つば 足近の岸にたたずみ、そでや袴のすそを、絞りながら、ほっとおれ去ったか」と、唾をのんで、白け渡「た。 家のみは、容易に信じない。行家の耳には、もう、いくたびと 息をやすめていた ゃないずみくりや なく「入道あやうし」とか「清盛死す」とかいう風説が前まえ そしてまた、柳津の御厨にある源氏方の陣地へ、馳け出し からはいっていた そのたび、あとでは、誤報とわかって、がっかりしたもので 『行家殿には、もうお寝みか』 、一くも。んしようへい ある。七郎丸の知らせにも、またかといった顔つきにならざる 男は、柵門の哨兵に、こうきいて、 『おれは、前の月から、美濃の国へまぎれ入「ていたお味方のをえないかれは、酔いの醒まし損でもしたように、ぶつくさ ちょうじゃ 諜者だ。いそいで、お耳にいれたいことがあって、立ち帰っていった 『何を見とどけて、確かとはいうぞ。清盛の病は、初耳ではな 来たのだが』 し』 『おお . 、泉太郎殿の御舎弟ですな』 『されば、七郎丸吉光だ。夜もふけたが、すぐにお耳へ入れね『いや、病状のとやかくなら、何も、かくはあわててお知らせ ねや には参りませぬ。きよう、都より美濃へ着いた少将資盛卿も、 ばならぬ。行家殿は、お寝屋の方か』 も こそで よろし 鎧の下には、模様のない喪の小袖をきておりました』 『まだお陣幕の内で、にぎにぎと、おん酒もりの御様子で』 ゅうちょう 『資盛朝臣が着いたのを、その眼で、見とどけたのか』 『また、酒もりか。悠長な』 『それだけなら、なお、推量にすぎぬと仰せられましようが、 『いや、宵のころ、熊野衆の新手が大勢、お味方のため、はる どだん しげひらこれもり ねら ばる、これへ着きましたので、その人びとへ、おん犒いのため夜にはいっては、重衡、維盛、有盛卿など、かりの土壇のまえ に、香華を手向けて、全軍の兵もともに、相泣く様さえ、見た の酒振る舞いでございまする』 しょ : おりふし、こよいは、入道相国の、初 『や、熊野の新手が着いたか。それや、さいさきがいいでのでござりまする。 なめか 七日の忌にあたるとか』 は、通るそ』 『七日目とな ? 』 しくつもの幕舎を見つつ行くう 七郎丸が、人声をめあてに、、 すこし、行家も、信じて来て、 ちに、柵門の兵から、もうそのことは、酒もりの座へ、知らさ とすれば、この月四日の死去となるが』 れていた。 『き、れば、上ⅶ卿のき、さやきにも、四日と、ト耳・にはき、みまし 『なに、七郎丸が、戻ったと』 し た。全軍のかなしみ、陣気の萎えかた、ただごとにあらずと見 行家は、すでに、したたか酔っていたか、さすがに かん すのまた て、墨股を渡って、こなたへ帰る途中にも、風のあいだに、管 「さては、異変か』 げんくようね わ : もし、お疑いなれ 絃供養の音をすら耳にいたしまいた と、いずまいを直して、かれの姿を待った。 ば、さらに、他の忍びをつかわして、お見届けあるもよからん やがて、七郎丸の口から、清盛の死が、ここで確言された。 え と存じまする : : : 夜もすがら、平家の陣では、こよい管絃回 座にいた面々はみな「ついに、死んだか、平家の喬木もた やす はかま
かったが、中門までの武者のかためと、内殿のいたる所にも充 けれどなお、入道の病室には遠く、侍医の間で、医寮の面々 びと ち満ちている平家人のおびただしさには、何か、吐息が出た。 と、あらかじめの談合をとげた。そして、夜もふけ初むるこ ( これほどな人びとが、これほど心をいためても、一個の人間ろ、やっとのことで、入道の臥す病臭の濃いまくら元へ侍した の死を、どうにもならぬ ) のであった。 すぐそれを感じたからである。 ふとばしら もうたそがれに近い。