んの前を通ると、家の中で、大きなくさめをした者がある。 どたん。 からかみ 『あら ? 』 唐紙の中へ、露八の頭が、すばっと纒まってしまった。 お蔦は、あきれ顔して、立ちどまった。 子どもは、抛り出されて、ひーツと泣く。 れんじ 湯道具を、自分の家の子窓へ突っこむと、すぐ、お吉ッっ 『ま、ま、まだ怒ってんのか、てめえは』 あんの家へ上がりこんで行 0 た。お吉ッつあんは、稼ぎに出て『あたりまえだよ』 いるのか、留守らしかった。 『四日目だぜ』 まくらびようぶねずみいらず だが、薄暗い六畳の一間をのそくと、枕屏風と、鼠不入のほ 『もう、この腹は、一生涯立ったきりだよ。あいそも、こそ か、何もない古畳の真ん中に、一人の図う体の大きな男が、仰も、尽き果てたのさ』 向けに寝転がっている。自分の腹の上に乗せて遊ばせているの ててな 『今に、その悪い血の道が、冷めるだろうと、俺あ、壁隣りか - 一ら は、お吉ッつあんの父無し子で、 ら、おめえの顔も見ずに、怺えているんじゃないか。よそう げんか 『ドロドロドロ、・ハアー』 あしわ よ、なあ、夫婦喧嘩は、大も喰わねえ』 と足業をやって、子どもを差し上げたり、亀の子みたいに、 『よしとくれつ、触ると、承知しないからっ 背中で廻って、 『あれ ? 『さあ、どうだ。さあ、どうだ 『女房に、これほど、云われたら、去り状以上だよ。馬鹿にお うちもぐ 子どもは、きやッきやッと笑いぬいてやまなかった。しま、 しでないよ、独り者の女の家へ潜り込んで、父無し子をあやし よだれ には、しやっくりをして、露八の胸に涎をこばしていた。 ていれやあ世話はないや』 あほう 『阿呆っーー・』 『ゃいつ、何を、勘ちがいしてーー , 』 かん お蔦は、障子の間から、細ばしった声を、たたきつけた。 『妬いてると思うのかい。あんまり、お背負いでないよ あんま ふふん : ・ : ・女按摩ぐらいが、おまえにゃあ、ちょうどいいんだ 露八は、寝たまま、額ごしにお蔦の顔を見てその顔いろの蒼ろう。もう、私の家の雑巾なんぞは、持たないでおくれ』 みみたぶま となり 白さに、息をのんだ。 耳朶を真っ紅にして、お蔦は、外へ出て行った。すぐ、隣家 たんす かん 子どもの、しやっくりも熄んだ。 の格子が鳴り、がたびしと、壁越しに、簟笥の環の音があらっ しな と嫋やかな体を横に入れて、露八のそばへ坐ると、 ばく聞こえてくる。 露八は跳び起きて、 : 。泣くない、、 泣くない』 おび 『見つかったか』 露八は、怯えた子どもを抱き上げて、ぐるぐると、六畳のま まわ 『、、日減におしッ』 わりを周っていた。お吉ッつあんがいれば、抛りだして行きた 壁『何を』 、つこが、泣きぬくので、離せもしないのである。 こわ どな 『人を、おひやらかしているね、おまえさんー ! 、・』 『恐いこたあねえよ、あの小母ちゃんの呶鳴るのは、病気だ じろ かせ あお う さわ しようがし おら
