ふなかず 『なんと、たくさんな沖の船数ではあるよ。屋島の平家は、こへ去り、御一門のおよろこびも、どれほどか知れません。一刻も 巻の田辺から、あれに乗せるほどな大勢の者を、味方に引いてゆ早く、このよろこびを、屋島、知らせてやりとうございます』 の つ、も。り : か』 : なに、熊野誓紙へ』 やがて、元の座へ返って来た堪増は、打って変ったように、 堪増は、はたと、困った。 し それは、熊野三山の神がみに、神文をもって誓うことだっ や 『のう : : : 局。そうまで、ことを大げさにせずともよかろう。 た。ふつうの武門や凡下でも、生命にかけての証としているの である。 そなたが、かほどな決心とは、じつのところ、思わなかった。 たか 多寡をくくっておったのだ。止めようではないか、内輪争いは』 まして堪増は、その熊野の信仰一つによって、栄華もして来 『わらわとて、好んではおりませぬ。まして、お別れするのたし、今の勢力も擁している者だった。熊野誓紙もただの紙に 過ぎないことはかれ自身は知っているが、もしそれをかれ自身 『さあ、きげんを直せ、そして、浜へ向かった大勢を呼び戻で証明したら、熊野の神威は、地に落ちてしまおう。いや、神 もん げどう し、また、迎えの船へは、屋島へ帰れといってやるがいい』 文を破棄した外道として、三山の大衆は、この別当を、八ッ裂 『申し遣わしますが、むなしく帰れというても、帰るはずはご きにしてしまうにちがいない。 ざいませぬ。伴トへ、お誓いの御返答を賜わらねば』 : どうそ、お筆をお取りくださいませ』 すずり 『ううム、ぜひもない。ぜひもないわ』 かの女は、硯に墨を下ろしながら、うわ眼づかいで、堪増へ うながした。 と、堪増は、大息の下に、 「平家へのお味方、腹をすえた。田辺の別当の力を挙げて、屋『いや、誓紙には及ぶまい』 島へお味方申そうぞ』 わざと、堪増はかろくいっこ。 『えつ。 ・ : では、平家への御恩顧をおわすれなく』 『さまでにせずとも、誓紙以上の誓いを見せよう。すぐさま、 さん 『疑うな、きっと、馳せ参じる』 使を走らせて、朱鼻をここへ呼び、また、そなたもいる所で、 あかし 『あ、ありがと、つ 1 さいまする』 この堪増に、ふた心なき証をきっと立ててみせる』 『それは、、、 局は、狂喜した。このよろこびは、先の涙よりは、ほんとな とのよ、つにして』 ものだった。 『じつは源氏方よりも誘いの使者が、この田辺へ来てわしに迫 かの女は、その弾みを姿態に見せて、小走りに、廊へ出て行っておるのだ。こう打ち明けるのは、初めてだが』 すずりばこ った。そして自分の部屋から、硯箱をささげて来た。ととも 『 : : : まあ、源氏の密使が』 くまのごおうせいし 、堪増の前においたのは、熊野牛王の誓紙だった。 それは、新宮十郎行家にちがいないと、かの女にはとうに分 『ただ今の、お誓いのことばを、これへお書き給わりませ。そかっていたことだが、さも初耳であったように、美しい眼をみ れさえ伴トに渡してやれば、沖なる船も、たちどころに、屋島はって見せた。 はず しん
『さまでとあらば、何をかいおう。が、くれぐれ大事を取られ『ゃあ、難破船があるぞ』 よ。泰経は公卿の身ゆえ、兵法は知らぬが、大将たる者が、一『漁船か』 『こんな日に、漁に出る漁師もあるまい』 陣を競うには及ぶまい。まず、次将を先鋒に遣られてはいかが 『オオ、帆柱も折られ、舵も波に取られているらしい』 カ』 こうふん あやぶ 『もう、さっきから、荒波にもてあそばれて、必死に、こなた どこまでも、危むような泰経のロ吻だった。 義経はしばしふし目に、黙っていたが、やがて思い切った態へ近づこうとしているのだが、かえって、流されてゆくばかり で、こう、心の端を見せた。 