のは、まるで前とは違ったような女になり、ト / 娘のくせに酒もあなたの煙管が証拠になり、北条貢の所為だとなって、忽ちあ あらし むれ 明のめば、男の群にも大胆になり、水茶屋から茶屋女へと住み替なたの家へ討手がかかり、あなたと鶴江さんは、暴風雨の中を しみじみ 有えてゆくうちに、沁々と、親のように意見をしてくれる人があ逃げのびて、それきり江戸表から姿をかくしてしまいました。 たな と後で噂を聞いた時、わたしは何だか、初恋に破れた胸の 明って、そのお方の店へ引き取られ、鶴江さんが嬰児を生んだ頃 には、わたしも少し身を持ち直して、堅気なお店の小間使にな傷みが癒えたように、せいせいして、いい気味だと思っていた 無 ものです』 っていたのです』 : だけど、人を呪わばという通り、それから先の私も又、 貢は、うつつに聞いていた お兼の話を聞くにつけ、彼もその頃の懐しい生活を、瞼に思不幸になってしまいましたのさ。親のように見てくれた御主人 きじ つぶ い泛かべているのであろう。 眼を閉じた儘、手足のきかなの家は潰れ、茶屋女の群れへ戻ると、又元の生地が出て、前よ じっ むしろ い五体を、莚のうえに横たえて、凝と、耳だけを澄ましているりは身を持ち崩し、そのうち朱黒子組の悪党などと親しくなっ のであった。 て、いつの間にか泥沼にひき込まれ、今じゃあ女のくせに立派 すり 『 : : : ところが、北条さん、わたしを意見して、折角、堅気なな悪党の一人になって、女掏摸のお兼といえば、お上からも極 娘に引き戻してくれた親切な旦那を、いったい誰だと思います印をいただいている兇状持です。変れば変るものじゃありませ びつくり か。聞いたらあなたも吃驚するに違いない。そのお店の旦那とんか』 そう聞くと、貢は突然、 い一つのは、日本橋本石町の両替屋で佐渡屋幸助というお人で 『げツ、な、なんと申す。ーー女掏摸のお兼はそちの事だとい 、フ・カ』 『えつ。佐渡幸 ? 』 ぼっぜんむしろ 利かない体を、その驚きに弾ませて、勃然と莚の上に坐り直 『或晩ーーー強盗が押込んで、斬り殺されてしまいました。あの し、高窓の白い顔を、睨むように見上げた。 佐渡幸がわたしの恩人なんですよ』 お兼は、相変らず静かな低声を持ちつづけて、 『奇縁だな : : : あの両替屋におまえが住み込んでいたとは』 『そうですよ。ーー・初恋にやぶれた末がこうなったんです。少 『あなたも今日まで、それとは夢にも知らなかったでしよう。 きせる たが北条さん、その佐渡幸の死骸のそばに落ちていた煙管しは、可哀そうだと思ってくれますか』 『で、では何かーーー』 は確かにあなたの持物でしたツけね』 もっ と貢は、早口調になって、舌も縺れがちに、 『 : : : ウウム、それ迄、知っていたか』 『知らなくって何うしましよう。大事な恩人の御主人様があの『先頃、伝馬牢を破って逃げた女掏摸というのは、そちではな しカ』 無残な殺され方。 : : : 今だってその恨みは、骨身に沁みて忘れ 『ええ、あんな事は、朝飯前にやるんですよ』 十 / . し 所でだんだん噂を聞けば、その晩の下手人は、 のろ
『おいお兼、すぐ後を閉めて置くのだから出ていねえ。 そこの前まで貢の体を担いで来ると、 あ、これで一役済んだ』 明『 : ・・ : おや、何だいそれは ? 』 む・一う 外から鉄の錠前を固くおろして、浪人たちは井戸端へ寄り、 有と、彼方から声をかけた女があった。 からからと井一尸車を朝空に鳴らして、手足の泥を洗い始めた。 明ここにも巨きな一株の柳があって、その側にある釣瓶井戸に 、、よ ; ら、ふっさりとある黒髪を撫でつけ 何か気がかりのように、お兼はまだ、そこらを歩いていた 寄って、水櫛をつ力しオカ 無 ま、少し赤らみかけて来ている柿の木の稍を仰いで、 ていた若い女だった。 