『もう見えない。 瞽女をはやく見てやれ』 『御親切に、ありがとうございました、けれど、それ迄には及 宿場の両側から、わらわらと、蚊のように人影が走り出しびませぬ 一人で歩いて参りますから』 びつこ て、往来に真っ黒にかたまった。 すこし、跛行をひいて、歩みかけてみたが、膝ぶしが痛むと 『なあんだ、大げさな事を云やがって、瞽女はうごいているじみえて、三味線を杖にすがって、又、大地へ坐 0 てしま 0 た。 ゃねえか、死んでやしねえ』 『か ~ めい挈、、つに・ : 』と、誰ともなく呟いて、 一人が抱き起してやっていた . し / . し 、この瞽女を刎ねとばした儘、見向きもしねえで行 『どこか、怪我をしたか』 ってしまった馬というのは、誰の持馬で、どんな奴が乗ってい え : ・・ : ありがとうございました』 たんだ』 司気を落着けなよ、・ とこか、怪我をしているにちげえねえ。あ と、憤慨する者があった。 たま んな勢で来た馬に射ね飛ばされたんだもの「堪ったものか』 『侍だ』と云う者があるし、 ひじ 『左の肱を少しばかり : 『町人だった』と云う者もあった。 『そんなものか』 『何しろ旅の者にはちがいねえ』と一人が云うと、『年頃は ? 』 馬の蹄は、どこも私の体には触れませんでした』 と、大勢が訊く。 『へ工、そいつあ、不思議なくらいなもんだ』 『年頃は、よく分らなかったが、三十ちょっと出た位な男だっ : とんだお騒がせをいたしまして』 た。馬の捌きや、物腰は、まるで郷士か浪人といったような風 『なあに、そんな事はいいが : : : おめえ起てるのか、痛そう態だったが、刀は、脇差一本差したきりで、何しろ、よほどあ じゃよ、 わてていた様子だった』 『どこか、体が少 - し』 『忌々しいな』 『それみな、やはり何処か打っているんだ、おい誰か、どうせ『捕まえれば、この瞽女の薬代ぐらいは取ってやったものを』 この瞽女は、どこかこの辺の旅籠に泊るんだろう、旅籠まで、 すると 負ぶって行ってやらねえか』 『やっ : : : 何か侍がここへ駈けてくるぜ』と誰か云った。 「よし、おれが』 『又、馬か』あわてて、崩れかけたが、 『野郎、美れいな瞽女だと思ってーーー』 『馬じゃねえ、徒歩だ、徒歩で駈けて来るんだ』 機『そんな事を云うなら止める』 もうお互いの顔もよく見えないほど、濃い暮色が立ちこめて じようだん 『冗戯だ。冗戯だよ』 瞬 『じゃあ姐さん』 彼方から息を喘って駈けて来た二人づれの侍がある。これ ・しし , ん・も、つ』 は、正しく大小を横たえて、一見して、どこかの藩士かと見え礦 鶴江は、ようやく起って、着物のちりをはたきながら、 る拵えだった。 た はた′一 かち
もみ たたび水へ屈み込んで、紅絹で洗う事を繰返していたが、その 『おまえさん』 うちに、今の侍が誰であるかを、ふと思い出して来たらしい。 と、台所の土間から顔を出し、 『あっ : : : あの人だ。あの編笠の形は、あの人が好みの笠 : ・ ・ : 』『親切も、 しいけれど、 しい加減にするもんだよ。 だから世 ひとり 蛇にでも狙われたように、彼女は真 0 蒼にな「て、自で固く間の者が、お人好しというんだよ。お人好しというのは、馬鹿 すく なった掌の中に、濡れた紅絹を握りしめたまま、立ち竦みて顫って事にもなるんだからね』 していた。 『なぜ工 ? 』 『なぜって、雇人の女の夜具まで敷いてやるにはあたらない じゃよ、、 十 / ーし・カ』 『、・も』 ここの夫婦 『おふざけでない。お鶴さんが美れいだと思ってーーー』 『あれ、変なとこへ気を廻しゃあがって』 野良猫の影に驚いた雛鳥に似ている。