辺に毎日露店を出しているのだそうだ』 玉菊の茎のような青白い薄い手は、羅の手をさぐって、痛い せいめい ほど握りしめ、そして生命の力を鈍い眸ひとつに集めながら子 「じゃあきようは、休んでいらっしやるんですね』 『ーーーそれならいいが、この半月も前から体が弱って、寝込んの顔を凝視した。 『すみません : : : 、何も申しません、永いあいだの私の不孝を でいるのだと聞いたが』 『ま。御病気で ? 』 : おっ母さん ! 宥してくださいますか』 すると、彼の母は、彼のうしろに立っている絹子を見て、 「こんな所に、独りばっちで、よく独りで暮していたなあ』 あた 『その娘は』 土の家の裏まで来ると、羅は、辺りを眺めながら、深い息の と低い声でたすねた。 下に、暫く、慙愧に打たれていた。 ゆくえ 『私と、行末を約束したひとです』 四 『 : : : おう、そう』 のぞ 彼の母は、にこと笑った。そしてこう云った。 穴のような薄暗い家の中を覗いて、 『ーーーおっ母さん。 : ・・ : 羅文旦です』 『日本の娘さんでしよう』 『どうして、おわかりになりますか』 と訪れる彼の声はふるえていた 『わたしは日本人です。分らなくって何うしましよう。・ : ・ : 羅 山陰のせいか、シーンとして冷ややかである。桃の枝には、 こだま 小鳥の音が遠く澄文旦、おまえの不孝が、支那の為、日本の為になっている事を、 青い実がふっさり枝を撓わめ、谺のように、 : おまえは、お わたしは、よそながら聞いて知っています み返ってくる。 父さんに対しても、孝行者です。日本人の私にとっては、もっ 『 : : : おっ母さん ! 羅です。羅文旦が帰って来ました』 すると、薄暗い中で、微かな物音がした。そして、何か異様と、もっと、欣しい せき . せ 云いかけて、咳を喘きこんだ。 なうめきと、啜り泣きの声が洩れたと思うと、 ロ月「およ、、 しそいで、紙を出して、老母のロにつかえた啖を拭 ・「羅文旦や、はやく来ておくれ、わたしは、其処へも起きて行 きとってやった。 かれないのだよ』 母 『ありがとう。あなたもやつばり、日本の女らしさがあります 覚えのある声が、奥でさけんだ。 ね。 : 日本の女だけが持っている女らしさ。それは支那には の羅は、駆けこんで行った。大きな手は、名ばかりの寝床を、 なおさら : 。けれどその為にわたし ありません。外国には猶更ない・ 林薄べったい母の体ぐるみだきかかえて、 は、何んなに、この子を生んで、苦しんで来たでしよう。それ 桃『わたくしです ! わたくしです ! 』 は、羅からも聞いたでしよう』 しばら んき うれ ゆる にぶ たん
這入り込み、エリゼをふん捕まえた事はふん捕まえたがーーー外 『どこですか、此家は。わたしはこんなところに用はありま 8 官の様子が分らねえので、烏が今に何とか合図でもするかと思っ 令 せん。帰してくれなければ、フランスの官憲を呼んで来ます て、此室の鍵をかってわざと屈み込んでいた所なんで」 うそ = ロ 見え透いた嘘である。 の 『冗談だろう』 羅は、肚の中で嗤ったが、 夜 羅は冷笑した。 『じゃあ、エリゼは捕まえたのか』 さわ 『エリゼさん、躁がない方が身の為だろうぜ。ここは秘密 『ええ、ここの寝床へ、ふん縛ってありますが』 『それなら、烏を待っているこたあねえ、門の外に自動車を待結社の本部だ。フランスの官憲などに手のつけられる場所じゃ ねえ』 たせてあるから、エリゼをそこへ引っ抱えて来い』 『あっ : : じゃあ ? ・』 『へい。」 きようがくひとみ エリゼは大きな眼をみはった。その驚愕の眸は、はじめて気 張の返辞は、伸びたゴムみたいに弾みがなかった。まさかこ ト - うし こへ親分の羅文旦が自身で来ようなどとは、彼も予期していなづいたように羅文旦の顔をいつまで凝視していた。