たのか』 「そっちへも知らせようと思ったが、まだここへ落着いてから 日も浅いので、つい不沙汰していてすまなかった。 それは 悪一筋の繩仲間 それと、おめえの引っ抱えている小伜は一体何者の子だ』 ほか 『これか。この仔細は、ちょっと手軽には話せぬが、他ならぬ びつくり たず 菊太郎は吃驚して、 小原檀四郎の訊ね、秘密を守ってくれるなら、打明けてもいい 『恐いっッ カ』 と大浪の果へ持って行かれるような悲鳴をあげた。 『悪党同志のくせにして、そんな断りは水臭さかろうぜ。もっ 左平太はそのロを抑えて、 とも久しく会わなかったから、そう疑うのも無理はねえが、朱 『やかましいっ』 黒子組は相変らす、仲間掟は固く守り合っているから懸念なく 斗す・がい』 云いながら小脇に引っ抱えた。そして仲間の二人へ、 『頼むぞ、後は 『そうか。 - ーー実あこの小伜は、北条貢と鶴江の仲に生した菊 と先へ駈けて行こうとした。 太郎という餓鬼だ』 二人の大男を手に、短い刃一つで苦闘していたお兼は、そ『えつ。 北条貢の子だと』 ひるが れを見ると、あっと身を翻えして、左平太の後を追おうとした 『知っているのか』 すく が、二人の者に左右から抱き竦められて、見す見す何うする術『その小伜は初めて見たが、親の貢ならおれの手に纔しめて、 もなかった。 この古屋敷の納屋蔵にたたっ込んである。親の貢はおれの手で あく と。今の菊太郎の一声が、塀の内へも聞えたものとみ 子の菊太郎はおめえの手でーーーしかも同じ場所で、同じ悪 え、五柳館の表門 , ーーと云っても柱は曲がり扉も朽ちて、形ば一筋の繩仲間の手で捕まえるとは奇妙な縁だなあ』 かりの表門だがーーーそこからぬっと出て来た人影が、出会頭に、 『檀四郎、今の言葉はまったくか』 『野郎、待てつ』 『真実かとは』 と両手を拡げて、道を塞いだ。 『北条貢を、この納屋蔵の中に、縛り付けてあると云ったろう そして直ぐ、闇を透しながら、 カ』 蜩『や 0 、おめえは左平太じゃねえか』 『嘘じゃあねえ。嘘と思うなら見せてやるから、まあ此っ方へ 繩と、云い直した。 入るがいし : 筋左平太も意外な顔して、凝と、自分の前に立ち塞がった男の『待ってくれ檀四郎、連れが居るから』 『連れが ? ・ : 』と檀四郎は裏門の方へ眼を放った。 悪影を見ていたが しゅばくろだん 『おうつ、朱黒子の檀四郎か 何日頃から江戸へ移ってい 見ると、お兼はまだそこで、死に物狂いになって、二人の侍 すか なわなかま ふさ じっ ふさ ひとすじなわ まったく おきて や 365
『もうすぐ共処に見えるだろう。古い石垣に、塀があって、柳も、独りで思い出して泣けもする : : : 笑えもする花が結ぶのだ ) 明の木がのそいて居て、それからお屋敷の屋根が見えるだろう』 菊太郎は、お兼の白い顔を仰いで、 有『あそこに居るの、お父ちゃんは』 「小母ちゃん、お父ちゃんまだ ? 』 『アアもう少しだよ』 明「ああ、あの屋敷には、恐い悪者が住んでいて、お前のお父さ なやぐら んは、納屋蔵の中に捕まっているんだよ。 4 母ち『眠たい : : : 眠たいよ、小母ちゃん』 無 ゃんが、今夜逃げるようにしておいたから、今にきっと、隙を『え、眠いって。 : こんな所で寝ちゃあ駄目。寝てしまう 。その間、そっ 見てそこを破って来るに違いない、 と、お父ちゃんに会えないよ』 じよじよ と、静かに待って居なければ下可ないよ』 ーー黒々と面を包んだ人影が三つ、徐々と、三方の樹蔭から めす 跫音を倫んでその時近づいていた。 