『いや、このたびは、いささか存念もありますので、おなじ死『漁船でなくば、なんだろう』 じよう 『さ、どこのばかやら』 ぬなら、一定、先陣において最期をとげたいものと思っており と、笑って見ていた。 ます。ーーー重々なお心づかいに対し、いちいち反き奉るには似 すると、すぐ下の川口を、味方の熊野船の一艘が、左右の舷 れど、義経が踏まえる所は、そうあるしかございません。院の ′ちょうろ に十二挺の櫓をそろえて、漕ぎ出して行く。 法皇へも、何とそ、あしからぬよう御奏上を』 望楼の兵は、驚いて、 『おおうい この暴風に、どこへ行くのだアつ。どこへ』 泰経は、もうこれ以上、何もいえないと思った。常と変らな と、どなった。 い判官を見るのであったが、何か、えりを正さないでいられな 幾つもの顔が、熊野船の上から、こっちを見上げた。そして、 しような感じをうけた。 けい・ヘっ 軽蔑と怒りをふくんだ声でロぐちに、 陣中には、一夜泊ったきりで、かれはすぐ京へ帰った。 みのかさ 空もようは、依然悪い。風もあるので、泰経らは蓑笠で、陸『貴さまらの眼は、どん栗か。そこに立って、何を見ておるの 路を騎馬で帰った。義経は、兵二十騎を添え、鳥飼の辺まで、 『あれなる難破船の漂いが、さっきから、分からぬのか』 見送らせた。 『判官殿さえ、お気づきになって、すぐ助けに行けとのお指図 だわえ あほめが、海に案山子は要らないのだそ』 ろごえ ののしりながら、櫓声をあげて、しぶきの中へ没して行った。 こんな日でも、川口の望楼には、幾人かの物見の兵が立って ひらめく波浪と闘いたたかい、熊野船は、ついに波間の黒い 人雨つぶをもった烈風が横なぐりに来るたび、かれらは顔を抑一点へ近づいた。すぐ、こっちから繋綱を投げたものらしい やぐら の えたり、櫓の丸木につかまっていた。海の色は比較する何物も相寄るまに、熊野船はもう帆を張った。そして帆も船も、傾く 先ないような凄さをおび、幾すじもの白浪の縞目を見るほか、すばかりな風をうけつつ、難破しかけていた船をひき綱で引いて 帰って来た。 ぐかなたの淡路の島影もまるで見えない。 きみ ! うろう せんばうや しまめ ン一りカ、 ぐり もやい げん
もの ま わけて、銀の小観音は、亡父義朝のかたみであった。 者ーーー。先つごろのお召しにこたえ、熊野灘より急ぎのばって くらま ときわ ′一ひごう だ鞍馬の山にいたころ、母の常磐から「 : : : 父君の御非業な死 巻参りました。お取り次ぎあれ』 の と、おおどかに名乗った。 をお忘れないように」と、人をして、送ってくれた物なのであ る。 義経はすぐ、かれらを陣営の前に待って、 『待ちかねしそ、隼人助。お汝らの加勢は、時にとって、百万だからこの小観音を見れば、在りし日の亡父もしのばれ、母 や の体温も感じられてくる。義経は、さっそくそれを、ながらの の味方。義経にとっては、魚が水を得た心地そや』 と、なんの虚勢をかざるでもなく、真情そのままを見せて迎別所の一室の棚において、香を薫じ、ひそと、ひとり手をあわ せた。 え、そして、訊ねた。 何を亡父へ訴えたろう、何を亡母へ詫びたろう。かれが、小 『して、田辺の沖も、別条なく通って来られたか』 観音に手をあわせる姿は、そのまま、幼い日の牛若に見えた。 それには、隼人助が、 『されば、急にこの参陣と成りましたのも、じつは堪増殿の密その日、熊野水軍の来会を眼に見たので、士気はたかまり、 はや 。、、かに、いは逸って「屋島攻めの日は近いぞ」と、雑兵輩の顔にも色めきがかがや かな計らいによるものです。さもなくは も、まだ拝顔の日は、遠い先だったかもしれません』 晩には、陣中で、酒もりがあった。 