羅はわざと 彼ま羅を裏切って、プラッグレイへ絹子の肩でグスリと笑って、 かったに違いない。冖。 『おい、この姐さんを、地下室へお通ししておけ』 身を持ち込み、その取引を済ましているので、心が穏かでない のである。 乾児にそう命じてから又エリザへ向っていっ / 『心配しなさんな、ここへおめえを連れて来てやったなあ、お だが、その絹子はもう此家を逃けた後だったから、それだけ は彼もほっとしたろう。エリゼの方は、プラッグレイが出て行めえを恋いこがれている可愛い亭主に引会わせてやる為だ。 くとき、彼から監視を頼まれたものであるが、プラックレイかが下で待ってるぜ。地下室へ行ってゆっくり積る話をするがい し』 ら取るべき金はもう取ってあるのだ。 エリゼはそう聞くと、よけいに蒼ざめて、死人のような唇を 張は、羅を裏切って、プラックレイに節操を売り、今またそ らっ のプラッグレイの鼻を明かして、羅の命ずるままエリゼを拉しわななかせたが、二人の乾児に両腕を掻い込まれると、観念し ひきあ て羅と共に、秘密結社の隠れ家へ、自動車で引揚げて来たように眼を落して、黙々と暗い階段を降りて行った。 その後ろ姿を見送って 『張。御苦労だったな』 四 『ど、ついたしまして』 自動車から降ろされると、エリゼは半狂人になってさけん張はムズ痒かった。 わら けず はんきちがい がゆ
烏は、何度呼んでも効いのない事を知って、更に、囲いの板しーーー文、空からの猛襲と列車の爆破に、完全に平静を失って を破って、中へ潜り込んで行った。 いるので、そう分っても、徒らに騒ぐだけで、何の策も知らな そこに倒れている羅の体に手が触った。顔を摺り寄せて、 、刀学 / 『あっしですっ : : : 盟長』 蘇州軍の救援部隊が駆けつけてから初めて羅の逃亡した事に と低く呼んだ。 も及んで、すぐ、一小隊ほどの兵が、追跡して行ったが、元よ 羅は初めて、闇の中に眼をあいた。烏は、彼の体を、やっと りもう分る筈はないし、それに蘇州軍の兵はその命令に、大し 外へ抱え出した。 て熱意を持たなかった。 待っていた李靖賓は、すぐ羅の体を、自分の背へ「た。羅羅文旦を背に負った李靖賓と、絹子を肩にかけた烏鉄梅と たど は、夜明けの光を見まわしながら、 は、約二里半もあるいて、一つの部落へ辿り着いた。 「絹子、絹子が : 部落は山の麓にあった。そして戦争のあることなどは皆知ら と、二度ほどいっこ。 ないような顔をして住んでいる土民ばかりだった。 ようりゅう 『えつ、お絹さんも、居るんですか』 楊柳に囲まれた土塀の中を覗いて、烏は一軒の民家に入って 羅は、靖賓の肩でうなずいた。もう一度、車室の中へ潜って行った。そして驢の群の中に嬰児を抱いて立っていた夫婦者 った烏は、絹子の体を小脇にかかえて出て来た。 へ向って、いきなりいった。 彼らは、棉畑の中を、驀っしぐらに駆け出した。白い棉の花「おい、おめえ達に、金をやろうじゃねえか』 には、まだ朝の露がし。し 、つま、あったので、濡れた彼に土がまみ 一みの銀や紙幣を見せると、夫婦者はそれにも眼をまるく れて、二里も歩くと、全身真っ黒に汚れてしまった。 したが、烏や李が、瀕死の人間を肩にかけているのを見ると、 列車の爆破された地点は、やがて蘇州に近い郊内であったら なお驚いて、奥へ逃げ込んだ。 しく、やがて附近の軍隊が救援にいったころは、まだ炎々とそ「あははは。おい、逃げるこたあねえよ』 の形骸は焼けていた。 烏も李も、かまわず家の中へ押入って行った。そして金を こくせいりん 谷正倫部下の憲兵たちは、羅が逃げてからよほど経ってから、 ませた。 花『十四号車の下には、羅文旦の姿も見えないし、死骸もない』 『《め . り・、がレ」、つ、、め . り・、がンつ』 と、騒ぎ出した。 夫婦者は、掌の金に見入りながら、秘密を守ることを約し の 「日本人の女も』 た羅も絹子も、汚い寝床に横たわった。もちろん、あらゆる 不便と不潔はあったが、何かしら安全感につつまれて、皆、は 棉ど、誰かさけんだ。 然し、その憲兵たちも、半分以上、負傷したり爆死していた っとした。 かか もぐ こわき ひとっか ふもと ど・ヘい ひんし もうしゅう むれ いたず
