さんび : これは」と、その酸鼻な徹底ぶりのせいであろうか』 は、入道自身さえも、「 : つぶやきながら、便殿の別の間へ行き、その姿は、大勢の侍 にあきれもし、意外に思った容子だった。そして「ちと、薬が 女にかこまれていた。 きき過ぎたわい」と、悔いる色さえ顔に滲ませた。 こそで 肌着から小袖、大口など、衣装をかえるためだった。 とはいえ、悔いを、ロに出す清盛でもない。「世の誹りは、 ゆかふ まもなく大またな跫音が、床踏み鳴らして出て行った。 すべて、悪入道の名のもとに、おれが着る」とは、初めからの きよし とことな その跫音も、ここ幾日かの入道の挙止とともに、・ 肚である。ーー結果の重大に、今さら若年の大将を譴責した く、あらあらしいものがあった。 り、責めを他へ転じようなどとは、考えもしなかった。 おとごぜ いつも政務を聴く壺の廊ノロには、妹尾兼康、灘波李貞、 『乙御前、乙御前』 ぞうし ゆか はたしげふさ べんでんかけひ 雑仕 ( 侍女 ) のひとりは、便殿の掛樋の床で、入道が大声で呼秦重房など、みな起きそろって、平伏していた 『兼康』 ぶのを聞き、 『はっ 。し』 『今暁、第の内にて、大勢の者が、読経を唱和していたか』 と、紙燭をたもとにかこいながら、走って行った。 - つ″し ししやくみずがめ 『さよ、つなことはざいませぬ』 入道は、ロを含嗽し、顔を洗っていたが、子杓で水甕の氷を 『が、なんとのう、そうそうしいが』 たたき割ったとみえ、子供が悪戯したあとのように、そこら よろい 『おさしずのまま、奈良より凱旋の兵馬は、なお鎧も解かず鞍 じゅうを、水だらけにしていた。 たむろ も降ろさす、御門の内外に屯して、非常へ備えておりますれ 『お召しでございますか』 ごんよう 『どこやらで、大勢の読経の声が聞こえるが、何者が勤行など : 。はて、けさの耳鳴り 『なるほど、あれは兵馬の騒めきか : いたしおるのか。宿直に申して、やめさせて来い』 『仰せではございますが、何も聞こえてはおりませぬ』 しようみよ、フ 『聞こえぬと。称名の唱和やら鐘の音が、あのように、聞こ耳の穴を、指でまさぐりながら、入道はいつもの座について、 しげひら 『重衡を呼べ』 ゆるのに』 と、左右へいった。 『いいえ、そのような気ぶりは、どこにも』 とうちゅうじようしげひら その頭ノ中将重衡は、おりふし、ここに見えなかった。し 『せぬことがあるものか。 : : : 鐘が聞こえる : : : 大勢の人間が かし、人びとが第の内を探している間に、どこからともなく帰 声を合わせて経を誦みぬいておる』 って来て、父の入道へ向かい、静かに、朝のあいさつをしてい 『ホ、ホ、ホ、ホ。お耳・のせいて」六、いましょ , っ』 飼 っ : 『耳のせい そうかな』 耳入道は、つよく首を振って、 せみな 『そう申せば、耳の奥で蝉が啼くような心地もする。はて、気 とのい よ 0 けんせき はだ ・ヘんでんべつま ざわ なにわすえさだ くら 3 イ 9
もちろん、非難の声は高い 『すわや、木曾が、北陸へ伸び出たか』 すでに、池頼盛の心と、一門の猜疑のあいだには、清盛の生 今さらのように、平家一門は、仰天した。東国の頼朝以外きていたころから、大きな割れを見せていたことでもある。 に、もう一つべつな魔雲を、北方の空に見たのだった。 ( ー・ー池殿こそは、ひそかに、鎌倉の頼朝と、多年、気脈を通 じている ) 八月十四日。 と、 およそ七、八千騎の兵馬が、北 へさして行った。 いうことに含むものがあった。 