理平 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官
29件見つかりました。

1. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

服 りますが』 『ゆるしてくれ、もう、たくさんだ』 『御主人、君は、買いますか、買いませんか、この写真を』 えくば 理平は、両手で、頭をかかえたまま、とうとう屈伏してしま お光さんの笑靨は、だんだん冷たく誇らしくなった。 くもん まるで、滅、いしたかのように、・ とすぐろい憤怒と、苦悶に、 ぶるぶるとそれを睨んでいた理平は、いきなり彼女の手の物を『金はいくらでもやるから、その原板を持って来てくれんか』 トリック師へ売りつけ 引ッ奪くッて、 『売るならば、私は、輸出絵ハガキ屋の 、くら 『買おう ! 幾値だ』 てやってよ。こういう絵は、外国船の下級船員たちが、非常に よろこぶもんですって』 と、一一一口下にビリビリと引き裂いてしまった。 『お生憎さまです』 『だから、わしが買うよ』 ようござんすか君ー しいえ、売らないと言うんですよ。 と、お光さんは皮肉な商人のように、わざと少し頭を下げ て、 私は、これを売りつけに来たんではありません』 『じゃ、何だって』 『それは、お売りいたしませんわ、なぜかと言えば、幾ら君の 財力で買占を試みても、原板でない以上は、何百枚でも複製が『夫人も、一言あっていいでしよう、君はこれを認めますか。 ききますからね。無駄じゃないこと』 騎手の島崎との醜行を』 と、又隠しの中から、一葉の写真を出し示しながら、 『え ! 今言おうと思っていたんです』お槇は、乾いた唇をわ 『たとえば、こういう、トリッグ写真でも作ることができるんなわなさせて ですから』 『それはみんなトリッグです、私の、何かの写真を盗んで、悪 ずら トリックに戯をしたんです、寃罪です』 次のそれは又、正視できないほど悪辣な猥画屋の と、終りの一句を、理平に向けて、訴えるように叫んだ。 依って画面の拡大されたものだった。夫人のお槇の首は、見も 『む、む、そうじやろう。誰かの、悪戯にちがいない。おまえ 知らない売笑婦の裸体の胴にすげ代えられてあった。理平はも えんざい うそれを奪って、裂き捨てる勇気さえ失ってしまった。 にとっては、まったくの寃罪だろう。もし、そんなものを、承 その硬ばった理平の顔と、慚愧そのもののようなお槇の戦慄知しながら流布するならば、警察の力を借りて』 とは、トム公の眼に、頗る愉快な対照であった。トムは、椅子『君たち ! 』お光さんは、平等に、ふたりを睨んで、その秩序 の上に軽く足を弾ませながら、その間に、、 ーモニカの低吟をのない泣き言に句点を打たした。 征唇に弄しはじめた。 『そんな強がりや、見ッともない狎れ合いはおよしなさい。そ 『もっと、ごらんにいれましようかまだ、奈都子さんのもあの代りに、夫人の寃罪という点だけは認めて上げましよう。場 ろう すこぶ ざんき わいがや マダム えん早、い

2. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

その中に、高瀬の家族たちも、押し揉まれていた。 と、姪の奈都子にささやいているらしかった。 そして、既成品屋の店頭人形のように反つくり返って歩く良島崎は、チラと、その人たちを群衆の中に見かけると、巧 うまや みに、ファンの群を逃げて、短い時間に、理平や奈都子たちと は人の高瀬理平をせきたてて厩舎の方へいそいだ。 ことばを交わした。神学生の今村は、夫人に紹介されて学生ら んちいツ、とトム公は舌うちをして、彼等の後塵に尾いてゆく うぶ しようしゃ ことをやめた。そして、彼もまた、その日は瀟洒であった赤革しい初心さをつつみながら、島崎と握手を交わした。 ん 靴のきびすを回すと、やや低いスロープを作っている芝生の窪『ね、いらっしゃいよ』 に、お光さんがいた。さっきから探しあぐねていた彼女が、白理平が知人に肩をたたかれて、後ろを向いている瞬間に、お 槇は、ついと、島崎のそばへ寄ってささやいた。 い手をかざして、自分を呼んでいるー 『いらっしゃいな ! ね ! 』 そこに、お光さんと共にいた黒眼鏡も、樫井も西村も三浦 『どちらへですか』 も、みなトム公よりは早く高瀬の家族たちを見つけていたらし 『本牧へよ』 彼がそこへ駈け寄っ・ても、多くのことばをかけなかった。 そして厩舎の方へと、なだれ押しに集ってゆく紳士淑女群の中『どうも、今夜は』 『それや、ひく手は多いでしようけれどさ、ひどいわ ! 日 にある高瀬理平と、そして奈都子と今村と、夫人のお槇とに、 かの、あれッ限りでは ! 』 等しく探奇的な注視をそこから送り合っていた。 あなた で、トム公も、低い背丈をのばして、お光さんの側から彼方『おいおい』 理平は振り向いて言った。 の埃つばい中に騒然としている貴族色の集団を浅ましいものの 『今な、そこで十番館のダグラスさんと会ったから、一緒に馬 よ、つに眺めることにしこ。 いたわ 車へ乗って、先へ行くから』 人々は、厩舎に曳きこまれた勝馬を宥りにゆくのでもなく、 とちらへですか』 敗者の騎手を慰めに行くのでもなかった。競馬場は飽くまで『あなたは、・ かがや 『どちらへって、今夜は、本牧の方へ、船のお客を呼ぶ晩じゃ も、勝者の独壇場であり燦く者のためにある広場だった。 最終のハンデキャップ競走が終ると共に、ファンたちは、、 っせいに、人気騎手の島崎を取り巻いた。銀の優勝カップを取『じゃ、そこへ、島崎さんをお連れして行ってもいいでしよう り落すまいとして、高く空に右手をあげている島崎を目がけね』 『 , つん : だが、来るかね』 て、女、男、白色、黄色、あらゆる人種と階級のファンたち が、彼の握手を争奪した。わけてもその中に、中年の婦人たち『嫌だと言っても、連れてゆきますわ』 『よかろ , っ』 が甚だしく勇敢であった。

3. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

『この次は、サイベリア丸だとさ』 『分らんのか。・ : ・ : 熱は』 えっ 呉の客を送って、すぐに越の船の入港日を税関の前の掲示板『三十八度前後 : ゅうべは、九度ぢかくまでありました 8 はで見ながら、よく戦った白粉の女たちは、裾寒げに、そろそろが』 んと、自分たちの巣へかえってゆくのだった。 『ふーむ』 カ『や、ご苦労、ご苦労』 『やつばり、年ごろですから』 高瀬理平は、やっと一船かたづけて、ほっとしたように、腰『肺じゃあるまいの』 をたたいた。 その朝は、千歳の女将が姿を見せなかったの 理平は、沈鬱になった。眼の下の皮が、疲労にたるんでいた。 で、船の外人を送ってきた芸妓たちも、何となく、つぎがな 北仲通りの本宅へ、馬車はやがて着いた。支配人はまだ事務 ほろ く、まじめに挨拶をして、それぞれの方角へ、俥の幌をかぶつ所の電燈を鼻の先まで下げて執務していた。瀬戸の大火鉢にゆ みなぎ て、帰って行った。 うべからの忙しさを語る吸殻がむせッばい煙を漲らしていた。 「旦那さま、旦那さま』 『松下君、やすみたまえ』 桟橋を出ると、すぐに、迎えの馬車が理平の方へ寄って来『あ、お帰りで』 『だめ、だめ。此ッ方もへトへトに疲れとるから。話は、あと 『お疲れでございましよう』 で聞こう』 おとと と、お槇は、一昨日の晩から、別人のように彼に親切だっ あわてて、手を振って、理平は奥の洋室へ逃げこむようには た。こんな朝はやくに、彼を迎えに来ることだって珍らしいの 、った。どっかりと、椅子のなかに体を投げこんで、 であった。 『珈琲』 『ーー朝は、だいぶ寒くなったな。もう季節だとみえて、鯊釣両手を、後頭部でむすびながら胸をそらして、 の竿が見えだした』 『夜ふかしがつづいたせいでごさいましよう』 と、言い足した。 べランダ 『それもある。 ・ : あ。奈都子はどうしたね、医者に見せたか それを待っている間に、彼は眉をしかめ出した。上の露台だ し』 ろう、朝からハーモニカを持ち出して、幼稚な、騒々しい音 『あれから、ずっと、寝ております。石川博士が毎日診察に来を、吹きちらしている者があった。 てくださいます』 『病名は』 おっしゃ 「やはり神経性のものだろうと仰言るんですが』 さお はぜっり

4. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

かんかん虫は唄う らないらしいのである。 でーーーその晩もである。 然し競馬場からそこへ薔薇色の馬車がはいった時には、も み、かん う、狂躁な饗宴の熾さが、玄関にまであふれ、ホールには、そ げいしやおしやく の前から運ばれている関内の芸妓、雛妓たちにとりまかれて、 温室 多くの、外人賓客たちが、酔態をきわめていた。その中に交っ て、先へ帰った主人公の理平も、乱酔といっていいほどに、浮 いっか大隈伯をここへ招待したあの晩の理平 幾つもの窓の灯は映えて、青い夜の空に、魔の翼のように風かれていた。 車はくるくると廻っていた。本牧の , ーー石炭屋高瀬の別荘であとは、だいぶ調子がちがう酔方なのである。 る。 下品な海員ごのみの部楽にホールを鳴らして、彼もまた、特 ちょうあい 横浜の桟橋に、巨大なジャマンの商船や蘭領インドあたりの殊な寵愛をかけている何とかいう若い妓を擁して客と共に踊っ 無数の外船が新しくはいりこんでいるような時は必ず、この風ていた。背のたかい異人たちの間にあって、彼はフロックを着 いちょう あまた 車の家の下には、桃われや、つぶしや、銀杏がえしの、数多のけたゴリラのごとく背が低い かがい ニホン娘が、関内の花街から送りこまれて、夜をくだっ器楽や扉が開いた アルコール シャンデリアに曇っていたいつばいな煙草の煙りが、そこか 強烈な酒精の騒音と共に、毎夜毎夜、更けるのを知らない らはいる夜の風に、美しくかき乱れた。理平は、扉口に立った 高瀬理平はその間に、石炭といわず、雑貨といわず、そのこ おびただ ろ夥しく輸出される絹ハンカチといわず、何でも、利のある騎手の島崎と、夫人と姪とに気がついて、 『ーーー遅かったじゃよ、 ものを売りこんで、巨額な儲け仕事をするのだと言われてい と、踊りをやめた。 た。つまりこの風車の別荘は、そういう商取引において、よい 『だって、島崎さんをこっちへ奪って来るにはたいへんな努力 都合を与える上級船員たちを擒人にしておく、商法の捕虜収容 ですわ。ねえ、女将』 ~ 町だっこ。 おかみ 千歳の女将も、そのたびごとには、尠からぬおこばれを頂戴『そうですとも』 した。つまり商戦の捕明たちに饗応する白枌の女を、彼女は彼千歳の女将は、調子をあわせて、 『ひとつ、お客様たちへ、御紹介してあげてくださいな、島崎 女の商法としてここへ提供する。そして、二日でも三日でも、 さんを』 捕虜たちの解放されるまで、彼女もまた娘子軍の幾十人かと共 だが、その労をまたずに、島崎のすがたを見出すと、幾組か 関内の店とかけもちに、ここで眼を紅くしておとりまきを の踊りは、みんなステップをしずめて、島崎のまわりになだれ しているのだった。 とり・一 すくな じようしぐん っ洋一み、

5. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

『なんの御用事で行らっしやるの』 奈都子は、やがて養父になる伯父と、生さない伯母の前に、 一つずつ珈琲をおいた。 『そりや、商売じゃ』 『だって大隈さんは、石炭なんぞ、買わないでしよう』 『あらっ』 『大隈さんに、石炭は売りつけられんよ、運動してもらうん お槇と奈都子は、下品に笑い出した。 じゃ、隠していてもムダだったわね、こ じゃ、海車の方へ。こんどの遠洋航海の艦隊だけでも、たいへ 『ま、新聞に ? んなもんだよ。又、生糸の方でも、いろいろといい便宜がある』う暴露しちまッては』 石炭と生糸の話になると、奈都子は、理平の顔が、石炭に見『ろくな所へ行きおらん、あんな、かんかん虫どもの集ッとる えたり、さなぎに見えたりして来た。開港場成功者は、みんな所へ行ったら、ベスト菌にとッつかれる。自体、何しに行ッた そうであったがこの伯父が昔、石炭かつぎをしていた頃の姿まんじゃ』 で見えて来て、いやであった。 『外国船の号に』 『伯母さん、きよう、何うなさるの』 『号には、わしの店では、石炭を売っておらんが』 『疲れているから、今、お断りしていたところなのよ。奈都子『ハムスンさんへ、お礼に伺ったんですわ』 さんだって、大隈伯なんて、おじいちゃんの顔なぞ、見たくな 『ハムスン ? あのグランドホテルで、何かやった下手ッくそ いわね』 な、音楽家の』 『え : : : でも : ・ : 何でしよう』 『え。贈り物をいただきましたからーー奈都子さんも、あたし 目交ぜで、クスリと笑っていると、理平は、新聞に眼を突か れたようこ、・ カチリと、珈琲茶碗をおいて、 理平は、不快そうに、新聞をクシャクシャに持って、もう一 『おい、こら、お前たちゃ、きのう船渠会社へ何しに行ったん度読み直しながら、 じゃ。・ーー新聞に出とる、新聞に』 『それはええが、お槇は、わしがやった腕環を盗まれ損ねたと 、、つじゃよ、 オしか。なぜあんな高価なものを持って歩く ? す 風 ぐ、犯人が捕まったからよいけれど、もし宝石をパラ・ハラにし てこかされたら、それ限りじゃないか。金庫へでもしまッと 3 タ ナ。ま タ風の鞭 きん へた

6. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

戦 宣 ロックコートの伯父を中に挾んで、馬車へ乗った。 『金持なんか、なお嫌い』 タ風を切って、馬車のムチは鳴る。 『じゃ、貧乏人になりたいのか』 わだち、、、、 『働く人が好き。ね工、おばさん、船渠へ行ってみて、わたし赤塗の轍はれきろくと関内の文化街を真っすぐに疾走した。 初めて、金持の悲哀を知ったわ、あの、汗みどろになった職工前の台に胸を張って、二頭の馬を操りながら、辻々の人を避け よしやむちふ の顔や、ハンマーの音を聞いてさえ、物が美味しく食べられそさせてゆく馭者の鞭振りを眺めつつ行くことは、彼女たちに快 ガスとうふ い誇を満たした。長い点火器の棒を持って飛ぶ瓦斯燈夫や、石 うな気がしやしない ? 』 『ま、変っているのね、奈都子さんは。わたしは、気持がわる油罐とキャ久ツを腕にかけた軒燈屋が、縦横に町を駈けて、町 くって、しじゅう鼻を抑えていたほどなのに』 の夜を華やかせてゆく。 『あらっ ? 』 『それみろ、あんな所へ連れて行くから、すぐべスト菌にオカ ほろ うしろの幌が、ばり、ばりツ、といったのでお槇も奈都子 られて来おる。それよか、ばつばっ支度をしなさい』 『千歳は、お見合せになったんでしよう』 も、同じ姿態をして、振り向いた。 『わしにも、招待状が来ておるから、グランドホテルの方へ出『あ : : : 』 理平も首を捻じ向けた。 席してみよう、大隈伯にも、そんな場所で顔を知って戴いてか そして、三人とも恟ッとしたように浮腰を立てかけると、そ らの方が都合がええ、 槇も、おまえも、うんと盛装せい この幌を、海車洋刀で十文字に切り破って、メリケン刈の頭を 伯は派手好きじゃという話だから』 よそお ; 、こっこと入って オ突き出した少年マドロスカし 各、、の朝湯と化粧に、三時間ぐらい費された。首だけ粧っこ まんちんろう 所で、万珍楼の支那料理をとって昼食がすむ。髪結が帰る。洋『大将、今朝ほどは失敬』 おもと と、一一一口った。 服の着付師のお定さんが来る。理平は、万年青展覧会はどある 屋上庭園から降りて来て、ちょっと、店へ顔を出して、金庫の 鍵を鳴らしながら奥へ引っこむ。 午後四時ーーやっと女中が馬車会社へ電話をかけている。夫 宣戦 人お槇は、かつらのように夜会巻に結って、居留地仕立の洋装 パイオレットの香液を咽せ に開化人のあらゆる粧いを凝らし、 『こらつ、そんな所へぶら下がツちゃいかん。降りろ、怪我を るほどふりかけて、今春時代の全盛さを、ちょっと理平の眼に しの 偲ばせた。奈都子は又、きのうとは下から帯まで色彩を変えたするそ ! 』 えりもと なれなれ すそもよう 少年マドロスは、狎々しい眼で、理平の襟元から車内をジロ 裾模様に、白金と宝石のかがやきを歩身から撒き散らして、フ いただ かんない

7. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

ほど・伐はウトウトとしていた。 すると隣室で、聞き馴れな い来訪者の声がひびいた。 『ごじようだんでしよう、君 ! 嘘を言ッたって、だめよ』 闖入者 それは、男とも聞えるし、女ともうけとれるアクセントだっ おそろしく熱い珈琲へ、くちびるを近づけただけで、理平『 , ーー居留守なんて、古手だわよ、第一、君、自身ですら、女 は、ふきげんに下へおいて、 中に居ないと言わせておきながらここに居るじゃないの。然 『誰だ、あれは』 し、君だけじや相手にならないですから、御主人に会わせてく と、女中へ咎めた。 だき、し』 おかみ ーモニカですか。あれは、おとといの晩千歳の女将さんと 『だってほんとに今、主人は船のお客をつれて、箱根の方へ参 警察署のお方が預けておいでになった、トムさんです』 って、不在なのです』 『トム公か。困ったやつじゃの』 応接しているのは、明らかにお槇だった。けれど、来訪者の 『ほんとに、とんでもない者を預かってしまいましたわね。警圧倒的な語調のまえに、何となくおろおろしている風がわか る。 察へおいてくれればいいのに』 と、お槇もいっしょに、眉をひそめた。 『誰だろう ? 』 『だが、女将の証言がほんとだとすると、あれが千坂男爵の身 と、理平は寝床の上に起き上って、耳を澄ましていた。 よりのものだというのだから、そう分ってみると、署長も処置『ホホホ』と、落着きすました笑い声だ。笑い声はやはり女だ に困っとるんだろう。 ・おいあのト曽に、トム公に、そう言 った。『ーー、今朝、桟橋からお帰りになってから、ここの御主 え、病人があるんじやから、そんなものは吹いては困るって』人はまだ一歩も外へ出ていないはずよ。君 ! そんな嘘ッば べランダ 女中は旨をうけて、さっそく露台へ上って行ったらしいけれち、いくら並べても、認めなくってよ。はやく会わせたまえ』 ど、 ーモニカはやまなかった。 ったい誰に断っ 『あなた。会わせる会わせないはともかく、 者 理平は一睡したいのであったが、それが気になって寝る気にて、ここへ、はいって来たんですか』 もなれなかった。千歳へ電話をかけさせてみると、女将はきの『女中君が、嘘をつくから、家宅侵入を敢てしたのよ、君、訴 入 う東京へ行ってまだ帰って来ないとのことで、結局、そこへもえますか』 『 : : : 呆れましたね、なんていう、あばずれでしよう』 闖当りようがなく、隣室へ寝床を命じて、横になった。 んみかけていた新聞にも、すぐに眼がっかれて、二、三時間『けれど、君ほどに、あばずれでないつもりよ、その証明は後 あえ

8. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

ほしなかっえ 署長の保科勝衛は、高瀬理平と肩をならべて、もうほかの雑す』 談などをしているのだった。だが部下の巡査は、その小さな一 『そうでしよう、こんなのは、つまりもう先天的に、血のなか 8 げんしゆく 事件にも、職務の忠実を示し得るように、おそろしく厳粛がっ に悪を持っているのでしようからな』 あご んて、鉛筆のシンを舐める。 『おい、連れてゆけ』と署長は無造作に顎をすくって、 カ『こらつ、貴様あ、かんかん虫のトム公だな』 『僕はまだちと用事が残っとるから、後から行く。何、トム公 むとう か『さきおととい、調べてもらったばかりだ』 のことは武藤主任が何もかも知りぬいとるから、武藤君にやら 『でも一応は、住所年齢を聞くんじゃ。年は』 すがよし』 『十四さ』 『じゃ、署長、ご迷惑でしようが』 『住所は』 と、理平が彼を客間へ迎えようとすると、さっきから、しげ 『忘れちまった』 しげと、トム公のすがたを見入っていた千歳の女将が、そのト あざおらんだ 『貴様、署では言ッたじゃない、。 相沢町字和蘭陀横丁、ム公の腕をつかんで引きずり上げた巡査へ向って、ていねい に、腰をかがめた。 俗称イロハ長屋、千坂桐代長男ーーそうだな』 『おっ母あの名なんか、そんな、汚ねえ手帳に書いてくれんな 『あの、失礼でございますが、ちょっとお待ちくださいません よ。おっ母あは何も、警察の手帳に書かれるようなことをした ことはね , ん』 署長と、高瀬とは、振り顧って、 「署長、こういう小僧です。実に手におえんです』 『女将、なんじゃ ? 』 この子のことで、すこし : 『こんなのが大きくなったら、さしずめ、吾々の飯の種じやろ『は、、 、つ。亠めはは・よ 『おまえが、かんかん虫のトム公などに、何の用があるのか ? 』 『然し、法律というものも不便ですな』と、理平が、署長の吸『相沢町字和蘭陀横丁、千坂桐代、そう仰言ったように存じま いかけている巻煙草へ燐寸を摺ってやりながら横口を入れすが』 巡査も、妙な顔をしながら、 『こんなチビでも、 いつばし、大人以上の悪事を働いて社会を『はあ、それがトムの母親にあたる者で、今、どこかの施療病 害するのに、十四歳では、それを懲役にすることができないの院にはいっとるということです』 ですか』 『もういちどお確め下さいませんでしようか。母親が千坂桐代 そしてトム公というその子は、本名を、富麿といいません 『まあ、こんなひどい不良は、八丈島の感化院へやるわけです ・、な。その感化院へやっても、どうも大した効果はないようでかしら』 マッチす サロン

9. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

たよ、何も、人殺しに来たんじゃないよ』 ジロと見廻した。 う「怪我をすりや、病院に入れてくれるだろう。だが、ご、い配は馭者は、聾のように、自己の使命だけを守って、税関前の大 ーー理平 通りを曲がり、前よりもはやく央走をつづけている。 いりませんや、馬丁台に足を掛けているんだから』 けがらわ は、子供だとは思いながら、幌の破れから突き出している顔だ 穢しい ! 降りろ』 ん「あぶないー カ『いいよ、グランドホテルまで送って行くよ』 けを見ているので気味が悪かった。 『お槇、おまえは、このかんかん虫のトムというのを知ってい か『ああそうか、おまえーーー波止場乞食か。これをやる。寄る るのか』 理平は、あわてて、五十銭銀貨一枚を彼の手に握らせた。彼『い、い、 彼女のことばは、ひッつれた喉からやっと洩れた声だった。 は掌の銀貨に軽蔑をくれて理平の顔へ抛りつけた。 『だって、今朝の電話では、昨日のことについてと言った 『何をするツ』 『おれを、波止場乞食ッて言やがったからよ。こう ! おれが : 『そうだ、その事さ ! 』と、トム公は流暢な横浜弁で一息に言 にや、立派な商売があるんだそ』 『なんだッ貴様は』 ドック きのう、ここにいる女の人が、船渠の号へ遊びに来て 『今朝も、電話で言ったじゃねえか、よく覚えとけよ、おし さら る間に、オペラ・ハッグを船のインド猿に攫われたんだぜ。その ら、かんかん虫のトムってんだ』 中にや十万円もする腕環がはいってると言ッて・ヘソを掻いてた 『あっ、今朝のはーーーおまえか』 から、おら、可哀そうだと思って、マストへ登って取り返して 『おれだよ。紳士だろう、ちゃんと、電話で、お目にかかるこ やったんだ』 とを、断っておいたんだから』 よしゃ 『ウム : ・・ : 新聞で見た』 、馭者つ、馬車を止めい』 『ーーーその礼なんかをセビリに来たんじゃねえぜーーー所が、 『おじさん』 トム公の海軍洋刀の先は、真っ蒼になって顫いている奈都子船渠の退け時間になって帰ろうと思うと、警察の私服が来やが って、おれが、初めて商売に連れて行ったうちの近所の亀田さ の顔のそばまで届いていた。 ほろ 「騒ぐと、お嬢さんの顔を、ここの、幌みたいに破ッて逃げちんて人を、いきなり泥棒だといって捕えやがツた。亀田さん は、そんな人じゃねえ ! おら、言ってやったのさ、だが、用 ま、つぜ』 事のポンクラ野郎は、亀田さんのポケットから、腕環といっ か 4 あい ひきよう 『卑怯なことをしつこなしさ。おら、ただ懸合に来ただけなんしょにあった指環が出て来たから、何でも、承知しね工んだ。 しんし さお おのの つんば はまべん

