。総てが、故意としか受け取れなかった。 『物を申せつ。なんで拙者の顔ばかり見つめておるのか』 よろ 「よしつ、この上は』 『もしゃ ? ・ 』と、菖蒲之助は踰めいた足を踏み止めて、 あと なまこぺい きっ 菖蒲之助は、白い海鼠塀に残っている右京の足痕をながめ屹と云った。 て、自分もそこから足をかけて乗り越えた。 『もしゃ其許は、島田殿と仰せられはいたしませぬか』 もんぞう 苦もなく、彼は邸内へばんと跳び降りた。 『いかにも、わしは御当家の留守居役島田紋蔵だが、それが何 すると直ぐ うしたと申すのか』 あだか 恰もそれを待ってでも居たように、 『ーーでは今日、深川の雁帰亭においであって、黄昏れ頃、そ 「何者だっ』 こから駕で帰られたであろうが』 とが と、物蔭から咎める者があった。 『その通り』 そ - 一もと 『あツ、然らば、確かに右京を其許が』 うでくび と、菖蒲之助はいきなり彼の腕頸をつかんで詰問った。 天下の曲事 「雁帰亭で耳の右京と密談していた侍が、其許であるとすれ ば、右京がここへ逃げ込んだ理由も読めた。 さ、右京をこ くせもの かくま れへお出し下さい。あの強悪な曲者を、御三家のお廂の下に匿 はっき ひがごと くぐ つま おもざし たそが ひみ、し 25 イ

10. 吉川英治全集 第12巻 恋山彦・善魔鬘・きつね雨

新な謎 一念を賭しているか、それは菖蒲之助にもよく分っていた。 たった今、永代河岸で、紅吉を攫って行った筈の耳の右京 いのち 同時に今度こそは、彼女の生命を奪られるか、肉体を奪われが、どうして此処へ来ているか ? ふびん ずには居るまい と思われて、不愍というよりは、自分自身 いくら神出鬼没な耳でも と菖蒲之助はその不審に打たれ が、絶えられぬ苦痛を覚えた。 『いつの間にか、わしも紅吉を愛している : 紅吉を恋して『オオ、汝は』 いるのだ』 と叫びざま、相手の腰から飛び退いて、抜打ちに来そうな危 的もなく、闇の中に、闇を追うよりは、一先ず帰って思案を険を避けた。 極めよう。 ーそう肚をすえて、彼は悄然と、柏屋松の家の裏 ゅうべ女橋で、島田紋蔵と出会っていた時の姿とは、まるで まで戻って来た。 違って、今夜の耳は、編笠着流しの浪人姿となり、落着払きっ 乾分たちが出払ったので、家の中には、台所の老婆と女のほて、菖蒲之助へこう云った。 か、誰もいない筈だった。 『留守と見たので家探しに這入ったが、ちょうどいい所へ帰っ だのに今、何気なく来かかると、裏木一尸から一人の編笠て来た。紅吉も此家に居るにちげえねえのに、今見れば、階下 てめえ を被った浪人ていの男が、すっと、影のように外へ出て行く様にも居す、二階にも見えぬ。何処にいるのか、汝は知っている 子。 だろう。真っ直に云ってしまえ』 『や、誰だろう。怪しい奴・・・・ : ? 』 『白々しい事を申すな』 あしおと 菖蒲之助は、跫音を消して、馳け寄るなり浪人ていの刀の鞘菖蒲之助は、当然、そう云った。 を後ろから掴んで、 『たった今、途中から紅吉を隠したのは、汝自身ではないか。 『待てつ、何しに留守を窺った』 紅吉を渡すならば、今夜のとこは見のがしてくれる。さもなけ と、咎めた。 れば、用捨はせぬそ』 すると意外ー 『何ッ ? ・』 しび 『おう、そう云う汝は、菖蒲之助だな』 身を痺らせたように、右京はその一語に、愕然とした様子 まさ 云う声、振向けた編笠の中、それは正しく、耳の右京であつで、 『紅吉を : ・・ : 誰が隠したと ? 』 『だまれ。何か他に目的があって留守を窺ったのであろうが』 『おれは今夜限り高飛びするのだ。だが、想いを懸けた紅吉を 江戸へ残してゆくのは何としても忌々しい で、実あここ かどわ へ誘拐かしに来たわけだがーー、その紅吉を攫 0 た者があるとは彅 合点がゆかねえ。いつもなら敵味方のてめえと俺だが、今夜の かぶ あて 新な謎 てめえ うかが としより さら さら した