そんな事情の分る筈はないが、菊太郎は、父とさえ聞けば、 気がついて、 おさなひとみ 『きやっッ もうその稚い眸をうるませて、おとなしく得心している。 ふところ お兼は、菊太郎を抱え寄せて、五柳館の裏門から少し離れた 突然、菊太郎が懐中へしがみついて泣き慄えたので、お兼も 物蔭にかくれていた。 はっと闇に眼を凝らした。 昼間ーーー窓から落しておいた短刀で、北条貢は、自分の繩目『誰だえっ ? 』 を断って、やがて夜の更けるのを見澄まして、納屋蔵から逃げ驚くような彼女ではなかった。 あいくち て来るに違いな、。 帯の間の匕首へ手をやって、片手で菊太郎を庇いながら屹と がたき 云、つと、 十年むかしの恋人 ! 然し今は恋仇の鶴江の良人 ! ーその人を救い出して、その人の子を抱いて、二人を光のある 『お兼。ーーその小伜を申し受けに来た。黙って置いて行け』 道へ落してやろうと、こうして闇の中に立っている自分の気持藤懸左平太の声だった。 ゃぶ ちを考えると、お兼は、われながらふと自分が可憐しくなっ『何だって ? 冗談をお云いでない。藪から棒に、人様の て、熱いものが瞼の裏から滲みて来る。 : ああ読めた、お前さん達 子を申し受けたとは何事ですえ。 ( けれど、私のような女の取る道は、わけても江戸の女の意気は、さっき小料理屋にいた三人連れのお侍だね。折角ここまで 地では、こうするより外に、思案はない ) 尾行て来たのに、お気の毒だが、この子は少しわけがある、滅 お兼は独りそう思って慰めた。 多な者の手には預けられないから、お断り申しますよ』 『ーーー渡さぬ ? 』 ( 恨みこそあれ、私などは思ってもくれなかった人に、お兼が こんながらにもない真心を尽すと云ったら、他人は気心の知れ『あたりまえさ』 とつみ、 ない女と笑うだろうが、私の心はそれで済む。 しいえ、敗れ藤懸左平太は、他の二人へ眼くばせして、自分も突嗟に前へ おど えり て泥にまみれた儘かと思った恋にも、私の胸だけには、せめて躍った。そして菊太郎の襟がみへ手をかけた。 ととせ ひと すき おもて こせがれ ふる かば きっ 36 イ
で、北条や鶴江に味方しているのか』 捕まえてくれ』 『さ : : : それが俺にも分らないのだ。第一、何処の何者だか、 : だが藤懸、まさ 『三人居れば、手ぬかりをする筈はない。 あの坊主ばかりは素性も知れない』 か人違いじゃあるまいな』 「変な奴があるものだなあ。 : : : 所で、お兼も、あいつらの味 『いや、おぬしが呶鳴り込んでいる間に、襖の隙間から見届け 方だろうか』 ている』 『お兼は、北条や鶴江には、怨みこそあれ、味方する気づかい 『じゃあ、隙見は此っ方でやったのか。あはははは、随分人が はない。あの子供は、町方や手先の眼を誤魔かす為に連れてい よくねえな』 るのだろう。ただ、それだけだと俺は思うが : : : 』 『然し、こっちの密談も、お兼に聞かれているかも知れない。 『オヤ、やきもち坂を登ってゆくそ』 五分と五分だ』 『ふーム ? 何処へ行くつもりだろうか』 『だが藤懸、あのお兼の顔を、何うして貴公は知っているの 『あの真っ暗な坂へかかればちょうどいい』 カ』 「娘頃には、水茶屋にいた女で、あいつも北条貢に血道をあ『どうだ、この辺で』 かわ げ、その頃、やはり水茶屋にいた鶴江とふたりで、一つ恋を争眼くばせ交すと、藤懸左平太を先にして、三人は暗い水底を うお うしろ ゆく魚のように、お兼の後へ迫って行った。 