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検索対象: 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5
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1. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

じようろう つばねつばね 局々に住む上﨟たちは、四十四人も数えられた。陣屋陣屋う、何もお案じあそばすには及びませぬ』 には、諸大将の妻女や姫も一つにいる。また、それらに仕える によしよう めのわらわ 小女房やら女童など加えると、ここには女性だけでも百何十人 力がいたであろう。かの女たちは朝にタに「御一門に勝たせ給 え」「一日も早く、主上を、もとの都へ還させ給え」と、神や ななた 仏へ祈るほかには、薙刀を持つわざも、一筋の矢を射るすべも 知らない人たちなのである。 だから、兵力の急減は、わが身の肉がソゲ落ちるような さくらノ局が来てからは、かの女が持っ局名のそれのよう 思いであったが、はからずも数日の後には、そのさびしさを埋 に、屋島一帯の陣営は、ばっと明るくなった。 めてなお余りあるはどな歓びが、ここの屋島を訪れた。 しょ - 一う はるつげどり それは 春告鳥の一声にも似ていた。春の曙光がどこからか、映しこ 紀州田辺から、田辺の堪増の寵姫さくらノ局が、来たことでばれて来たようでもある。 あった。同じ船には、朱鼻の伴トと、奥州の吉次も乗ってい もう大丈大。田辺がお味方へ加わるからには』 まゆ と、内裏に仕える小女房の黛までが、それからは、なんとな かの女は、あだかも、屋島の平家に回生の吉報をもたらしてく晴ればれしかった。 来た女軍使のようであった。その装いも、ここのたれよりも綺そして、さくらノ局その人の、濃い化粧やら装いの麗しさに ともびと しりえ 羅美やかだった。伴ト、吉次のふたりを、供人のごとく後に連も気づいて、急に、女房たちも、忘れていた都振りや都の香を くちびる れ、さてまず、二位ノ尼以下一門の人びとに会うと、その唇思い出したものか、自分たちの身化粧にも、新たな張と競いを もち出して、おのおのが、自身の美をまた取り戻そうとしたり にあでやかな誇りを見せて、こう告げた。 していた。 たびたびのおん使にもかかわらず、わが夫、堪増どのに かも そうした心理は、あながち、女房たちの中だけに醸された気 は、お味方に参ろうとは、なぜか、たやすく仰せ出しになりませ んでした。そこには、熊野三山のむずかしさやら、いろいろ深配ではない。 : が、およろこ現われ方こそべつだが、内府宗盛のきげんも、ここ明らかに い事情もあるにはあったのでございまする。 - : つはく 身 び給わりませ。ついに過ぐる日、田辺ノ宮の神前にて、紅白のちがって来ている。 だいりどの かんど ぬ 『どうも、大理殿 ( 二位ノ尼の実弟、清盛の義弟、大納言時忠 ) は、 鶏試合が行われ、神問いの末、田辺は平家へお味方すべきこと ら まず、その由を御一門へお告げ申せと、 ややもすれば、尼公へ弱気なことをおすすめ申して困る。 ょに極まりました。 かどわきどの いちど門脇殿からでも、よういってもらいたいものだの。意見 神わらわが、ひと足先に参りました。やがて、堪増どの御自身 これへ御加勢に見えましよう。もあらば、軍議の席で申し、蔭へまわって、尼公のお心をみだす も、数十艘の水軍をひきい、 らび とり たんぞうちょうき あけはなばんばく つま 神ならぬ身 つばねな 195

2. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

い」と、声 けさの感激を、船から船へ「おうウいつ」「おうー 『旗を立てよ、幟も高くなびかせよ。ーーー遅れた船も、やが にこめて、呼び交わした。 て、それを目あてに集まろうに』 船冽が、ふところ深い湾内へ進み入ると、波も小きざみにな 義経は、後ろに見える船影を数えていた。 とり、急に、他国の山野の、ひそとした未知の地上が、眼の前に 帆柱をへシ折られた船、潮除けの驫いを吹き破られた船、・ ひら 展けつっ迫っていた。 れもこれも、無事なのはない。 いたわ かじ早、 ふなやぐら 浅瀬なりとて、馬の脚立ち 気がついてみれば、かれ自身の船も、船櫓の影は失せ、舵座『まず、馬どもを宥り降ろせ。 かかじ よく見てひけよ。見えぬ磯石に馬の蹄を怪我さすな』 は砕かれ、わずかに代え舵を入れて、からくも、漂ってきたこ 岸近くなるやいな、われがちになりやすい船や人の気負いを とが分かる。 察して、義経はしきりにこなたで叫んだ。 『船頭、あれは阿波国の、どの辺りか』 みよし みよし そこは、東へ突き出している岬のすそであった。馬匹、食 舳へ、戻りながら、義経は、舳の真向こうに見える陸影をさ 糧、武具のすべてを下ろして、人びとは装いを締め直した。ま して、そこにいる熊野水夫のひとりにたずねた。 た、乗りすてた船数は、隼人助の手にあずけ、「ーー鳴門をこ 『さあ ? 阿波の何地になりましようか ? 』 えて、瀬戸内へ漕ぎまわせ。志度の辺りに再会せん」と、 『お汝らでも、知らぬのか』 うばたま 『烏羽玉の荒海を、しかも、明け方ぢかくまでは、無我夢中でつけた。 ところへ、上陸直後、付近へ放った物見の兵が、 ございましたので』 『小勢なれど、一陣の敵が、紅旗をひるがえし、かなたよりこ 『むりもない』 れへ寄せて来ます』 と、微笑しながら と、西をさして、告げた。 『後ろに続く船影は、おおむね数がそろうたか』 『およそは、さもあらんずること』 と、艫の一群を振り向いていった。たえず、それのみが、な と義経は、あわてる容子もない。伊勢三郎義盛にむかって、 おかれの気懸りの一つらしい あしだめ 『馬にはよい脚試しぞ。五十騎ほどっれて、一当て当ててみ 『御安堵なされませ』 、ナど かしらだ よ。 なるべくは、頭立ちたる男一名、手づかみにし、生捕 と、かなたから弁慶の声で、 って来い。道案内に用いてくれよう』 『ここの御船を加えて五艘、ほかに鵜殿が手下の馬船、荷船な っ・ ) 0 と、 どの二十幾艘、ことごとく、後ろに見えてまいりました』 あ 稽「ありがたや、つつがないか。みな、無事にこれへ着いていた馬ならしーーーと聞いて、われもわれもと、義盛につづいて行 った。しかし、強烈な戦意をいだく敵勢ではなかったらしい ・カ』 ようよ - っ 死燿々と、朝の陽に燃える大波のうねりの中に、船はみな帆に喚きも、矢うなりも、揚がらず、やがて三郎義盛が、敵将らし〃 むかで い四十がらみの男を囲んで、ひきあげて来た。 代えて、両舷から百足のような櫓脚を伸ばしていた。そして、 ごあんど りよう・けん のば . り いすち おめ ひづめ

3. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

はおよばぬ』 る。「田辺は味方」とさえ聞ナま、、 レ。しきさつなどは、麦でゆっ くり聞けばよい。義経は、かれらをすぐ、四天王寺へ返して、 『え。堪増の書中には、数日のまに、鵜殿党の参加あらんと、 『まず身を休め、ひとまず眠り、宵のころ、ながらの別所へ罷予言しておりますか』 るがよし』 「予言ではない、確言しておる。ーー察するに田辺方はまだ内 じっ 輪の統一にも手間どるらしい。それゆえ、誓書の実をしめすた と、そこの弁慶と伊勢三郎へ、ったえさせた。 ゅうちょう それは一つの思いやりであったが、義経にはこうした悠長にめ、堪増より使を派して、鵜殿の水軍がこれへ来る水路に不安 なき約束を与えたものと思われる』 似た一面もある。 しつぶうじんらい ひょどり越えなどで示したかれの疾風迅雷の行動から、とか 『やれやれ、それにて、それがしのお使の役目も : かちき 、ー、よからず く人は義経を短兵急な勝気一途と見ているが、日ごろのかれ『そちのことゆえ、才略でしたのではあるましカ は、鎌倉へも院へも、部下へたいしてさえ、気をつかい過ぎるも、その功は、一石二鳥と申すもの』 ほど、細心で控え目な方であった。 ふつうならば、弁慶や『たまたま、愚者の一途な行為が、奇功を奏し、おしかりもな 伊勢三郎が、しかに疲労していようと、猶予はしまいに、かれ いのみか、ありがたいおことば、まこと安堵つかまつりまし は「夜、罷れ」と、まずいたわったりしたのである。もっと も、先に帰っていた鎌田正近から、田辺の事情はすでに聞き取『叔父の行家殿は、いわゆる智者だが、智者は逆に、相手の智 っていた。吉報とさえ分かれば、あらましはもうかれに判断さ に、もてあそばれ、愚直な弁慶の方がかえって、堪増にも、頼 れていたのかもしれない。 もしき者と見えたのであろう。とはいえ、それに慢じて、粗暴 弁慶と伊勢三郎は、やがてタ刻、ながらの別所に来て、夜更をよいことと思い違いいたすなよ、弁慶』 『はっ . くるまで、義経の室にいた。堪増法印の書状やら誓書が、その と、弁慶は、あらためて、両手をついた。やさしくいわれた さい直接、義経の手へ渡されたことはいうまでもない。 『深くおわびいたしまする。殿のおさしずも仰がず、田辺へ立だけに、よけいこたえた態であった。 ち越え、自分一存の振る舞いに及びしこと、罪は罪として、 かよ、つとも、おしかりくだされ士しょ , っ』 弁慶は、その後で、あやまった。ーー義経から、余りに、ね 二月半ばに近いある朝のこと。 ぎらわれたり、よろこばれたために、かえって、自己の罪が、 朝がすみの立ちこめた海上に、大小五十余隻の熊野船の一船 かえりみられた。 隊が、忽然と、影を見せた。やがて、海の猛者たちをひきつれ 集 『いや。堪増の書面には、自身の参陣はおくれるが、鵜殿党た大将らしい者が、ながらの浜へ上陸して来て、 うどのはやとのすけ 船の水軍は、ほどなく、この渡辺へ見えようと書いてある。まず『これは、判官の君にも御存じの、鵜殿隼人助です。以下、伴 なか は、大手柄よ。弁慶、そちの功罪は、半ばしよう。詫び入るに うたる面々は、日置、安宅、九鬼、向井なんどの浦うらの強 まか こっぜん ひき せきちょう あたかくき あんど まん ともの つわ わ 9

4. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

やしまの巻 それほど、社域は古い。 『あいや、蔵人の行家殿にてわせられますか』 うしろの丘陵やら四囲の巨木には、それを思わせるに充分な 別当の侍と、奉行の神官が、すぐかれの姿をみとめて、こお ものがある。 、つ、しんぎんに、 そしてまた、ここを熊野三所権現とも呼ぶわけは、白河天皇『 , ーーお待ち申しておりました。いざ、あれなる床几へ』 あくしゃ のころ、山路はるかな那智、新宮、本宮の三山参識を、ここ一 と、東側の幄舎へみちびいた。 かんじよう あわまっ カ所ですむように、それそれの神を勧請し、田辺ノ宮に併せ祀中央の拝殿から左右へ、細長く、西の幅舎と東の幄舎とが別 ったものだからであった。 れていた。いつばいな人である。 『さすが堪増の下の勢力も思わるる。なんと、おびただしい人行家の床几は、東の幄舎の、前列のまん中におかれていた。 波だろう』 東を源氏方、西を平家方と、仮りに分けてあるのだろうか。 きようもく あくしゃ まんまく 行家は、輿の上から驚目していた。 幄舎のわきの幔幕も、こちら側は白く、向こう側は紅幕だっ たたかとり 別当の一令のもとに、馳せ集ま「て行く影は何千人とも知れた。幕の蔭からは闘う鵁たちの、ククク、クググと何かを予感 なかった。輿は人びとの流れの中を流されてゆく感じだった。 するらしいなき声があわれであった。 せん くすこずえ うすず 叡山の山門僉議に似たような壮観でもある。ただ、そことここ 大きな楠の梢に、陽が舂きかけている。どこかでは砂上の陽 とねり との違いは、法師よりも神人 ( 神職 ) の方が多いことだ 0 た。武時謔を見つめる舎人もあるのであろう。時刻は、近づいてきた 士や女人も入り交じっており、群集の色彩は祭りのようであっ りつすい いつのまにか、広庭のまわりは、立錐の余地もなく、楼門寄 『や、待て。その前へ、輿を止めてくれい』 りの高いところにまで、人の顔が充満していた。そこの桟敷に 新しい建札が目についた は女人の姿も見られた。 たまがき 玉垣の前である。 『ははあ、あれだな、さくらノ局とは』 行家は、輿を降り、その告文を、読みくだした。 行家の眼が見つけたのは、桟敷のうちでも最もよい位置にあ せん 別当ノ宣 る華やかな一群だった。 とある。 さくらノ局らしい一女性は、その中でも本尊仏のような光を とりあ なんびと あた きよう、神前の鶏合わせを行う以上は、何人たりと、神も 0 て辺りを払 0 ていた。行家でさえその艶姿の威光には見と 意の決定にたいし、異存不平あるまじきこと、という誓いの公れたほどである。けれど、かの女の眸は、行家など、眼のチリ 示であった。 ともしていないのか、じっと、正面に向けられたままうごきも 楼門の内庭は広い。 正面はるかに神殿、拝殿の灯が微かだっ れいじん すがむしろさかきば た。伶人 ( 奏楽者 ) の座が見える。菅筵や楙葉や白木の祭壇な が、ふと行家は、しきりに自分へそそがれて来るべつな ど、ここのみは、もう、しいんとしていた。 眸をめに受けた。西側の幄舎のまん前にいる肥満した大きな男 たてふだ め

5. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

増とは、もう話がついたわけだろうに』 「行家との密談を細心にうかがわせる。そして、もし堪増その かたん 巻「いやいや。否やの返答はこれからだ。日限は約したが、その者に、源氏、傾く気ぶりが見えたら、かねて局が思うているこ〃 間に、源氏へ加担の支度をという下心かもしれぬ。さもなくとを、即座にやらせるのだ』 ば、年来、平家一門も同様なかれ、即答できぬはずはない』 「局が、何を策しているのか』 し によしよう さすがだな : ・ : 』と、吉次は薄ら笑いの下に『じつをいえ や 『というても女性のこと、裏切りして起っわけではないが、別 ば、おれの見抜いたところも同じだ。もし鼻どのが、堪増の手当の配下にはなお、平家縁故の者もたくさんにおる』 に乗るなら、こいつあ鼻をあかされそうだがと』 「ちがいない。平家によって、二十年来、栄えてきた田辺の別 しゃれ 『よせ。洒落どころの場合ではない。夕刻、蟹丸に持たせてや当だ。きのうきようこそ、屋島の旗色をあやぶんでいるが、か った新宮十郎行家から堪増へあてた密書、あれを、見たろう っては、平家と縁を結ぶことが、出世のつるといわれたもの カ』 だ。それやあ、堪増の支配下にも、ずいぶん平家の枝葉はいる なわ 「うム。源氏方でも、堪増を味方へ引くには、ひとすじ繩では ことだろ、つ』 ゆかじと見て、策士の行家を向けて来たものとみえる。智者と 「それゆえ、さくらノ局が、堪増の忘恩にあいそをつかして、 びつこ 聞こえのあるあの跛行を』 屋島へ帰るといい出せば、それら平家思いの者どもも、こそっ 「なアに、それには驚かぬが、何せい行家というやつは、熊野て、局の御供して、われらも屋島へ参るといい出すにちがいな ゆかり 新宮を中心に、古くから多くの由縁を持っておる。堪増にとっ い。いや、そうさわぎ出すように、あらかじめ局に伏線を布か ては、そこが痛い所だし、こっちにとっても、油断のならぬ相せておく』 手なのだ』 『なるほど』 ちょう くちおど 「なるはど。堪増が七日の猶予を乞うたのは、その間に行家と 『だがそれも、男の寵に誇る妾のロ脅しと、堪増に甘く見られ 会って、源氏の脈をひいてみるつもりだな』 たのでは何もならぬ。 ・ : そこで、おぬしへの頼みとなるわけ びつこどの 『それだ、おれが案じるところも。ーー・世評はよくない跛行殿 事 / カ』 だが、頼朝、義経の叔父ではあるし、堪増とても、軽がるしく 「して、この吉次へ、何をしろというのか』 は、あしらえまい。また行家の口からならば、戦後の恩賞など 『ほかでもない。おぬしの手持の船を、何艘なりと田辺の沖に も、充分、巧いことがいえるにちがいない。やつは近ごろ、院そろえて、さくらノ局以下、平家へ同心の人数を、屋島から迎 へも深く取り入って、後白河のお気に入りだともいわれておえ取りに来たかの如く、さも真しやかに、見せてもらえばそれ る』 でいいのだ』 「そこで、こっちは、どういう手を打とうというのか』 『造作もないこと。それだけのことでよいのか』 たの ふなかず きき 『恃みは、さくらノ〕河たが』 『したが、いざとなったら、すぐ船数を沖に並べて見せねば効 あいしよう め 『ウム、堪増の愛妾か。あの局をどう使って』 目もない。それと同時に、この伴トも、堪増の首すじをとらえ ま・一と えだは

6. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

あやうがけ あで がまた、まれには、突然、艶な女性達の笑い声や無邪気蔭に、花危げな崖の梅や山桜の木々の姿にその運命を似せて、 そのう こだま こんな自然の中にも、なお都恋しげな園生の様を守りあってい な高声が、どこかで谺しないこともない。 そして、そこには必ず、明けて八歳になられる幼い主上 ( 安るのであった。 徳帝 ) の喜々と跳ねまわっているおすがたが見られた。 屋島内裏、または、屋島ノ御所とよばれる主上のお住居は、 月の初め、二月七日には、一門の男女がみな会して、麓 しいていえ ちょっと、どこからも分からない場所にある。 むれ ば、屋島の東側にあたる山腹で、その下は、ふところ深い湾にの牟礼の六万寺で、涙ながらの大法要が営まれた。 とろ しんべき なってい、瀞のような深碧の入江をへだて、すぐ真向こうの対一ノ谷の一周忌である。 やぐり その二月七日だった。 岸の山は、八栗半島の五剣山である。 のみちょうな 内裏は、かって阿波民部が、急造営したもので、鑿や手斧を平家の人びとにとって、この日を、どうして、忘れることが できょ , つか 鐘が告げる。鐘が呼ぶ。 しわゆる黒木造りの、ザッとしたもので、 用いた所は少なく、、 ことばでは「玉座」「雲井の上」と仰いでいるが、事実は、荒幼いみかどまでを、御輿に乗せまいらせ、つづく輿には、お ん母の建礼門院、二位ノ尼も見えた。そのほか、屋島にたてこ 壁御所というほかはない。 むれ けれど、人の住居は、住む人によって、おのずからその風趣もる数千の男女すべて、牟礼六万寺に集まって、庭を理めた。 を持つものでもある。 こうねん むね おおどのよるみどのちゅうでん 胸の思いを、それそれの胸にだけ持って、順々に、香を拈 主上の昼の大殿、夜の御殿、中殿、お学問所などの棟々は、 じ、掌を合わせては、代ってゆく。そこはただ、人の涙の海で さすがすがすがと、鳥の音も澄むばかり、つねに清掃されてい あった。 る。 ひょどり越え、一ノ谷で戦死した幾多の公達や侍大将の位牌 - 一れもり - しげひら せいりようでんみ みひさし けんれいもんいん おん母の建礼門院の起居している御廂の坪には、清涼殿の御は、そこの壇に仰がれたが、中将重衡の名と、維盛の名は見え かわみずうつ 溝水を模したかとおもわれる流れがせんかんと耳を洗ってい - 一れもり でん 二位ノ尼の一殿も、遠くはない。異郷の心ばそさ、山維盛は、その後、高野とか熊野とかに、逃げ隠れたとさたさ 中のさびしさに「離れじものを」と、母子おたがいに、はだをれており、重衡の中将は、生捕られて、鎌倉へ送られたと聞こ 帯 えているほか ここには生死のほどもよく分かっていないか 寄せ合うている人そのもののようにもそれはながめられる。 かしずてんじ 世 そのほか、ここには、みかどに侍く典侍やら、あまたな女らであった。 つばね 房、小女房たちもなん十人となくいるのである。それらの局『 : : : 亡き入道殿のよい御気性もうけて、多くの和子のうちで . し つばね や局も、おちこちの木の間をつづりあって、風雅と見れば、都のも、一ばい、頼もしげなお人であったものを』 きさら と、二位の尼は、そでを濡らして、 皇居にはない雅趣であった。そして、まだ春浅い如月の屋島の 学 ) 0 せいそう 、けど わこ ふもと 193

7. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『うるさいことはもうかなわん。それに、この春先は、また固時の坑夫部の民の末だろうか、素朴な民が、まぶしげな顔を皺 あたた しつ めて住んでいる。 巻疾の腰のすじが時おり病まれる。ちと、温まらねば』 とな の と、表面それの治療を称えて、田辺から南へ二里ほどの瀬一尸 そのかれらには想像も及ばない生活を下に持つ大屋根と広い しらら みみ、き いでゆ ノ岬ーーーそこの牟婁ノ出湯へ行くといい出した。 墻が、白良ノをのぞむ一端にあった。田辺の堪増がおりおり ゅうせん 町の城郭でもあり政庁でもあり、また信仰の象徴でもある田に来る湯ノ御所であり、園内には、自然の湧泉に屋根をかけた や 辺ノ宮の社殿と、かれの居館とは、広い緑の中に、ひとっ構造湯屋が幾棟もあって、その棟ごとの建物と建物とは、また幾つ の建築群みたいにくるまれていた。 もの橋廊下で結ばれているという。 帯状に縫っている緑の中の長い道を、今、天蓋のようなキラ はて、まだこんな陽ざしか。日も長うなったものだな』 まろうど キラ光る物をかこんだ人馬の列が流れて来る。それは宝珠し錦そこの一間で、うたた寝していた客人は、ふと、そのよく肥 とで飾られた二つの輿である。先駆の騎馬を露払いとし、たくえた体を、重たげにもたげて、 さんな法師武者や童や雑色にまもられて、そこの巨大な門をなんと、退屈なことだろう。屋島とは大きな違いだ。ああ、 出、やがて町中へ向かって行った。 ちと湯づかれ気味』 輿の一つは、もちろん、堪増のもので、もひとつの、ことに と、両方の腕を、によっきと伸ばして、大きなあくびを一つ 美しい女輿には、眉目艶やかな若い女房が乗せられていた。 うらわ 堪増には十幾人もの妾があった。固疾に悩むどころか、な数日前、近くの浦曲へ船を寄せて、そっとここへ泊っていた たいく あけはなばんまく お、好色家として恥じない盛んな体躯の持ち主のように見え屋島の使、朱鼻の伴ドだった。 ・ - よしよう る。町の眼は、かれが外出するごとに、、 しつも違った女性の姿屋島船に乗ってきた平家方の使者は一行十七、八名の人数 ほうへ を輿の簾を透かして見た。けれどかれの威光は衆口を沈黙さで、表面は熊野の社へ、吉例によって、新年の奉幣と貢をなす せ、町の埃を鎮めて通った。さながら小王国の法皇に似てい ためであったが、これが時局に無関係な使であろうはずはな しかし、一行は、田辺の別当の館へはいり、奉幣の式もお え、二日ほど前、すでに屋島へ帰っていた。 牟婁ノ出湯は、田辺の港を抱く南の岬の端にあった。潮の満朱鼻は、田辺へも行かず、毎日、ここの湯につかり、酒をの ち干く浜や村の野水にまで不断な湯けむりが見られるほどで、 み、何かを待っていたのである。何かとは、すでに一行から堪 湯ヶ崎ともよばれている。 増へ申し入れてある平家方の要望にたいする回答だったのはい みゆき 斉明天皇とか、文武帝の時代から、すでに行幸もあった所とうまでもない。 か。催馬楽の歌にもある白良ノ浜の真砂の美しさよ、、、 。ししよう「蟹丸、蟹丸』 かなやま もない。北には、中古のころ、銀が出たという鉛山があり、当鼻は、次の間を差しのぞいて、 むろ いでゆ むろ みめあで しらら てんがい せと かき いくむね むね そぼく みつ しわ 120

8. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

かとりじんぐうぶしゃ りようのすけ 香取神宮の奉射祭りと聞き、陵助などと一しょに、馬をつ すると、義経の蔭に、他の直臣とともに控えていた那須大八 ばんどう 巻郎のひとみが、はっとしたように、 こっちを見た。いや、義経らねて、見に行ったのは、たしか、坂東の野も黄に染まってい の も気づき、思い出そうと努めるらしく、しきりに、かれの姿へた菜の花の盛りのころ。 たの ・一との おんぞうし それは、愉しかったが、多々羅の小殿とは、義朝の御曹司九 眼をそそいでいた。 し ついぶ 郎なりと知れて、追捕の兵が、香取へ追っかけて来たのであ やが、ついに、思い出せなか「たとみえ、義経の方から、 りようのすけ 『かなたの末座へ、今、おくれてはいって来た者は、梶原どのる。町のつじを囲まれ、宿も危しとあって、陵助ひとりをつ れたきりで、九郎は大利根の岸まで逃げた。幸にも、対岸へ渡 の家臣か、鎌倉どのの直参か、名はなんと申す者そ』 たず ため る一艘の船があった。人の船とも知らず飛び乗った。 と、訊ねた。 に、からくも、虎口をのがれえたのである。 すると、その者は、遠くの末座から、両手をつかえて、 だま、船には、ひとりの美童と、うら若い武人が乗って 「時を失うて、つい、申しおくれておりました。殿よりおたず ねを蒙ってから、こう名乗るのは、満座の中、ことに面映ゆい かとり しもつけのくにからャやまじゅう 若い武人は、九郎主従を、とがめもせず、かえって、香取の 心地ですが、それがしは、下野国、烏山の住、那須余一宗高と みき 申し、鎌倉どのじきじきのお召しにこたえ、梶原どのの手に加神酒を酌んで、九郎の前途を、暗に、祝福してくれた れに臨んで、よそながら姓名を問えば、こう答えた。 えられて参った者でござりまする』 ( ーー一族は弓の家ともいわれております。従って、わたくし ぶしゃ たちも幼少より弓好きで、香取ノ宮の奉射には年々参詣を欠い ああそうだったか、あの時の若者かと、眸はいっていたが、 しもつけのくに たこともありません。父は下野国烏山に住む那須太郎資高と申 ことばもなかった。 そういう余一宗高の姿に、義経の胸には、十年前のある一瞬し、わたくしは、その子、余一宗高。またこれなるは弟の大八 郎宗重です。いっか、御縁もあらば、再びお目にかかれましょ が卒然と思い出されていたのである。かれの遠い回顧の中に う。会い難ききようの御縁をえたのも、香取ノ宮のおひき合わ は、東国の平野にみなぎる大利根の流れが満々とえがかれてい せ、お別れしても、忘れることではございませぬ ) そのときの余一のことば。そして、心からな、船中の宥りな さすらい ど、漂泊の子九郎の境遇には、永く、忘れえない感銘だった。 それから年経て 鞍馬を脱けて、みちのくへ行く途中、九郎義経は、その十六 しもうみ一ただら 歳から十七までの間を、下総の多々羅の牧に潜んで、草の実党九郎が、兄頼朝の旗挙げを聞き、奥州平泉から、富士川の陣 ちばたわはるふかすのりようのすけ の若い仲間、千葉胤春や深栖陵助などとともに、まったくのへ、馳せ下る途中で、大八郎宗重だけは、 自然児となりきって、牧の馬たちと、遊び跳ねていた時代があ ( ぜひ、お馬わきのひとりに ) る。 と、途中でかれの供に加わった。 学 ) 0 まんまん とき こ 0

9. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

とする血相も、そこの兵船から、わらわらと跳び上がって走など、いずれも、東北のなまりをもった、そして血気さかん ちト - とっ な、若者ばかりだった。 って来る猪突ぶりも、おそろしく勇敢な者たちだった。 ななた だからこの一戦は、ーー一戦ともいえないほどなものだったが 楯を持った五、六兵。長柄、薙刀を打ち振ってくる数名、強 なぐ 物すごい力闘が相互のあいだにまき起こされ、撲る、組 弓をつがえたまま、ひた走りに向かって来るただ一人。ーーロ - 一う む、蹴る、突く、真ッ向を割る、上になり下になるなど、まる ぐちに源氏をののしって、つむじのように、荒れまわった。 ころ もちろん、それだけではない。後からあとから、同様な猛兵で真っ黒な小旋風が地を転がってゆくようだった。 が、幾組もつづいて来る。 『さても、すさまじき敵』 義経のいる辺りにまで、そこの雪崩れが打ってきた。義経『こは見ものぞ』 と、源氏の諸将は、見物していた。 眼の前の必死な力闘を〃見物〃するというのは、おかしげに 『油断すな』 と、構えて、 聞こえるが、もちろん、味方が危くなれば、どっと加勢に懸る 『敵に正しい用意はない。ただ逸り気の猪武者そ。腕強なる気でいるのはいうまでもない。 それは、自己のみならず、他人の武功を重んじる風から来て わが若党ども、馳け合わせて、あれ蹴散らせ』 と、 ししつけ いるものだろう。つまり「手出しはすな」と、いうことなの かれはわざと「若党ども」と命じたのは、盲突して来た敵のだ ろう びようぶ みほのや 男どもも、大将格以下の侍にすぎないと見たからであろう。事そのうちに、水保谷十郎の馬が、屏風返しに、どうっとたお 実、こんな時でもなければ、それらの無名な侍組は、めったにれた。 射られたか、突かれたにちがいない。当然、馬上の十郎も、 君前で晴れの名乗りをあげる機会はない。 もんどり打った。 『ござんなれ、平家の雑魚ども』 すると、それへ向かって、平家の楯の蔭から、飛鳥のよ と、一番に馳け出した若者は、 ろう むさしのくにひき ななた みほのや うに、薙刀をかざして跳び懸って行った大武者がいる。「 卩ー武蔵国比企の住人、水保谷十郎』 ま、はっと思ったことだった。 と、おめきながら、太刀をかざして、敵の楯二、三枚を馬で十郎、討たれたり」とたれもカ 衛蹴ちらした。 が、十郎は、跳ね起きざま、太刀で相手の薙刀を払った。あ 兵つづいて、聞こえる声ごえには、 ざやかなその手際に、かれの味方は、わあっとかなたではやし - 一うずけのくに にぶのろう ) 0 七『上野国の住人、丹生四郎』 悪『信濃の住人、木曾中次』 しかし、平家の武者は、よほど豪の者らしい。十郎に息つく 『水保谷十郎が弟四郎。おなじく藤七』 ひまも与えないのだ。のみならず大薙刀の下に、十郎は太刀を たて はや なだ いのしし たて うでづよ み ま

10. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

余ーの憂鬱 おおとね り、憎げなる老武者めが、これ射ぬかと、なお身振りして喚いれて、坂東の大河、大利根の流れをこえたあの日のことを ておるそ。 , ・ーー敵になぶられつつ、よそ眼に過ごす慣いは東国だった。 ぶしやまっ 由来、那須兄弟は、年々の香取ノ宮の奉射祭りには、競射を 武者のあいだにはないこと』 しもつけのくに かねた参拝を欠かしたことがなく、故郷の下野国から兄弟そろ と、叱咤し、 って出かけてゆき、東国中の弓自慢が集まる晴れの競射でも、 『弓矢の武門、たとえ難事たるにせよ、弓矢にかけてのこと 。「ーー那須は弓の家」とさえ、 に、怯みをみせて、なんの武者ぞ。 , ーー源氏の軍勢こそは、屋名誉を取り損じたことはない 島の戦いに勝ったれど、扇の的には、後ろを見せたりと聞こえ当時すでに、あの地方ではいわれていたものだった。 : 名乗り出でしか、大八』 ては、名折れなれ。ひいては、鎌倉殿の武者所には、人もなし と、世にあなすられん。ーー平治以来、東国の野に伏して、一一過去の遠い記憶にも、ふと、くるまれながら、義経はニコと うなずいた。「よくそ」という満足と同時に「ーー大八ならば」 十年の鍛練は、なんのためにしてぞ』 と、期待をかけたにもちがいない。 と、わざとののしった。 すると、後ろの方で、だれかが馬をとび降りた。ざっと、草ところが、かれのことばもないうち、またもひとりの武者 ずり 大八郎のそばへ馳け寄って来、ともに手をつかえて、 摺の音が、その者の体をつつみ、その姿は小走りに、義経の駒 『その儀は、この余一宗高にお命じください。弟大八の功を奪 わきへ来て、ひざまずいた。 うやに似ましようが、きのうきようの戦場にて、弟の矢すじも 『人を措いて、おこがましゅうは存じますが、その仰せつけ、 ゅんぜい 見るところ、弓勢こそ人に劣らぬものはあれ、なお、心もとな それがしへ、おくだし給わりませ。いたしまする。きっと、 はじう いものがありまする。ーー波上の小舟、風にすらゆるるあの扇 たしてみせまする』 まと の的、しかも、海へ馬を乗り入れて射ねばなりませぬ。なん 『・ : ・ : ゃ。大八郎か』 やぢから 広言を吐くようですが、幼きより、いささか、弓はで、矢力のみにて射中てられましよう。ーーー余一が仕ります、 ふるさと 習うてまいりましたし、故郷では、弓の那須よ、弓の家よ、と何とそ、それがしへ』 かば いわるる中に、生い育って来た身でもありまする。射ても、射と、弟を庇う真情は内に隠して、ただその自信のみを、眸に かと・ 損じても、一代の身の晴れごと。もし、仕損じたら、香取の神誇って、義経へいった。 なさ にも見離されたるわが弓の道、生きて、ここの汀に戻りますま し』 射損じれば、源氏の。そして、その身も、生き辱さらして と、一命を賭している容子が、まゆにも、観てとれた。 生きてはいられない。 それは、那須大八郎だった。 はや だからこそ、いつもは功に逸り立っ東国武者も、押し黙「た かれを前に、義経はすぐ思い出していた。 十年前。この大八郎と、兄の余一とが乗っていた舟に助けらきりで、名乗り出る者もなかったのである。ーー余一すらも、 ひる しった わめ ばんどう