臙脂皿礫 紅吉は、ロへ入りそうな水の面から顔を反らして、 し』 『決してーー・・そんな怪しい者ではございません。わたくしは、 耳は、大きく頷いて、 髪結のお重の姪で、小泉惣八という御家人の娘 : : : 』 卩ー・ー由蔵』 云いかけると、耳は、 「へい』 『うぬ、どうしても白状せぬな。 よしつ、後悔するな』 『おめえは多分聞いて知っているだろう。このお雪という女中 不意にすぶりと、彼女の顔を馬盥の中へ突っ込んだ。 は、誰の手からお屋敷へ入ったのか』 めい 『よく存じませんが、慥か、髪結のお重の妹とか姪とかだそう よしちょう 一瞬ではあったが、思わず息を吸ったので、ロからも鼻から で、葭町のロ入屋稼業、柏屋松の手でお召抱えになったんだと も水が入った。苦しげに咽びながら、彼女は濡れた顔を必死で 聞いておりますが』 「そうか、それでだいぶ筋が読めて来た。 : どれ、僊の皮を振り上げた。 彼女が、変相の為に、ロの奥にふくんでいた含み綿は、水の 争いでやろうか』 ぼくろ 耳は、ふたたび立って、紅吉のお雪の襟がみをぐいと搬ん中に吐き捨てられていた。描き眉も落ち、描き黒子も消えてい おはぐろまだ た。ただ前歯の欠けと見せる為に、鉄漿で斑らに染めている歯 しみ ばだらい そして いつばいに水の漲ってある馬盥の中へ、彼女の顔の汚染だけが残っている限りだった。 そうした顔を見れば、もう前に覚えのある者には、誰にもす を突っ込むように抑えて、 ぐ、裏梅家の紅吉という事は分る。 何うしても泥を吐かなければ、こうして、てめえの描 『ー ! ーやっ ? 』 き眉毛や、変化の紅白枌を洗い落してみるそ。いくら巧く顔を つく じゃ へび 粧って化けていても、蛇の道は蛇、何でてめえなどに俺の眼が それは、耳でさえも、意外だったらしく、吃驚して、手を弛 くら めた。 さ、云うか、云わねえか』 晦まされてたまるものか。 首の根をぐいぐい押されるので、彼女の顔は、馬盥の水に触『月輪、その女を、おぬしは知っているのか』 れんばかりになったし、息はつまって、窒息するかと思われ 島田紋蔵にそう訊かれると、何う思ったか、耳は首を振って、 - 一しらえ しいや見覚えはねえが、余りに顔の変粧が器用なので、吃驚 したのだ』 『洗い落してみれば、まるで貌の違っている女ではないか。 もの 者とも思えぬ』 『この分では、とても一筋縄では泥を吐くまい。おれが預って おいて、気永に痛めつけてみよう』 『だが月輪、おぬしに女は、猫に小判のきらいがあるな』 0 ) 0 臙脂皿礫 『くるしいっ : : : 手を弛めて下さい』 ゆる ざらつぶて たし ちっそく むせ かお びつくり 273
『 : : : あっ ? 』 一目見るなり驚きの声をあげた。 そこには、耳の詭計にあざむかれて、駕のまま、攫われて行 仮寝の木枕 った筈のーー・お梶が無事にいるではないか。 紅吉もいる ! はや おお、お蝶の姿も見える 雷の脚は迅い。 そして、江尸から来ている柏屋松も、その中に交じって、ど 瞬くまに、神野寺の門前へ来た。 そこの山門を潜るかと思うと、暗い廂の下に、彼は脚を止めの顔もどの顔も皆、お互いの無事を欣んで、欣し涙に頬を濡ら している様子だった。 て、菖蒲之助の顔を顧みた。 かんじん だがーーその人々は唯ここに、肝腎な菖蒲之助だけが見えな 指さして、 あかり い事を、欣びのうちに、一抹の不安とも悲しみともして、今も 『彼処に、。、 ホチと、燈火が見えようが』 噂をしていたが、 『おや、誰か其処に ? 』 『あれが、籠り堂だ。 それへ訪ねて行くがよい』 と、柏屋松の言葉に、一同縁側を振向いて、等しく、 したい、最前からの次第は、何うしたわけでございましょ 『あっ、菖蒲之助様』 、つ、刀』 と、ロ走るなり、駈け寄って来た。 