ちゅうぐうのすけみちもり というのを口 木曾討ちの大将は、中宮亮通盛、但馬守経正とのことだっ頼盛の実母、池ノ禅尼の旧恩を忘れがたい 実として、頼朝は、たくみに、頼盛を利用しようとし、頼盛は 「つれなき同族の冷たさよりは」と、鎌倉へ、心をひかれてい こえて、九月には、もう越中方面で、木曾勢との合戦が起こ るという見方である。 っていると聞こえてきたが、いずれが勝ち色やら負け色やら、 遠山のあらしみたいに、都の内では、取りざたもたしかでなか この推測が、あたっているか否かは、当人の頼盛以外、たれ にも、明一言できることではない っこ。しかし、冬にはいると、人ひとは艮にさえ見た。 その通盛や経正も、やがて、都へ引き揚げてきたのである。 しかし、任命後、一カ月余も、なお頼盛が、出馬せずにいた 『北の国ぐには、もう馬も進めぬほどな大雪。戦さも春までは ことは、その疑いを、一そう、根づよいものにした。 無いによって』 、加賀守為盛が、かれに代って、熊野へ出撃したもの ふんめん と、家に帰った将士は、人に会うと話しているが、それにしの、そんなこんなの紛紜のうちに、養和元年は、はやくも暮 ても、勝った話は一つもない。 れ、年は、養和二年 ( その年の五月改元・寿永元年 ) へ移ってい この冬には、平家方の内輪に、もうひとつ、晴ればれしない 事件があった。 例の、熊野の裏切り者、別当堪増らの露骨な源氏加担を、捨 ておけずとして、池頼盛を、総大将に任じ、もう秋には、出軍 のはずだった。 ところが、頼盛は、何かと、ことに託して、遅延しているば かりでなく、冬にはいっても、出馬の様子はなく、このごろで 天 『心は逸れど、病のために』 財 弁と、閉じ籠ってしまったのである。 けびよう 『仮病ぞ。池殿の病は、口実にすぎぬ』 はや べっとうたんぞう 養和二年の二月。 頼朝は、人をやって、伊勢大神宮へ、願文をささげた。 中四郎維重、長江義景などが、代参として、伊勢へ立ち、翌 弁財天喧嘩 - 一れしげ さい がんもん イ 57
『↓よ↓よよ十 ( 。ー、、こキノ十 6 よ の菩、垣のつる草も、風雅めいて、竹の小窓からは、医書を積 んだ書斎ものぞかれ、朝夕の掃除に、土味も出て、貧しさは貧『あなただって、とうに、もう四十をこえたではありません ぶじこれきじん しさのまま、趣きがあった。 古語の〃無事是貴人なの意味か』 がおのずからここにある 『困ったものだ 『もの申す。 : ものもうす』 『どうしてです』 かゾ」が、一 尋ねあてて来た西八条の武者は、そこの門垣に立って、内へ 『おたがいに、なかなか、おとなにはなれん。そのうち、白髪 どなった。 が生いても、まだ、こんなことで、暮らしちまうかもしれない 『お医師の、阿部麻鳥どののお宅は、こなたであろうか。これな』 みつかい は、西八条よりまかり越した御使にて候うが』 『おやおや、わたくしたちは、いつのまにか、老け過ぎてしま と、かさねてい , っ ったと、月日のあとを、悲しんでいるのに』 よもぎ おりふし、妻の蓬は、裏の畑に、こ。 『おまえのいうおとなと、わしの思うおとなとは、意味がちが 子の麻丸は、もう九ツ、次女も、五ツになっている。ふたり うのだよ。年ばかりとっても、おとなといえるものじゃない ざる の子をあいてに、笊に若菜を摘んでいた : おう、垣の外でまた、訪れが聞こえているわ。蓬、御用を おや、お客さまらしい』 伺ってみい』 かの女は、身のびして、表の方を見たが、ものものしい人影『でも、いやにものものしい人数です。