大びらには歩けない体ですから』 明といって、直ぐに又、早口に云いつづけた。 有『石禅というお坊さんは一体、どこにいるんですか』 : あれも雲のように、居る所の定まらない人間だ』 明「さあ ? 今戸の辺り 「して、あなたと、石禅さんの間は、どういう御縁故なのですか』 無 『それも皆目、こっちには田 5 い当りがない』 ふなやよこちょう 『けれど、何か、御縁がなければ』 千住の鮒屋横丁の長屋へもどって来たお兼は、自分の家へ入 となり ゆかり 『どういうわけか、その縁も由縁もないあの人が、北陸の旅先るより先に、隣家をのそいて、 『お隣りのおかみさん : から、この江一尸表に来てまで、常に蔭になって鶴江や菊太郎の 。お兼ですよ。今帰って来ました』 いくたび 身を、幾度となく救ってくれた。 と、言葉をかけた。 : 唯不思議な人という他は べっこう ナ . し』 鼈甲職人の庄七だけが、細工場で仕事をしていた。 『でもまったく縁のない人では、そんな力になってくれる筈は彼女の声を聞くと、あわてて出て来て、 ありません。あなたはその石禅という人に、訊ねた事があるの 『ああお兼さんか : : : 何うしたかと、、い配していたところだっ ですか』 た。ひどく疲れている様子じゃないか』 たちま 『いや、いつも、風のように、見たかと思えば忽ち隠れ、親し 『なあに、ゆうべ少し歩き廻って、寝なかったからですよ。 く会って話したことなどはない』 それよりも、留守のうち、鶴江さんの身には何も変りはなかっ 『ではその事も、探しあてたらよく訊いてみましよう。そし たろうね』 『大丈夫』 て、成ろうことならば、鶴江さんと一緒にここへ連れて来ます』 「おお、待っているそ。』 と、庄七は大きく頷いて、 さら 『あなたもどうぞ坊やの身を、一日も早くここへ』 「坊やを攫われて懲りたから、女房と相談して、ここよりも確 『云う迄もない : ああ夜が白みかけて来た。お兼、人目に かなところへお連れしておいたよ』 カからぬ , っちに』 『え。・・ : ・・何処へ ? 』 小鳥の声が聞え初めた。仄明るくなった暁け空を仰いで、ふ『少し離れてはいるが、女房の里が市川在なので、今朝はや とお兼が貢の居た位置を見ると、もうそこには彼の姿は無かっ く、人目にかからないうちにと思って、女房が駕へのせて市川 た。厨子の扉はかたく閉まって、塔は深い古色の胎内に、そのの田舎へ預けにいったのさ』 人を隠して沈黙を守っていた お兼は隣家の夫婦の親切に感謝して、何度となく礼を云った。 暗黒の塔の胎内。ーーお兼はそこの永遠の闇を想像して、 庄七は手を振って、 又、北条貢の永遠の恨みを思い遣って、そっと、袖口を目に当『とんでもない、おまえさんから礼を云われるどころか、此っ てながら立ち去った。 うち
の土もない。お兼 ! 頼みがある ! 『あ、待ってーーー』 すが 『え、何ですか』 お兼は縋りついた。 『お前に頼めた義理ではないが、おまえより他に頼み手はな : じゃあ北条さん、あなたはもう近いうちに、死ぬ覚悟で おれの死んだ後の事だ。どうか、鶴江と菊太郎の二人すか』 の身を』 『死ぬ覚悟はいつもできているが、鶴江と菊太郎の身を思う そこまで云うと、貢は、声をつまらせてしまった。 と、その覚悟もつい乱れてくるのだった。 : だが、おまえが お兼も涙にうつむいて、 引きうけてくれたので、心が軽くなった。おれは、権堂家の邸 『 : : : 分りました、お二人の事は、心配しないで』 内から、菊太郎を奪り返して、この塔の中へ連れてこよう と云っても、天下の大罪人という悪名をかぶされている : その間に、鶴江と石禅の行方をどうか探してくれ』 北条貢。たとえおれが死んでも、鶴江や菊太郎の身が安穏とは『鶴江さんは今、わたしの手で、或る場所に隠してありますか 思われぬ。