いていなか 0 たかと、身の不徳が、悔やまれるのでござりま衛、ならびに、藤懸左平太の両名にござります』 こう奥へ向って、大きく云った。 明す』 ぜん 奥には、人の騒めきがする。然し、なかなか通じないとみ 有さん然と、肩を、声を、おののかせた。 明半兵衛は、窪んだ眼を、ふと、戸の隙間から洩れる朝の光〈え、 『たのむッ ! おたのみ申すっ ! 』 上げて 無 ・ : 。やはり、わしは一目、貢に会いたい。その時の気半兵衛は、更に、大声を張 0 た。 『おっ : 持では、馬鹿め , と、呶鳴るかも知れん。或いは、ただ意気地すると、前髪の十六歳ぐらいな少年が、つと玄関の上を、現 な顔して横切ったが、 のう泣いてしまうかもわからん。・ : ・ : 何うなりと、ただ一目、 顔を見せよう。顔を見よう、同じ今日という日に、生れ合った ひょいと、二人を振り顧って、 人間同士・・・・ : そうじや人間同士として : : : 』 『これは 障子にすがって立ち上った。 と、膝を折った。 くめのじよう 『では、私も』 城内で顔はよく見知っているーー権堂弥十郎の子息九馬之丞 と、左平太は起って、組頭の腕を扶けた。 昨夜は、父の弥十郎と共に、お坊主の俊斎を呼びつけて、 『オオ、行ってくれるか』 めしとり 『今生のわかれです。 : : : 罪は憎みますが、幼少からの友達』貢の召捕を計ったとも聞いている。 ・ : 何そ御用ばしあって ? 』 『その温たかな気持がの : : : なぜ彼奴にないか。あれ程の人物『小梨半兵衛様にござりますか。 『北条貢事、御当家に、今朝まで御預けと承わり、言語に絶え なのに』 ふらちもの たる不埒者ながら、生前の誼み、一目会いたく、ひそかに、お 力なく急ぎながらも、半兵衛はまだ、貢の才と人間に、消し 父上までお願いにあがった次第でござりますが : : : 』 きれない未練をもって呟くのであった。 『あ : : : 左様で : : : 』 じっ - 一ぶし 九馬之丞は、固く、両手の拳を膝へ落したまま、凝と黙 0 て いつまで凝と石のように。 白々と明けた夜と共に、雨も暴風もやんでいた。 番町の旗本、大番組頭権堂弥十郎の屋敷では、ゆうべのあの『御法もござりましようが、曲げて、御寛大なお計らいを』 豪雨と闇のうちから、人が出る、駕籠が入る、奉行所の者、組左平太も、一緒になって、 『このように、お願い仕つります。私とも、幼年からの友達。 の者、ルならぬ混雑の様子であ 0 た。 風と雨に打ちたたかれて、骨ばかりにな 0 た玄関の高張提灯又、同役。・・ = : 罪は罪といたしても、今生の別れにござります ぬかるみは れば : の下を、背まで、泥濘を刎ね上げて、息喘き込んだ二人が、 吾々御小納戸方、小梨半兵『はい 『権堂弥十郎殿に御意得たい。 つぶや たす うつつ 244
め ! 折角、生れ甦って、北条家の家名も見事に立ったところ藤懸左平太は、どんと膝で畳を踏み鳴らした。殆ど、自分で : おれの立場があるは意識ないように起ち上って、うろうろしかけたが、 明で、御先祖様にも申しわけがあるかー 有か 「何というお手落だ ! 公儀の大事な預り人を ! 不覚至極 明死人の白布を除ける前に、半兵衛の胸は、こうした声をあげ 『されば、父は、申し訳の為、かくの如くにお詫びして居りま て叫びたいような烈しいものに掻きむしられてしまった。骨も 無 わなな 肉も顫きふるえるのである。布の端へ、そっと伸ばした彼の指する』 『一体、どこから、逃げたのでござるか。まさか、刃物など持 の爪は、まるで、紫色をしていた。 なまつば 半兵衛の肩越しに、生唾をのんで覗き込んでいた藤懸左平太たせておいたわけではあるまいが』 は、その時、 彼が、ロ汚なく罵るのをたしなめて、小梨半兵衛は、静かに 死者へ向って両手をつかえ、何かやや暫く黙礼を捧げていた 『や、やっ ? 』 がくぜん 半兵衛が、 愕然と、声を放って、半兵衛の背へのめりかけた。 