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検索対象: 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5
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1. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『うるさいことはもうかなわん。それに、この春先は、また固時の坑夫部の民の末だろうか、素朴な民が、まぶしげな顔を皺 あたた しつ めて住んでいる。 巻疾の腰のすじが時おり病まれる。ちと、温まらねば』 とな の と、表面それの治療を称えて、田辺から南へ二里ほどの瀬一尸 そのかれらには想像も及ばない生活を下に持つ大屋根と広い しらら みみ、き いでゆ ノ岬ーーーそこの牟婁ノ出湯へ行くといい出した。 墻が、白良ノをのぞむ一端にあった。田辺の堪増がおりおり ゅうせん 町の城郭でもあり政庁でもあり、また信仰の象徴でもある田に来る湯ノ御所であり、園内には、自然の湧泉に屋根をかけた や 辺ノ宮の社殿と、かれの居館とは、広い緑の中に、ひとっ構造湯屋が幾棟もあって、その棟ごとの建物と建物とは、また幾つ の建築群みたいにくるまれていた。 もの橋廊下で結ばれているという。 帯状に縫っている緑の中の長い道を、今、天蓋のようなキラ はて、まだこんな陽ざしか。日も長うなったものだな』 まろうど キラ光る物をかこんだ人馬の列が流れて来る。それは宝珠し錦そこの一間で、うたた寝していた客人は、ふと、そのよく肥 とで飾られた二つの輿である。先駆の騎馬を露払いとし、たくえた体を、重たげにもたげて、 さんな法師武者や童や雑色にまもられて、そこの巨大な門をなんと、退屈なことだろう。屋島とは大きな違いだ。ああ、 出、やがて町中へ向かって行った。 ちと湯づかれ気味』 輿の一つは、もちろん、堪増のもので、もひとつの、ことに と、両方の腕を、によっきと伸ばして、大きなあくびを一つ 美しい女輿には、眉目艶やかな若い女房が乗せられていた。 うらわ 堪増には十幾人もの妾があった。固疾に悩むどころか、な数日前、近くの浦曲へ船を寄せて、そっとここへ泊っていた たいく あけはなばんまく お、好色家として恥じない盛んな体躯の持ち主のように見え屋島の使、朱鼻の伴ドだった。 ・ - よしよう る。町の眼は、かれが外出するごとに、、 しつも違った女性の姿屋島船に乗ってきた平家方の使者は一行十七、八名の人数 ほうへ を輿の簾を透かして見た。けれどかれの威光は衆口を沈黙さで、表面は熊野の社へ、吉例によって、新年の奉幣と貢をなす せ、町の埃を鎮めて通った。さながら小王国の法皇に似てい ためであったが、これが時局に無関係な使であろうはずはな しかし、一行は、田辺の別当の館へはいり、奉幣の式もお え、二日ほど前、すでに屋島へ帰っていた。 牟婁ノ出湯は、田辺の港を抱く南の岬の端にあった。潮の満朱鼻は、田辺へも行かず、毎日、ここの湯につかり、酒をの ち干く浜や村の野水にまで不断な湯けむりが見られるほどで、 み、何かを待っていたのである。何かとは、すでに一行から堪 湯ヶ崎ともよばれている。 増へ申し入れてある平家方の要望にたいする回答だったのはい みゆき 斉明天皇とか、文武帝の時代から、すでに行幸もあった所とうまでもない。 か。催馬楽の歌にもある白良ノ浜の真砂の美しさよ、、、 。ししよう「蟹丸、蟹丸』 かなやま もない。北には、中古のころ、銀が出たという鉛山があり、当鼻は、次の間を差しのぞいて、 むろ いでゆ むろ みめあで しらら てんがい せと かき いくむね むね そぼく みつ しわ 120

2. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

くちまね と、その場で、一書をしたためた。 と、半ばロ真似口調で、経盛はいった。その白いまゆが笑う 巻厳島の神主、安芸守景弘へあてての書状であろう。 ように微風にそよいだ。 せん の 心きいた武者数名をえらんで、 『屋島以来、ご病気と聞こえ、一船のうちに引きこもったま はやぶね じごぜん 巣 『ーー速舟に乗り、すぐ先へ立て。そして、景弘父子の地御前ま、とんとこのところお顔も見せられぬ。それゆえ、いちど見 舞うて進ぜたいのじゃが』 浮の館へこれを届けよ』 と、 いいつけた。 そして、教経へも、 『幸、能登どのの小舟にて、大理どのの船際まで、わしを送っ 『船出を』 て給わらぬか』 と、、つながし、 『おやすいことです』 『抜かりもあるまいが、陸地へ近づくに従い、万一のおそれも そうはいっても、教経は、気のすすまない容子であった。 あること。心して、総勢をみちびき参られよ』 が、経盛は「 たのむ」と、ばかり先へ小舟へ乗ってい と、くどく、つこ。、 しオしや、くどいように教経の耳へは聞こえた現存している清盛の実弟では、門脇殿よりうえの人であ たのである り、いわば一門の長老である。教経では、どうしようもない そこな きうつ もう、教経の意志でもなし、といって、戦意を損うほどなこ 『あの大理どののことだ。 , 御病気召されても、気鬱などである とでもない。ただ、ぜひもなく、御意まかせ、といった顔つきはずはない。腹でもおこわしめされたかな ? 』 に見える。そしてやがてかれも、諸将のあとから座を立って、 『さ。この船路、この戦さの中、親しく伺っても見ませんが、 ふな・ヘり わが船へ帰るため、舷の梯子へ小舟をさしまねいた。 武者どもをして、御不自由ないようには申しつけておきまし と、後ろへ寄り添ってきた修理大夫経盛が、 『能登どの』 『すると、お手勢の船だの』 と、かれの耳もとへ、 『さればで』 だいり 『きようの座にも、大理どの ( 平大納言時忠 ) のお姿が見えなん まもなく、一艘の大型な武者船の腹へ、その小舟は横着けに だの。屋島このかたのことだ。いかがなされたものであろ。 された。 : ・御子息、讃岐中将 ( 時実 ) どのも同様に』 『やれ、かたじけない』 と、あたりへ聞こえぬように訊ねた。 礼をいって、経盛は、それへ移った。 まゆいろ 教経は、ちょっと、眉色をためらわせた。 か、さりげな かれの後ろ姿を、そこの船上へ見送ってから、教経は、自身 し微笑のもとに。 の部下らしい舷の武者と、なお何事かささやいていたが、 『いや、お案じなされますな。ご無事でおられますゆえ』 『くれぐれ、油断すな。わけてまた、厳島へ近づくことでもあ 『それや、御無事ではおられようがの : : : 』 れば』 たず よい ふなべり ふなわ 3

3. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

か間の悪い思いがあったのではあるまいか でござる。いわんや、平侍にもあらぬ大将軍においてはだ。 巻梶原の通る姿を見て、陣門の将士たちが、 しかるに、摂津の渡辺ノ津においては : けんか がぜん の『ーーー喧嘩すぎての棒ちぎれ、か』 俄然、かれはいい出した。 巣などと皮肉をささやいていたことは事実である。 腹にためていたものを、一ペんに吐き出すように、義経が自 浮梶原自身も、戦さ過ぎての遅れ走せを、内心、恥じてはいる分を待たずに先駆したことを、真 0 向からなじり出したのだ「 のだろう。しかし俗にいう″てれかくし〃が、かれのばあい は、逆にいかっげな虚勢となって「 この身は、鎌倉どのの 名代。軍を監るべく派せられた軍奉行だ、なんで一陣二陣の先 馳けを争おうや」と充分、反撥している風が、まゆの翳からも梶原の苦情にも、一理ないわけでもない ごひさっ ありありしていた。 「かねて、鎌倉どのよりじきじきの御飛札にて、御内示もあり 、幕舎の内で、 しゆえ、それに従うて船手をそろえ、渡辺ノ津へ参って、それ 『ゃあ、九郎の殿』 がしも合戦せんと用意を急ぎおったのじゃ。さればこそ、わし と、義経と相対したときのかれよ、 。いかにも磊落そうな相好の麾下、那須余一宗高を先へ送って、くれぐれ力をともにせ をくずして見せ、 ん、屋島へも一つに渡らんとお耳へ達しおいたるに、、、 二別以来、おつつがも無うて、まずは祝着のいたり』 ば、この梶原を待たず、軍奉行たるそれがしに益りもなく、屋 しよう、 と、床几から床几へ向かって、一応の礼儀は、決して崩して島攻めを急がれしか』 0 よ、つこ。 . しナ . ・・刀子′ と、いうのである 義経もまた、他意なく、 たしかに、 ここまでは、軍監として、かれのいい分にも根拠 『そこもとにも、中国の諸地方を転々と経営のあげく、こたびがあり、いう筋も通っている。 はまた、ここへまでの参陣、御苦労ではある』 しかし、自分の語気に、燃やされてくると、かれはかれ独得 き・ヘんさい と、微笑で迎え、お互い久しきにわたる戦陣の労をねぎらい な詭弁と猜疑を駆使して、答える相手には、唇を閉じさせてし 合った。 ま , つきらいがある だが、やがて相互の立場から、話題が屋島攻め以前のいきさ 『察するに つにさかのばると、梶原は、 と、かれは、相手の青白む容子を、意地わるく見すえなが 、く、おきて 『お若いゆえ、九郎の殿には、軍の掟、まだ細かくは、御存じら、 ないかも知れん。 力、後日もあることじゃ、聞こし召され『この梶原に、赤恥をかかせんための屋島攻めであったのだろ そもそも、人を出し抜いて、おのれ抜け馳けの功を企むこ う。さもなくば、あのような強風と荒海を見つつ、わずかな船 いのちし とは、鎌倉掟としては、もっとも厳しく戒められておるところと小勢にて押し渡るなど、よほどな命知らずか、軍知らずな匹 おきて らいらく そうごう 0 ひらざむらい 298

4. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『お力を貸し給われば、など、源氏勢に負けましようか。それ 巻を、鼻どのからも、よう聞いてあげてくださいませ』 の 。ししカ正直、あの男だけは、ニガ手なのだ。入道 殿 ( 清盛 ) が御在世のころからして、いつもお側にいた男。わし の古いことばの端まで覚えおってな』 や 『ともあれ、あちらでも、しかとしたお答えを賜わらぬうえは 帰るまい覚悟で参っているに違いありませぬ。御ゆるりと、お あか ーん ! く 湯浴みのうえで、くだけたお話なとなされては』 朱い鼻をよけいあかくして、ドは汗をふきふき浜の湯屋か 『そうだな。酒でも飲ませて、そなたがじようずにとり繕うてら上がって来た。 くれい。きげんを損じてもまたまずい。くれぐれ、そこをさり蟹丸から、さくらノ局の頼まれ物を渡されて、 『ふム ? 』 堪増は、長い廊を渡って、遠くの湯屋にかくれたかれの姿と、上わ紙を破り、ちょっと中の文字を見ると、 、女童や召使の影が、あわただしげに動き、湯屋の棟木から『蟹丸、そちも今のうちに、一浴びして来い』 濃い湯けむりが新たに立った。 と、かれを追った。 さくらノ局は、そこまでを見とどけてから、つと、べつな口 どっかりとすわって、中の書面を読み始めた。 を出て、二つの橋廊下を小走りに越えた。朱鼻の滞在している それは、堪増へ来た飛脚の文で、差し出し人は、先ごろから むね 一棟だった。そっと内をうかがうと、朱鼻は見えず、侍童の蟹新宮へ帰っているといううわさの、新宮十郎行家の筆であっ 丸だけが、ばつねんとひとりすわっていた。 『そなたの、おあるじは ? 』 全文、細字で埋められた密書で、読み終わるのに、かなりな たず と、かの女が小声で訊ねると、『浜の湯つばへ』と、蟹丸は時を要した。 答えた。 『お明りを持ってまいりました』 ・ : 』と、うなずいてから、また思案して『では、おあ人の気配がし、灯影と小侍の影が縒れ合って、壁の蔭を進ん るじが見えたら、これをお手渡しして給も。きっと、すぐお見で来た。 せ申すのじゃそ』 『もう暮れて来たか、いや御苦労、その辺でよい』 「かしこまりました』 人が去ると、かれは、握りつぶしていた行家の書面を、灯に と、蟹丸は、一通の封書を預かって、うやうやしくふところかざして、灰にしかけたが、急に何か思いついたように止めて に納めた。 しまった。 間をおいて。 ふたたび、法師姿の侍が、廊の端にぬかず むな ひ き綱 づな 12 イ

5. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

げんそく から、たえず舷側の潮流をのそきおろしていた。舷側に鳴る潮 源軍が、串崎にいたのは、わずか半夜余りでしかない 同夜。 , ーー夜半すぎには、もう、そこの北磯には、一つの人の早さは、まことに、ただの海づらではない。他の瀬戸や鳴門 しおあし の潮脚とは全くちがう。 影も残さなかった。 いかり すべて、船上の人に返って、碇を上げ、纜を解き、そし義経は、船所五郎のほか、串崎の武者三人を、そばにおいて うなど いた。そして、ここの海門の潮ぐせや、潮の満ち干の時刻など て、義経の指揮下に、総勢の船は、五段五船隊に、組みわかれ た。水軍も陸兵とおなじような陣形ーーー陣備えを必要としたこを熱心に訊きとっていた これが、その日ーー三月二十三日午ごろまでのーーー源氏方の とはいうまでもあるまい かくて、小早舟の端までが、その性能にしたがって、それぞうごきであった。 れ、主将のひきいる船隊の部署につき、総隻数およぞ六百、秩 序美といってもいい陣形をひいて、串崎の北の蔭から、岬のは なを出離れて行った。 もうどう ただちに、艨艟の影は、長門寄りの陸影に添って、海峡の東 うみと の入口へかかっていた。そして、いわゆる〃海ノ門〃のーー壇 ノ浦から早鞆の奥をのそきかけた時、いっか、東天は大きな朝 の日輪を打ち出していた。 平家は早くから備えもしていたし、近づく最後の日にも、今 『オオ』 まばゅげに、義経は、振り向いた。そして、かたわらの船所は、ほそを固めていた。 いや、平家といっては、いい過ぎになる。平家の内にも、人 五良に びとの思いには、なお、まちまちなものが潜んでいた。合い言 『あの二ツの島は ? 』 とな 葉のように「最後の日そ」と称え合っても、それの解釈とそれ と、島の名をたずねた。 かんじゅじま まんじゅじま に処する考えは、一様ではないのである。 二つを満珠島、一つを干珠島と、呼んでおります。里人は、 その中で、真の覚悟とは、知盛の腹に、黙って、つつまれて また、奥津とも : いみのみや 『昨夜、忌宮の神官の申したのは、あの島のことか。おもしろあるものといってよい とりで もろて 盛 この彦島を、半歳にわたって、不落の砦と築いてきた権中納 、片手に満珠、片手に干珠、二つを双手に持った方こそ、こ 言知盛も、今は、彦島を、 知この海門を制して勝つ者そ』 なぞ 『ああ、この死地』 ことばの意味は、謎めいていて、たれにもよく解らなかっ と、ながめずにいられなかった。 黄た。けれど、義経自身には、胸にあることにちがいないかれ みかわのかみのりより は、左右の陸影へ、眼を怠らないばかりでなく、船やぐらの欄先には、三河守範頼の東国勢が、ここを措いて、北九州へ押 うなど はやとも ともづな こう もんと・も一もり 黄門知盛 ひる お 353

6. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

げろう 三人きりで』 『何してそ、そこな下﨟は』 巻『おう、御子も、そう思し召すか』 と、しかるよ、フこ、つこ。 の女院は、ほおずりして、 『はつ。つい、櫓をはずしましたようで』 巣 『ほんに、そうして世を送れるものなら、この母と乳人のふた 『はて、おろかないい抜けを。 日ごろ、小舟をあやつりな いそすなど りが、磯に漁り、山に薪木を拾「ても、なんばう倖せな暮らしれた者が、なんで、め「たに手なれた櫓をはずそうそ。 : : ・・先 であろうものを』 ほどから見ておるに、そちは、舟を遣るさえうわの空で、何や と、しみじみいった。そしてふと、 ら、こなたのお話へのみ、聞き耳たてておる様子』 ほうでん 『おお、御子よ、小舟はちょうど、かなたの宝殿から真ん前の 『め、めっそうもないことを』 ゆだん 海に来ています。ここから厳島の神に、三人して、おねがい申『、、 ししえ。汕断のならぬ男よと、先ほどから見ていたのじゃ。 かげひろ しあげましよう。たとえ、どんな伏屋の貧しい暮らしでもよい物腰とて、ただ者とは思われぬ。景弘どのの雑兵とは、、 しつわ ゆえ、血なまぐさい修羅の世は、一日も早く、この地上から無りであろうがの』 くし給えと』 『はっ かたち 女院と局が、掌を合わせて、容をしてみせると、さきの一 『そも何者ぞ、そちは』 列座の祈願のときは、なんといっても、なさらなかったのに、 すぐ小さい掌を合わせて、おん母のする通り黙拝していた。 こう、たたみかけられ、半首の男は、ついに艫板のうえに、 げろう ところが、櫓をあやっッていた半首の下﨟は、さっきから女平伏してしまった。 そっ つばね しお 院とみかどの小声なおはなしを、聞かぬ振りして、聞き耳たて そして、帥ノ局からとがめられたことを、むしろよい機とす ていたのだが、ふと、みかどが小さい御手を合わしたお姿に恍るかのように、一そう、その姿に、つつしみを見せて、 惚と見とれてしまい、そのため、われを忘れて、 『下﨟の身にて、貴尊へ近づき参らせたるうえ、素姓をもいっ わり奉り、重々の罪、お詫び仕りまする。 さは申せ、害意 と、櫓ペソを漕ぎはすした。当然、遙拝していた人の無我をいだく者ではございませぬ。じっ申しあぐれば、それがし を、驚かせた。 は、お味方の侍大将のひとり、阿波民部重能の弟、桜間ノ介能 『や、や。粗相いたしまいた。おゆるしを。どうか平におゆる遠でござりまする』 しを』 と、名乗った。 はつぶり うなづら 半首の男は、あわてて下へ片ひざを落した。そして、謝りぬ しばし、舟は潮のままに、まかされてい、もう海面もはの暗 あし かった。その宵明りの中に、大鳥居の四脚が近ぢかとあった。 つばね 帥ノ局は、さすが、時忠の妻はどなものはある。細かな眼 を、きっと、そそいで、 たき はつぶり はつぶり ともいた 326

7. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

ノ抱えて、どこへともなく連れ去った。おそらく綱倉か船房のたのか ? 」と、いぶからずにいられないのだ。 巻一つへでも、一時閉じこめたのではあるまいか。 しかしかれは何も、そんな使命以外の目撃などを、主君義経 げんそく の 堪増は大またにすぐこっちへ、引っ返していた。そして舷側の前に、復命しようという気では毛頭ない 亠用 のロへあわてて立った。 おりふし総大将義経の使が、外の たた、かれとして、懐疑にたえないだけだった。 小舟から梯を登って来ていたのである。それを迎えるためであ が、考えてみると。 壇 っ一 ) 0 戦陣もまた、人間同士の集合であるにすぎない人間の集ま かっとう 使の武者は、那須大八郎であった。 るところ、表裏をつつみ、必ず何か、葛藤をもっている。 出動にさいして、義経からの指令書を、堪増へじきじき、手当然、合戦のうえでは、敵味方、大きく二分されざるをえな 渡しに来たのである。またことばのうえでも、田辺水軍の目ざ いが、味方内にも、平常から、さまざまな内輪の闘争はつつま ましい働きを祈るという義経の言づてをつたえて、使者舟は、 れていた。 忙しげに、すぐ漕ぎ去った。 たとえば、主君義経の周囲にも。 また、大八郎自身の身ぢかにさえ、無くはない そのなまなましい実例を、かれはかれの兄、那須余一宗高に 見た。梶原の麾下をきらって、屋島では義経の手に属して先陣 していた余一は、例の扇の的を射たりしたことから、「目ざま 楯の表裏 しき弓取りよ」と、一躍その名をとどろかせた。 けれどその後ーー・・その襷れに報われたものは、何であった 義経の旗艦から第一の貝は鳴ったが、それは、準備の布令で梶原の激怒と、軍罰の適用だった。またあれほど、余一の弓 かっ、 - 、 ある。出動には、まだ少し間があった。依然として、波間は暗を、やんやと喝采したそのおりの諸将も、以後は、余一の名誉 への嫉みも手伝ってか、余一の、よの字も口にする者はない 使者の那須大八郎は、その大将軍船へさして、漕ぎもどってほとんどきのうの人のごとく、みな忘れ顔ではないか が、こんな非常なばあいだけに、たった今、田辺水ひとりその後も余一を庇うかに見える人は、義経であった。 おおやけ 軍の主船の上でふと触れた奇異な思いがいつまでもぬぐい去れ梶原が「ーー鎌倉表へ申して、公にせん」というのをなだめ きんしん ずにいた。 て、なお自分の配下におき、梶原のてまえ、謹廩を命じ、表面 かれは、そこで、ただならぬ女の叫びを耳にしたし、堪増法に出さないだけの処置で済ましてあるのだった。 印が黒髪を乱した女を横抱きに、あわてて船房へ走りこんだ影もっとも、そのことがなくても、余一は、きようの晴れの戦 も見たような心地がする。「 しったい、あれは何事であっ いには、しよせん、蔭の役にまわされて、矢前の働きに立つの せわ たて ひょ、つり・ ねた むく イ 3 イ

8. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

いやいや、ちと、むくつけなことばだが、何も静どのを、御忠信と有綱とが、蔭になって、どう、ことの運びをつけたの というて、決して、世のであろうか。 正室に迎えるというのではなし : 静と磯ノ前司との間は、もちろん母子のことである。係累も 常の妾とか側室とかいうお気持で招くわけでもさらさらない さ、そこのところをなんと申したらよいのかなあ。のない身上なので、これは、静の望みにまかせられたにちがいな 、つ市い信旧』 あれから五日ほど後には、静母子はもう白河にいなかった。 と、有綱は、自分のぶッきら棒な語意の補足を、連れの顔へ じようどの そして人目ひそかに移って行った先は、むかし小六条殿が 眼で求めた。 あと あった址の小さな一亭だった。 『さよう。そこをお考えくださらぬように』と、忠信も ぞうしょまんがん おふみぐら そこには以前、千種文庫という御書倉もあって、蔵書万巻と 「申さば、おふた方のきれいな恋、その恋を、われらが見かね しつかい いわれていたが、悉皆、兵火に焼けてしまい、広い庭園のあと て、取り持って上げたく思うのでござる。ゅめ、殿のもてあそ ふみのや に、名残りばかりな " 文之舎 , の一部が残っているだけだっ びに、おむすめ御をくれなどと申すのではありません』 もったい 『勿体ないお心もち、よう分かりましたが』 『ここも、わが殿の住むお館の内なのです。六条堀川のお住居 「なお、つつみなく申してしまうが、じつはわが殿の御正室に ふみのや は、鎌倉どののお声がかりで近く輿入あそばす御方がある。そは、南三町、東三丁、文之舎の池も木々も、かなたの館と庭っ れも、わきまえてのうえで、静どのを、この両名へおまかせ願づきなので』 や、殿のお心として、決して静母子が、ここに落ち着いた日、忠信はこう説明して、 いたいのです。こう申す以上、い ちょうど 『かならず、御不自由はおかけいたしませぬ。調度の品じな 静どのを御不幸にさせるお気づかいはない』 忠信の方がまだいくらか有綱よりは、話すこともこまやかでや、召使の者なども、やがて有綱がほどよく計らいましようか あった。「老母さえ承諾あれば、あとは自分らで、よいようにら』 ぜんじ っ・ ) 0 と、 運ぶが」と、説くのである。しかし母の前司は、「とにかく、 しもや あくる日は、エ匠たちが来て、湯殿、化粧の部屋、下屋など 静とも相談のうえで」と、返辞をにごしているばかりだった。 『いや、きようは突然のこと、ぜひもなかろう。ではまた、あの建増しにかかった。召使たちもいっき、亭の部屋部屋の簾や きちょうか・ヘしろ 几帳や壁代なども改められて、静の姿そのものまで、こよなき すあらためて参る。御承知をみぬうちは、三日でも五日でも、 幸福の人に見えた。 鼓通うて参る』 じっさい、かの女は今、自分の朝夕を、夢ではないかと疑っ しいのこして、ふたりは一応帰った。 ている。 ら そして、わが居間とさだめた部屋の縁から、よく池水のかなめ たを、うつつない眸でながめていた。 その後。 - 一しいれ たくみ