松のや露八 のではないと悔いているらしいのである。鉄之丞も、焦々してらりと、坐り終わったところで、花嫁は、つのかくしを、俯向 けて、庄次郎のそばへ、楚々と、手を曳かれてきた。 んさい すそもよう 裾模様が、自分を、圧するように側へ坐った。銀釵が、きら すると、 ひ りと灯を射る。庄次郎は、どきっとした。 『や、見えました』 たもと 一生の運命が決まるのだ。もう、お喜代も、縁なき路傍の石 中間が、橋の袂で、どなる。 になるのだ。 『ほ、来たか・ ゅううつ おおまがり しゅうび い。初めから気のない縁談だった。叔父 愁眉をひらいて、人々は、上水の川尻へ眼をやった。大曲の花聟は、憂鬱らし めでた ちょうちんかご ゅうちト - う・ 方から、川端を、悠長に練ってくる一列の提灯と駕とが、それが、いい気持ちで、でツち上げた今夜なのである。目出度いの は、いったい誰だ ? らしく見える。 ふと。 『なるほど、あれでは、暇どるはずじゃ』 庄次郎は眼の隅からあかの他人みたいな花嫁を見た。見合い 『だが、紋は』 たかは すらしなかったので、実物は、今が初めてなのである。 『鷹の羽、丸に鷹の羽』 ( あっ : あぶなく、庄次郎は、声を発すところだった。 お喜代じゃないか ! 花聟は、床の間の松竹梅を後ろにして、固くなっていた。ふ とら だんの庄次郎とは、別人のように見える。張子の虎みたいに重板新道の ( 違う ) そうな首をして、耳たぶが、充血している。 嫁の輿と、嫁方の人々とが、土肥家の九つの部屋を溢れさせ落ち着いて、横目を、繰り返して見ると、違うことは違う が、よく似ている。実に、お喜代によく似ているのだった。 、切れの長い眼じり、横から見た白 少し下ぶくれな頬といし 『お席へ、お着きくだされい』 ゅううつ そのもと い鼻のかたち。美人である。庄次郎の憂鬱は、急に、野末の春 『まず、其許から』 みたいに、ひろびろとして来た。すっかり、気に入ってしまっ 『いや、お先へ』 ふさ た。妙に、拗ねたり、鬱いだりしていた自分が、急に、間がわ 『どうそ、お年役に』 るくなって、からりと、陽なたへ出たような幸福感で、体が熱 『まあ、まあ』 かんじん 肝腎な広間だけが空いていて、人々は、お互いに、謙譲の美くなった。 すると、 徳をしめしあってばかりいて果てしがない。 『なんじゃ』 『観殿が、てれまする』 老人から、ばつばつ、着席する。やがて、土肥家の側が、ず『どうしたのだ』 こ 0 はなむこ かわじり あふ ひ うつむ
その日は、左平太は見えなかった。鶴江は婆やに手を曳かれ 眼は爽やかな陽を仰 て、何十日ぶりかで外の陽を浴びた。 ぐ事はできなかったが、爽かな風や、あたたかい日光に、皮膚 から秋を感する事が出来た。 季節はまだ早いと思っていたが、百花園にはもう萩が咲き、 カ , 菊花が薫つでいた。 わたし 『婆や、きようは本当に、何もかも忘れたような気がしました 菊見の帰りの客をいつばいに載せた渡舟はまったく一足ちが 、に、棹をついて岸から離れたばかりの所だった。 『でもお目が見えたら、猶どんなにお欣しゅうごさいましよう 船の中に、菊花を土産に持っている人があると見えて、川風 に、ね』 の中にまで、菊の香りがながれていた。その客の顔は皆、乗り 『あきらめています。この目はもう死ぬまで開くことはないでおくれて陸に立ち残ってる鶴江と婆やの姿を振り向いた。 すると、その客の中に、黙然と腰をかけていた編笠があ まぶか しいえ、そんなに仰しやったものではございません。お話をる。笠のつばを眉深に伏せて、乗合いのものにも顔を覗かれる わずら 聞けば、何か汚れた物に触れてからお煩いなされたというではのを厭う様子であったが、ふと、堤の上を振向くと、突然、 『あっ ? ありませんか。そういう眼なら、今にきっと癒りますよ』 『いちど眼医者に診てもらいたいと思うけれど』 鶴江が驚いた事は、その浪人以上であった。