『ねえみんな、この柿甘い ? 渋い ? 』 顔を洗いに出た所と見えて、手拭を井戸ぶちに懸け、寝起き と振顧っていきなり訊き出した。 のればったい眼をしていた。 浪人たちは足を止めて、 : ゅうべは泊っていたのか』 『おう、お兼か 『こんな屋敷に泊りたくもないが、あれからちっとも目が出な 柿と初恋 くて、とうとうきれいに奪られてしまい、帰りの駕賃もありや てまくら ほか あしない。しかたがないから他の部屋で寒い手枕さ : わる 行き過ぎようとした浪人達は、お兼の問いに振り向いて、 ばど凶い晩だったとみえる』 『そうか。駕賃ぐらいは、先生からもらってやるから、まあ遊『ーー・え、その柿か。それやあ甘柿だが、まだちっと早いぜ。 ひとしもお 一霜降りなくっちゃあ、ほんとに甘くはならない』 んでゆくさ』 と云った。 『それよ、 : 、 。ししカ : : : その荷物みたいなものは、いったい何だえ』 お兼は、梢を仰ぎながら、 「人間さ。見れやあ分るだろう』 『かあいそうにどうしてそんな目に遭わせたのさ。何か賭場「あの辺の実は、だいぶ赤く熟れているが、一枝折ってくれな しカ』 でも荒したというのかえ』 『そんな生やさしい人間じゃねえ。これから毎日、指を一本ず『子供みたいに、つまらねえ物を欲しがるなあ』 『その子供が、この頃、親類から預けられて、家に留守番して っ切って、十日後にはあの世へ渡してしまう奴だ』 いるのさ。とても可愛いい子で、わたしが外へ出かけると、 『じゃあ仲間の裏切り者かえ。 : : : 見た事もない人じゃない みやげ つでもお土産を持って帰るものと極めて待っているもんだから カ』 ・ : その子の土産にしてやりたいのだよ』 話しながら髪へやっていた白い手が、いつの間にか粋な櫛巻 に束ねていた。それが済むとお兼は、手拭をさげて、浪人たち『そんなに欲しけれやあ、いくらでも持って行くがいしが、そ が担ぎ込んで入って行った納屋蔵へ、自分も後に尾いて入ってこに梯子があるから、自分で折ったらいいだろう。ーーー何しろ 俺たちは昨夜から寝すにいるんで、これから悠つくり一寝入し 行った。 かっ つるべ くしまき ゅうべ あ 356
んとに憎むべき悪人というのではあるまいか ーーこの男の仮への激しい思慕も深くかくし、良人の事も忘れたような顔をし たまたま 明面を剥ぐという目的の為だけでも、鶴江は、生きていなければ た。そして稀、ズ貢の話が出ると、聞くのも嫌なように、貢の 有ならないと思い直した。 事を悪くいっこ。 最初は、幾分疑っていたらしいが、そのうちに、左平太はす つかり心をゆるして来た。 ー : といっても、婆やと仲間の監視 無 は決して解きはしなかったが。 菊の帰り いっか、夏も過ぎた。永い間の疲れが、夏痩せと一緒に出 て、鶴江は秋口になって、十日ほど煩病った。床を上げた後 町人の寮にでも建てたような、小ぢんまりした川添いの家も、痩せは快復しないし、いつも沈黙を守って、水のように、 じっ 一室に凝としていた。 ちゅうげん 婆や一人に、助七という仲間が一人。 『少し、外でも歩いて見ては何うだな』 しお もちろん此家は本宅ではないので、藤懸左平太は屋敷へ帰っ藤懸左平太がいったのをよい機に たり、江戸城へ勤めたりして、留守の方が多かったが、その留『ええ、眼さえ不自由でなければと思いますが』 守中は、この婆やと仲間が、絶えず鶴江を見張っていた。 と鶴江も、外の陽を浴びたいようにそう答えた。 もが 然し鶴江はもう腕かない。 