っていたものだ』 れんば 『そして、その鶴江に又、横恋慕をしていたのが、貴公だった のだな』 はれん 『よしてくれ、もうそんな話は』 破恋に持っ花 『でも、今になっても、鶴江は諦めきれないでいるじゃない カ』 『小母ちゃん、暗いよ、暗いよ』 。もう恋じゃあない』 『意地だ 『けれど、吾々が手伝って、折角手に入れたその鶴江も、又逃菊太郎は寂しがって、お兼の手に堅く掴まった。 お兼は、わぎと笑って、 がしてしまったというのじゃ何もならんな。いったい鶴江は、 めくら 何処へ行ったのだろう。盲目の事だから、一人で逃げられる筈『それやあ晩だもの、暗いのは当り前だよ。だけど小母さんが 花 ついているから、怖い事なんか些っともないからね』 っ 『 : : : 何処へ行くの、小母ちゃん』 持「どうも、いっかの雲水らしいのだ』 『お前の会いたがっているお父っさんの居る所へさ』 「ア。 : ・・鈴ケ森でちらと見かけた、あの禅坊主か』 「ほんと。ほんと』 破「あの雲水より他に、鶴江を攫ってゆく者はない筈だから』 『して、あの雲水と鶴江と、一体どういう間がらか。何の縁故『あれ御覧』ーーお兼は指さして、 ほか さら ふすま 363
口に立ちはだかった御家人ていの侍は、 御家人も、 明『ばかを申せ。いくら子供じゃとて、其方が覗きもせぬもの『騒がせて、気の毒だったなあ』 有を、あの様に云う筈はない』 と、勘定を払って、一足後から出て行った。するとすぐ、そ 明『まったく、この子の冗談ロでございます。どのようにもお詫の中の一人が戻って来て、 びいたします故、どうそおゆるし下さいませ』 『最前の子連れの女は、何っちへ向って行ったか』 無 めあて 『いやいや、何か目的があったのだろう。何の為に、吾々の密と、下足番の男にたずね、方角を聞き取ると、あわてて連れ 談の席を覗いたか、それを云え』 の者へ手招ぎした。 『云えと仰っしやっても、覚えのないものは』 『其っ方か』 『まだ、白々と、そのように云い張るか。しぶとい女め』 と、後の二人は寄って来て、 御家人ていの侍は、つかっかと入って来て、お兼の肩を蹴と罰急げ』 と、牛込台の方へ駈け出した。 菊太郎は、わっと泣き出して、 さっきの御家人たちが、自分を尾けて来るとは気づかず、お 『おじちゃま、堪忍してつ 兼はもうやがて四刻頃と、やきもち坂の朱黒子屋敷へ向って歩 すが と、お兼に縋りつくのを、御家人は又、 いていた。その影を、遠く見つけて、 やか 『喧一ましい』 「や、追いついたーー・あれだ、あれへ行くのがさっきの女と子 菊太郎の横顔をも平手でりつけた 供だ』 はた 菊太郎はいよいよ大声をあげて泣く。 お兼は、あまりの 三名は、気づかれないように、道の端を歩みながら囁いてい ) 0 乱暴に憤っと、持ちまえの勝気がこみ上げて来たが、 ( いや、今夜の事もある。ここで御家人などを相手に事を荒だ 二人は、着流しだったが、一人は役付の侍とみえ、きちりと はかま てては ) 袴を着けていた。 じっ ふじかけ と、凝と怺えて、為すがままになっていた それが藤懸左平太だった。 帳場にいた亭主は、何事かと驚いて、ここへ顔を出し、お内左平太は、御家人の連れの者へ、 そろ 儀や雇人まで、首を揃えて謝まりに来てくれた。 『覆面しろ。・ : ・ : 人に出会うとまずい』 とりな その取做しで、やっと御家人の男は、自分の座敷へ引っこん と云った。 だが、お兼は口惜しさに、青ざめた顔して、 各 4 、袂から黒い布を取り出して、顔をつつんだ ( この子さえ連れていなければ ) 「たしかに、彼女は、この夏頃、牢を破って逃げたお兼にちが と、唇を噛みながら、菊太郎を連れて外へ出て行った。 お兼とすれば、連れている子供は、その折、同じ 、つ士ノ、 と、その後で、何か急用でも思い出したように、三人連れの牢内にいた北条貢の伜。 : : : 何っ方も逃がさぬように、 - 一ら よっ めの * 、み、や 362