何でその声を忘 『そうそう、江戸橋の近所に、何でも水島流とやらの上手な眼れていよう、もう七年も耳にしない声であるが、一声きくと、 医者があるそうでございます。明日にでも、婆やがお連れ申し 『オオあなた ! そのお声は』 よろめきながら川へ向って叫び返すと、婆やはびつくりし 百花園を出て、向島堤を来ると、河の下で、船頭の声が頻りて、 ときこえた。 『あぶないっ 『鶴江様、婆やがお手を曳いておりますから、少し早くお歩き と彼女の体を抱き止めた。 わたし なさいませ。ちょうど今、竹屋の渡舟が出るところらしゅうご途端にーーー鶴江の血相はまるで変っていた。もう何ものもな 変ざいます』 い彼女の血相なのである。婆やの手も振りのけて、川の中へも めしい 急き立てたが、やはり盲の足もとである。小走りにも駈けら駈け込んで行きそうに鋺がくのであった 瞬 れなかった。 もしいツ、そのお声は北条貢様のお声ではないか。鶴江 わたしば ですっ : 鶴江でございますっ』 一渡舟場まで来ると、婆やは口惜しげに、 『あっ・ ・ : たった一足違いで ! 』 するとその必死をこめた叫びにつり込まれて、船の中に突っ おっ うれ さわ ひ しき とたん つぶや と、大げさな呟きを洩した。 一瞬変 さお おか かお もら 347
の集るしがらみと、みえる』 八『何を云ってるかつ。こらツ、土肥つ、横着者の猫かぶりめ』 露『猫じゃ、猫じゃと、おっしゃいますか』 や 『とんでもない奴だ』 『撲るそ。長年のあいだ酒は一滴もやれないの、やれ、門限が ほ・つ・ゅ・つ の 『喰わせ者め』 あるのと、朋友の諠みを欠いて、俺たちを、馬鹿正直に、買い 、ム ほん 書を売るか、蚊帳でも質に入れたくらいな小遣いで、泳ぎに かぶらせていやがって。 ! ー・怪しからんやつだ』 来た連中である。庄次郎が、無一文だと聞くと、おそ毛をふる 。し』 ッて、逃げだした。 『ハイじゃな、つ。もう、貴様の尻っ尾は、つかんだ。今夜こ 『人間て、わからぬものだ』 そ、帰さないそ』 ばかま しがらき茶屋を出て、ポロ袴を風になびかせながら、その 『のそむところ』 五、六名は、首を振って歩いていた。 十 / し』 めと 『行こう。ど、どこへでも行くぞ : : : 。猪ツ、猪牙舟か、駕『近頃、石川主殿の娘を娶って、どんなに、納まっているのか と、今日も、道場で土肥のうわさをしていたのに』 カ』 『あんなのは、女房を娶ってから、得て、タガのゆるむものだ』 『オヤ、こいつ、どうかしているそ。誰か、馬を雇ってこい われわれ 『すると、吾々は、たしかな方だな』 縛りつけて家へ帰した方がいい』 かんどくり 見ているまに、庄次郎は、そこらの燗徳利の酒をひとりで腹『オイ』 かつぶく 一人が、思いだして、 へ集めてしまった。またいくらでも入りそうな恰幅なのであ 『この夏、渋沢から借りた空財布、誰が持ってるか』 る。衆寡敵せずは、兵法の定石で、この場合の酒戦は、逆にな 『俺が、持っている』 おそ 『出してみろ』 怖れをなして、 なかみ いんよう 『あれには、渋沢の印形と、書附が入っているので、中実は、 『おい、勘定を、持ってるか』 から ただ 空つばだが、捨てずにいるのだ』 庄次郎に、糺すと、 『それそれ。そいつを、この際、庄次郎の負債へ一任してしま 『勘定とは、金のことか』 う力いい貸してくれ』 『あたりまえ。」 のぞ しがらき茶屋の横の窓から、そっと、覗いてみると、置き残 『金は : : : 』と、首をちぢめて、汽ない、ない、ないの内大臣。 おご あはははは、今夜あ、貴公たちが、おいどんに、奢ってもよされた庄次郎は、仰向けになったまま、高いびきをかいて寝て くちまね このごろ、江戸で流行る、薩摩ッばうのロ真似をして、仰向『土肥っ』 はや 、、つま ちょ ちよき かご ナこ、ころがった。 とのも もら からざいふ