『あれへ参ってみれば仔細は分る』 ああ幾日目。いや幾年目。 『して、貴方様は』 互いにこうして無事な顔を見合せたことであろうぞ。 『猶一つ、為る事を残してある故、拙者はここで別れる』 柏屋松は、炉に薪をくべ足して、 『一体、これは、何うしたわけだろう ? 』 『又会おうそ』 云ったかと思ううちに、その影は、翻りと石段を駈け降り不審しがった。 菖蒲之助も又、 て、見る間に、何処へともなく駈け去ってしまった。 『その不審は、私からこそお訊きしたい所です。ー・・・養上様 神出鬼没ーーと云う言葉は、まったく、雷その人の為にある は又、何うして、先刻、駕のまま、耳の手下に攫われてお出で ように思われた。重ね重ねの事に、今は、その人の行動を判じ 木 になった筈なのに』 ている心の余裕すらなかった。 の と、訊ねると、お梶は、 ( 訪ねてみよ ) しえ、私もいちど、救いを叫んで、何うなるかと思 0 てい 仮と、彼は教えた、そのお籠り堂の燈を目あてに菖蒲之助は近『い、 るまに、あの駕が、四、五町も馳けたかと思ううち、待ち構え づいて行った。そして御堂の間を窺って、 あそこ またた なか ひら ひ * 、し いぶか まき 、つき うれ さら は
時には、びいんと、乳腺にもひびいて来るものがある。 『何ですか、父上。 : : : 何事が』 なか 雨『これから話す』沈痛に、語を切って、心をととのえているら 「お胎で、乳を、吸うのかしら ? 』 お香夜は、そんな事を思ったりして、夜毎夜毎に、愛しさが ねしい顔が見えないことは、何か、礼記も気がらくであった。 増して行った。 っ『実はの』 男か、女の子か。 その宿題も、考えてみる。左り謄は男の子だとよく人がい 『香夜の事じゃが あすかゆ 『妹の : あ、左様でございますか、妹も、王子の飛鳥湯に 『男の子だったら、きっと、あの人に、似ていることであろう 参って帰って来た後は、一頃、だいぶ明るい顔つきでしたが、 ほほえ : 』と思って、独りで、につと微笑んだ。 近頃は又何か : ・・ : 』 『それが、病気ではないらしい』 だ ; 、一云して、暗い方の事ばかりを考えだすと、彼女は、 もう居ても起ってもいられなかった。一途に、考えは死へと走 『いや、気欝でござります』 ほか ってしま , フ。 かも知れぬが、まだ、他に原因がある。おまえは、気が ういざん いろいろ つかんか』 肉体の苦しさや、初産の種々な恐怖などよりも、やがては知 『左程 ? れずにいない、父に、兄に、何ういおうか、何う詫びようか ( 生きてはいられない ! ) 『妊娠じゃ』 『げつ . あ、あの妹が』 という気持が、すぐその自責から襲ってくるのであった。暴 『ウム』 雨のように死が頭のなかを翔ける。朝が待てない気持にまで追 い詰められてしまうのである。 顔は見えない。父の顔も、子の顔も。 だが、死ねない、何うして今となって死ぬことが出来ようか と彼女は泣いて明かすのであった。又こんな感情の昻ぶる時ほ たいじ もだ ど、母胎の血と一つに生きている胎児が、闇のなかで悶えるよ 秋の春雨 、つ ' こっ 1 」ノ、 いのち お香夜は、もう、自身を一つの生命には考えられなかった。 ーカ、 右枕にしても、左枕にしても、この頃は何となく寝ぐるし不義が生した肉塊というものへなどいう厭わしい考え方はみじ あおむけ い。やはり何うしても仰に寝て体を真っ直に、そして少し脚んも持たれない。春の夜の雨がしとしとと草木へ濺ぐように濃 やかな愛が浸みこんでゆくのであった。 を折るようにしていなければーーー、し配になる。 たいない いのち が、今は春ではない。さなきだに心の悲しみたがる秋だっ そうして、じいっと、眼をつぶっていると、胎内にある生命 しゅんどう のかすかな蠢動が、おそろしい位わかるのであった。 みまくら にんしん きうつ わ たか あら イ 36