も、跳び上るほど驚いた。 『御子息』 あるじ と、改まって、暗涙を湛えながら云った。 『おツ、こ、これは、御当家の主、権堂弥十郎殿ではないか。 『ーーお心のうち、深く、お察し申あげる。何とも、残念千 : 権堂殿だっ : : : オオ弥十郎殿が、 , 御切腹なされているのだ 万、この半兵衛も、弥十郎殿と折り重なって即座に、腹を切り オい程にも思いまするが、公儀のお沙汰を待ち、万一にも、余 子息の九馬之丞は、父の死骸のすそに俯ッ伏して、 そもそも しか 命をおゆるし賜わるならば、抑、人間とは善性か、悪性か、人 : 父の無念気な顔を、慥と、御覧くだ 『半兵衛様っ : : : 父の : ・ の棲むこの世の中の実相虚相はどこにあるか。ーー・拙者は、そ されましたか』 きわ いかが の疑いを突き究めて見とうござる。さもなくては、人も信じら 『如何いたしたことでござるか。お見事なこの切腹は』 「公儀へのお詫びと、一つには、町奉行所への申し理。 : : : 恨れす、この世も信じられなくなった』 もとどり 言葉の下に、半兵衛は、小脇差を抜き、自分の髻を、根か みをのんで、今朝、篤と私共に遺言して割腹いたしました。 きようあくふてい 兇悪不逞の北条貢を、ふたたび繩にかけるまでは、一日たらぶッつりと切って、 びちゅう 『弥十郎殿へ、微衷のしるしまでに』 りとも、当屋敷の畳の上に坐しておることは相成らぬと : これが、遺言でござりまする』 と、死者の白布の上へ、それを乗せた。 九馬之丞も、もう女々しく、臉を腫らしていなかった。 「えっ : : : では : : : 北条貢は ? 』 もなか うかが 『昨夜、まだ暴風雨の吹きすさんでいる最中、わずかの隙を窺『半兵衛様のお志、亡父も、欣んでおうけいたしたでしよう。 親族共も召使も、夜明け前から、北条貢を探しに出ております って、座敷牢を破り、逃げ失せてしまいました』 『逃げたとっ が、今もって吉報のない所を見れば、すでに遠くに走・つたもの かわ 246
貢は、地だんだを踏みながら、廊下をもどった。そして、柱 ひょいと、抱き上げた。 かまど にどんと倚つかかって、 明あたりの者は、それそれ竈の火を覗いていたり、煮物を移し ( わが子を何うして奪り返すか ) 有ているので、此っ方の様子には心を措いてない事がわかった。 と、疾風のように考えたり、又 その隙を、 明 ( どうしてここを脱れようか ? ) ( 今だ ! 無 うめ たまえ と、眉間に苦悶を刻って、呻いていた。 と、狙っていたもののように、料理人は、菊太郎を抱いたま おばろ その時、酒蔵の横の方で、ひいーっという叫びがながれた。 ま、颯っと、裏の朧な闇へ脱け出して行った。 『ーーー、あっ。しまった ! 』 菊太郎の泣き声である。貢は発狂したようになって、 みつぐ 『おいつ、誰かいないカ』 物蔭から覗いていた加賀作の北条貢は、われを忘れて、駈け 出そうとした。なぜならば、この台所に働いていた若い料理人と、大声で呶鳴った。自分の秘密とか、一身の危機とか、そ せつな ただ んな事は、刹那に忘れてしまって、思わす人を呼んだのであっ も、凡の料理人ではなかったのである すがたは、だいぶ変っているが、貢とは江戸城のうちで折々た がしら 出会った事もある顔だ。大番頭の権堂弥十郎の息子 ! そう くめのじよう だ、弥十郎の息子 ! 権堂九馬之丞にちがいない。 風のたよりに、貢は、聞いていた。 弥十郎の自刃と、その息子の九馬之丞が、江戸表を離れてい ることを。 わが身ーーわが子ーー何っ方も、危急に迫っていた絶体絶 もちろん、自分を討っために。 奉行所同心の逆井雷助が同行だとは知らなかった。いよい命というのはこんな場合の事を云うのであろう。 よ、二人は自分がここに七年の月日を潜伏していた事を、適確で、北条貢の加賀作は、思わず家人を呼び立ててしまった が、すぐその後で、 又、そういう要意がある以 につきとめて来たのだろう。 ( あっ、しまった。人を呼んでは、却って此身の破滅になるも 上、この家の周囲はもちろんの事、飛騨街道も、富山街道も、 のをーー ) すべて手配してあることも想像にかたくない。 うろた と後悔し、よけいに周章えを加えたが、その声を聞きつけた 足もとから燃え出した火どころの沙汰ではない。危険はもっ とうじ と急なのだ。 ・しかも、噫、しかも、取返しのつかない事杜氏の新吉という男が、もう部屋の前へ駈けつけて来て、 おかしら は、菊太郎を先きに、相手の九馬之丞の手へ、、人質に取られて『オオ、杜氏頭さん、どうしたんです ? 』 と、覗き込んでいた。 しまったことだ。 『あっ、新吉か』 『不覚不覚』 ああ はやて みけん 頓智 278
無明有明 切腹した弥十郎の死骸のある部屋とは、かなり隔てた室へ入 ったのであるが、香の匂いは、そこまで冷たく漂よっていた。 『あわよくば、父の遺骸が邸にあるうち、北条貢を縛め捕っ 柩への誓 て、御無念をお晴しする事が出来るかと思うたが : 『日頃、お取立てをいただいておる御当家様、又、今朝は奉行 ふる 所方の受取人といたして、私も、必死を揮ったつもりではござ 町方の同心の逆井雷助は、 りましたが』 『逸した ! 』 『やむを得ん』 心のうちに、、ツばいな不面目を抱きながら、ひと先す青 山、渋谷方面の探索を他の者に託し、自分は一応報告のため『けれど、貢は、子と妻に心をひかれ、足手纒いを連れて居り なわめ ます故、繩目にかける日も、そう遠くはないと存じまする』 、百姓家の野馬を借りて、番町の権堂家まで、その朝の間に 駈けつけて来たのであった。 『あの極悪人にも、妻子の愛があるとは不思議な』 もの思う四方の獣すら 『源実朝公の歌集に見えました。 でーーー玄関から息を喘いて訪れると、 だにも、あわれなるかなや親の子を思う』 『おう、雷助か』 子息の権堂九馬之丞がすがたを見せ、彼の吉報を、一縷の望『 : 九馬之丞は又しても、涙がっきあげて来るのであった、それ みとして待ちかねていたらしく、 を怺えるように蒼白な顔を沈痛に凝と下へ向けている。 『何うだった ? 』 『ましてや、あなた様の御心中、いかばかりそとお察し申し上 と、すぐ急きこんで訊ねた。 げまする』 『組屋敷を襲ったのが、一足ちがい。残念ながら、逃がしてし わしはともあれ、今 まったので』 『もう、その慰めは、よして下さ、 日からすぐ屋敷を立っ』 『・・ : : ウウム、そ , つか』 「御葬儀などは』 『然し、まだ今日のうちには』 『まあ、上れ』 『縁者たちの手にまかせる。北条貢を討って、御墓前に、彼奴 一えこう の首を供える日が、九馬之丞の御回向』 『御免』 足も裾も、泥であったが、そんな事は客も主人も意に介して『雷助も、お供いたしまする』 いないのである。九馬之丞はただ、混乱している頭のうちで『いや、わしが屋敷を立つのは、五年でも十年でも、北条貢を も、父の弥十郎の悲壮な自刃に、つい一時でも取り乱して泣き討ち取るまでじゃそ』 『元より私も、町奉行所に申し出て、許しがなくば、職を退い 腫れた自分の臉が、武士の子として、客に見られることが辛ら つ、 ) 0 ても』 ひっギ、 こら 寺、ねとも じっ まと きやっ けだもの から へや 256
