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検索対象: 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明
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1. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

菊太郎に会わせるなどと云ったのは、左平太の詭弁にすぎないて、お町奉行にお目にかかり、逐一、お話申してみれば、左平 もくろ 太が何を目企んで、われわれを偽いたか、屹度、分ると思いま 有貢の体を、町駕へ抛りこんで、十重一一十重に荒繩をかけるす』 然らばわしは、一度番町の 『ウム、いい所へ気がついた。 明と、それを囲んだ捕手の大群は、わき目もふらず、町奉行所の 屋敷へ戻って、そちの返辞を待っことにしよう』 牢獄へ、真一文字に駈け去ったのである。 無 『おう、そうなすって下さい。後刻、吉左右をお報らせ申しま 『はてな ? あの急ぎ様は ? 』 『九馬之丞様 : ・・ : 』 坂下まで来ると、ちょうど通りかかった馬子を捉えて、雷助 『雷助。 : : : 変な事になったなあ』 : これは考え直さねばなりませはすぐ馬の背へ跳び乗った。何しろ、余程急ぐらしい。馬子が 『腑に落ちぬ左平太の行動。 何か文句を云っていると、雷助は、面倒と思ったのであろう、 ぬぞ』 『馬は後からお奉行所へ取りに来い。南だ。南の町奉行所』 『偽君子め ! われわれを巧みに一杯食わせ居った』 云うが早いか、手綱の端で、馬の腹を打って、宵の町を、真 『そうだ。こうしては居られぬ。大事の機は、去ろうとしてい 一文字に駈け出して行った。 るー 九馬之丞様、おいそぎなさい ! 』 一方、ーー雷助に別れた九馬之丞は、番町の屋敷へもどって 『何処へ。ーー雷助つ、何処へ参るのだ ? 』 ′、み、まうーう あるじ 何かよほど急な事でも思い出したらしく、雷助は、後から続来たが、主も召使もない空屋敷は草茫のまま : : : 夜にな 0 て とも あかり いて来る九馬之丞に返辞をせず、天王寺の森から谷中坂の方も、誰とて、燈火一つ灯す者はいない。 『ああ。 : いつになったら、この家に、明るい灯影が映すで へ、宙を飛んで駈け初めた。 あろう』 ふとーー・瞼にさしぐむ涙を抑えて、九馬之丞は、人気もない 玄関へかかった 崩れ土蔵 すると、何処やらで、 『おばさん、お兼おばさん』 と、呼ぶ者がある。 『雷助つ、雷助つ。ーー何処へ行くのだ』 はっと、九馬之丞は闇に立ち竦んだ。 息を喘りながら、九馬之丞がふたたび云うと、 『町奉行へ』と、雷助は、足を止める一瞬も惜しむように、駈その声は、正しく北条貢の子ーーーあの菊太郎の声ではないか。 そっと、跫音を忍ばせて、声のする裏の方へ廻ってみた。 け乍ら振向いて答えた。 とも知らず、菊太郎は、お兼の姿を探して、裏庭の木の間 『町奉行へ ? 』 先を追い越しゃ草むらの間をうろうろしていた 『されば、藤懸左平太奴が、行き着かぬ間に き・ヘん あざむ きっ》一

2. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

『おいつ、お兼 ! 』と呼び止めた。 ( 何うしよう ? ) 亥之吉の報告に依れば、お兼と北条貢との間にも、何か、繋 がるものがあるらしいとい、つし と云って、中之郷の水島潜庵の所へは、六刻半に、石禅が姿 タ鶯 と田 5 , つ。 を現わす筈だから、その機も逸してはならないし みのが 『まてよ。時刻はまだ少し早い、 こういう好い潮を見遁し ふりかえ ては、天の与えを逃がすというものだ』 えっ ? と驚いたような眼が振顧って、凝と、逆井雷助 もう並木町の辻まで行っているお兼の姿を目がけて、雷助はのすがたを見つめたが、悪びれたふうもなく、 急こ追、、ナ , ) 。 『わたし ? 』 と、お兼は澄ましこんで云う。 お兼は、元より、雷助の顔は知っていまい 『はかに通り合せの者もない。呼んだのはおまえの事だ』 タ詣りの人影に紛れて、彼女は、雷門から仲見世へ入ってい おもちやや った。そして、伝法院の前まで来ると、そこの玩具屋に立ち寄『何ですか』 って、玩具の刀を買っていた。 にやりと笑いながら寄り添って、雷助はいきなり、彼女の腕 : ははあ、亥之吉も云っていたが、やはり北条貢の子の菊 太郎は、あの女が隠しておるものと見える。さもなければ、女くびをんだ。 すり はすば 『 : : ・御用さ』 掏摸の蓮ッ葉女が、子どもの玩具などを買う筈はない』 自問自答しながらーーー遠くから見ていると、やがてお兼は、 ばっと、途端に彼女の手は、雷助の手を羽搏いた その子供刀を、女帯へ挾んで、観音堂の正前へいそいそ歩いて『おふざけでない ! 』 ゆく。 そう云った言葉はもう二間も先〈跳び退いてからだった。 みくじ さいせん 『甘く見ちゃあいけないよ。おまえは何だい』 賽銭を抛って、神籤を引いている。 『南の同心、逆井雷助だ。おれの目にとまったからには、もう 『はて、何を占っているのか ? 』 諦めるはかはあるまいが』 と、雷助はその胸を叩いてみたい心地がした。 いなか 吉か ? 凶か ? 『江戸で見つけない顔だと思ったら、近頃、田舎廻りから帰っ みくじ その神籖の文字をタ明りに読みながら、お兼は矢大臣門の方て来たとか聞いていたあの同心かえ。ふふん : : : 出直しておい みちばた へ歩いて行く。 : ・馬道へ抜ける寂しい路傍には、梅の林があで』 『ーーー・何をッ』 タ人通りもないし : : : と雷助はツイと足を迅め、背中から不意跳びかかって行こうとした彼の飛躍よりも、お兼の手からき らっと飛んで来た光の方が当然早かった。 つな ひやく じっ

3. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

吾等の手にかかるのは見え透いて居ります。 昨夜も寝す、 今宵も眠らず、定めし、おっかれになったでしよう』 『なあに、わしは左程でもないが、其方こそ、脚が痛むであろ 城南之一友 『その脚の傷手も、まるで忘れておりました』 いくら繞り歩いてみても、塔は依然として、沈黙の巨人のよ雷助も、九馬之丞とならんで、そこへ腰をおろした。そし うに、暗い森から月光の空へ衝き抜けているだけのものだって、暫く黙り合っていたが、やがて又、 『なあ、雷助』 『 : : : 見えんなあ、雷助』 がっかり 落胆したように、軈て九馬之丞の唇から、こういう声が洩れ『考えると、不審に堪えぬが、一体、今日の昼間、番町の屋敷 へ、あの菊太郎を駕に入れた儘、送り付けて寄来した者は一体 『確か 、この辺で怪しい人影を認めた と、先刻の僧は云誰だろうか』 うて居りましたが』 『さあ : : : その不審は、雷助にも解けませぬが、あの折、駕屋 『乞食の影でも見たのだろう』 からお受取りになった手紙はそこにお持ちでございますか』 『そうかも知れません』 『ウム、持って居る事は居るが、文面はざっとしたもので、唯 『ーー然し、残念な事をした。今夜こそは、北条貢も、繩にカ 多年御苦衷の段拝察、進物一駕拝呈ーーとある限りで、姓 けて、多年の宿怨を晴らすことが出来るかと思ったが』 名もなく、文面の終りにただ、城南之一友と認めてあるのみだ 「この所、余り調子がよすぎます故、そう何もかも、一度に吾が : 吾の思うようには参らぬのが本当でしよう』 『城南之一友とございますか』 『それもそうだ : 『ウム』 えがお と、九馬之丞は笑顔を綻ばせながら、五重の塔の縁へ腰をお『では、友人という意味でございましよう』 ろした。 『そうは思うが : : : 然し、既にもうお役目を離れて以来、七年 じよう そして、 以上もこの江戸表に居られなかった此身には、そのような情誼 友『諦めよう、今夜のところは』 のある友人の名も思い出せぬが』 と呟い と懐中を探って取出した手紙の文殻を雷助の手へ渡すと、雷 之 ひさし 雷助は頷いて、 助はそれを持って、塔の廂の下から十歩ほど離れ、月光にかざ 南 やしゃ 『もう、ここ迄、万事が運べま、 。いかに北条貢が夜叉でも鬼神して何時までもその文字を見つめていた。 城 でも、ここ数日のうちには、自首して出るか、さもなければ、 『誰の手蹟か、心当りはないか』 こ 0 めぐ やが くち 、つき ふところ ふみがら 395

4. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ませぬから、それだけは充分』 『仰せ迄もなく、気をつけております』 九馬之丞と一緒に馬の背に乗っている菊太郎は、不審そう 無明の母 『おじさん、あの駕籠に、誰が乗っているの。え ? : おじさんてば』 雷助に指さされて、 『おう、あれがそうか ? 』 しつこく訊ねるので、 と、九馬之丞も伸び上って眺めた。 『だまって居れ』 菊太郎は、何かおもしろい事でもあるのかと、きよろきよろ と、雷助が、ちょっと怖い顔を見せた。 して、 そして九馬之丞のそばヘロを寄せて、 『何、おじさん、何 ? 『これと同行してはまずいと思いますが : : 』と囁いた 『いや、おまえの知った事じゃないーー雷助、声をかけてみ九馬之丞もうなずいて、 『そうだな、お互いに、気づかせては面倒になる 『 4 わ , っ し』 はこの駕籠より一足先に行くとしよう』 こごえしめ 雷助が笠を振って、先へゆく一群の者へ呼びかけた。 福井藩の者へも《低声で諜し合って、 『では、、 しずれ江一尸表でーー , 』 一挺の駕籠を囲んでゆく旅装いの侍たちだった。福井藩の役 人と小者の六、七名で駕籠のうちには、江戸表へ差立てる者を と九馬之丞の馬は、駕籠のそばを、やや急がせて先へ通り越 入れていたが、その囚人も、女である上に、少しも目の見えな い盲なので、べつに厳しい警固もしていない様子であった。 するとその時、菊太郎が、 『ゃあ、これは : ・ : 』と一同は振り向いて、馬上の人と、徒歩『あら、あら、 : おじちゃん、坊やの仮面が落ッこちたよ、 坊やの仮面を拾ってーー』 の雷助とを、多勢の眼で迎えた と、馬の上から伸び上って叫んだ。 『御両所も、江戸表へ』 か さるたひこの 『されば、あれから遽かに、都合を更えて、一日後からーーこ 熱田神社の近くで、余りに欲しがるので買って与えた猿田彦 み・一と ふところ 命の泥仮面なのである。 母と雷助は、駕籠のそばへ寄 0 て行きながら、 それを懐中から落したとみえ、泣 へつに変りもありませぬか』 き出しそうな声で云った。 の『して、鶴江の身には、・ ふびん 明『ま、、 『あっ、仮面か』 すでに、観念しているとみえ、不愍なはど、素直なも と、馬の後から駈けていた雷助が、足を止めて、振り向い 無のでございます』 『然しーー、当人は柔順でも、道中、どんな者が襲わぬとも限り た。そして、取りに戻ろうとすると、今そこへ通り越して来た めしい むみよう めしゅうど むれ み、、、や わし達 327

5. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

山の下へ向けて漕いだ 振向いて見ると、雷助も、他の船を拾って直ぐ後から漕いで 来る様子だった。 然し、もう距離はだいぶある。 仮面の下 ? とは云え、その雷助が、追いついて来ぬ間に、九馬之丞の手 から、鶴江を取り返してしまわねばならぬー 石禅は、舟の中から、その影を仰いで、 石禅は、今戸橋の岸に舟を捨てた。そして、刎ね上るように 船頭、早くやれつ』 陸へ移った。 『や、雷助だな。 と命じた。雷助は、威嚇するように、 『船頭つ、船頭つ。 舟を返せつ。おのれその儘やると、後権堂九馬之丞は、首尾よく、鶴江を奪って来て、その目的を達 日、その分には棄て置かんそ』 したので、約束のとおり、黒髪堂前の大木の根に、鶴江の体を縛 かま 『いいや、関わん、この石禅が吩咐ける。船頭、何をまごまごりつけて、そこの縁に腰かけながら、一ぶく吸って休んでいた。 しておる、早く漕げ、もっと漕げ』 ( : : : もう雷助の方も、此処へ落合って来る時分だが ) きせる さお と煙管をはたいて、そこを起ちかけると、 二人の板挾みになって、船頭は、棹を持ってうろうろしてい 『ーー・おうつ ! 居たなっ』 た。その間に、舟は廻りながら下流へ流されて行くのだった。 どて と、不意に闇の中から云う者がある。 逆井雷助は、舟に尾いて、堤の上を歩きながら、十手を出し どな て、船頭の方へ示しながら呶鳴った。 ばたばたっと、駈け寄って来るなり、石禅は九馬之丞の背後 『これが見えぬか ! 拙者は南の同心逆井雷助という者。其奴から、むずと、組みついた。 かば は、公儀の大罪人を庇いだてして逃げ歩くお尋ね者の悪僧石禅『おのれつ、よくもわしの留守に、鶴江の身を奪い去ったな。 いのち という奴だ。悪人の吩咐けに従って、お上の御用の邪げをなすこの石禅の眼が光っているうちは、わしの生命に賭けても、鶴 江を渡す事ではないぞ』 その言葉に恐れて、船頭が舟を岸へ寄せようとしたので、石『何ッ ? 石禅だと』 ざお 禅はあわててその水馴れ棹を引っ奪くった。 不意を喰って、こう驚きながら九馬之丞は、自分の喉を締め てくび 『えいつ、戻すなと云うに つけている石禅の手頸をつかんで、肩越しに、大地へ投げつけ 船頭はよろめいて、何か喚いた。途端に、その弱腰を石禅にようとした。 ふなべり しぶき 下 蹴られたので、舷から足を踏み外して、飛沫の中に墜ち込んで だが、老年に似気なく、石禅の踏んまえた足は確乎としてい の しまった。 た。組みついている両の腕も、柔術の法則に適っていて、これ 面 仮堤の上に地団太踏んでいる雷助の影を見捨てて、石禅は棹をはどうして凡の雲水僧の手並ではないのである。 突いて中流へ出た。そして、櫓を持ち代えると、一散に、待乳 ( 何の、この老ばれ坊主が ) おか ただ ほか やわら かな しつか 381

6. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

あった。 ったに違いない。雷助は、本堂のほうへ通っている縁の障子を 開けた。 明『美味い、もう一椀たのむ』 有『おつけしましよう』 と、出ムロいがしらに、 『お済みでございまするか』 明雷助が飯櫃を寄せて飯をつけていると、本堂のほうで突然、 びつくり 木魚の音がした。それから続いて、何事かと吃驚するほど、続と、先刻の老僧がそこに居て云う。 無 けさまにジャン、ジャン、ジャンーーー・と鉦がった。 あぶなく踏みつける所だった。雷助はあわてて足を退いて、 『おや ? 』 『あっ : : : どうも御馳走になりました。少々ですが、これへつ かんじゃく その音律があまり出たら目なのと、不意に閑寂を破られた耳つんでおいた寸志、お納めねがいます』 の驚きに、二人が眼をみはっていると 『かえって、それでは恐れ入ります』 かくれんばーに 『当寺には、子供衆が居るとみえ、だいぶあちらで賑やかには かくれ笠 しゃいでいますな』 『お騒がしかったでございましよう。当寺の子ではございませ 四十や、四五笠 あぶらこけ んので』 ばかま 『では、この近所の』 さむらい袴に 『いえゅうべから、石禅という雲水が連れて来て泊っている子 かくれ蓑 さあ捕ってみさい ですが、昨夜はしゆくしゆく泣いていましたが、今朝になった わるさ さあ捕ってみされ らもう飛んでもない元気の腕白で、いくら叱っても悪戯を止め ほがらかな大声で、童謡をうたい出した子があった。本堂のません。先程も、阿弥陀様を壇から落して手を欠いてしまった 内陣の中を駈けあるいていると見えて、そのうちに燭台や仏具り、あのように鉦をたたいたり、子供というものは仕方のない が壇からぐわらぐわらと落ちたような音がした。 ものでございますな』 『ひどい暴れン坊がいるな』 九馬之丞と雷助は、そっと眼を見あわせ、生唾をのむよ じっ うに、膝を固くして、 何気なく雷助はつぶやいたが、九馬之丞は凝と眼をかがやか 『必 J 、つか せて、本堂の気はいに耳を澄ましている顔つきである。 してその子は、幾歳ぐらいか』 その顔つきを見て、雷助もふと、 『まだ五ツか六ツでしよ、つが』 「は』 ( もしゃ ? ) と、すぐ胸へのばって来たものがある。云う迄もなく北条貢『存じません』 の子の菊太郎 『ゅうべこの寺へ連れて来たというその雲水の素性は』 ツイと腰を上げたのは、その子供をたしかめに行くつもりだ「雲水はいつもたくさんに泊っておりますので、何ういう素性 ひっ みの かね さわ ひざ み ~ つき 300

7. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

そして心密かに思うよう。 、お蔭様で』 ( さてはこのお奉行も、依怙奉行だの、賄賂奉行のと、世評の 『毎夜、御苦労だ。非番の時に、これで一杯飲んでくれ。 悪口にのばっているように、藤懸左平太と腹をあわせて御座る いや遠慮には及ばぬ』 と見える。 ああ下も下なら、上の風もこうまで廃たれ切っ 『こんなお、い付けを戴きましては』 ているのか ) 『はははは、そう礼を云われる程は包んでないそよ。・ー・・・所で 世を嘆き、身を嘆いて、雷助は思わず涙を顔に汚して、そのな、もう少し時経っと、軈てこれへ、天王寺へ出向いた捕手共 儘、面も上げず暫く畳へ両手をついていたがーーふと、 と、藤懸左平太などの一群れが戻ってみえるが、少しこちらに 『あっ : : : そうだ : : まだ絶望するには早い。 一縷の望みはあ支度がある故、外から叩いても、暫時門を開けずに、待たせて おいてくれ』 真に人間が暗壁に打つかったように行きづまると、そこに忽『開けなくても、宜しいでございましようか』 ぜん さしつか 然と、打開の光りがあるという。 『差閊えない。其方共に、迷惑はかけぬ。ー・・此方が参るま 今の雷助の気持ちがそれであった。ふっと、胸をかすめて思で、必ず開けては相成らぬ』 かし - 一 い出したものがある。 『田癶まりました』 それは、ここの牢内に、お兼がいることであった。 そう云い含めておいて、雷助は次に、牢見張の詰所へ来て中 をのそいた。 『牢番、鍵をかしてくれい』 そのよ 『おや、誰かと思ったらお珍らしい、逆井の旦那じやございま 其夜の小間使 せんか』 『ウム : : : 貴様たちもいつも変らずよく勤めているな。、ーー女 すり そこは、正門ではない、揚屋入の罪人が曳かれて来る不浄門掏摸のお兼をちょっと取調べ ; たいのだが、どの揚屋に這入って である。 おるな』 『門番』 『御案内いたしましよう』 と、雷助はそこへ来て呼んだ。 『いやいや鍵を出せ。吟味上の事故、自身で参る』 使めった 滅多に顔は見せないが、雷助は古顔の同心であり、今でも役薄暗い牢露地を入って、何番目かの牢格子を覗くと、雷助は 籍はあるので、 そこの錠を開けて、黙って中に立った。 の『お。これは逆井様でございますか。お久しゅうございます』 お兼は莚の上に横になっていたが、 『 : : : 誰だえ ? 』 共と、門番たちは丁寧に辞儀をした。 『おう皆変りなく、勤めておるな』 怪しみながら身を起した。 あがりやいり わいろ むしろ やが ゆえ イ 39

8. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

お兼はあざ笑って、 『よいか ! お兼』 せつな 明その端をつかんで、倉の中の石禅がそう言った刹那であっ 「まあ、今頃気がついたのかえ。親の仇を討つの、同心だのと 云う者が揃っていて、わたしの変粧に騙かられるなんざあ、あ ばっと、梯子の下へ駈け寄った九馬之丞と左平太が、 さ、もうこ、つなったら、じ んまり自慢にもならないやね。 明上のお兼を仰いで、 たばたと、悪びれるようなお兼じゃあござんせぬから、斬るな 『女っ ! 何をしているツ ? 』 無 り、打ち殺すなり、いいように、早く片づけておくれ』 それきり、白い顔におくれ毛を噛んで、お兼は横を向い た儘、何を云われても、ロを開かなかった。 すてばち 『憎い奴め』 雷助は睨めつけて、 『おおかた、北条貢に頼まれて、忍びこんで来たに違いない 梯子の腰を横へ引かれたので、あっという間もなく、お兼の その貢は、どこに潜伏しているかさ、泥を吐け。云わね からだは、勢よく地上へ振り落された。 ′一うもん ば、拷問しても云わせるそよ』 『それつ、九馬之丞殿』 左平太がさしずする迄もなく、九馬之丞はお兼の体へとびか責めかけると左平太は、 み、げお 『いや、それには及びますまい。その貢の隠れ家も、今明日中 かって、刀の下緒を解いて縛ろうとすると、 には、おおよそ見当がつく筈ですから』 『繩はここに』 ほそびき そして彼は、雷助と九馬之丞がお兼の体を、庭の巨きな樫の と、左平太がすぐ自分の袂から、細曳を出して彼の手にわた した。それを取って、ぎりぎり巻きにめた上、九馬之丞は、座木に、繩付きのまま括りつけるのを見届けて、 『ーーーでは、又明日』 敷の縁先まで引ッ立てて来た。お兼はもう度胸をすえていた あかり と、急いで帰って行った。 『雷助、雷助。ーー燈火をここへ持って来てくれい』 お兼は、樹の幹を負いながら、 部屋の中へ呶鳴ると、 『おう』と、雷助はそこへ燈を持って来て、一目見るなり、驚『殺せ。殺しておくれよ』 と、それからもまだ、叫んでいた。 いて叫んだ。 『 , つるさいっ 明日は元の伝馬牢へ送り返してやるから、 『ヤ、こいつは、女掏摸のお兼ですぞ』 今夜は一晩、そこで神妙に、夜を明かしておれ』 『何。 , ーーお兼だと ? 』 九馬之丞は、更に、驚きをかさねたが、左平太は、そう意外云い捨てると、雷助と九馬之丞は、廊下の雨戸を閉てて寝て な顔もしなかった。むしろ、当然のように、先頃からこの附近しまった。 で、度々、その姿を見かけた事など二人に話した。 かたき こしらえたば おお

9. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

提灯が、橋を渡ってふらふらと駈けて来る。その間に、石禅渡って行きましたがね』 見つめていた黄楊の櫛を、雷助は大地へ叩きつけて不意に叫 明の体は、駕の内へかくされた。 有『旦那、後のが参りましたぜ。こっちの駕にゃあ、何を乗せるんだ。 『お兼だっ ! 畜生』 明んで ? 』 と、黒髪堂の方へ歩いて行った九馬之丞が、あッと突櫛は二つに割れて、闇の中へ飛んだ。 無 九馬之丞も、そう聞くと、呀ッと思い当ったが、もうそれは 然、声を放った。 後の悔でしかない。 『しまった ! 雷助つ、鶴江が逃げた』 『えっ ? ・ 『何処に潜んでいたのだろうか』 : 鶴江が』 しつか と、今更のように、黒髪堂の黒髪が気味わるく眼に映じて来 『この木の根に、確乎と縛りつけておいた鶴江が見えぬ』 『そ、そんな筈はございますまい』 『でも。 : オヤ、ここに黄椦の櫛が落ちている。これは、鶴駕屋の中の一人が又、 「あの女なら、よくこの山で見る顔ですぜ。ーー・慥か、この黒 江の挿していた物とも思えぬが』 がんか 髪堂に願掛けしているに違いねえ』 『何、黄楊の櫛が』 と云った。 と雷助は手に取ってみながら、 ちょうちん そう聞いてみると、夕方、雷助がお兼に出会ったのも、つい 『駕屋っーーその提灯の明りをちょっと貸してくれ』 其処の観音堂の近くであったし、お兼が逃げ去った方角も、こ 駕屋は寄って来て、雷助の前へ提灯をかざしながら、 の今一尸橋の方らしかったから、ちょうど彼女が待乳へ日参に来 『旦那、逃げたツていうなあ、若い女じゃありませんか』 『そうだ』 る途中であったものとみえる。 石禅という大きな邪魔者を征服したと思った途端に、二人は 『二人連れでしよう』 又、お兼という新手な邪魔を見出した。 『いや一人だが』 もうしゅう 『じゃあ、今の女たあ違ったかしら ? 』 ( こんな事では、何日になったら、父の妄執を晴らして、本懐 を遂げる事が出来るやら ? ) 「待て待て、何かそれらしい者を見かけたのか』 『あっしの見たなあ、二人連れの女だ』 と、九馬之丞はそそろに、口惜し涙に胸が突き上げられた。 『ど、どこで ? 』 又、彼と共に力を協せて、七年の流浪を重ねて来た逆井雷助 「たった今、今戸橋の袂で、摺れ交いに見かけたんでさ』 めしい ( 重ね重ねの失策、今はもう、お奉行に対しても面目ない。 『もしや、一人の女は盲ではなかったか』 『そこ迄は気がっかなかったが、一方の小粋な女が、もひとりの上は石に噛りついても、北条貢その余の者を引ッ縛って見せ の病人のように弱っている女を、引っ抱えるようにして、橋をねばならぬ ) る。 たし ほんかい 38 イ