検非違使からでも来た に、ぎよっとしたらしく、あわてて台所から、良人の書斎へかんじゃないでしようか』 けこんた 『ええ、役にたたぬやっ - 』 『あなた、あなた。武者が見えていますよ、それも大勢』 面倒に田 5 ってか、麻鳥は、自分で立った。 しばがき 『え。たれか来たのか』 そして、柴垣の戸をひらき、 麻鳥は、机から顔をあげた。 『麻鳥は、わたくしですが』 と、 家にあれば、いつも書物に理もれているかれだったが、この 月カかめた。 ごろはまた、暇さえあると、筆をとって、何か、医学の自著に 日、カ・諸〃子′子 / 武者たちは、そこを退いて、うしろへ向かしイ でもかかっている様子だった。 の主人へいっていたが、やがて従者をつれた人品のよい侍が 人「何を、そわそわしているのか。客ならば、早く出てごらんな しずかに、前へ進んで来て、 さい子どもたちは』 『御辺が、医師の麻鳥どのか』 『田 , ) いオ ( ・す・』 はしここに住む貧しい医師にごさりまする』 事 無『おまえも、いつまでも、子どもだなあ』 『それがしは、参議経盛が嫡子経正と申すもの。じつは父経 「三十七ですよ、ことしは』 盛、門脇殿など、御一門の旨をうけたまわって、おり人ったお っ っちあじ かどわきどの
正直、いまの十郎行家として、この援兵は、・ とれほど、有難それ以米は、使を出しても、兵粮も求めす、援軍の派遣も、 かったかしれない 前のようには、せびらなかった。 そして、こんどは、九郎 どのやま 腹心の泉太郎も、調子にのって、 殿山の源九郎義経にむかって、 ひょうろう すのまた ( ーー兵粮はゆたか。酒など、 いくらでも ) ( 疾くとく、墨股の陣所へ、馳けつけ候え。おん身のじつの兄 えんどの と、広一言を吐いたが、このあたりとて、飢饉に変りはない。 君、義円殿も、おわすそゃ。ともども、目前の敵を討ちゃぶ ただ、海が近いので、いくらか、事情のちがう程度である り、都までも、攻め入ろうに ) それも、新宮十郎行家が、この尾濃国境に、兵を結集して、 と、誘い文を送った。 まかな 気勢をあげだした初めは、まだ賄えたが、兵数も五千をこえ、 やがて、義経からは、こまごまと、返辞が来た。それを見る 七千、八千となると、兵粮集めも、容易でなかった。 と、鎌倉の事情と、頼朝の考えていることとが、一そうよく行 で鎌倉へ向かっては、再三再四、 家にわかった。 ( 兵粮の補給を ) と、催促し、もし、それが遅れるなら、すみやかに、援軍を 送って欲しい。対岸の平軍を、一日に撃ち破って、こんどこ そ、都まで、追いかけ追いかけ、上洛したいからーーという意 味の書状を、なんど、頼朝へ出していたかしれないのである ところが、兵粮も来ず、援軍も来ないのだ。 のみならず、たった一ペん、頼朝の答えとしてきた返書に 後顧しきりなり、 いかんぞ、なほ、上洛の時ならむ ゃ。 きしよごきずゐ かつは、貴所、御気随の戦さごとは、頼朝にとって、迷 わくのいたりにこそあれ、なんら源氏を益するものにあら かえ 向 ず、とく、陣を回して、後方に従き候へ 回 絃と、 し、つものたった。 『鎌倉殿の肚のせまさよ。かれが、この行家にたいする胸もこ 野 たの 征れで読めた。もう、時まぬ』 行家は、ひどく、腹を立てた。 義経の書中の意味は、こうであった。 ・ー叔父君の御書を拝し、すぐにも、馳せつけたいのは やまやまでしたが、とかく、鎌倉殿のみゆるしも出ません し、また、府内の御多端も、よそには、見てまいれませ ん。 