『や、左平太かえらい事が起った。聞いたカ』 『なんじゃ、顫えてーー・』 ただ たまり 『今、その儀について、大番組の溜間へゆき、実否をし糸 明『まだ、小梨様には、何事も、御存知ないので』 て来た所です。ーーー何だか、まるで嘘みたいな気がいたして』 有『知らんが』 『わしも、何が何やらまるで分らん。この近頃はまるで変っ 明『今夕、お町奉行から御老中へ、密かに、御上申がござりまし て、夜中ながら、捨て置き難い儀と、ただ今、権堂弥十郎様のて、謹厳そのもののような以前の北条貢に返っている彼が、何 無 を、お召捕りになるような落度をしたかと』 手で、お召捕りになって参りました』 『いや、尋常な罪状なれば、当然、上役のあなた様へ、取調べ 『誰、が ? ・』 みつぐ の御下命がある筈で』 『北条貢様で』 がしら 小納戸頭の此方をさし 『わしも、それを心外に思うのだ。 『よこツ、レし条、が。 措いて』 『たった今』 かか 『けれど、聞く所に依ると、それも却って、あなた様に関わり 『どこで』 を持たせぬようとの、御老中の情あるお計らいかと思われま 『お庭先で』 半兵衛の顔は、青土のようにな 0 た。そそけ立 0 た鬢の毛す。ーー何せい、貢殿の犯した罪というのは、ま 0 たく、役目 にも日常にも懸け離れた思いもよらぬ業でござりますからな』 は、ふるえていた。 『役目にも日常にも関わらぬ事 ? 』 『これつ』 てくび 『さればで』 俊斎の手頸を痛いほど握りしめ、 『な、なにをやったんだ、一体』 その罪状は』 ど、つい , っ理じゃ。 『ア痛 : : : 。お離し下さい。てまえは何も存じません。唯、権『御城下で強盗を働いたらしいので』 めのじよう : 強盗を』 堂弥十郎様と、御子息九馬之丞様のおいいつけで、やむを得『げッ : 『嘘であって欲しいと私も祈ります。然し、 ず、北条様を、お縁先まで呼び出して、庭の外へ、突き出した と、左平太は暗然と顔を反向けた。いつも険しく見え過ぎる ばたばたっと、小梨半兵衛の足は、俊斎を捨てて、御表の方この男の濃い眉も憂いを持って、同僚の為に悲しんでいるかに 見える。 へ向って、駈けていた。 : もちっと・ : ・ : 詳しく訊こう。 : : : 貴殿の聞いて来た儘 外の暴風雨をよそに、其処此処に、佇み合っている人影が、 をな・ : 今の出来事を、種々に噂している様子だった、 と、彼方から、これも顔いろを変え、息をせいて駈けて r- ・ー・昨夜だそうです』 『ふム』 来た若者がある。摺れちがいに 『昨夜といえば、ちょうど私が、あなた様のお屋敷へ、微酔を 『おつ、小梨様っ』 ふる わけ 、何時 ? 』 たたイ びん わざ
『然し、、 梨様。その前に、あなた様自身で、一応は篤と大番 するように、青ざめていた顔は急に充血していた。 明そして、身を動かすと、 組や、御用部屋取次へ参られて、よくよく事件の実否をお取り ただ 糺しの上で致されたがよいと考えられますが』 有「左平太、貴公も無論、同道するだろうな』 「元より、糺さずに措くものか』 明「どこへですか』 『町奉行としても、御老中まで申達して、その上、思い切った 「知れた事』 無 召捕りをいたしたのですから、よほど、確乎たる証拠と自信が ともう先に歩み出して、 みつぐ 『組下の者の寃罪を、黙っていられるか。一人北条貢の名誉のなければ、手を下す筈はありません』 ためばかりではない。小納戸組の名折れでもある。これからす『自信 ? 確乎とした証拠 ? 片腹痛い事だ、それを見せてく れと申してやるのだ』 、大番組の権堂弥十郎殿に面会を求め、逐一、所存を申し、 『では私は、詰部屋で、お待ち申して居りますから。よく、お その理由なき逮捕を責めて、貢の身がらを取り戻して来ねばな 調べの上で』 らん』 せんめい 『うむ、腑に落ちる迄、きッと闡明せずには措かん。ーー何か 『ーーー遅 , つござる ! 小梨様。のみならす、その御心情はわか の間違いだ、何かの : : : 』 りますが、すべて、無駄でござりましよう』 半兵衛は、肩をあげて、大廊下を奥へ曲がって行った。 『 . なぜ一ーか』 たまり 『貢殿の体は、すでに不浄門から城外へ送られ、こよい一晩だが、それからおよそ二刻も経って、大番組溜間を出て来た時 は、権堂家の屋敷にお預けと極まり、明朝は、夜の明け次第の彼は、首をうな垂れて、悄然と足にも力がない 更に、御用部屋取次の一間へ入り、そこでも一刻あまり費や 、町奉行の手へ引渡される筈でーー』 かけあ 『だからじゃーーーその権堂弥十郎の番町の屋敷へ参って、懸合していたが、もう、そこを出ると、障子を閉める力もないよう まぶた ゆる 、半夜のうちに、白髪になったかと疑われるほど、弛んだ瞼 おうという考え』 「でも、あなた様も吾々も、こよいは御泊番、夜の明けぬうちをして、とばとばと自分の部屋へ戻って来た。 