小舟から此家へ上った時に 『婆やを連れてゆけばよい』 はむか めしい ( 盲の身で、生なか刃向ってみても無駄なこと、それよりは、 左平太はすぐ、婆やを呼んで吩咐けた。 運命に素直になって、 『おい、鶴江を連れて、余り人混みでない、 そうだな、萩 と、密カ 、に、、いをすえていた。 も菊もまだ少し早いが、小梅の百花園へでも連れて行ってく 折れたと見せて、彼女は左平太に、従順を示した。左平太れ』 びより ひろ は、彼女の口から、自分の本体が曝かれるのを惧れていたが、 『ほんとに、こんな好い秋日和には、少し外をお歩いなされた かよ , っこさいます - それと共に、彼女へ貞節を曲げる事も強要した。 ・ : それでは、お髪でも上げて』 『それだけはどうそ待って下さいませ。北条貢が、捕まって、 『ウム、髪も結った事もなし、化粧もした事がないようだ。 お上の処罰を受ける日まで。 それさえ見届ければ、決して ・ : 髪結いなら、照降町のお滝を呼んで結わせるとよい』 否やは云いませぬ故』 翌る朝、お滝というその髪結いが来て、鶴江の髪を上げた。 左平太は、彼女の言葉に、無理はないと思ったらしい 鶴江が風呂に入っていると、お滝は茶の間で、婆やと何かひ きっと 『では、北条貢が処刑になれば、屹度おれの意に従うな』 そひそ話し込んでいたが、軈て、 と念を押した。 『じゃあ、左平太様によろしくね』 鶴江は要心ぶかい彼を信用させる為に、それからは、わが子 と馴々しく云って帰って行った。 ) つ、 - 0 おそ わずら
: いや北条貢だ ! 』 考えられる。それは、北条貢はすでに、菊太郎や鶴江の護送さ 明石禅は足を早め、ここが人目の多い町中であることも忘れれた事実を知っているという事だ : それなればこそ、この 有て、狂気の声を張りあげた。 街道を歩いていたに違いない。 : そうだ、そう考えれば、江 『 : : : おういつ、御浪人、御浪人。暫く待たっしゃれ。もしゃ戸表までの間に、彼が何か考えている行為をやり出すに違いな 明 其許の名は、北条貢とは仰せられぬか』 いから、その時に、一緒になって、わしも力を協せて彼を助け 無 てやろう。 遙かにーー・彼の呼ぶのが耳へとまったものとみえる : そうだ、それがしし』 浪人は立ちどまった。 ぞうり 着流しに草履ばきで、深あみ笠を被っていたが、その笠のふ ちへ手をかざし、ちらと石禅のほうを見た。 小坂井村は街道からだいぶ横へ入っているので、この辺には 余り立ち入る旅人もない 村の莵足神社は寂しいほど静かだった。 ここの賑わうのは毎年の五月頃、三河や遠州の花火師が集ま 神あらば って打揚げをする行事であるが、その日にはまだ間があった。 静かな草履の音が拝殿のほうへ今歩いて行った。深あみ笠の 『そうだ ! やはり貢だ』 緒を解いて、地へ置き、神に向って、両手をついている 石禅の足が、更に迅くなると、何と思ったかその途端に、浪それは北条貢だった。 ひるが かしわで 人ていの男はツイと身を翻えして、あっと云うまもなく横道へ貢は、祈念の拍手を打って、 走ってしまった。 『たとえこの身は、後日、八ッ裂きの刑にかけられても厭いは わしじゃ、わしじゃ』 『北条っ いたしませぬ。然し、犯した罪のおばえはないのでござる。罪 追いかけて見たが、もう見えなかった。町の裏はすぐ山畑になき父のために、菊太郎までが・ー・ー又妻の鶴江までがーー永劫 なっていて、そこらの林へでも隠れこんだものか、鍬を持ってにこの世から葬られて、生涯を闇に送らせておくには忍びませ ぬ。 畑に働いている男に聞いても、知らないと云う。 その為に、北条貢は、鬼となっても公儀と闘う覚悟で 『残念なことをした。 : いきなり呼びかけたので、わしを変ござります。