奥へすすんでゆくほど、廊、太柱、坪病入道は、平静だった。嘘のように、静かな呼吸をしてい しらめ のあたりも暗さを加え、不知火のような明りの点々が、カなたる。が、見なれぬ男をまくらべに見、落ちくばんだ眼を、ばか ひ、、し こなたの廂の内にながめられた。 と開けている。 『しばらく、ここにお控えを』 麻鳥もまた、べたと、すわったきりである。ここへはいった かれを待たせて、経正は、中殿のひと間へはいった。 ときの病臭で、かれは、この病人の直前の大熱と苦患とを、疑 ここまでは、急がせられたのに、ずいぶん長いこと、かれは っていない。だが、「お脈を」とも申し出なかった。わずかに、 そこに、ばつねんとおかれた。 そばの明りの位置をすこしすすめ、じいっと、入道の皮膚をな やがて、宵も更けた頃、やっと、経正に代って、三名のやご がめ入った。 かどわきどの とない容子の人たちが、かれの前にあらわれた。それが門脇殿帳のかたわらには、二位ノ尼殿と、右府宗盛卿がいた。その しりえ てんやくのかみさだなり にゆうどうともやす やら右大臣殿やら、麻鳥には分からなかったし、さきも名乗り後方には、典薬頭定成、典医頼基、入道知康など医療の人びと はしなかった。ただ、 が、息をつめて、麻鳥の横顔を、凝視している。 「大儀であったの』 と、そのうちのひとりがしし 二位殿の眸は、たよりなげに、やがて、麻鳥から、眼をそら 『もし、御辺の医法よろしきをえて、禅門御央気のうえは、重した。侍医たちも、ようやく、かれを見るに、軽蔑な眼つき き恩賞をとらせるであろう』 を、露骨にしてきた。 くすふ くすばかま た、べつなひとりよ、 。ししたした。 洗いざらした葛布の狩衣に葛袴、何一つ身に飾っていない ようばう 『・ま、 0 +6 。しいとしても、なりは小さいし、容貌も平々凡々であ 麻鳥は、ここへ来たことを、べつに悔いもしなかった。けれる。知性の光りとか、人品の高さなど、見つけようとしても見 診 ど、この期にまで、恩賞の約束だの、権力などが、何かになる出せはしない わけのももかわ 拝ものと思っている人びとが、あわれであった。気のどくに見え ( こんな者が、和気百川の後継者とは ? ) すでに、侍医の間で、打ち合わせしたときから、片腹いた かけひ 麻掛樋の床で、ロをそそぎ、手をきよめ、麻鳥は、病殿に伺候 といいたげな者もいたのである。果して、禅門のおんまく有 がんけん・一う・一うみ らべでは、脈法もとらず、眼臉、ロ腔を診るでもなく、ただ ゆか た ないでん けいべっ
界の巻 院 ( 徳子 ) を、そっと訪れ、よもやまの話のうちに、「きようは、 盛国殿の八十八のお祝いだそうです」と聞いたので、ふと、立 ち寄る気になったのだ。 しかし、盛国に会ってみると、さすが、懐旧の思いがわし 二位どの看護 て、もし、亡父忠盛が生きていたら、ちょうど、この人ぐらい な年齢ではあるまいか、などとしのばれもした。 盛国はまた、清盛の幼少を見てきた人だし、忠盛のことも、 そのタベ、九条河原口の盛国のやしきでは、灯をともすのさよく知っている。何かと、思い出ばなしが尽きない え忘れていた。 なぜか、この日にかぎって、清盛は、子どもがおとなに物問 『お医師がたは、まだ見えぬか』 しするように、亡父忠盛のことを、根ほり葉はりききたがり、 もりとしどの 『盛俊殿は、・ とうなされたやら。もう、戻ってもよいころだが』時のたつのも忘れ顔に、 人びとの影は、門の内や外に、また、家のなかでも、うろう ( 御老台には、よく御存知であろ。清盛にとって、刑部卿どの ろしていた。みじかい刻々も、おそろしく長い気がして、たれ ( 忠盛 ) は、養い親。