ーーーそうだ、あの石禅という雲水を尋ねあててくら、ここへ連れてくるならば何日でも れ、そして石禅殿に二人の身を託し、僧籍へ入れて、高野の山『えつ、鶴江は、おまえの手で匿まわれているのか : 奥にでも隠してもらうように』 『会いたいでしようね、北条さん』 遺言でもするように、貢は、、いのうちの気懸りを打ち割っ 『会いたし : 正直におれは云う。 : 一刻も早く鶴江と菊 て、お兼に死後の事を頼むのであった。 太郎に会いたい。この塔の中で見る夢は、鶴江と菊太郎の事ば かりだ』 『お察しいたします。じゃあ、明日の夜でも、すぐここへお連 れして来ましようか』 胎内の人 : 待ってくれ。 : おれは父としてその前 、菊太郎を先へ此処へ連れて来なければならない鶴江と二 お兼は、肩を顫わして泣いていた。 人して会っても、ここに菊太郎がいなければ ′一もっと 今は恋ではない ! そう自分の心へ云い切って居ながら『御尤もでございます。その坊やをあなたが奪り返して来た 、いはいつのまこかリ 冫男離の思いに苦悶して、むしろ恋以上ら ? 』 人こ、貢の言葉が悲しまれた。 『こうしよう。塔の二重目の東の柱に、白紙を小さく蝶の形に の『たのむぞ』 切って貼っておく』 内貢は、ふたたび、塔の中へ隠れかけた。 『では、時々ここへ、見に参ります』 胎いつまでこうして居るのは、何っ方の身にも危険であると分『だが、人目に、気どられぬように』 っていたカ 『ぬかりはございませぬ。このお兼だって、明るい陽の下を、 ふる ほか 399
提灯が、橋を渡ってふらふらと駈けて来る。その間に、石禅渡って行きましたがね』 見つめていた黄楊の櫛を、雷助は大地へ叩きつけて不意に叫 明の体は、駕の内へかくされた。 有『旦那、後のが参りましたぜ。こっちの駕にゃあ、何を乗せるんだ。 『お兼だっ ! 畜生』 明んで ? 』 と、黒髪堂の方へ歩いて行った九馬之丞が、あッと突櫛は二つに割れて、闇の中へ飛んだ。 無 九馬之丞も、そう聞くと、呀ッと思い当ったが、もうそれは 然、声を放った。 後の悔でしかない。 『しまった ! 雷助つ、鶴江が逃げた』 『えっ ? ・ 『何処に潜んでいたのだろうか』 : 鶴江が』 しつか と、今更のように、黒髪堂の黒髪が気味わるく眼に映じて来 『この木の根に、確乎と縛りつけておいた鶴江が見えぬ』 『そ、そんな筈はございますまい』 『でも。 : オヤ、ここに黄椦の櫛が落ちている。これは、鶴駕屋の中の一人が又、 「あの女なら、よくこの山で見る顔ですぜ。ーー・慥か、この黒 江の挿していた物とも思えぬが』 がんか 髪堂に願掛けしているに違いねえ』 『何、黄楊の櫛が』 と云った。 と雷助は手に取ってみながら、 ちょうちん そう聞いてみると、夕方、雷助がお兼に出会ったのも、つい 『駕屋っーーその提灯の明りをちょっと貸してくれ』 其処の観音堂の近くであったし、お兼が逃げ去った方角も、こ 駕屋は寄って来て、雷助の前へ提灯をかざしながら、 の今一尸橋の方らしかったから、ちょうど彼女が待乳へ日参に来 『旦那、逃げたツていうなあ、若い女じゃありませんか』 『そうだ』 る途中であったものとみえる。 石禅という大きな邪魔者を征服したと思った途端に、二人は 『二人連れでしよう』 又、お兼という新手な邪魔を見出した。 『いや一人だが』 もうしゅう 『じゃあ、今の女たあ違ったかしら ? 』 ( こんな事では、何日になったら、父の妄執を晴らして、本懐 を遂げる事が出来るやら ? ) 「待て待て、何かそれらしい者を見かけたのか』 『あっしの見たなあ、二人連れの女だ』 と、九馬之丞はそそろに、口惜し涙に胸が突き上げられた。 『ど、どこで ? 』 又、彼と共に力を協せて、七年の流浪を重ねて来た逆井雷助 「たった今、今戸橋の袂で、摺れ交いに見かけたんでさ』 めしい ( 重ね重ねの失策、今はもう、お奉行に対しても面目ない。 『もしや、一人の女は盲ではなかったか』 『そこ迄は気がっかなかったが、一方の小粋な女が、もひとりの上は石に噛りついても、北条貢その余の者を引ッ縛って見せ の病人のように弱っている女を、引っ抱えるようにして、橋をねばならぬ ) る。 たし ほんかい 38 イ