き纒 , フ。 『何うなすった ? 』 彦当惑そうに、女は、暫くあしら 0 ていたが、折助たちの言葉と、十徳の男は、提灯を、倒れている彼女の上に翳して云 0 鵬 や行動が次第に露骨なものになって、貞操のあやうさを感じるた。 かんにんぶくろ 山 と、堪忍袋の緒をやぶったように、突然、女はあざやかに一人『はい、有難うございます』 かどづけごぜ 『かあいそうに、門附の瞽女じゃないか。三味線が折られてい 恋の男を投げつけて、さっと、闇へ走り出した。 『あっ、偽せ盲目だっ』 る。商売に困るだろうな』 『捕まえろツ、食わせ者だ』 『御親切様に : ・・ : 』 折助たちは、追い重なった。 一人は、編笠をつかみ、一人身づくろいを作って、女は千断られた笠の緒を、白い顎の下 は三味線を引っ奪くって、彼女の身ぐるみ、大地へたたきつけ に、結び直していた。 じっ 凝と、十徳の男は提灯をその顔に向けて、右からーー左から びつくり 慥めるように眺めていたが、やがて吃驚したように、 ちち 『もしやお前さんは、十寸見源四郎の娘のお品さんじゃない カ』 亡父の旧友 と、云った。 無造作に折れる柳と思ったところが、案外手強い。 折助たち お品は、思わず跳び退がった。 は、その反撥に、顔を打たれて、 この江戸に亡父の源四郎の名や自分の顔を見知っている人 しゃ 『洒落れた真似を』 は、もうそう多くは居ない筈であるし、殊に自分は、半月はど かす と、兇暴な血をよけいに煽られて、狼藉な争いを描きはじめ ~ 則に、やっと堀家の邸から見張の眼を掠めて町へ逃げ了おせた めくら 体である。編笠に顔をかくして、偽せ盲目の真似をしていたの すると一人が、何を見たのか、急にあわてて逃げてしまっ もその為だった。 だのに、柳沢家の提灯を持ったこの男 ちょうちん た。見ると、提灯をさげた十徳姿の男が近づいて来る。その提が、自分や亡父の名までを知っているのは、よくよく此っ方に 灯の紋は主人の柳沢家の定紋であった。後の折助たちもそれを運がないのだと、驚きもし、嘆きもして、思わず身構えを取っ 見ると、 たのであった。 『あっ、誰だろう ? 』 然し、先の男は、それに依 0 て、にお品〈向 0 て危害を加 兎に角、逃げ出さずには居られなかった。提灯の光は足早に えるような気振はない。それに身装も、宗匠頭巾に十徳という 此っ方へ向って駈けつけて来る。狼狽して走った折助の影と行至って、温厚そうな人物だし、年齢も五十前ではあろうが、相 ちが ともだち あお てごわ たしか ますみ みなり あご
でもいわれるか』 『ま、そう、仰せられずと』 『山彦どころか』 『嫌じゃ、嫌じゃ。殿様のお越しを仰いで、そなたも、屹度、 きゅうめい 『なんじゃと』 糺命してあげるから、覚えていやい』 こおうみ にせもの 『古近江の偽物、お使い用にもならぬ駄三味線と存じまする。 『お待ちください』采女は、狼狙して、青ざめた顔を、窓際 嘘と、思し召さば、あれにおる、都一中でも、誰にでも、鑑定へ、持って行った。 まこと をさせて御覧なされませ』 『これから、すぐ、再び上方へ発足して、真の山彦を、近々の たずさ 『これ、八橋殿、よう見てくれ』 うちに、必す携えて帰邸いたします故、殿様のお耳へは 『見るにも、堪えぬ品、御念には、及びませぬ』 『なんの、もう、そなたは信じられぬ』 1 一ゅうよ 「では、偽物か』 いえ。今度こそは、必す : ・ どうそ、暫くの御猶予 を』 『よう、市にも、売物に出る安物。はははは、飛んだものを、 お求めなさいましたな』 采女は、あたふたと、裏門から出て行った。 あお おさめの方は、蒼ざめて、ついと席を立ってしまった。 