彼女はあわてて紙漉小 鶴江はあわてて、 屋のうちへ駈けこんでいた。 『勿体ない、どうそそんな事は。 : それに寝るほど体のぐあ くずよ 紙漉の市兵衛は、何か物音がしたかと思って、屑選り場をの いが悪いわけでもごさいませんから』 そくと、薄暗いそこの隅に、彼女が、傷む眼に紅絹を当てなが 『それ御覧な』 すく ら、凝と、恟んだなりに坐っているので、 女房は、市兵衛を睨めつけて、 うす 『ーーーおや、お鶴さんじゃないか。どうしたんだえ ? 』 『はやく仕事場へ引っ込んで、臼の屑紙を搗いておしまい』 おもて 『べつに と。小屋の戸外で、 『でも、ひどく顔いろが悪いぜ。又、眼が痛み出したせいかね』『誰も居らぬのか。 たのむ、ちと物をたずねたい』 『あ ? 『ええ : : : 何うしたのでしよう。きようは、臉に熱を持って、 : 誰か外へ』 かす 何を見ても黒く霞んで : ・・ : 』 夫婦が顔を見あわせると、鶴江の顔は、途端に、紙より白い 『そいつア困ったな。きようはもう仕事はいいから、蒲団を出ものにな「て、拝むような眼で、 して、横になって居たら何うだい』 『おかみさん、居ないと云って下さい。後生ですから、そんな 婦『ありがとうございます』 者はここに居ないと : : : 』 『その顔いろじゃ、眼ばかりではあるまいぜ、風邪気もあるん『おや、おまえの知っている人 ? 』 の だろう。どれどれ、眼が悪くては何をするにも不自由だ、おれ『え、今、裏の川べりで、ちらと向う岸から私の姿を見た人で こが夜具を出してやるよ』 市兵衛の女房は、 市兵衛がすぐ、 じっ ひなどり かみすき おのの 259
へ、逃げようとすると、八右衛門は、その手を、ぐいと抑え て、 『どこへ ~ 打く』 と、云った。 然し、決して、咎める眼でも、叱りつける顔いろでもない。 笑っているのである。 『わたくしは、大坂の町人ですから、江戸のお方は御存じもご ざいますまいが、鴻之池と申す商家の手代で、お ~ 來は、あちら生きた心地もなく、お莱は、台所へ立って、膳ごしらえにか かった。瀬戸物を手から落して、砕いたり、銚子を倒したり、 : ははは、それが縁で、実 にいた頃からの馴染みでしてな : みじ は、世話をしている男でございます。つまり、江戸のことばで惨めな程、おろおろして。 八右衛門は、茶屋で遊んでいるのと、少しも、変りがなかっ いうと、旦那筋という者でございましような、八右衛門と申し ます』 しかがですな』 『亭主殿、お毒味しました。さあ、一杯、 と、丁寧に、頭を下げた。 、や、此家の亭主だ』 梟は、あらかた、そんな者だろうとは知っていたのである『俺は、客じゃあない、此家の人間だし 『けれど、生活の金は、月々、手前からさし上げているのです が、故意に、とばけて、 から』 『ふウむ、じゃあおめえは、この女の、旦那だというのか』 『おめえは、、 しってえ、自分の囲った女に、こういう亭主があ 『左様で』 『だが、俺は、お莱の亭主だぜ。亭主をおいて、旦那とは、何っても、何とも、感じねえのか』 『感じないこともございませんが、何せい、相手が女ですから うして云える』 ぎや な。女とは、抑から、こうしたものではございますまいか 坐り直して、わざと、ばろ鞘の刀を、そばへ寄せた。汚ない ひとえ 単衣のめくれた膝がしらから、筋彫の文身が見えるのを意識し失礼ですが、あなたこそ、自分の女房が、旦那などと申す者を 持っているのに、何のお怒りを覚えませんか』 て隠そうともしないのである わなわなふるえているお莱の腕くびを掴んだまま、八右衛門 てじゃく 五ロ と、梟は、その言葉の初まる頃から、手酌でぐびぐびと飲み は、世馴れた笑い顔を、すこしも、不自然に見せすに云った。 