: いや北条貢だ ! 』 考えられる。それは、北条貢はすでに、菊太郎や鶴江の護送さ 明石禅は足を早め、ここが人目の多い町中であることも忘れれた事実を知っているという事だ : それなればこそ、この 有て、狂気の声を張りあげた。 街道を歩いていたに違いない。 : そうだ、そう考えれば、江 『 : : : おういつ、御浪人、御浪人。暫く待たっしゃれ。もしゃ戸表までの間に、彼が何か考えている行為をやり出すに違いな 明 其許の名は、北条貢とは仰せられぬか』 いから、その時に、一緒になって、わしも力を協せて彼を助け 無 てやろう。 遙かにーー・彼の呼ぶのが耳へとまったものとみえる : そうだ、それがしし』 浪人は立ちどまった。 ぞうり 着流しに草履ばきで、深あみ笠を被っていたが、その笠のふ ちへ手をかざし、ちらと石禅のほうを見た。 小坂井村は街道からだいぶ横へ入っているので、この辺には 余り立ち入る旅人もない 村の莵足神社は寂しいほど静かだった。 ここの賑わうのは毎年の五月頃、三河や遠州の花火師が集ま 神あらば って打揚げをする行事であるが、その日にはまだ間があった。 静かな草履の音が拝殿のほうへ今歩いて行った。深あみ笠の 『そうだ ! やはり貢だ』 緒を解いて、地へ置き、神に向って、両手をついている 石禅の足が、更に迅くなると、何と思ったかその途端に、浪それは北条貢だった。 ひるが かしわで 人ていの男はツイと身を翻えして、あっと云うまもなく横道へ貢は、祈念の拍手を打って、 走ってしまった。 『たとえこの身は、後日、八ッ裂きの刑にかけられても厭いは わしじゃ、わしじゃ』 『北条っ いたしませぬ。然し、犯した罪のおばえはないのでござる。罪 追いかけて見たが、もう見えなかった。町の裏はすぐ山畑になき父のために、菊太郎までが・ー・ー又妻の鶴江までがーー永劫 なっていて、そこらの林へでも隠れこんだものか、鍬を持ってにこの世から葬られて、生涯を闇に送らせておくには忍びませ ぬ。 畑に働いている男に聞いても、知らないと云う。 その為に、北条貢は、鬼となっても公儀と闘う覚悟で 『残念なことをした。 : いきなり呼びかけたので、わしを変ござります。公儀の命にそむき、公儀の役人を敵とする事がす 装している公儀の手先と思い違いしたのであろう』 でに、この身の大罪かも存じませぬが、それも、父たる者の とうと - っ じよう 石禅は、飽かずその辺を探し廻ったが、遂々、再び彼を見出愛、ーー良人たる者の情ーー・とすれば又、やむを得ない仕儀で す事はできなかった。然し、それに失望はしないで、却ってこあります。 : あわれ、この世に神あるならば、この貢が不徳 しょ - 一う えんざい 故にうけた寃罪を、一日もはやく晴らし給え』 ういう曙光を前途に見出した。 まなこ た ) ・カ、一 ) 、つい , っ様に・も じっと眼を閉じているうちに、貢は何か強いものに、いをささ 『まったく、惜しい事ではあったが そ - 一もと みつぐ かぶ かえ うたり