急病といって、おさめの方は、その夜の会を、あいまいな馳 でも采女は、まだ信じられぬので、それを、広間に持って出走に濁して、席へは顔をださなかった。然し、偽山彦の話は、 て、一同へ見せた。然し、誰も、それを山彦とうなずく者はな誰からともなく洩れて、彼女の無智と、柳沢家の権力への皮肉 噂になっこ。 、食わされたか』 『もう、三絃いじりはせぬ。だが、山彦はあきらめぬ。真の山 采女は、裏庭へ、偽物の古近江を引っ提げて来て、敷石へた彦を、手に入れて、打ち砕いてしまわねば、胸が癒えぬ』 たきつけた。そして、煮え返るような忌々しさを、腕拱みし おさめの方は、徳兄妹の采女へ、そんな意味の手紙を書き、 て、砕けた三絃を睨みつけていると、 金を添えて、使いに、そっと持たせてやった。 『采女つ。ようも、きようは、このおさめに、辛い恥をかかせ采女は、二日ほど、市中の遊び場を駈け廻っていたが、やっ やったの』 と、丁字風呂の二階で、湯女を相手に、酒びたりになっている どな おさめが、居間の窓ごしに恨んだ。 藍田喬助を見つけだして、彼の顔を見ると、頭から呶鳴った。 采女は、面目なかった。庭へ下りて、手をつきながら、 『喬助つ、大変だそ』 『何が』 下『お部屋様、ま 0 たく、手前の粗忽』 南『粗忽ですみましようか、ああして、人まで招いてーー・。殿様『はやく起てつ。飲んだり、遊んだり、そんな事のみ、目的に わらわ 風の名折れでもある。妾は、世間へ顔むけがなりませぬ。もう、 してるから、かような不始末を為でかすのだ』 兇誰へも、姿を見せるのは嫌じゃ、きようの会も、病気というて『一体、何が、どうしたのだ』 『いっそやのーーー山彦ーーー』 めきき あいだきようすけ そう ろうぞ、 めあて きっと
恋山彦 ものがあることを。 なぜならば、何を話しかけても、お品は、返辞をしてくれな いからである。 お品の : : : 』 『おお血だ : ・ 血だ : っ 一図に、ここ迄は、従いて来たものの、山に取り巻かれた嬰ン坊のような大声をあげて、伊那小源太ともあろうもの ら、急に淋しくなって、都会が恋しくなったのではないか ? が、大空に顔を上げて泣きだした。その泣き声も超人間的であ : 。手は固く自分の体に掴まってはいるけれど。 った。偉大なる野性であった。 泣くだけ泣くと、小源太は、何う考えたのか、突然涙を払っ そう思って、小源太はふと自分の肩に巻きついているお品の 手を触ってみた。 て、起ち上った。 おおおじ 『あっ ? ・ 『そうだ、大祖父がよい薬草を持っている。あれを服ませれば かえ 氷のように彼女の手は冷たかった。 生き甦る。きっと、もいちど生き甦って、この眼で、小源太を あわ 小源太は、慌てて彼女を草むらへ下ろして、両の手に抱きあ見てくれるだろう。急ごう、急ごう、山の部落へ』 げた。冷たいのは、手ばかりではない。 山を駈けることは平地よりも楽な小源太であった。忽ち、峰 とうげ 足も、頬も : のふところへ、渓流へ、そして峠へ、鹿のようにその姿は迅か っ一 ) 0 『お品あっ』 す れんれい しなの びよう 顔を摺りつけて、小 源太は呼んでみた。だが、お品は、眸を だが、甲武の連嶺や、信濃の山の波は、行く手に渺として余 開かなかった。 りにもまだ遠い くちもと 唇元に徴笑を含んで、幸福そうに死の睫毛を閉じているでは彼が胸に抱えてゆくお品の微笑の色が、それまで、果して変 なしか。小源太は、信じられないのである。死んでいるとは、 らずに居るだろうか。然し、小源太は信じている。 何うしても思えないのだった。 『助かる、助かる、まだ若いからーーー』 めちやめちゃ 『おロっー お品・ そう信じて、滅茶減茶に、人間の世界をうしろに疾走して行 だんだん 漸々に、おろおろ声になって、ばらばらと涙を彼女の顔にこくのであった。 『何うしてだろう ? 何時の間に ? 』 あお 小源太の顔は、お品のそれよりも蒼ざめてきた。だらりとし た彼女を両手に乗せたまま、凝としても居られないように、そ こらをま′っいた と、ーー足許に一本の矢が落ちた。白い矢羽が草むらへ浮い やじり た。拾ってみると、鏃には血しおがついている。そして初めて ねば 気がついた。自分の指にもねっとり、お品の背から粘ってくる あ ほお みやこ じっ まっげ あか の わ 0
