千手 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5
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1. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

ふみづっ 『千手、密かにとは、何事ぞ』 へと、頼まれました。何やら文包みのようでございますが』 巻『きようの帰りみちで、以前、お館の御家来であった友時とい 千手はそれを、そでの裏から取り出して、重衡の前におい のうお方にお目にかかりました』 手『えつ、友時に あの召次の友時が、この鎌倉に来ておる『親しく、お目にかかりたいのは、やまやまですが、万一、仕 のか』 損じたら、殿の禍、自分もまた、よそながらお守り申しあげる 千 ふみづと こともできなくなる 重衡は、びつくりした。 仔細は、文苞の内にあれば、それを 何か、そんな予感が日ごろもしないではなかったが、そう聞御覧くださいとのことでした。 そして、これから先も、お かき くと、かれは、自分のせいのように、ぎよっとした。 りおりの秘事は、墻の外より、ここのお庭の内へ、投げ文に 小役人ではあるが、官にある友時の身分だの、生命の危険まて、お知らせするとも申していました』 でが、とっさに、気づかわれたのである。 『挈、、つ・か : あの友時がのう、友時がのう』 ふと、顔をくもらせたのを見、千手は、ためらったが、 と、重衡は、しきりな感慨をくり返して、いつまでも、文包 その友時からきよう聞いたままを、ともかく次のようにったえみへ眼を落したまま、 『この身の使として、吉水へ参ったことが、 はからずも友時の しようがい 友時が、いうには。 生涯にも、ひとつの岐路になったとみゆる。重衡が、身の果て ほうねんしようにんそうあん じよう いっか、重衡卿のお使で、吉水の法然上人の草庵を訪うた日 は、一定のこと。あわれ、友時には、よい再生がめぐまれて欲 から、切に、官途の仕えは思い断ち、その後ついに職を辞した しいものだ。めったに、 ここへは近づいてくれぬがよい』 が、さりとて、再びもとの武者奉公をする気もない。 と、つぶやいた。 ばん いずれ行く末は、法然上人におすがりして、法弟とまではゆ橋廊下の向こうで、狩野介の家人が、板木を鳴らしていた。 しよくぜん るされなくても、草庵の下男にでも置いていただき、新たな人灯火だの、食膳だのが、そこまで、運ばれて来る時刻の知らせ 生を見つけ出そうと望んでいるが、しかし、その出家まえに、 である。千手はそれを取りに立ち、重衡は、湯殿へはいった。 かわず 一度は主と仰いだ重衡卿の前途を見とどけておきたいものと考夜にはいると、ここは蛙の声にとりまかれる。千万の蛙が、 えられた。 一つ音調を作って、星の夜を占める。 またそれは、あれはどまでに、重衡卿へお心をかけてくれた室の簾を垂れて、重衡は、静かに、ともし灯を剪った。そし こた 吉水の上人へたいしての応えでもあり、いっかは御報告にも出て、友時からの物を解いた。 やりよう らんよ なければならない義務とも信じられた。そこで、放下僧の猿丸千手は、夜涼の人のように、ひとり欄に倚って、渡りのロだ みなり ま と名も身装も変えて、この鎌倉の軍景気の町へ紛れ込んで来たの、亭の外を、見張っていた。 ものであった A 」し , っ 『 : : : と、申しまして、その友時どのから、これを、殿のお手 ぶみ

2. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『いや。それは、さし控えました。旧主のおん身に万一の禍とも、蚊うなりだけで、どこにもお姿が見えないではございませ なってはたいへんです。ただ、よそながら狩野介どのの家の周ぬか、何やら、どきっとしてしもうて : : : 』 『重衡が池へ身でも投げたかと思うたのじゃな。はははは、そ りは、なんど、歩いたかしれません。そして、町のうわさで、 なたに会わぬうちなれば知らぬこと。なんでわれから一夜の命 あなたというお方が、おそばにいてくださることも知りまし : それはそうと、いつになく、きようは帰 千手どの、あなたを通して、お願いしたい儀があるのですでもちぢめよう。 りが早かったではないか』 カ』 『ええ、なんなりと仰っしやってくださいませ。重衡さまのお『ええ、梶原様には、もう、鎌倉にはおられませぬそうな』 『ほ。景時が』 ためにさえなることならば』 『あ、もし : : : 。輿をお出になるには及びませぬ。さきほどの『再度、西国への御先発を命ぜられたとかで、留守の御家臣か ・一しかき 郎党や輿舁たちが、森の外の居酒屋から、こちらの方を見張っら、以後は七日目毎の出頭も止めてよいと、いい渡されて、戻 りました』 ています。そのまま、輿の内においでください』 『そうか。それは重衡にもありがたいことだ。そなたのいない うっせみ 日は、何も手につかず、空蝿に似たようなわが身だが、これか らは』 やっと西日が薄れかけた。 かやりた 重衡は、みずから蚊遣を焚き、亭の縁の角へ、円座を持ち出『一日もおそばを去らずにおられまする。一日とても』 『ふたりの一日は、人の月日の一年にもあたろう。のう、千 して、タ風を待った。 七日目に一度のことだが、千手のいない日のなんたる空しさ手。その一日一日を、あだには暮らすまい。月の光も、ていね いに身に味わおう』 だろう。すでに死の座にあるも同様な生命に、こんな恋の花が 『うれしゅうございます。本望です。花の命は短くても』 結ばれるとは皮肉である。自分は死に花ともしようが、若木の はちす 池の蓮にタ風が立ちそめ、水は紅花を溶いたようであった。 かの女はどうなるのか。 欄に倚って、ばんやり、白い綿虫のむらがりを、宙に見すえふたりは、しばらく、黙りあった。この一刻も粗末にすま、 と、かみしめているかのように、、いと心をよせ合っていた。 ていると、やがて帰って来た千手が、 『 : : : 殿』と、千手はふと醒め顔に返って『密と、お耳に入れ 『ま、こんな所においででしたか』 日 たいことがあるのですが、ここでもよろしゅ、つ′ ) き、いましよ、つ と、すぐかれのそばへ来てすわった。 ーカ』 あの夜以前のふたりとは、なれなれしさも、どこか、自然に 『池の中の亭、たれも、おるまいが』 ちがっている。 の それでも、気懸りらしく、ふたりは亭の内や外を見まわし 輿『おう、千手か。何やら息ぜわしいような』 『でも、ここへ帰って来るなり、あちらのお居間をのそいてた えんざ ひそ

3. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

むしろ、優遇して、重衡の心を試し、そして、将来に利用す「妻を持たせるのか』 巻る方針をとるべきであること。 『いえ、伽の女でよろしいでしよう。いかなる丈夫も、男であ の こう二つの根本は、その日のはなしにも、変っていない。 れば、女性の愛には囚われるに極まっている。重衡の中将を、 手もともと、それは、時政がすすめた策だからである。 骨の髄から溶ろかすような女性をさしむけ、まず、様子をうか き・一つ 『したが、思いのほか、気骨のある男よの。平家の公達が、みがわれてはいかがでしようか』 千 さが みやこびと な、あのようとは思われぬが、入道 ( 清盛 ) のよい一面の性を『む、よい考えだ。したが、都人の眼には、佳麗な女子という 受け継いだ男とみゆる』 女子もあまた見なれていようが、その男を、溶ろかすほどな女 頼朝は、感じたままを、時政の前だけには正直にそうもらし性がこの鎌倉にいるであろうか』 おんはしぞ た。そして、 『いっぞや、一万様 ( 後の頼家 ) の御箸初めの祝いにお招きあっ もてな せんじゅまえ しらびようし 『いかに、よく待遇してやろうと、あのすずやかな言や面だまた千手ノ前と申す白拍子』 しいでは、よも、頼朝に行末をたのんで、源氏のために尽くそ『おう、千手か』 うとも思われぬが : 『あれなればと存じますが』 『さよ、フ。 と、危ぶんだ。 : むむ、あれなれば、よいかもしれぬな』 時政の見方と、考えは、また違っていた。 何か、歯に障るようないい方だったが、ちらと、政子の眸を 『いや、真の気骨があるものなら、討ち死にしておりましよう感じると、 とらわれ ず。命が惜しいからこそ、捕虜にもなり、都大路で生き恥をか 『いや、あれなれば、かならず、重衡の中将も、気に入るだろ いても、なおあのように、取り澄ましていられるのではおざるう。しかし、千手が従うかどうか』 6 し。カ』 『梶原に仰せつけあれば、否やをいわせることではございます 『なるほど。そうもいえるのし まい。一両日、屋敷にて休息のうえ、梶原もやがて出仕いたし 『初めに、一死を抛ってしまえばともかく、ひとたび、死に遅ましようから』 かのうのすけ れると、もう、なかなか二度とは死の覚悟は持てぬもので、 『そうだの。梶原のみでなく、狩野介にも、ふくめ置かねばな かにあの中将どのとて、この先、助かりたいためには、どんなるまい』 お誓いも立てるにちがいありませぬ』 『狩野介の屋敷へは、てまえが、帰り途に立ち寄って、そっ しようね 『では、その性根を、どうして試すか』 と、検分がてら、耳打ちいたしておきまする』 『かくれない平相国の御一子、意地、体面もありましよう。や時政は、こんな秘事の談合をすまして、やがて退出したので やお気長に』 あった。 『 1 刄長はよいが』 かれが、席を去ると、政子は、すぐいった。 「まず、女房を与えなされませ』 『千手とやらは、いつごろから、御ひいきなのでございます なげう せんじゅ と おなご

4. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

カ』 わざと、ぶっとした気色を見せ、政子をそこへおき残して、か 『一万の箸初めの日に、こ・こ なたの廊の角へ立ってしまった。 オオ一度、営中へ招いただけのもの』 『、っそばかり仰っしやって』 そして、ふと、石と白砂ばかりの、石庭に見とれた。 『何がうそそ』 雲間もるタ照に染まった石庭の変化の美もだが、その石庭の 『あの日のおん祝には、小磯大磯の歌妓やら、鎌倉中の白拍子かなたで無心に遊んでいた童女と少年の姿に、思わず見入って など、なん十人もお招きあって、大小名から端ばしの侍にましまったのである。 ともえ で、御酒を賜わったのではございませぬか。どうして、ただひ 少年は、かっての日、信濃の戦場から父の義仲、母の巴に別 おんな しみすのかじゃよしたか とりの妓の名など、そして、容姿までが、お覚えにとまるはずれて、鎌倉の府へ、質子として送られてきた清水冠者義高だっ 、が十め . り・ー ) よ、つ』 たてえばし 『でも、水干、金もみの立烏帽子で、男舞を舞うたのは、その そして、もうひとりの童女ーーーかれと仲のよい幼い姫は、頼 ゅうしで 千手と、伊王と、木綿四手の三人であった。三人ぐらいな名は朝夫妻の実子ではないが、腹をいためた子も同様に政子が可愛 おおひめ 覚えられる』 がってきた養女の大姫なのである。 『いいえ、営中で御覧あったのは一日でも、御他行のおり、臣 下の家では、幾度もお招きあそばしたのでございましよう。や ひき ちかいえ れ比企 ( 義員 ) の館へゆくとか、堀 ( 親家 ) の屋敷で泊ったと暮るるも忘れて、何をして、遊んでいるのか。 か、そういう例は、たびたびですし、家来どもはまた、無上の傅役の人びとも、遠くにおかれているらしい。義高と大姫と 光栄におもって、眉目よい白拍子などよび集め、御興に供えるは、仲よく白砂を敷いてすわっている。 たの ということは、政子も知らないのではございませぬ。知ってお それだけでも愉しいかのように、眸をそろえてタ雲を仰いだ ります、かねがね、千手を可愛がっていらっしやることも』 り、手拍子で歌声を合わせたり、また、手をつないで、その手 『たわけたことを』 を急に離し、もの驚きでもしたように笑いこけるなど、他愛も もう時政はいないし、思いきり突っ放して、頼朝はいった気ない 傅役たちが、日ごろよく、 おなご おしどり ひいなみようと 『自分が眼をかけている女子なら、なんで重衡の伽になど、そ『まるで、池の鴛鴦か、雛の夫婦のような』 、。ま、ま、よ と、 の女を差し向けようカ いっているが、それほど、ふたりは仲がよい み一と ノ少ない時間なら平和がもてるが、夫妻ふたりぎりの時間がや義高が、父母に諭されて、泣く泣く鎌倉へ送られて来たの 手や長きに失すると、いっか話はきまって、こんなところへ落ちが、去年の春。それから、ちょうど一年である。年齢もまだ十 二歳。 千てゆく。 きようもやや手遅れの感じだが「またか」と思った。かれは大姫は、二ッ三ッ上だった。 、・しかず すいかん いおう はしぞ うたいめ と ) 0

5. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『公卿や平家にとっては、これらの品も、貴重であったかもしんざん苦労してきたかれの眼から見れば、頼朝と義経の間柄な わずら れぬが、鎌倉の婦女子には、さして必要な物ではない。ましど、児戯の煩いといづていいほどな問題にすぎないが、頼朝に て、男どもによ はまだ、一門の族長としての経験が浅い。そしてまた、人いち といって、 ばい、猜疑ぶかい性格がある。ーー時政は、そこを、見落して 、よ、つこ。 『梶原は、どこで、かような物を、手に入れたのか。よもや、 かすと 公卿の家から掠め奪った物ではあるまいの』 『いや何、合戦に打ち勝てば、一国も奪り、負くれば、万戸の がれき と、きびしさを見せた。 富も捨て去るのが慣いでおざる。かような物も戦場では、瓦礫 『いや、さようなことではありませぬ。福原の焼跡に、平家がの遺物同様に見え申そう。何も、さして、お心を煩わすほどな 残し去った石倉にあった物の由で、しかも、梶原自身が取り出ことはない。はははは』 したわけではなく、九郎の殿が、都へ持ち帰ったおびただしい かれは、無造作に、そういっこ。 ぶんどりひん わざと、頼朝の弱点をついておきながら、またわざと、はぐ 分捕品のうちより、分け前として、九郎の殿から贈られた物な れど、武者に用なき品ゆえ、みだい所へ、献上申したいと、そらすように、政子へむかっても、おなじ風にいうのであった。 けわいりよう おなご のように、梶原は申しおりました』 『なんというても、化粧の料は、女子には魅力。武者によい物 「九郎が福原でかき集めた分捕品とな』 の具は見よいように、女性にも匂やかなお姿は欲しいもの じゃ。みだい所、せつかく、梶原が京土産、ま、そちらへ、お 『そのうちの一品か、これは』 収め置かれい、お収めおかれい』 「 : : : と、梶原のことばではございますが』 頼朝は黙った。 あきらかに、不快そうである。 弟の九郎義経にたいしては、自分が鎌倉を出ず、遠くにいる ため、つねに関心をもっているらしい。憖じ義弟という者だけ に、果して、自分の代官として、わがままをやっていないか、 威をかりて、やり過ぎをしていないか、驕らないで、慎み深く ノいるかなど、ほかの諸将以上に、気もっかい、かれ自身が思い 手すぎにもなりやすいのであった。 千時政には、その心の揺れが、すぐわかる。 けんぞく 大勢の眷族を抱え、内輪のもめや、世の急変にあたって、さ おご ひる 時政は、午すぎまで、柳営にいた。 ちゅうじき 夫妻と昼食も一しょにした。 その間に、いろいろな密談も出たが、とりわけ、重大なこと は、重衡の中将の処置であった。 斬罪を急がないこと。 ざんざい せんじゅ 千 手 ノ によしよう

6. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

きようじゅん 『千手、ついで給もれ : : : 。久しぶカよの』 つまりは、重衡が源氏へどう恭順を誓っても、頼朝は 巻千手は、瓶子を取って、杯へ酒をみたした。 かれを利用しうるかぎり利用して、無用になれば、殺す、いでい 3 ・、こ。じられてし の静かな灯影の下に、杯の中で小波がうこしオド ることは明白であった。 千手は、梶原のいいつけ通りを守ると約しながら、きようま 手た千手の心も、酒の香と一しょに注ぎ出されたような思いだっ きゅうもん で、梶原をあべこべに、あざむいてきたのである。梶原の糺問 『祐経もいうた。 お好きな酒なれば、宵ごとにちとお過ごをうけるたびに、重衡が自分の色におばれきっているような答 つつし しなされたがよかろうと。慎みなど愚であったよ。やはり酒はえをしていた。 梶原が「さこそ : ・・ : 」と、ほくそ笑みそう よいもの』 な作り言を、いつも答えてきたのである。 いつにない語調である。 そして、ここの亭に帰っては。 しくらでもつづ 酒はつよいかれなので、そう心をゆるせば、、 なんど、それを、重衡へ打ち明けようと思ったことかしれな 、刀事 / くのである。杯とかれとが一つになるまでは止めそうもない。 だが、なぜか、いつも 千手は次第に心配顔になって来て、「 : : : またあすの夜にな いいだせなかった。重衡の冷たい横顔 されては」と、もう厨へ酒を取りに立たなかった。 が近づきえないものに見えてしまう。 けれど ( 今夜こそは 『なに、あすの夜ーーー』 ・ : ) と、かの女は胸にちかった。すると唇はわなないて、 重衡は、聞きとがめて、 涙ばかりが先に顔をよごしてしまった。 『あすの夜は、生きている身やら、世にない身やら、千手に しかし今。ー、ー、・千手はやっとそれを打ち明けることができ は、分かっているのか』 た。重衡の前に泣き伏して、 . 「おもえばわたくしは、殿にとっ つ、 ) 0 と、 て、空おそろしい女です。鎌倉どののまわし者なのです。けれ そして不意に、千手の手をつよく握った。 ど心から従っている千手ではございません。 しいえ、梶原どの 『今はわしの望みも絶えた。鎌倉殿の腹ぐろさも見抜かれたわはあざむいても、どうして、殿へそのような悪心を抱けましょ え。しよせん、願う平和など鎌倉殿を相手には望みえぬ : 」と、胸のすべてを訴えた。なお、いえなかったのは恋 千手、重衡の一命は、はやこの世に用を終わったものぞ。せめだけたった て花を見、酒でも飲んで死ぬはかはあるまいが』 『およそは、そ、つと察していた。亠くことはないさは、亠止く よ むせ 千手は突然、顔じゅうを涙にしてしまった。 重衡には、意外らしい容子もみえない。かの女の咽ぶ間に、 世にこの人の運命ほど、はっきり分かっているものはない。 幾たびか、うなずいただけで、 かしず それは、梶原のやしきで、いっか主客が密語していた内容か 『そなたが、どんな性の女か、なんのため重衡に侍けられた らも明らかだった。 ・ : そなた か、それくらいなこと、分からいでどうしよう。 くちびる

7. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

『はははは。いやさようか。さすが、そなただ。言外のことば というものを知っておるな。それでよい。分かったわかった。 千手の心の底は』 そこの、もつれや、戯れ言を横に措いて、重衡は、ひざがし らを少し斜めに、工藤祐経と、しきりに、遠いむかしの、都ば なしを交わしていた。 今は、むかしの主従でもない。また今夜は、虜将と敵国の臣 重衡は、つよい という対立もなかった。ただたまたま、時代の波に漂い離れた かれの前の杯には、つねに酒がない。 だよい会った人間と人間との、ゆくりない邂逅の感慨を静かに 千手が、気をきかせて、大ぶりな杯を持ってきたが、それは しりぞ 語りあっているふうだった。 眼で退けた。 それも重衡には、予期しない一興だったのに、あるじの狩野 『酒を愛しむには、杯はやはり小さいがよい。そなたのような 介には、座が白けたように見えたのだろうか、妓たちにむかっ 小づくりが、またなくよい』 て、にわかに、 と、それを機に、また酌がせた。そしてすぐ乾してしまう。 みやこびと 『こよいは、なぜ舞わぬ。都人のおん前とて、芸の未熟をおそ まわりの朋輩たちは、わいわい、はやした。 あずまぶ れたか。都には都振り、東国にはまた東振りもあるそ。何も御 『千手の御は、御果報な。あとで、奢っていただきましよう。 だいきようえ 興じゃ、舞うてお目にかけい』 それも大饗会のような、大振る舞をしていただかなければ』 と、励ました。 もう、だいぶ酔のまわっていた藤ノ邦通は、手を打って、 『それよ、そのことだ。あとで存分、いじめてやるがよい。千その夜の宴には、千手のほか、浦波、朧、木綿四手、花扇な あずまおとこ 手ノ前は、東男はきらいじゃそうな。それさえ、不届き者だどがいた いずれも美しく、鎌倉殿の御前舞にもえらばれた者たちだっ のに、こよいは、妙にいつもの千手と容子がちがう』 た。けれど、それにしてもなお、かの女らの舞にはどこか土臭 『まあ、邦通さまの、憎い戯れロ。なんで、わたくしのような があった。都の洗練された一流の白拍子を見た者の眼には粗野 女が』 かいどう 君 な芸というしかない。それも、ここの土壌から芽生えたのでな 千手の顔が、海棠のように染まるのを、なお、おもしろがっ なま の く、都の移入を、自然、東国風な武者好みに訛ったり直した芸 にすぎなかった。 と『それみい、語るに落ちている。わたくしのような女がーーーと 千手の舞にしても、やはり住んでいる水に影響されないもの は、たれ様へむかって申したことばか』 ひなぶり 楚 『知らない。あなた様は、お酒だけ召がっていればよいのでではない。可憐ではあるが、稚拙であった。しかしその鄙振 楚歌と虞の君 そか しお ぐ きみ ぐち かれん おばろゅうしで 力、 - : っ

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介なりこの梶原の耳へ、そっと、聞かせて欲しいのじゃ。かね他家の宴席や、営中の祝日などで、前にもなんどか見ていな 巻て、お召し出しのせつ、その儀は、申し聞かされていたろう い千手ではない。 それなのに、きように限って、どうしてこう千手が美しく見 かしす えるのか。重衡の寝間に侍いたという空想がさせるわざであろ う。女体のさまざまをあまた経験している男ほどそうであると 『できそうかと、それを問うのだ、その信念をよ』 千 すれば、梶原はにわかにつよい嫉妬を覚えてきたものにちがい 『難儀な仰せつけとは存じましたが』 なかった。酷いばかり千手の体を眼で調べて、そして、ほっ 『やるか』 と、ため息のような下からいい出した。 「鎌倉どののおためなれば』 よし むすめ 「 : : : で、昨夜は、初めて中将どのの御寝に添ったのだな。い 『おうよくいうた。それでこそ、鎌倉一の手越の長者が養女、 やさ、ここには、たれもおらぬ。わしは役目で訊くのだ。その かって鎌倉どのが、堀 ( 親家 ) の宅で、和御前を見そめたとい , フ、つわさも、っそじゃあるまい』 辺、申しにくくとも、まっすぐに答えねばならんそ。中将どの ′一ちょうあい の御寵愛をうけたのだろうな』 「ま。そのよ、つなことは』 『何を隠す、女のほまれではないか。それにしても、和御前 『何も答えぬは、どうしたわけだ。恥ずかしいことはない。中 は、よくよく良い月日の下に生まれた女性そ。鎌倉どのとは、 うわさを立てられ、また、とらわれ人にせよ、平家の公達の寝将どのは、和御前を抱いたであろうが。和御前ほどな美女、 かしす 力に酔いしれて臥したとはいえ、ただおくはずはない。契りは 間に侍く身となるなど : まな いいながら、五十男の眼ざしは、千手の体のなかにまで無遠すんだか』 慮に立ち入っていた。うっ向きがちに、身を小さくしている千『、、、、 1 一うもん 『よこ。 : では、和御前は何していた』 手には、無痛な拷問にひとしかった。むくつけきその眼のまえ 、千手は、はだをさらしているような身もだえを覚えた。重『御介抱申しあげておりました』 かんばせ 「それだけか』 たげな容顔にもえりあしにも、血がのばって、泣き出したいよ うす 『やがて、寝めと仰せられますゆえ、一つ亭のお次に退がっ うな辱ときに胸をゆすぶられる。 じよ これも、妓女なればこそ。これも、鎌倉どのの命という権力て』 のためなればこそ。そして、もし自分が拒めば、養われた長者『次の間に寝て、そのまま、夜が明けたと申すのか。何事もな の家に、禍をかけることになろうと忍べばこそーーーと、考えてく』 くると、なおさら、口惜しさに、ふるえてくるのだった。 おんなみようが 『千手。そも和御前は、なんのために、中将どののお仕えを命 『のう、女冥加よ。そうではないか、千手』 じられたぞ。それが、うそでなければ、お上の命をあざむくも 梶原は、なお、見入っている。ことばは、うわの空である。 ちかいえ びと やす しっと