公儀の命にそむき、公儀の役人を敵とする事がす 装している公儀の手先と思い違いしたのであろう』 でに、この身の大罪かも存じませぬが、それも、父たる者の とうと - っ じよう 石禅は、飽かずその辺を探し廻ったが、遂々、再び彼を見出愛、ーー良人たる者の情ーー・とすれば又、やむを得ない仕儀で す事はできなかった。然し、それに失望はしないで、却ってこあります。 : あわれ、この世に神あるならば、この貢が不徳 しょ - 一う えんざい 故にうけた寃罪を、一日もはやく晴らし給え』 ういう曙光を前途に見出した。 まなこ た ) ・カ、一 ) 、つい , っ様に・も じっと眼を閉じているうちに、貢は何か強いものに、いをささ 『まったく、惜しい事ではあったが そ - 一もと みつぐ かぶ かえ うたり
この辺りの五百石村を初め、平野の部落は、飛騨、越中の山 ( この樽には人間が入「ている ) いわゆる と、明らかに云ったら、この連中が怪しんで騒ぎ出すに極「 脈につつまれた所謂「富山平」であって、今は都は晩春、ここ 今夜の聟であった自分が、どうしてこ ている。いやその前に、 有は春のさかり ただ 明おばろな空は真珠色に明るか「た。振顧「てみると飛騨山脈んな姿に身を婁して、金菱家から逃げて来たか、それを問い糸 あぜ の線が黒く東の空を仕切っている。畑には菜の花や、畦には果されるにきまっている。 無 樹の花が、甘いにおいを煙らしていた。酒を積んだ十台の車が ( わが子の為だ、自分の正義が明らかに公儀に証し立て得るま そうだ手段などを選んでは居れぬ ) 軌をとどろかせて勢よく通ると、それらの白い花や黄いろく眠では。 と、貢はふと、悪鬼のような、い持になって、この十台の車を った花から、蜂が立って、人々の顔に突き当った。 ひいている職人たちを、残らずみな殺しにしても、樽の中のわ もう一息だそ』 が子を抱えて逃げようかと思ったが、 『えやさっ』 酒は汗にな 0 て、車を曳き車を押している職人たちの顔を流 ( 何も知らぬこの人達を、そんな酷い目にはーー ) と、眼を閉じて、思わず身慄いした。 れていた。昼間だったら、真っ暗な埃かも知れない酔ってい 『アア、偉かったな』 しいつもの半分も時間がかからなかった。 る勢はひど、 『見てくれ、この汗を』 『さあ、着いたぞ』 かがや , の船着場へ、梶を並べて止まった。 もう、すぐそこに、大河のさざ波が満々と燿いている。荷を十台の車は、日 さんばし そして、各 4 が、云い合わせたように、鉢巻を取り、肌着を 積む桟橋と、大きな酒船とが、そこに黒い影を作っていて、船 ちょうちん 脱ぎ、逞ましい半裸体を剥き出して、汗を拭き合っている間に、 頭であろう、提灯を振っている。 『そうだ、今のうちに』 『お、つウし 貢は、車の蔭に寄って、 と、近づきつつ、此っ方も提灯を振るのだった。 はっぴ かむ 『坊や・・ : : 坊や : : : 』 頬冠りに、法被を着て、ここまでは気づかれずに尾いて来た 爪先で樽をたたくと、樽の中で、泣き声になっている菊太郎 北条貢も、 どう 。カ これから先、何したものだろう ? ) ( さー しき : ここから 車のあとを押しながらい頻りと考えて来たのであ 0 たが、遂『あ 0 、お父さん ! お父さん ! 出してえ 0 。・ 出してえっ』 ここへ着く迄、よい思案も泛ばなかった。 よい子だ、もう少し我慢してお ・静かに ! ( ・ , ーーどうしたら、檜の中の菊太郎を、この者達の知らぬ間 キ、むらい ほれ、ここが武士の修行じゃな しで : もう少しの間。 、抜き取って、逃げられるか ? ) いかそのうちに、出してやるよ、そしてたくさん美味い物を と考えるのだったが、そんな巧妙な手段は絶対にあり得な やるからな』 そうかと云って、 わだち あか