『さては、察しの通りであったか。堪増の同心も、今は見えた 鵜殿党、安宅党、九鬼党、向井党などの熊野海族と、東国武 者との、顔つなぎの宴らしい と、義経は、その満足を、二重にした。 おばろな月が、潮の香の上にあった。 さらに、隼人助は、また、 しらめ かがり 松林のあちこちの陣幕に、不知火めいた篝火が赤く、野調を 『八年前、伊勢の鳥羽にてお別れ申しあげたさい、再会の日ま ふなうた ばんどう でと、お預かりしておいたこの二た品、きようそ、お手許へ御もった坂東歌やら海の男の船唄が、和気あいあいと、聞こえて くる。 返上っかまつりまする』 ものみやぐら すると、川口の物見櫓から、物見の兵が「おおうーい」と と、携えて来たそれを、義経の前においた。 そうちょう - 一だま い」と、谺がえしに答 銀の小観音の像と、もひとつは、宋朝の造船法や水軍の操典下のたれかへ呼びかけていた。「おうー える川面の影へ、上の大声が、こう怒鳴った。 などを図解とした″水鳥図式〃とよぶ一巻であった。 『やはりただの船影ではないぞ。後から後から十二、三艘も見 『思えば、あの日からいっか八年になっていたの。変らじとい さてえて来たわい。けさの熊野船は、南からだったが、今のは西北 う恋仲にしても、八年も相見ねば、色も褪せように : の方からだ。どうも、味方ではなし、うさん臭いぞ』 も、うれしい再会ではある』 下の小舟にいた雑兵たちは、そう聞くと「すわ、敵の襲撃 ? 」 義経は、その品のみでなく、隼人助の心根も、押しいただく と、ひどくあわてて、われがちに岸へ飛び上がり、急を帷幕へ ような姿で、手許へ納めた。 たず くまのなだ そうてん たな わ 160
来たものらしい けれど、泰経はそれを、義経の一途な勝気か、あるいは、鎌 巻湯浴み、着がえなど、休息をすましてから、 倉へたいする意地かのように解している。かれは、ことばをか届 の 『さて、その後は』 えて、なお諫めた。 ・ま と、かれは、一室のうちで、義経に会った、 し 『いや、三軍の大将ともなれば、なかなか、お心も、並たいて はや、ひと月にわたる長陣、かつは船、兵糧の才覚など、 や いなものではあるまい。院宣は重し、武門の身には一期の大事。 ほうがん 判官にも、ひと方ならぬ心労であろうと、院にも、お察しあらだがのう : : : 判官どの』 あんど せられておる。が、まずお変りものうて、泰経までも、安堵い 冫し』 『これは泰経一存の言に過ぎぬが、何も、強いばかりが武者で ごしんねん 『さまで、御宸念をわずらわしておりましたか。一日も早く、 はあるまい』 屋島へ迫って、御心を安んぜんとは思いながらも、なんとも義『仰せまでもございませぬ』 経の微力なために』 『御辺は、大事なお体。わけて、一院の御信望も厚く、これか きみ しよくばう 『いやいや、院の法皇が、一に御辺へ嘱望しておられることは、 らのお若さでもある。あたら、無理な戦さに突き進まれなよ』 少しも以前とお変りはない。 : したが、つい先ごろ、新宮行『御忠言、かたじけのう存じまする』 ゆだ 家が、熊野より立ち帰っての、各地の趣きを聞こし召されてよ 『ここはまず、副将、部将らの手に委ねおき、御辺は、都へ帰 り、果して、判官の出陣、この際いかがあらんなどと、御憂慮って、都の守護を兼ねつつ、なお、機の熟すのを、うかがって のていに仰がるる』 してはどうかの。 いうことは、もちろん、院の御内意 『行家どのが、どういう奏上をなされましたか』 でもあるが』 『熊野水軍の協力も望みなく、田辺の堪増も、平家へ味方と極『これは、意外な御意を』 まったり、と申しあげていたが』 と、義経は、きっとなって 『その儀なれば、構えて、憂慮は御無用です。