じゅそ やその妻の鶴江を呪咀する気にはなれなかった。 そればかりか、お兼はかえって、其後の鶴江や貢に強い同情 ( 鶴江 : : : 。鶴江が : : : ) という言葉が交じる。 を持った。味方になってやろうという気持さえ起したのであ 「おや・・ : : おかしいねえ』 る。 あいくち お兼は、そっと体をずらして、襖の隙間へ眼を寄せた。 でーーー今日、その貢に、心をこめたヒ首の贈り物をして、あ しき はしねぶ ロ取のきんとんへ気をとられて、頻りに箸を嘗っていた菊太 の朱黒子屋敷の牢獄を破って逃げるように、それとなく暗示を 残して来たのであるが、もし、貢が逃げれば、その疑いは当郎は、 『おばちゃん、お隣りの部屋に何があんの ! 坊やにも見せ 然、自分へかかって来る。 おきて て』 恐しい悪党仲間の掟 ! と、いきなり大声で云った。 頭領の小原檀四郎は、すぐ手下の浪人にいいつけて、 や お兼は冷やとして、 ( お兼を殺ってしまえ ) しつ と煎餅屋の二階へ襲って来ることも知れている。 眼で叱りながら、あわてて襖を離れたが、腋の下から思わず お兼は、その先手を打って、あの二階を捨てて来たのであ る。そして今夜、朱黒子屋敷から逃げる筈の北条貢を外で待っ冷たいものが流れていた。 ていて、菊太郎を彼の手に渡してやろう。そして自分も、どこ途端に、隣りの部屋から誰か歩いて来る跫音だった。 くら と、廊下の外にその人影は立って、 かへ姿を晦ましてしまおう。 よっ 『他人の部屋を、隙見したのは何者だ』 『だがまだ、四刻にはだいぶ間があるし ? はしだもと がらりと、一人の侍が、お兼の居る部屋の障子を、荒つばく お兼は、菊太郎の手をひいて、橋袂の小料理屋の灯に佇んだ。 のぞ ちょっと、中を覗いて、 『お座敷は空いていますか』 『いらっしゃいまし。ええ、奥の小座敷がちょうど空いており うお ます』 闇の魚 『じゃあ、ちょっと休ませていただきましようか』 魚『さあどうぞ・・ : : 』 もの 『相すみませぬ。べつに、隙見をしたわけではございません 菊太郎には甘い口取をとってやり、自分はあっさりした肴に かん の が、ただ、子供が何か勘ちがいをしたとみえ、あんな冗談を申 一本酌けてもらって、静かに杯を唇へ運んでいた。 ふすまどな 闇するとその襖隣りで、密やかに飲んでいる三人連れの侍があしまして』 聞くともなく、話しに耳をすましていると、幾度平謝まりに、お兼が手をついて詫び入ると、開けた障子の入 っ・ ) 0 ひそ あかりたたず と すきみ すきま わき 3