実の父は、白河院 ( 白河天皇 ) なりとは、亡 の顔にも、安き色はない 父がいまわの際にも聞かされていたが、それに、相違ないであ 考えると、ふしぎな日である。宿命の日だともいえよう。 ろうか ) たいらのもりくに などとも、たずねた。 家父の平盛国が、八十八の賀宴で、きようは息子の盛俊、 もりやすもりのぶ 盛康、盛信をはじめ、その妻やたちまで、親類縁者が顔をそ ( それや、正しいことでおざる。あなたさまが、白河院の御子 ・ヘいじゅおきな ろえ、「こんなよい日はない」「春ものどかに」と、米寿の翁をなりやこそ、なんばう、忠盛どのは、ひところの逆境にも、す とりまいていたものだった。 え楽しみに、御身を、いつくしんでおられたか知れぬ ) おんのによご ところが、前日はおろか、その朝の前ぶれさえなく、突然、 ( : : : が、母の祇園女御に、あのころ、みだらなうわさもあっ へいそ、つこく みくるま ( 平相国さまの御車が、ただ今、これへ渡らせられます ) たゆえ、母をうらみ、父とて、たれが実の父やらと、自身を疑 、、きがけ という先馳の知らせに、 うて悩んだものだが ) ( なに、禅門のお渡りとな。こ、これはまた、なんとしたこ ( めっそうもない ) と ) 盛国は、白いあごひげを、横にふった。 ちょう 盛国は仰天し、一家親類も、うろたえの中に、入道の車を迎 ( 君の寵を争う後宮の女房たちと、縁につながる公卿の門に えた。 は、いろいろな策やら、根もないうわさも行われまする。 入道清盛も、じつは、ここへ臨む気もなかったのである。 祇園女御のお身もちなども、よう、われらも当時耳こよ、 うつ しまいた。 : そして忠盛どのヘ嫁したのちも、なかなか、お ほんとは、このところ、なんとなく気が鬱するまま、建礼門 みとり ものど
( 母上っ : : : ) 置を施してみるだけだった。 と、さけぶ。なお、声のかぎり、 かれにしてさえ、そうなので、典医典薬たちは、なすことも ろ・うまい ( 母上、母上、母上っ おっ母さん ! ) 知らぬ有様である。ただ狼狙に時を移した。 と、よびつづけた。 二位ノ尼や、近親の人びとには、病人の七顛八倒は、自己の 母の雲は、一直線に、さがってゆく、自分の体も流星が落ち苦しみと変りもない。 ともども、もがき、もだえて、寄り添っ うしみつ てゆくようだ。果てなく、果てなく、無限に落ちてゆく。 た。しかし、入道自身は、一切、うけ答えなく、夜も丑満とな あな あたりは、暗くなる。赤黒い火の坑かとも思う。おお、炎々ると、もう、暴れる力さえ失っていた。がつくりと、身を平た たる火。岩が燃える。石が黒煙を噴く。白い火、紫いろの火。 くしてしまい、おとなしく、面をまくらへ横にふせた。 大小無数な焔の舌。 麻鳥は静かにそれをながめていた。入道の面は、だんだんに、 くもん 優しく美しくなってゆく。苦悶の影が除れてゆくものらしい こんすい 呼吸は、つづいている。昏睡のまま、息づかいだけが大き 深ぶかと、いまはなんの屈託もなく、熟睡しきっている姿 である。 『ああ、お心地よげな』 うらや 麻鳥も、ほっとしたらしい。むしろ羨ましげに、見入るので むせ おえっ 『単門、禅門み、いをたしかに』 あった。あたりを囲む啜り泣き、咽び声、食いしばる嗚咽な 『父君、ち、ちち君』 ど、かれの耳にはないようだった。 人びとは、病入道をとり囲んで、狂乱のように、悲しんだ。 かれは厳として、一個の人間の死期を見とどけようとしてい ふたとき よんでも、揺すっても、こたえがない。 る態である。それが、二刻以上もの長い時間にわたった。 ゅうべは、さわやかな気色にみえたのに そして、暁まで涸れ果てた涙の底に、人びとは、いまは人為もっくし果て、 も、深ぶかと眠ったらしく思われたのに。 