んだね』 『それやあお見それ申しましたと云って置こう。俺の商売も、 とまア、考えているという話さ。実あ、ほんとの事をい 明贅沢にや縁のある方だから』 一仕事させてもらわねえ うと、どこかで婚礼の膳部でもいい 有『あ、わかった。小間物屋さんか』 たばこせん と、煙草銭にも乾きかけている所だ』 明『ちが、つ』 と、若いほうは、焚火の火に顔が火照って来たか、旅合羽を『なんのこッた』 くすりう・・ 無 と、笑いかけて、薬行商は、膝を打った。 うしろへ刎ねて、 まうちょう 『おい、若い旅の衆。おまえさん、何ていう名だね』 『丁一本の渡り者さ。おら、料理番だよ』 『おれか。おらあ、板前の粂っていうのさ』 『粂さんか。おまえ、ほんとに、煙草銭にでもなれは、何んな きんびし 仕事でもするかい』 ・一びき ひも 金菱の家 : だけれど、木挽 『するとも、飢じい時にまずい物なしだ。・ や百姓仕事はおれにゃあできねえ』 『なあに、婚礼の料理だよ』 弁当をつかい終ると、三名は火を踏み消して、猪小屋を出た。 くすりや 『えつ、婚礼 ? 』 『薬行商さん、富山までは、まだだいぶあるかい』 「ちょっとあるな。お前さん達は、今夜あ、何処へ泊るつもりだ』鏡研師と顔を見あわせて、 『どこかに、婚礼仕事があるのかい ? 』 『何処だろうが、屋根さえあれば、横になるし、金になりさえ きの すれば商売にかかるんだ。そこは、渡り者ンの気楽さというや『あるんだよ。ーー実あ、わしもその用事でな、近いうちに、 婚礼のある御大家から、高山の呉服屋へ言伝てを頼まれて、昨 つき、』 にながわ 日は共処へ寄って来たところだ』 『じゃあ、八尾、大久保、蜷川、五百石、あの辺の村々を流し 。そいつあいい伝手だな。婚礼といえば、たいがい そっちの料『へ工 : くすりや てあるけば、研屋さんの方は商売になろうぜ。 。どうだろう薬行商さん、おま 理番さんは、まあ、富山か、百万石の加賀の御城下〈でも行けその当夜から仕事があるし : し仕事もあろうが、この街道すえさんの懇意な家なら、一つ頼み込んでくれまいか』 ば、その道の親分もいるし、、、 粂はひどく熱心だった。 じじゃ、仕事はないな』 かせ 鏡研師も、側からしきりと、ロを添える。 『そんな事は百も承知だ、些っとばかし上方で稼ぎ溜めた金が こうロをそろえて頼む調子は、、かにも、不意な仕事を拾い あるんで、半分は北国見物、山中、山代へも、入湯に行って、 たい熱意のように見えるが、それにしてはおかしい事がある。 時鳥の啼く頃までもぶらついて居ようかと思っている位さ』 くす . り、つ S ・ 前の日、高山の町で一流の京呉服屋、丸八という店へこ 『へ。さすがは、道楽商売だけあって、わしらのような薬行商 ′、すり、つり とか、鏡研師とかいう、しがない其の日暮しの渡世とはちがうの薬行商が立ち寄 0 て、 とイ - や ひ詈
まよなか 見える気がするのだ、良人の北条貢のあの顔が。最後の鶴江は、幾たびも、真夜半の他人の寝息に、逃亡を唆られ あらし たった一つの道はここを逃げる事だと思う。そして、 明暴風雨の晩に、産褥の枕一兀へふいに来て、 ふたり 有 ( さ ! 逃げるのだ。夫婦は生きれる限り生きてゆかなければ良人とわが子の行方をさがしに出る事だ。 『そうだー : けれど ? ああこの眼さえ』 明いけないのだぞ。この嬰児のため ! ) と、まるで青い炎みたいな息で云って、自分の手を強く引張そう考える事は、然し、彼女の身もだえを加えて、徒らに、い 無 を疲らすだけだった。 