優子が笑いながらい 0 たことばも嬉しか 0 た。林蔵もおだやかな、腰の低い職人気質の人間で、 人間国宝だとか何たとか肩書がついても、一向に威張らない。あの吉岡林蔵となら、安澄もっきあ 0 てゆけると考えた。とはい 0 ても、本当に耀子は、研一への恋を断念したのだろうか。安澄は、 まだ疑問が消えず、いよいよ、辛い対決をしなければならない時が来たことを感じた。 「お姉さまさえ、承知してくれは 0 たら、うちはこの縁談、すすめてみようと思うのやけど」 「耀子次第ね、何といっても」 「それはまかしといて」 優子はぼんと胸をたたいてみせた。 「ああ、嬉し。たぶん、こうなるとは思うてたけど、何しろ、友四郎さんが、同じ染色の仕事やさ 力し、かえって、うまいこといかへんかしらと、心配したんどっせ。ま、 いっぺん、友四郎さんに 逢うてみたげておくれやす」 優子は、両掌で胸を叩くように安堵した表情を見せた。 「耀子ちゃんの話は一応片づいたとして、今度は研さんの問題や。両方とも、お母さんが死ぬまで 気に病んではったことどすさかい、 うちも責任感しまっせ」 優子は、ちょっと図に乗った感じで、自信ありげな口をきく。 「研さんの病気が治ってから話しあうつもりどしたけど、もう、おふたりの間では、と 0 くり、話 はついてますのやろ」 「それはね、優子さん : : : しばらく、そっとしておいてくれないかしら。あなたに今日、そこまで
力し ? 」 「そうね、そんな感じ」 カらんとして人影もない喫茶店の中で石油ストー ふたりは通りすがりの喫茶店へ入っていった。 ; ・フが赤く燃えていた。ストープに近い席に坐りながら、 「ビールはないの ? 」 政之は、近づいてきた女の子にきいた。 「あります」 「じゃ、ビール。コップ二つだよ」 政之は運ばれてきたビールを自分でつぐと水でものむように一息にのみほした。 「しいか、耀子ちゃん、女はね、男に惚れても、決して惚れた相手に、手の内すっかりさらけだし ちゃだめだそ」 という。 「へえ、どうして ? 」 耀子は興味をそそられたように、顎をつきだして顔を近づけた。 「掴みきれていないというのが男にとっては魅力なんた。もう女の手の内がすっかり読みきれてし まうと、どの女も所詮はただの女さ。味つけがちょっと辛いか甘いか水くさいか、その程度の差 「ふうん。それで、英子さんはもう手の内さらけだして、おじさまに飽かれはじめられたってわ 8
たのなんか、全く偶然だとしか思えない。あたしは、男の子たちとざこ寝したことも何度もあるし、 山や海のキャンプで、男の子とふたりきりで夜をあかしたことだってある。その時だって。守り通 したのだ。強いて守ろうとしたわけではなく、何となく雰囲気がそこまで盛り上がらなかったし、 あたしのつきあう男たちとはみんな肉親みたいに親しくなってしまって、そんなことをいいだした り、したりする雰囲気にならなかったというだけにすぎない。だからといって、あたしは処女を嫁 入りの売物にしようなどという気持はさらさらなく、処女でなければいやだなんていう男なら、結 こど、母と研一の情事を識った後から、あたしは無力だ 婚なんかしない方がましだと思っていた。ナナ という感じが強くなって、急に自分の処女性を重荷に感じはじめてきたのだ。 母に対してコンプレックスがあるとすれば、母の才能でも、母の美貌でもなく、母があたしの知 らない女の歴史を持ち、女の完成した生理を持っているという点だった。母のかもしだす女らしさ、 女臭さ、あたしが逆立ちしても追いつくことの出来ない優雅さ、そして娘のあたしにさえ感じられ るあのあふれる色気 : : : それらは処女のあたしには、魔法の国の扉の彼方の部屋のように秘密な謎 にみちていた。 処女のコンプレックスというものを人は信じないだろうか。あたしが処女を失った時、あたしは 母と研一の情事をもっとちがった目で見られるのではないだろうか。 あたしが処女でなく、一人前の女となった時、研一はあたしをこれまで通り子供扱いにするだろ 家出した後の不如意でみじめな日々に早くもあたしは疲れきっていた。今更、母の家におめおめ