人力も及ばないと知る観念に打ちひしがれ、ただ、神仏の名を がぜん 俄然、三日の午ごろ、急変をきたし、また大熱に陥ち入っ 心のうちに叫んでいた。 のてしまったのだ。例の烈しいふるえをつづけて、夜にはいる やがて、その人びとのはだに、ひしと、夜明けの冷えが迫っ てんてん そも、輾転の苦しみを繰り返した。あらゆる手当も薬もききめはて来、遠い冥途の国で告げるような鶏の声を聞くと、麻鳥は、 図ない 入道のまくらへむかって、両手をつかえ、一礼の後、静かにそ 一一一阿部麻鳥もよびたてられて、さっそく、病間へ伺候したが、 ばへ摺り寄った。 かれにも、神異の力はないただ経験にもとづいて、応急の処『 : 三界図その二 ほのお ひる すす イ 27
官にすえ、驕り栄えてきたろうが』 ほどな衝動だった。 悪いといったら、公卿も山門も、おらたちから見て、 それが、どんな感情と表情をつらぬいて、京中へひろまった しいやつはいない。みな、おのれらの欲の皮と、立身栄華のい か。古典平家物語では、こう活写している。 がみあいた 入道殿だけを、責めるわけにもゆくまい』 あくる二十八日、重病をうけ給へりと聞えしかば、 『いやいや、 いくら山門でも、法皇さまを押しこめたり、わが 京中、六波羅ひしめきあへり。「すは、しつるわ」「さ、見 娘を、宮中に入れて、その皇子を天子さまに立てたりはしてい つる事よ」とそ、ささやきける。 ないそ。藤原氏は、それをやって、四百年も栄えたが、こいっ あ、遠い先祖からのことだから』 つまり、洛中の人びとは、「そら、やったわ」「ざまを見た 『先祖からでも、した罪はおなじだし、長ければながいほど、 ことか」と、みな、快哉をさけんだというのだ。そして、入道 罪は深かろうに』 の病状描写には、次のような文章を用いているのである。 『つべこぺいうな。なにしろ、入道殿の火の病は、天罰だ、仏 身のうちの熱きこと、火を焼くがごとし。臥し給へ けん のたま 罰というもんだ。南都の大仏殿やら、あまたな寺でらを、焼き る所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。ただ宣ふ事 討ちした罰があたったにちがいない』 とては、「あた、あた」とばかりなり。 せんじゅゐ 鏡磨ぎは、痛快がった。一しょになって、「そうだ、そうだ」 まことに、只事とも見え給はず、比叡山より千手ノ井の たた という者もある。けれど、平家一一十年の治世の、それ以前を 水を汲みおろし、石の船に湛へ、それに下りて寒え給へ も、眼に見て来た中年以上の者は、「悪いのは、平家だけで えんさ ば、水おびただしう湧き上って、ほどなく湯にそなりにけ かけひ くろがわ はないそ」という考えらしく、あながち、清盛だけを、怨嗟し る。筧の水をまかすれば、石や鉄などの焼けたるやう てはいなかった。 おのづか ほむら 、水、迸ッて寄りつかず、自ら当る水は、焔となっ 清盛を、悪入道と、単純に思いこみ、飢餓も、貧乏も、みな て燃えければ、黒煙、殿中に充ちみちて、炎うづまいてそ 平家のせいに考えているのは、総じて、若い仲間であった。か 揚りける : れらの年齢では、貴族末期の腐えた世代と、その後の世代との しようねつじ 1 一く 比較がもてなかった。社会が見渡せた時は、すでに平家全盛の なんと凄愴な苦熱の大図絵であろう。焦熱地獄そのものを、 時代だったから、世に思う不平は、すべて平家の悪さに見えて詩とすれば、こういう文字になるであろう。 いっとき いたのは是非もない たが、これほどでは、一瞬の肉体も保てるわけはない。古典 の詩であり、誇張である。 の 古典の筆者は、これでもまだ、入道の大熱苦を歌い足らない 大清盛の大きさともいえよう。ひとたび、かれの重態がったわようー こ、「ー・ー入道の北の方、八条の二位殿の夢に見給ひける みぞう ると、世間は未曾有な関心をよせた。天皇の御不例にもまさることこそおそろしけれ」と、自己の地獄詩を書いている。 おご せいそう
