食堂へ入ると、羅は、子供みたいに、 西公園のすぐ前で、入口の庭園に古物の石の塔があるからすぐ 『朝飯だ、早く持って来い』 分ります』 炊事係りの媽婦は、その声を幾度も聞いてから、のろっと、 「そこは、プラッグレイの別宀モか』 『そうじゃありません。エリゼが最近借りた家です。けれど武蒼い顔して出て来た。 ただ用心棒がいます『 : : へえ、何ですか』 器会社の社員の表札になっています。 から、僕などが近づけば、どんな目に遭わされるか知れないの『朝飯だよ』 『ゅうべから、何うしただか、急に腹が痛んでね』 で、近づく事もできずにいるんです』 わけ うなず ひばら 羅は、幾つも頷いて、まるでべつな事でも考えているよう 媽婦は脾腹を抑えて、言い訳のように、顔を顰めて見せた。 この媽婦は、南京路で乞食していたのを、張が拾って来て、 『よろしい。分った』 炊事番に使っているのであったが、何うしても、乞食根性の横 ずる 爪の先で卓をかるく叩きながら、窓外のつよい日光に眉を顰 . 着と、狡い癖が直らなかった。 めていた。 羅も、それを知っていたので、 はらいた 『こいつ、又始めやがったな。てめえの腹痛なんそ訊いている 今朝は、砲弾も、沈黙していた。ただ遠くの空で、プロ ペラの唸りがしていた。 んじゃねえ。朝飯を出せと云っているんだ。はやく飯を出せ飯 『 : : : そうだ、ちげえねえ、俺はまだ朝飯前だった。張、お客をよ 様にも、飯をやって、又地下室へお寝かし申しておけ』 『盟長様』 と思うと、何処へ行くの ふいと、羅は立ち上がった。 急に憐れッばい声を出しながら、媽婦は側へ来て頭を下げ あしおと 早い跫音を残して、もう階段を駆け降りていた。 『生憎とな、今朝は食事の支度をして置かなかったので』 『ちイっ』 羅は、舌打ちをして、 陰膳 『又、狡るを極め込みやあがったな』 『そんなこたあしませぬ。兵隊に持って行かれたおらの餓鬼 なんし が、ゆうべそっと訪ねて来たので、南市まで送って行ったとこ ろ、帰えり途をほかの兵隊に塞がれちまってさ 『それで腹が痛くなったっていうのか。横着者め』 『。・ー」媽婦あっ』 ぜん しか あわ ナンキンろ ふさ 大声で飯を催促した。 しか
『何しろ小さくってね』 『あのね、おまえさん、ゆうべみたいに引っこみ思案じゃいけ なくってよ。きようは、そのお客さんに、何でもねだらなくっ 『内気だけど、品力しし 、もの、ほかの雛妓さんと来たら、私た ちでも、顔負けがするのがあるもの』 ちゃあ : : : 』 うち 『だってエ・ 『感、いなことには、五十銭でも一円でもお小遣があると、家へ 送ってやるらしいんですよ。なんでも、おっ母さんというの 『どんなお客さん』 めくら 『それはやさしい人』 は、まだ若いらしいけれど、盲目だとかいうのでしてね』 『へ。家は』 『横浜の』 『それを一言うと、いやがるんですけど、相沢のイロハ長屋 : : : 』『東京ですって、まだ若いのよ、そして、黒い眼鏡をかけて、 わかたんな と言いかけて、ロをむすぶと、格子が軽く鳴った。木履の鈴どこかの、若旦那みたいな人』 の音は、豆菊だった。 『おや、この妓、なかなかだよ』 『あら、もう帰って来たの』 『そんななら頼もしいけれど。 んだろう、はやく行ってらっしや、 豆菊は、すぐ千歳の女将の方へ、 『きのうは、有難うございました』 『どれ、私も』 『まあいいじゃありませんか』 『まるで、家の娘みたいだね』 『おや、もう一時。ちょっと、朝のうちに、お薬師様へお詣り 『置いてみれば、可愛いもんですから』 えきしゃ あ して、帰りに、西の橋の易者がよく中たるというので、観て貰 と、言って春太郎は、豆菊の方へ向いて、 って来たりしたものですからね』 『どうしたの、お座しきは』 『ご病人でも、あるんですか』 『あの、蔦家のお客さんが、伊勢佐木町へ連れてゆくと言うの しいえ、人様の頼まれごとだけれど、まるで見当がっかない よ、わたし、昼間だから、いやだって、言ったんだけれど』 『雛妓が、そんなませたことを言っちゃあだめ、連れて行ってのでね、探偵じゃあないし、又そう他人に話しては困ると言う ・ひき、つける し、困ったことを背負わされてしまったのさ。 