朝お出でくださいまし』 お重は、杯を伏せて、 鬘すると外で、 『お膳を片づけておくれ』 『いや、私です。菖蒲之助でございます。ちょっと、開けて下『おや、御飯は』 さらぬか』 『いらないから、早く洗い物をすまして、お前たちはお寝み』 『アア、菖蒲之助様で』 善 お重は自分で立って、あわてて、雨戸と腰障子と二重になっ 『戸締まりを気をつけて。 それから、若旦那のお身につい ている店口を開けた。 て、よけいなお喋舌りなどおしでないよ』 しようぜん 悄然と、菖蒲之助は入って来た。衣服はやぶれているし、顔お重は、二階へ上って来た。 色もわるい すぐ、声を密ませて、 『ま、どうなすったんですか』 『二、三日お見え遊ばさないので、何うしたのかと案じており すきて ここの梳手たちは、彼の姿を見ると皆、急に顔を紅らめて、 ました。そして、お梶様のお行方はもう分りましたか』 素振も落着かなかった。 ほかげ 『後で話そう』 菖蒲之助は、灯影に腕を拱みながら、黙って首を横に振っ 菖蒲之助は、そう云った儘、二階へ上って行った。お重は、 永い馴染みであった。まだ佐賀甚の店が栄えていた頃から出入『まだ知れませぬか : していて、彼が艶やかな娘姿でいた間、その黒髪は、お重のは 『うム : : : 。知れぬばかりか、愈、耳の右京という者の正体 えたい かに結わせた者はなかったのである。 が、わしには得態が攫めなくなった』 佐賀甚がああなってから、他に寄る辺もない彼は、事情を打『何うしてでございますか』 明けて、お重の二階へ来ては時々泊って行った。昼間は客が多『されば、実はこうじゃ』 つぶ いので、出入は朝早くか夜晩くと決めていたし、二人の梳手に 菖蒲之助は、審さに、今宵の出来事を話した。 『まあ ? も、かたく口止めはしてあった。 ・ : 御三家の尾張様のおやしきの中へ、右京の奴 「何だか、青い顔をして居なすったが』 ・、、逃げこんでしまったのでございますか』 『ほんに、ひどく憂い顔で』 『それもよいが、奇怪なのは、藩士の島田紋蔵や其他の侍たち 梳手は、囁き合って、 が、故意に、あの悪党を匿うていることだ』 『だけど、ああいう姿は又、とても堪らないねえ』 「ど , つい , っ理窟で 1 六、いましょ , っ』 『さ。 と、色つばい眼を交して、くすりと、笑いながら膝を抓り合 : それがわしにも解せぬのじゃ』 っていた。 二人は黙って考え込んでしまった。 コつるさいよ』 然し、 いくら考えてみた所で、元より解けない謎だった。 あで うれ かわ おそ ひざ つね ひそ やす 256
肉 えんきよく きつもん 『妹』 婉曲さもなく、血相を示して、ずばずばと詰問して来た。 陽の明るい納戸の外で、礼記が呼んだ。 「香夜っ : : : 。黙っていては分らん、相手は誰だっ』 返事はする。然し、彼女は、自分の部屋から顔も出したくな 『祖先のお位牌に、又、父上のお顔に、おまえは泥をーーこと おえっ 、った。礼記は庭に下りているらしい、わざとのように聞える云いかけて、礼記の方が先にもう嗚咽の声になってしまった。 そか くらい快活に 『 : : : それでなくとも、四面楚歌のお苦難の真ッただ中に立っ 『妹、いるのか』 てお在で遊ばす父上に、御苦労の上に、御苦労をかけ居った よ。 