六兵衛 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官
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1. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

『南京虫は』 屑屋の六兵衛氏は、金魚チャプという空腹をかかえて、寝なが コレグンヨン 『盛んに出没したらしい。あれは君、匪賊じゃね』 洋食屋を想像し、 らこの蒐集を見て楽しんでいるに相違ない。 『閉ロしたでしよう』 支那料理店を夢み、おでん屋を思いうかべ、その一つ一つに心 なんきんむし 『そんなでもない』 を遊ばせていれば、この南京虫の巣みたいな裏長屋も、王侯の 『でも、方々赤く蝕われてますよ。鼻なんか、膨れて、倍にな ー天国だ 殿堂だ、ペー っている』 「は、、〈フ帰りましたよ』 『ほ、成程』 六兵衛氏は、台所から上って来た。長屋建でも六尺の玄関は 先生は、自分の鼻を抓んでみて、 あるのに、持ち物の都合らしい 『先生、朝飯を買って来た』 これは、儲かった』 たくわんづけ 六兵衛さんも、途端に思い出した事があるとみえて、懐中か 六兵衛氏は、提げて来た沢庵漬だの、紙包だのを、一応板の う - 一ん 間に陳列して、 ら卯黄の財布を出して解きながら、 「そうそう、儲かったといえば、此っ方にも大儲けがあるの 『遅いから、飯を先に拵えて、それから話しますよ』 まんじゅう さ。先生から頼まれた饅頭時計、市場へ持って行っても、せい と、瓦斯七輪へ、火をつける。 これから飯を研いだり炊いたりじや大変だなあと思っているぜい、一円五十銭か二円止りと思ったら、一貫目に売れました よ、一貫目に』 と、六兵衛氏は男やもめに馴れてるとみえ、ちょんちょんと、 まないた 『一貫目 ? 十銭かい』 爼板を鳴らしたり、チャプ台へ、器用に茶碗を並べたりして、 ふちょう 『道具屋符牒で、一貫目というのは十六円五十銭也さ』 『お待遠さま』 『えつ、十六円五十銭』 五分間にして、俺と先生との間へ、三人前の朝飯と番茶とを キ - ようおう 『あれは、明治四年製で、カギ巻でも古い方だというのさ。近 立派に饗応してくれた。 あつめ 『き、ど、っそ』 頃は、その時計の古物を蒐集ている茶人があるから、下手なク たか しんがわ 見ると、吾々の前にも、六兵衛氏の前にも一重ねすつの汽車ロームの新側時計よりも高価いのだそうだ』 ふくじんづけ 弁の折詰が置いてある。丼には、沢庵漬、福神漬、三つのお椀『フーム。すると、古物必ずしも市価なきに非ずじゃね』 の 伝にはトロロ昆布。信州の俺が国なら、大宴会になる御馳走オ と先生は、自身の市価を、自身で裏書して、安心しているら 武客を割って先生と六兵衛氏とは、一問一食、一答一食。 六兵衛氏は、お膳の端へ、金をならべて、 断『昨晩、よく寝ましたか』 だ 『いやも , つ、ぐっすりじゃ』 『で、奮発しちゃったのさ。汽車弁の代価と、トロロ昆布五銭 ガス りん おら すきばら だて もう つま ひぞく ふところ 783

2. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

『左様ならーーー』 『おっ母さんには』 俺と先生も、後から外へ出た。 将『おっ母あにも会いたし』 六兵衛氏は、台所から下駄を突っかけて、 『どっ方がよけいに ? 』 す 『東京へ行ったら手紙をおくんなさい』 ぶ『分んねえや』 えさどきしやも ・ : 』長屋の一軒一軒から、餌時の車鶏みたいに、人間が首を出し る『槇子ちゃんには会いたい位。お母さんには見たい位 ? 俺は、逃げて来て、六兵衛さんの側へ来た。そして六兵衛さて、俺達を見ていた。どの首もどの首も、栄養不足で肩から細 とや まず 長く生えてる首だ。だがこの貧しい人間の鶏舎にも、六兵衛さ んの膝へ、 んのような心も住んでいた。 『これ、げるとさ』 封筒を出すと、六兵衛さんは、眼をばちばちさせた。礼造君・『きっと、手紙出すよ』俺達も、振り顧った。 だが、社会局の御視察だの、慈善家の澄ました眼だの、あん も側からロを添えて無理に取らせた。その間に、先生と俺と な冷たい眼つきで振り顧ったんじゃないぜ。長屋の諸君。 は、支度にかかった。 えりくび ふく 鼻が倍に膨れたといわれてから、先生は、やたらに、襟首の俺は、祈った。 にじいろ 虹色の太陽よ、ここの廂の下まで、もっとあたれ ! 裏を掻いてばかりいるので礼造君が、 『皮膚病ですか』と、訊ねた。 先生は率直に 『この家には、匪賊が居るんじゃ』 『匪賊って ? 』 六兵衛さんは、頭を掻き掻き、 『気をつけて下さい、南京虫がいますから』 マダム 礼造君と、夫人とは、あわてて家の外へ避難した。そして遽 、着物をはたいたり、足を見たり、背中をのぞいたりしてい たが、まだ、そこの露路にいては、空から南京虫が降って来る とでも思ったのか、 『通りに出て待っているわ』 往来の方へ、素ッ飛んで行った。 にわか 高野の巻 燕と雁と 午後一時の燕号には、まだ早すぎた。 うりビャー ・ハグダン夫人は、腕時計を見て考え、礼造君は、駅売の麦酒 タングを呼びとめ、陽洋先生は大きな声で、 かえ 786

3. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

巡査は、後ろ向きにな「て、何か屈んでいると思ったら、蟇そして、先生の時計も喰べてしまった後はーー・何うなんだ。 又、断食デーか。 ロの中から、十銭玉一つと、五銭のニッケル一つ抓みだして、 東京へは、一体、いつ行けるだろう。おっ母あには、何日会 『何か、途中で買いたまえ』 えるだろう。 / くクダン夫人のあの朗かな声も聞きたいなあ。 俺の手へ、そっと握らせた。 『もっと、もっと、会いたい人。・・ーー槇子ちゃんは、何うして 俺は驚いて、先生に告げ、先生は意外な事のように、何度も るだろう』 辞退したが、 くたび センチ 妙に、俺は感傷になって、そのくせ、草臥れているので、時 『僕も実をいえば、不景気仲間さ。だから、武士は相みたがい ねむ 時、居睡りしながら歩いていた。 しいよ。遠慮せんでもいいよ』 河を越える阪急電鉄の音がするたびに、はっと、道を眺めた。 『そうですか』 六兵衛さんは、新淀川の暗いふちをがらがらと曳いている。 先生は、屑屋の車の上から、十五銭を押しいただいて、 ポート 河の中で、短艇のオールが、ゆるく鳴ってる。 『御志、頂戴いたします』 ひろい闍を流れる三高の寮歌 六兵衛さんは、釣狂で、怒りッばい代りに、親切者で、暢気 もの ちょうちんかじぼう 者だ。提灯を梶棒につけて、 われは水の子 『じゃ、出かけますよ。籠で行くのは、お吉じゃなくてーー』 さすらいの 『気をつけて行き給えー・・ーー』 しみじみ ひ 旅にしあれば沁々と 交番の赤い燈の下に、巡査は立って、見送っていた。 けむる狭霧や 六兵衛さんは、車を曳きながら振り向いて さざ波の : 『あんな巡査ばかりだといいなあ』 じゅうそうばし 長い長い十三橋を、車は、からからと鳴って渡って行く。ふ かんしよう しぎにも、俺は飢えを忘れていた。甘い涙が胃の中へ垂れこむ俺も、感傷と眠気を追払う為に、真似して大きな声で歌っ からだ。そして夜の灯、夜の星、人間の世界ほど美しいものは 『ーーわれは水の子、さすらいの、旅にしあれば沁々と : のないと思った。 伝先生は、熊の胆屋の熊みたいに、竹籠の中でうとうとと居睡六兵衛さんは、吃篤したように、 『大将、偉い元気だな』 武っている。六兵衛さんは、一日の屑よりも、一日の鰻よりも、 『元気だとも』 断今夜の車を曳いて帰ることが、いかにも嬉しいらしかった。 あさって 『その分なら、家へ着くまで、倒れやしまい。帰ったら、十五 だが、明日は ? 明後日は ? あした かが のんき 787

4. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

『ははあ、この先の河岸ぶちの原に、朝から晩まで、よく屑屋ていないというんじやから、値段よりも、腹の方が急場なのだ』 将の空車がおき放してあると思ったら , ーーお前のだな』 巡査はすっかり同情してくれて、先生の災難や、境遇を、俺 『へい』 たちに代って説明してくれた。 す ぶ『どうして釣ばかりしておるか』 黙って、聞いていた六兵衛さんは、 る『好きでー・・ーどうもーーー病気みたいなもんで』 『じゃ、お泊りも、あてなしですか』 先生は、横から、真面目な顔をだして、 『そ、つじゃよ』 あした 『あんた、屑屋さんか』 『私の家へお出でなさい。そうすれば、今夜は泊って、明日の たかね 『そうだよ』 朝、時計をお預りして、早速、問屋へ行って、一銭でも高値で 『今、警官殿から、証明をもらったばかりじゃが、屑屋さんな売ってきてあげますが : ら、この時計、買って下さらんか』 『なる程、そりや名案じゃね。そうして貰いたいなあ』 一つを、 巡査も、ロを添えて、 巡査は、自分の欣びみたいに賛成した。六兵衛さんは、先刻 『喧嘩だの、釣だのばかりせんで、商売も少し為なければ、し の事なんか、忘れたように、交番から駈けだして行ったと思う たけかご かんじゃないか。買ってやれ』 と、大きな竹籠の乗っている屑買の荷車を曳いて来て、何より ゅわ 『ど , つも : も先に、釣竿と魚籠を、吾が子のように、結いつけた。 そして、 六兵衛さんは、悄気かえって、 『資本がございませんでーー・ー』 『先生ーーー』 さいふ と、首に掛けている財布を振ってみせた。あわれな銅貨の音 もう、覚えちまって、十年の知己のように、 が、かすかにした。 『この中へ、お乗んなさい』と、車の竹籠を指さした。 先生は、手を打って、 『ゃあ、それは恐縮じゃ』 『わしの胃ぶくろと同じか』 なあに、お前さん、空き腹をかかえて、ここから長柄の墓地 ちょうたん と、長嘆した。 裏まで歩くことはありませんよ。きようも、宝塚から一日テグ 巡査も、遂にふき出して、 ッたんでしよう。遠慮はいらないからーーー』 『ははは、不景気なのが寄ったね』 『ああいいますが、好意に甘えて、よいでしようか』 考えこんでいた屑屋の六兵衛さんは、 先生は、何でも、巡査の許可を得なければいけないと思って いくら 『お幾金お入用なので・・・ー・』 『おいくらよりも、昨夜から、この人達は、一粒の御飯もたべ 『かまわんです』 から ゅう・ヘ よろこ ながら

5. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

と、沢庵漬七銭、一円十七銭だけ費ったよ』 将『あんたの足代と、利益は』 『そんなもの、内輪で取るやつがあるものか』 す 会いたい恋と見たい母 ぶ『それはいかん。君は、屑を買って市場で売るのが、商売じゃ る つつ、つ』 あ 『ここなの ? 』 『今日は休業だから』 くつおと 明朗な女性の声だ。そして軽い靴音だ。 ごいぐるしい。車卞分上げよ、つ』 『オオ、ほんとにー 大将がいるわ、陽洋先生と』 『とんでもない。それでは、暴利になる』 俺は、その声に、びつくりして振向いた。格子の外から洋装 『じゃ五円だけ、そっちへ・』 の麗人と、若い紳士がのそいている。 『ルンペンの癖にして、お金をそんざいにする人だ。私には、 バグダン夫人』 商売もあるし、家もある。お前さん達の身は仕事にありつく 俺が飛び立っと、六兵衛氏は、 迄、水ものじゃないか』 『えツ、爆弾 ? 』 : 』六兵衛さんの学問は、先生の学問とは違う ようてん 仰天した顔つきだ。 とみえて、先生は、判らないらしく、首をひねった。 『御免遊ばせ』 『わし等の身は、水ものかね ? 』 夫人は格子を開け、六兵衛に挨拶した。一緒に来た紳士は、 『そうだとも、昨ン夜、途中で大将が歌っていたじゃないか。 、、すら 一昨日わかれた江川礼造君だった。 われは水の子、漂泊いの ってネ』 礼造君は、靴をぬいで上って来た。そして先生へ、 『成程。水もんかのう』 『突然で、驚かれたでしよう』 『だから、お金は大事にしなさい又、掏摸にやられないよう にね』 『何うして、わしが、ここに居ることが、判ったのじゃね』 『それあ、雑誌記者などしていますと、新聞社、警察などは、 『今後は、注意しよう。御好意、感謝にたえん』 しんせき 先生は頭を下げた。「先生屑屋に意見さるるの図」は、ちょっ親戚ですからね。ーーー十三橋の事伴までもう調べ上っていま と珍である。 『や、面目ない』 すると、門ロで、 しんにゆう 先生は、ふだんの赤面に、更に、赤面の定をかけた。 『や、ここです。やっと分りました』 ひょよさっ 『しや、、、、礼造さん、・ハクダン夫人は ? 』 誰か、標札を読んでいた。 マダム おとと せきめん ようそう 78 イ

6. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

先生は、満顔に喜色をかがやかせた。そして、六兵衛氏と俺 『雑誌の方で、度々、御やっかいになってますから、前からの 御懇意です』 あら かちひく わしも、東京の市場 『古きもの必ずしも価値低きに非ず。 『やはり、大阪へ、来ておったんかね』 へ出たら、一貫目ぐらいには通用するかな』 『一昨日の夜、宝塚ホテルで心中した婦人と、御縁故があるの は一にか が夫人は、なっかしさで、羞恥んでいる俺の手へ、何も書いて で、電報をうけとると、すぐ特急で来られたんです。ーー・所 しあわせ ない西洋封筒をそっと持たせて、 あのお湯の洪水が、僥倖になって、発見が早かった為、二人と も助かりました。その恩人が、先生と大将だというので、夫人『これ、ここの御主人に上げてよ』 『何』 もびつくりしました』 『お土産の代りよ。十三橋の交番の巡査に聞いて、すツかり、 『わしも、驚いとるんじゃ、恩人なんて、覚えがない』 感、いしちまったからーーー・』 夫人は、上り口から、 お目にかかったら 『おらも、感心していた所だよ。先生も、意見食ったよ。屑屋 先生、よほど御縁がありますのね。 の六兵衛さんでも、馬鹿にできないぜ』 私、改めて、お詫びしなければならない事がございますのよ』 『それをお渡しして、よく、お礼をいったら、私と一緒に行か 『は、何んじやろ』 ないこと ? 』 『私が、学校の建築費を寄附した為、先生は、馘におなりにな 『東京へか』 ったんでしよう』 『そ、つよ』 『挈」、つかの、つ』 『行くとも。それから夫人、あの東京へ槇子ちゃんも行ってる 俺はすぐ横から云った。 『そうだ。そうだ。県庁の役人は、夫人の気持を履き違えてしんだぜ。会ったことないかし』 『会いたいの ? 槇子ちゃんに』 まったんだ』 : , っ , つん』 『すみません』 俺が、赤くなって、かぶりを振ると、夫人は、ポチをからか 夫人は、しとやかに うように、俺の耳を引っ張った。 巻『好意の悪果です、社会の皮肉です。その代りに私、先生のた 伝めに、東京へ私塾を建ててさしあげますわ。この頃は、学校制『大将、嘘はいけないことよ。ほんとに会いたくない ? 』 : , つ、つん』 武度主義の教育が、漸く、その無力さを現わしてきたので、又、私 おうか 『それ御覧、何っ方 ? 』 断塾教育が、謳歌されてきたようですの。日本主義の時代ですわ』 『会いたし』 「帝都もそうなったかの』 マダム ノ 85