おもらいな、い』 すいきよう ち『今、家へ行って、姐さんに聞いてつからと言って、帰「て来私もすこし粋狂だけれど』 『ホ、ホ、ホ。女将さんのような気性だと、見込まれるんです まめ の『豆菊ちゃん』 『女のとりもちぐらいならいいけれど、大隈さんも、ひどい目 7 にあわせるわよ。いずれ、お前さんにも智恵を借りたいと思う と、千歳の女将の方へふり向いて、長い袂を持った。 おしやく ねえ おしやく たもと ! つくり : さ、お客さんが待っている し』 み
おいしき と、追敷が足らなくなったからと、軽く言っているのだが お光さんは、指環のサックを、広東服のポケットに納さめ て、 唄 は『あぶねえもんだぜ、そんな口は』 『高瀬の方の手段は、それから考えたっていいしね : : : 』と南 ん『あぶないどころじゃないのよ、諸君』 京豆を割った。 カ『へ』 その晩の話は、それですんだ。 のぞ か『ちらと、私がそばから覗くと、まあ、どうだろう、その前に 『居留地のクラプへ行こうぜ』 検事局や伊勢佐木警察署へ行って、未決の予審調書から写して 『だめだよ、君たち』 来た盗品と、そっくりじゃよ、 十′し、カ』 『どうして』 せっとうえんざい 『じゃ、亀田が窃盗の非を被せられた、あの高瀬夫人の失く 『李鴻章は、上海へ高飛びしちまったから』 した品物か』 『挈っ : これが、そうなの』 『じゃ、 いよいよ亀田の窃盗罪は、むじっときまった』 朝のうち 『そんなことは、トム公が、最初から断言しているじゃない ちとせおかみ あさまし ときわまちこんばる 『そこで、どうしたんだ、店では』 千歳の女将は、朝詣りの帰りを、呼びこまれた常盤町の今春 ひひ 『狒々旦那は、考えておくから、あしたもういちど電話をしてで、三十分ほど縁喜棚の下でしゃべりこんでいた。 みて下さいと、軽く断ろうとしたのよ。 だけど私、そばか熱い塩桜の湯を、手にのせて、 まめ らすすめて、無理に品物を預からしたのよ、その男も、急場に 『おや、豆菊ちゃんは、見えないね』 金がいるんだから、置いていっても、 しいと一一一一口 , つのさ。 : 面白『昨ばんはどうも』 いだろう、明日の午後二時頃には、もういちどその男が、店へ と、主人の春太郎という、自分も、抱えといっしょに、座し しかけ もの 来ることに仕掛たのだから : : : 』 きに出ている三十ぐらいな働き芸妓、 ったや 『よし、そいつは、おれが捕まえる』 『今朝もはやくから、蔦家さんのところへ呼ばれて』 きお と、今村や二、三人が競い立った。 『朝から、半玉が出るなんて、 しい景気だこと』 『で、捕まえたら』 『おかげさまでね』 『わたしとトム公とで、十二天の上で待っているから、連れて『それに、あの妓は、まるで、お人形だから、お客には、、、 おもちゃ 来てもらいたいわ』 玩具だろうよ』 はんよく シャンハイ
: なかなか強情で居らっしやるな』 社会部のモサも、匙を投げたようにあぐねているのだった。 『お帰京はいつですか』 記者団 『東京から、唯今、電報が参りましたし、私の不行届きが、方 方へ御迷惑をかけたようですから、次の汽船ででも帰ろうと思 って居ります』 染尾伯夫人の静養している清楚な隠れ家へもどってみると、 案のじよう、せまい入口も庭のほうも、署から尾いて来た記者結局、こうして大勢で詰め寄ることは、先方の意地を強くさ せるばかりだと知って、一同は、 や通信員たちで理まっていた - 一きんしゅう 『じゃあ、汽船の中でも、又 , ーー』 夫人は、古今集の乗せてある例の小机の前にきちんと坐って と、コりき揚ガ 4 ) 。 そして、一人も室へ上げていないのである。 その後へ、銀子は、帰って来た。 