ん『それはそれは、旦那と、亭主とが、出会うたのは、世にも稀初めて、 「今日は、此女を取っ締めに来たんだ』 れな、奇遇でございます。ひとつ、飲まねばなりませんな』 ろ と、怖い眼で、お莱を睨めた。 そそれからーーー台所へ向って、 『まあ、何があったのか知らないが、稀、ゝこうして、旦那と亭 「婆や、婆や』 とが いれずみ 、 ) 0 と、呼ぶ。 かわ お莱が、渇いた声で、やっとその時、初めて、 『婆やは、使に出して、今日は居りません』 と一ム、つと、 『じゃあ、おまえでもいい。酒の支度、酒の支度』 くらし ひとっ たまたま 797
すると、智識様は一言、 すると、その猪牙舟のうえに乗っていた白粉の顔が、 『あらっ 薩そち達の、よいように』 菩と、仰せ出る。 と、 ~ 並った。 よろ そしてすぐ踰めきながら、 五 『小泉さんっ : 遊 『ありがとう存じまする。一足でも、智識様のおみあしが、私 と呼んだようであったが、小ア 泉百介は、聞えなかったのか、 みようが 共のような家のしきいにかかったとあれば、子孫までの冥加、 わざと素知らぬ顔をしているのか、振向かなかった。 ふくろ さだめし、家内や娘共も欣びましよう。・ : では』 その間に、お莱と梟の乗っていたその猪牙舟は波にあおられ と、魚弁の主人は、額をすりつけて礼拝した上、船頭たちへながら、永代橋の下の橋杭で囲まれた闇の彼方へかくれてしま っ・ ) 0 向って、 『船を、河岸へよせておくれ。両国は混み合ってまだ上れま ちと遠くなるが永代橋へ廻してもらおうか』 と云った。 けれど、その永代橋近所も、灯の数が波に騒ぎ合っていた。 ちょうど打揚げの後の仕掛火が終って、いっさんに、船が岸へ なだれ寄った汐先なので、怪我人があるとか云うほど船頭同志 の気が逆上っていた。 『おお、涼し、 『あっ 智識様は、不要意にこう云って横へ手をついた。こっちの胴お莱は眼を細めて、 ちよき 『船頭さん、舟をそこらの洲へ繋めておくれ。もうこの辺でい の間へ、一艘の猪牙舟が、かなり烈しく、どんと、舷をぶつけ いか、ら』 たのである。 大川尻は、暗かった。 提灯が揺れ、燭台が仆れかかった。 佃島の葭の洲へ、船頭は棹を立てて、 『あぶない』 ふさ と、魚弁は、手をだしかけたが、智識様の紫の法衣へは、手「花火の中から来たせいか、急にこう眼を塞がれたように暗う がすね。もそっと明るい箱崎の方へ寄せましようか』 の触れられない気がして、そばの燭台を抑えた。 しよ、暗い方が、涼しいじゃないか』 こっちの船頭は、棹で、向うの猪牙舟を突き離しながら、呶『なに、、、 『成程、こいつあ、船頭が野暮ッてもんだ、旦那がいらっしゃ 鳴りつけた。 るのに 『気をつけろっ』 男来る日 ノ 82
えん 変わったお互いの姿を語りあうよりも先に、お菊ちゃんは怨 こたあねえでしように』 をふくんだ眼で、 八『だって、散歩たと思えば、、、だろう』 あなもり 露二十八、九にもなって、お嬢さんと呼ばれているその婦人『おまえは、ほんとにひどい人ですね。穴守の茶屋へ私を待ち かみがた たた や 呆けさせたまま、聞けばあの時あの脚で、上方へのばってしま は、癆咳が祟って、いまだに嫁げないでいるのかも知れない の 白桃の花の下に立っていると、白桃の花よりは先に風に散ってったのだということじゃありませんか』 からえ らふせん 『そうそう、そんなことがあったなあ』 しまいはしないかと思われるほど弱々しい。