叔父君には、御存知でしようか それとも、美濃の御陣へは、まだ聞こえていないでしょ しだのせんじようよしひろどの じつは、鎌倉殿の伯父君にあたられる志田先生義広殿 が、どうしたことか、平家に応じて、むほんを企まれ、常 陸、下野の兵を狩りあつめ、猛威をふるっておられます。 うわさには、逆兵数万が、鎌倉へさして、襲せ来るとの ことで、関東いったいに、 要害をかたむべしとのおさたが しもこうべのしようじゅきひら くだり、もちろん、討手の勇士としては、下河辺庄司行平 どの、小山小四郎朝政どのなど、まっさきに、 馳け向かわ ぶみ イ 33
と、ったえられよ』 『はて、こんなことなら、何か、書物でも持って来るのであっ 1 一うまん 傲慢な物ごし、物のいい方、しかも大殿の奥へも聞こえよと な と、かれの悔いは、そこでの為すなき時間を、つまらなく空ばかり、破れ鐘声でいうのである。 費していることだった。といって、いっ召されるかわからない もとより、通すはすもない。 ので、寝るにも、心も帯も解かれない 『いや、お取り次ぎはしておくが、かかるおりなれば』 かくて、翌一日は、何事の変もなかった。 と、淡路守清房の部下が出て、追い返しに、 カかると、文覚 おおどのとのい 大殿に宿直した近親の面々も、医寮のたれかれも、 『このぶんでは』 『しておいてもらう取り次ぎなどをたれが頼もう。いま、申し と、どこか、明るいまゆをたたえ、もう麻鳥のいることなど告げい。 そちの上将はたれか。上将に、物申さん』 は、たれも忘れ顔だった。 いっかな、動きもしない 淡路守が、なだめに出ても、 『平太清盛とは、むかしは、ひとっ瓶の酒も汲んだ仲ぞ。六条 あそびやど ふる の遊女宿の軒ばも、腕を拱んで、さまよい歩いた旧い友そ。な んじらの知ったことか。 いま旧友の重態と聞き、むかしを じようの 想い、生涯の情を叙べんと、初めて、この門へ参ったるに、な んで、取り次がぬ。もし、文覚来れりと聞くならば、清盛入道 も、いなみはすまいあわれ、これがかれとおれとの、一生の 閨二月二日の宵だった。 別れでもあろうずるに』 と、なおいいつのる。 月である。太陰暦 ( 一年を三百六十日とする ) による余剰日が ほうじゅうじでん みにわちんにゆう 積もって、ことしは、一年が十三カ月あることになる。 かって、この男は、法住寺殿でも、法皇御遊楽の御庭に闖入 えじ で、先月も二月。月をこえても、また、二月がくり返されして、武者や衛士をあいてに、大暴れを演じたとも聞いてい る。伊豆に流されて帰った後も、粗暴の風は、あいかわらずで、 そのタベ、西八条の門へ、ひとりの怪僧が訪れて、阻める武怪僧文覚の名は、洛中こ高、 、わま、しまつの悪い相手だ。 子 者たちも眼中になく、 このさいではあり、武者たちも、もて余し気味に見えた。 『入道の、おん病篤しと聞いて参った。かくいう自分は、遠き 『よし、よし。通しもせず、取り次ぎもせぬとあらば、声の届 びようでん むかし、平太清盛とは勧学院の学窓に机をならべていた誼みのく所から、病殿にむかって、文覚が、別れの物申さん』 こんりゅう いまは高雄に神護寺の建立を営み、ひたすら世の 白ある者。 ずかずかと、かれは中門廊のさかいまで進んで来て、そこの だいじよ、フデ しやもん 大浄化を祈る文覚と申す沙門。入道のおん見舞いに罷り出でぬ墻ごしに、 うるう うるうづき 白眼子 たいいんれき あ おとず かめ