媽婦は顫いていながら、羅にそう苛め立てられても、頑とし て口を開かなかった。 『二階へ案内しろ』 羅は、彼女の背を、短銃の先で追い立てたが、こう、う」 雇人などを締め上げることは、彼の得意でなかった。 二階も見た。 そこには既に、絹子もいなかった。 絹子は、電話が断れ たせつなーーそうしてあの肓爆の震動に驚いて、一室から張と てめえ プラッグレイが飛び出して来て、エリゼを捕まえて騒いでいる『汝、来ていたのか』 す、 - ま・ 夢中で窓口から外へ越え、此邸の門からすぐ前の仏羅は凝と、張の落着かない眼をにらんだ。張は、自分の顔い ランスこうえん 蘭西公園の方へ逃げてしまった。 ろを紛らわしながら、 で当然 絹子の姿はすでに二階にも発見されなかったわけ 『だって、盟長の募咐けじやございませんか』 である。 と、シラを切った。 『はてな ? 』 ともう乾児の彼の不審な 羅は肚の中でーーーこの野郎 ? 羅は、舌打ちして、階段を降りて来たが、ふとまだ見残して態度に眼を止めたが、 いる一室へ気がついた。 だが、この家が、の云った彼の家か』 「媽婦、ここを開けろ』 と、羅も又、空とばけこ。 「あきません』 『そうですよ。盟長は、何うしてやって来たんですか』 ナンキンろ てめえ 『南京路に事件が起ったし、汝たちの帰りが遅いので、もし 強くかぶりを振る媽婦の顔に、明らかに青い戦慄が走った。 てめえ 羅は、返辞もまたずに烈しくドアを蹴ったが、何か、部屋の中や ? と心配になったから来てみたのだがーー所で、汝と一緒 ・ヘランプ でする物音に、鋭敏な直感が働いたらしく、すぐ横の露台からに来た烏は何うした ? 』 者 庭へ躍り出して、そこの窓口へ向ってパンパンと続けざまに短『え。見えませんか』 銃を撃ち放した。 『居ねえようだ』 切 、すると、部屋の中で、 『じゃあ、此処へなぐり込んだ時、プラッグレイの手下らしい 奴が四、五人出て来たから其奴らに取巻かれて、何うかしたの 裏『誰だっ、烏か』 しめ かも知れません。あっしあ、烏と諜し合って、裏口からここへ と一い、つ亠尸、が、し」。 おのの ビスト↓ せんりつ そうして、羅が、 『おれだ』 と、その聞き覚えのある声へ答えると、すぐ窓口から乾児の しい張子仙が首を出して、 『あ、盟長ですか』 と、何か、狼狽した眼つきを慌しくうごかした。 がん ビス じっ ・つ . っ 21 、 あわただ こぶん こぶん
その日が来たのだ。 なぜならば、鳳沙が自分をここへ連れて来るのに、廻り道を していたし、又カルトンを出る前に、化粧室へかくれて何か走羅は、悪びれずに、 り書をし、それをポーイの一人へすばやく手渡したのを見てい 『ゃあ、来ましたね。 ・ : だが真逆、あんなつまらねえ女豚が おとり たからであった。 囮たあ思わなかった』 おびただ 絹子が一度でも、この家へ足踏みしていることは事と、笑った。そして夥しい憲兵の群に囲まれて護送自動車 実に違いない 。この間の晩、別れる時まで着ていたあの洋服がに乗り込むと、もう一度苦笑して、両側の憲兵将校に云った。 か ぎじようへい 十ンキンにゆうじよう 破れて懸かってあるのを見ても。 「こいつあ由々しい儀杖兵だ。これで南京入城は、羅文旦一 「おれを甘く見やがってー 代の盛儀かも知れねえ。いや、光栄です』 うち 羅は、ロの裡で罵ったが、猶、何か他に手懸りはないかと、 未練な眼で家探ししていたが、そのうちに往来が騒がしくなっ たので、飛び降りて逃げる窓口を探す事のほうが急務になっ 耶雲耶 すると、背後から、どやどやと靴音が迫って、云う者があっ ナンキン 『羅文旦閣下、出口なら此方だろう。