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よりも、度が過ぎている。もののふの情とはこんなものではあない。きらうどころか、自分の弱さがこわいのだ。そぞろ、身 巻るま、 をも焼きそうな恋をおそれて」と、心でいっているようであっ つれづれ の先ごろの雨夜の徒然に くどうすけつね 手ここのあるじゃ、工藤祐経らが、一会を催してくれたこと いたわ は、敵ながら鎌倉どのの宥りかと、甘んじて酔いもしたが、そ 千 かしず 七日目毎には、千手の姿が、一日だけ、亭に見えないことが れ以後も、亭に千手を侍かせて、まるで賓客の待遇である ある。 ったい、鎌倉殿の底意は、何か よしんば、これ真実、頼朝のいうがごとき「故入道殿から重衡へは「宿下がりに」といって行く。 うけた恩は忘れぬ」という報謝に出たことにせよ、重衡には、 が、じつは、輿に舁かれて、例のごとく、梶原のやしきへ出 かしやく 屋島にある肉親たちを思え・頭する定日であった。そこでは、重衡の起居や心境の、微細な 苛責以外のものではなかった。 あわは 点までを、質問される。そしてまた、何かと、密々なさしずを ば、いても立ってもいられない心地になる。敵国の粟を食み、 たの うけては帰るのだった。 敵国の美女にかしずかれ、なんで、これが愉しめようか 千時によると。 ふと、自分をそう責めてやまない時など、何かよけいに、 それが終わっても、なお景時の私室で、酒の相手を強いら 手の姿が、眼の前から除けてしまいたいものみたいに思えて、 『千手。帰ってよいそ。ここのおあるじに暇を告げ、そなたれ、果ては、淫らなまねをしかけられることなどもあった。 梶原は自分から「和御前の腕で、中将どのを、骨抜きにして は、そなたの宿へ退がるがよい』 となんど、心にもないことを、いってみたかしれなかった。 みせよ」と命じていながら、酔うとあらわに、嫉妬を顔に燃や わごぜ して「ーーー中将どのは、美男ゆえ、和御前の方が、あべこべ 千手の答えは極まっていた。そして涙ぐむことも極まってい る。「鎌倉どののみゆるしがなくば、身ままに帰ることはでき 、骨抜きにされているのではないか。夜伽は、毎夜のよう か。ゅうべはどんな風に : : 」などと露骨なことを訊ねたり、 ませぬ」とふし目にいうだけであった。 これが、鎌倉殿の御内命でなければ、むざと、和御 かの女は、重衡のことばを、そのまま信じて「わたくしは、 い。なるべく重衡の前のこのはだを、他の男などに委せてよいものか。どんなにも おきらいなのだ」と、思い込んでいるらし : 」と、かの女を抱きすく 眼につかないようにと、次の一間をへだてて控え、いつも無ロわしが可愛がって、このように : め、いやがる顔を、唇で追いつめて、その髯面を、こすりつけ に、池の水をながめていた。 たりするのであった。 どうかすると、そんな姿のまま、千手の眸が、しはいな涙 ふづくえ 今夜もである。そこからおそく帰された途中。 をふくむ。奥の重衡も、文机から池を見ている。ふたりは、そ かの女は、輿のなかで、腹が立ってたまらなかった。懐紙を うしたきりで、何もいわない。い うこ勝る恨みを千手の横顔は けもの カ一瞬の獸じみた 語っている。重衡はまた重衡で「そなたをきらっているのでは出しては、何度もなんども、唇をふいた。 : 、 まみ、 みだ こしか よと筆 ひげづら しっと わご