しかし、入道清盛の起居は、それから、ただの一日とて、安と、清盛にとっては、惨たる回顧と、そして、支えきれぬ崩 壊の物音を、もう、自分だけは、はっきり聞いていたにちがい 巻らかとは見えなかった。 おとごぜ の侍女の乙御前さえ、 うだい 木曾、東国はもちろん、宇内全土、敵旗を見ないところは無 界『きようは、み気色も、おうるわしそうな』 くなった。そういうおりもおりである。美濃、尾張地方にわた と、ともにまゆをひらいたことはない って、先ごろからまた、妖雲のごとき一軍が起こっていた。各 従って、蓬壺の近衆は、みな、入道の怒りにふれることばか はちく 地の目代や、平家の与党を攻めたて、破竹の勢いで、はやくも、 りおそれて、薄氷をふむような気づかれにとがりあっていた。 こういう西八条の門へ、以後二月中、諸国からつぎつぎに聞不破ノ関を突破し、今にも都へ上ってくるかのような風聞であ きっちょう こえてくる飛報には、どれ一つといえ、平家にとって、吉兆なる。 やがて、その一軍の正体は、新宮十郎行家のひきいる美濃源 ものはなかった。 氏の一党が中心とわかった。 わけて、鎮西の状勢は、日のたつほど悪い もちひとおう だざいふ おがたさぶろうこれよし ぶんご 「行家こそは、以仁王の令旨をたずさえ、頼朝、義仲をそその 豊後の緒方三郎維義がそむいて、太宰府が、反軍の手に墜ち はんぞく かしたる叛賊の張本なれ』 たという悲報。 へつまつらとう 、つす、 緒方党につづき、臼杵、戸次、松浦党も、寝返りして、叛旗と、清盛はその月の上旬、宗盛の舎弟にあたる三位中将知盛 、万余の大兵をさすけ、美濃平定に向かわせていた。 をひるがえしたなどという取りざたも高い ほうがんだいよしかね また、河内国石川郡の石川義基と、その子息、判官代義兼ところが、その知盛は、二十六日ごろ、なんのさたも待た も、源氏に通じ、六波羅からは、すぐ討手の兵馬数千が、馳けず、不意に、征地から都へ帰って来た 『何ゆえそ』 向かっている 知盛の帰洛は、まっ このことにも、入道はひどく怒ったが、 さらに、清盛の胸に、こたえたのは、紀伊の熊野別当堪増の たく、急病のためと分かって、やや不きげんの色を直し、翌二 心変りであった。 重代、平家と一心同体の者と、かたく信じていたのが、たち十七日、 み まち、変心して、源氏方に呼応し、那智、新宮に兵火を起こ『何病か、容体はどうなのか、よく診てまいれ』 てんやくのかみさだなり と、侍医の典薬頭定成を、知盛のやしきへ差し向けた。 し、また一手の兵力は、伊勢へ出て、伊勢大神宮を荒しまわ その定成が、やがて、復命のため、もどって来たとき、めず り、松阪、山田など、随所に、兵革を起こしていると聞こえ らしく、入道相国は、他出していた 伊勢は、平家の発祥地だ。清盛の父、忠盛以前からの、いわ『院の御所へでも ? 』 と、定成が、蓬壺の近衆にたずねると、 ゆる本領地である。 『いや、きようのにわかな御他出は、法皇の御所ではないよう 『 : : : そこすらも、足もとを見られて来たか』 0 たんぞう は・んを、 よう・つん とももり 398
断橋の巻 『長坂峠』 山頂きに出、ひろい視界に眼が出会うと、将士はみな、ある 感慨につきぬかれ、期せずして、叫びあった。 『国ざかした ここは近江と山城との国境よ』 きせんだけ めずらしくけさは、幾日ぶりかの雲がやぶれ、西に喜撰岳、 明星山の峰みね、北に醍醐、東に甲賀連峰の猪ノ背、矢筈など うんびよう の山が、みなその姿を雲表にあらわしている。 谷の空が明るみかけた。里とちがい、深山は今が若葉時であ このあたり、おちこちの部落を、笠取の荘といい、喜撰法師 る。山千鳥がさえずりぬく。 