唐絵の羅浮仙のよ ひふ : だけど、いっから静岡へ来 『あったなアもないもんです うに腰がほそくて、着ている被布の紫がつよすぎる。髪は夜会 巻というものに結って、静岡ではこのごろ、県令の奥様が翳していたの』 ・ : 「′もり物み、 『もう、四、五年』 ているといわれている舶来の蝙蝠傘を持って、散りしいている 『あら、私も四、五年になるんだけれど、どうして今日まで会 地上の花へ、傘の先で何やら描いていた。 わなかったんでしよう』 『おい、お客』 『お菊ちゃんも、いい奥様ぶりになったな。江戸の美い女が、 露八は、障子をあけて、そこから首を出して呼んだ。 みんな、薩摩ッばや、長州弁の官員様の女房に取られちまうの 『支度ができたからお出でーーー』 を見ているのはさびしい勝てば官軍か』 『よしてください。私は相かわらず病身だから、今でもきれい に独り身なんだよ。私が連れ添っているものは、昔と変わらな いこれだけです』 ひも と、被布の紐を解いて、帯の前をのぞかせた。帯にはなるほ ど、冷たい一管の笛ぶくろが、お菊ちゃんの清麗を保証するよ うに差してあった。 『ま。お上がんなさい』 『あら : : : おまえは ? 』 びつ ゃぶうぐいす 清麗な老嬢は、その時、石をぶつけられた藪鶯のように吃『上がってもいいの。お蔦さんとやらがいるんじゃないかえ』 な・ヘかま きゅうてんし 『へへへ。そんなのがいるくらいなら、床の間に今戸焼の鍋釜 驚した声をして、幇間の桜川を措いて灸点師の前へ走ってい を乗っけちゃあおきませんやね』 お菊ちゃんは、後ろを向いて、 『露八さんじゃないか ? 』 - 一ちそう 『師匠ーー。お茶でも御馳走にならないか。露八さんを、知っ 『あっ : : : お菊ちゃん』 ている ? 』 『まあ : : : あきれた : 『ぞんじません』 浜中屋の娘の、笛のお菊ちゃんであった。 、 ) 0 したく たいこもち が虫 とっ ひと さつま
はえ 畳の陽だまりに、冬を生きて越した蠅が一匹、顔をこすって いる。露八は、それを見ていた : ところで、君の用向き 『じつは、今日ちと、忙しいのだ。 『弟のことですが』 『八十三郎君は、長州屋敷にいるそうだが』 『へい』 数日の後。 ちぐさありぶみ かわらまち 『さかんに暗躍しているらしいな。正月下旬、千種有文の家来 河原町の薬師堂に下宿している渋沢栄一を、露八は、訪ねて あしかがたかうじ 賀川肇を襲撃した中にもいたというし、つい先頃の足利尊氏の 一何った。 かか 木像梟首事件にも、関わっていたという風説がある。学問好き 「土肥君か』 で、そんな実行家じゃないと思ったが』 あまり浮かない顔だった。 露八は、訪ねて来たことをすぐ後悔しながらも、弟のために 話が反れがちである。 はと、頭を下げた。 露八はまた、蠅を見まもっている。蠅は、寒そうに、どこか 『じつは、お頼みがあって、来たのですが』 へ行ってしまった。 『まあ、向うの部屋へ行こう』 『ところで ? 話の先を折って、渋沢は立った。なるはど、その一室には、 渋沢は自分で話を反らせながらまた思い出したように催促す 彼のはかに三人も一ッ橋家の小役人らしいのが机を並べてい る。 て、書類に埋もれながら忙しげに書き物をしているのだった。 露八は、弟が、人斬り健吉に狙われて、危険な事態にある場 『ここなら、暖かいし・ っ 合を忠告してやっても、自分の言をきかないので、渋沢から一 と渋沢は「薬師如来の内陣が見える本堂の隅柱に倚りかか 春さきの陽が、露八の背と渋沢の横顔へ、波紋のように明っ身を隠すように意見してもらおうと思って実は訪ねて来たの であるが、渋沢の顔をみると、性があわないというのか、妙に るく射した。 