ったあの時の良人の顔がーーー眸が ここへ来た頃から思うと、彼女の視力はずっと悪くなってい 『ああ、会いたし』 良人の生きていることを、彼女は信じて疑わない。飽くまでる。自分の掌を顔の前へかざしても、ばっと、微かにしか見え ふたり ない程度にまでなっていた。 も、何んな万難にぶつかっても、夫婦は生きて行こうそーーーと どうしてこの不自由な眼を持 云った良人である。 って、ひろい国々に、しかも、明るい陽の下には住めない良人 を見出すことができようか 『何処に : : : 何処に どばり、どばり、と雨戸の外には波の音がする。浜が近 なぜ人間には、離れた者を知る智力がないのか。これほど思 いつめている思いが、距離があるというだけでまったく先に通いので深夜になると戸の隙から汐の香さえ忍んでくるように部 ひえびえ じないものか。 屋が冷々とする。鶴江は、肉体が涙に疲れきるまで、眠れなか っ一 ) 0 『 : : : おやっ ? 』 と。 がばと、もの狂わしく彼女は刎ね起きた、そして耳を澄ます ふすま あか 1 一 誰か襖の外へ来たように思う。 のである、深夜の何処かで頻りに泣く嬰児の声へ きし 『菊太郎 ? 』 みしっと、柱に軋む音が走って、又しんと止んだからであ ヒヒ、こ、、ツと一田じ、つ る。彼女は、怖しい予感に身をちぢめた。 本有的。 ふじかけ それはすぐ理性の冷たい反省にひきもどされた。近藤懸左平太が、今夜は、宵にひどく酔って、その儘、帰らず にいたことを彼女は思い出した。 所の家に、よく夜泣きする嬰児がいるのだった。 ひきだし あわてて、枕元の籠行燈の抽斗から、燧打石と付火木を出 彼女は、その夜泣きの児の声が絶えないあいだは、毎夜のよ 、・乳房が張って、菊太郎の愛らしい指で、掻きむしられた うず カチッ りまれたりするような疼きに悩んだ。 とうしんざら 燈芯皿へ灯を移すと、 ど、つしよ、つー・何 , フしよ、つ ! 『お : : : ここはそなたの部屋か』 この身を、この悩みの肉体を。 わざとらしく見まわして、案のじよう、酔醒めの青じろい顔 もし人間を創る神というものがあるならば、神こそは、余り を持った左平太がぬっと入って来た。 な悪を為す者ではないか。 * 、んじよく ひとみ みつぐ し、 て ひうち かす つけ そそ
、くらか痛 そして根気よく、清水で瞼を洗っているうちに、し をつめてくんなさるな。又体を悪くしちゃあ何もならないから みが去ったように思われた。 ひるげ けれど彼女は、何かこう辺りが、うすい霧につつまれている 有台所で、昼餉の煮物をしていた女房は、外から顔を入れて、 明『おまえさん、またお喋べりばかりしてないで、ち 0 たあ精をようでならなか 0 た。自分の掌を見るーーー掌は見えるがそれに あわせ お出しよ、こうほかほか陽気がよくなったのに、私の袷の質受さえほの暗い膜がかかっている。 きの、フ 無 : もし、眼でもつぶ 『こんな事は、昨日までなかったのに。 けもしてくれないでさ』 れたら ? 』 『わかったよ、質なんそ、出せばいつだって出る』 『お金があれば、極まっていらあね。働き性のない亭主を持っ彼女の今の生きているただ一つの希望はーーーもし良人が生き ているものなら、いっか一度は良人の顔を、わが子の顔を、見 と、髪も一つ結えやしない』 る日もあろうと云う事だけであった。 『ははは、そうばやきなさんなよ』 きね ぎよっとして、空を見た。 古紙を臼に入れて、杵でどすんどすんと搗く重い音が、日し 空はうす暗いーー雲も見えない。 小屋の梁を揺すぶり出した。 川を見るーー・ゆるい波紋はおばろに見えるが、いつも澄んで 『おや、どうしたのかしら、昨夜も』 いる浅い底は見えない。 