が隠れた跡とか、醍醐寺の修法所とか、人の通いも少なくな 鳥の音は、悲調な出陣の譜に聞こえる。今はと、頼政のまゆ も、つごいた。さっきから、一刻もあらそ、つ思いはしきりであっ そして後の世、里人はここの峠を「頼政越え」とよび、その たか、いかにせん、宮のお疲れのはなはだしさを見ては、つい 日のかれをいつまでもしのんだ。 一時のばしに、兵馬の憩いを、ともにつづけていたのである その日は、五月二十六日。空は東に青い雲間を見せてきた 『おう、夜が白む。はや立とうそ』 が、都の方は、まだ晴れきれぬ厚い雲の下だった。 キ - み : っ きようあじゃり 仲綱、兼綱、競など、武者そだちは、疲れも知らない。渡辺頼政は : とう思ったか、郷ノ阿闍梨、円満院源覚など、六 党の猛者ばらなど、かえって士気の倦む様子だった。仲綱が上十、七十という老僧たち八、九名にたいして、 げた合図の鞭を見、七十七騎一せいに、 つかのまの野営の草を『宇治もはや、かなたの目の下に近づいた。あくまで二心なき 離れて起った。 芳志はかたじけないが、ここにて、お引き揚げねがいたい。宮 宮を、うながし奉り、頼政も、やおら起ち上がって、 を奉じて、われら南都にはいるうえは、ふたたび、便りも申し みつ 『憩いのあとに、物な残しそ。敵の探りのしるべになるぞ。去あげん。また、密なる謀りごとも、貴僧らが、三井寺の内にあ おぶつあくた ったる陣地に、汚物、芥など散らしてゆくは物笑いそ。火は、 らねば成しとげ難いことでもあれば』 念を入れて踏み消し、土をかけておかれよ、人びと』 と、帰山を、うながした。 と、老将らしい令を忘れなかった。 『御もっともじゃ』と、老僧たちは、うなずき合い 兵馬は、蟻のような隊伍を進め出した。谷道二十町ほどで、 『弓馬の業は手にもなれぬ。かつは、この先の御供にも足手ま すみのお 渓流をこえ、炭尾の急坂を、一気に登りつめる。はやくも、人とい』 かぶと びとのよろい兜の下は、汗であった。人いきれ、馬たちの荒ぶ と、それそれ、宮のおん前に、別れをのべて、もとの道へ引 る呼吸、汗のにおい。 つ一込した。 『峠だ』 しかし、五智院但馬、一来法師、筒井浄明、小蔵の尊月など 断橋 あり むち たいご
とおなり となったものか。是非もない。そうなった父を、小松殿の亡い 『遠成、遠成。大事ないか。その道は、あぶないことはない 巻麦、たれが止められようそ』 カ』 の 宗盛も、今はと、観念した。 基房は、内から、あやうげな声を浮かせて、簾をたたいた。 ふる こう ね そう考えると、ふしぎに、慄えもやんだ。そしてかれもま家臣の江ノ判官遠成は、車廂を見あげて、 ん 父入道以下、一族郎党の奮い勇む中に伍し、雪ノ御所から 『でも、院の御所へ罷るには、どうしても、五条をこえ、六波 騎馬をつらねて、馳け出していた。 羅へ出ませぬことによ よろいむしゃ 行くこと数町のあいだに池ノ頼盛の別荘がある。 『さはいえ、つじにも橋だもとにも、鎧武者や凡下の群れが、 見れば、奥の亭は、すべて戸ざされ、下屋にいたるまで、押あのように見ゆるを』 みとが 板を当てて釘付けにされていた。門には武装した兵が立ち、主『もし見咎められたら、よいようにいい抜けましよう。いちか のいないまに、家探しをうけたうえ、没取閉門の宣告に付せらばちか、君には構えて、声をお立て遊ばさぬように』 れた様が、ひと目でわかった。 遠成は、自分も竹の小枝を振るい、童と一しょに「牛の尻を 『浅ましや、池殿にも、こたびこそよ、 しかなる運命にあうこ 追いぬいた とそ』 揺れ動く車のうちで、基房は、恐怖を、さあらぬ顔に、耐え ていた。 