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検索対象: 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明
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1. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

無明有明 「わ、わかった : ・ : 』と、北条貢は、今は何もかも忘れて、左 せてやろう。 そう思えばこそ参ったのに、この左平太を恨 平太の側へ摺り寄って行った。 むなどとは : : : ああやはり貴様も友の心を知らぬ奴だ』 そして、自ら両手を廻して、 『左平太、どうか、縛ってくれ・ : ・ : 』 じゅっ と、うな垂れた。 詐術の繩 たの 彼が、世に恃むものはこれ一つと、手から離さなかった血刀 もそこへガラリと捨てて 涙も ( しめた ! ) 貢の頬に、白いものがふた筋、ばろばろと流れた。 もろ 肚のうちでは思ったが、左平太は、そんな顔色は曖にも見せ つつ、、冂こ日り、 彼よ、殊に此頃、情ある人の言葉には気が脆く さん ない。むしろ、慘として心を打たれたかのように、しおらしい なっていた 『左平太。ーーー今云ったことは、それはまったく、おぬしの本様子を作って、 『北条。・・ : : 覚悟をしたのか』 心か。心の底からい、つ一一一口葉か』 えんざい 『、つ亠む。 : 元々、身に覚えのない寃罪からこうなったのだ 『何で、偽りがあろう。おん身の為に、今日まで、左平太がう のが 、幕府の人間を幾多となく斬っただけでも、死は遁れぬとこ けたあらぬ噂や・ーー心の苦しみはどんなだったか。拙者こそ、 それを貴様が、 ろ。ただ、、いにかかるのは、あの妻と子。 恨めば尽きないほどあるそ』 助けてくれると聞いた故に』 『 : : : おう。では屹度、鶴江や菊太郎の行末を、そちが見てく 『おれも縛りたくはない。旧友を繩目にかけるこの俺も断腸の れるというか。妻子を助けてくれるか』 思いがするー 『だが : : : それには条件があるそ』 おもてそ と、左平太は巧みに、うるみ声を作って、面を反向けながら、 『条件とは』 『然し、それ迄に、おん身が覚悟するならば、鶴江の為、菊太 『この左平太が貴様を召捕ることだ』 郎の為と思ってーー・ー』 『おお、召捕ってくれ。 縛ってくれ、それさえ保証してく 『それ、その通り、すぐ身構えるではないか。自分の身を助か り、妻子も助かろうなどとしても、それは今日となっては、出れるなら、おれは欣んで、磔刑の柱に上ろう』 『ゆるしてくれ』 来ない事だ。それ位なことが分らんか』 と、左平太は捕繩を解くが早いか、素迅く貢の体を厳重な繩 てがら 『拙者が貴公を縛るというのは、その手功に代えて、幕府に向目にかけてしまった。 この左その繩尻を、自分の腕くびに、ぎりぎりと巻いて、 、そちの妻子の御助命を願い出るつもりなのだ。 ( もうよし ! ) と、心のうちではっと安心した途端から、彼の 平太に何の手功もなくて、その願いが出来るか何うか』 きっと なわ はりつけ おくび 430

2. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

大びらには歩けない体ですから』 明といって、直ぐに又、早口に云いつづけた。 有『石禅というお坊さんは一体、どこにいるんですか』 : あれも雲のように、居る所の定まらない人間だ』 明「さあ ? 今戸の辺り 「して、あなたと、石禅さんの間は、どういう御縁故なのですか』 無 『それも皆目、こっちには田 5 い当りがない』 ふなやよこちょう 『けれど、何か、御縁がなければ』 千住の鮒屋横丁の長屋へもどって来たお兼は、自分の家へ入 となり ゆかり 『どういうわけか、その縁も由縁もないあの人が、北陸の旅先るより先に、隣家をのそいて、 『お隣りのおかみさん : から、この江一尸表に来てまで、常に蔭になって鶴江や菊太郎の 。お兼ですよ。今帰って来ました』 いくたび 身を、幾度となく救ってくれた。 と、言葉をかけた。 : 唯不思議な人という他は べっこう ナ . し』 鼈甲職人の庄七だけが、細工場で仕事をしていた。 『でもまったく縁のない人では、そんな力になってくれる筈は彼女の声を聞くと、あわてて出て来て、 ありません。あなたはその石禅という人に、訊ねた事があるの 『ああお兼さんか : : : 何うしたかと、、い配していたところだっ ですか』 た。ひどく疲れている様子じゃないか』 たちま 『いや、いつも、風のように、見たかと思えば忽ち隠れ、親し 『なあに、ゆうべ少し歩き廻って、寝なかったからですよ。 く会って話したことなどはない』 それよりも、留守のうち、鶴江さんの身には何も変りはなかっ 『ではその事も、探しあてたらよく訊いてみましよう。そし たろうね』 『大丈夫』 て、成ろうことならば、鶴江さんと一緒にここへ連れて来ます』 「おお、待っているそ。』 と、庄七は大きく頷いて、 さら 『あなたもどうぞ坊やの身を、一日も早くここへ』 「坊やを攫われて懲りたから、女房と相談して、ここよりも確 『云う迄もない : ああ夜が白みかけて来た。お兼、人目に かなところへお連れしておいたよ』 カからぬ , っちに』 『え。・・ : ・・何処へ ? 』 小鳥の声が聞え初めた。仄明るくなった暁け空を仰いで、ふ『少し離れてはいるが、女房の里が市川在なので、今朝はや とお兼が貢の居た位置を見ると、もうそこには彼の姿は無かっ く、人目にかからないうちにと思って、女房が駕へのせて市川 た。厨子の扉はかたく閉まって、塔は深い古色の胎内に、そのの田舎へ預けにいったのさ』 人を隠して沈黙を守っていた お兼は隣家の夫婦の親切に感謝して、何度となく礼を云った。 暗黒の塔の胎内。ーーお兼はそこの永遠の闇を想像して、 庄七は手を振って、 又、北条貢の永遠の恨みを思い遣って、そっと、袖口を目に当『とんでもない、おまえさんから礼を云われるどころか、此っ てながら立ち去った。 うち

3. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

無明有明 るであろうにと察しると、悪いような気がして、その勇気もた めらわれた。 でも、それから半刻かそこらのわずかの間が、鶴江には、千 ぐるま 秋の思いがして、凝と、待っているに堪えられなかった。 ン : っレ」 - っ 遂々、思い切って、 『お兼さん、お兼さん : : : 』 ( おばちゃん ! 猫が来たよ ) と、夜具を引いて、呼び起した。 ( 坊や、追ッておくれ。その猫め、又縁側を泥だらけにした お兼はすぐ眼をさました。そして、 『おや、寝坊した』 ( 叱ツ、叱ツ。あっちへ行けっ ) びつくり と吃驚したように飛び起きて、流し元へゆき、顔を洗って身 ( あはははは。猫め、坊やだと思やがって、馬鹿にして動かね 仕舞をすると、やがて、裏表の雨戸を開けた。 えや ) それから掃除、朝餉のしかけ。 ( おばちゃん、出て行かないよ。箒で打ってやろうか ) ぜんごしら 朝になると壁越しに、手に取るような隣家の話し声が聞え膳拵えをしておいてから、 『鶴江さん、さだめしお前さんの身になると、一時もはやく、 : ・今、連れて来てあげるから待って 坊やに会いたかろうね。 ばっと、蒲団の中から身を起しかけた。 鶴江は、が おいで』 ( アッ : : : 菊太郎の声 ! ) そう云って台所から出て行った。 壁がなければ飛びついても行きたかっ 懐し、亦し癶、。 となり うち ひと 隣家の夫婦は、鼈甲職人で、いつも夫婦して自家で仕事をし た。他人の家でなければ、名を叫んで、 てした ( お母あさんですよっ。お母あさんはここに来ていますよ ! ) どうも昨晩は、坊やがお厄介になりまし 『御免ください 一時も早く告げてやりたい。 だが、彼女の周りはまだ暗かった。ゅうべの疲れで、お兼はて』 朝の早い職人の家は、もう台所も片づいていた まだ深々と寝息をかいて眠っていた 『あ、お兼さんですか。まあお上りなさいましよ』 もう雨戸の外には高い陽が映している。早く起きてくれれば よし と鶴江は待ち遠しく思うのであったが、お兼は容易『あの、坊やに会いたがっている人が、ゆうべから泊 0 て待 0 ているものですから : : : 。何処に居りましようか』 に眼をさましてくれそうもない うちのひと 『おや、お客様かえ。 : : : 坊やは今、良人が肩車に乗せて、表 ( 揺り起してーー ) の方へ出て行きましたよ。あの子はほんとにお馬が好きでね、 とも思わぬではなかったが、眠りに就いたのは明け方だし、 せが 良人をつかまえては、肩車に乗せろって強請んだり、背中に股 自分の為に、浅草からここまで夜道を歩いて、定めし疲れてい る。 肩 ふとん ほら′を - か となり あ、一 ・ヘっこう た 388

4. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

と、多寡をくくっていた九馬之丞も、心の裡で、はツと、石そのうちに。 どたっー と大きな地響きがした。 明禅の本体を考え直した。 二つの肉体が、一つの物のように、樹の根に仆れ、その儘、 有 ( 一体、この僧は何者だろう ? ) 明北国路の遙かな旅先からこの江一尸表まで、絶えず影となり形ごろごろっと七、八段の石段を転がって行った。 となって、自分たちの復讐を邪げている唯一の邪魔者はこの雲石禅が上になっていた - 一ろも かくま 無 水だった。ああして盲目の鶴江を匿い、時には敢然と、北条貢あなやーーと思う間に、石禅の手には、法衣の下に秘めてい かば を庇い、又或る時は菊太郎の手を曳いて、わが子のように危難た短剣が抜かれていた。 ーーずぶッと ! 権堂九馬之丞の襟元を一突きに ! と共の を避けさせたりして、あの親子三人を、陰に陽に、助けて来た 手が走る のもこの石禅だった。 九馬之丞も必死だった。 何者であるにせよ、何か、北条貢とよほど縁故の深い人間に ( ここで、名も知れぬ怪雲水の手にかかって何うしようぞ ! は違いない。 自分が敵の片割れの為めに返り討ちとなって、誰が父権堂弥十 ( 彼奴の肉親の者だろうか ? ) だが貢にーーー骨肉をわけた身寄があるという事は嘗って聞い郎の無念を晴らす者が何処にあろうそ ! ) た事もない。鶴江の方には、性の善くない養父があったが、そ満身の一念は、突嗟に、石禅を刎ね返していた。 身を起すより早く、右手は刀の柄へかかって、 れとは疾くに縁も切れているし、又、こんな硬骨な人物とはま 『売僧めッ ! 』 るで違う。 びゆっと、横へ薙ぐと、 『、つぬっ ! 』 「おのれつ ! 』 あと こぶ 互の肉体は、組み合ったまま、瘤のように膨れあがった。血石禅はもう刀の先から四尺も後へ身を避けて、短剣を持ち直 気壮んな九馬之丞も、石禅の締めつけている手は何うしても解していた。 うしろ とーーー不意に、その石禅の後から這い寄って来た者が、 く事ができなかった。否、解く事ができないばかりでなく、と おやゅび もすれば、その怖しいカのこもった拇指が、喉笛へ喰い入っ『御用っ』 ききうでなぐ と一喝しながら、十手を持って、彼の利腕を撲った。 て、その儘、縊め殺されてしまいそうに、気が遠くなって行く。 よろ 『ーーあっ ! 』と、石禅が前へ泳ぐように蹌めいたせつな、怒 りに燃えきっていた九馬之丞の刀は、 いきがみ ( 得たり ! ) 生髪・死髪 と、その機を狙って振り落し、石禅の肩先を斬り浴せた。 鈍い血の音が、闇の中にばっと血しおの霧をあげた。十手を きやっ たか しにがみ 、、また ふく のど たお あび 382

5. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『御免なすって下さい』 『成程、眼医者の方までは、雷助も気がっきませんでした』 たなうけにん 『タ方の六刻半に、その潜庵の家へ、石禅自身が、鶴江の貝薬亥之吉というのは、彼がここへ . 借家した時の店受人で、又、 を取りに行く事になっておるから、その折を計って、そちは潜彼の意中をうけて手足のように市中を歩いている手先商売の所 ゆる 庵の家を張り込み、わしは小梅村の方へ行き、ふた手に分れて謂ーー目明しなのである。 一一人を召捕ってしまおうと思うが何うであろう』 『ちょっと、急にお知らせしてえ事が起ったものですから』 雷助は異議なく一致した。 裏木戸を開けて、亥之は縁先へ腰をかけた。 然し、夕刻にはまだ間があった。雷助はこの閑宅に住んで、 『・ : : 何だ 2 : : : 手懸りか ? 』 昼間こそ暇な顔しているが、夜毎夜毎、宵になると蝙蝠のよう 『元より旦那に聞かせたい事といえば、あの方の事よりござい に出て行って、北条貢の行方を探しているのだった。帰るのは ません。ーー実あ、友達の仙八が、先頃、牢脱けをしたお兼の いつも明け方で、空しく手懸りもなく帰って来る顔つきは、人足を洗って居るんですが。その仙八から聞くと、何でもお兼と こそ知らね、惨たる疲れを湛えているのだった。 北条貢とは、ずっと以前、やはり知合いの仲だったという事で ございますが、御存知ですか』 『 : : : ウム、そういう関係もあるかも知れぬ。北条貢も、元は すり 朱黒子の一人だし、掬摸のお兼も、あの組の仲間だからな』 役人斬り 『此頃じゃ何でも、貢の子の菊太郎を、そのお兼が連れている かくま とか匿っているとかいう事ですぜ』 そう考『はてな ? 何もない時には、努めて身を休めておくに限る ・ : すると、北条貢もお兼に匿われているのじゃ えて、 十 / . し、刀』 『六刻頃まで、一寝入りしておこうか』 しいや、貢は、そうでもねえようです。なぜならば、この頃 ちなまぐさ 九馬之丞は別間を借り、手枕のまま、横になった。 急に殖えた血腥い役人斬りは、北条貢に違いないと、奉行所で 雷助も寝ころぶ事にしこ。 もその噂で、震えあがっているのを見ても』 然し、一度昼寝しかけて起きたので、もう寝られなかった。 『亥之。ーーその役人斬りとは何だ』 くりひろ 有合う書物など取って、寝転んだまま繰展げていると、 『まだ、お聞きになりませんか。きのうも、今朝も、お濠端で さカ り『旦那、お在でですか』 書院組の者が二人。おとといは、やはりお城から退って来た途 斬誰やら門ロで低声に訪れる。 中を狙われて、城内の御番衆が三人、無惨に斬り捨てられてい たんです』 人 のきち 『ふーむーーそれやあ初耳だ。役人ばかりが狙われるというわ 役『亥之吉でございます』 「やあ、亥之か。 あがれ、心待ちにして居ったのだ』 たた 375

6. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

鶴江は、恟として、部屋の外へ這い出した。 (- ーーもしゃ ? ) 見ると わなわなと急に体は顫え出すし、動悸は高く鳴って、脚も立眼こそ見えないが、鶴江は、一心であった。先へ行ったわが てない心地がする。 子に追いっき、そして、愀掣に鞭打 0 て行 0 た北条貢の行方を 良人の貢を、詮議している者らしい。そうとすれば、見つか探そうとするものらしい。片手に破れ三味線をかかえ、片手で っては大変と思う。 真昼の闇をさぐりながら、よろよろと、風に打たれて行く蝶の すく 鶴江は、そっと、廊下の壁際に竦んでいた。 が、九馬之ように、気ばかり急いて歩いて行く ただ 丞と雷助が番頭へ糺していることばを、終りまで凝と聞いてい 『鶴江さん、おうい、お待ち、鶴江さあん』 られなかった。 月船がよぶと、 ( ーーあれが、良人であったか ! ) 『あっ : : : あなたは』 たそが ちが すく 黄昏れの宿場の辻で、風のように摺れ交った駒の音を、彼女鶴江は脚を竦めて、同時に、袂を顔に押し当ててすすり泣い は今、暴風雨のように立ち騒ぐ胸の裡に呼びかえして、 ( 貢様であったか。。ー・・・・知らなかった ! 知らなかったー 『どうそ、見のがして下さいませ、いろいろお世話になりなが ら、お礼も云わず、盗人のように、黙って旅宿を抜けて来まし ゆる と、身悶えして、残念がった。 たか、これには、深い理のある事、どうそ、免してくださいま いや、知らないで過ごした残念さは、そればかりではない せ』 たった今ー・・ー・朝立つ前に、自分の側へ来て遊んでいたあの子供『何の、わしはお前を、捕まえに来たわけじゃない』 は、わが子であったのだ、菊太郎であったのだ。 『でも、旅籠の代も』 鶴江は、われを忘れて、わっとそこへ泣き伏した。泣いた顔『そんな心配はせぬ力ししオオ ; 、、。こど何気なくお前さんの後ろ姿を のまま、自分の部屋へ這い戻ると、すぐ帯を締め直して、笠と見て、これは何か起ったのじゃないかーーそれに眼は不自由だ 三味線を手に、裏口から抜け出した。 しーー・挙動もせかせかしているし と、案じられて追って来 『おや ? 何処へ』 たのだ』 と、その様子を眺めて、月船は絵筆を下へ措いた 『すみません : : ・・実は、何をおかくし申しましよう、ゆうべ 闇『凡事ではないぞ。 それに、何か仔細のありそうなあの瞽から泊っていた雲水の連れている子は、わたくしの生んだ菊太 の女』 郎という実の子でござります』 昼すぐ旅宿の者へ告げようと思ったが、裏口から抜け出してゆ『えっ : : : あの子が』 真くところを見れば、何か、知れてはぐあいの悪い事情があるの 『盲でこそあれ、これから、福井の御城下のほうへ、一心に歩 かも知れないと思って、黙って、彼も裏木戸を開けて外へ出て いて行ったら、追いっかぬ事もございますまい あらし よっ ふる どうき 一打った。 しろ わけ ・それに、 引 5

7. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

馬 だが時々、 あの時ーー たもと 『ああ』 鮫洲川の橋の袂に居あわせた二人の駕屋が、救い上げてくれ 思わずため息をついて、見えない眼を空へ上げ、凝と、長いなかったならば : ごう さすらいの越し方を考え、自分で、自分を宥わっているような鶴江は、その恩に、有難いと思っていいか、何処まで業のふ ちが 折もあった。すれ交う人、言葉を交す人、泊る人、去る人 かい不運と思っていいか、今もなお、分らない気がする。 はした 世間に人は満ちていたが、誰も彼女の胸のうちを知ってくれる茶屋女に売られたり、屋敷づとめのお下婢に入ったり、手内 者はない、歩けど歩けど他人の中だった。そのわびしい旅の空職をしたり、物売りになったり、この七年のあいだは、激流の もて を見えぬ目でさまよいながら、彼女は、二人の人をさがしてい 中に弄あそばれてゆく木の葉のように生きて来た。 みち た。ひとりは良人の北条貢と。もうひとりは、自分が生んだ自 だが、衣食の途を得ることは、少しも困難ではなかった。彼 分以上のもの。 わが子の菊太郎 女が死を以て守りつづけている貞操を捨てるならば 云うまでもなく、この瞽女は、鶴江の変り果てた姿であっ 然し、それを捨てない女だと分ると、何処の巷からも、彼女 か - 一く 学 ) 0 の美貌はかえって苛酷な鞭で追われた。 そして次の生きる 道へさまよわなければならなかった。 ( こういうものだったのか ) 彼女は、世間を知った。 馬 又、教えられた。 世間を観る眼が深くなってゆく程、世間に対して、彼女はべ 彼女にはもう自分を泣く涙はなかった。 つな生きがいを感じ出して、 余りにそれは、泣ききれない、嘆ききれない この七年だ ( 克ってみせる ) という強いものが、いっか胸の底に強固なものとなってい 忘れようとしても忘れ得ない あの暴風雨の晩から。 た。けれど、そういう希望と信念が心にすわったと思うと、紙 かみすき そして、目黒川の紙漉小屋から。 漉小屋で働いていた頃から患らっていた眼が、愈い悪くなっ 品川宿の貝殻横丁から。 て、西へも東へも、自分の身を向ける方角さえ失ってしまっ むみよう 又、六郷の鮫洲川の水底から。 た。それからは、まったくの無明の人となっていた。 るてん 今日までの流転をーー数奇な運命をーー鶴江は、どうして生失明は又、同時に、彼女の嫋よわい手から、衣食の途も奪り きて来られたのかと、自分の今ある身を、不思議に思う。 上げてしまった。 こういう運命の闇に立った時、女が、た 裸藤懸左平太の毒牙に追われて、鮫洲川に身を躍らせた時こそだ一つ生きるすべは、美貌のほかになか「たが、鶴江は、あら は、もう、死の一途と、観念していたのである。 ゆる行きずりの男性の手から、死を賭して、それを拒みつづけ つ、 ) 0 裸 かわ じっ すき かみ

8. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ず、引っ縛ってしまうのが何よりです』 きやっ 『道理で、彼奴の部屋に、姿が見えぬと思うたら、それでは、 奥の客達の席へ交っているのか』 今宵ぞっもる 『そうです。なるべく、此家の迷惑にならぬように、又、他の 客にも怪我をさせぬようにと思いますが、多少の怪我人の出る 何処かでーーー低い低い呼子笛が鳴った。蟋蟀が啼きふるえるのは止むを得ない事だ。ら 酋予して、北条貢に気どられては、よ ように。風呂場の中で、此処の鏡や刀を研いでいた研師の吉兵 し大事が大事になりましよう さ、お支度は』 衛とよぶ男は、 『おお、いつでもよい』 さなだひもたすき 『あ ? 雷助はもう、真田紐で襷は前から掛けてした。べ 、 ' つに包んで めれて 濡手のしずくを切って、突っ立った。 持っている大小を素早く帯び、鬢止めの鉢巻をして、そっと、 『雷助』 風呂の横口から庭へ出た。 いたまえ と、窓に誰やら人の顔が見える。 料理人の粂であった九馬之丞も、何処で身装を着更えたか、 『おお、九馬之丞様』 もう凛々しい侍に支度を革めていた。 と寄って行って、鏡研の逆井雷助は、小声で云った。 『お、つれしゅう」さいましよ、つ』 ・・・・・ーー手配はまだですか』 と、雷助は、その姿を見て云った。 『もうついた、何時でも 『ちょうど江一尸を出て以来七年目です。 お父上の憤死から たまえくめ 外に立ってこう云ったのは料理人の粂という男ー・ー勿論それもう七年忌。偶然でない心地がいたします』 がしら は偽名であって、江戸の大番頭権堂弥十郎の嫡子九馬之丞であ『今夜、その仇が討てると思うと、夢のようだな。 これで 公儀に対しても、父の霊に対しても、やっと、わしの武士道が 『では、すぐさま奥へ踏み込んで、積年尋ねていたお父上の仇立っというもの』 いや公儀の大罪人北条貢めを』 『経ってみれば早いようなものの、七年間、北条貢の行方をさ 『待て、雷助』 がし歩いて、野に伏し山に寝た月日は、思えば、惨たる御苦心 『まだ何か ? 』 でござりました』 はや る 『いや、逸まっては、仕損じる。ーーー先刻、貢の子の菊太郎を『何の この大望を果すからには。 ・ : みなそなたの力だ』 きやっ かいぞえ っ質に奪って、彼奴を誘き出してやろうと計り、暫く、物蔭にかく 『勿体ない。雷助はただ、介添にすぎません。そして、あなた れて見ていた所が、他の奉公人が来て抱いて行ってしもうた』 が北条貢を召捕れば、同時に拙者も元町奉行の同心として、瞬 今『手ぬるい事だ。それよりは、今慥かに、奥の酒宴の座敷で、 れて、江一尸表へ立ち帰ることができるのですから。ー・・・・』 かわ 踊り狂うているらしいから、そこへ踏み込んで、有無を云わせ囁き交していると、二人のうしろへ、忍びやかに樹蔭から這 を よびこ たし 、、つき こおろ あらた ゅうよ このや びんど みなり ほか 285

9. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

その好意にさえ、彼は礼を云うことを忘れている。 はこれで』 明『ほう : : : おう : ・・ : 見てください、生きていました : : ・・生き「早よ、逃げなされ。この裏の雑木谷を降りて、山つづきに行 あふりさんすそ 有て : : : 』 くと、大山に近い雨降山の裾に出るでな』 明一涙は彼の顔を洗うほど溢れ出るのだった、貢はまだ毛ほど『ありがと、ありがと』 も、自分が生きている欣びは感じていない。 『そこまで行けば、甲州路へ出るも、相州へ越えるも、ずんと 無 おやじ 老爺は、息子の嫁に 山越えに信州路へも儘よ。 , ーー途中で母乳が見つからなんだ 『早よう、乳をやれ、乳をよ。腹が空いているのじゃ』 ら、米の粉をもろうて掻いて食るのじゃい、よしか、米の粉を 『ど : : : どうそ』 絶やしたら嬰児はだめじゃぞい』 こと 貢は、思わず膝まずいた。 『ーーお名前を。お身たちのお名前を、一言』 そして豊かに肌黒く張り切っ ている百姓女の乳房を仰いで、女神へ礼拝するように、幾遍も「秦野村の茂十』 頭を下げた。 『おさらば』 『吸 , つか』 雑木林に囲まれた山畑を横切って、貢の姿は隼のように、 「よ、つ吸 , っ ! 』 彼方の低い谷へ隠れてしまった。 覗き合って呟く老爺と嫁のことばを聞くと、彼は初めて、今鼻唄うたって、茂十たち親子が、元のように街道へ車を曳き かんば 日の快晴な秋空のあることを感じた。 出した時、後から悍馬に鞭を当てて宙を飛んで行った二人の騎 あらし 暴風雨の後の太陽は、暑いほどだった。 馬の武士がある。それも町方なのであろう。手綱の手元から、 『ーー路傍のお方、お名前も存じませぬが、御恩のほどは胆に十手の朱い房が翻めいて見えた。 銘じて、この子が成人の後までも、屹度記憶いたさせまする。 何とお礼を申してよいやら』 こんな朝には、常には溝みたいな目黒川が幅をひろげて、屹 貢が、大地に両手をつかえて改まると、却って、老爺も嫁も まごっいて、 度、鯉が掬えるのである。 ここから上流には、大名や富豪の別業が多いので、大雨があ 『なんじゃあ、そんなア : : : 。堅くるしい、やめなされよ』 街道に立って見張っていた息子が、 ると泉水から泳ぎ出した高価な金魚なども濁流に眼を眩して流 あした むち 『爺っさん、何ンやら二人ほどの武家衆が、馬に鞭ぶッて此つれて来た。だから紙漉場の市兵衛は、暴風雨があると、翌日の 朝は鯉こく心」ると云って、自分の小屋の雨漏りなどは苦に 方やヘ来るぞ』 『あっ 起ち上って、貢は、菊太郎をあわてて抱き取った。 けないうちに、もう紙漉場の小屋を出て、そ 「恩人たるお身達へ、万が一、迷惑をかけては済まん。 おやじ きっと すく あか 1 一 ひら かみすきば ・ヘっそう はやぶさ まわ きっ 25 イ

10. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ふたり えい - 一う 『ああっ : ど前に、夫婦の永劫な幸福をとて、知己の人達から祝福された 明花嫁道具ではなかったか。 不意に良人の胸へ、鶴江はよろめいてしまった。全身が心臓 有『火を見るな ! 』 のように大きく喘ぎの波を打っている。 明貢は急いで、彼女の手に笠を持たせ、引っ抱えるようにし 『も少しだっ、鶴江』 て、暴風雨の闇へ駈け出した。 1 こ、だめです : : : も、もう : 無 よろ 雨はすっと弱っていたが、風はまだ脚もとを蹌めかすほど烈 『ええ気の弱いっ』 何処をあてに、何う走っているか、鶴江はまったく夢中卩 - ー歩けません、歩けません。わたしは、ここへ捨てて行っ である、いや貢自身にも、その的はないらしいのである。 てください。そし・て、あなた : ・・ : あなた : : : 菊太郎を』 『あなた。嬰児は ? 嬰児は ? 』 『馬鹿なっ』 横なぐりの風と雨に、産後の体を打たれながら、鶴江は幾た 怒るような貢の眉だった。妻の手をつかんだまま、巌のよう やわら びもそればかり叫んだ。いっか笠は暴風雨の手に奪われて、白な背中を向けると、柔術の手にかけるように背負い上げてしま 蝦のような彼女の顔は戦々と黒髪に吹きつつまれている。 う。そして懐中には嬰児、背には妻、二つの生命を全身にかか ふところあっ 『だ、じよぶ ! だいじよぶ。おれの懐中は温たかい』 えて、驀っしぐらに横道へ外れた、その迅くて力強い足から泥 朝焼のように、道が赤く光り出したと思うと、それは自分た水が左右へ切ってねる。 うしろ たし ちの後に燃え上った組屋敷の炎であった。 まっ直に、青山の原から渋谷の方角へ向って来たことは慥か うしろ あらし 同時に何か叫ぶ人声が後に感じられた。振顧ると、黒い影がだ。彼が曲 0 た方には、樹木が多く、闇も深かった。暴風雨に 火光を負って十名以上も散走して来る。火と反対な方角へ向っ折れた樹が無数に横たわっている。 「あっ、 て来る以上、それは自分たちを追って来た者とよりほか考えら れない。 何処の邸だろうか、そこの突当りは高い塀で囲まれてあっ みずかさ もう権堂家の討手も、町方の手も、当然立ち廻っているのが 。右手の崖をのそくと、樹木を透かして、水嵩の増している 当り前だ。貢は、妻へ向って、 目黒川の下流が白く光っている。 うしろ 『わしが一緒だぞ、わしが側に居るそっ』 そう気づいて、彼が崖の降り道を探しかけた時は、すでに後 * 、からい 何度も云って、のめるように駈けた。 から駈けて来た大番組の武士と、町方同心の逆井雷助の手の者 『あれだっ』 「北条貢っ』 わめ うしろ 喚き合って、前へ来ている。 いや後へも。 まえ 職業的な捕手とは思えない、ただ一人で真っ先に貢の正前へ あらし あて ふところ あえ いわお 250