っていく。 あの夜も、近くの酒場から、単調なお経のような歌謡曲の男の声がきれぎれに聞こえていた。 そのやすつぼいホテルの隣はパチンコ屋らしく、時々、べニヤ板の壁の向こうに、びつくりするほ ど間近く、パチンコの玉の流れ落ちる音がひびいた。最初、私にはそれが何の音かわからず、いき なり騒々しい音を聞いた時、固いつぶての雨が裸の乳房の上に降りそそいだような痛みを感じ、ぎ くっと驅をふるわせた。 男は勘ちがいして、それまで遠慮深くか、いたわりのつもりか、むしろおずおすとのばしていた 手に、いきなりカをこめて、私の左の乳房をんだ。痛いっと、私はいった。。 とこかのバーで、止 まり木の横に坐っていた見知らぬ男だった。最初、若い男かと思っていたが、ふたりになって車に 乗ってから、はじめて手を握られ、その時、手の感じで思ったより老けているのかもしれないと思 った。あたしの知っている男たちは、みんなとても若く、手なんか、堅くて、びちびちしていて、 たなごころ いつでも熱気でむれている。この男の手は妙に柔らかく、 掌は冷たく、何となく蛙の腹の白さを 思い出させて、つるりとしていた。 「降っているようだね」 男が酒場で最初に声をかけてきたのはこんなことばだった。ひとりごととも聞かれた。私は知ら ん顔して水割りをのんでいた。はじめての。ハーで、私は誰にもかまわれたくなかった。酔って帰っ て、バタンキューツと眠れま、 。しいと思っていたのだ。 あたしがだまっていると、男はまた少したって、
願 祈 「まだ気がついていないのね。でも、急に熱が出てきたわ」 「やつばり、看護婦にしらせといた方がいいだろう」 政之が、ドアの方〈ゆきかけた時、ドアが向こうから開き、看護婦と医師と、その後から青ざめ た乃利子が入ってきた。 乃利子は、安澄の方へより、低い声でいった。 「今、京都に電話いれたら、耀子ちゃん、もう発 0 たそうよ。まもなく来るでしよう」 耀子が病室に入 0 てい 0 た時、部屋の中はうす暗く、べッドのまわりだけが、小さなスタンドの 灯りに浮き上が 0 ていた。ノックをしたが聞こえなか 0 たらしい安澄が、その光の中に、ドアに背 を向けてうずくま 0 ていた。そこだけ照明をあてられた芝居の舞台を見ているような感じだ 0 た。 安澄はべッドにとりすがり、ひざまずいて一心に祈 0 ていた。両手を握りしめ、額に押しあてて うつむいている安澄が、居眠りをしているのではなく、祈 0 ているのだというふうに、と 0 さに感 じられるほど、その背は痛々しい緊張にはりつめていた。 耀子は真 0 直ぐ、べッドに近づいて、母の肩に手をかけた。安澄はびく 0 と軅を震わせてふりむ いた。ふたりは自然に、抱きあ 0 た。立 0 たままの耀子の驅に子供のようにしがみついた安澄を、 耀子はこれまで感じたことのない優しさにあふれて、ひきおこしてや 0 た。並ぶと、安澄は耀子の 肩までしかない。耀子は抱きしめた母の驅が、思いの外小さく、頼りないのに愕いた。こんなきや しゃな骨細の母に頼りき 0 て、これまでわがままい 0 ばいに育てられたのかと思うと、臉があっく
迷い鳩 乃利子は葉子を沢本圭子にひきあわせ、圭子を案内して部屋に帰った。 沢本圭子は、落着くとすぐ、次号の企画について語った。乃利子に、夫を仲にして不和になった 妹を殺した人妻の周囲を探訪してくれないかという話だった。 「このところ、殺しが、むやみに多いでしよう。たまたま、殺された妹さんが、団地住まいの未亡 人だから、あなたにお願いした方がいいと思って」 「この頃、お忙しいんですか ? 」 沢本圭子が、すぐには返事をしない乃利子にむかって訊いた。 」こ : : : でも、主人が帰って来て、何かと落着かないものですから」 「いえ冫 「それじゃ、まだうちの仕事はやっていただけると思っていいのですね」 乃利子は沢本圭子の顔を見直した。眼鏡の奥から、圭子は真っ直ぐ乃利子を見つめていた。 これは私ひとりの感じなんですけど、もう仕事なさるお気持ないのじゃない 「いえ、ちょっと : かと思って、それもはっきりお聞きしてみるつもりもあって伺ったんです」 「どうしてでしよう ? 」 乃利子は虚をつかれた想いでいった。 「これはあくまで私ひとりの感じなんですけど、ちがったらごめんなさい」 沢本圭子は、目は笑って、表情はひきしめながら、ことばをつづけた。 「三谷さんがいなくなってから、何だかあまり、積極的に仕事なさろうという意欲がなくなったみ