宗盛は、さすが、面をそむけて、その前を馳け通った。 三千の兵馬は、六甲のふもとを東へ、ひた急ぎに、急ぎ出した。 車が、群集へ接する毎に、往き交う声が車と摺れすれに後ろ へ去ってゆく。ある声は「合戦らしいぞ」と、ロ走り、ある者 は「入道相国が、松殿に恨みあれば」といい 、また「池殿の御 むほんが発覚したそうな」という妙な評判もたかい。 ちまたの声が「松殿」と聞こえるたびに、基房は胆をすくめ た。身に覚えがなくはない。常づね、清盛が自分へこころよか らぬ風は分かっていた。盛子未亡人の遺領や、重盛の領地を、 没官した処置だの、中納言欠員のときの仕方などに、入道が大 関白の松殿 ( 藤原基房 ) は町を行く牛車のうちで、人心地もな不平であるとは、すでに、周知のことであり、かれもないな せつけ むらみ、きいとげ く身を硬めていた。車も摂家乗用の華麗な紫糸毛とちがい、 い、おそれを抱いていたところである。 質素な五位の車であった。 果して、入道はほんとに怒った。 と仰天したのは今暁で さきがけ 従って、随身の先馳も見えず、牛飼の童と、わずかな車添いあった。ただならぬ戸外の様子と、物見に行った家臣が、取っ が供しているだけで、いかにもあわただしげである。それに洛て返すや、寝耳に水の驚きを伝えたのだった。 中の往来もただごとならず沸き返っている中だった。 清盛自身が、軍兵三千をひきい、福原から入洛、西八条の邸 去卩引 こイ卩 答 しもや あるじ まか れん しり
時に、ごうっと、虚空に聞こえ、日ごろには見たこともない色た。あたりの光景は一変していた。火と黒煙りの中だった。 をした雲の中からまた雲の渦が咲きひろがり、その妖しい一瞬『や、ここは八条室町のお館』 ・ : つよう の光燿で、洛中の屋根が明るく見えたほどだった。 どうして、いつのまに、門内へはいっていたのか、覚えもな 『あっ、こ、これは』 次の瞬間、輝丸は、眼のまえの地面がふいに持ち上がったよ室町の館は、もと、八条女院のお住居であった。それを、池 うな気がした。 大納言頼盛が借りうけ、今では、池殿の別亭として知られてい る。 きゃんつ、きゃんつ、きゃんッと犬の子は発狂したように、 ひとむね かれの持っている綱のさきで躍った。犬に引っ張られているか 地震と同時に、そこの一棟は今、黒煙りを噴いていた。輝丸 たちで、かれは大きくうねりを打っ地面を、自分の足でも意志は、人と煙りに巻かれ、大勢の者と一しょに、 文ノ屋の方へ、 でもないカで、あっちへよろけ、こっちへよろけ、歩き出し必死に、井水を運び初めた。大屋根にも人が登っているし、そ こらの室内からは、貴重な什器やら書物、織物などが、無造作 けえんツ、と犬はついに、かれを振り捨てて、どこかへ、すに庭園へほうり投げられ、その一つは、輝丸の体にさえぶつか っ飛んでしまい、かれは、犬の代りに、 『地震だ』 ぶつけられた革文筥の内からあたりへ散らかった反古だの書 と、大地へ四ッばいになっていた。 類みたいな物を、かれは、あわてて拾い集めていた。すべて無 『地震だ。大地震大地震』 我夢中の動作だった。どういう料簡があったのでもない。 しかし、人がいうのか、自分の声か、輝丸にも分かっていな その証拠には、対ノ屋一面に火がまわり、樹木にさえ燃え移 って、いよいよそこにもいたたまれず往来へ飛び出した後も、 ふた ふと、震れが止まった気がして、立ちかけると、ず、ず、 かれはまだ蓋のない革文筥の半分を、大事そうに抱えていた。 