ふらちもの 『ふ、不埒者よ。この腑抜けよ』 基房の乗れる牛車とが、途上で大争いを起こし、多くの科人ま 清盛は、・ とんと、床をふみ鳴らして、突っ立った。 ちゅうぐう で出したが、因を糾せば、親の威光をかさにきたなんじの罪で ちつきょ 『中宮には、この正月、さきの上皇との、あえなきこの世の別 かわ 。なかったか。以後数年、伊勢の片いなかに、蟄居を命じ、 れに会われ、おん嘆きの涙も乾かず、ふかく喪に服しておらるささかは、性根も直「たかと思い、重盛が亡き後は、ひとし いつくし るところではないか。 さるを、その中宮に仕えまつる女房お、入道も慈みをかけてきたものを、かかるおり、役儀の陣 の許へ、忍んでゆく男もおとこ、励へ入れた女もおんな』 座をまぎれ脱け、女房通いにうつつを抜かしおるようでは、も こう、わめいた入道は、ずかと、資盛のそばまで来て、 はや清盛も思い切ったり。 誰ぞ、この男を、わが眼のまえ 『しゃツ。言語道断』 より一ざけろ』 ちょうちょう 扇を振り上げて、孫、資盛の肩を、丁々と打った。 人びとは、とりなすひまも見出せなかった。清盛は、やっ 子にも、孫にも、目のない禅門がと人びとはその手を止めと、落ち着きをもどして、座にかえ「たが、 た。が、次の瞬間、清盛はさらに足をあげて、資盛の浮腰を蹴「常ならばとにかく、まだ喪にある中宮のお側に仕えながら、 男と忍び合うなど、右京大夫の侍従と申す女房も不埒。きよう 資盛は広縁の階から、庭へ落ちた。蹴落されたまま、地に かぎり、女も、建礼門院の御内より追放させい』 ひれ伏した。 と余憤はしずま 0 ても、なお、にがにがしい語気で、門脇殿 『う、失せおれ「。今が、し力に非常の世か、身に知るまで、 へそれをいいつけた。 門に帰るな。 : ああ、見るも、いまいましいやつよ』 五体の老い骨をがたがた鳴らした。そして突然、その顔は、 しわ 子どもがペソをかいたような皺にな 0 た。は「たと、資盛の背 をねめすえ、唇にけいれんを刻みながら、制しきれない余憤を なおも浴びせかけた。 「東国、信濃、紀伊、西国までも、いまし平家にそむく輩が、 時を得たりと、呼びおうて、蜂起している様が、なんじには分 からぬのか。 ・ : もし、なんじの父、小松内府重盛が世にしオ あしげ 右京大夫の侍従は、恋のため、追放された。幾日か後には、 ら、その姿を見て、なんと嘆こう、この入道が足蹴のような生建礼門院の内を出て、泣く泣く、都の人目立たぬ片すみの侘住 発やさしい折檻ではおくまいが 居に、身を移した。 道息がつづかない。肩でいうのである。 資盛は、謹慎しこ。 そのうちに、禅門の御きげんを見 入「思えば、なんじの自堕落は、幼少からのものだ「た。忘れもて、一同からおとりなしを申そうからと、一時、門脇殿が、か せぬ、あれは嘉応二年のことよ。なんじの乗れる牛車と、摂政れの身がらを預か「たかたちである。 っ , ) 0 おばしま じ」らく ふめ きみ 入道発病