『えつ、ほんと』 『子供と云ったって、親類の預かり者だけど、側へ置いておく そして、お父さんに会 『だけど、誰にも黙ってるんだよ。 明と、可愛くなるもんだねえ』 いに行くんだから、今日中に、ここを引っ越してしまうのさ』 有『おめえもやつばり女かなあ ? 』 『越すの、ここの二階を』 『ばかにおしでないよ』 明 御家人町の四ッ辻で、お兼はその男と別れた。彼女がこの夏菊太郎は、住み馴れた二階を、きよろりと見廻した。 無 せん・、いや すまい お兼の着更えが壁に懸かっているほか、道具らしい物は、何 頃から借りている仮の住居は、そこからすぐ横丁の煎餅屋の二 もない二階だった。 階であった。 うなどんぶり 夕方、鰻丼を取って、階下の家族たちへも振舞った上、お 柿の枝をさげて、彼女が戻って来た姿を見つけると、そこの 二階の窓から、 兼は、永らく世話になったが、都合で親戚の家へ移るからと云 って、煎餅屋の家を出た。 『おばちゃん ! 帰って来たの。その柿、何処で買って来た 『おばちゃん、ほんとにお父さんの家へ行くのかい』 の』 ひ 手を曳かれて、町を歩きながら、菊太郎は何度もそれを訊く と菊太郎がもう首を出して、歓呼していた。 のだった。 『ああ、だけど、今夜はお父さんは、よそのお屋敷へ行ってる から、外で待って居て、そして一緒に何処かへ行くとしよう 襖隣り ね』 『うれしいなあ』 まっ こおど 菊太郎は、雀躍りして、彼女の袂に纒わった。 『甘いよ、この柿。おばちゃんも喰べない』 菊太郎は、柿の実を描り取って、ポリポリ噛りながら、お兼子供を連れ歩いている事は、兇状持のお兼に取って目明かし くら そうじゅっ の眼を晦ます一つの偽装術にもなっていた。 に甘えていた けれどお兼は、今となっては、真実、菊太郎が可愛ゆくて堪 『ゅうべは坊や、一人ばッちで、淋しかったろうね』 いじら らなかった。 この可愛いい可憐しい子の口から、その親の 『ううん。階下のおばちゃんと寝たの』 名を聞いた時、彼女は余りにも皮肉な宿命に驚いて、 『それはよかったね』 かどで がたき えんにち 『階下のおばちゃんに、縁日へ連れて行ってもらったよ。そし ( さては、自分にとっては、生涯の門出に敗れた恋仇の子であ ったか ) たら、お父さんに似た人が通った』 と、一度は慄然として、突き放そうかと思った程であった 『坊やのお父さんにも、今に直きに会わせてあげるからね』 が、菊太郎の無邪気さが、薄々その無邪気な口から聞き得た事 『何日 ? ・何日 ? ・』 情を知ってみると、もう遠い過去の怨みを根に持って、北条貢 『今夜』 した っ ふすま した かじ した うち たま 360
『北条さん。 ( さては ! ) と、貢はいよいよ急き込んで 初恋に破れた女の贈り物ですよ』 『その折、同じ牢内にいた、 『えつ、これを ? 』 菊太郎という幼い子供を、そちが 破牢の時、共に連れて逃げたと聞いたが、それも事実か』 『後で知れたら、わたしの仕業と、朱黒子の檀四郎から生命を ねら 『え、その通りです』 狙われるのも分っているが、生命をこめた贈り物。それで、繩 『然らば、その菊太郎は、今どこにいるか、それを知っている目を断ち切って、あなたはここをお逃げなさいませ』 であろうが』 『お兼っ : : : そ、それは、本心で云ってくれるのか』 てもと きれ 『知っている所じゃありません。現在、わたしの手許に置い 『悪党のわたしにでも、まだ、十六、七の娘頃の純な気持 て、あれからずっと、面倒を見てるんですから』 どこかに少しゃあ残っているんでしようねえ。・ : : 菊太郎 『そ、その菊太郎は、何を隠そう、この貢の子だ、会いたし さんはわたしが確かに預かって置きますよ』 うら かたじ つ、ああ一目でも。 『癶い・け .. な、 ・ : それでは以前の事も、怨みとも思わすに』 みもだ 貢は抑えきれぬ愛情に身悶えしながら、彼女へ向って、満腔『叱っ : : : 誰か来たらしい。