強腰な記亠名が、 富吉の顔を見ると、 『どういうわけで、ここでは発表できないのですか』 『そうそう、あなたでしたわね』 縁がわに腰かけ込んで、根くらべをしていた。 と、夫人は、遠く過ぎた夜の事を思い出して、やさしく笑っ 『そういう理由は、私の都合でーーーと申しあげるほかありませ ん。東京へもどりましたら、良人と一緒に、何事でも、お話し 『 ! ーあの為に、とんでもない災難をおうけになったと聞し いたします』 『然しですね。吾々も、こうして、大島くんだりまで社から出て、お気の毒に思って居りました。東京へ帰ったら、何かでお 張を命じられて来て、漫然と、帰るわけにはゆかんです。従っ理め合せいたしましようね』 て、臆測で記事を書けば、あなたのほうに取っても、非常な不『夫人さん』 と、富吉は、頭を掻いて、 利だろうと思うんですが』 『臆測は、どこまで臆測でございますし、事実の記事でないん『僕に、理め合せして下さる気持があるならば、私の社のため 団 どういうわけで、三島芳樹に、あんなお金をやったのか、 ですから、私としては、かまいません。あなた方の御職業とし 又、あなたが失踪したりなんかしたのか、その事を話してくれ てお書きになるぶんには』 ませんか』 『そういっちまっちゃあ根も葉もないじゃありませんか』 己『何と仰っしゃいましても、良人のある身でございますから、 『今まで、方々の新聞社の方に責められておりましたの。けれ川 ども、何でもない事を、ああ物々しく襲しかけられると、恐く 主人と相談のうえでなければ申しあげられません』 1 三ロ しゅじん しゅじん か
『わからん』 『じゃあ、なぜ、黙って見ているんですの。もっと、強硬に、 警官たちへ釈明してくだすったらいいじゃありませんの』 藤井は、狐につままれたような顔をした。運転手は、 『もう、捕まって来ますよ』 『変だね、君はいったい、あの高木に対して、復讐するとか、 と、把手を握っていた。 オしかムフになっ 嫌な奴だとか、さんざん悪罵していた筈じゃよ、 けれど、私服も警官も、容易に帰ってこないのである。藤井て、同情しているのか』 は、気が気ではないように、他社の連中と、額をあつめてい 『ーー復讐は復讐です。けれど、心では、いつまでも、忘れ得 からぐるま ない愛人ですもの』 た。すると、空自動車の中で、啜り泣きの声がもれた。のぞい てみると銀子だった。 『愛人 ? 』 『誰だい ? 』 藤井は、胃の物を吐くような声でいった。 『ええ ! あんな好きな人って、ありませんわ。 : : : 好きで好 社のチョビ髯が、藤井の肩ごしに首をだして、 きでならないから、わたしは、こんな所まで尾いてきて、あの 『おや、婦人記者かい』 人の気持を、揺すぶっているんですわ』 『ばかにするなよ、おい』 藤井は明答を避けるように顔を振った。 あぜん ドアを押してーー顔を半巾で抑えたままーー銀子はまろびだ 藤井が、唖然としていい放っと、チョビ髯や、各社の者が、 した。みんな眼をみはって、彼女を見まもった。 うしろで笑った。 「なんてえざまだ ! 藤井つ、しつかりしろよ』 『藤井さん』 頭から落した帽子をひろい取って、砂をはたきながら、藤井 藤井は、泣きっかれて、当惑な眼をそらした。 はさけんだ。 『おい、どうしたんだい。何を、泣くんだ。俺にゃあ、君の、い 『よういわん ! よういわん ! 』 理がわからない』 『あんた : : : ひどい 銀子は、もう駈けだしていた。富吉の後を追ってゆく気だろ ーそうは考えられなかった。腹をかかえて笑っていた 『何が六、』 とつみ一 打『同じ社に勤めている友達でしよう、友達じゃありませんか各社の連中は急にギョッとした。誰の頭にも、突嗟に噴火口と 高木さんは。 : それを、黙ってみているという法があり女ごころの影が映った。 『あの女、わるくすると、飛びこむそ』 ますか、高木が、そんな男か、そんな男でないか、あなたには 「なんとも知れない』 強分らないのですか』 しばら 暫く見送っていたが、藤井は、急に心配になったらしい 『わかってるさ ! 』 すす 引 7