「ううむ : : : 」と、見すえるような眼を、いちいち注いだ。たる刻限なのだ。それをなお、こうしていたのは、西八条から 巻れも来ている、かれももれてはいないそのどの顔にも、恩愛「 , ーー出陣を待て」と、今しがた、急使をうけたからである。 のさまざまな思い出がある。うなすき、うなずき、かれのほおに 南都の上洛だけでも、それの備えに、大軍を向けてあるの は、かれも知らないでいる涙がしきりにこばれ散った。 、またまた叡山に動揺がみえ、三井寺と呼応して、山門大衆 橋 が、洛中へなだれ入るかも知れないという予測が西坂本の物見 から、真夜中、告げて来たからだった。 清盛は、この夜、まくらにもついていない 夜半ちかく、暗い霧雨が、降るともなく降ってきた。 しよく 六波羅広場の兵馬は、約三百余騎しか残っていない。大部隊常の法衣だが、下は武装していた。西八条いッばいに、燭を た は、先に、奈良大衆の北上に備え、その方面へ出て行った。 照らしつらね、大庭には、かがり火を焚かせ、中門廊の陣座に 『はてなあ、源三位頼政らの、渡辺党はまだ来ぬか』 あって、刻々の報を聞き、またつぎつぎに、指令を発してい 病み上がりの知盛は、この霧雨に濡れ、悪寒に襲われているた よろい カぶと らしい。ひた兜の下に、青白い顔を埋め、卯の花おどしの鎧姿幼帝安徳の行幸を請うて、お座所を、池大納言頼盛の八条亭 を、青毛の駒において、陣列の間を、往きっ戻りつしながら、 に移し参らせたのも、この夜である。 しげひら 新院高倉にも、同様、御避難を仰いだ 『のう重衡、ちとおかしいではないか』 と、うしろへいった。 所は、五条大納言邦綱の館。 とももり きんだち しげひら そこにも、守護の兵を要する。西八条も、手薄にはできな 知盛は兄、重衡は弟、五つちがいの公達である いうまでもなく、清盛の子たちだ。 『おかしいとは、兄君、何が : : : 』 『三井寺への発向は待て』 『子ノ刻は、すぎておる。しかるに、頼政一族が見えんとは』 と、清盛からの使が、知盛、重衡の陣へ急いだのも、そのた めだった。 『そう申せば、源大夫兼綱も来ておりませぬな』 やから 『老いばれの頼政はともあれ、屈強な渡辺党の輩も、たれひと知盛は気がみじかい。公達中での荒武者でもあった。 ひとむち り、馳せつけておらぬとは心得ぬ。 たれぞあるか、一鞭あ『どうした、近衛河原を見にやった先の桐生六郎は』 か てて、近衛河原の様子を見て来い』 『まだ、馳け戻りませぬ』 かんき 病に剋とうと努めているためか、知盛の声の底には疳気があ『もう一名、たれか行け。那波太郎、見てまいれ』 っこ 0 一騎、また霧雨のやみを、馳けてゆく。 しかし、頼政の遅参を、不審と、すぐ考えたのも、病人のと すると、馳けちがいに、陣へ飛びこんできた武者がある。知 盛が、 がった感覚であったかもしれない。 本来なら、この三百余騎も、もう三井寺攻めに、発向してい 『六郎か』 きりゆ、フ
『おん大将のお通りを、てまえどもの家で、お待ち遊ばしてい 『どうして来たそ、ただひとりか』 ごきんたち る御公達がおられまする』 。し』 『ょに、おん大将を、道にて、待ちうけている者とな』 『あの、和田の峠も、塩尻の難所も』 ちちはんかく 『きのうの黄昏ごろ、宿をかせと仰っしやって、いずこからお『、、 しえ、きのうまでは、養父範覚の家来を二十人ほどは召し 越しやら、そのまま、お泊り遊ばしこ オ : : : それはそれは、きらつれておりました、けれど、殿にお会い申せば、無用な人数、 やかな、御公達でいらっしゃいまする』 ここからあとへ帰しまする』 『はてなあ ? 』 『あきれた女子だ、そなたというおなごは』 おとめ 部将たちは、首をかしげあった。 『これくらいなこと、伊那の乙女は、なんともしてはおりませ びと するともう、里長の家の子を案内として、つじのかどへ姿をん。まして、木曾殿の想われ人といわれる身は』 現わし、義仲の方を見て、にこにこ笑「ている美しい騎馬の人『さても、大言を吐くわ。まあよい ここまで来ては、ぜひも があった。 ない。義仲と馬を並べてゆけ』 きんぜん 「あっ、女め』 葵ノ前は、欣然として、馬列の中へ、自分もはいった。 