( 五百石村の金菱様から頼まれて来申したが、註文してある御の富豪だからの』 婚礼の衣裳にすこし模様更えが出来ましたので、どうか、この鏡研師の吉兵衛と、板前職人の粂は、時折、眼と眼のうちで 通りにやって戴きますように ) のれん 微笑み合「ていた。その神通川の上流に添 0 て、やがて渓谷の と、手紙を置いて、丸八の暖簾を出て行 0 た時から、この一一あいだを出ると、漸やく越中富山領の盆地が展けて、もう落葉 あかりおちこち 人は、後を尾行ていたのである。 松のあいだから、夕方の灯が、遠方此方の村々にチラと見え初 五百石の金菱とかいう大家に、近く、婚礼のあるという事めていた。 は、してみれば、今初めて知ったわけではない筈であるのに、 いかにも、初耳らしく聞いたり、わざと、自分からロを切らず 、遠廻しに商売を名乗って、先から話を持ち出させている手 わ たく 春の祝歌 際などは、何うしても、深く謀んでいる所があるらしいが、薬 行商のほうよ、、 。しつこう真っ正直で、二人のするどい眸の底 を、一応、疑ってみようともしなかった。 『こんばんは いいともな、沢山、礼が欲しいと云われちゃあロ出しもでき 『オオ今晩は。ーー御苦労さんで』 ないが、煙草銭稼ぎで来てくれることなら、先様でも、猫の手『よいお晩でございますな」 ま・一と も欲しいところだ、きっと、手伝ってくれというに違いない』 、寔に穏やかなよいお晩で』 あとめ 『ど、つでしょ , っ ? ・』 『これで、御当家様も、商売のほうもお跡目も、す 0 かり御安 と、その図に乗って、鏡研師も、 心と申すもので、大旦那様も、さそかし、およろこびでござい 『あっしの方の仕事は』 まー ) よ、つ』 『お前さんのほうは、そこの家でなくた「て、五百石に行き 『金菱は、万代でございますよ』 あ、幾らも仕事はあらあね』 ぐあい 『まことに、おめでたい事でございますな。 , ー , 聟様もよし、 『そうですか、粂さん、こいつあいい具合になりましたね』 嫁御様もよし』 『川に舟、飯に箸、渡る世間にゃあ付き物だ』 もったい くすりや 。し。し、こんな吉いお晩はございません』 『そう云っちゃ勿体ないぜ、なあ薬行商さん』 『おめでとう存じます』 歌「なあに、両方でいい都合だよ。そこで働いて貰えば、飯ばか 『いよう、おめでとう』 ちょうちん 祝りじゃない、酒だナま、、 。。しくらでも飲み放題というもの』 螢の群れみたいに、提灯と提灯とが混雑している。後から後 あぜ の コん、ほんと力し』 からとそこへ又、五百石村の畦や村道から提灯が集ま 0 て来る 春『嘘を云「て何うするものか。金菱といえば、越中きっての醸のだった。 造酒家、年に何千石と、神通川の酒船に積み込む、この近郷で醸造酒屋の金菱家の門〈、玄関〈、裏口〈。 きんびし とし ひとみ ほぎうた 269
あかあか 一刻一刻を、生命のちぢむ思いで、待ちわびていた。 て、明々と燈明をともす日も近い ゅうべ遅かったので、家の中に寝ている九馬之丞と雷助はな 『これも、藤懸殿の御助力だ。あの方の恩義を忘れてはすまぬ』 夕方になった。 かなか起き出さない。やっと陽が庭いつばい映す頃になって雨 戸が開いた。 左平太は来なかったが、使として、彼の手紙を携えて、与カ の佐藤歓十郎が来た。 『おるか、お兼は』 戸が開くとすぐ、気がかりらしく、雷助といっしょに、九馬『かねて奉行所でお尋ね中の破獄者、女掏摸のお兼がこちらに 之丞も外をのそく。 繩付となっておる由、受け取りに参った』 と、一一一口うロ上。 露に濡れて樹の下に、・ くったりとしているお兼の姿を見る と、安心して奥へ入った。 石禅のことは、手紙にも書いてなかった。 なわじり 奥の破れ土蔵の中にいる石禅へ、雷助は食物を持って行っ 四、五名の捕方に繩尻を護らせて、与力の佐藤は傲と彼女 を引ッ立てて帰った。 た。お兼にも与えた。然し、お兼はあまり食べなかった。 はてな ? 』 『ーーおやっ、菊太郎がいないぞ』 それから気がついた事だった。 雷助はやや不安になって、 どうしたのであろう ? 』 『藤懸殿は、どうして来ないのか。これでは少し約束がちがう』 と、呟いた 九馬之丞は、お兼を疑った。 お兼を責めたが、お兼も知らないと云い張って、ロを緘んで罪科のある者を、奉行所へ渡すはいい。 それは当然である。 しき、つ。 