すでに熊野の海『かりにも、そのような儀は、もってのほかです。ひとたび、 族衆も、これに参陣しておりますものを』 兵馬を進めた以上は』 『ほう : : : そうかな。渡辺橋に立ったおり、川口には、だいぶ『さ。そこは、意地でもあろうが』 兵船も見えはしたが』 『では、義経をば、さまで、頼みがいなき者との思し召しか』 『また、堪増法印は、世上、平家方と見られておりますが、そ『そうではない。行く末かけて、院にも、頼みに思し召さるる ひょうり れもじつは、表裏のあること、決して、御心配にはおよびませゆえぞ』 せんど ぬ』 『ならば、都の守護は、余人に当らせ、義経が先途には、一切、 多くをいわないが、義経は、濁りのない明言をもって、答えお気づかいくだされますな。義経が成りようを、ただ、お見と とした。 どけ給わりませ』
いて、半ばまだ居眠っているような赤い眼をして答えた。 いや、もっとべつなよりどころには、平家一門の出であり、氏 すじよう 巻『おあるじには、お気づきなされませぬか。御門の下で、人馬素姓においては、ほかの側室のたれより高貴であるという自信刀 ざわ の騒めきがいたします。別当のおん輿と供の列が、お着きにな があった。じっさい、その高貴な匂いと気位においては、他の * 、いしよう ったに相違ありません』 妻妾を圧しているばかりか、堪増さえすこし抑えられ気味のか 『お、そうか。ううむ、そうらしいな。やれやれ、心待ちだっ たちであった。 や た。やっと、お越しとみえる』 このふたりが去年、ひと月の余も、ロをきかないことがあっ 『見てまいりましよう。別当殿か、あるいは、ひょっとした ら、べつな御方か』 一ノ谷合戦の、あの後である。 たいらのこれもり 『いやいや、ここへ参られるのは、前もって、分かっていたこ屋島を脱出して、そこここと、転々していた平維盛が、つ と。そちを見せにやったりしては、、かにもこの伴トが、待ち いに熊野にも身のおき所なく、那智の沖で入水したと分かった こがれていたようで、おもしろくない。汝はまたそこで、居眠とき、かの女は、 ひた りしておれ。わしは、もうひと浴び、湯のつばに浸ってくる』 あなたほど無情な御方はない。 と、堪増をひどく怨んだ。 かの女のいいぶんは「二十年来、公私にわたって、あなたが 平家からうけた恩顧は、どれほどか知れないでしように ということであった。また、自分が都で堪増と結ばれた縁も、 維盛がその仲だちであったのにということもつけ加えた。 ひキ - よ・つ そして、いかに陣脱けした卑法なお人といえ、その維盛が、 熊野を、あなたこなた、さすらい歩いていたのを知りながら、 つばね ひご さくらノ局は、平家一門のうちに、叔母やら従妹やらが幾たなんの庇護もしてやらず、見殺しにしたという点を、かの女 りも数えられる血の環の中のひとりであった。実家は桜町中納は、憎むのであった。それを、堪増の冷血とも忘恩とも責め 言とかであり、桜町ノ局というのを、堪増がたださくらノ局とて、四十日の余も、ロをきかずにしまったのである。 呼びならわして来たのである。 女子と小人、という語を堪増はいつも胸に持っていただか 堪増との間には、ふたりの子もあった。しかしほかの側室たら、たいがいは、それで笑っておく。ほかの妻妾へもするよう にである。 ちのも加えれば十数人の子を生ませている堪増なので、それが あかし 特に自分だけの愛情や地位の証ともいえなかった。 が、かの女をほんとに怒らしてはまた困るのであった。 ちょう か・レ」、つ・レ J けれどかの女はなお、堪増の寵は、もつばら自分にあるものそれは、熊野にも田辺にも、隠然たる平家方の荷担人がいる ほうれし いんせき と信じていた。なぜなら自分はまだ若い、肉体は豊麗である。 し、姻戚関係の者も多い。もちろん中には、田辺を源氏方へ傾 つばね 六、くらノ局 われ