『どうでした、組頭様』 勝手にお城を退出なりましようか』 藤懸左平太は、彼を見ると、すぐ訊ねた。べたっと、腰の抜 『あっ・ : いかにもな』 けたように坐って と半兵衛は、それすら忘れていたらしく、 。わしは、人間というものがわからな 『けれど明朝と相成っては、もう町奉行所へ渡された後になろ『解らぬ : : : 解らぬ くなった。 ・ : この世の中がわからなくなった : 、つ・カ』 はろほろと、こばれた涙を、あわててこすッて、腕拱みの中 『夜明けと共に駈けつけたら、或いは、間にあうかも分りませ に、もう生涯この首を上げたくないと云うようにーーー顔を深く ん』 理めてしまった。 『、、つしょ , っー・ いわれ むじっ
嘲笑う壁画 そして、開くと共に、雪崩れこんだが、洞然として、ただ真 その自滅の方法として、中で火を放けられたら、手の下しょ 当然、後になって、上野の宮から由々しい抗議っ暗な闇でしかない。お互いの顔と顔さえ、目鼻をこすり合わ なければ分らない程だった。 が降るにちがいない。 あかり 『そうだ。 燈火を、燈火を』 彼としては、今がもっとも生涯で大事なところだと思ってい と、同、いは、外にいる提燈を呼び立てた。 る。奉行所の内部にも、老中にも信用を博し、ここの一段落が めと うまく仕上がれば、秋元侯の分家の姫を娶って、一躍、大名の 門閥と縁のつながる身となれる。 わら それから、彼には、もう一つの福運が待っている。それは、 嘲笑う壁画 がしら 権堂九馬之丞の父、弥十郎が勤めていた、大番組頭の空席だっ , ) 0 うまくゆけばそこへ昇格して坐れそうなのだ。 遂に最後の日は来たか ! 裏面でもう老中がのみこんでいる事だから、手続きの事は、 かたき 保証付きだが、ただこの際、九馬之丞が見事に、父の復讐を取さすがの北条貢も、そう思わずにはいられなかった。 って、北条貢の首を引ッ提げ、公儀に名乗りをあげられると捕手は、ここへも来たのだ。 くつが 左平太の計画は覆えることになるー ー。なぜならば、当然ひろい天地のあいだに、 ここだけは、せめて或る時節まで、 ぶつだ 九馬之丞が父弥十郎の跡目を相続して、大番組頭の座席も、彼五尺の身を入れてくれるかと思っていた仏陀の塔も。 が占めることになるからである。 『ようし ! おれはすでに、人間ではない。鬼と化っているの ( そうだ。時刻を遷してぐずぐすしておると、その間に、九馬だ。 もうわが子にも妻にも、会おうなどという人間らしい : そうなっては、未練は捨てたぞ』 之丞と雷助がここへ来ないとも限らない。 事面倒だ ) 彼は血に錆びている大刀を抱え、闇の中にぬつくと立った。 ずし 左平太は、床几を立ち上った。 そこは、塔の一番上の厨子だった。 そして、右の手を、闇へ上げて、 下から上に登ってゆくはど厨子部屋は狭くなって、彼のいる - 一と 『それつ、中へかかれつ。 一重から五重の上まで、一階毎五層目は、四坪ぐらいな広さしかない に隈なく調べて、大罪人の北条めを引っ捕えろ』 『ーー来たら、刀の折れる迄』 と、下知した。 と、貢は大刀を小脇に持って、その隅に空いている真っ暗な 与力と同心は先に立って、五重の塔の扉に向った。 階段を睨めつけていたのであった。・ しかしこの塔は、上野の宮の管下にあるし、その建造物の価だがーーーその時彼の耳に、誰ともなく、 いのち 値としても、蹴破るような粗暴はできない。捕手たちとして ( 死ぬな、死ぬまいそ、お互いに、生命のあらん限りは。 は、充分、大事を取って、コジ開けた。 親として、子の為にも ) うつ イ 25