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ざんばん あかへん。早よう出んかツ、早よッ』 銭で残飯買って、さっきの鰻を焼いて食おう』 将すると、寝ていると思った先生が、籠の中から、 喧嘩かな ? 夜逃げかな ? 夜逃げにしてはもう朝 だ。いや朝どころか戸の隙間から陽がかんかん射してるのに、 す『鰻喰べて、また喧嘩するな』 と思っていると、すぐ裏の家から、 る 『田中はん、もうお支度は、よろしおすか』 きようえん あ 『大きに、角座は十一時からやで、まだ二十分間あるわ。さ 朝の饗宴殿堂に あ、 ~ 何きまほか』 がらがらそろぞろ、出て行った。 つつめ 早ことばでは大阪弁だ。壁隣りから筒抜けに聞えて来る。意なアんだ、芝居見物か かんしやく 『オヤ、六兵衛さん、何うしたろう ? 』 味はさつばり判らないが、嬰ン坊の泣き声だの、大人の細癪だ 俺が、家の中を見廻すと、 の、物の割れる音だのにーー・。俺は、 『市場だろう』 『火事』 あぐら しんこきゅう らかん 先生は羅漢みたいに胡坐をくんで、深呼吸をしながら答えた。 びつくりして、眼を醒ました。 すすとりき ねばすけ こんな空気の悪い長屋で深呼吸をしたら、肺を煤取器にする 都会へ出たらお前みたいな寝坊助は、きっと火事で焼け死ぬ おど ぞ。 と誰かに脅かされたことがあるので、その一言が、すようなものだと俺は思考するが、先生の永年に亙る信仰だから 黙って見ていた。 ぐ神経を衝いてくる。 ゅうべ、俺達を泊めてくれた親切者の屑屋の六兵衛氏は、先 焼け死んでは堪らない。側に寝ていた先生も、跳び起きたと 生から頼まれた二十五型のカギ巻時計を携えて、俺達が寝てる みえて、蒲団の上に坐りこんでいた。 間に、市場へ身売りに出かけたとみえる。俺も、遊んでいては 隣家の騒動は、愈、、ものものしい あほう とんま 済まない。一つ戸を開けて、掃除でもしてやろうか。 『風呂敷包み持たんかツ、阿呆ツ、頓馬ッ』 先生も手伝った。 『何やツ、ばんばんと』 掃除といっても、六畳と二畳だ。ばたばたですぐお仕舞。 『云わにや分らへんで、云うのや。そないな物より坊ンを先に ふすませっちんはめいた だが、この家は、なかなか芸術的だ。壁、襖、雪隠の羽目板 背負わんか。低能やなあ』 マッチ にまで、燐寸のペ ーパーが何千枚となく貼ってある。或る部分 『つけつけ云わんでおきなはれ、頭が熱うなって、何も手につ ちつじよ は酔っぱらったダンサーの如く、或る一劃は兵隊みたいに秩序 きやヘんがな』 『そや、そゃ。それ此っ方やヘよこせ。馬鹿ったれ、撼ったら正しく、整列しているのだ。雨の日、雪の日、仕事に出ない日の ふとん あか うな たすさ 182

8. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

巡査は、知らないで、 『交通妨害じゃ。とにかく、ちょっと来う』 『後から参ります』 彼氏はまだ鰻を探す気らしい。然し釣竿もあるので、巡査は、 『来んと承知せんそ』 俺と、先生とを先に、橋の袂の交番へ引っぱって行った。 喧嘩はしないといっても、先生の顔には、ちゃんと俺の爪が 描いてあった。けれど、こういう所へ来ると、さすがは先生 で、怯めず臆せず、本籍、旧職業、旅行の事、また昨日宝塚で 掏摸に掏られて、為に昨夜から今夕まで、断食デーの徒歩旅行 をやっていることまで、十八カ条申し開きといった態度で、話 『どこた、お前は ? 』 巡査は、すっかり打ち解けて、 巡査が、質問すると 『それや災難だったね。掏摸は、宝塚ばかりの名物じゃないカ 『へい、、ど、つ・も』 ふところ ら、これから先も気をつけ給え』 頭を掻き掻き、男は、懐中から、かまばこの板ぐらいある真 『もう、掏られる物は、何もありませんでな』 っ黒な木の名刺を、恐る恐る卓の上へさし出した。 『でも君、ニッケルか、クロームか、時計の鎖をぶら下げてる 巡査は、見て、苦笑しながら、 ながら ! ち じゃよ、 十 / し、刀』 『ーー大阪市北区長柄地裏百一一十七番地、古物商、田野倉六 『ははあ、成程』 兵衛。 : なあんだ、おまえ、屑屋じゃない、 先生は、まだ完全な無産者でなかった事を発見したように、 『へい』 隠袋から、鍵巻の懐中時計をだして、掌にのせ、 『屑屋が、釣なんどしていて、商売になるんか』 巻『時にな、警官殿ーー、・これを売却したいのじゃが、証明をくだ 「ちッとも、なりません』 伝さらんか』 『ならんでは、食って行けんじゃないか』 武司あげても、 ししが、証明書は、警察署でないと出せんね』 『毎日、鰻を喰べております』 断『お名刺でもいいです。唯今、あんな運動した故か、応急に胃『ばか「』 へ食物を与えんと、どこで倒れぬとも限らんでな』 「へい』 かくし たもと つりぎお 『倒れては困る』 巡査は、名刺をだして、 「このルンペン不審無し」と書いて、認め印を捺してくれた。 そこへ、先刻の男が、交番の外へ、釣り竿を立てかけて、ペ あ ) は こペこ入ってきた。顎が腫れ上って、唇から血をだしているの を見ると、俺は、俯向いてしまった。 籠で行くのはお吉じゃなくて さっき テープル ノ 79

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た。俺は、無意識に、にぎり拳を唇へあてていた。ガタ馬車 ふツ、と吹きとばしてやると、新聞売りの少女は眼を開いた あほう 時代を思い出して、お肚のなかで、ビポービポーを吹いて居た : 怪ッたいな子やな』 『阿呆ッ 白い眼で、俺を睨みつけた。そして、俺を泥棒とでも思ったんである。 やがて汽船が出てゆく。 のか、あわてて新聞箱をのそき、中の銅貨を数えていやがる。 海 ! 海 ! 『銭なんか奪りやしねえぞ』俺は、いってやった。 『じゃ、なぜ、あての側へ寄って、手を出したんや』 絵でない海を見たのも、実は、今度が始めてだ。今朝、阪急 しらみ しんべき 『頭ん中に、虱が散歩してたから、見てたんだい』 電車の窓から、深碧な海を見つめた時、俺は、思わず飛び上っ 司ええ、そんなもの居やヘんがな。憎たらしいカンカン虫やた。同時に、この地球というものが、無限なとても希望と自由 彼ッちゃ去んどくれッ』 につつまれた神様の別荘みたいに思えて、その家族として世の 『何だ。カンカン虫だって』 中に生れて来た自分というものが、何だか、無性に有難くなっ 『そや、そゃ。カンカン虫のあぶれや』 て、ひとりでに、一涙が出ちまッた。 神戸は、小作の子が威張る国とみえる。彼女は、俺の顔へ、 ( 鉄の船が浮いてる ! ) 、、ト、つし ハナナの皮をたたきつけて、つんと後を向いてしまった。 俺が、驚異の指をさすと、インテリと呼ぶ周囲の乗客達は、 俺は、新しく日本語を研究する必要を感じた。相手の言ってくすくすと笑った。 る事が半分も判らないから喧嘩にならねえ。信州でシオカラ虫先生は、彼等をたしなめるように、その時言ったつけ。 ということを、神一尸では、カンカン虫とい、つのかしら ? ( うむ、慶応元年に、兵庫開港問題を迫って、英仏の黒船艦隊 がこの沖に並んだ時は、ここらの住民は、問題の大さより、 お前みたいに、 鉄が浮いてるのに驚いたんじゃよ ) それから、三ノ宮に着く迄、先生はしゃべった。 昔なっかし探す友 ( 外国だって、つい十九世紀の初期までは同じことさ。人類は しず かんねん 永い間、鉄は沈むものなりという観念に支配されどッたから、 桟橋で、汽笛が吠えた。 トーキーの獅子みたいに、 有名なスコット・ラッセルが英国皇帝陛下に、鉄造船のことを の あくび 馬『徳島丸が出ます。洲本、小松島、土佐の方面へお出での方』進一言すると、陛下がしまいに欠伸して、 げ近海郵船の赤帽は、どなっている。 ラッセル、お前が空気に浮いて歩いて来たら、わしは鉄の船 逃 トランク、 ハスケット、 風呂敷、洋杖、赤ンば、風船、靴、 を造ろうよー と揶揄されたというんじゃ 下駄。待合所の船客は、わらわらと新波止場へ駈けだして行っ 。だから、千ノ百ノ十七年に、こ ライオン すもと ステッキ おき こぶしくちびる

10. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

ろえにかかっていた問題が、抜き打ちに、対立国の z 紙のトツや新香まですっかり揃えておいてから酒を出そうとする。すこ し、読者の心理になってみないからいかん。読者は取敢えず有 プに大きく飾られているのである。こういう苦杯をなめること 合せで一杯を要求するものだ』 は新聞人として誰もが経験しているとこで、兵家の常として、 こういう廻りくどい哲学になると、荒天の気象はだいぶ穏や 『やられたよ』と、社員同士で笑っても済む事なのだが、わが しび 社に限っては、目下、実力主義の押し一つで、絶対な資本力をかになって来ているのだが、その代り腰に痺れがきれてくる。 よう 擁している一流紙へ向って、宗教的にいえば、信不退と行不退社会部長以下は、各 : の仲間で私語しだした。わが社に、 Z 社 の総がかりで喰い下がっている場合なのであるから、事は特ダのスパイがいるのかも知れないといったり、染尾夫人と三島の ネ一箇の問題に過ぎないにしても、鉄板社長が、全社をゆるが居所を突きとめることでは断じて、 Z 社に敗れてはならないと わき 0 興奮したり、そういう同人語を側から聞かせる事に依って、正 して怒るだけの必要はあるのである しカ・、りレく 婦人の社交場裡に無言の威嚇力を持っ魔の紳士三島芳樹面からは社長にいえないことを、社長の分別に加えさせること み - し かなり賢明な方法だし、又いつも、効果があった。 と、染尾伯夫人の失踪という標題が、呼売の前垂にそのまま使は、 ゅうかん えるほど大きく扱われている。虚無的な、有閑な、消費階級の第二版には、大急ぎで、組代をやったので、 Z 紙にも劣らな 遊戯生活に理由づけて、三島のギャング的行為だの、染尾夫人い記事が、堂々と、わが社の紙のトップにも掲載された。それ の日常だのが、この非常時に由々しい社会問題の片貌を露呈しを見ると、駄々っ子の手へ食物が乗ったように、社長は、やや なお たものであると為して、なお、後報の重大性をほのめかしてあ気色を癒して、 るのだった。 頷きながら読みかえしていた。 『ですが、社長。 Z 紙の記事も、これだけを、単に、速報した めんもく というに過ぎないのですから、まだ、わが社の面目を立てる余その鼻先のベルが鳴って、大島の通信員から地方部へ電話 だ、という。地方部長は、その受話器を置くと、興奮して同僚 地は充分にあります。染尾夫人と、三島の居所をつきとめるこ へいった。 とです。それには、自信がありますから』 るる ちんべん 社会部長が、やがて、縷々と陳弁すると、やっと、すこし呶『染尾伯夫人らしい女が、大島にあらわれたそうだ。まだ、確 証をむには至らないがと、通信員はいっているが』 号を納めて、 ぜんだ 『大島 ? 』 したい、わが社の諸君は、すこし、お膳立てにばかり凝っ 立て、新聞人としての飛躍性をすこし欠いとりゃあせんかね。酒社会部長の顔に、職業的な緊張がみなぎった。 対 ' とい 0 たら率直に、酒を出しておいて、それから、胡瓜揉み『ーー・・・やはり大島だ 0 たか。最初から何となく東京湾汽船が僕 わん でも何でもこさえればよいんじゃ。それを君等はお椀や、刺身の頭にあった。社長、早速、誰か遣りますか』 キ、 ~ ・つりも み、しみ しんこ