『あら、ダウンしちゃった 二人して、踊らないこと ? 』 と、手をたたいた。 『出て行けつ、やかましいっ』 洗面器のそばからタオルを取って、彼女は振った。 『あんたにいってるんじゃないわよ』 『ワン・ ・ツウ : : : スリイ : : ファイプ : : : 』 レコードを懸けようとすると、富吉は彼女の手からそれを引 『やったな : っ奪くって ッドの上から富吉は藤井の胸へ跳びかかった。ふ 猛然と、・ヘ 『ここは、おれの部屋た』 デスクおど たつの体が勢よく甲板へもろに倒れた。卓が躍り、椅子がひっ 藤井の足もとへたたきつけた。 かえ くり覆った。 の破片がぶつかっ 藤井は、顔を抑えてとび上った。レコード 『くそっ』 たらしいのである , ーー興奮は伝染する。藤井も自分の存在を明 確にする立場を採った。 肉と肉とが、びちゃびちゃと鳴り合った。富吉は、藤井の髪 『豆吉』 の毛をつかんで離さない藤井は鼻血をだしながら、富吉の 『なんた、豆吉とは、失敬なやつだ』 シャツの襟を必死につかまえている。 『生意気いうな。 - ! 貴様、おれに対して、何か、遺恨があるの 銀子は、隅へとび退いていた。彼女の計画は彼女の期待以上 かあやまれ』 『あやまる筋なんてない』 に効果をあげ過ぎてしまった悔が白くその顔を走った。けれど 自分で放けた火であるのに、自分が止めるすじはない。手を出 『あやまらないって ? 』 すなら藤井に加勢すべきであるが、それは為し得ないのであっ 『当りまえだ』 『くせになる』 男性と男性との格闘は、それが女性の前で演じられる場合 いきなり藤井が撲りつけた。 は、どっちも完全なる英雄になるものだ。一方が、徹底的に参 『あ痛っ』 ってしまうか、或は、仲裁が入らないうちは、決して、妥協の 富吉は、寝床のうえに俯っ伏した。実際に痛かったろうと思 雄 われる、宵に憘我をして、そっと繃帯をしてある頭だ。藤井もできない心理に置かれている いもむし 銀子は、仲裁もできないし、加勢もできなかった。芋虫と芋 英なぐりつけてから富吉がいっ迄顔をあげないのですこし心配に 虫がもんどり打っているような四本の足の先を、ぐるぐる廻っ となった。 うしろ 女銀子は、その後に立 0 ていた。富吉が俯「伏すとはっとしたて為すことを知らなかった。 『たたっ殺すぞっ、はんとに : ようにべッドのそばへ寄りかけたが、藤井の視線をうけると、 こん デッキ 3 〃
『だめよ、出て来ちゃあ』 『静子だろう、今のは』 富吉も先刻からそこに誰かいるような気がしていたところで 『」、つよ』 士ある。 『それ見たまえ』 空すぐその脚が誰であるか察してしまった。 『でも : : : 今は誰にも会わせない事にしているの。あんただっ 『おいつ、静子』 て、新聞社に居るんですもの』 青 起っと、 『どうしてそんなに隠れる必要があるのか』 『だめよ』 もし出たらめに新聞にでも書かれたら困るじゃ マダム ひっちゅう 女将は富吉を抱きとめた。 ないの、三島の奴なんか、筆誅されたほうがいし。 、ナれど』 『静ちゃんじゃないわ』 この女将は、親しくしていた静子のために、義憤に燃えてい 『いや、静子だ』 るらしいのである。 ー三島芳樹と静子とが、たえず此店へ飲 『違うっていえば』 みに来ていた為に、二人のあいだの事情というものをよく知っ 『違わないというのに』 ているだけに、三島のやり口は悪党すぎると怒るのだった。 はやあしおと 押問答をしているまに、迅い跫音が二階へ逃げて行った。 年うえのーー又様々な裏通りの恋愛を幾組となく見てもいる マ / ム し、自分でも経験している女将の眼から見ると、静子はまるで 子どもに過ぎないし、その社会を知らない単純さを三島に悪く 利用されているのだということは、ふたんからこの女将がそれ 義憤 っ となく静子に注意していたのであるが、静子は、熱病にかか たよ、つに、信じよ、つともしなかった。 