気がこじれて、何か恩でも着るような重い気がしてくる。 『その後、君は、何をやっているのかね ? 』 ( し 渋沢はそんな男ではないことを、万々胸では承知しているの 『流しをやっています』 差 しやみせんひ だが、ともに、入江道場の模範生と並び称されていたことが、 き「三味線弾き ? 』 変に、わだかまって、心の隅で、ともすると、下げる頭をあべ ぬ『へい』 こべに突っ張って来る。 『ふふむ : 町人になりきったね』 『忙しいんでしよう』 『なりきれないんで、困っていますよ』 かんぬき差し ないじん せわ すみばしらよ たず はじめ きようしゅ わら 8
床をふと考えていると、例の百姓くさい財布を解いていた渋沢 露八のばんやりを醒ますように云った。 八『そうだ』 露 『土肥氏、すくないが、早速にお困りは金だろう。費ってく 露八も、云わざるを得なくなった。また、そんな気もしてく や れ』 るのだった。 の ーしかーし ~ 路、よ、、 しくら渋沢に、い服してみても、ただ一つ、あ『え』 けわん ぶないものだと懸念したのは、渋沢の信念が、どこまでのもの手を引っ込めて、 かりな 、理性のととのった男『あなたにはまだ、古い借金も済していない。 だかという点だった。こういう頭のし が、果して、実際にのぞんだ場合ーー国家のためーーーという以ては』 『遠慮するな』 外何もなく、さらりと、若き白骨になれるかどうか ? ふところ 無理に懐中へ押し入れて、 ( そこへゆくとーー弟の奴は : : : ) 『ーーどうだこの京都は、江戸とは、活気が違うだろう、当分、 彼は、無ロな八十三郎の行く手に、骨肉的なー・ー死なしとも 見学するさ』 ない不安さを多分にしオ 渋沢に別れると、露八は、初めて自分が自分のものになった 気がして、 かわら ( アア窮屈だった ) 磧の夜霜 思いきり、伸びでもしたいように、さて、加茂川というの なが は、これかと眺めた。 ふところへ、渋沢がくれて行った金の紙包をあけてみると、 糊付けの小判が二十枚、べたんと一個になっている。この金の 塊りと、あの渋沢のみみッちい性格と、どう考えても、露八。 『では、ここでお別れするか』 はつりあいがとれなかった。 三条大橋で、渋沢は足をとめた。 かわらまち 『ふしぎな男だ』 『ーーー河原町の薬師寺に、平岡様とともに当分御一緒にいるつ たず しかしまた、、、 もりゆえ、 とうしても、性格的に、好きにはなれないので いつでも訪ねてくれたまえ』 あった。露八は、その金が費いたくない気がした。 露八は、ほっと、気が楽になった。 やすやど 安宿を見つけて、彼は、泊りこんだ。その晩、使い屋をたの 『いずれ伺います。ーー・平岡様のいない折にでも』 から んで、さっきの金に手紙を付け、すぐ河原町の薬師寺にいる渋 『いてもよかろう。酸いも辛いも御存じの御用人だ』 沢へ返しにやった。 『でも : 露八は、京の往来がめずらしかった。同時に、今夜からの寝『これで、さつばりした』 のりづ かたま さいふ こんな物を貰っ つか もら