ず、ずんと、足の裏から、次の余震は、前より烈しい上下動を 「ああ、たいへんだ、こうしてはいられない』 起こし、とたんに、かれのからだの上へ、一と塊りの土と土煙やっと、かれも正気づいた りを、ど、フと崩した。 火は、ここ一軒だけではない。洛中、諸所の夜空に、。 へつな 火の粉が望まれる。六波羅の空も、気のせいか赤い。 紙 もういけない。死んだと田 5 った。 『そうだ。わが、おあるじの館こそ』 草崩れ築土の下になったまま、動いてはならないもののよう と、かれは宙を飛んで帰った。もしゃ五条大橋も落ちたので 震 に、じっとしていた。 はないかと案じたが、異状はなく、また、車大路の主人の館 地すると、自分の上を、幾人もの足が踏みつけ踏みこえて、馳も、無事だった。 け乱れ初めた。ざっと、水がかかってくる。輝丸は、跳ね起き その途中で、かれは、手に抱えていた無意味な物に気づき、 ) 0 あや っ ) 0 かわふばこ
あの背の低い兎馬のほか、乗って歩いたこともない。木の下な大衆三千が、ふた派にわかれ、未曾有な争いを起こしている というのである 巻どは、そちの奢りそ』 が′、り の 学侶と、堂衆と。 常には、ロ無な頼政が、こんどのことには、よほど、い痛した そう 1 一う ね もちろん、圧倒的に、堂衆方の数が多く、学侶や僧綱は、手 ものか、家人の耳にも聞こえ渡るほど、声を強めて、意見した。 りんしよくわ ん そしてすぐ、頼政は、宗盛の館へ行って、仲綱の吝嗇を詫びの下しようもない猛勢力らしい 都のつじに立っと、叡山のうえに、煙が見える。何が焼けて ところが、宗盛は宗盛で、それは意外なと、驚いた顔をし いるのか、えんえんと、幾すじもの、黒煙りが望まれる。 けんか た。宗盛はまったく、知らないというのである。木の下は、客『何が因の喧嘩であろ』 庶民には分からない。 と一見の後、すぐ返したものとばかり思っていたらしい わるさ ぶつだ 『家来どもの悪戯であろう。いや、人の迷惑など物ともせぬ物仏陀の教を説く天国の喧嘩と考えるので、なおわけが分から 好きな武者どもには困るぞよ。戦さもなくて、退屈なまま、悪ないのだ 『喧嘩といえるものか、あの煙が』 遊びのみいたしおってのう』 『では、なんじゃ』 宗盛は、大いに笑った。そして、 かどわきどの 『合戦だ。もうただの喧嘩ではない六波羅からも、門脇殿 『悪く思、つな』 ( 平教盛 ) が勅をうけて、討伐に向かわれたそうな』 と、頼政をもてなして、帰したほどだった けれど、人の風聞にかかると、それがそのままには伝わ洛内の夜の物騒も、秋とともに、活発になった。 らない。老三位はともかく、仲綱は、ひどく宗盛を恨んでいるれにはもう庶民は少し麻痺気味であった。そして自分たちが目 標でないことも覚っていた。気をもむのは、火放け騒ぎだけで という風に、以後の世間は田 5 いこんでしまった。 ある。 『堂衆は、強いそうじゃ。六波羅殿の討手も、さんざんに敗 れ、門脇殿も、手をやいて逃げ戻ったそうな』 やがて、都民には、信じられない取りざたが、耳から耳をつ 驢に乗る人 き抜けた。 六波羅軍といえば、かれらは、絶対なものにその強さを信じ それが、烏合の衆といってもいい山門の て来たのである。 初秋を肌に覚えれば、都の生態は、はっと、よみがえるよう堂衆に敗けたと聞かされたときは、 『 .. ーー・まさか』 な色を示すのであるが、ことしは、秋風の声とともに、叡山の 上から、大きな不安が聞こえて来た。 ろ はだ う、うま おご えい、ん もと まひ