と、かれの肩を抱いて、あとの語を、うながした。 三艘の熊野舟が、舟脚早くざっと寄って来た。一舟の上に うどの 巻幾すじかの矢が、かれの体には刺さっていた。 が、介はは、鵜殿隼人助のすがたが見える すけ の 顔を横に振った。どれほど、櫓を漕ぎ急いできたことだろう義経は、跳び移った。介もつづいて乗った か。矢傷そのものよりは、息がととのわない気色なのである。 『さては、平家にとどめを刺さんと、殿御自身、敵のまッただ ノ 中へ斬り入るお心よな。陸にては、馬前に遅れぬを慣いとす 壇「お案じ給わりますな、傷は何程のことでもありません。 かねて、兄阿波民部の手の者十数名を、船島以来、大納言どのる。なんで指をくわえて見てあるべき』 のお身の護りに付けておきました。そこの郎党より、右の由を命じられたのではないが、弁慶を始め、那須大八郎、熊井太 告げよこしましたゆえ、小舟を飛ばして、お知らせに参ったわ郎、伊豆有綱など、われもわれもと、下の三艘の内へ、跳び乗 けでごさいまする』 ってしまった。 『あらうれし : して、みかどと神器とは』 ばん きっこうぶわ 『御明察のとおり、日月の幡の下にはなく、べつの亀甲船に隠 み、き しまいらせ、あまたな船影につつまれて、御崎近くに漂うてお ります由』 「と申しても、おなじ船型も多かろうに』 ほげた 『いや。それの目印しには、帆桁の一端に、細き黄旗を掲げら れありますそうな。それは、かねてお諜し合いのあった大納言 そっ つばね どのの御内室帥ノお局からの密諜とのことにございますれば、 間違いないことと思われまする唇 『おお、それぞ疑いもなき、まことのお座船であろうよ。陽も 暮れなんかの今、なんの天助そ。ーー介、まいれ』 げんそく 義経は、舷側へ走り出、 「伊勢やある、後藤ゃある』 と、伊勢三郎、後藤兵衛実基などを呼びたてた。そして早ロ 「この船、ふたりへ預けておく、よく戦え』 と、命じ、また水保谷十郎、伊豆有綱をよび、 「近くに、串崎舟か熊野舟あらば、ト 旗でさし招け と、 いいつけた。何事か、ただならぬ急ぎ方のようである。 みっちょう すけ しめ きばた 『黄旗はどこに ? ・』 かくしぶね 『どれが、みかどの紛れおわす、秘船か ? 』 自船を捨てて、三艘の小型な熊野舟へ乗り分かれた義経以下 の面々は、血まなこで、敵中にただそれだけを搜し求めた。 今は、その黄なる旗一つのあり所に、全海域の船合戦も、 収縮された形であった。 そう すでに断末魔の相をみせた平家方の船ぶねは、義経の行動に も気づかず、わが身わが身のさいごにあわてているのか、右往 左往な船影の乱れのうちに、ただ、叫喚をむなしくしているだ しかしその間を縫い、たちまち、一群の軽艇が、義経の舟へ 迫って来、 きばた 大 悲ひ 並日 1 三ロ イ 76
小王国 いちびと 『だが、主命も仰がず、そんな余計なまねをして、もし仕損じ相は変って来、漁夫や市人までが、源氏びいき、平家びいきを けんか 口にし合って、喧嘩になったりする例も珍しくはなかった。 たらどうするか』 そうりよしんじん まして別当の館をめぐって、この地に住む僧侶、神人、武者 『やり損ねてももともとだ。わぬしに科の道づれは食わさぬ。 あんもくり おう、思い立ったら矢もたてもないわ。正近、ここまでは、わなどの間では、どんな暗黙裡のうごきが行われていることか。 くじら ぬしの使に従いて来たが、帰りみちはおれに委せろ。田辺の鯨およそ想像に難くない。 っ ある者は、屋島へ心を寄せ、ある者は鎌倉へ望みをかけ、お 、見事、銛を一本打ち込んで見しよう。