わざわざ南京からお迎え こぶん に来た吾々が、ちゃんと扉を開いて待っておるがね』 彼を護送する憲兵隊の自動車は、羅の乾児の襲撃を極力警戒 して、その自動車は北停車場へ驀っしぐらに急いだ ああいけない、と羅は振向くなり直感した。国民政府の特別 自動車は其儘、停車場倉庫から、貨物ホームの側まで突っ込 こくせいりん 憲兵司令官谷正倫の部下たちである。同じ正服の色が、窓からんで行った。手錠をかけられた羅の姿は、そこから軍用貨車の おり 見える往来にも充満していた。 馬の檻へ移されるまでの僅か数歩の間に、チラと憲兵と憲兵の そしゅうかんごく 蘇州監獄の囚徒を解放して、漢奸狩りにかかるという第一夜間に見えただけだった。 ひろうえん ナンキンだっしゆっ の披露宴に、一挙数百名の囚徒や役人を毒酔させて、南京脱出深夜ーーその貨物列車はもう、遠く上海の灯を後にして、轟 はなわざ 雲の離れ業をやり、まんまと長江の水に姿を消し去ってから 轟と、大陸の闇を走っていた。 やっき ばふん 耶憲兵司令官の谷正倫も、国民政府そのものも、躍起となって、 羅は、馬糞の中に坐って、檻に倚りかかっていた。 あした 母逮捕を期していたに違いないことは、羅文旦自身も、・常に覚悟『 : : : 明日か』 ナンキン にしていた。 死は、南京に待っている ちょう・一う なお せい は ゅ そのまま わず 0 まさか ま ンヤンハ ( めぶた 399
花 し、恋していると唇に出したことはなかった。又、絹子も心の音や機関銃のひびきがー 裡で羅を好いていたかも知れないが、言葉に現わした事は今日て来るのだった。 まで一遍もなかった。 で、ふたりの会見は、いつも用向きだけで、きれいに終って『 : あかり ちょうほう いたがーー何か羅に取って重要な諜報を彼女から聞き取った時灯のない窓口に、二人はいつまでも黙っていた。 羅は、時によると、武田文夫という日本人名を使っている。 など、羅が、金を与えようとすると、 それほど彼は姿も血も日本人そのままだった。けれど一滴の血 ( わたしは、日本の為と思ってしているのですから ) を交ぜている。その血は支那である。 と、決して受けなかった。 シャンハイ 絹子は、小学校から上海に育っているが、少しも国際風に染 そのくせ彼女の家庭は決して富んでいなかった。羅はそれを きたしせんろ 綿密に調べて知っている。北四川路の日本人町の裏で、家族がまない純粋な九州生れの娘だった。 多く、小学校へ行っている小さい弟妹が四人もいる。そして多時々、ダアーンと地階から揺りあがって来るような砲弾は、 ほそうで 沈黙のあいだに近づきかける二人の血を、何としても、はっと くは彼女の細腕によって立てている生計らしかった。 おどろ げん 愕かせては遠く隔てた。二つの国は、何うあろうと事実上戦争 でも彼女はまだ、羅から一元の金だって受けたことがない。 羅はその心意気がたまらなく好きであったし、そこにも日本のしているのではないかと、自己だけの小さい感傷を醒ましてそ おとめごころ う考える。 民間にある潔癖と道義とーーーそして処女心にまでつつまれてい うらや 「もう暫く会えないかも知れません。いや恐らくもう会う機会 る羨ましい国家意識の強さを見るのだった。 しつかり けれど今度会う時は、慥乎、国と国と 彼女の気持としては、羅の身上を或る時聞いて、自分よりはは遠いでしよう。 つきあ みなしご も、手を握って会えますよ。新しい日支の協力による建設の上 むしろ憐れな「大陸の孤児」と思って交際っていたのである。 : でも今夜はよく来てくれたな でお目にかかりましょ , つ。 そして何かの時にはこう云って常に慰めていた。 ( 今にきっと、わたしが探し出して上げますわ、あなたのお母あ。僕が南京へ行っていた為に、あの儘かーー・と諦めていた が、これで気が済みましたよ』 さんを ) ーーーと。 『 : ・・ : わたしも』 四 絹子は、自分の云うことばを、みな羅が云ってしまったよう し・一うコンス キュウキャンろ 彼の隠れ家のある九江路の位置は、司光公司や大世界のあるな気がして、 しことですね、二人の為にも、この戦争 双盛り場のすぐ裏なので、四階の窓を開けておくと、そこの躁狂「かえ 0 て、後には、、 なパンドや夜更の騒音やーー文、黄浦江や楊樹浦方面の砲弾のは』 あわ け そうきよう ナンキン ー吹き入る風の一戦ぎ毎に、交 4 流れ こも一一も 361