みやげもの 『あれは、熊の胃という薬を売っている土産物だろ』 『おじさんも喰べない ? 』 けもの 明『お薬じゃないよ、あそこに吊り下げてある獣のことを訊いて『おじさんはいらん』 有るんじゃないか』 『おいしいよ』 『みんな喰べるとお昼が喰べられないそ』 明『あああれは、薬の看板にしている熊の皮』 『熊の皮、服むの』 『お馬にも一つやろうか』 無 ふぐたいてん 『皮は薬にはならない、熊の胃を服むのだよ』 憎い敵の子である。父の弥十郎を自害させた不倶戴天の子 『胃って何 ? 』 だ、そして公儀の御詮議をうけている大罪人の子でもある。あ なか まり馴れついては後で困る。 『人間のお腹にあるもの』 権堂九馬之丞は、心のうちで、自分を警戒していたが、童心 『お腹にどうしてあるの ? 』 『困るなあ、おまえのように先から先へ訊かれては』 には勝てないのだった。つい菊太郎の無邪気さにつり込まれ て、いつのまにか、菊太郎の友達のようにされてしまう。 『おじさん、あの角にあるお店は何を売っているの』 いたずら 『この辺の名産、伊吹山の艾であろう そのかわり、長い道中も、退屈しなかった。悪戯も烈しい 『艾って何』 が、何処へ着いても、すぐ宿屋の者と馴れて、坊っちゃん坊っ 『又初まったな』 ちゃんと云って愛されるのである。 時々、淋しくなると、思い出して、 『何、何 ? 艾って』 きゅう 『ほれ、おまえはよく知っているだろ。灸をすえる草じゃ』 『坊のおじちゃん何うしたろ ? 』 『草か ・ : それじゃ喰べられない物だね』 と云い出した。 『誰の事 ? 』 『道中、おとなしくして居ないと、あれを買ってすえるそよ』 『おじさん』 と、九馬之丞が訊くと、 『又か』 『お坊さんの石禅さんさ』 『お腹がすいた』 と云 , つ。 『いろいろな事を云う。まだ昼にはちと早い、次の宿場まで我『石禅さんは、坊やと、前から知っているのか』 慢せい』 『ううん : : : 』と首を振って、菊太郎は、ふと淋しそうに考え あんもち 込むだけだった。 『あそこには、餡餅を売っているよ、喰べたいなあ』 『雷助。・ーー , すまないが、買って来てやってくれ、このよう東海道の宮を過ぎて、赤坂の並木へかかった日の事である。 雷助がふと行く手をながめて、馬の背へ、こう叫んだ。 に、名残り惜しそうに振り向いているから』 あれ、あれへ行く 雷助が駈けて行って、一つつみの餅を求めて来て馬の上へ渡『九馬之丞様、やっと追い着きましたぞ。 してやる。菊太郎はそれを頬張りながら、 のが、吾々より一日先に福井を発った駕籠に相違ありません』 もぐみ、 326
: 何じゃ』 『めっそうもございませぬ。ーーー然し、何せい、私はまだ、御「唯 ? ひら 『その権堂家には、九馬之丞殿という御嫡子がありますが』 書院詰の平番士、お大名の息女などと』 『ウム。 : いかにもな。 : : : 然しその九馬之丞が、首尾よく 『いやいや』 うらみ 父の怨恨をはらし、北条貢を討って来ればだが・ーーすでにお届 と、但馬守は、かろく打ち消し、 何も、お役目や禄高へけが出てから七年以上も経っておる今日、もう、お役席を他へ 『其方という人間につかわすのだ。 とっ 譲っても、誰からも不服は出まいその辺は、わしにまかせて 嫁がせるのではない』 『・・ : : でも、せめては、もう少々勉強もいたし、お役席も、番おくがよろしい』 左平太は、あまりそんな話は好まないような顔をした。持参 頭格にでも相成りましたらば、妻を持とうと考えておりますの かけものひろ してきた啓書記の懸物を展げて、品よく書画のことなどに話題 で』 を更えた。 『ーー・では成ればよかろうではないか』 すいせん 東山御物の折紙のある啓書記はあんのじよう但馬守を垂涎さ 『御城内のお勤め向、まだまだ至りませねば、いつ上格いたさ せた。