ふと、彼女は袖ロで、瞼を抑えた。 『ああ : : : もしもこの儘 : : : どうしよう ? 』 この仕事をし初めてから間もなくである。不潔な物ばかりに 怨めしげに、凝と、ひと所を見つめていた、目黒川の向う岸 違いないので、汚れた手で、知らぬ間に眼をこすったのであろ まっげ う、夜になると、臉が熱をもっし、朝になると、眼やにが睫毛の街道を。 すると、川を隔てて、自分の真向うに佇んでいる一人の武家 を閉じる。 みなり 毎日、我慢していたのであるが、それが今日は殊に眸が痛のすがたが薄っすら見えた。野袴に深編笠という身装である まっげ が、崩していない、きちりと緊まりのあるーー・そして大小や羽 陽を見ると涙が出てくる、睫毛が針のように刺す。 べり いつもそういう時は、崖から川縁へ架けてある樋のロへ行っ織なども佳い物を着けている若い人物だった。 もみ て、帯の間から、紅絹を出して洗って来るのである。 見たようなーーー何処かで見たような。 彼女は、下駄を穿いて外へ出た。 頻りと鶴江が考えていると向う岸の武士も凝とさっきから鶴 『お鶴さん、何うかしたのかえ』 うなず 市兵衛は又、心配して、すぐ窓からこう声をかけたが、それ江のすがただけを見澄ましているのである。そして、何か頷く と、半町ほど先にある橋を渡って来るつもりであろう、黙って に答えてもいられない気持だった。紅絹で顔を抑えたまま、 かけひ そこを去った。 縁の筧の側にしやがみ込んだ。 陽あたりを見つめたせいか、彼女の眸はまた痛む。鶴江はふ ゅう・ヘ - - とめ しき じっ たたず じっ 258
いていなか 0 たかと、身の不徳が、悔やまれるのでござりま衛、ならびに、藤懸左平太の両名にござります』 こう奥へ向って、大きく云った。 明す』 ぜん 奥には、人の騒めきがする。然し、なかなか通じないとみ 有さん然と、肩を、声を、おののかせた。 明半兵衛は、窪んだ眼を、ふと、戸の隙間から洩れる朝の光〈え、 『たのむッ ! おたのみ申すっ ! 』 上げて 無 ・ : 。やはり、わしは一目、貢に会いたい。その時の気半兵衛は、更に、大声を張 0 た。 『おっ : 持では、馬鹿め , と、呶鳴るかも知れん。或いは、ただ意気地すると、前髪の十六歳ぐらいな少年が、つと玄関の上を、現 な顔して横切ったが、 のう泣いてしまうかもわからん。・ : ・ : 何うなりと、ただ一目、 顔を見せよう。顔を見よう、同じ今日という日に、生れ合った ひょいと、二人を振り顧って、 人間同士・・・・ : そうじや人間同士として : : : 』 『これは 障子にすがって立ち上った。 と、膝を折った。 くめのじよう 『では、私も』 城内で顔はよく見知っているーー権堂弥十郎の子息九馬之丞 と、左平太は起って、組頭の腕を扶けた。 昨夜は、父の弥十郎と共に、お坊主の俊斎を呼びつけて、 『オオ、行ってくれるか』 めしとり 『今生のわかれです。 : : : 罪は憎みますが、幼少からの友達』貢の召捕を計ったとも聞いている。 ・ : 何そ御用ばしあって ? 』 『その温たかな気持がの : : : なぜ彼奴にないか。あれ程の人物『小梨半兵衛様にござりますか。 『北条貢事、御当家に、今朝まで御預けと承わり、言語に絶え なのに』 ふらちもの たる不埒者ながら、生前の誼み、一目会いたく、ひそかに、お 力なく急ぎながらも、半兵衛はまだ、貢の才と人間に、消し 父上までお願いにあがった次第でござりますが : : : 』 きれない未練をもって呟くのであった。 『あ : : : 左様で : : : 』 じっ - 一ぶし 九馬之丞は、固く、両手の拳を膝へ落したまま、凝と黙 0 て いつまで凝と石のように。 