。君と僕とも、国籍に於いては、敵人のあいだになった。け為に ) 官れど、おれはいまの国民政府と依存外交が、無理に捏ッち上げ と、頼まれて入 0 たのである。云う迄もなく、羅の主義を奉弼 令 ているような抗日支那を、ほんとの支那とは思っていない。 じている秘密結社の女諜報員の一名として。 一口 その以前は、く : ・それは知ってるだろう、平常のおれの主張でも』 ノンドの或る貿易商の店で、タイプを叩いてい の 『ええ分ってますわ。あなたは何処までも、支那の土と、日本た彼女であった。店のガラス越しに見えるタイプの前には、彼 きず - 一 フランスびじん の血をもって、理想の亜細亜を築うという主義なんでしよう』女ともう一人のエリゼという仏蘭西美人が椅子を並べていた。 こくさいシャンハイじんりようきなかま 『そうだ。頼るならおれは日本以外に頼る国はないと思ってい そして女に眼のはやい国際上海人の猟奇仲間で、 よみが そうか る。この老大国の土は、日本の若い輸血に依ってしか甦えらな ( パンドの双花 ) いものとおれは信じている。東洋人には東洋人の輸血でなけれ と呼ばれたり、其店の看板タイビストと云われたりしてい ば駄目なことは、型の血液の病人に、型の血液を輸血するた。 よ、つなものさ』 いつのまにか、エリゼが先に店から姿を消した。矢島絹子が 『でも : ・ : 』と絹子は嘆息しながら云った。 暇を取ったのは、三月も後だった。 『もう駄目ですわね』 店の支配人は、その時、彼女に意見がましく云った。 たんれい 『どうして』 ( 絹子さん、あなたをよく誘いに来る青年はあんな端麗な姿を 『戦争になってしまいましたもの。北支も中支も全面的に』 してるけれど、秘密結社の盟長だそうですよ。 : : : 知って すると羅は、会心らしい笑みを洩らしながら、窓から見える いますか ? 知っているなら僕の云う余地はないけれど ) せんこう 砲弾の閃光へ眼を遣って云った。 彼女は笑って何も答えなかった。それから間もなく、羅の紹 これからさー 「そんな事はな、。 これからだよ君』 介でカルトンへ出たのであるが、羅は滅多に来なかったし、来 にか ても酒をのんでいるか、他のパアトナーと不器用に踊って帰っ マネージャーい力し てしまうのが例であったから、支配人以外には、彼と彼女との 絹子がカルトンのホールへ現われたのは、この一月頃からだ関係を知るものはなかった。 稀ミ会う時は、まったく人の気づかない場所で、短時間の 踊りは下手だった。でも羅文旦の顔でそこへ入れてもらった会見をすると、さっさと別れてしまった。 というように表面はなっているが、ほんとは羅文旦の方か羅が、彼女へ接近し始めた動機は、彼女の姿がどことなく、 羅の探している写真の母に似ているからであった。 ( 君としては日本の為に。おれとしては、大きな意味の支那の従って、羅はひそかに絹子を恋していたかも知れない。然 ら、 ひま たまたま めった