北条さん、逃げ出すのは、晩がよ の親心を訴え、何か頼みのロを切ろうとしたが、はっと気が着うござんすよ。四ッ刻頃、四ッ刻頃に』 お兼はあわてて、柿の実へ眼を反らして、そこの一枝を、ミ リッと折り取った。 ( いや、待て ! ) と絶望的に眼を閉じた。 檀四郎の手下の浪人者が、母屋から出て来て、裏門の方へ通 って行きながら声をかけた。 お兼は、自分の恩人としている旧主の佐渡幸を殺した強盗の くちぶり 『お兼、まだ柿を取っているのか』 下手人が、この貢であると信じているような口吻だったではな 『だって、甘そうな所を、見つけようと思ってさ』 それのみではない。 『だから、まだ早いと云ったのに』 初恋に破れて、持ち崩した身の果てを、さっきから怨みをこ『有ったよ、紅く熟れているところが』 めて長々と語っていたではないか。 折った一枝を口に咥えながら、お兼は梯子から降りて来た。 しかも菊太郎は、お兼にとっては恋仇の鶴江と自分との間に その梯子を元の場所へ戻すと、お兼は裏門から出て行く浪人 者の後を追って、 生した子という事も知っているのだ。 『早い足だね、少しお待ちな』 物 ( 頼んでみるだけ無駄な事 ! ) 『帰るのか』 貢は、観念して、もう上の窓へ眸を上げなかった。 うち すると、その膝の先へ、窓からばうんと、何か落ちて来『ああさ。家で、可愛いい坊やが、待っているから』 あいくち おど はず 贈た。眼を開いて見ると、一本の匕首だ 0 た。床へ躍 0 た弾み「おめえを待 0 ている子供があるなんて、おかしく「て、真と彅 しらみ、や にできねえ』 に、白鞘は二つに割れて、中身の白い切っ先が出ていた。 がたき まんこう しわ いのち ほん
のは、まるで前とは違ったような女になり、ト / 娘のくせに酒もあなたの煙管が証拠になり、北条貢の所為だとなって、忽ちあ あらし むれ 明のめば、男の群にも大胆になり、水茶屋から茶屋女へと住み替なたの家へ討手がかかり、あなたと鶴江さんは、暴風雨の中を しみじみ 有えてゆくうちに、沁々と、親のように意見をしてくれる人があ逃げのびて、それきり江戸表から姿をかくしてしまいました。 たな と後で噂を聞いた時、わたしは何だか、初恋に破れた胸の 明って、そのお方の店へ引き取られ、鶴江さんが嬰児を生んだ頃 には、わたしも少し身を持ち直して、堅気なお店の小間使にな傷みが癒えたように、せいせいして、いい気味だと思っていた 無 ものです』 っていたのです』 : だけど、人を呪わばという通り、それから先の私も又、 貢は、うつつに聞いていた お兼の話を聞くにつけ、彼もその頃の懐しい生活を、瞼に思不幸になってしまいましたのさ。親のように見てくれた御主人 きじ つぶ い泛かべているのであろう。 眼を閉じた儘、手足のきかなの家は潰れ、茶屋女の群れへ戻ると、又元の生地が出て、前よ じっ むしろ い五体を、莚のうえに横たえて、凝と、耳だけを澄ましているりは身を持ち崩し、そのうち朱黒子組の悪党などと親しくなっ のであった。 て、いつの間にか泥沼にひき込まれ、今じゃあ女のくせに立派 すり 『 : : : ところが、北条さん、わたしを意見して、折角、堅気なな悪党の一人になって、女掏摸のお兼といえば、お上からも極 娘に引き戻してくれた親切な旦那を、いったい誰だと思います印をいただいている兇状持です。変れば変るものじゃありませ びつくり か。聞いたらあなたも吃驚するに違いない。