10. 吉川英治全集 第15巻 松のや露八・遊戯菩薩・無明有明

ず、引っ縛ってしまうのが何よりです』 きやっ 『道理で、彼奴の部屋に、姿が見えぬと思うたら、それでは、 奥の客達の席へ交っているのか』 今宵ぞっもる 『そうです。なるべく、此家の迷惑にならぬように、又、他の 客にも怪我をさせぬようにと思いますが、多少の怪我人の出る 何処かでーーー低い低い呼子笛が鳴った。蟋蟀が啼きふるえるのは止むを得ない事だ。ら 酋予して、北条貢に気どられては、よ ように。風呂場の中で、此処の鏡や刀を研いでいた研師の吉兵 し大事が大事になりましよう さ、お支度は』 衛とよぶ男は、 『おお、いつでもよい』 さなだひもたすき 『あ ? 雷助はもう、真田紐で襷は前から掛けてした。べ 、 ' つに包んで めれて 濡手のしずくを切って、突っ立った。 持っている大小を素早く帯び、鬢止めの鉢巻をして、そっと、 『雷助』 風呂の横口から庭へ出た。 いたまえ と、窓に誰やら人の顔が見える。 料理人の粂であった九馬之丞も、何処で身装を着更えたか、 『おお、九馬之丞様』 もう凛々しい侍に支度を革めていた。 と寄って行って、鏡研の逆井雷助は、小声で云った。 『お、つれしゅう」さいましよ、つ』 ・・・・・ーー手配はまだですか』 と、雷助は、その姿を見て云った。 『もうついた、何時でも 『ちょうど江一尸を出て以来七年目です。 お父上の憤死から たまえくめ 外に立ってこう云ったのは料理人の粂という男ー・ー勿論それもう七年忌。偶然でない心地がいたします』 がしら は偽名であって、江戸の大番頭権堂弥十郎の嫡子九馬之丞であ『今夜、その仇が討てると思うと、夢のようだな。 これで 公儀に対しても、父の霊に対しても、やっと、わしの武士道が 『では、すぐさま奥へ踏み込んで、積年尋ねていたお父上の仇立っというもの』 いや公儀の大罪人北条貢めを』 『経ってみれば早いようなものの、七年間、北条貢の行方をさ 『待て、雷助』 がし歩いて、野に伏し山に寝た月日は、思えば、惨たる御苦心 『まだ何か ? 』 でござりました』 はや る 『いや、逸まっては、仕損じる。ーーー先刻、貢の子の菊太郎を『何の この大望を果すからには。 ・ : みなそなたの力だ』 きやっ かいぞえ っ質に奪って、彼奴を誘き出してやろうと計り、暫く、物蔭にかく 『勿体ない。雷助はただ、介添にすぎません。そして、あなた れて見ていた所が、他の奉公人が来て抱いて行ってしもうた』 が北条貢を召捕れば、同時に拙者も元町奉行の同心として、瞬 今『手ぬるい事だ。それよりは、今慥かに、奥の酒宴の座敷で、 れて、江一尸表へ立ち帰ることができるのですから。ー・・・・』 かわ 踊り狂うているらしいから、そこへ踏み込んで、有無を云わせ囁き交していると、二人のうしろへ、忍びやかに樹蔭から這 を よびこ たし 、、つき こおろ あらた ゅうよ このや びんど みなり ほか 285