10. 吉川英治全集 第13巻 かんかん虫は唄う・あるぷす大将・青空士官・夜の司令官

に立てます。とにかく、御主人を呼んでもらいましよう』 すか』 う『いませんよ』 『おまえみたいな婦人に、わしは、何の用件も持っとらん。 は『います』 ずれおまえは、女愚連隊とか、 ( 、ノケチ女とかいう、そんな類 ん『いません』 の者じやろう』 ふたり 『み、、つよ、ムよ、、 両女がいい募っているところへ、扉を押して、ひらりッと、 / ンケチ女から成り上った、女の愚連隊よ。 ん みなとばし かはいって来た者があった。ポケットのロにハ ーモニカを短銃のしかし御主人、君もつい十何年かまえは、港橋で真黒なパイス かっ ようにのぞかせているトム公だった。 ケを担いでいた石炭担ぎじゃなかったの』 『お光さん』 『失敬なことを言うな。つまみ出すそ』 『あ、トム公、おまえここにいたの ? 』 『おもしろい、不が、つまみ出されるかどうか、トム公、そこ 「主人はすぐそこの奥に寝ているぞ、いないなんて、大嘘さ、 で見物しておいで』 おれが連れて来てやろう』 「あ。見ていよう』 と、大股にあるいて、隣室の扉をばんと足で開けた。すかさ トム公は、二つの椅子を並べてその上に足を投げ出しなが もてあそ ら、 ずに、広東服のお光さんは、彼につづいてその部屋の口から、 ーモニカを弄んでいた。 ちょうだい 『御主人、起きて頂戴な』 が、御主人、つまみ出されると、ナよ、 し。オしから、その前 のぞ と、覗いた に、かんたんに私の訪問した好意だけを分ってください』 お光さんはポケットを探って、まだ感光液のねばりそうな生 生しい一葉の写真を出して、理平のまえに突き出した。理平 は、手もふれようとはしなかったが、ちらと見ると、顔いろを 征服 うごかして、思わず眼を奪られてしまった。 『どうですか、この写真は。 : : : 夫人、あなたもここへ来て見 『誰だおまえは。やたらに人の居宅へはいって、寝室へまで無ないこと。大へんよく撮れましたよ』 まき せんりつ 断で来るやつがあるか。警察へ言うそ』 お槇は青白い戦課を奥歯にかんでいた。写真の画面には、大 『結構ですわ』 きな自分の顔と、騎手の島崎の顔が、唇を寄せ合って、見るか みだ と、お光さんは、椅子に倚って、ほそい脚線を組みあわせらに淫らな陶酔を語っていた。彼女は、この間の晩、その秘密 せんこう な場面を盗まれたせつなに浴びたマグネシュウムの閃光を、今 『けれど御主人、君は、私の用向きを聞かなくってもいいんでまた、驚愕の後頭部によみがえらせて、眼がぐらぐらとして来 ドア マダム