うわ一 ーテン台から女将はウイスキーの瓶をもって来て、グラス ここへ飲みに集まる他のグループから女将が聞いている噂に を二つ並べた よると三島芳樹はもとは、軟派の高級ギャングで、彼が、満州 「飲みましよ、つよ、 に病院を建てるとか、前枢密院議長の甥だとかいっていること 『ごまかしたって駄目だ。君は、怪しからんそ』 は、すべて嘘つばちに過ぎないので、交渉をもっている女性に な ~ せ』 しても静子一人だけではなく、舞踏場や音楽会などで始まって 『従妹を二階へかくしておいて、俺にシラを切るなんて手はな彼に弱点をつかまれている女性は幾人あるか知れないというの かたき であった。 いだろう、俺は何も静子の敵じゃないはずだ』 ま、落着いて話すから、それを飲んでよ』 中でも、染尾伯夫人とは、彼との直接交渉はないが、彼が或 、一つを、 マダム びん マダム マダム 298
じようだんぐち たいのよ』 っているのである。静子に向って冗戯口をききながら、ウイス びん 官キーの瓶を棚から下ろした。そして、二人の前にグラスを運ん『どこへ』 士で来て、 『番町まで』 、じゃよ、 『そんな近い所、自分で行ナま、 空『三島さん、新潟へ旅行ですってね』 『それが、私や三島ではいけない理由があんのよ』 『帰ったわ』 『何しに行くんだい』 『競馬、どうだったの』 『だから、今話した、無心のお金を受け取りに行くの。伯爵に 『腐ってんのよ、すっかり』 そとばり 『きまってるわ、あんな人とっきあってると、あんたも、苦労は内密なお金よ、邸へは行けないから、外濠であすの晩ト時頃 するよムフに』 に待っていることになっているんですから、三島の伯母から受 「したいの』 け取ってくればそれでいいの』 、じゃよ、 『そんな事なら三島自身で行ナま、 『あれだもの、勝手におしなさいってんだ』 『そういうけれど、競馬ばかりしちゃ居ないわ、今、病院を建『でも、嫌なんですとさ』 てる方の計画で一生懸命なの。傍の見る眼もかわいそうになる『勝手なことをいってやがら』 『私が行ってもし 、いけれど、私のあることもまだ親類には内密 ことあるわ』 ンヤポテン になっているからーーー』 「好きになると、仙人掌も花に見えるから』 『俺だって、忙がしいよ』 そんな事をいいあうほど、三島も、静子もこの酒場にはよく かつら 『でしようけれど、困ってんのよ。三島は、私に、誰か確かな 見えるらしい。女将は、鬘の下を拭くために鏡のある二階へか くれてしまった。 ものを使にやれっていうし、大金を貰ってくるのだから滅多な マダム 者には頼めないし』 富吉も女将に倣って、そんざいになった。 『それだけかい、用事は』 『用事の話はどうしたんだい、帰るぜ、僕』 『ええ』 『待ってよ、ウイスキー飲まない』 しかた 『為方がないから行ってやるよ。行くだけなんだね』 『飲まない』 『そう。じゃあ承知してくれたのね。あしたの八時半頃、社へ 『なぜ、お酒は飲けるくせに』 『だって、そんな酒に味をしめると、後が困るよ。それよか、誘いにゆくわ』 『君も一緒にゆくのか』 用をはやくいってくれ』 『だって、私が行かなければ、待っている場所と、先方の人間 『卒直にいうわね、あんたに、あしたの晩、使に行ってもらい マダム はた めった ないしょ 278