そのお店の旦那とんか』 そう聞くと、貢は突然、 い一つのは、日本橋本石町の両替屋で佐渡屋幸助というお人で 『げツ、な、なんと申す。ーー女掏摸のお兼はそちの事だとい 、フ・カ』 『えつ。佐渡幸 ? 』 ぼっぜんむしろ 利かない体を、その驚きに弾ませて、勃然と莚の上に坐り直 『或晩ーーー強盗が押込んで、斬り殺されてしまいました。あの し、高窓の白い顔を、睨むように見上げた。 佐渡幸がわたしの恩人なんですよ』 お兼は、相変らず静かな低声を持ちつづけて、 『奇縁だな : : : あの両替屋におまえが住み込んでいたとは』 『そうですよ。ーー・初恋にやぶれた末がこうなったんです。少 『あなたも今日まで、それとは夢にも知らなかったでしよう。 きせる たが北条さん、その佐渡幸の死骸のそばに落ちていた煙管しは、可哀そうだと思ってくれますか』 『で、では何かーーー』 は確かにあなたの持物でしたツけね』 もっ と貢は、早口調になって、舌も縺れがちに、 『 : : : ウウム、それ迄、知っていたか』 『知らなくって何うしましよう。大事な恩人の御主人様があの『先頃、伝馬牢を破って逃げた女掏摸というのは、そちではな しカ』 無残な殺され方。 : : : 今だってその恨みは、骨身に沁みて忘れ 『ええ、あんな事は、朝飯前にやるんですよ』 十 / . し 所でだんだん噂を聞けば、その晩の下手人は、 のろ
お兼どのか』 なくッちゃあ』 『鶴江さんもあなたが好きだった。わたしもあなたが好きだっ 云い捨てて、立ち去ってしまった。 た。おたがいに、 一人のあなたを初恋の胸に持って、それとな 『じゃあ勝手に貰って行くよ』 く、何っちの恋が実を結ぶかと争っていたものだったが : : : そ お兼はその人達の背へそう云って、柿の樹へ、梯子を立て懸 上そめ のうちに、とうとう貴方は、鶴江さんとああなって、他眼にも うらや とりな 梯子の中途まで登ると、彼女は柿の枝へ手をかけながら、納羨ましい家庭を持ち、組頭の小梨半兵衛様のお取做しで、江 戸城へのお役付きをかない、可愛い嬰児まで生して、ほんと 屋蔵の窓をそこから覗きこんだ。 にお夫婦とも、 しい日の下に暮していらっしゃいましたツけ 荒壁で囲まれている納屋蔵の高い窓が、ちょうど、柿の枝と のぞ 枝の間から覗けるのであった。 『おお、どうして、お兼どのが今こんな所へ』 『 : ・・・・貢さん北条さん』 鋭い眼を、時折、母屋の方へ配りながら、お兼は声を忍ばせ『まあ聞いて下さい ちょうど母屋の檀四郎も浪人たち も、疲れて寝ているらしいから、ゆっくり話していても大丈夫 てそこから云った。 です』 『北条さん : : : ここですよ : : : 窓、窓、ここの窓』 然しお兼は、そう云いながらも、柿の葉越しに、絶えす たった今、その納屋蔵の中へ抛り込まれ、手脚を縛られた むしろ ひとみ 儘、莚のうえに仆れていた北条貢は、はっと、眸を上げて、薄梯子の上から邸の内を見廻して、そして又、窓へ白い顔を寄せ じっ 明るい光の洩れる高い窓口に、柿の葉の動いている影を凝と見 つめた。 その柿の葉の間から、お兼の白い顔が、チラと見えた。 : た、たれだ ? 』 贈り物 『わたしですよ、と云った所で、あなたはもう忘れているに違 いない。今からもう八、九年も前ですものね』 かんどう : ではまだわしが勘当の身で、自堕落納屋蔵の廂には、のどかに猫が眠っていた。柿の実を懈な 『八、九年も前に ? とり 、樹へ下りて来た禽は、その梢にいる人影に気着くと、すぐ に日を送っていたその頃の ? 