おれのあとに従いて のおのの下心が、ただ、自分自分にとってのみ有利な理論や小 来い』 ぐるりと、馬の首をまわすと、弁慶はもう西へ向かって、さ策を弄していた。求めて不安定な世間を作ってもいたのであ る。けれどロではたれもそうはいわない。源氏びいきも平家び っさと、先へ立って行った。 いきも、おなじことをいっていた。 『もしも今、その去就を誤るならば、熊野三山も、田辺ノ宮 も、きのうまでのすがたは失くなるそ。現世の栄えはおろか、 子々孫々まで、山野をさまよう身にならねばなるまい。今こそ 大事なのだ。大きな未来のわかれ目を約す日なのだ』 しかし、これらの人びとがどうさわいでみたところで、 たんぞうほういん かなめ かんじん要なものは、別当の堪増法印その人の腹一つにあるの だった。ところが、堪増は、まだかって、右とも左とも、自分 それはこの紀伊半島だけとは限らない。 おおやけ 四国、九州、山陽、いずこの岸へもひたひた寄せつつある時の意志を公にしたことはない。 はン : っ ー、記羽田辺の港は、特に、源平両つまり傍観的態度のもとに、自身の自由をあくまで自身のも 局の波濤というものだろうカリ のとしていた。 勢力の争奪の焦点におかれていた。 なると あわのくに もっとも、ここは一種の特別地域ともいえる所なので、かれ 西南は阿波国と対し、鳴門海峡をその西に望み、難波ノ津か また らの水路をも、ここで監視できるという地理的条件が、ものをを傍観者といっても、かれをただちに二た股者という意味には いえない。武門に属さず、朝廷に拠らず、ただ信仰のうえにあ いっているのはもちろんだが、なお熊野三山をその支配下にお き、武力、財力、船力の三つを握る田辺の別当の所在地であるる領地だった。もし、その別当職に、至上のものがあるとすれ ことが、源氏にしても、平家にとっても、捨てておかれない重ば、それは熊野の神仏でしかないのである。 その堪増は、もう五十七、 ノくらし 要さであったことは間違いない 『そろそろ、わしも年だなあ』 で、はやくもこの田辺には、各地から雑多な人種がはいりこ んでいるものと見られていた。 一ノ谷合戦以後、急速に町の様と、このごろ、ひとり喞って、 王国 と・か なにわ っ ろう 〃 9
でにわかに、切目王子の宿から、都へ引 を途中でうけた。 っ返そうとなったものの、旅先なので、手勢といえるほどな手 勢もひき連れていなかった。 そのとき、清盛は、急使を飛ばして、 まどなりと兵力を貸 ( ーー清盛一期の大難にて候うなれ。いかー し給われ ) と、田辺の別当へ頼みを入れた。 当時、堪増はまだ若年だったが、清盛のために、快く、兵馬 そこはたしかに、地の利から見ても、源平両勢力の均衡上、を急派してや「たばかりか、清盛が都へ馳けもどるまでの、み えんご ちみちの掩護も努めてやったのである。 ずいぶん重要な地にはちがいない。 りゅうりゅう 以後、清盛が隆々と世に出てからも、そのときのことを、 隼人助が、憂えているとおり、もし紀伊西岸の田辺で阻まれ れば、鵜殿党の水軍も、到底、難波津へ行き着くことはできな深く總として、堪増に報いていたのはいうまでもない。 たんぞう つまり堪増の半生は、清盛との知己によって、平家の栄えと 田辺の堪増がもっ勢力は、とても鵜殿党の比で いだろう ともに栄えて来たのだ。だから治承四年、頼政と以仁王が、兵 ・まは、かつ。 で、その堪増の向皆こそ、熊野地方のすべての水軍が、源氏を起こしたさいも、その早耳の第一報を六波羅へ飛ばした者 は、この堪増法印だったのである。 につくか、平家へ奔るかの、鍵とも今はなっている。 たか 『ーーーそれほどな堪増なので、多寡をくくって、うかとあの沖 多くの者は、 げん 「堪増法印が、平家を裏切るはずはない。