『居ります』 さっ申せ。香夜つ、なぜ黙っているか』 『ちょっと、来てみないか。よい日和だそ、この空の碧さった らない』 『相手を申せつ』 『風邪をひいたのでしようかしら、すこし又、頭痛がして : : : 』 『癒してやる。風邪ではないのだ。わしが癒してやるから、ま『近隣の次男坊か。何処の藩の者か。或は又、この春、王子の あすかゆ あ庭下駄をおき。 門番の嘉六が栽ったという菊花を見て飛鳥湯の宿にいた頃でも』 きようだい やれ、なかなか見事に咲いている』 いくら兄妹でも、言葉が過ぎると気がついたように、礼己は 『でも、何ですか : ぶつんと口を閉じた。香夜は紙よりも白い顔と、白い唇をして うつむ 『来いと云ったら ! 』急に語気をあらくして、 俯向いていたが、涙はこばしていなかった。 わがままもの 『吾儘者、ちと、話もある故、来いと申すのじゃ。嫌か ! 』 己には、それが憎い。こういう妹ではなかったがと田 5 うの ひと - 一と 香夜は、どきっと、乳の下に痛みを感じた。 である。箏の音がうるさいと読書の部屋から一言どなっても涙 ぐむ女であった。雨の日に抬った小猫が三日前に死んだといっ まぶたあかは ても、七日も瞼を紅く腫らしていた性質なのだ。それが何とい う変り方だろう。この太々しい落着は。 肉 そ , つも田 5 , っし又、 ( いや、毎夜、独りで泣いて、もう涙も涸れているのじゃない きくばたけ 菊花畑のある裏門の方へは行かなかった。生れて初めて見るか ) つきやま ような恐い顔をして礼記は妹を築山の蔭の誰も見えない藪の中 と、察してもみる。 へ連れて行ったのであった。 然し、父の苦悩を察しると、ここで、手討ちにしてしまいた めくら いきどお 骨「父上や、この兄を、おまえは盲目と思うているか』 い程、憤りらしいものがこみあげてくる。白い皮膚を見て こと やがて、こう骨肉的に、殊にまだ妻のない兄よ、、 。しささかのも、ありあまる黒髪を見ても、唇のいろ艶までが、急に汚ない なお 骨 なんど ひょり あお ゃぶ - 一と はん おちつき たち か
つなみ ひし 、嘯か地震のあとのように、滲澹と潰がれたる屋敷を見た、 彦、い地よげに、、 源太は笑った。そして、 『又、来ようそ』 消えた土塀 山 と、庭先へ降りかけると、そこの縁に、撫子の小袖が、落ち ていた。 恋 最前、井戸のまわりで、侍たちゃ仲間が騒いでいたことば飛び道具は、効を奏した。 じゅうりん で、彼は、お品がこの屋敷を脱け出した事を知っていた。かね 小源太の影が、途端に、地へ俯っ伏したので、彼の蹂躙する て、評定所からこの上屋敷へ移されているに違いないと思ってにまかせて一度物蔭へかくれていた堀家の家臣たちは、 『しめたっ』 いたのであるが、自分が、ここへ近づいているのを知らずに、 さまよ お品は、何処へか、彷徨い出してしまった。 と喚いて、四方からそこへと、駈け集まった。 不用意にも、彼の側へ寄って行った。伊那の深岳から江尸の とっ * 、 小源太は、小袖をつかんで、星明りにながめていたが、突真ん中へ抛り出された山男に突嗟の機智などはあるまいと、頭 然、それを顔に当てて、さめざめと泣きだした。 から呑んで考えていたのが間違いである。 なでしこ 『お品の小袖に相違ないつ。お品のうつり香ーー・。お品の移り お品の移り香のする。ーー撫子花の小袖を片手にかかえて、伊 那小源太は全身を闘気に燃やして待っていた。そして、近、つく 顔に小袖を当てて、過ぎにし頃の思い出に酔うように、そし大勢の跫音に、思わず右手の刃をすこし動かしたので、 て、思慕のかなしみに悶えるように、ど 0 かと、石へ腰を『あ 0 ? 』 落して、すすり泣きをしていたのである。 