』 かえ ばっと翼を翻して逃げて行く 物『お兼と云う女を思い出しませんか』 そうした間に、秋の昼は、からんと陽が高くなって来た。 『 : : : 貢さん、初恋に破れた女というもの程、可哀そうなもの 『水茶屋の鶴江さんと一緒に、水茶屋のお兼と云われて、その はありませんね。恋伽の鶴江さんが、よい御新造様にな「て、 贈頃はまだ可愛らしい小娘だったもんですよ』 『 : : : えつ。ではあの、鶴江と共に水茶屋で働いていた、あの仲よく暮していると聞くにつけ、それから先のわたしというも じだらく ふたり ひさし
『おいお兼、すぐ後を閉めて置くのだから出ていねえ。 そこの前まで貢の体を担いで来ると、 あ、これで一役済んだ』 明『 : ・・ : おや、何だいそれは ? 』 む・一う 外から鉄の錠前を固くおろして、浪人たちは井戸端へ寄り、 有と、彼方から声をかけた女があった。 からからと井一尸車を朝空に鳴らして、手足の泥を洗い始めた。 明ここにも巨きな一株の柳があって、その側にある釣瓶井戸に 、、よ ; ら、ふっさりとある黒髪を撫でつけ 何か気がかりのように、お兼はまだ、そこらを歩いていた 寄って、水櫛をつ力しオカ 無 ま、少し赤らみかけて来ている柿の木の稍を仰いで、 ていた若い女だった。 『ねえみんな、この柿甘い ? 渋い ? 』 顔を洗いに出た所と見えて、手拭を井戸ぶちに懸け、寝起き と振顧っていきなり訊き出した。 のればったい眼をしていた。 浪人たちは足を止めて、 : ゅうべは泊っていたのか』 『おう、お兼か 『こんな屋敷に泊りたくもないが、あれからちっとも目が出な 柿と初恋 くて、とうとうきれいに奪られてしまい、帰りの駕賃もありや てまくら ほか あしない。しかたがないから他の部屋で寒い手枕さ : わる 行き過ぎようとした浪人達は、お兼の問いに振り向いて、 ばど凶い晩だったとみえる』 『そうか。駕賃ぐらいは、先生からもらってやるから、まあ遊『ーー・え、その柿か。それやあ甘柿だが、まだちっと早いぜ。 ひとしもお 一霜降りなくっちゃあ、ほんとに甘くはならない』 んでゆくさ』 と云った。 『それよ、 : 、 。ししカ : : : その荷物みたいなものは、いったい何だえ』 お兼は、梢を仰ぎながら、 「人間さ。見れやあ分るだろう』 『かあいそうにどうしてそんな目に遭わせたのさ。何か賭場「あの辺の実は、だいぶ赤く熟れているが、一枝折ってくれな しカ』 でも荒したというのかえ』 『そんな生やさしい人間じゃねえ。これから毎日、指を一本ず『子供みたいに、つまらねえ物を欲しがるなあ』 『その子供が、この頃、親類から預けられて、家に留守番して っ切って、十日後にはあの世へ渡してしまう奴だ』 いるのさ。とても可愛いい子で、わたしが外へ出かけると、 『じゃあ仲間の裏切り者かえ。 : : : 見た事もない人じゃない みやげ つでもお土産を持って帰るものと極めて待っているもんだから カ』 ・ : その子の土産にしてやりたいのだよ』 話しながら髪へやっていた白い手が、いつの間にか粋な櫛巻 に束ねていた。それが済むとお兼は、手拭をさげて、浪人たち『そんなに欲しけれやあ、いくらでも持って行くがいしが、そ が担ぎ込んで入って行った納屋蔵へ、自分も後に尾いて入ってこに梯子があるから、自分で折ったらいいだろう。ーーー何しろ 俺たちは昨夜から寝すにいるんで、これから悠つくり一寝入し 行った。 かっ つるべ くしまき ゅうべ あ 356