水野はまるい赤い唇をとがらせていった。 「悪いわ、お客さまを」 安澄は研一をたしなめる口調でつぶやく。 自分の立場を水野がどうとっているかと思うと、うかつな口もきけない気がした・ 水野が、あっさり、 「じゃ、お大事にね。また連絡にきます」 といって出ていった。 「お茶がほしいな」 研一がし 、う。水野が出ていった扉口を見て、ぼんやりしていた安澄は、はっとふりかえって、あ わてたように台所へたっていった。 「お湯なら魔法瓶に入っているよ。今、水野がわかしていれてくれたから」 「あ、そうだったの」 安澄は、昨日自分が片づけたまま、汚れていない台所を見まわし、引きかえした。 「感じのいい人ね」 「今のお嬢さん」 「ああ・あれか。頭はいいんだよ」 「いくつかしら ? 」 ユ 60
やはり、自分の血の中にはあの激しい母の血が流れているのだろうか。 それならば、耀子にも・ 安澄は手早く、身支度をして、朝の町へ出ていった。 昨夜、研一にもらったナフキンの所番地をタクシーの運転手につげた。 車でなら、二十分とかからない場所に、そのア。 ( ート を見つけた時、安澄はとまどった。 見るからに、贅沢な感じの、小ちんまりとはしているが、研一のアパートなんかとは比較になら ないほど、高級な建物だった。 部屋の前に立ってブザーのボタンを押しながらも、安澄はまだ、戸惑いからぬけきれていなかっ 中から、落着いた女の声で、 「どなた ? 」 と訊く。 耀子の声でないことはたしかだった。 ブザーの音だけで不用意にドアをあけないのは、こういうア。 ( ート住まいの者の心得としては当 然だった。 何と答えたものかと迷いながら、 「ちょっとお尋ねしたいことがございまして」 と、曖昧な口をきいた。
「夢をみてましたか ? 」 「ええ : ふたりの声と声の間に、まるで地球の吐息のようなふしぎな呼吸音が入ってくる。 夜の声とも、風のため息ともわからない、その不思議な、音ともいえない音の気配は二人の距離 をかえって近づけ、まるですぐ間近 : : ・近すぎて相手の顔が見えないほどの近さに三谷の声を感じ させてくる。 「起こして悪かったな : 「いいのよ」 「どんな夢だった ? 」 「・ほくも夢をみていた」 「どんな夢 ? 」 「いえない」 乃利子は電話のふたりの会話が、昨日までの口調と全くちがっていることに気づいた。それが不 自然でなく聞こえ、うけ答えしている。まだようやく唇をあわせたにすぎない間なのに、口調には もう何もかも許しあった仲のような親しさと馴れ馴れしさがあるのが不思議だった。 「意地悪ねえ」 っそう乃利子を愕かせた。 自分の声の甘さが、い 754
夜 十 面があったのね」 と、感じいったようにいった。着物で女は化けられもするし、個性を殺すことも出来るとは知っ ていたが、こんなふうに、新しいもう一人の女を産みだすことは目新しい愕きだった。 「こんな大胆な柄が目につくことに愕かされたけれど、それが似合う優子さんというのに、全然気 がっかなかったわ」 「うちは、昔は大胆な、どっちかというと、フラッパ ーの娘だったんやわ。結婚してから、いつの まにか、こんなふうになってしもうてた。桑村の家にふさわしいよう、養子娘の我儘者と指さされ んようにと、自分をいましめすぎて、無個性みたいになってたのやわ」 優子は、衿元に風神雷神の図柄をひきつけるようにしてつぶやいた。 「女ってつまらん。ほんまにつまらんわ」 「そんなこともないでしよう。第一、まだ、若いんだし、これからが女の花盛りの年齢だし」 安澄は、店の売場の方へ上がっていきながらいった。 「これ、いただいときます」 「はいどうそ。それは売らないつもりの品だけれど、あなたならいいわ。こういうのが似合うなら、 あたし、ひとつ、思いきったもの染めてあげる。置土産に」 優子は聞きとがめた。 「今、何ていわはった ? 置土産とか」