10. 吉川英治全集 第37巻 新・平家物語 第5

て、いろんな種類の女だの、博徒や旅芸人などのはいりこんでるらしい こやしろ 巻来ることは、ほかの地方とも変りはない。 そでの下がきいたとみえ、輿は、町中の小社の森へ曲がって せんじゅ - 一しかき の千手は、そんな町の空気を、輿の中から見て通った。 行った。やがて、空身になった輿舁とふたりの郎党は、付近の 手きようも定例の日か、輿は、梶原やしきの門へはいって行っ酒売り店の軒へかくれ、酒を飲みのみ、遠くの方から、森の中 た。しかし、いつもは半日の余も留められるのに、どうしたのの輿を見張っていた。 千 か、きように限って、かの女は、まもなく帰り途について 千手は、輿の簾を、内から少し揚げて、 『たれです : : : 。わたくしに会いたいと仰っしやるお方は』 けわいざか 仮粧坂を下り、鎌倉九所の繁華の一つ、魚町まで来ると、物と、いぶかしげに、見まわした。 ほうかそう のぶどう 蔭にたたずんでいた放下僧 ( 僧形の大道芸人 ) 風の男が、輿の前 放下僧は、草にすわっていた。野葡萄のツルや青すすきの葉 へ出て、小腰をかがめ、 さきが、かれの頭より高い徴風の中にあった。かれは、被って いろずきん 『つかぬことをお伺いしますが』 いた色頭巾を解き、それから、ていねいに礼儀をした。よく道 と、輿舁の下人と、付き添いの郎党ふたりへむかっていっ ばたで見る物ごい同様な旅芸人の類とも見えず、どこか、いや しくないところがあった。 せんじゅご 『もしや、輿のお人は、千手の御ではございませぬか。てまえ『見覚えもない者がと、さだめし、御不審だったでございま は、猿丸と申し、手越の生まれで、千手どのとは、幼な友達。しよう。が、千手どの』 なんとも、おなっかしく存じますので』 と、放下僧は、ひざがしらで、ずり寄って、 : 。なっかしいからど、つした 『これこれ。この人混みの中で : 『怪しげな者ではありませぬ。あなた様へ近づき参らすのは初 こ早 - むらい と申すのだ』 めてですが、重衡の中将さまには、以前、召次の小侍として 『お手間はとらせませぬ。どこそ、人目立たぬ所で、お休み願お仕えしていた者でございまする』 って、しばし千手どのに会わせていただけますまいか』 と、急に声をひくめた。 あそびめ 『ばかをいえ』と、郎党は眼にかどを立てて『ただのお遊女と 『えつ、重衡さまの ? 』と、千手も思わず息をつめて『では、 は、わけが違う。こうして、輿に付き添っているおれどもをなわざわざ都から来たのでございますか』 おりぐるま 『十、 0 んと心得おるか。退きおろう』 この春、一たん旧主の檻車に、お別れをつげたのでし と、突きとばしかねない権まくだった。 たが、やはり心に懸ってなりません。なんとか、御最後まで だが、男は世なれていた。ただ、にやにやとうけて、なお何は、見届け申しあげなければと、官の職も罷め、身なりもこん か、哀訴をささやく様子だった。・ とこの門でも、門の雑仕にな風に変えて、もう十日ほど前から、鎌倉のつじを、さまよう もんちん 卩賃〃というものを握らせれば、通してもらえるといったよておりました』 うな当世の裏のうらを、この放下僧は、ちゃんとのみこんでい 『重衡さまへお会いしたいと、仰っしやるので ? 』 す からみ たぐい