えん 変わったお互いの姿を語りあうよりも先に、お菊ちゃんは怨 こたあねえでしように』 をふくんだ眼で、 八『だって、散歩たと思えば、、、だろう』 あなもり 露二十八、九にもなって、お嬢さんと呼ばれているその婦人『おまえは、ほんとにひどい人ですね。穴守の茶屋へ私を待ち かみがた たた や 呆けさせたまま、聞けばあの時あの脚で、上方へのばってしま は、癆咳が祟って、いまだに嫁げないでいるのかも知れない の 白桃の花の下に立っていると、白桃の花よりは先に風に散ってったのだということじゃありませんか』 からえ らふせん 『そうそう、そんなことがあったなあ』 しまいはしないかと思われるほど弱々しい。唐絵の羅浮仙のよ ひふ : だけど、いっから静岡へ来 『あったなアもないもんです うに腰がほそくて、着ている被布の紫がつよすぎる。髪は夜会 巻というものに結って、静岡ではこのごろ、県令の奥様が翳していたの』 ・ : 「′もり物み、 『もう、四、五年』 ているといわれている舶来の蝙蝠傘を持って、散りしいている 『あら、私も四、五年になるんだけれど、どうして今日まで会 地上の花へ、傘の先で何やら描いていた。 わなかったんでしよう』 『おい、お客』 『お菊ちゃんも、いい奥様ぶりになったな。江戸の美い女が、 露八は、障子をあけて、そこから首を出して呼んだ。 みんな、薩摩ッばや、長州弁の官員様の女房に取られちまうの 『支度ができたからお出でーーー』 を見ているのはさびしい勝てば官軍か』 『よしてください。私は相かわらず病身だから、今でもきれい に独り身なんだよ。私が連れ添っているものは、昔と変わらな いこれだけです』 ひも と、被布の紐を解いて、帯の前をのぞかせた。帯にはなるほ ど、冷たい一管の笛ぶくろが、お菊ちゃんの清麗を保証するよ うに差してあった。 『ま。お上がんなさい』 『あら : : : おまえは ? 』 びつ ゃぶうぐいす 清麗な老嬢は、その時、石をぶつけられた藪鶯のように吃『上がってもいいの。お蔦さんとやらがいるんじゃないかえ』 な・ヘかま きゅうてんし 『へへへ。そんなのがいるくらいなら、床の間に今戸焼の鍋釜 驚した声をして、幇間の桜川を措いて灸点師の前へ走ってい を乗っけちゃあおきませんやね』 お菊ちゃんは、後ろを向いて、 『露八さんじゃないか ? 』 - 一ちそう 『師匠ーー。お茶でも御馳走にならないか。露八さんを、知っ 『あっ : : : お菊ちゃん』 ている ? 』 『まあ : : : あきれた : 『ぞんじません』 浜中屋の娘の、笛のお菊ちゃんであった。 、 ) 0 したく たいこもち が虫 とっ ひと さつま