現に、屋島と田辺とは通れませぬ』 隼人助は、堪増の実力を、いろいろな角度から、ふたりへ説 のあいだには、ひそかな往来もしているらしい』 明】して後、 と、見ているようであった。 何しろ、平家の全盛期を通じて、堪増が平家からうけた恩顧「ーーまた、それはただ、それがしどもの参陣の邪げたるばか は浅いものではない。遠いとおい以前には、多少、源氏との縁りでなく、やがて判官殿が、屋島へお懸りあるばあいも、つね に、後ろ寒い思いをなさらねばなりますまい。ここはひとつ、 故もあったが、堪増が若年のころ、例の平治ノ乱をきツかけ 鯨 その堪増をなんとかお味方へ引くか、あるいは、源平いずれへ に、かれと平家とは、急に密接になっていたのだった。 だいにきよもり の も手出しはせぬと誓わせるか、二つに一つの、大きな策をほど あれは、清盛もまだ大弐清盛の時代。 、、・れけい こしおかねば、ことむずかしゅ , っ′ギ、いましよ、つ』 辺平治元年の十二月、その清盛が、熊野参詣の途中の変であっ と、話をむすんだ。 はんらん 留守の都で、藤原信頼や源義朝が、叛乱を起こし、その急報聞けばきくほど、熊野地方の実態は、複雑である。逆睹し難 と、初めて、かれも悩みを打ち明けた姿だった。 田辺の鯨 か筆 なにわず へん しゆく もちひとおう さまた やくと 〃 7
『さては、そんないきさつでしたか。ではいよいよも 0 て、次かに、思わぬ齟齬ではあったが、それはまだ鵜殿党にと 0 て、 巻の屋島攻めにおいては、九郎判官殿の御面目にかけても、一ノ決定的な邪げではない。 けれど、も一つ、大きな眼障りが がん 谷の名誉にもまさる勝をお示しあらねばなりませぬなあ。ここ この熊野には頑として在るのです。そのため、急場に地せ加わ とっさ は御一代の意地としても』 一し くちびるか ることはむずかしいかと考えられる。昼、お目にかかった咄嗟 と、唇を噛んでつぶやいた。 や から、拙者の胸には、とっこうつ、その思案ばかりが往来して しかし、隼人助が、まだ一言も、熊野水軍を挙げて、ただち : どうも、あの人物だけは、にわかに除くわけにもゆ に合力しようとはいっていないので、正近は、やや、もどかし かぬし』 『はて。御辺でもそのようにおそれる人物がいるのでしよう 『いかにも、このたびこそは、殿御一生の大事なのです。とこ か。何者ですか、それは』 たんぞう ろで、隼人殿』 「田辺の別当、堪増と申す法印です』 と、つめ寄って、答えを求めた。 「堪増 ? 』 「ーー・殿の御直書にも御覧くだされたでしようが、屋島への都と、正近は小首をかしげた。 立ちは、この月十二日、軍そろいは、摂津の渡辺と内定あり、 さすが、弁慶はよく知っていた。 ふなかず 何しろ余日もありません。また、できるかぎりの船数をも、こ 『なるほど、田辺の別当か。あれは、亡き入道清盛とは、若年 こ短い日のうちに、そろえねばならず、ようやくわれらにも陽のころから糴く気わりを結び、いわば、平家人のひとりとい 0 の目が巡って来たと、よろこび勇んではいるものの、殿のお胸てよいほどな男だ「た。して、その堪増法印は、昨今、どうし は、それの調達に、、 しまや御苦心の最軒なのです』 ておりますな』 『そうでしよう。いかに判官殿たりとも、船がなくては』 『されば』 『そこで、われら両名が、夜を日に次いで、鵜殿党のお力を借 と、隼人助は、弁慶のことばを、機に りに参 0 たのでおざる。隼人殿、さいごの御一言を聞かせて欲『ーー平家世盛りのころ、六波羅の威勢を後ろだてにもち、 しい。御承知くださるのか、否か』 野三山の力を大きく握って、今も依然、田辺に居を構えてお 「御加勢申すは、もちろんのこと。その儀は、御懸念に及びまる。