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検索対象: 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明
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1. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

リサイクル資料 ( 再活用図書 ) 除籍済 露薩明 や有 遊無 の戯明

2. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『でも、あの』 『そうか、じゃあ、俺が行って、断ってやろう』 『お・ : ・ : 。失念しておった』 明『、、よ、出しゃ張らないでも』 たもと と左平太は、ちょっと袂の中へ手を落して、 有女房は押しのけて、 『内儀』 『ー・ーお人好しのくせに』 明 と、自分で入口のほうへ出て行った。 無 『いろいろと、永いあいだ、鶴江どのが当家の世話になった事 と思われる。これは少いが、手土産のかわりに』 『あれ、まあ』 何ういう気持 『おさめてくれい』 『こんなに : と、女房は、どうしてこんないい客を、鶴江が避けるのか、 藺で編んだ軽そうな編笠を被っている、深く眉までかくして くずよ いるのでよく顔はわからないが、まだ若い人だ 0 た、襟元からむしろ不満にな 0 て、屑選り場〈戻「て来た。 みなり 『ーーーおまえさん、ちょっと、来ておくれよ』 羽織の紐の結び方にまで、身装の潔癖が見えている。 『どうした、追い返したか』 『どなた様でございましようか』 『でもねえ : : : まあ飛んだお立派なお武家様なのだよ。そし 市兵衛の女房はまず、その人がらと、大小や衣服の立派さ に、どぎまぎして、手のつき方、膝の坐り方に、まごっいてして、鶴江がたいそうお世話になったと云 0 て、これを : : : 』 『馬鹿っ』 ま、つ。 、じゃないか』 『ア痛つ。打たなくってもいし 『当家に、鶴江というお方が、世話になっておるらしいが : うち うかが 『居ないという者のお礼をうけてくる奴があるか。返して来 と、侍は、笠の裡から、奥を窺うように、 し』 『居ろうの』 『だって、おまえさん、もう駄目だよ』 と、念を押す。 『居ると云ってしまったのか』 『先様のほうでちゃんと知っているんだもの。 ロ吃りながら、 さん』 『そんな人は、居りませんが』 『十 6 よま十 6 : と、ひょいと隅を見廻して、 : 』と軽ノ、 『隠すな。鶴江どのは、身を恥じて、そう云われたろうが、何『アレ、お鶴さんは』 『今そこに居たが』 御懇意の藤懸左平太が、ようようお探し も案じた者ではない。 / 『居ないじゃないか』 申して来たと伝えてくれい』 ひも かぶ ・ : ねえ、お鶴 260

3. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『お湯に入りませんか』 明と小女が訊いてくれる。 有『やめましよ、つ』と一ム , っと、 明『では、今すぐ、御飯を持って参りますからーーー』 その後を、彼女は、凝と坐っていた。 無 白い燈し火が、その顔のそばでまたたいていた。 何処の子か、誰の子か。 その光の息づきさえ、彼女の眼には、なんの反射もないらし わが子の菊太郎も、無事でいれば、ちょうどあの位な年頃に なっているのに と、廊下の外を、ひどく荒つばくて小さな跫音がとんと鶴江は、ふと思い出して、 んと駈けて来て、彼女のじっと坐っている障子の外から、 『何うしたであろう ? 』 ここのお部屋』 『此処 ? 良人の貢のこと迄、胸にこみあげて来て、それからそれへ と、過去の追憶にみだれてゆく。 と、子供の声がした。 さんさわ あらし たちま 小さな手が、障子の桟へ障っていた。ガラリと、開けないば 七年前の暴風雨の夜が、忽ち、耳に聞え、眼にも泛かんで来 かりだった。 るのだった 『あっ、坊や。ーー滅多に、ほかのお客様の部屋を開けてはな『瞽女さん ' ここへ、寝床をのべておきましたから、いつでも 眠とうなったら、おやすみなさいよ』 らぬ』 追いかけて来た大人の影法師が、その子供を抱いて、すぐ後旅宿の女中が、うしろで云った。 み - つき へ戻って行った。子だんのロで、その時、女中たちが笑って それすら気づかないで、彼女は先刻から、頬にったう涙を拭 あんどん おうともせす、行燈のそばに坐っていた。 : はい : : : お世話さまでございまする』 番頭らしい声が次に、 あわてて涙を拭きながら、 『坊っちゃん、あなたのお部屋は、こちらでございますよ : さ、どうそこちらへ』 「あの : : : それから、つかぬ事を伺いますが、今し方、この部 と、二階へ案内されてゆく跫音が、ちょうど、鶴江のいる部屋を開けようとして、叱られながら、彼方へ連れて行かれたお 屋の横を斜めに上へ消えて行った。 子は、この旅宿のお子でございますか、それとも、お客様の連 れているお子ですか』 『無邪気そうな : 鶴江は、独りつぶやいて、急にふかい孤独のさびしさに囚わ「ああ、あの腕白な坊っちゃんですか。あれは夕方お越しにな った雲水が連れている子でございますが』 れたように、見えぬ眼を灯にまたたいて、かすかに胸の奥から 『雲水といえば、お坊さんでございましようが』 息をついた。 めった とら なぜ盲目に あちら 引 0

4. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ここまで追いつめれば、ふくろの鼠も同じこと、福井の城下へ 『オ、あれに何やら人だかりが』と、一方が指さすと、 あらた 入れば、又、木一尸検めの役人につかまるおそれがありますか 明『訊ねてみい』と、年下らしい侍の方が云った。 ら、馬をすてて、城下町のうちへ、潜りこむに相違ありません。 有ばらばらと寄って来て、 : そこをしらみつぶしに取調べれば』 明『町人っ』 『わしらも、馬で追って行こう。あわよくば、城下ロの混雑 『へい』 無 ー今し方、この宿場を、鞍も置かぬ百姓馬に乗った骨ぐみで、追いつくかも知れぬ』 たくま 『それは、頼みになるまいと思われますがーーー今日は、足もお の逞しい男が、通りはしなかったか ? 』 つかれでごギ、いましょ , つから』 『三十一、二の浪人ですか』 と、逆井雷助は、まだそこらに佇んでいる人の群れへ向 0 て、 『そうだっ、見かけたか』 『その中に、馬子はおらぬか。福井の城下まで、駄賃馬を二頭 『見たどころじゃありません。たった今、かあいそうに も - 一う 瞽女を刎ねとばして、挨拶もせず、彼方へ駈け去 0 てしまった仕立ててもらいたいのじゃ』 『駕じゃいけませんか』 んで、みんな、腹を立てている所なんで』 『馬はないのか』 : じゃあ、たった今 ? 』 からしり 『あいにくと今、空尻馬は : : : のう、皆の衆、馬はねえのう』 『そうです』 『駕でもよい、早くいたせ』 『馬に刎ねとばされたのは、その瞽女か』 と、旅の侍は、ちらと、大地に坐って脚をなでている鶴江の雷助は急き立てた。 すがたを見たが、その眼は、凄く血ばしっていて、少しのま も、落着いていなかった。 『ウム。 」 , っ・か』 障子 うしろ び - 一う 鼻腔をひろげて、大きくうめきながら、後の方で待っている 連れの若い侍のそばへ駈けもどり、 ゆらゆら 二つの駕の灯は、まもなく、揺々、福井のほうへ急いで去っ 『九馬之丞様、すぐ参りましよう』 『どうした、様子は』 ーそれはともかく。 『やはり、一足先に、百姓馬で駈けて行ったという噂です』 みつぐ 先に裸馬に乗って行った疾風のような人影こそ、正しく、北 『北条貢が ? 』 条貢であったのだ。 『もちろんです』 めしい 鶴江のたずねているその人だったのだ、彼女が盲てまで、あ 『又、出し抜かれたな ? 』 かんく きやっ らゆる艱苦と冷たい巷の中に、手で掻いさぐるように尋ねてい とは申せ、もう、彼奴の足どりは、およそ読めました。 くら せ たたず

5. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

みやげもの 『あれは、熊の胃という薬を売っている土産物だろ』 『おじさんも喰べない ? 』 けもの 明『お薬じゃないよ、あそこに吊り下げてある獣のことを訊いて『おじさんはいらん』 有るんじゃないか』 『おいしいよ』 『みんな喰べるとお昼が喰べられないそ』 明『あああれは、薬の看板にしている熊の皮』 『熊の皮、服むの』 『お馬にも一つやろうか』 無 ふぐたいてん 『皮は薬にはならない、熊の胃を服むのだよ』 憎い敵の子である。父の弥十郎を自害させた不倶戴天の子 『胃って何 ? 』 だ、そして公儀の御詮議をうけている大罪人の子でもある。あ なか まり馴れついては後で困る。 『人間のお腹にあるもの』 権堂九馬之丞は、心のうちで、自分を警戒していたが、童心 『お腹にどうしてあるの ? 』 『困るなあ、おまえのように先から先へ訊かれては』 には勝てないのだった。つい菊太郎の無邪気さにつり込まれ て、いつのまにか、菊太郎の友達のようにされてしまう。 『おじさん、あの角にあるお店は何を売っているの』 いたずら 『この辺の名産、伊吹山の艾であろう そのかわり、長い道中も、退屈しなかった。悪戯も烈しい 『艾って何』 が、何処へ着いても、すぐ宿屋の者と馴れて、坊っちゃん坊っ 『又初まったな』 ちゃんと云って愛されるのである。 時々、淋しくなると、思い出して、 『何、何 ? 艾って』 きゅう 『ほれ、おまえはよく知っているだろ。灸をすえる草じゃ』 『坊のおじちゃん何うしたろ ? 』 『草か ・ : それじゃ喰べられない物だね』 と云い出した。 『誰の事 ? 』 『道中、おとなしくして居ないと、あれを買ってすえるそよ』 『おじさん』 と、九馬之丞が訊くと、 『又か』 『お坊さんの石禅さんさ』 『お腹がすいた』 と云 , つ。 『いろいろな事を云う。まだ昼にはちと早い、次の宿場まで我『石禅さんは、坊やと、前から知っているのか』 慢せい』 『ううん : : : 』と首を振って、菊太郎は、ふと淋しそうに考え あんもち 込むだけだった。 『あそこには、餡餅を売っているよ、喰べたいなあ』 『雷助。・ーー , すまないが、買って来てやってくれ、このよう東海道の宮を過ぎて、赤坂の並木へかかった日の事である。 雷助がふと行く手をながめて、馬の背へ、こう叫んだ。 に、名残り惜しそうに振り向いているから』 あれ、あれへ行く 雷助が駈けて行って、一つつみの餅を求めて来て馬の上へ渡『九馬之丞様、やっと追い着きましたぞ。 してやる。菊太郎はそれを頬張りながら、 のが、吾々より一日先に福井を発った駕籠に相違ありません』 もぐみ、 326

6. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

あった。 ったに違いない。雷助は、本堂のほうへ通っている縁の障子を 開けた。 明『美味い、もう一椀たのむ』 有『おつけしましよう』 と、出ムロいがしらに、 『お済みでございまするか』 明雷助が飯櫃を寄せて飯をつけていると、本堂のほうで突然、 びつくり 木魚の音がした。それから続いて、何事かと吃驚するほど、続と、先刻の老僧がそこに居て云う。 無 けさまにジャン、ジャン、ジャンーーー・と鉦がった。 あぶなく踏みつける所だった。雷助はあわてて足を退いて、 『おや ? 』 『あっ : : : どうも御馳走になりました。少々ですが、これへつ かんじゃく その音律があまり出たら目なのと、不意に閑寂を破られた耳つんでおいた寸志、お納めねがいます』 の驚きに、二人が眼をみはっていると 『かえって、それでは恐れ入ります』 かくれんばーに 『当寺には、子供衆が居るとみえ、だいぶあちらで賑やかには かくれ笠 しゃいでいますな』 『お騒がしかったでございましよう。当寺の子ではございませ 四十や、四五笠 あぶらこけ んので』 ばかま 『では、この近所の』 さむらい袴に 『いえゅうべから、石禅という雲水が連れて来て泊っている子 かくれ蓑 さあ捕ってみさい ですが、昨夜はしゆくしゆく泣いていましたが、今朝になった わるさ さあ捕ってみされ らもう飛んでもない元気の腕白で、いくら叱っても悪戯を止め ほがらかな大声で、童謡をうたい出した子があった。本堂のません。先程も、阿弥陀様を壇から落して手を欠いてしまった 内陣の中を駈けあるいていると見えて、そのうちに燭台や仏具り、あのように鉦をたたいたり、子供というものは仕方のない が壇からぐわらぐわらと落ちたような音がした。 ものでございますな』 『ひどい暴れン坊がいるな』 九馬之丞と雷助は、そっと眼を見あわせ、生唾をのむよ じっ うに、膝を固くして、 何気なく雷助はつぶやいたが、九馬之丞は凝と眼をかがやか 『必 J 、つか せて、本堂の気はいに耳を澄ましている顔つきである。 してその子は、幾歳ぐらいか』 その顔つきを見て、雷助もふと、 『まだ五ツか六ツでしよ、つが』 「は』 ( もしゃ ? ) と、すぐ胸へのばって来たものがある。云う迄もなく北条貢『存じません』 の子の菊太郎 『ゅうべこの寺へ連れて来たというその雲水の素性は』 ツイと腰を上げたのは、その子供をたしかめに行くつもりだ「雲水はいつもたくさんに泊っておりますので、何ういう素性 ひっ みの かね さわ ひざ み ~ つき 300

7. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

あや 『頻りと、北条貢のために、御配下のものが、殺められている『町奉行の捕繩をもって、いったん貢を捕えたからには、権堂 かたきうち 九馬之丞から、父の讐討をすると申して、貢の身がらを受け取 明ではござらぬか』 捕繩を以って りに来ても、断じて渡しては相成らぬ事だ。 有『残念に田 5 っておる』 召捕った罪人は、法令の罪科に照らして、刑罰の下にこれを処 明『果しのないことだ : 置しなければ、刑法の御威厳にさわりますからな 『この儘では、職を辞めねばなるまいかと考えています』 無 『ウム、成程』 『あなたが職を罷めたからといって、それがお上の御奉公にな るではなし、武門の名折れでもありましようが』 『おふくみか』 っ 『ーーーとは田 5 、つものの。こ , っ延引しては』 『九馬之丞が、何と言って来ても、それを突っ刎ねよう。承知 いたした』 『では、一切の処断、この左平太におまかせあるかな ? 』 その後で 『それはもう、北条貢の一件さえ、片づくものならば』 事実、土佐守は、この事件を持てあましていた。北条貢の妻与力の佐藤歓十郎はそこへ呼ばれた。手筈はすべて、その一 の鶴江も、その子の菊太郎の身も、逆井雷助からいちど獄舎へ室でまとまった。 受け取っておきながらーーそれが皆、牢の外へ奪われてしまっ た儘、いまだに奉行の手ではそれが取り返せていなかった。 ただ、その苦境の中で、カとしているのは、この藤懸左平太 二人の立場 だった。左平太は、与力だの同心など、この奉行所の中に、た くさんな友人を持っていてーーー一種の勢力さえあるし、又、白 蝶組の牛耳を握っているので、巷の事や、悪党仲間の消息など帰らない ! 遂に帰らない ! ( どうしたのだろう ? 坊やは ) には、奉行以上に通じているという人間だ。 お兼は、樹の幹に縛られたまま、今朝の夜明けの光を、怖ろ 『ーーでは、お奉行』 しいものみたいに見つめていた と、左平太は、相手の言質を取っておいてから云った。 かん 『拙者に、与力の佐藤歓十郎と、同心二名に、人数三十名をお菊太郎に含めてやった最後の一策も、とうとう絶望のほかな っ , ) 0 貸しくださし 、。今明日中には、北条貢を、これへ捕縛してまい ( ーー道に迷っているのだろうか ? それとも、天王寺の五重 るであろう』 まこと の塔だけは見つかっても、そこにもう北条さんは居なくなって 『えつ、真でござるか』 しまったのか ? ) 『成算のないことは申さん。 , ーー然し、こういう約束はいたし いろいろに思い迷うのであったが、 ておきたい』 ( それにしても、坊やは帰って来そうなものだが ? 『どういう約東を』 ちまた イ 20

8. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

「そんな口止めは役に立ちゃあしないよ。あの二人は、権堂九 明 馬之丞と逆井雷助という者だろう』 すると、その姿を見て、駕屋の溜り場からすぐ、 『それ迄、御存知なんですか。じゃあ仕方がねえ、やりましょ 有『ーー御新造さん』 う、その代りに』 明駕屋が、駕を持って来ようとした。 さ、 ~ 削・払 . したよ』 『駄賃を弾んでおくんなさいだろう。 お兼はあわてて、 無 あしら こういう男共を扱う事は、お兼にとれば、自分の手足を動か 『何さ、誰も、駕を呼びやしないじゃないか』 すようなものだった。 と云った。 偶然といおうか、約束事といおうか、菊太郎のさらわれて行 言葉が伝法なので、駕屋はお兼の顔を見直しながら、 ねえ ったと同じ所に、石禅も捕われている事がわかった。 『ア : : : 姐さんですか。駕の御用じゃねえんですか』 番町の近くまで来ると、お兼は駕を捨てて、暗い屋敷塀に添 『すこし、聞きたい事があるんだが』 って、権堂家のはうへ歩いていった。 『へえ ? : 何ですえ』 『ここの仲間の者だろう。おとといの晩、待乳山の下で、二人女のカでは、何うにもならない事は分っているが、そこの様 子を探って、たしかに、菊太郎も石禅もいると分ったら、その の侍に斬られた雲水を乗せて行った者は ? 』 『さあ、俺あ知らねえなあ。ーーー誰か行ったのか、そんな者を事を、もいちど谷中の五重の塔まで知らせに行かなければなら ないと考えていたのである 乗せて』 たもと 袂から頭巾を出して、お兼は、眉深に顔をつつんだ すると、溜りの中から、 『番町の屋敷だろう。侍が一人、雲水が一人、何っ方も怪我をして裾を短く括し上げて、 : ここだ』 していた』 なま・一 古い海鼠塀を仰いで、お兼は、暫く立っていた。 という者があった。 塀も門も、ひどく荒れていた。七年間、空き家同様になって お兼は、その駕かきを呼んで、 いた屋敷なので、門前まで雑草が生えている。 『おまえさんかえ、行ったのは』 かんめき 腐っている門の扉を、そっと押してみたが、中から閂が懸 『へえ、そうです』 っているのであろう、四、五寸ほど扉の合せ目はロを開けた 『じゃあ、おまえの駕に乗るとしよう。すぐやっておくれな』 が、身をいれる程には開かないのである。 『何処へゆくんです』 『亠めはははよ 『その怪我人を乗せていった屋敷へさ』 不意に、誰か笑った。 『あっ、こいつは不可ねえ』 うしろ 自分の後の方にである。 『ど , っして、』 、よ お兼は、恟っとしたように、門の屏から手を離してふり顧っ 『あのお侍衆に、固く口止めされていたんです』 たま イ 02

9. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『えつ、ほんと』 『子供と云ったって、親類の預かり者だけど、側へ置いておく そして、お父さんに会 『だけど、誰にも黙ってるんだよ。 明と、可愛くなるもんだねえ』 いに行くんだから、今日中に、ここを引っ越してしまうのさ』 有『おめえもやつばり女かなあ ? 』 『越すの、ここの二階を』 『ばかにおしでないよ』 明 御家人町の四ッ辻で、お兼はその男と別れた。彼女がこの夏菊太郎は、住み馴れた二階を、きよろりと見廻した。 無 せん・、いや すまい お兼の着更えが壁に懸かっているほか、道具らしい物は、何 頃から借りている仮の住居は、そこからすぐ横丁の煎餅屋の二 もない二階だった。 階であった。 うなどんぶり 夕方、鰻丼を取って、階下の家族たちへも振舞った上、お 柿の枝をさげて、彼女が戻って来た姿を見つけると、そこの 二階の窓から、 兼は、永らく世話になったが、都合で親戚の家へ移るからと云 って、煎餅屋の家を出た。 『おばちゃん ! 帰って来たの。その柿、何処で買って来た 『おばちゃん、ほんとにお父さんの家へ行くのかい』 の』 ひ 手を曳かれて、町を歩きながら、菊太郎は何度もそれを訊く と菊太郎がもう首を出して、歓呼していた。 のだった。 『ああ、だけど、今夜はお父さんは、よそのお屋敷へ行ってる から、外で待って居て、そして一緒に何処かへ行くとしよう 襖隣り ね』 『うれしいなあ』 まっ こおど 菊太郎は、雀躍りして、彼女の袂に纒わった。 『甘いよ、この柿。おばちゃんも喰べない』 菊太郎は、柿の実を描り取って、ポリポリ噛りながら、お兼子供を連れ歩いている事は、兇状持のお兼に取って目明かし くら そうじゅっ の眼を晦ます一つの偽装術にもなっていた。 に甘えていた けれどお兼は、今となっては、真実、菊太郎が可愛ゆくて堪 『ゅうべは坊や、一人ばッちで、淋しかったろうね』 いじら らなかった。 この可愛いい可憐しい子の口から、その親の 『ううん。階下のおばちゃんと寝たの』 名を聞いた時、彼女は余りにも皮肉な宿命に驚いて、 『それはよかったね』 かどで がたき えんにち 『階下のおばちゃんに、縁日へ連れて行ってもらったよ。そし ( さては、自分にとっては、生涯の門出に敗れた恋仇の子であ ったか ) たら、お父さんに似た人が通った』 と、一度は慄然として、突き放そうかと思った程であった 『坊やのお父さんにも、今に直きに会わせてあげるからね』 が、菊太郎の無邪気さが、薄々その無邪気な口から聞き得た事 『何日 ? ・何日 ? ・』 情を知ってみると、もう遠い過去の怨みを根に持って、北条貢 『今夜』 した っ ふすま した かじ した うち たま 360

10. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

まくダシに使われて、そのお兼が破獄したと分った朝、一緒に 『もうあの子供はここの牢内にはおりません』 しか へい、お兼 あの子も見えなくなってしまったわけなんで : 明『体りを申すな。確と探った上で訪ねて来たのだ』 と一緒に逃げちまったものとお上では見ております』 有『でも、慥かにおりません』 「えっ : : : では女囚のお兼が連れて逃げたと云うか。して、そ 明『まったくか』 れは何日頃』 「へい』 無 『もう大分前の事で : : : まだ牢長屋は蒸し蒸しするような夏の 『では、此処から何処へ移されたのか。その行先をいえ』 末でございましたから』 『分りません』 なおき 「では、猶訊きたいが、そのお兼とやらいう女の住所は何処 『なぜ』 か、知っているなら教えてくれい』 『破獄したのでございますから』 『ま、ま、よ 『破獄した大罪人、おまけに常でも女掏摸という兇状持ちのお 大きな声を出すなと牢番にいっておきながら、貢は、自分か兼、住所などは分りません。それが分っている位なら、すぐお かっ 上の捕手がいってお手当をしてしまいますから』 ら思わず、こう一喝してしまった。 むつつ 「なる程、それは道理だな』 『まだ六歳やそこらの幼な子が、何うしてこの高い塀囲の内か ここにわが子は居なかったと分ると、貢は、ほっと安心した ら破獄して逃げられようぞ。おのれ、偽りを申すと、その首が がっかり ような、同時にまた落胆もしたような気持になって、急に、いの 飛ぶそよ』 つるゆる 弦が弛んで来た。 かおだち 『ではそのお兼とやらは歳ぐらいで、どんな容貌をしている 女か』 星なき秋 いきはだ 『もう二十四、五でございましよう、粋肌で色は抜けるように 白く、背もすらっとした美い女で』 とくちょう 顎と顎が合わさらないように、牢番の声はさっきから顫えて『何か特徴はないか、顔だちとか、姿とかに』 『さあ : : : 顔だちといえば細面のほうですが、一目で分るよう 物も したが、貢が、刀のつかを打って一喝すると、よけいに、 あわ おび な特徴といったら : : : 何日も櫛巻にしている事と、そうそう、 云えぬ様子で、脅えた眼が、ああっ、愍れを乞うように光った。 ほくろ たしか左の眼の下に、愛くるしい黒子がありましたつけ。それ 『云え、正直に』 位な事しか覚えておりませぬが』 『ま、まっ直に、申し上げております』 『そうか、よく話してくれた、・・ : : 然し、拙者が出てゆくと、そ 『ではどうして、菊太郎が、破獄したなどと、嘘をいうか』 きっとどな 『嘘ではございません。あの子供は、ここの牢へ廻されてくるの間にそちは屹度呶鳴るであろう、気の毒だがこうしておく』 ひととき と間もなく、同じ棟の牢長屋にいた女掏摸のお兼という者にう貢はまた手拭を丸めて、牢番のロの中へ押し込め、もう一瞬 あご たし ふる すまい っ