剣菱を抜いて、 『うむ、これなら飲める。露八さん、杯が遠いな。もっと、真 ん中へ出ないか』 『はっ 露八は、救われたように、乗り出して、杯をうけた。 『おや、どこの幇間さん ? 』 おんな 芸妓たちが馴れ馴れしく云うと、お菊ちゃんが袖を引っ張っ み、み - め、 て、なにか囁いた 『あら、そう』 おんな 急に、彼の大小を見て、芸妓たちは、黙り合った。露八は、 0 自分のために、この行楽を白けさせては、悪いと思った 『可・、、員い ( ー ) よ、つ』 おんな しやみせん 敦お喜代が、云い出したので、露八が、三味線をもち、芸妓が 唄った。また、芸妓の三味線で、露八がしぶい声で荻江節を唄 みは 『沈んだって、かまわない』 『旦那もひとっ』 『お前たちは、借金のある体だからかまうまいが、わしは、 『さ、何をやろうね』 なわん』 はちまんがわ だんな 斧四郎は、お喜代へ相談した。そして、八幡鐘を唄った。 『どうせ死ぬなら、旦那にまっていよう』 おんな 。お喜代さんのお仕込みですとさ』 芸妓たちは、どやどやと、中へ入った。屋形は、美しい人間「御馳走さま からか おんな じようだんしっと きやら 芸妓たちは、冗戯と嫉妬を、巧みに交ぜて、二人を揶揄っ と、伽羅の香で、いつばいになってなお揺れた。 、芹四郎はお喜代を大事にしているし、お喜代 『なむあみだぶつ』 かしず はため はしぐいぶ は、斧四郎に、心から素直に侍いていて、傍目にも、濃やかな 『船頭さん、橋杭に打つけちゃいやだよ』 愛情が見える 『沈んだら、綺麗だろうな』 さび だんのうら 露八は、、いのうちで悶えた。時々、淋しそうに、ばかんとし 『とんだ、壇之浦だよ』 おんな じようぜっ おんな 芸妓たちの饒舌を、露八は、隅ッこで、気の小さい眼をしてた芸妓たちは、馴れてくると、露八の膝にもたれたり、大き な杯で、酒を強いた 瞠っていた。 露八は、したたかに酔った。斧四郎も飲けるロとみえてタ焼 けのように晴々と赤い顔していた。そして、お喜代の膝を枕 に、寝そべった。 『お菊、箝を吹け』 斧四郎が云うと、皆も、 『お菊ちゃんの笛は、しばらく聞かない。ぜひ聞かして下さい よ せが 強請まれて、お菊は、帯に挿している笛嚢を抜いた うたぐちしめ 横に、笛を構えて、歌口を潤しているお菊ちゃんの形が、優 おんな げんしゆく 雅で、厳粛で、斧四郎も露八も芸妓たちも、惚れ惚れと眸を彼 女の顔にあつめていた。 浜中屋のお菊ちゃんが笛の上手いのは、天才でもあったが、 め 一つは、病身のせいでもあった。露八は眼を瞠って笛の音を聞 してしるとすぐに、 ( この女は、長生きをしないな ) と、田 5 った。 ほ・つかん すみ そで もの 0 ひ早、 ふえぶくろ ひとみ まくら
『源内殿、帰らなければならなくなった』 が、二百人ばかり、雨乞いにゆくのだと云って、そこの永代橋 薩「え、大坂へ』 まで来たところ、お役人衆に止められて、喧嘩になりそうなの 菩『そうじゃない、宿まで』 で騒いでいるのです』 まあ、もう一献、そのうちに、すず風「雨乞いか』 戯『この日ざかりに。 あたごやま が立ちましょ , っ』 「愛宕山で、きようから七日間奇特な人があらわれて、雨を祈 遊 『そうしていられないのじゃ。今、宿から使が見え、松平様のっているんだそうでございますよ』 御留守居がきて待っているという』 「山師だろう』 『大名の用では、ろくな事ではありませんぜ』 源内がいうと、 もったい 『いずれ、金を貸せじゃ』 『そんな勿体ないことを往来で仰っしやると、石を抛られます かんばっ きん 1 一う 『この旱魃で、どこの藩も、気が気ではあるまい。今から、金よ。江戸の近郷でも、この旱天で、地割れができるし、水争い とりいれ づまりになっているような藩政では、収穫から先は持ちこせまで人死は出るし、お米の値が倍にもなったので、貧乏人は、ぶ し・カ』 っこわしでもやりそうな眼つきですからね』 きとう 『怖いのは、来年ですよ。