そして平家が西国へ落ちた後は、平家を助けるとも見え かたん むきす せぬ』 ず、さりとて、源氏に加担でもなく、ただ無傷の船と兵力を擁 なにわず せとうち 『「」は、・す . み、に・も』 して、この熊野と難波津 ( 大阪 ) の水路や、四国と瀬一尸内の海上 おおくじら を、じっと睨まえ、いわば雑魚の中の大鯨といったような存在 と、隼人助は、ロをとじ、杯を下に、何かしばらく思案に暮です。そして、たれもその背へ銛を打ち込むこともできず、ま れる容子であった。 たその本心も読み難い。まこと無念ではあれど、われらにも、 『奥州の吉次とか、十郎行家殿の、いらざる小策などは、たしそれには当り得ないので』 せつつ ん ーつい・ル しお きょ
しよしゃ と、その時の大暴風雨の海を思いうかべながら、 『それも、御意の如くでございまする。なんとなれば、書写 さん 『わしを助けて、伊勢の江ノ浦まで送ってくれた者こそ、鵜殿 巻山、叡山、南都の寺でらまでも、幼少から住み歩いた武蔵坊に の 別るるさい、わ は、今どきの坊主は、とんと、ありがたくありません。よほど党の総領、鵜殿隼人助と申す若者だった。 しはその隼人助の手に、母の常磐どのからいただいた父義朝ど な僧なら知らず、そんな僧の読経など亡に受けさせたくない ので、いっそ、暇を得たら、自分が読経し、自分の手で、故郷ののおんかたみ、銀の小観音と、宋の水鳥図式との、二品を預 や けておいた』 の土にでも埋けてやろうと存じまいて』 『しかと思い出しました』 『それよ、その暇をそちにつかわすほどに、母の骨を抱いて、 紀川へまいれ』 と、正近が、ことばをはさんだ。 『ーーでは、その鵜殿党へ、お使に ? 』 『えつ。それがしに、お暇を ? 』 『あのおり、時節が来たら義経自身、預けた品をいただきに参 『いや何、長の暇ではない。大急ぎで行って帰れと申すのだ。 ただし、そちひとりでは心もとない。鎌田正近を添えてつかわると約束しておいたが、今はゞ自身で出向くいとまもない』 ′一しゅしょ 『心得ました。御手書など賜わりませ』 す。正近とふたりして、そちの故郷、紀州新宮へ、明朝立て』 はやとのすけ 『書面は、明朝までにしたためおこう。それを携えて、隼人助 に会え。隼人助も、義経の迎えを、長の月日、待ちわびておる 『そも にちがいない』 、、かなる御用にて ? 』 と、鎌田正近も、弁慶と一しょになって、使命の向きをたず『では、鵜殿党の船手を、お味方へ招く大事なお使でございま ねた。 すな』 くまのなだ 『されば、熊野灘を家ともする浦うら島じまの海党には、日置 『正近も、はや、忘れつるか』 うらあたかとう ノ浦の安宅党、西向浦の小山党、奥熊野の九鬼党、尾鷲の向井 と、義経は笑って、 『正近こそは、しかと、わしの側にいて、そのおりのこと、覚党など、たくさんな海族があり、その総てとはゆかぬまでも、 えておるはず』 鵜殿父子が誘えば、およそ半ばは、源氏に参ろう』 『でも、お約束は、八年も前のこと、果して、お召しに応じま そして、もう八年前のことだが、紀州の熊野海族の一家、鵜しようか。また、鵜殿党そのものにも、変りが無ければよろ うどのはやとのすけ しゅ、つ」ギ、い士すが』 殿党の鵜殿隼人助との間に、次のような盟約があることを、初 『否とよ、その憂いはない。 日ごろも隼人助とは、ひそかに便 めて、ほかの者へも話した。 なちごも 『その年、わしは那智籠りしていて、那智を追われた。そしてりは取り交わしておる。いっかは、かれらも時を待っている者 鎌田正近一名をつれ、新宮から伊勢の浦へと、海上を逃げ渡っそ』 て来る途中であったが 義経の胸に、そんな用意があったのを、家臣たちは初めて知 どのとう よい いとま は そうすいちょうずしき おわせ ひき