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検索対象: 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明
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1. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ふたり えい - 一う 『ああっ : ど前に、夫婦の永劫な幸福をとて、知己の人達から祝福された 明花嫁道具ではなかったか。 不意に良人の胸へ、鶴江はよろめいてしまった。全身が心臓 有『火を見るな ! 』 のように大きく喘ぎの波を打っている。 明貢は急いで、彼女の手に笠を持たせ、引っ抱えるようにし 『も少しだっ、鶴江』 て、暴風雨の闇へ駈け出した。 1 こ、だめです : : : も、もう : 無 よろ 雨はすっと弱っていたが、風はまだ脚もとを蹌めかすほど烈 『ええ気の弱いっ』 何処をあてに、何う走っているか、鶴江はまったく夢中卩 - ー歩けません、歩けません。わたしは、ここへ捨てて行っ である、いや貢自身にも、その的はないらしいのである。 てください。そし・て、あなた : ・・ : あなた : : : 菊太郎を』 『あなた。嬰児は ? 嬰児は ? 』 『馬鹿なっ』 横なぐりの風と雨に、産後の体を打たれながら、鶴江は幾た 怒るような貢の眉だった。妻の手をつかんだまま、巌のよう やわら びもそればかり叫んだ。いっか笠は暴風雨の手に奪われて、白な背中を向けると、柔術の手にかけるように背負い上げてしま 蝦のような彼女の顔は戦々と黒髪に吹きつつまれている。 う。そして懐中には嬰児、背には妻、二つの生命を全身にかか ふところあっ 『だ、じよぶ ! だいじよぶ。おれの懐中は温たかい』 えて、驀っしぐらに横道へ外れた、その迅くて力強い足から泥 朝焼のように、道が赤く光り出したと思うと、それは自分た水が左右へ切ってねる。 うしろ たし ちの後に燃え上った組屋敷の炎であった。 まっ直に、青山の原から渋谷の方角へ向って来たことは慥か うしろ あらし 同時に何か叫ぶ人声が後に感じられた。振顧ると、黒い影がだ。彼が曲 0 た方には、樹木が多く、闇も深かった。暴風雨に 火光を負って十名以上も散走して来る。火と反対な方角へ向っ折れた樹が無数に横たわっている。 「あっ、 て来る以上、それは自分たちを追って来た者とよりほか考えら れない。 何処の邸だろうか、そこの突当りは高い塀で囲まれてあっ みずかさ もう権堂家の討手も、町方の手も、当然立ち廻っているのが 。右手の崖をのそくと、樹木を透かして、水嵩の増している 当り前だ。貢は、妻へ向って、 目黒川の下流が白く光っている。 うしろ 『わしが一緒だぞ、わしが側に居るそっ』 そう気づいて、彼が崖の降り道を探しかけた時は、すでに後 * 、からい 何度も云って、のめるように駈けた。 から駈けて来た大番組の武士と、町方同心の逆井雷助の手の者 『あれだっ』 「北条貢っ』 わめ うしろ 喚き合って、前へ来ている。 いや後へも。 まえ 職業的な捕手とは思えない、ただ一人で真っ先に貢の正前へ あらし あて ふところ あえ いわお 250

2. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

にあたる夜は、無性にわびしいものを、夜の長いものを。 私も、この畳の上に居るのは、今日限 と存ぜられます。 から まして今夜は、からの暴風雨。 り、たとえ五年十年かかろうとも、北条貢を縛めて江戸へ立ち くぐ 『ど、つして居らっしやるかしら ? 帰る迄は、死しても、わが家の門は潜らぬ覚悟にござります』 さんじよく ふかく産褥の夜具の襟を被って、鶴江は小さく竦んでいた。 『オオ、お健気なこと。そうなくて成りますまい』 何時の間にか、その席を外していた藤懸左平太が、戻って来離れていても心は良人へ縋りついているのである。肌には嬰児 をひたと抱いて。 て、 『九馬之丞殿。ーー玄関に人がおりませぬ故、私が代りに取次組屋敷の屋根は、凄まじい風速に、時折異様な響きを立て る。剥ぎ奪られた引窓の戸や廂が車のように翔け廻るのであろ ぎました、唯今、この方がお越しなされたが : う。庭の辺りへそれが落ちて来た時の物音に彼女は胆をちぢめ : してお客様とは ? 』 『ゃ。・ : : 恐れ入りました。 『南町奉行同心、逆井雷助と申された。 : : : 何か、御密談があた。 かごあんどん 枕元の籠行燈は、荒れ狂う天地の暴威の底に、、い細げに揺ら るとかで』 : いえ私が、自分ですぐ参ります』めいて、時折、消えなんばかりに脅えている。ー・・ーちょうど彼女 『あっ、見えましたか。・ 心待ちにしていた人とみえる。九馬之丞は悲しみの裡にも眸の心臓のように。 ばしやばしゃツ・ ・ : と勝手口の方で水音が聞こえ出した。雨 をちょっと明るくさせて、袴さばきの音も大きく玄関へ出て行 もた が漏り出したのではあるまいか。彼女はすこし顔を擡げて、 『婆あや : : : 婆あや : : : 』 然しその声も、幾間か離れている上に、雨の音や戸の音に掻 わだつみ ふところ き消されて、折角すやすや眠っていた懐中の菊太郎を啼かせて 荒海の珠 しまっただけに過ぎない。 それからと云うものは、火のつくように菊太郎が泣く。あや しても、泣きやまない、乳をふくませても泣きやまない 本能と云うものか、産後の特異性というか、母になったばかり 『・ : ・・何うしたの、何うしたの。おお脅えて居やるか、もうす の不思議な一心は、まだ多分に鶴江の血液を過敏にしていた。 ぐに夜が明けますよ、そして、お父様がお戻りになりますそ 抱いている嬰児の菊太郎が、びくと手脚を伸ばしても、すぐ くちびる : オオ、オオ、何も恐いことはない、あれは風の音』 珠彼女の眼はひらいていた。無心な小さい唇が、呼吸の加減でえ。 だが、そうあやしている彼女自身が、その時、どきっとした のちゅっと鳴っただけでも又、無意識に彼女の瞼はパッと開いて ように枕から顔を上げ、過敏になっている眸を裏口の方へじっ 海しま、つ。 と澄ました。 『ーーーああ、早く夜が明けてくれればよいが』 荒 まだ菊太郎を産まないうちでさえ、良人が御城に夜詰の当番風の音にしては、余りに烈しくて又一部であり過ぎた。突然、 っ・ ) 0 たま すが かぶ ひみ、し ひとみ すく 2 イ 7

3. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

雪より白し 彼が、自分自身で、審さに訊きとった事実は、藤懸左平太の 二百両 云った程度のものではなかった。あんな薄弱な証拠などは、町 奉行としても、殆ど、問題にしていないのだという。 なおその調書には、簡単ではあるが、北条家の見取絵図まで 強、からい からかさ 南町奉行同心、逆井雷助から、上司へ差出してある「北条添えてあって、垣の外の小溝に落ちていた傘の骨までが、何 貢・素行罪状書」というものを見れば、ーーそれは小梨半兵衛も等かの意味ありげに記載されてあった。 さすが組下思いの 親しく見せてもらった所であるが、それに拠ればーーざっと左小梨半兵衛も、これを突きつけられた時は、二の句も次げず、 のような箇条書に分けてある。 た茫然と、世の中の怖しさに、身を竦ませてしまったのであ る。 一、北条貢は、結婚以前、その実家勘当中に浪人、悪徒の 群れと交わり、殊に、諸国諸街道に浮浪の結びを持っ しゅばくろ 兇盗「朱黒子組」に身を匿し居たることあり。 雪より白し 一、その実証には、北条貢の左手くろぶしには朱黒子の入 墨あり。公儀お役付のため、徒党の浮浪人より、手切 ゆすり 金の強請をうけ、窮するの余り、遂に、佐渡幸方へ押『あっ : : : 組頭様。夜が白みかけましたが』 込みに入りたるものと思考せらる。 と、左平太は云った。 一、佐渡屋幸助の死体のそばには、北条貢所持の銀煙管、 『 : : : 夜、が』 及び鼻紙など遺棄しあり。煙管は彼が数カ月前に紛失『唯今からすぐに、権堂弥十郎様のお屋敷へ駈けつければ、ま のよし平常に云いふらしていたる由なれど、彼の住居 だ、貢殿は、町奉行へ引き渡されずに居るかもわかりません。 に近き質店に、下男風の男、両度まで、衣服などと共 ・ : 私も参りまする。すぐ、御退出なされては』 に、北条家の頼み物なりとて、入質に来り、その後受 『・ : : ・起っ力がない。・ ・ : よしゃ間にあっても、北条貢の顔を かきあげ け出したる事実あり ( 別紙に質屋調べの口上書上 ) 見て、わしが、何を云おう。 : 云うことばが見つからぬ』 一、速刻、北条貢方の住居、家探しの結果、左の物件、証『御心中、お察し申しあげまする』 しつかい ・一ぶし 拠として見出し、悉皆、南町奉行所へ差出しおきた藤懸左平太は、拳を膝へついて、臉を瞬たきながら、顔を反 向けた。 右の覚え 『ーーー今更、申してもかいない事でござりますが、百や二百の - りレ - う 床下より、黒木綿忍び頭巾、当夜差し換えの無銘の刀金子が、それ程、用に迫っていたならば、なぜ貢殿は、この 一本、血糊によごれたる足袋一足。台所裏手、物置小左平太に、打ち明けて下さらなんだか。 : 私は、そ、それがイ 屋の中より、佐渡幸より盗み出せる金子 ( 刻印あり ) 残念でなりませぬ。 : 日頃の、私の友情が、彼の胸には、届 みとり

4. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

嘲笑う壁画 そして、開くと共に、雪崩れこんだが、洞然として、ただ真 その自滅の方法として、中で火を放けられたら、手の下しょ 当然、後になって、上野の宮から由々しい抗議っ暗な闇でしかない。お互いの顔と顔さえ、目鼻をこすり合わ なければ分らない程だった。 が降るにちがいない。 あかり 『そうだ。 燈火を、燈火を』 彼としては、今がもっとも生涯で大事なところだと思ってい と、同、いは、外にいる提燈を呼び立てた。 る。奉行所の内部にも、老中にも信用を博し、ここの一段落が めと うまく仕上がれば、秋元侯の分家の姫を娶って、一躍、大名の 門閥と縁のつながる身となれる。 わら それから、彼には、もう一つの福運が待っている。それは、 嘲笑う壁画 がしら 権堂九馬之丞の父、弥十郎が勤めていた、大番組頭の空席だっ , ) 0 うまくゆけばそこへ昇格して坐れそうなのだ。 遂に最後の日は来たか ! 裏面でもう老中がのみこんでいる事だから、手続きの事は、 かたき 保証付きだが、ただこの際、九馬之丞が見事に、父の復讐を取さすがの北条貢も、そう思わずにはいられなかった。 って、北条貢の首を引ッ提げ、公儀に名乗りをあげられると捕手は、ここへも来たのだ。 くつが 左平太の計画は覆えることになるー ー。なぜならば、当然ひろい天地のあいだに、 ここだけは、せめて或る時節まで、 ぶつだ 九馬之丞が父弥十郎の跡目を相続して、大番組頭の座席も、彼五尺の身を入れてくれるかと思っていた仏陀の塔も。 が占めることになるからである。 『ようし ! おれはすでに、人間ではない。鬼と化っているの ( そうだ。時刻を遷してぐずぐすしておると、その間に、九馬だ。 もうわが子にも妻にも、会おうなどという人間らしい : そうなっては、未練は捨てたぞ』 之丞と雷助がここへ来ないとも限らない。 事面倒だ ) 彼は血に錆びている大刀を抱え、闇の中にぬつくと立った。 ずし 左平太は、床几を立ち上った。 そこは、塔の一番上の厨子だった。 そして、右の手を、闇へ上げて、 下から上に登ってゆくはど厨子部屋は狭くなって、彼のいる - 一と 『それつ、中へかかれつ。 一重から五重の上まで、一階毎五層目は、四坪ぐらいな広さしかない に隈なく調べて、大罪人の北条めを引っ捕えろ』 『ーー来たら、刀の折れる迄』 と、下知した。 と、貢は大刀を小脇に持って、その隅に空いている真っ暗な 与力と同心は先に立って、五重の塔の扉に向った。 階段を睨めつけていたのであった。・ しかしこの塔は、上野の宮の管下にあるし、その建造物の価だがーーーその時彼の耳に、誰ともなく、 いのち 値としても、蹴破るような粗暴はできない。捕手たちとして ( 死ぬな、死ぬまいそ、お互いに、生命のあらん限りは。 は、充分、大事を取って、コジ開けた。 親として、子の為にも ) うつ イ 25

5. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

無人の屋敷、馳走は何もござらぬが、われわれの志だけをお酌『滅多に分ろう筈はない。御府外を離れて、市川在の農家の奥 に匿まわれていたのです。ーー・・御両所の苦衷を見るにつけ、何 み給わって』 かたじ とかして、一刻も早く欣ばしてあげたいものと、八方人手を分 『や、辱けない』 藤懸左平太は、ほっと眼のふちを赤くしていた。うけた杯をけて、やっと探し出したのです』 『では : : : 既に鶴江の身はお手許へ』 押し戴いて、 『左様、市川在から召捕って来てはありますが、御承知の通り 『・・ : : オオ、迂つかり、余談に紛れて忘れておりました。きょ わずら きた めしい うお訪ねいたしたのは、又一つ、あなた方に吉報を齎して、欣盲目の女、ここへ連れ来っても、その間のお世話が却って煩わ しかろうと思い、拙者の宅に監禁しておりました。愈、公儀 んで戴こうと思って来たのです。 : : : 御両所』 と、左平太はそこで急に声を落し、すっと、膝がしらを前への白洲へ突き出すなり、又は、復讐のおゆるしをうけて、御両 所が成敗なさろうという時には、何日でも引ッ立てて、お引渡 すすめた。 し申すであろう』 『何から何までーー』と、九馬之丞は両手をつかえて、左平太 の厚い情の前に改めて礼をのべた。 洗った貌 左平太は、酒がつよい しいくらでも、辞退することはなかった。 膝も崩さずに猶、飲みつづけている 『・・ - ・ーーえ、吉報とは ? 』 さっき 九馬之丞も雷助も、彼の沈着な眼元を見つめて、息をのん先刻からのそこの話を、お鹿は、次の間の壁に身を貼りつけ じっ めす て、凝と、倫み聞きしていた っ ( : : : ま ! 鶴江様を ? 何日のまに嗅ぎつけて ) 『北条貢の妻を召捕えました』 わなわな 『やっ ? 顫々と、お鹿の足はふるえていた。 ・ : あの鶴江を』 ( : : : まさか ? ) 驚く二人に、左平太は静かな笑みを湛えて、 と、疑ってみたが、左平太の言葉が嘘と思われない証拠に されば』と、頷いた。そして又、 『まだまだ、そればかりではない。鶴江の良人、北条貢の潜伏は、市川在の農家にかくれていたと言った一言でもわかる。 貌 ( さては、いつの間にか、此っ方の裏を掻いてーー・ ) している場所も、どうやら近いうちに分りそうです。ーー・斯く もう凝としていられない気持だった。左平太はよい機嫌にな たて、御両所が大望を遂げられる日ももはや近い。何ともお欣し くちぶり って、北条貢の隠れ場所も薄々突きとめているらしい口吻では ついであろうが』 十′し、刀 洗『欣しゅうなくて何といたしましよう。然し、鶴江はいっこ、 ( : : : そうだ ) 何処に潜んでおりましたか』 ひそ かお もたら っ じっ か ぎい イり 9

6. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

帯の端 『嫌だ、嫌だ』 お兼は、そんな事とは知らない。 と、叫んだ。 彼女の心は、今はまったく、真っ暗な倉の中に注がれてい いたで その間に、座敷の方の縁側から、二人の影が、ばっと、雑草る ! そこには、先頃から傷手を負ったまま抛りこまれている うめ の中へ駈け出していた。客の藤懸左平太と権堂九馬之丞のふた雲水の石禅が唸いている筈。 りなのである。 『ーー石禅さん、石禅さん。どうですか、お体は。ーーー起てま 『九馬之丞どの、静かに』 すか、 , つ、こけますか』 うしろ 左平太は、手をもって、後の九馬之丞の迅い足を制した。そ低声のうちにも、こう力をこめて云うと、闇の底から、 して、樹蔭に忍び寄りながら、倉の横を、そっと、眼つきで教『・ : : たれだ ? たれじゃ ? わしを呼ぶのは』 えた 『お兼という女です。おわすれかも知れませんが、わたしは、 「あっ ? あの女だ』 鶴江さんの昔友達で、又、北条貢さんに 今は思いきってい 九馬之丞は、思わず低く口走った。 ますが・ーー元は恋した事のある女なのです。 んえ、そんな 今日、目見得に来たばかりの女中のお鹿ではないか。 見古い、面倒くさい事を今云っちゃあいられない。私は、おまえ ればそのお鹿が今、倉の横手の窓へ梯子を掛け、梯子の途中かさんを、救い出しに来たんだけれど、何か、踏み台はありませ ら身を曲げて、中の者へ、何か言っているのである。 んか、そこらに、何か踏み台は ? まだー まだ早い ! ) 『オオ、わしを救いに来てくれたのかー : : 有難い はや 左平太は、逸り立っ九馬之丞をじっと抑えて、その耳へ、ロ鶴江はまだ無事で居ろうか、貢は、何うしているか』 を寄せてささやいた 『いろいろ、話もあるけれど、何しろ、ここを逃げ出すのが第 「 : : : どうですか、やはり拙者が、一目見て、あの女中は怪し一。 石禅さん、起ったようだね』 いと申した事が、すぐ適中していたでござろうが。あの女の化 『起てる事は起てるがーー ! アア倉の中には、何も足がかりがな 粧の為方が何ともいぶかしく見えたのです』 窓から星は見えるが、背がとどかぬ』 けいがん 九馬之丞は頷きながら、重ね重ね左平太の烱眼に心服してし 『こんな、雨風に朽ちたポロ土蔵、倉の窓も、網戸も何もあり まった。酒を酌みかわしている間に、左平太がそう云う注意はしないから、踏み台さえあれば、すぐ出られるのだけれど』 めいた事を云ったのであったが、まさか、こうすぐ目前に奇怪『ーーそうだ、お兼とやら、そなたの帯なと窓から下げてくれ すが な事を見せつけられようとは、夢にも思っていなかった。 い。それに縋って上がれば上がれぬこともなかろう』 酒がなくなったので、座敷からお鹿を呼んだが、いくら呼ん『帯ですって。 ほんにそれには気がっかなかった。ーー・石 でも答えがないので、雷助が台所へ見に行った。 その間禅さん。待っておいで』 に、突然、左平太が、奥の倉が怪しいと云い出して、急に、九お兼は、梯子の途中に身を置いたまま、片手で帯を解いて、 馬之丞をここへ促して来たものだった。 その端を、窓口からするすると中へ下げた。 しかた

7. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

うなず 九馬之丞が側へ来て、共に覗き込むと、雷助は何か独りで頷二人の影は、軈てそこから去った。お兼は、露の中から凝と 見送っていた。ーー何か魔夢を見ているような不審に囚われな % 明きながらそれを彼の手へ戻した。 有『私も、共に永らく江戸に居なかったので、確とは云えませぬがら。 明がこの筆蹟には見覚えがあります』 『ある ? 。誰だそれは』 無 て 『御書院番の藤懸左平太殿の筆ではないかと存じますが、如何 世間を覗く目 でしょ , つか』 そう云われて、九馬之丞は、初めて、 権堂家の空屋敷へ、雲水の石禅が捕まって行った事は分って 『オオ』 したが、其処へ又、菊太郎が送り付けられて行ったというの と小膝を打った。 『よく鑑た、いかにもこの手蹟は、藤懸左平太の筆すじに似ては、今が初耳だった。 その菊太郎は、剃刀の安に攫われて、彼の御隠殿下で見かけ おる。彼は好学の士で、他の者は多く、お家流を書くが、彼の た覆面の侍の手へ渡した事は確かである。 みは唐宋の法帖を做ったり、又よく大師流を習って居った』 すると、今夜の覆面の男こそ、菊太郎の身を、権堂家へ 『城南之一友とあるのでも思い当ります、藤懸殿のお住居は、 元、北条貢が住んで居った丹後町の組屋敷から遠くない所でも送り付けた贈り主でなければならない あるし : 「まあ、何てえ事だろう。怖しいのは悪党の世界どころか、明 『あ、そうか。 るく見える世間の裏のほうがずッと凄いやね : : : 』 其方は知って居るな』 お兼は、何か頷きながら、五重の塔の上に晃めいている月を 『は。久しく会いませぬが、以前は、役目以外に、よく書画会 仰いで、につと笑った。 などでも会いました』 『藤懸左平太以上、身近い知己や知る辺もあるが、それ等の者『明るいと云ゃあ、何だか少しずつ、北条貢様を包んでいる黒 い雲が、薄明るくなって来たような気がする・ : ・ : 』 は皆、今では忘れたように寄りつきもせぬ中に、あの左平太一 人が、自分の多年の苦衷を知って、密かに助力してくれたとは露を踏んでいる足の裏から、夜更けの寒さがそっと沁みて来 かたじ 辱けない事だ 心床しい真の武士、もはや深更ではあるた。お兼は襟へ手をさし入れて何か考え込みながら、塔の廂の 故、これから訪ねてゆくのも何うか。明朝にでも、早速、訪れ下を繞っていた。 だが、今去った二人の話しの様子じゃあ、鶴江様の身も て礼を申そう』 さして高声に話しているのでもないが、森につつまれた夜の案じられる。アア何うしよう』 くさむら しじま 気は速っても女の細腕では、権堂家の中から、菊太郎や石禅 静寂に、そんな言葉がありありと草叢の中のお兼の耳へも届い を救い出せる自信などはなかった。又、千住の隠れ家に残して てくる。 なら ま - 一と すまい めぐ はや やが のぞ さら きら じっ ひさし

8. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

吉月英治全集巻全巻内容案内 ( 太字既刊 ) あるぶす大将 第四巻梅里先生行状記 第 1 巻剣難女難 青空士官 神変麝香猫 新版天下茶屋 夜の司令官 柳生石舟斎 第 2 巻鳴門秘帖 第 3 巻万花地獄 第巻源頼朝 第Ⅱ巻虚無僧系図 女来也 黒田如水 自雷也小僧 第巻松のや露八 第 4 巻江戸三国志 第引巻高山右近 遊戯菩薩 上杉謙信 第 5 巻貝殻一平 無明有明 第巻平の将門 処女爪占師 大岡越前 第巻新編忠臣蔵 第 6 巻恋ぐるま 彩情記 金忠輔 第巻新・平家物語 1 第巻宮本武蔵 第巻新・平家物語② 第 7 巻江戸城心中 さけぶ雷鳥 第巻宮本武蔵 第巻新・平家物語③ 第巻新・平家物語④ 第四巻宮本武蔵 第 8 巻牢獄の花嫁 第巻新・平家物語⑤ 第四巻親鸞 隠密七生記 第巻新・平家物語⑥ 春秋編笠ぶし 第幻巻魔粧仏身 第 9 巻檜山兄弟 第巻私本太平記昀 悲願三代塔 第鬨巻私本太平記 2 江戸長恨歌 第加巻女人曼陀羅 第れ巻私本太平記 3 第巻新書太閤記 1 お千代傘 第貶巻新・水滸伝① 第巻新書太閤記⑦ 第Ⅱ巻燃える富士 第巻新・水滸伝② 修羅時鳥 / 菊一文字第巻新書太閤記 3 第巻新書太閤記④ 第巻短編集① 第巻恋山彦 第妬巻短編集 第巻三国志 善魔鬘 第巻随筆宮本武蔵 第巻三国志② きつね雨 随筆新平家 第巻かんかん虫は唄う第囲巻三国志③ ( 3 ) ( 2 ) ( 1 ) 講談社刊 ( 定価各六八〇円 ) 随筆私本太平記 第町巻随筆集 草思堂随筆 折々の記他 第巻忘れ残りの記 ( 四半自叙伝 ) 戯曲 放送台本 年譜 ・別巻 第 1 巻神州天馬侠 第 2 巻ひょどり草紙 月笛日笛 風神門 第 3 巻龍虎八天狗 母恋鳥 第 4 巻左近右近 胡蝶陣 やまどり文庫 第 5 巻天兵童子 魔海の音楽師 朝顔タ顔 各巻に多少の異動があるかもわ かりません。御了承くたさい。

9. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

と、多寡をくくっていた九馬之丞も、心の裡で、はツと、石そのうちに。 どたっー と大きな地響きがした。 明禅の本体を考え直した。 二つの肉体が、一つの物のように、樹の根に仆れ、その儘、 有 ( 一体、この僧は何者だろう ? ) 明北国路の遙かな旅先からこの江一尸表まで、絶えず影となり形ごろごろっと七、八段の石段を転がって行った。 となって、自分たちの復讐を邪げている唯一の邪魔者はこの雲石禅が上になっていた - 一ろも かくま 無 水だった。ああして盲目の鶴江を匿い、時には敢然と、北条貢あなやーーと思う間に、石禅の手には、法衣の下に秘めてい かば を庇い、又或る時は菊太郎の手を曳いて、わが子のように危難た短剣が抜かれていた。 ーーずぶッと ! 権堂九馬之丞の襟元を一突きに ! と共の を避けさせたりして、あの親子三人を、陰に陽に、助けて来た 手が走る のもこの石禅だった。 九馬之丞も必死だった。 何者であるにせよ、何か、北条貢とよほど縁故の深い人間に ( ここで、名も知れぬ怪雲水の手にかかって何うしようぞ ! は違いない。 自分が敵の片割れの為めに返り討ちとなって、誰が父権堂弥十 ( 彼奴の肉親の者だろうか ? ) だが貢にーーー骨肉をわけた身寄があるという事は嘗って聞い郎の無念を晴らす者が何処にあろうそ ! ) た事もない。鶴江の方には、性の善くない養父があったが、そ満身の一念は、突嗟に、石禅を刎ね返していた。 身を起すより早く、右手は刀の柄へかかって、 れとは疾くに縁も切れているし、又、こんな硬骨な人物とはま 『売僧めッ ! 』 るで違う。 びゆっと、横へ薙ぐと、 『、つぬっ ! 』 「おのれつ ! 』 あと こぶ 互の肉体は、組み合ったまま、瘤のように膨れあがった。血石禅はもう刀の先から四尺も後へ身を避けて、短剣を持ち直 気壮んな九馬之丞も、石禅の締めつけている手は何うしても解していた。 うしろ とーーー不意に、その石禅の後から這い寄って来た者が、 く事ができなかった。否、解く事ができないばかりでなく、と おやゅび もすれば、その怖しいカのこもった拇指が、喉笛へ喰い入っ『御用っ』 ききうでなぐ と一喝しながら、十手を持って、彼の利腕を撲った。 て、その儘、縊め殺されてしまいそうに、気が遠くなって行く。 よろ 『ーーあっ ! 』と、石禅が前へ泳ぐように蹌めいたせつな、怒 りに燃えきっていた九馬之丞の刀は、 いきがみ ( 得たり ! ) 生髪・死髪 と、その機を狙って振り落し、石禅の肩先を斬り浴せた。 鈍い血の音が、闇の中にばっと血しおの霧をあげた。十手を きやっ たか しにがみ 、、また ふく のど たお あび 382

10. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

なお 『では、癒ります眼病やら、又、不治の眼やら、一つよう診て見えぬ臉の裡に、微かな感動がうごいたのを、眼科医の潜庵 は見のがして居なかった。 下されませ』と立ち上った。 『眼を病み初めました年の秋の初めに、嬰児を一人生みました 一間しかない堂の内、何処へ立って行くのかと潜庵が見てい が、それきりで後は・ ると、石禅はすぐそこの内陣の蔭を覗いて、 ちょっと起きなされ』と呼んだ。 云い濁すと、潜庵は頷いて、 『鶴江どの : 小さな屏風を囲って、厨子の蔭に寝ていた女性があった。石『分りました。どれどれ : : : もすこし、お顔を前へ』 きょ と、両手を浄めて、彼女の瞼へ、指をかけた。 禅の声に起きて、髪のほっれを直し、手を引かれてそこへ出て あたり 、、、よっと、眼 薬籠持ちの詫平は、その間に、ひょいと堂の外を覗い 来たのを見ると、四辺の塵に埋もれているせし力。 を瞠りたくなるような美人であった。 た。すぐ横の松の樹蔭へ、先刻草むらから立った権堂九馬之丞 うかカ 『 : : : あ。このお方で』 が姿を隠して、凝と此っ方を窺っていたが、詫平が眼知らせす ひばり ると、ついっと、雲雀の歩むように走って、すぐ御堂の側に身 を屈め、耳を澄まして、中の話し声を聞いていた。 石禅も手をつかえ、鶴江も両手をついて、 『どうそ、お願いいたしまする』 石禅は、眼医者の指先と、鶴江の臉とを、側からじっと見較 と面を向けた。 べて、果してこの眼が開くものか、開かないものかを、自分の ーさっ 何という麗玉のような面貌であろう。生ける薩と云っても運命の岐れ目のように案じ顔して、 『何、フで、一」ギ、りましょ , つな ? ・ よい。もしふと秋の月の夜でも、このままこの御堂に坐ってい こわごわ と、恐々訊ねた。 るのを見たら、誰も人間とは思うまい。内陣の御厨子からその まま抜け出して来た如意輪観世音と見まがうかも知れない。 「さあて ? 』 『ウーム : : : 成程、だいぶ前からお悪いようなお眼だの』 と、鶴江の顔から手を退くと、眼医者の潜庵は、その手を大 きく胸に組んで、難しい顔をしながら考え込んだ。 ちょうど七年程前から』 『何そ、その時、眼に汚れ物でも触れた覚えがござったか』 『・ : ・ : 何うした事からか分りませぬが、すこし仔細があって、 屑物選りの仕事場に居た事がございましたが』 貝薬 薬『ははあ、偖はその頃、何か眼に汚れが入ったものとみえる。 : してお子様は』 ・あの子どもでございますか』 『・ : ・ : よろしい。分りました』 いくたり 眼医者の潜庵はひとりで頷き、鶴江の膝の前を少し摺り退が 貝『そうじゃ、お幾人』 ず、し おもざし かが じっ キ、つき