もう、大名に金は出せません』 『しかし、祈蒋で雨がふるものなら、祈疇で不景気もなおりそ 『そういう訪客は、すこし位、待たせておいてもよいじゃあり うなものじゃないか迷信につけこむ山師の仕事だ。そういう ひとっ エレキテル ませんか。まあ、もう一献やって、この女の河東節でも聞いてものに乗せられるような知識だから、わしの発明した電気で やってください』 も、魔術か何かだと思うのだ。もちっと、人間たちが、科学に おんな ききん そして、一人の妓に、 眼ざめてこないとだめだな。科学のカでは、飢饉もなくするこ 『おい、水調子で、何か、涼しそうなのを、お聞かせしてみとができるのだ。八右衛門殿、世のためと思うて、ひとつ、ぜ かかんぶ エレキテル ひいっぞやお話し申しあげた火完布と電気のほうへ、御出資の おんな 妓は、首を振って、 おとり為しをねがいますぞ。 あれのみでなく、まだ種々、 『河東節では、お気に召しますまい』 源内には発明の案があるのでござるし、貸したきり回収のつか 『なぜ』 ぬ大名よりは、きっと、御出資だけの利益はあげてみるつもり ですから』 お莱さんの、薗八節のほうが』 『そうか、これはぬかった。お葉、一曲たのむ』 すると、ここの料場の者や女中たちが、別な部屋の窓に首 ぐせばさっ をあつめて、何か騒ぎながら往来のほうを眺めていた。入って わしは救世菩薩だ ! きた女中に、何があるのかと訊くと、 救世菩薩の生れかわりなのだ ! か、いりよう いいえ、大したことじゃありませんよ。葛西領のお百姓たち大真面目に、こう云って、うろついている男が町にあらわれ そのはち かとう ひでり
あす 『馬犀・ : : 。あしたの晩は、婚礼だ。俺の婚礼だ』 『明日が、楽しみやら、待ちどおしいやらで、もう、うつつな 仰向けに、。 ころりと寝る のでーー・』 突然、 青春のおわかれだ。今日一日で、俺もくすぶった女房持ちの 群れに入るのだ。そう思うと、庄次郎も、多少は、感傷的にな『馬鹿っーーー』 るとみえる。 庄次郎は、弟の足もとへ、扇子を抛りつけて、どなった。 『どうしてだろう、婚礼なんて、少しも、楽しくないもの 『拙者が、何を考えてるか、貴様などに、わかるか。あッちへ 行ってろッ』 庄次郎は、お蔦に興味がないように、明日の花嫁にも、さっ ばり期待がなかった。そして、お喜代のことばかりが頭へのば なこうど じようもんちょうちん ってくる。妙に、こびりついている。あの疋田鹿の子やら、眸媒人やら、叔父の小林鉄之丞やら、婚家の定紋提灯をぶら あさがみしも やら、それに、声だのが 下げて、麻裃の影を、ゆらゆら、藪に描きながら、だらだら 「もいちど、会い 女房持ちになる前に』 坂を降りて行った。 ふすま 襖があいた。 宵の五刻に、江戸川上水の琵琶橋 ( 今の石切橋 ) に着くーーと 八十三郎が顔をだしている。 いう嫁方との打ち合せなので、その輿を、出迎えるためだっ ) 0 『兄上、およびですぞ』 もた のち 寝たまま、首を擡げて、 九月の十三日。後の月だ。 ちゅうげん 『だれが』 手伝いに来ている、小林の中間が、 かみしも 『新調の御紋服や、裃が縫えて参りました。