たカ、北条貢だけは、奉行所の手にかけては、意味をなさ なげう とにかく二人は、藤懸左平太の来るのを待っことにした。今ない。七年以上も、家をすて、身を抛って、彼を追跡して今日 日は、左平太が来て、お兼や石禅の身がらを、始末することに に至った自分たちの立場はなくなってしまう。 くちぶり かたき いのち なっている。それと共に、北条貢の召捕にも、自信のあるロ吻讐敵 ! 名乗りかけて、この恨みを、この刃を、彼の生命に とどめ をもらしていた 加えて止刀を刺さなければ、権堂九馬之丞の面目はない。 『北条貢さえ討ち取れば、菊太郎などは、逃げようと、何うし 『ーーーまさか、お兼のように、鶴江の身も、北条貢も、みな奉 ようと関わぬ。 あれを抑えておいたのも、いわば貢を引寄行所の手へ渡してしまうのではあるまいな』 場せる囮に過ぎないのだから』 『そんな事はありますまい』 立 二人は一日、明るかった。 『けれど、何だか、今参った与力の様子では : の 父の仇を討つのももう近い気がする。 『ではこれから、藤懸殿のおやしきへお訪ねして、そこを判っ 人 ただ この荒れ果てた権堂家の雑草をきれいにむしり、煤だらけに きり、糺しておきましよ、つか』 なった天井や畳を払い、そして、父の位牌に、大願成就を告げ 『うむ、そうする ! 大事なことだ』 すす すり たずさ イ刀
彼女は、あわてて、自分の部屋へ戻って来た。そして、菊太入屋をつかって、うまうまと忍び込んで来たわけさ』 明郎の姿を急いで探した。 『、つ . れーしい 小母ちゃん、早く逃げよう』 くたび 有遊び草臥れた菊太郎は、夕飯をたべるとすぐ、そこらの部屋『ちょうど、奥の客も、少し酒がまわってきたから、今がいい しお 明に入って、ごろりと、うたた寝していた。 。だけど、わたしは、あの倉の中にいる石禅さんの方へ 『坊や、坊や』 も行って来なければならないから、坊やは、台所の外に立って 無 揺り起すと、 待っておいで』 いやあ。いやあ。いやあん』 「早く来てね』 寝呆けて、手を振り廻した。 「アア、直ぐだよ』 『叱っ : : : 大きな声を出さないで。 : さ、早く支度をおし』 と、お鹿は いやお兼は、雑草の生い繁っている裏庭の奥 はだし 『眠たい、眠たい、坊は、起きるのはいやだよう』 へ、裸足で走って行った。 『こんな屋敷は、早く逃げ出さないと、今に、おまえも生命を 奪られてしまうんだよ。 : さ、もっと固く、帯を締めて』 『誰かと思ったら、おまえは、昼間、桂庵が連れて来た女中さ 帯の端 んだね、何処へ行くの ? 『菊太郎ちゃん、わたしが誰だか、まだ分らないの』 『お鹿さんじゃないか』 子供ごころにも、菊太郎は、歯の根をカチカチ鳴らして、顫 いいえ。わたしは、お兼だよ』 えていた。 何か恐ろしい事を犯すような恐怖が、その童心 『嘘だい』 をも寒々と揺りうごかすものと見える。 菊太郎は、信じなかった。 お兼の去った雑草の闇を見つめながら、菊太郎は、朽ち果て くら 大人の眼さえ晦ましているのだから、子供の眼には、無理も た台所の外に、いっ迄も凝と立っていた。 つくり ないと思った。お兼はいそいで、台所へ行って、顔の変粧を洗 すると。 い落し、毛の赤い鬘を脱って、いつもの粋なお兼になって返っ 『お鹿・・ : : お鹿 : : : 』 て来た。 呼びながら、外を覗いた雷助が、ふと、驚いた顔して、 『これなら分ったろう』 『そこに立っているのは、菊太郎ではないか』 『あっ : : : お兼小母ちゃんだ』 菊太郎は、そう言って、しがみついた 菊太郎は、黙って、円い眼を、脅えたように振向けた。 : 私と一緒に逃げるんだよ。わたしは、おまえと石禅さ 『何しているのだ、こんな所に立ってーーーさ、中へ入れ』 あぶらずみと んを救い出す為に、脂墨や砥の粉で顔を変粧え、ここへ来るロ菊太郎は、かぶりを振って、 かつらと いのち じっ ふる