劉・録音係 ポーイは、羅の姿を見て目礼した。羅は次の部屋のドアを開『あらっ ? おどろ かっ - 一う けた。そこには、エリゼが不貞腐れた恰好をして、一脚の椅子と云うエリゼの愕き声が洩れた一瞬—ー = 李はすばやく又、そ この錠をびんと卸ろしてしまった。 に脚を曲げて考え込んでいた だが、羅の姿を見ると、エリゼは胸へとびついて来て、憐れ つばい声を出した。 かくして、とエリゼが一緒に住む事となった地下室の奥の 『羅文旦 ! もしつ、有名な義侠に富んだ秘密結社の首領さ 一室の天井には、一見、通風窓のように見せた円形の金網張り ・ : 。なんで私をこんな所へ押籠めたの。ね、ね、ね、 の小さな穴が八カ所あいていた。 帰してくださいな、お願いだから』 羅は、うるさそうに、彼女の白い手を振りほどいて、膠もな勿論、これはただの換気孔ではない 孔の上には、感度の極めて鋭敏なカーポンマイグや、コンデ く云った。 ンサーマイグなどの優秀なマイグロフォンが装備されているの 『おい、止せよ。すぐお隣に、おめえの亭主がいるんじゃねえ かあな である。 か。鍵穴からのそいているぜ』 かす おえっ み、 - や でーー・地底の一室の囁きは、どんな低声でも、徴かな鳴咽で 『嘘、嘘ばっかり』 レコーディング・ルーム も、鋭敏にその装置へ反応し、三階の録音室へと、スピー 『うそかほんとか、今すぐ会わせてやるから待て』 : そうでカーを通してつつ抜けに拡大されてゆく。 『あたし、そんな者に、会いたくなどありません。 りゅう 「、 ) い靖賓。劉はいるだろうな』 す ! もう離婚している男ですもの』 『居ります。あの男だけは、この戦争中でも研究室に首を突っ 『 T•はそう云わなかった』 『いいえ、あたしは、もうあんな男には、愛憎をつかしていまこんだままで、窓から顔を出したこともありません』 『呼んでくれ、至急に』 、麦生ですから』 す。帰して下さい彳 『まあ、そんな事を云わずに、四、五日悠つくりと、そこで話 つめえり 劉はすぐ羅の前へ呼ばれて来た。詰襟の学生服を着た若い青 切れるとも切れねえとも : し合ってみるがいし 羅が、眼くばせすると、もう鍵穴へ錠を突っ込んで待ってい年である。ーー彼はここの録音係となるべく羅から莫大な研究 ひょうおり めす た李は、豹の檻へ豹の牝を追い込むように、そこを開けるが早費をもらって、世界的といわれるアメリカ一流のラジオ会社 O< の研究所へ二年も入って、無電とトーキイの録音技術を習 いかエリゼを奥の部屋へ抛り込んだ。 得して来たという結社の中の変り種であった。 『おやっ ? 』 『ーーー盟長、何か御用ですか』 の絶叫する声と、 あわ あな かんきこう 389
『エリゼが何うしたかね』 『張などに騙されて口惜しいと云っていた。羅の事は、ロにも フランスじん 官出さんがね』 『仏蘭西人のてえのは、確か、エリゼさんの前の亭主で 令『へへへへ、あれ程、羅のことを思ってるんだから、可哀そう 一口 『さあ ? 何うかね』 : だが、途中で急に、金が欲しくな だとは思いましたがね の ー此家の場所 『そいつが、羅の手元に監禁されていますぜ。 ったんで、旦那の所へ、売り込みに来たんだが、考えてみる 夜 が羅に知れたのも、其奴の口からなんで』 と、ゆうべの取引は、少し安かった』 『あんな吹けば飛ぶような男、誰に監禁されようと関わんさ。 『否 ! 』 ずる プラッグレイは、支那人のもっと狡い高級な貪慾者をいくら僕にとっても、無価値な存在に過ぎぬ』 だんな 『ですが、エリゼを旦那に奪られたのを意恨に田 5 って、旦那の も手がけている。頭からこう一喝した。 ナンキンろ パチンコや たか 『五百元、飛んでもなく高値いものだ。君はこう云ったろう弟様とかを、南京路の裏で短銃で殺ったじやございませんか。 かたき この日本の女と、羅とは恋愛しているから、この女を通じ無価値かも知れねえが、仇にゃあなりますぜ』 あれ 『あははは僕によく似ている彼男かい。あれは弟でも何でもな て、羅は何かきっと日本の軍隊にも聯絡があるに違いないと』 ど単こ、顔が似ている為に抱えておいた出張員の下ッ 『あっしは、そう睨んでいるんで』 『いくら調べても、お絹はそう云いません。断じて、無いとい端だよ。