きようちゅう 義仲の声にも、郎党たちは驚いオカ 、女と聞いたのは、なお 峡中の百姓は、この一対の美将を拝して、何か、この世の 意外だった。 人ではないように思った。 あなたの人を見ーー・こなたの人の顔を仰ぎーー将士は、ちょ 葵ノ前は、陣中、外出のおりはもちろん、めったに、女装し っと、あっけにとられた顔したが、とたんに、義仲は、馬の上ていたことはない で、全身をゆすって、笑い出した。 木曾入りの日も、武者装いであった。けれど、うす化粧はし 『しようのない女め。葵にちがいないぞ、あれは葵だ。義仲のているらしい。見まもれば、さすが、匂わしいまゆや唇元であ 先を越して、いつのまにか、かかる所へ来ておるとは』 り、まばゆいばかりな顔ばせであった。 それは、困「たようなことばでもないし、とがめている語気進むほどに、木祖山、経ヶ岳など、山と山との峡はせばみ、 でもない。 その下の渓流のすがたも、あらゆる天工の奇をえがきながら、 ほんほん 驚嘆の声だった。かくまで、自分のそばが恋しいのかと、よ奔々と、鳴ってゆく。 こわわ ろこびに当惑したといってよい声音だった。 『おお。駒ヶ岳そ。 : : : 葵、葵。あれ見よ、おれの里の駒ヶ岳 や 列を脱けて、義仲は、葵のそばへ、馬を走らせ、 を』 ず『葵か』 『いつ見てもよいあの姿、なっかしい山、幼な心が思い出され つ ) 0 見と、 る山、葵も、駒は好きな山でございました』 君『殿』 『あ、そうか。そなたは、駒の南の国に生まれ、おれは駒の北 あとは、眸 がわで育ったわけよな。駒のふもとへ帰って来ると、おれは、 オ。が、答えている。 おなご おも かーれ、、 いつつい み、と 365
くらんどりようりん さいませ』 う老臣がいった。蔵人の領林を管理したことがあるので、そう しや、女心では、そうもあろう、だが、巴よ』名のっている善良な老人だっこ。 きそびと 巴は、ふと、 の義仲は、その夜も、杯を手にしていた。木曾人は、みな酒が オオカに、大酔する癖だった。 界つよい。義仲は、飲むと、しここ、 いわだけ 『木曾の諺にもこうあるそ。 岩茸と運はあぶない所にあ と、蔵人を、よんで、必要以上に、声をひくめた。 によしよう るーーーと』 『そちの眼にも、女性と見えたかや。いま、殿と駒を並べて行 挈、れから、またした った華やかな将は』 ともえごぜ くら′一し 『巴御前。すこしは、危い思いもしよう。そなたも、生涯、猿『はい : やはり馬上の鞍腰が、男とは、どこか違うており うてな おばしま や鹿ばかり見て終わりたくもあるまい。花の台、月の高欄、都ますれば』 には、楽しみが多いぞ、末楽しみに、待つがいし』 『大儀じゃが : わらわに代って、山下ノ館まで、御あいさ きゅう : そしての』 巴の杞憂があたって、突然、父の中三殿にあてて、上洛つに参って給も。 くだしぶみ あるべしと、下文があったのは、すぐ、その年の暮だった。 と、巴は、やや恥じらった。いいにくそうであったが、つい しかし、良人の義仲は、すでに、宮原八幡で勢そろいをあ きようちゅう ちくまがわ 『たしかめて来て給もるまいか。たしかに、女武者か、それと げ、千余の兵馬をひきいて、峡中から、千曲川平原へと撃っ て出ていた。 もただの将か』 『おやすいことで御座りまする』 行くところ、敵なしであり、木曾軍の士気は、破竹の勢いだ った。巴への便りも、吉報に次ぐ吉報ばかりといっていし 寝醒蔵人は、ほどなく、義仲の安着を祝う使となって、従者 しようぜん 年明けて、案じていた上洛の父は、まもなく、悄然とふるさを伴い、かたい雪道を、馬に乗って山下へ向かって行った。 とへ帰って来た。 しかし、巴もまだ、都での結果が、どうだったのか、父のロ から聞いていない 久しぶりで、かの女はきよう、一子義高と手をたずさ たちもん えて、わが家の館門のほとりから、帰郷した良人の将士の列 を、遠くで見た。