と、後から追って来た檀四郎が云った。 明何ですか』 有立ちどまって、檀四郎の影を見つめた。檀四郎は、まだ貢に 落し物 明未練があって出て来たらしかったが、そのきつばりした態度 に、諦めたものか、 無 会いそうなものだ。つい鼻の先にお互がいるような気が 『貢ーーー貴様の手には、朱黒子の刺青が入っていないか、ある する。しかも道は東海道の一すじ。 か、よく見ろ』 『 : : : それに目がけている目的の物も一つなのだから』 『ある』 と、石禅は絶えずそう思う。 『それは焼き消しても、貴様の名は、朱黒子組の仲間から脱く あれから毎日、東海道を旅しながら、北条貢に会わないの ことはできないからそう思って居れ』 『イヤ、たとえ脱かないと云っても、自分のほうでは、何の縁が、むしろ不田 5 議に思うのだった。 さしつか 『やはり、わしを手先と間違えているとみえる・ : ・ : 何うし 故もないものと思っているから差閊えない』 て、そうでないことを知らせたものか』 こっちからその縁故をつけて行くのだ』 そんな気苦労までしていたが、泊りは重なるばかりだった。 オ』 たそが 『おれ達を敵へ廻しては、貴公の損だそ。それでなくても、天箱根も越え、戸塚もすぎ、その日の黄昏れには、神奈川宿を歩 いている彼だった。 下は貴様の敵じゃないか、馬鹿』 みちのり だが、ここ迄の道程の間に、彼は先の一行とおくれてい る約十里あまりのーーー時間にして小一日の旅程を完全に追いっ 『考え直したらやって来い ! 』 『北条貢は、死んでも、二度とあなたの門へはやって来ないっ この宿場の夕方の混雑の中を、彼の位置から半町程先 もりだ』 を行く、一挺の駕籠と役人の群れこそ、あの鶴江を護送してゆ きっとか』 く福井藩の一行だった。 『誓っておく』 今にみておれ、その言葉に対して、自分が恥じる日があ ( 菊太郎は見えないが ? ) と思ったが、それは権堂九馬之丞と雷助との身軽な二人が差 るぞ』 立てて行ったので、もう江戸へ着いてしまったかも知れないと もう道は暗かった。 それに不案内な土地でもあったが、北条貢は、街道のかすか想像するー ! ーとすれば、せめて、鶴江だけでも、どうしても救 救わなければならない ! 石禅は、覚悟した。 な灯を目あてに、すたすたと足を早めた。 もしーー北条貢が江戸までの間に、あの駕籠を切り破って鶴 いれずみ めあて 33 イ
みやげもの 『あれは、熊の胃という薬を売っている土産物だろ』 『おじさんも喰べない ? 』 けもの 明『お薬じゃないよ、あそこに吊り下げてある獣のことを訊いて『おじさんはいらん』 有るんじゃないか』 『おいしいよ』 『みんな喰べるとお昼が喰べられないそ』 明『あああれは、薬の看板にしている熊の皮』 『熊の皮、服むの』 『お馬にも一つやろうか』 無 ふぐたいてん 『皮は薬にはならない、熊の胃を服むのだよ』 憎い敵の子である。父の弥十郎を自害させた不倶戴天の子 『胃って何 ? 』 だ、そして公儀の御詮議をうけている大罪人の子でもある。あ なか まり馴れついては後で困る。 『人間のお腹にあるもの』 権堂九馬之丞は、心のうちで、自分を警戒していたが、童心 『お腹にどうしてあるの ? 』 『困るなあ、おまえのように先から先へ訊かれては』 には勝てないのだった。つい菊太郎の無邪気さにつり込まれ て、いつのまにか、菊太郎の友達のようにされてしまう。 『おじさん、あの角にあるお店は何を売っているの』 いたずら 『この辺の名産、伊吹山の艾であろう そのかわり、長い道中も、退屈しなかった。悪戯も烈しい 『艾って何』 が、何処へ着いても、すぐ宿屋の者と馴れて、坊っちゃん坊っ 『又初まったな』 ちゃんと云って愛されるのである。 時々、淋しくなると、思い出して、 『何、何 ? 