われわれ武器会社の現地出張員となると、われわれの 売品をいじる兵隊よりも、遙かに身辺の危険が多いからね。女 います』 あんさっしそうしゃ ねら 讐などで狙われるのはまだよいが、沢山なスパイと暗殺使嗾者 『それやあ、調べ方が手温いんでさ』 がおるからね』 『もっとも、まだ厳しい訊問はしていないし、今朝、一応脅し てみただけで、もっと先になったら、帰りたさに、自白するか 『外国の商売仇の会社から憎まれてですか』 『憎まれる程でなければ、実績はあがらんしな。ーー実際、戦 もしれないが』 「根気よくやってごらんなさいよ。そればかりでなく、彼奴争以上の戦争を今やっとるのは、各国の武器会社だ』 『もうあっしは、秘密結社の裏切り者ですから、羅の側 あ、羅の事なら、あっしよりも、詳しいんですから、それだけ にゃあ帰れませんや。ひとっ旦那の会社で、何かに使ってくれ だったってよほど旦那の方にゃあ、参考になるってえもんでご ませんか』 ギ、いよー ) よ、つ』 ついしようわら 『お断りする』 張は、追従笑いをして、 プラック . レイは、笑いながら、顔の前で手を振った。 『そうそう、ゆうべ云い忘れましたが、旦那の愛人のエリゼさ もう 『それよりも、君には、もっといい金儲けを教えよう』 だま や てめる どんよくしゃ はる かか かま
うつむ やといにん 羅は、黙って彼の顔を睨んだ。けれど、いつも締めているら羅は、俯向いていたが、軈て顔を上げると雇人へ命じるよう 官しい紺毛糸の腹巻はすぐ脱って撼り出した。 こ、ぞんさし。しオ み、つき 令 獄衣を着ると、待っていた看守がすぐ彼の手頸へ手錠を嵌め 『先刻脱いだおれの服に、小切手帳と印章が入っているから持 一口 って来ねえーーそして万年筆と』 そう の それを見届けると宗憲兵分隊長は、部下を連れて引揚げた。 典獄はすぐ、押収品の中から、その品を持って来た。そして 夜 たく 典獄はすぐ、 羅の前にある卓へ並べると、羅は手錠のまま、小切手の額面欄 『十七号の独房へ』 へペンを走らせて、引っ裂い と、いい渡してから、 せつゆしつ 『いや、その前に説諭室へちょっと立たせておけ』 らぶんたん と云った。 蘇州監獄の独房へ、羅文旦が入獄したのは七月の下旬で、ま シャンハイ それからちょっとの間、典獄は事務を見ていたが、五分間も だ上海は表面戦争には入っていなかったが、耳にも眼にも、彼 経っと、すぐ一室へ入って行った。 は刻々と近づいているその戦機を感じていた そこでは看守も立会わないのが常である。典獄は、獄衣の羅なぜならば、彼の手には、新聞が入った、外部の手紙も届い そしゅう に向って、まずこう云った。 また、独房の中に坐っていても蘇州を通って南下する車 『腹巻を脱る時、君は腹巻の中にあった物を、すばやく抜い 隊の喧騒だの、飛行機の爆音が、絶えず聞こえた。 ね。そして、手錠をかける時には、もう懐中へ隠していた。 夜はなおそれが明らかに聞こえるーー・どこからともなく青い あれは、何だね ? 』 月明りが映す。そんな時、羅は、一枚の写真を懐中から取出し て、眺め入っていた。 羅はその時、初めて顔いろを変えた。 『 : : : おっ母さん』 『 : ・・ : 見たんですか』 と、低声で呼んでみることすらある。すると写真の人が微笑 なお 軈て、やや色を癒して云うと、典獄は肥った体を擽られたよ して、答えるように、彼には思えるのだった。 うに、忍び笑いを洩らしこ。 『おっ母さん』 『それやあ、憲兵などには分るまいがね。永年、君等の仲間を彼は、他愛のない子供に返る。それへ、頬摺りして、うつつ 扱いつけている者にはすぐ分るさ。 : 名刺よりもう些っと大に呟いオ きな物だった。何だネ、あれは』 『あなたはもう死んだのだろうなあ。こんなに探しても、分ら 『 : ・・ : 仕方がねえ』 ないのだから』 やが ふところ てくびてじよう くすぐ やが ふと・一ろ らん