『そうだ。 もう会えないかも知れない追いかけて行っ ひとことあや て、一言、謝まろう ! 』 走り出すと、 『ほんとか ! おいっ ふと・一ろ 懐中で握り合っていた手と手を、抛り出すように放して、露『あれつーーー露八さん』 お菊ちゃんは、縋りついた 八が云った。 その血相に、お菊ちゃんは初めて、彼の顔がいッばいに真人『追いかけて行ってもしようがないじゃありませんか。知って のことなら悪いけれど』 間の良心と感情を激動させているのを知って、 『いや、済まない、どう考えても、気が済まない。弟は、俺の 『おや、どうなすって』 声だもの、俺と知っていたに違いない。笑っていたろう。嘆い 『土肥八十三郎と云ったな』 : でも俺は、どうにもならないんだ。間違っ ていたろう 『ええ』 て、侍の家に生まれてしまったんだ』 『間、いなしか』 『だから、 しいじゃありませんか。どう歩くのも、その人の一 『ありません』 生でしよう』 『俺だって、そんなことぐらいは知っている。俺には、佐幕の と、泣きたそうに、露八は両手で顔を蔽って、 どんぶつ 勤王のという資格がない生まれついての鈍物なのだ。鈍物な 『面目ない、面目ない』 りに世間の邪魔にならないように、そして、自分のがらに合っ 『どうしたんです』 すみだがわしじみ た世渡りを隅田川の蜆みたいに送りゃあいいと思っている。永 『弟だ。八十三郎は俺の弟だ』 い時世を経て来た江一尸には、俺と同じ蜆が沢山わいているか 『はんとですか』 ら、弟や、勤王派の者が、考えていることは本当だ、弟の行っ 今度は、お菊ちゃんが、吃驚して訊いた た道に、違いはない』 , : ああ知らなかった』 『誰が、こんな嘘を云う。 『 : : : 二人で暮らしましよう。露八さん、私は浜中屋を出ても 『私も知らなかった』 くよくよ きずなせけんてい 『弟は、国事のために、牢にも入り、板子の下にまでかくれていいだから貴方も絆や世間態に鬱々しないで、短い世を、お 互いに楽しもうじゃありませんか』 : 兄は、この兄貴は : : : 。酒を飲んでいた』 「俺の生まれ性では、そうするよりほかはない 『酒に飲らい酔って、弟の頭の上で、歌をうたった。踊りを踊のままでは、俺は辛い。一目、弟に会ってから』 いそちやや 『じゃあ私は、穴守の磯茶屋で待っていますよ。きっと、帰っ ・ : 鹿つ、この馬鹿』 っていたじゃないカ 奈 げん - 一 神自分の頭をばかばかと拳骨で撲 0 て、うろうろと、いまにもて来るでしようね』 あさもやあなた 『帰るとも』 泣き出しそうな顔を、朝靄の彼方へ上げた。 うそ びつくり おお あなた
幾度も来て、拙者と、話して行ったこともあるが、しつかりし 読みかけていた横文字の書物をふせて、 ている』 『ちツ。またやっているな』 『ムフ日は、ぐあいが市い。 - 近日こちらから伺うと : : : 』 八十三郎は、窓から首を出した。 たびたびなので、八十三郎は、すまない顔して断りに出て行 庭にいた庄次郎が、 『何だ ? 弟』 ちかごろ やがて、戻って来て、 『実こ、 癇にさわる。近頃は、毎日ですからな』 「では、お待ちすると云って、帰りました』 ーカ』 しやも 『挈 : つ。カ』 『あの軍鶏の声です』 ほっとしたよ、フに 『軍鶏か、あの声は』 : あれが聞こえ出すと、勉強『何か、文句を云わなかったか』 『まるで、喉を締めるような。・ 『べつに』 ができない』 ( りんしよくか 庄次郎は、苦になった。もう一年越しになる借金、吝嗇家の 『どこの家で、あんなものを、飼っているのか』 この上の藪の中に、 し、ぐ、崔足も根気かしし 『飼っているならいいが、そうじゃない。 てんばうせん ならずもの その四十両はおろか、近頃は、天保銭一枚、自由にならな 無頼漢と、闘鶏師が集まって、博奕をしているのです』 しめ 金さえ持たせなければとー ! 、父も叔父も諜し合っているら 「ふふむ、蹴合いか』 「賄賂を取っているとみえ、町方の役人も、耳のない顔をしてしい 『コりつこ いる。上も下も、怪しからん世の中だ』 ほおづえ なるほど、そう聞いてみると、かなり耳につく。 