一度、お召しに 『誰しも、吉い日を選ぶとみえましてな、今宵は、こちらへ参 なってみるようにと、叔父御や、親類の女どもが申しまする』 る途中で、四、五軒も高張提灯を見うけましたよ』 『寸法に合わせて仕立てたものなら、着てみないでも、 そんなことを、話しながら先に歩いて行く。 あかり たたず 琵琶橋の袂に、灯を寄せて、佇立みながら、花嫁の列を、待 『そうですか』 っていたが、なかなか来ない。 『挈、、つだとも』 『どうしたのか ? 』 羽「諸方様から、お祝いの品々が参 0 ています。いちど、御覧な媒人は、そろそろ心配顔に おや されては』 『父も娘も、物堅いので有名な石川家のこと、間違いはあるま の ししよ、 , つるさい』 いか、それにしても : と、眉がくもる。 鷹「どうかなさいましたか』 『どうもせん』 遅い。約東の時刻は、よほど過ぎている。媒人などはするも ひったか ひとみ おそ まゆ たもと たかはり びわばし ゃぶ
悪鬼左平太の死によって、七年間の暗黒が払われてみれば、 『左平太見忘れたか。よう見よわしを。顔も姿も変えていた かたき 明為、誰一人わしとは気がつく筈はなか 0 たであろうが、こう云権堂九馬之丞としても、ま「たく「討つべき筋のない敵」とな おこなんど 有う自分こそは、其方等が江戸城の御小納戸に勤めおる頃、納一尸った。 『むしろ貴方を長年尾け狙って、お詫びせねばなりませぬ』 明頭をしておった小梨半兵衛じゃ』 ふる 半兵衛の声は、わななき顫えた。北条貢が罪せられて、天下とは、父弥十郎の忌日に、その墓前に於て、九馬之丞が北条 無 の詮議人と呼ばれた後も、半兵衛一人は、貢の潔白を云い立て貢へ向って云った偽らぬ声であった。 北条貢の首の代りに、その日、その墓に手向けられたもの て熄まなかった。そして遂に、役目も捨てて、僧になると云っ ひとっか は、悪鬼左平太の一束ねの髪だった。 て姿を消してしまったのだった。 がしら かたき なこうど 鶴江と北条貢を娶合わせた媒人も、実にこの親切な納戸頭で敵というならば、これこそは父を死なしめた禍の魔もの。 あった。その責任も感じての事であろうが、長年、陰になり日然し、その魔もすでに、地上に影はない。 かば とんしようばだい なたになって、鶴江や菊太郎を庇って来た旅僧が、その人であ頓証菩提 じゅず 小梨半兵衛は、数珠を捧げて呟くのみであった。ただ、その ろうとは北条貢すらも、知らなかったのである。 すが げいしゃ たもと かかるうちに、お兼は駕を飛ばして、元品川芸妓の女師匠お袂にまとい、又、父の袂にうつり、又母に縋って欣ぶ菊太郎の ほほえ 暿々たる様子を見れば、誰もが、自ずと微笑まれた。 勝をここへ連れて来た。 、まら 破滅 ! 敗北 ! 悪名と棘の繩は、もう拒むよしもなく、偽もうこの子の前途も明るい わび その頃より北条貢は、佗しき丹後町の浪宅より、毎日、妻の 善の武士、仮面の悪魔藤懸左平太の体に当然かかりかけた。 けれど彼も遉がに一代の悪人と世間に記憶された程の面だま手をひいて、眼医者へ通うのを日課としていた。 妻の眼も、一日ごとに、仄明るいものを見てきた。初めて、 しいの持主であった。 わが子の顔を見た時の、彼女のよろこびーーーそれは迂なる文章 繩を打とうとすると、 うめら にあらわし尽せる程なものではない。 云って聞かせる事がある。汝等あ人を怨むまえ 『待てつー 島送りの船の帆の下から、岸 お兼は八丈島へ送られた。 に、よく各 4 胸に手を当てて考えてみやがれ。みんな自分自身 まめ の間抜けから来ている落度じゃねえか。よくもここまで積み上の見送りへ、ニコと笑いを残して波の果へ去った。けれどその げて来たおのれの立身を覆えしゃあがったな。死んでも地獄か日の彼女の笑みも、もう罪から洗われた綺麗な笑いであった。 ら呪っているからそう思え』 最後まで、こう毒言を吐いて、周りの者を睨めつけると、脇 を引き抜いて、われとわが腹へ突き立てて仆れた。 さす くつが ほの おの たむ