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『いや。それは、さし控えました。旧主のおん身に万一の禍とも、蚊うなりだけで、どこにもお姿が見えないではございませ なってはたいへんです。ただ、よそながら狩野介どのの家の周ぬか、何やら、どきっとしてしもうて : : : 』 『重衡が池へ身でも投げたかと思うたのじゃな。はははは、そ りは、なんど、歩いたかしれません。そして、町のうわさで、 なたに会わぬうちなれば知らぬこと。なんでわれから一夜の命 あなたというお方が、おそばにいてくださることも知りまし : それはそうと、いつになく、きようは帰 千手どの、あなたを通して、お願いしたい儀があるのですでもちぢめよう。 りが早かったではないか』 カ』 『ええ、なんなりと仰っしやってくださいませ。重衡さまのお『ええ、梶原様には、もう、鎌倉にはおられませぬそうな』 『ほ。景時が』 ためにさえなることならば』 『あ、もし : : : 。輿をお出になるには及びませぬ。さきほどの『再度、西国への御先発を命ぜられたとかで、留守の御家臣か ・一しかき 郎党や輿舁たちが、森の外の居酒屋から、こちらの方を見張っら、以後は七日目毎の出頭も止めてよいと、いい渡されて、戻 りました』 ています。そのまま、輿の内においでください』 『そうか。それは重衡にもありがたいことだ。そなたのいない うっせみ 日は、何も手につかず、空蝿に似たようなわが身だが、これか らは』 やっと西日が薄れかけた。 かやりた 重衡は、みずから蚊遣を焚き、亭の縁の角へ、円座を持ち出『一日もおそばを去らずにおられまする。一日とても』 『ふたりの一日は、人の月日の一年にもあたろう。のう、千 して、タ風を待った。 七日目に一度のことだが、千手のいない日のなんたる空しさ手。その一日一日を、あだには暮らすまい。月の光も、ていね いに身に味わおう』 だろう。すでに死の座にあるも同様な生命に、こんな恋の花が 『うれしゅうございます。本望です。花の命は短くても』 結ばれるとは皮肉である。自分は死に花ともしようが、若木の はちす 池の蓮にタ風が立ちそめ、水は紅花を溶いたようであった。 かの女はどうなるのか。 欄に倚って、ばんやり、白い綿虫のむらがりを、宙に見すえふたりは、しばらく、黙りあった。この一刻も粗末にすま、 と、かみしめているかのように、、いと心をよせ合っていた。 ていると、やがて帰って来た千手が、 『 : : : 殿』と、千手はふと醒め顔に返って『密と、お耳に入れ 『ま、こんな所においででしたか』 日 たいことがあるのですが、ここでもよろしゅ、つ′ ) き、いましよ、つ と、すぐかれのそばへ来てすわった。 ーカ』 あの夜以前のふたりとは、なれなれしさも、どこか、自然に 『池の中の亭、たれも、おるまいが』 ちがっている。 の それでも、気懸りらしく、ふたりは亭の内や外を見まわし 輿『おう、千手か。何やら息ぜわしいような』 『でも、ここへ帰って来るなり、あちらのお居間をのそいてた えんざ ひそ

10. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

も、なっかしい声を聞くものかな』 。いかにせし ? ) ( 余一ま、 と、義経も、もう宵からなので、したたかに酔っていたが、 と訊くと、 ( 兄は、父も老体なるうえ、とかく家中の向背も定まらす、隣臉をとじて、飲みほした。 そして、大八郎へむかい、 国との紛争も絶えず、残念ながらまだ、烏山の城を空けるわけ かとりぶしやごえんむな 『こよいは、兄と語り明かせ。あす、あらためて、また義経の にまいりませぬ。が、いっかは、香取の奉射の御縁を空しゅう しよう力い さん 陣幕へまいれ』 せず、御麾下に参じて、生涯を、彼の君とともにしたいとは、 と、楯の座から立ち上がった。 常づね申しておりまする ) もう、そこらの篝も消えていた。大八郎は、兄を誘って、浜 と、大八郎の答えだった。 爾来、その大八郎は、鎌倉の九郎殿山から、京、一ノ谷の合の方へ歩み出した。 砂丘にすわりこんで、ふたりはひざを抱えた。おばろな海に 戦まで、九郎のそばを離れることなく仕えてきた。 が、都にあっては、つい、東国の消息も、はるけき風の便りは波音もない。会わなかった十年の歳月と、その間のできごと しかも、「会っている」 としか聞こえず、余一宗高の消息は、弟の大八郎にさえ、そのは、何から話していいやら分からない。 という実感だけでふたりは充ち足りている思いだった。兄と弟 後は、杳として絶えがちに過ぎて来たのである。 とは、そんなものかもしれなかった。 ながらの浜に、月も傾いて、やがて宴も果て、諸将は、 ちりぢりに、おのおのの寝室へ帰り始めた。 『余一、ここへ』 しお 『なあ弟、おまえは、倖せだろう。倖せとは思わないか』 義経は、その機に、余一をそばへ、さしまねいた。 『なぜですか』 そして、杯を与え、みずから瓶子を取って、 しゅ かとりみき 『むかし、大利根の流れの上では、お汝の手で、香取の神酒を『判官殿のおそばにいる。おなじ仕えるなら、よいお主がよ し』 注いでもらった。こよいは、義経が酌んで返す。一別以来、こ 『そうです。そのことは、常づね、働きがいがあると思うてお うして会えたのも、お互いに生きておればぞ。われらのうえ ります。が、兄上はなぜ、梶原どのの手勢に』 、香取の神のおいつくしみもあったにちがいない。まずは、 『仰せつけなれば、ぜひもない。初めは、鎌倉表の武者所へ出 めでたい再会、飲みほして、義経に返せ』 かばどの 弟 仕を命ぜられていたが、蒲殿 ( 範頼 ) が御出陣のみぎり、にわ と、なみなみ注いだ 兄 かに、梶原どのの軍に組み入れられ、心ならずも、西国へ下っ 押しいただいて、 の て行った。心に染まぬ大将の下にあるせいか、さしたる働きも 『まこと、十年の味がします』 すおうながと 須 せで、周防、長門と歴戦し、糧食の輸送などに当「ていたとこ 那余一が、懐紙に載せて、杯を返すと、 『そのおりの、お汝の親切、今も忘れてはおらぬ。はからずろ、急に、梶原どのの命で、この渡辺へ船をまわして行けとの こと まぶた