窓に、頬杖をのせていると、今日も、山の藪で軍鶏の絶叫が ふうてい 風態の悪いのが、風呂敷をかぶせた、軍鶏を抱いて、だらた聞こえる。ちょうど、今の自分の苦しさのように耳につく声 ら坂を、往来している姿も、よく見かける。 庄次郎は、物置へはいった。何を考えたか、錆びた十手を一 四、五日後だった。 ふと - 一ろ かきまた たず 本、懐中へかくして、裏の垣を跨ぎかけた。すると、 『兄上、渋沢栄一殿が、 : 訪ねて来ました』 っ 『こらつ、どこへ参〉るツ』 『何日 ? 』 せっちん どな 父の半蔵が、雪隠の窓から呶鳴った。 鶏『只今、お玄関に』 『少し、外を歩いて来ます』 『えつ、来たのか。居ると云ったのか』 やや、反抗的に答えると、 『へつに、はっきりは、申しませんが』 『早く、帰れ』 闘『居ないと云ってくれ』 『なぜです。なかなかいい人物じゃありませんか。御不在中、 わいろ かん ふろしき ばくち ゃぶ っ一 ) 0
( 我慢だ ) 茶の間で、笑いこけていると、 たた 十何年間、道場へ、叩かれに通った辛抱を思えば 八『いやな、姉さんね』 ・一ぶし は、我慢の膝に、拳をついていた。 露庄次郎の耳を憚って、妹は姉を、叱っていた。 や とん、とん、 コ」無礼じゃないの、お客様に』 の 誰か、二階から降りてくる はすば ( さては、古が終わったか ) 姉の声は、蓮ッ葉だった。 はしごだん いつけ ほっとしていると、梯子段の上から見たのが、白足袋、袴、 お侍様が、怒って 『中の姉さんに、吩咐てあげるからいい しゃ い年配の武家が三人。 紗の羽織ーー提げ刀をした も、知りませんよ』 ぞうり そ『お喜代、草履をだしてくれい』 『だって、おかしいものは、しかたがないじゃないか。 『お帰りでございますか』 れも、悪い気で笑ったわけじゃなし : ひらせい ど、つじゃ、わしの 「ム。平清に、寄りあいがあるでのう。 『でも、悪くおとりになれば : かわい : ねえ、喜代ちゃ喉は、近頃は、ずんと、しぶかろう』 『なったらーーーなお可愛いじゃないか うぶ ちかごろ 『大きい姉さんと、階下で、聞き恍れておりました』 ん、ここへ来る人で、近頃に、あんな初心なお侍って、少ない った ムム、お蔦のことか、何せい、この 『大きい姉さん ? よ。惚れてみたくなった』 きよう 家は、上の姉、中の姉、それから、下のと。ーー三人も美人の姉 『また ! 姉さんは ! 』 妹がおるので眼うつりがする』 妹に、打たれたか、乢られたのであろう。 うわさ 自分の噂をされたので、お蔦も、顔をだして、 『痛いッ』 『おや、もうお帰り ? 』 上わ調子に云って、よけいに笑いながら、その洗い髪の白い のぞ すそ 「居たのか』 顔が、暖簾の裾から、無遠慮に、庄次郎の方を覗いたりした。 『居たのかは、ござんすまい』 『でも、昼寝していたじゃないか』 『お声に、聞き惚れてうとうとと』 居たたまれない 1 : 一ち うそを申せ』 庄次郎は人心地がしなかった。よくよく、 しやみせん そのうち 『ほんと。めッきり、三味線もお巧者になるし : ( 出直そうか ? ) しない に、水神あたりで、しんみり伺わせてもらいましようかね』 と思ったが、預け物のうち、竹刀はとにかく、皆伝の目録だ けは、どうしても、持ち帰らなければ、屋敷へ戻って、父に怪「だが、そちは、嫁に参ったはずではないか。いつまで、ここ ひろう にもおるまし』 しまれるし、明日の親類どもの披露の宴には第一にさしつかえ でもど 『出戻りに、そう、恥をかかせるものじやございませんよ』 る はばか しか すいじん ひ詈 した たびはかま と、彼