艾って』 きゅう 『ほれ、おまえはよく知っているだろ。灸をすえる草じゃ』 『坊のおじちゃん何うしたろ ? 』 『草か ・ : それじゃ喰べられない物だね』 と云い出した。 『誰の事 ? 』 『道中、おとなしくして居ないと、あれを買ってすえるそよ』 『おじさん』 と、九馬之丞が訊くと、 『又か』 『お坊さんの石禅さんさ』 『お腹がすいた』 と云 , つ。 『いろいろな事を云う。まだ昼にはちと早い、次の宿場まで我『石禅さんは、坊やと、前から知っているのか』 慢せい』 『ううん : : : 』と首を振って、菊太郎は、ふと淋しそうに考え あんもち 込むだけだった。 『あそこには、餡餅を売っているよ、喰べたいなあ』 『雷助。・ーー , すまないが、買って来てやってくれ、このよう東海道の宮を過ぎて、赤坂の並木へかかった日の事である。 雷助がふと行く手をながめて、馬の背へ、こう叫んだ。 に、名残り惜しそうに振り向いているから』 あれ、あれへ行く 雷助が駈けて行って、一つつみの餅を求めて来て馬の上へ渡『九馬之丞様、やっと追い着きましたぞ。 してやる。菊太郎はそれを頬張りながら、 のが、吾々より一日先に福井を発った駕籠に相違ありません』 もぐみ、 326
「そんな口止めは役に立ちゃあしないよ。あの二人は、権堂九 明 馬之丞と逆井雷助という者だろう』 すると、その姿を見て、駕屋の溜り場からすぐ、 『それ迄、御存知なんですか。じゃあ仕方がねえ、やりましょ 有『ーー御新造さん』 う、その代りに』 明駕屋が、駕を持って来ようとした。 さ、 ~ 削・払 . したよ』 『駄賃を弾んでおくんなさいだろう。 お兼はあわてて、 無 あしら こういう男共を扱う事は、お兼にとれば、自分の手足を動か 『何さ、誰も、駕を呼びやしないじゃないか』 すようなものだった。 と云った。 偶然といおうか、約束事といおうか、菊太郎のさらわれて行 言葉が伝法なので、駕屋はお兼の顔を見直しながら、 ねえ ったと同じ所に、石禅も捕われている事がわかった。 『ア : : : 姐さんですか。駕の御用じゃねえんですか』 番町の近くまで来ると、お兼は駕を捨てて、暗い屋敷塀に添 『すこし、聞きたい事があるんだが』 って、権堂家のはうへ歩いていった。 『へえ ? : 何ですえ』 『ここの仲間の者だろう。おとといの晩、待乳山の下で、二人女のカでは、何うにもならない事は分っているが、そこの様 子を探って、たしかに、菊太郎も石禅もいると分ったら、その の侍に斬られた雲水を乗せて行った者は ? 』 『さあ、俺あ知らねえなあ。ーーー誰か行ったのか、そんな者を事を、もいちど谷中の五重の塔まで知らせに行かなければなら ないと考えていたのである 乗せて』 たもと 袂から頭巾を出して、お兼は、眉深に顔をつつんだ すると、溜りの中から、 『番町の屋敷だろう。侍が一人、雲水が一人、何っ方も怪我をして裾を短く括し上げて、 : ここだ』 していた』 なま・一 古い海鼠塀を仰いで、お兼は、暫く立っていた。 という者があった。 塀も門も、ひどく荒れていた。七年間、空き家同様になって お兼は、その駕かきを呼んで、 いた屋敷なので、門前まで雑草が生えている。 『おまえさんかえ、行ったのは』 かんめき 腐っている門の扉を、そっと押してみたが、中から閂が懸 『へえ、そうです』 っているのであろう、四、五寸ほど扉の合せ目はロを開けた 『じゃあ、おまえの駕に乗るとしよう。すぐやっておくれな』 が、身をいれる程には開かないのである。 『何処へゆくんです』 『亠めはははよ 『その怪我人を乗せていった屋敷へさ』 不意に、誰か笑った。 『あっ、こいつは不可ねえ』 うしろ 自分の後の方にである。 『ど , っして、』 、よ お兼は、恟っとしたように、門の屏から手を離してふり顧っ 『あのお侍衆に、固く口止めされていたんです』 たま イ 02