さほどお気に召した物ならば と左平太は置いて帰っ れますやら』 『何の ! 』 と、自信があるよ , つに、老中は一言った。 『勤め向でも、藤懸左平太が怠け者だと言っている者はない 斗Ⅲらお , っ 御城内でも褒め者になっている其方のことだ。 早速にも計らうであろうそ』 『でも、その為に』 とさのかみ その日の午過ぎには、左平太は、南町奉行の小田切土佐守の 『何もわしが、無理に引き立てるわけではない。ちょうど昨日 も老中席で評議中に話題になったが、権堂弥十郎の死後、もう役宅にいた。 がしら ここへ来ると、彼はぐっと、上座にすわって、老中に会って 七年余りも、大番組頭の役席が空いておる。それへ推挙すると いた時の柔順で謙譲な青年とは、見ちがえるように、権式を持 いたそう』 っていた 『何か其後ーーー御配下の方の者から、よい手懸りがござったか いつであったか、其方の口からも、何か、 躍『異存あるまいな。 そんな望みのあるらしいことばを聞いたように覚えておるが』 町奉行の土佐守は、その答えに、自ら恥じるように、 : そうして戴けますれば』 とくれい 『いや、八方督励はしているが : : とんとこれそという手懸り四 立日『婚儀もいたすであろうな』 もないので』 『冥加に余って、異存どころではございませぬが : : : 唯』 きのう
『九馬之丞殿、思い出した、今の瞽女は、たしかに江戸こと 『人を待っておりまする』 ば、あれは、水茶屋のお鶴だ』 明『連れか』 『お鶴とは』 有『は、 たず 『北条貢の妻の鶴江』 明『盲では訊ねても分るまいな』 『オオ、あの』 『何を尋ねておいでなされますか』 無 むつつ がた さい愛嬌黒子があった。北条貢の妻となって 『実は、今朝方そこの旅籠を立った旅僧があるーー六歳か七歳『唇のそばに、、 からは、一度もよく顔を見たことはないが、水茶屋の看板娘と ぐらいの子供の手を曳いてな』 いわれ、藤懸左平太だの、小普請の若い連中が騒ぎ合っていた 頃に、何度か見た覚えがあります』 『知っているのか、おまえは』 『それで拙者にも、薄い記憶があったものと見える。 が、どうして盲になったのであろう』 『どうして急にそんなに顔いろを変えるのだ』 『江戸表を離散した暴風雨の晩からーー泣きつぶした眼かも知 『べつに私は、何も存じませんが』 おのの れませぬ』 でも鶴江は、戦かずにはいられなかった。 何気なく返辞をしていたが、眼の前に立った侍は、つい先「先には、貢を取り逃がし、今朝は子の菊太郎を又見失った 程、自分の泊っていた旅籠へ調べに来た権堂九馬之丞と逆井雷が、ここで鶴江に出会ったのは、まだわれ等の武運も尽きぬ所 とみえる』 助の二人ーーと彼女もやがて感づいたからである。 『亡きお父上弥十郎様のおひき合せでござりましよう。正義に 然し。 めしい そうだ、引っ返 まさか、この路傍の埃にまみれている盲の旅芸人が、北条貢加護なければ、天道は無い事になります。 して行って、鶴江を捕え、すぐ、鶴江だけでも先に、江戸表へ の妻であろうとは、この二人も、夢にも思う筈もなく、 『ーー子供づれの旅の雲水だ、雲水はもう五十四、五の男。知差立てましよう。その上、やがて菊太郎をも捕まえてしまえ みずか ば、鬼のような北条貢も、遂には、妻子の愛にひかされて、自 らぬか、この辺を、通った様子はないか ら名乗って出るかも知れませぬ』 訊ねても、これは無理な話だろう』 こおど ふたりは、雀躍りして、取って返した。 訊きながら、笑ってしまったのである。 見ると鶴江のすがたは、二人がそこへ行くより先に、自分の そして二人は、半町も先へ通り越してしまったが、歩いてい 危急を予感したものであろう、例の並木から畑地のほうへ向っ るうちに、逆井雷助が何を思い出したか、 「あっ : て、足もとすら見えない身を、転けまろびながら逃げ走ってい 釘で打たれたように足を止め、愕然と、又うしろを振顧っ ! くろ 3