菊太郎 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明
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1. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

彼女は、あわてて、自分の部屋へ戻って来た。そして、菊太入屋をつかって、うまうまと忍び込んで来たわけさ』 明郎の姿を急いで探した。 『、つ . れーしい 小母ちゃん、早く逃げよう』 くたび 有遊び草臥れた菊太郎は、夕飯をたべるとすぐ、そこらの部屋『ちょうど、奥の客も、少し酒がまわってきたから、今がいい しお 明に入って、ごろりと、うたた寝していた。 。だけど、わたしは、あの倉の中にいる石禅さんの方へ 『坊や、坊や』 も行って来なければならないから、坊やは、台所の外に立って 無 揺り起すと、 待っておいで』 いやあ。いやあ。いやあん』 「早く来てね』 寝呆けて、手を振り廻した。 「アア、直ぐだよ』 『叱っ : : : 大きな声を出さないで。 : さ、早く支度をおし』 と、お鹿は いやお兼は、雑草の生い繁っている裏庭の奥 はだし 『眠たい、眠たい、坊は、起きるのはいやだよう』 へ、裸足で走って行った。 『こんな屋敷は、早く逃げ出さないと、今に、おまえも生命を 奪られてしまうんだよ。 : さ、もっと固く、帯を締めて』 『誰かと思ったら、おまえは、昼間、桂庵が連れて来た女中さ 帯の端 んだね、何処へ行くの ? 『菊太郎ちゃん、わたしが誰だか、まだ分らないの』 『お鹿さんじゃないか』 子供ごころにも、菊太郎は、歯の根をカチカチ鳴らして、顫 いいえ。わたしは、お兼だよ』 えていた。 何か恐ろしい事を犯すような恐怖が、その童心 『嘘だい』 をも寒々と揺りうごかすものと見える。 菊太郎は、信じなかった。 お兼の去った雑草の闇を見つめながら、菊太郎は、朽ち果て くら 大人の眼さえ晦ましているのだから、子供の眼には、無理も た台所の外に、いっ迄も凝と立っていた。 つくり ないと思った。お兼はいそいで、台所へ行って、顔の変粧を洗 すると。 い落し、毛の赤い鬘を脱って、いつもの粋なお兼になって返っ 『お鹿・・ : : お鹿 : : : 』 て来た。 呼びながら、外を覗いた雷助が、ふと、驚いた顔して、 『これなら分ったろう』 『そこに立っているのは、菊太郎ではないか』 『あっ : : : お兼小母ちゃんだ』 菊太郎は、そう言って、しがみついた 菊太郎は、黙って、円い眼を、脅えたように振向けた。 : 私と一緒に逃げるんだよ。わたしは、おまえと石禅さ 『何しているのだ、こんな所に立ってーーーさ、中へ入れ』 あぶらずみと んを救い出す為に、脂墨や砥の粉で顔を変粧え、ここへ来るロ菊太郎は、かぶりを振って、 かつらと いのち じっ ふる

2. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『どこの山』 いものであるかとも、反省していられなかった。 くりや 小走りに厨のほうに駈けてゆく。 『飛騨の山』 そこには、大勢の手伝いが働いているので、ちょっと、姿を『そう。おじさんは、ここの家の人じゃないんだね』 出すのに憚られた。 で、物蔭に立って、菊太郎がいるか居『お手伝いに来たんだよ』 ないのかを、遠くから覗いて確めて居ると、 『お芋の皮を剥くの上手だね 『アア居た : ・・ : 』 『上手だろ、おじさんは、これが職業だもの。料理人だから 彼は、ほっとしたらしく、眉をひらいた。 菊太郎は、そこの流し元で、何か野菜を刻んでいる若い料理『いたまえって何 ? 』 しゃ・ヘ 人と、お喋舌りしているのだった。 『うるせえな。それよりも、坊や、おめえのお父ちゃんは、何 色の小白い若い料理人は、子供ずきとみえ、片手に庖丁を持てえ名だい』 って、野菜の皮を剥きながら、菊太郎に訊いていた。 『加賀作』 『坊や、幾つだね ? 』 『ほかの名は』 『これだけ』 『名まえは一つしかないよ』 と、菊太郎は、指を示した。 、坊やは』 『七ツかい』 『あたい。あたいは、菊太郎』 『、つん』 『お母ちゃんは』 『お悧巧だな』 『え ? ・』 『ああ』 『お母ちゃんは、何処にいるの ? 』 『お父ちゃんは』 『知らない』 『お父ちゃんは、お聟ちゃんだよ、あたいはぶんけだよ』 『死んだのかい』 『何だって ? おじさんには些っともわから『知らない』 ねえや』 『会ったことないのかい』 『おじさん何っ方から来たの』 『 : : : 知らないや : : : 』 しお 男 と、今度は、菊太郎のほうから反問しだした。 急に、菊太郎は、悄れ返って、今にもペソを掻きそうな顔を 剥料理人は、庖丁で裏口を指して、 を 1. ーー・彼っ方から』と云った。 若い料理人は、今にも泣き出しそうなその顔を、凝と、する どい眼で見つめていたが、不意に、手を拭いて、 野『彼っ方からって、何っ方から』 『山のほ , つから』 『坊や、お菓子を買ってやろうか』 しようば、 277

3. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

九段坂を降りて、暗い濠端を右へ五、六町、大きな屋敷門と 塀が見えた。 菊太郎は、ちょこちょこと走って、裏門の方へ廻った。そし 口惜しき一歩 て、欣しげに、、 声で石禅の耳へ囁いた。 『・・ : : 開いてるよ、石禅さん』 うまや そこの通用門を入るとすぐ、右側に厩がある。その厩と炭部 梯子は長い。菊太郎の背は低い。 屋の露地を曲がって、裏庭へ出ようとする片隅の一棟。 幾度も、立て懸けようとしたが、持て余して、 指さして、又そっと、石禅の耳へ、菊太郎が云う。 『石禅さん、持ち上がらないよ』 つな 『・ : ・ : 彼処だよ』 石禅は、帯や紐を繋ぎ合せて、窓の上から下へさげた。 菊太郎が、梯子の先にそれを縛り付けると、石禅は上で手繰『そこか』 石禅は、忍び寄ったが、菊太郎を振り向いて、 り上げた。梯子は、窓へかかった すが それに縋って、石禅はやっと降りて来たが、まだ脚の刀傷が『誰か来るといけないから、そこに居て、見張っておれよ』 びつこ 云い残すと、石禅は一人で、何処かへ隠れた。 癒っていない。彼は、痛そうに跛行を曳いて、 暫くすると、石禅は、自分一人の身を運ぶにも痛い脚なの どこじゃ、お母あ様のいる所はーーー』 一人の女性を背中に負ぶって、植込みの蔭からそっと戻っ 『石禅さん、歩けるの』 『歩けるとも、今宵こそ、這ってでも行かねばならぬ ! 死んて来た。 菊太郎は、一目見ると、 でも行く ! 』 『あっ、お母あ様だ ! 』 『死んじゃ嫌だよ、石禅さん』 わっと、泣かんばかりな声を揚げて、石禅の背中の女性に跳 『おお、そなたは』と、石禅はひしと菊太郎を抱きしめて 『何という薄命に生れついた子じゃ、さぞ、心細かろう。泣くびついた。 いや天道様が見てござる鶴江も、手を伸ばした。 だが、眼をもってわが子を見る な泣くな、わしが付いているそ ことはできない。ただ、ひしと、手と手を、握りしめて、彼女 そ』 うしろ つけ も又、石禅の背から泣き仆れてしまいそうになった。 二人の出て行く後から、九馬之丞もそっと尾行て行った。 歩 そして、菊太郎の声や、石禅の声を聞くにつけ、何うして『 : : : 叱つ、そんな声を出してはならぬ。話は、後で悠つくり かたき するがよい さつ、早くここを逃げるのが先じゃ』 きこれが、自分の憎む仇の端かと疑った。 すが ーし こんな情のある僧や、純情な幼な子を、敵の端と憎んで、あ縋り合う母と子の手を抗ぎ離して、石禅は門の外へ走り出し まろ 菊太郎も、転ぶように尾いて駈けた。 ロらゆる機会に苦しめた自分自身の方がーー遙かに残忍な人間のた。 だが、裏門の両側には、もう手配が廻っていた。用人の息子の ような気がして来るのだった。 あそこ まりばた イ 35

4. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

うかして、お母あ様の姿を見たいと思って、窓の戸を、がたがのカでは、蔵の扉なんか開かないもの』 いやいや、そんな事をしなくても、お前の足一兀に横になって 明た動かすと、中からお母あ様が、今そんな事をしてはいけない 有と止めるんだよ。 そして、お兼小母さんに、早く報らせてい るその梯子ーー・その梯子を、この窓口へ立て懸けてくれれば 明おくれと云うので、厩の横の開いてる門から、大急ぎで駈け出よいのじゃ』 『あ : : : これか』と、菊太郎は、そこに横たわっている長い植 して来たんだよ』 無 木屋梯子へ眼を落した。 『ああそうか ! 鶴江は、左平太の屋敷に囚われていたか』 『石禅さんは知ってるだろ』 うしろ 権堂九馬之丞は、そっと後の木蔭まで忍び寄っていた。きの 『何がじゃ』 お兼おばさんは、何うしてここに居な うも、その梯子を立てて、お兼が石禅を救い出そうとした。 『お兼おばさんさ。 いの』 いつもの彼ならば、当然、跳びかかって、菊太郎をそこから 『タ方、奉行所から与力が来て、繩付のまま、引立てられて行退けたであろう。又、梯子を奪って、蔵の窓を、厳しく何かで 閉じ籠めたであろう。 『えっ・ だが、今宵の彼は、もう昨日までの彼とは、気持が違ってい : 』と、小さい菊太郎の胸にも、そこが何んなに怖し い所かという事は、嘗って、頭に深く沁み込んでいたので、眼 藤懸左平太という人物に、大きな疑問を抱いて来たからであ をまろくして、失望の声をあげた。 る。 『ほんと ? 石禅さん』 『ウム。 昨日までは、その左平太を、友誼に厚い人格者ー・ー心から尊 だが菊太郎、心配するでないそ』 『だって、あの小母さんが居なくなっちゃ、あたいはこれから敬すべき人間と信じていたが、今日の彼の態度は、まったく、 その信頼を裏切っているばかりでなく、事々に、彼の言動に 何うするの』 は、暗い陰軫があるーー虚偽が見えるーーー又、太々しい陰険さ 『まだ、唯一人、石禅が無事でここに居る。何も悲しむことは 十′し』 が感じられる。 今も又。 ひじ だが・・ーー菊太郎は心細くなったとみえて、肱を曲げて、ペソ何げなく近づいて、菊太郎と石禅の問答を聞くにつけて、 ( はてな ? ペソ泣き出した。 : この邪心のない明るい子が、何うして悪人の : あの土蔵の中にいる僧が、どうして悪党の味 『菊太郎菊太郎 お兼おばさんの代りに、わしが鶴江を救子だろうか。 ほか たす いにゆくから、このわしを、土蔵の中から救け出してくれ。方だろうか ? いやいや、これは何うやら、真の悪人は他で笑 っているらしいそ ) そう気が着いたので、彼はもっと、石禅と 今、母屋の方には、誰もいないらしいな』 『彼っ方には、誰もいないけれど、土蔵の鍵もないし、あたい菊太郎の行動を見る為に黙って、木陰の闇に影を沈めていた。 うまや くらと ふてぶて

5. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『ちがうよ、ちがうよ、おばさん。北条じゃない、ただの加賀 『ど、つしてさ、おばさん。 , ん ? ・え ? 』 たず 明と菊太郎は猶、子供の通有性として、執こく訊ねて熄まな作っていうんだよ』 そして年齢はお幾歳 ? 』 「坊やの名は。 有 『あたい』 明この盲目の女性が、自分の生みの母であろうとは、菊太郎は 『ええ』 元より知ろうはずもなかったし、鶴江も、夢にも気づいて居な 無 っ一 ) 0 『あたいはね、あのね : : : 』 石禅から固く云われているとみえ、菊太郎はロを緘んで、答 えなかった。 旅宿の女中が、小走りに廊下を駈けて来て、そこにいる菊太 淡き香 郎の姿を見つけると、 。しつの間にか、ここへ来て遊んでい 『まあ、この坊ちゃんよ、、 たんですか、どんなに探したか知れないのに』 鶴江は、話を反らして、 と菊太郎の手を取って、急きたてた。 『坊や、おまえは、誰とここへ泊っているの』 わらじ 『お連れ様は、もうすっかりお支度が出来て、草鞋まで穿いて 『石禅さんと』 さ、さ、早く来な 門口に待って居るではございませんか。 菊太郎は卒直に答えて、むしやむしゃ饅頭を食べている。 いと、坊やを置いて、お立ちになってしまいますよ』 『石禅さんていうと、お坊さんですね。じゃおまえは、お寺の 坊やを置いて行っちやアいやだい』 子 ? 』 早く、早く』 『違う、違う。お寺の子なんかじゃないよ、坊やは、武士の子「だから、早くおいでなさい 巧みに子供の心をあやしながら、女中が先へ走り出すと、菊 だって、お父さんが云ったもの : そう云いましたか。では、お父太郎も釣りこまれて、ばたばたと跫音軽く飛んで行った。 : お父さんが ? 掌の裡の珠を奪られたように、鶴江はその後、ばんやりして さんの名は、何と仰っしやるのですか』 『北条 : : : 』云いかけると、 何かしら、自分の身の肉を引き裂られて行ったように、 『えつ、北条 ? 』 びつくりして、鶴江の手が、菊太郎の体を探るように撫で廻今の子供を、もいちど呼び戻してみたい気持でいつばいだった。 血をわけた母である子である、意識の上に知る事はできなく さわ ても、何となく血液が噪ぎ立っていたことは争えない 『北条 : : : 何というお人ですか』 が、人間の常識は、いつもこういう場合に、かえって、その霊 すると菊太郎は、擽ったいように、体を竦めて、キャッキャ 感を打ち消してしまうのが常であった。 ッと笑い出した。 し、 くすぐ にお すく み一むらい うち つぐ 312

6. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

菊太郎の手頸も、かたく掴んだまま離さなかった。 た。牛ケ淵から何町もない屋敷である。それにここの屋敷は立 そばや 明『嘘を言っても、わしは知っている。蕎麦屋に道を訊いていた派だった。こんな立派な屋敷に悪い人間が住んでいる筈はない 方ではないか』 と彼は考えて、安心した。だがーーーその屋敷の小門から手を引 わき 嫌だっ。おいらは、一人で行くよ』 明『嫌だっ、 っ張られて入るとすぐ、覆面の男は、大門の側にある門番小屋 ちゅうげん 『大きな声をせんでもいい わしは何もしはしょ オいただおまの仲間に向って、 無 えみたいな小さい子供が、谷中まで一人でゆける筈はないから 『これ、誰か来い』と、呼んで・ーー「このチビを逃がさんよう 教えてやるのだ』 に何処かへ抛りこんで置け。子供だなどと思って油断するとっ 『いやアン : いやだアい』 い手抜かりのあるものだ。いいか』 菊太郎は泣き出した。 と、仲間の手へ渡して、さっさと、家の中へ姿をかくしてし つむり まった。 覆面の男はその頭をなでてやりながら、 『おまえは、番町の横から出て来たろう。権堂家のおやしきに菊太郎が暴れるのを無理に抑えつけ、仲間たちが、何処かへ いた菊太郎だろう。そうに違いない』 押し籠めた為であろう。 『小父さん、知っているの』 ( ひィーツ。ひいっッ 『知っているとも、わしは毎晩、あの横町の角に立っている人と甲高く泣く声が、暫くの間、ひろい屋敷の隅にながれてい 間だ。 こんな事があるといけないからな』 『じゃあ、小父さんは何 ? 』 ここは御書院番組の旗本、藤懸左平太の屋敷だった。寝所の なるこ 覆面の男は、ちょっと黙ったが、ふいに菊太郎の耳に口を寄外の鳴子が、ー カらがらと庭木の間で鳴った。 せて、 そし 左平太は、ふと起って、寝室から廊下へ出て行く 「おまえのおっ母さんの使だよ』と、酒臭い息で云った。 て雨戸を開けると、暗い庭には、湿ッばい夜気が満ち、彼の眠 泣きゃんだ眼を丸くして、 りに腫れた臉に冷やこく風が吹いた 『ほんと ? あたいのお母さんどこにいるの』 「・・ : : 誰じゃ、それにおるのは』 『わしの屋敷へ来ているそ。うそだと思うか ? 』 物蔭へ向って、こう咎めるように言うと、今、庭木戸を排し 菊太郎は、首をかしげた。覆面の男は、にやりと笑、モ しオかて入って来た覆面の男が、 ら、菊太郎の手を取って歩き出した。 『源六奴にございます』 「ーーおっ母さんに会ってから谷中へ行ってもおそくないぞ。 と、答えた。 けたた すぐそこだから』 「源六か。 して、あの消魂ましい子どもの泣き声は ? 』 さまた 疑いながらも菊太郎は従いて行った。だんだんに馴れて来「あれがお耳についてお眠りを邪げましたか。ーー実はお吩咐 たたす て、その侍も何だか怖くない気がして来た。ほんとに近かっ けをうけて、宵から番町の角に佇んでおりました所、権堂家の てくび ちゅうげん とが ふじかけ イ / 6

7. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『・・ : : 誰を』 に汚いし、眉毛の間はひどく離れている。それに、火傷でもし あかあざ 『 : : : 坊やのお父さんを』 たように、小鬢の生え際が、妙に縮れ上って、赤痣のようなも 『嘘だい』 のができる かおだち そんな容貌でも、わがものと思えば、見恍れる程いいの『坊やのおっ母さんも。 であろうか、お鹿がいっ迄も、鏡に向っていると、窓口から、 『・・ : : 知らないよ』 菊太郎が覗き込んで、 お鹿さん』 菊太郎は変な顔をしながら、飽くまで否定した。 『お洒落だね。 お鹿は、抑えている菊太郎の手を、じっと、温くにぎりしめ もういつの間にか、名を覚えこんでいて、揶揄った。 て 『あら』 『あんなに、この小母さんに抱かったり、一緒に御飯を喰べた お鹿はあわてて、包みの中へ、小鏡を突っこんで、 りしたくせに、坊やは、想い出せないのかえ』 『誰がお洒落さ』と、睨めつけた。 『おまえさ』 『ようく、この小母さんの顔を、見てごらん』 『いっ私が、お洒落をしたえ』 『・・ : : 知らないよ』 『ここのうちへ来るとすぐ、鏡ばかり見ているじゃないか』 むしば 『わからないの』 『虫歯が痛んでならないから、虫歯を見ていたんだよ』 『だって』 『嘘云ってらあ』 『 : : : そう』と安心したように、お鹿は手を離して、横顔を見 顔を指さして、菊太郎がキャッキャッと笑うと、 せながら呟いた 『ーーーま、この子は、憎ったらしい 『わからなければ、それでいいんだよ、わからなければ : お鹿はいきなり窓際へ近寄って、そこに乗せていた菊太郎の 表の客が通ったのであろう。その時、奥の書院で、九馬之丞 手を抑えつけた。 がしきりと手・を 2 らしていた 『痛い、痛い、痛いっ』 1 はアい』 『もう悪口云わないか』 お鹿は、あわてて、甲高に答えながら、奥へ立っていった。 『云わない』 窓『きっと云わないね』 謎のような言葉を耳に残されて、菊太郎は、子供心にも、不 うしろ れ『ああ』 審な気がしたのであろう。彼女の後を見送って、少し考えてい たがすぐ、『ーーーちえツ、変な女中 ! 』と悪たれついて、又、 た『おまえは一体、何処の子』 雑草の上へ、犬ころのように寝ころんだ。 悪『何処の子だか、知らねえや』 「この小母さんは、よく知っているよ』 しゃれ こびんは からか やけど そして坊やもようつく知ってるん イ 07

8. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『えつ、ほんと』 『子供と云ったって、親類の預かり者だけど、側へ置いておく そして、お父さんに会 『だけど、誰にも黙ってるんだよ。 明と、可愛くなるもんだねえ』 いに行くんだから、今日中に、ここを引っ越してしまうのさ』 有『おめえもやつばり女かなあ ? 』 『越すの、ここの二階を』 『ばかにおしでないよ』 明 御家人町の四ッ辻で、お兼はその男と別れた。彼女がこの夏菊太郎は、住み馴れた二階を、きよろりと見廻した。 無 せん・、いや すまい お兼の着更えが壁に懸かっているほか、道具らしい物は、何 頃から借りている仮の住居は、そこからすぐ横丁の煎餅屋の二 もない二階だった。 階であった。 うなどんぶり 夕方、鰻丼を取って、階下の家族たちへも振舞った上、お 柿の枝をさげて、彼女が戻って来た姿を見つけると、そこの 二階の窓から、 兼は、永らく世話になったが、都合で親戚の家へ移るからと云 って、煎餅屋の家を出た。 『おばちゃん ! 帰って来たの。その柿、何処で買って来た 『おばちゃん、ほんとにお父さんの家へ行くのかい』 の』 ひ 手を曳かれて、町を歩きながら、菊太郎は何度もそれを訊く と菊太郎がもう首を出して、歓呼していた。 のだった。 『ああ、だけど、今夜はお父さんは、よそのお屋敷へ行ってる から、外で待って居て、そして一緒に何処かへ行くとしよう 襖隣り ね』 『うれしいなあ』 まっ こおど 菊太郎は、雀躍りして、彼女の袂に纒わった。 『甘いよ、この柿。おばちゃんも喰べない』 菊太郎は、柿の実を描り取って、ポリポリ噛りながら、お兼子供を連れ歩いている事は、兇状持のお兼に取って目明かし くら そうじゅっ の眼を晦ます一つの偽装術にもなっていた。 に甘えていた けれどお兼は、今となっては、真実、菊太郎が可愛ゆくて堪 『ゅうべは坊や、一人ばッちで、淋しかったろうね』 いじら らなかった。 この可愛いい可憐しい子の口から、その親の 『ううん。階下のおばちゃんと寝たの』 名を聞いた時、彼女は余りにも皮肉な宿命に驚いて、 『それはよかったね』 かどで がたき えんにち 『階下のおばちゃんに、縁日へ連れて行ってもらったよ。そし ( さては、自分にとっては、生涯の門出に敗れた恋仇の子であ ったか ) たら、お父さんに似た人が通った』 と、一度は慄然として、突き放そうかと思った程であった 『坊やのお父さんにも、今に直きに会わせてあげるからね』 が、菊太郎の無邪気さが、薄々その無邪気な口から聞き得た事 『何日 ? ・何日 ? ・』 情を知ってみると、もう遠い過去の怨みを根に持って、北条貢 『今夜』 した っ ふすま した かじ した うち たま 360

9. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

と手を振った。 駕籠の中から、 「おお』 明『ーーーきつ、きく太郎ッ』 かかと 九馬之丞は、踵で馬の腹を打った。馬は、泣き出した菊太郎 有突然、絹を裂くような声がながれた。 明並木の根へ腰かけて休んでいた役人たちも、雷助も、又、九をも背に躍らせて、蹄を迅めた。 めしい 盲の彼女にも、その気配が分ったものとみえる。鶴江は、必 馬之丞も、ぎよっとして、思わずそれへ眼を瞠った。 まろ 無 止める間もない迅さであった、駕籠の中から、転び出した盲死の声をあげて、 ・ : 菊太 : その馬、待ってくださいつ。 『待ってえーー・つ。 の若い女がーーー云う迄もなくそれは鶴江で 郎ゃあっ : : : お母様じゃぞ、母の名を呼んで賜もい : : : 菊太郎 : ・今の声は : : : 菊太郎ではないのか、菊太郎っ』 司菊太郎っ・ 眼こそ閉じているが、顔を上げて、あたかも、わが子の姿をつ : ぶつかって来るような彼女の勢へ、雷助は、両手をひろげ、 見つけたように、驀しぐらに馬のほうへ駈け出して来るのであ 『待てつ』 と止めようとすると、 『あっ・・ : : ど、何処へ行くっ』 『ええ、離してつーーー邪魔なっ』 抱きささえた役人たちは、意外な力で突き飛ばされた。 まろ 鶴江の血相は、瞬間に変っていた。産み落した時から膝へこ振りもいで、前へ駈ける、前へ転ぶ。 『ならぬ、ならぬ』 そ抱いていないわが子ではあるが、七年のあいだというもの、 むび 役人たちも、力を協せて、泣き狂う彼女をむりに駕籠へ引き この母は、夢寐の間にも、この子を忘れていたことはない はた 1 一 もどした。 のみならず、つい先頃は、福井の城下に近い宿場の旅籠で、 菊太郎を連れている石禅と泊り合せてもいたのである。 たわむ その時こそは、彼女は、すぐ自分の前まで来て戯れていたわ けれど、後でそ が子をわが子と知らずに過ぎてしまった。 れと知っての口惜しさが深かっただけに、その時の菊太郎の声 は、今も耳に残っていた。まざまざと覚えていたのである その声が今、ふたたび駕籠の外に聞えたのだ。何で間違お旅人の足音がすると、小鮎の群れは、すぐ川砂を濁してさっ う、彼女は、とたんに気が狂ったような勢を身に持って、駕籠と逃げて行く。 『・・・・ : 鮎も育って来たな』 の外へ、走り出したのである。 しみじみ 月日も忘れがちに過ぎて来た旅の越し方を、沁々振り顧って しまった ! と感じたらしい。雷助は九馬之丞へ向って 憶うように、一人の雲水が杖をとめて、流れる水を見ていた。 その大屋川は、三河の岡崎から三十町ほど来た街道の途中に 関わすに先へおはやく ! 』 ひと - 一と 『お早くつ。 かま めしい 一日後から ひづめ あわ 328

10. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

の土もない。お兼 ! 頼みがある ! 『あ、待ってーーー』 すが 『え、何ですか』 お兼は縋りついた。 『お前に頼めた義理ではないが、おまえより他に頼み手はな : じゃあ北条さん、あなたはもう近いうちに、死ぬ覚悟で おれの死んだ後の事だ。どうか、鶴江と菊太郎の二人すか』 の身を』 『死ぬ覚悟はいつもできているが、鶴江と菊太郎の身を思う そこまで云うと、貢は、声をつまらせてしまった。 と、その覚悟もつい乱れてくるのだった。 : だが、おまえが お兼も涙にうつむいて、 引きうけてくれたので、心が軽くなった。おれは、権堂家の邸 『 : : : 分りました、お二人の事は、心配しないで』 内から、菊太郎を奪り返して、この塔の中へ連れてこよう と云っても、天下の大罪人という悪名をかぶされている : その間に、鶴江と石禅の行方をどうか探してくれ』 北条貢。たとえおれが死んでも、鶴江や菊太郎の身が安穏とは『鶴江さんは今、わたしの手で、或る場所に隠してありますか 思われぬ。ーーーそうだ、あの石禅という雲水を尋ねあててくら、ここへ連れてくるならば何日でも れ、そして石禅殿に二人の身を託し、僧籍へ入れて、高野の山『えつ、鶴江は、おまえの手で匿まわれているのか : 奥にでも隠してもらうように』 『会いたいでしようね、北条さん』 遺言でもするように、貢は、、いのうちの気懸りを打ち割っ 『会いたし : 正直におれは云う。 : 一刻も早く鶴江と菊 て、お兼に死後の事を頼むのであった。 太郎に会いたい。この塔の中で見る夢は、鶴江と菊太郎の事ば かりだ』 『お察しいたします。じゃあ、明日の夜でも、すぐここへお連 れして来ましようか』 胎内の人 : 待ってくれ。 : おれは父としてその前 、菊太郎を先へ此処へ連れて来なければならない鶴江と二 お兼は、肩を顫わして泣いていた。 人して会っても、ここに菊太郎がいなければ ′一もっと 今は恋ではない ! そう自分の心へ云い切って居ながら『御尤もでございます。その坊やをあなたが奪り返して来た 、いはいつのまこかリ 冫男離の思いに苦悶して、むしろ恋以上ら ? 』 人こ、貢の言葉が悲しまれた。 『こうしよう。塔の二重目の東の柱に、白紙を小さく蝶の形に の『たのむぞ』 切って貼っておく』 内貢は、ふたたび、塔の中へ隠れかけた。 『では、時々ここへ、見に参ります』 胎いつまでこうして居るのは、何っ方の身にも危険であると分『だが、人目に、気どられぬように』 っていたカ 『ぬかりはございませぬ。このお兼だって、明るい陽の下を、 ふる ほか 399