しふん く、中村楼の大広間に、脂粉と酒の香と噪舌が霧のようにたちこっちもまずいが先方もまずかろうと、なるべく、顔をつき会 おど こめて、絃を呼び、杯を躍らせてきた。 わさないようにしていたのだった。それなのに今、だしぬけ 参議、大丞といえば、新政府のいい大官たちではあ「た 、東京では出したこともない隠し芸を望まれたので、ぎよっ 、の・つ おおくま かおる が、何しろ昨日までは一介の志士であったし、一昨日までは足として、声をかけた客の方を見ると、大隈の大輔と井上馨のあ おびただ あぐら 軽だった人すらあるので、まだあくの抜けないこと夥しい いだに挾まって胡坐をくんでいた伊藤俊輔であった。 ひげ ひじ わがはい かすがまる おいどんと呼ばわるどじよう髭もあるし、吾輩がと肱を張る五 ( そうだ、馬関から乗った春日丸でーー・・ ) さつべん なまり くるめ・ヘん 思いだしたが、空とばけて、 ッ紋もある。一人として薩弁か、土佐弁、久留米弁か、訛のな い者はない。そして思いあがった得意さである 『深川だよ』 ( 戦には勝ったかも知らないが、算盤には、どれも青いな ) 次の音頭をとると、 三井も、小野も、馭しやすしと見たように》乱になった宴席『こらつ、屋根ぶねの提灯にせいっ』 すみ どな を、眼の隅でにやにや眺めていた。 また、呶鳴る。 きれいどころのお座附や余興がほとんどめちやめちゃになっ 破格なお見出しだ。 イも たので、一つど胆をぬいてやれと、それまで、お茶坊主役をつ ほかの幇間連中は、むしろ羨望しながら、 たいこもち きんびようぶ とめていた幇間の連中が、金屏風をとらせて、もう秋ではあっ 『露八、踊った踊った』 そろゆかたあかだすき ひ たが、揃い浴衣に赤襷で、かつばれを踊って出た。 突き出されたし、芸妓たちも、もう合の手を弾きだしたの つべや ようつ、おいとナ で、露八は、道化を一つ踊って次部屋へ逃げこんだ。すると、 ョ・づョ・ 4 思い出したのであろう。 げ、しゃ まぶ 沖イイの 『あやっ、馬関で、お蔦ちゅう妓の、間夫じゃった男でな くらいのオオに かつばれの芸術味はとにかく、その舞踊の勇壮さに、一座は どやどやと、属吏たちが立って来て、 沈黙した。すると、それが終わるのを待っていたように、突 『この色情坊主』 ばつばい 然、 『罰杯うけんちゅうなら、吾輩の股をくぐれ』 ちょうちん はいせん 『露八つ。屋根ぶねの提灯ツーーー』 『杯洗でじゃ、杯洗でじゃ』 と、番外を、所望した客がある。 大座敷へ、引きずり戻された。三杯半までは飲んだが、もう くぐ 一滴も入らない。すると、少壮の官員たちは、股を潜れと迫っ 四 て、幾人もが並んで股をひろげた。 なだ その日、露八もまた、幇間連の中に交じっていたのである渋沢は、立って来て、酔っぱらいどもを宥めかけたが、興に が、渋沢の顔が見えるし、桂小五郎 ( 木戸孝允 ) も来ているし、乗った酔漢たちの耳には無駄事だった。露八もまた、その仲裁 げん なが きどこういん そうぜっ 0 おととい ろ せんばう また