白々と明けた夜と共に、雨も暴風もやんでいた。 番町の旗本、大番組頭権堂弥十郎の屋敷では、ゆうべのあの『御法もござりましようが、曲げて、御寛大なお計らいを』 豪雨と闇のうちから、人が出る、駕籠が入る、奉行所の者、組左平太も、一緒になって、 『このように、お願い仕つります。私とも、幼年からの友達。 の者、ルならぬ混雑の様子であ 0 た。 風と雨に打ちたたかれて、骨ばかりにな 0 た玄関の高張提灯又、同役。・・ = : 罪は罪といたしても、今生の別れにござります ぬかるみは れば : の下を、背まで、泥濘を刎ね上げて、息喘き込んだ二人が、 吾々御小納戸方、小梨半兵『はい 『権堂弥十郎殿に御意得たい。 つぶや たす うつつ 244
『然し、、 梨様。その前に、あなた様自身で、一応は篤と大番 するように、青ざめていた顔は急に充血していた。 明そして、身を動かすと、 組や、御用部屋取次へ参られて、よくよく事件の実否をお取り ただ 糺しの上で致されたがよいと考えられますが』 有「左平太、貴公も無論、同道するだろうな』 「元より、糺さずに措くものか』 明「どこへですか』 『町奉行としても、御老中まで申達して、その上、思い切った 「知れた事』 無 召捕りをいたしたのですから、よほど、確乎たる証拠と自信が ともう先に歩み出して、 みつぐ 『組下の者の寃罪を、黙っていられるか。一人北条貢の名誉のなければ、手を下す筈はありません』 ためばかりではない。小納戸組の名折れでもある。これからす『自信 ? 確乎とした証拠 ? 片腹痛い事だ、それを見せてく れと申してやるのだ』 、大番組の権堂弥十郎殿に面会を求め、逐一、所存を申し、 『では私は、詰部屋で、お待ち申して居りますから。よく、お その理由なき逮捕を責めて、貢の身がらを取り戻して来ねばな 調べの上で』 らん』 せんめい 『うむ、腑に落ちる迄、きッと闡明せずには措かん。ーー何か 『ーーー遅 , つござる ! 小梨様。のみならす、その御心情はわか の間違いだ、何かの : : : 』 りますが、すべて、無駄でござりましよう』 半兵衛は、肩をあげて、大廊下を奥へ曲がって行った。 『 . なぜ一ーか』 たまり 『貢殿の体は、すでに不浄門から城外へ送られ、こよい一晩だが、それからおよそ二刻も経って、大番組溜間を出て来た時 は、権堂家の屋敷にお預けと極まり、明朝は、夜の明け次第の彼は、首をうな垂れて、悄然と足にも力がない 更に、御用部屋取次の一間へ入り、そこでも一刻あまり費や 、町奉行の手へ引渡される筈でーー』 かけあ 『だからじゃーーーその権堂弥十郎の番町の屋敷へ参って、懸合していたが、もう、そこを出ると、障子を閉める力もないよう まぶた ゆる 、半夜のうちに、白髪になったかと疑われるほど、弛んだ瞼 おうという考え』 「でも、あなた様も吾々も、こよいは御泊番、夜の明けぬうちをして、とばとばと自分の部屋へ戻って来た。 『どうでした、組頭様』 勝手にお城を退出なりましようか』 藤懸左平太は、彼を見ると、すぐ訊ねた。べたっと、腰の抜 『あっ・ : いかにもな』 けたように坐って と半兵衛は、それすら忘れていたらしく、 。わしは、人間というものがわからな 『けれど明朝と相成っては、もう町奉行所へ渡された後になろ『解らぬ : : : 解らぬ くなった。 ・ : この世の中がわからなくなった : 、つ・カ』 はろほろと、こばれた涙を、あわててこすッて、腕拱みの中 『夜明けと共に駈けつけたら、或いは、間にあうかも分りませ に、もう生涯この首を上げたくないと云うようにーーー顔を深く ん』 理めてしまった。 『、、つしょ , っー・ いわれ むじっ