と、前の者は、退き足を浮かしたが、もうすでに遅い おもて どかあんー むくりと、面を見せたかと思うと、小源太は異様な声をあ 紛れのない鉄砲の音である。何処で、誰が狙っていたのか。 ぐわっー げ、刃と共に躍り起ッた。 という音とも声とも れっさく のうしよう さしもの小源太も、それには気着いていなかった。不意に、轟つかない空気の裂炸が、血と脳漿をぶり撒いて、彼が引いオ こ切 おん 音が、耳を衝ったと思うと、彼は、撫子の絽の小袖をつかんでツ尖の方へとよろめいて来てぶつ仆れた。 顔に当てた儘、のめるように、前へ仆れて、ごろりと大地へ仰『ーーーわっ、生きてるツ』 向けに転がってしまった。 狼狽と狼狽とが、同士討ちをして、躓すき合った。われがち になって逃げるのである。逃げるを趁って小源太は片手なぐり に斬りまくった。血に趁われて、愈、ゝ、逃げ惑う。 その中に、藍田喬助と市橋采女の顔が見えた。小源太の眸は それへ光った。 まギ、 なでしこ おめ つま
こだま 眼を、白く大きく、彼方へ向けた儘、捻兵衛は自失したよう 「オオッ : : : 聞える : : : 聞える : : : 一一一絃の谺』 に動かない。 『名器山彦』 一一人は、魔魅の手に曳かれるように、ふらふらと、音を慕 0 御神壇とよぶこの絶壁から上には、松、梅、栃など千古の密 林があって、斧、殺生、禁断のお止山になっている。 て、歩きだした。 断崖に近く、自然木で建てた一ノ宮の鳥居がある。その下の その瀬は深けえだに』 「あぶねえつ。旦那っ どな 捻兵衛は、半、夢中になった二人を、呶鳴りつけて、自分孔雀岩という真っ蒼な石に、一人の女が、三絃を膝にのせ、腰 かけていたのだ。 が、先に渓流を渡って招いた。 せいえん 気高いと云おうか、凄艶といおうか。山で生まれ、山で育っ 『わしの後に尾いて来さっせい』 た捻兵衛には、山の妖精としか思えなかった。 『あの音は、お品の撥の音じゃ。気づかれるなよ、捻兵衛』 深山の光線のせいか、樹色のせいか、女の顔は、透き徹る琅 『合点じゃ。呑みこんでるわい』 坪のような白さだった。黒髪を根元でむすび、背へふっさりと あれは、何の辺 ? 』 『分っているか、撥の音。 しゅしんめいばう くじゃく 流している。年ばえは、二十歳ごろか、朱唇明眸、三絃にあわ 『遠くはない、御神壇か、孔雀岩か』 くち はいまっ 這松の枝につかまって、三名は、数丈の崖をよじ登って行っせて、歌が、唇からもれていた。 あえ からまっ ずっと遅れて、喘ぎ喘ぎ、後から登ってきた喬助と采女は、 た。落葉松の梢から、氷のような冷風が襟元へ落ちてくるの あえ 彼が、茫然と、足をとめているので、 に、汗は、満身をぬらし、炎のように呼吸が喘ぐ。 何うした』 もう一息で、御神壇の絶壁を登りきろうとした時である。這 下から声をかけると、捻兵衛は、 松の中から、ひょいと顔を出した強力の捻兵衛が、 『あ、あれ ? 』 『あっ ? 』 唖のように指さして、硬ばった顔のすじを引っ吊らせた。 顔色を変えて、竦んでしまった。 何気なく、伸び上った。 そして、殆ど、二人が同時に、 どうだんてんだん 『おおツ、お品ッ』 童壇・天壇 叫んで上へ、躍りあがると、途端に、彼女の姿は、三絃を胸 に持って、雉子のように、ひらりと岩蔭へ跳んだ。 『や、や。もう見えん、喬助つ、逃げたぞ』 天猪、狼、何んな野獸に出会っても、二尺の山太刀一本帯てい 、いかけると、その顔へ、栂の密林から、真っ蒼な色でもあ 壇れば、決して、恟ともしない山の主の捻兵衛が、そ 0 と、総毛追 るような一陣の風が、地上の落葉を巻いて、さっと、ふきつけ 童立って顫えたのだった。 何を見たのか ? ふる おび かん おし おど はたち つが とち ろう