よそながら、その木曾帰りを、迎えたのだっ ちゅうさんどの : はて、殿と駒を並べて、あでやかな若武者がまいりまし義仲のきようの帰郷を、中三殿もどんなに待ちかねていたこ とカ たのう。まるで女武者のような』 婿ではあるが、今では、一族の主君と仰ぐその人を たちもん もりやくねざめのくらんど 館門の内へもどって行きながら、義高の傅役、寝醒蔵人とい待っために、山下の館は門の雪を掃き、廊も床も、鏡のごとく しか ことわ早、 うん さる わざめのくらんど ごんのかみへんじよう 権守返上 0 たち 374
って、よく戦い申して御座りまする』 『どうしても、また一と戦か』 巻『斬り死にしたか、言連は』 と、暴風模様を気づかうように、ため息まじりのささやきで からと の『いや、搦め捕られて、六波羅へひかれて参りましたようで』埋まっていた 橋『六波羅勢の中に、兼綱はいたか、見えなんだか』 以仁王の脱走、源氏への令旨など、かれらはもう知ってい 断『出羽判官と駒をならべ、ひとっ軍勢の中にお見えなされましる。 た由』 また、この数日間 けあげ そう聞くと、頼政は、 輿や牛車や、あるときは、鎧武者の隊伍もともに、蹴上を越 : : ふ、ふ、ふ。 いや兼綱も、やりおるの、・やりおるえ、三井寺と六波羅とのあいだに、 往来がしきりなのは、別当 の。ならば、ますよし』 時忠の使者や、関白基通の使が、入道相国の命をうけて、 あごおきなひげ と、暗やみの中で、ひとり、顎の翁髯を吹きうごかして笑っ ( 宮を、寺より出し奉るように ) かよ たようであった。 と、政治的な折衝に通うものと、時局の相までを、庶民の眼 あんど 『唱よ、それ聞いて、いささか安堵いたしたわえ。眼のまえは、じっと、心配そうに見ていた の兼綱をすら、見破れぬとあれば、よも頼政を、宮方の同心と 二十日、二十一日と、日がたつに従い、都色は、険悪を は、覚りもしておるまい』 増し、いやな風声まで加えて来た。 『六波羅の眼が、こなたへとは、気振りにも、まだうかがわれ特に、二十一日は、武者の足つきが早くなり、牛車の牛は、 しり ひる ませぬ』 例外なくムチで尻をたたかれていた。午まえには、三井寺法師 そう 1 一う 『大儀であった。眠るまもあるまいが、少しなと眠っておけ の一群と、僧綱らしき面々が、緊張しきった顔をそろえて、六 わしも一睡しよう あすはあすの風を見てのこと』 波羅を訪い、それが大津へ引き揚げたころ、突如、 よし 『では、御寝なされませ』 『奈良の興福寺大衆と、春日の神人たちが、数千の僧兵をひき かど・ヘ 『怠りはあるまいが、朝夕、門辺の掃除、常のようにな』 、都へ押して来るそうな』 しもべ 『下部どもは、何も存じませぬ。お気づかいなく』 という風説が立った。まるで砂塵のように、それはちまたへ こうして、この家には、翌十六日、十七日、十八日と、それひろがった。 からの毎日にも、なんらの変化は見られなかった。老三位の起『こんどこそ、ただはすむまい』 き臥しにも、表面、日ごろとちがうところはない 市の棚は、ごった返した。細民町では、子どもの悲鳴や、 よろいむしゃ 一歩、都心へ出ると、おびただしい鎧武者の影に、人は女、老人などの癇だかい声が立ち始める命あっての物種よ かて 眼をみはらずにおられまい と、喚きあう声ごえなのだ。さりとて、糧も持たねば、荷も負 つじつじに吹き寄せられている市人の群れは、しきりな武者えるだけ負わなければ、どうして山野で生きつづけられよう の往来や、牛車、早馬などを、横目に見ながら、 それにも血迷う人びとだった。 わめ たな あれもよう かん 、じん すがた