らいしんし その辺をうろうろしていた。すると、もう窓口に人影のない局 『頼信紙を一枚くれ』 の横から、狭い仕切を開けて、 人々の肩越しに、窓口へ手を出すと、他の者の頭のうえへ、 『さいなら』 それが舞った。 しき と若い女局員が小魚のように、スカートを翻して帰って行 頻りと、網の中を、伸び上ってみたが、やはり敵手は見えな かんしやく かった。さだめし、癇癪持ちで迅ッこい眼が出ていて、底意地った。 およ 『おや ? 』 のわるい高慢な鼻を持った奴だろうとは凡そに想像されるので せつかく あるが、折角ここまで来て、その面がまえを見てやらない事は 富吉は足ばやに従いて行った。 女局員は、振り返って、 残念であった。 しかた オカとこへ出そう。為方がないので、彼 ( いやな人ね ) 頼〕信紙はもらっこ、、、、、、 彼女の感覚は、やはり電線脳膜を とい , つように足をとめた。 , は、叔父へ宛てて、 持っている人間の敏捷さである。全身が受信機だし、全身が震 ケサホドハシッレイ 音を出しているのである。 と書いて、 ( 女だったのか。女か ? 『これをたのむよ』 富吉は案外だという顔つきで、宿望を遂げた満足感と一緒 『切手を貼ってください』 、熱いものを耳から上へいつばいにのばせてしまった。 局員は横を向いたまま突っ返した。 電報を打つには金を払うものだという事に気がつくと、彼は 数年間に自分の打った文字を金に換算したら何十万円に上るだ ろうと思って腹が立った。 鳩の戸主 これ』 窓へ出して、その窓から動かずに奥を見ていた 星みたいな美眸が、凝と、富吉を見ているうちに、侮蔑と怒 一ばかりの凹んだ室が電信部になっている。曲木の椅子の 主 りをあらわした。 背がちらと見えるだけだった。 戸『三等局は、交代がないのかしら。何時に帰るのだろう。帰り『叱ツーー』 大を追うように舌打ちを鳴らしたのである。そして、大股 の途がいい、場合によったら、話しかけてやろう。喧嘩になった に、町を曲がりかけた。 鳩ら、撲ってやる迄だ』 自分の根気のよさに彼は驚く位だった。とうとう五時頃まで『君っ』 す びばう ひるがえ ぶ・ヘっ 245
『それが、財産。ーー富吉なんてふさわしくないわ、高木貧吉 カ』 となき、いよ』 『まあ、せむしだって』 官 叔母は、よろこんで、 、、、つけるように、大きな声でいうと、 『それがいし それがいし』 『富吉、今着いたのか』 ぜん 空『あ、叔父さんですか』 と、茶の間へ膳を出していた。 うしろ たけ ! うき うすい 青臼井久馬は、竹をもって、後に立っていた。朝の運動とい しりはしょ うので尻端折りをしているのである 『それで、叔父さんが、名士だと、新聞の写真になる』 陸橋下 耳が遠いので久馬老は、 ていしんしよう 『おまえのロ、頼んでおいたぞ、逓信省の友人にな。中央電信 局の方へ廻してくれるそうじゃ、こんどは、勤続せにやいかん 中央電信局の勤務の方が決まると下宿料もきめられた。俸給 で、ええか、もう嫁も持たにゃあならんし』 の大部分がそれに割かれるのである。パットを吸うと、紅茶も そのうちに、従兄妹の静子が、帰ってきた。 迂つかり飲めない計算になる。富吉は、先の永い勤めの労苦だ じれい ゅううつ 『富さん、あなた、どこをまごっいていたの。失礼しちまう けが考えられて、辞令をもらった日は憂鬱だった。 たた わ、人に無駄足させて』 経済の方はまあいいとして、一月も居ると、富吉は、居堪ま 静子に会うと苦手であった。 れなくなってきた。第一は、叔父と食事を共にすることであ 『俺だって、探したんだけど』 る。公定相場の下宿料を払っていながら、 ちょうだい 『田舎に、何年も、のんびりしていたから、六感が長閑になっ『頂戴いたします』 ちまったんじゃない』 と、頭を下げなければならない 『ばかにするない』 日本人のこの礼儀は、古来、農民への感謝として行ったもの であるのこ、、 『パスケットなんか、もう手から離したって、奪られやしない 。しつの間にか、そこの主人が、自己に対しての礼 ことよ』 儀のように横取りしている。富吉は、憤りを覚えることがあっ 『 , つる六、いよ』 「何が入っているの。見せたっていいじゃありませんか。あ次に、不愉快なのは、多く寝てからの頃であるが、臼井家の 老夫妻が、彼の寝ている隣室でいとひそやかに、郵便局の通 ら、あら、寝巻に古雑誌に』 そろばん 『いけないったら』 帳を出したり、勧業債券をならべたり、算盤の音をさせたり、 のどか ちょう さいけん いきどお 236