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検索対象: 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]
108件見つかりました。

1. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

して思いっかなかったのでしようか。 三国同盟を手放してしまったら、も 洋右が勝手に進めたことではないか う日本はアメリカと対抗できない。 と思っていたんです。ところがそう 川田事実、昭和十六年六月には ここでアメリカと手打ちをしても、 ではなくて、『昭和天皇実録』を読む独ソ戦が始まってしまいます。この 時点で、「時局処理要綱」の前提はやがてアメリカは日本が中国で得た と、松岡がドイツ、ソ連に向かう前に ちゃんと正式な会議で決定され、天崩れてしまう。そして、ここから軍ものを全部放棄させ、満洲事変以前 務局長の武藤と、作戦部長の田中新の小日本に戻ってしまうと考えた。 皇の耳にも入っていたんですね。 は正しかった 出口ということは松岡のみなら一との激しい対立が始まるのです。 船橋その認識自体 と思いますよ。アメリカから日本を ず、日本の指導者は本気で考えてい 陸相の東條は長いあいだ満洲にいま たのですね。それだけドイツが強く したから、只の陸軍山英が積み上見た場合、それ以前の過程で日本に 見えた。しかし実はドイツは再軍備げてきた政策立案過程をよく知らな対する信頼はほとんど失われていま 。実際に政策を立案していたのは した。満洲事変で、ステイムソン米 から日が浅く、兵士の訓練も軍備も 田中新一と武藤章でした。 国務長官はパリ不戦条約 ( ケロッグ 大して整っていなかったのです。 武藤は、このままいけば対米戦に 日プリアン条約 ) に違反していると なる、アメリカと戦争したら日本は声明を出しますが、これは決定的で 陸軍内部の 滅びてしまうと考えた。アメリカがす。以降、ハル・ノートに至るまで、 激しい「戦 要求しているのは何かというと、ま 日本に対する不信と警戒感は高まる 勁出口それにしても不思議でならずは三国同盟から離脱することでばかりでした。 ないのは、当時、ヒトラーの『わが闘す。そこで武藤はドイツとの同盟は、 日田田中が考えたのは、ドイツ ぜ がまずソ連を潰し、そのあとイギリ 独ソ戦によって戦略的にはほとんど 争』は日本でも翻訳出版されていた 櫺のですが、あれはまごうかたなき反意味がなくなったと判断し、アメリスを潰すとしたら、日本が生き残る 道はありうる、というものでした。 敗共思想の書ですね。独ソ不可侵条約力との妥協を模索し始めます。 失 など一時しのぎにすぎないと、どう ところが田中は違いました。もしそのためには日本が東側からソ連に 1 2 /

2. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

中国本土については米英と協調して らの入手量は、国内需要の一一割程度 米英協調を目指した宇垣構想 経済的な発展をはかるべきだとの姿 にすぎなかった。おそらく中国で必 ちなみに、一九二〇年代後半前後勢だった。米英ともに中国本土には 要量が確保できない場合には、同 盟・提携国からの入手などが考えら ( 政党政治期 ) の陸軍首脳に強い影響強い利害関心をもっていたからであ かずしげ 力をもった宇垣一成 ( 同時期に長期る。また、次期大戦のさいは、当然 れていたものと思われる。 間陸相に就任 ) も、長期の総力戦へ米英と提携することが想定されてい その他の資源も、多くは満蒙およ た ( ただし、宇垣は次期大戦を必ずし び華北・華中が供給可能地域とされの対処として軍の犠化と国家総動 ている ( 「現代陽概論」 ) 。 員の必要を主張していた。その点でも不可避だとはみていなかった ) 。 だが、永田からみれば、それでは このように永田は、ほとんどの不は永田も同様だったといえる。 だが宇垣は、基本戦略としてワシ大戦にさいして、国防上自主独立の 足軍需資源について、満蒙および華 ・華中からの供給によって確保可ントン体制を尊重し、米英との衝突立場を維持することができないこと になる。 はあくまでも避けるべきとの観点に 能であり、そこからの取得が必要だ たっていた 軍需資源を米英から輸入すること と考えていた。 したがって、主に対ソ戦の可能性を前提にしていれば、それに制約さ 永田にとって、中3@題は基本的 には国防資源確保の観点から考えらを念頭に、中国本土をふくまないかれ、提携関係も選択の余地なく米英 たちでの、日本・・満蒙・東部側とならざるをえない。そのように 山れており、満蒙および華北・華中が、 シベリアを範域とする・暑圏の形成提携関係においてあらかじめ選択を その供給先として重視されていた。 限定されれば、国防上の方針決定の とりわけ満蒙は、現実に日本の特殊を考えていた。 ハンドを確保することがで それは、資源上からも厳密な意味フリー・ 権益が集積し、多くの重要資源の供 罠 給地であり、華北・華中への橋頭堡での自給自足体制たりえず、不足軍きない。したがって国策決定の自主 の 独立性が失われる。 力として、枢要な位置を占めるものだ需物資は米英などからの輸入による 総 った。 この点が、宇垣に永田がもっとも 方向を想定していた。したがって、

3. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

頼りきっては、海上輸送にリスクがありますから、安心徴用令により軍需産業への徴発が可能であった。」 女子挺身勤労令と学徒動労令の前に出されていた「国 できない。そこで、国内の農産物生産量を維持するため に、今まで減らしてきた農村人口をこれ以上は減らさな民徴用令」でも正解になるそうです。 いようにしたのです。 間三はどうでしようか。 でも、日本政府は都市への移住を禁止することはでき 精神主義に抵抗した知性 ませんでした。スターリンやヒトラーのように「ここに 片山この問いそのものに異議を唱えたいですね。 絶対いろ」とはいえなかった。戦争中の日本は社会主義 国や独裁国では決してありませんでしたから。結局、農「あの戦争」下の日本が単なる「戦時体制」ではなく、 村に残ることを奨励する政策しか打てなかったので、農もっと全体主義的で、ファシズム的で、狂信的で、不合 村人口の減少を止めることができず、農傷は不足して理で、精神主義的だった、と答えさせたいのでしよう。 いきました。 この問題に関しては、先に解答例を見せていただしない でしようか 正解です。解答例を見てみましよう。 わかりました。解答例を見ましよう。 「農業従事者。労働力や生産資材の不足から食糧難が深 「日中戦争が開始されると、政府は国民に節約・貯蓄など 戦刻になっていたため。」 の 和 の戦争協力を促すため、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を ちなみに食糧生産を増やすために一九三九 ( 昭和一四 ) 昭 年に小作料統制令が、四一一年に食糧管理法が施行されて掲げて国民精神総動員運動を展開するとともに、総力戦 解 で の遂行に向け労使一体で国策に協力する産業報国会の結 います。次の問題も「動員」に関するものですね。 誹片山未婚女性と学生・生徒、動員した法令は女子挺成を進めた。また、一九四〇年にはナチスドイツにならっ た強力な一元組織を目指して大政翼賛会が結成された。」 身勤労令と学徒動労令です。 教 片山 0 の文章や「性格の形成」「国民的性格」とい その通りです。解答例を見てみましよう。 マ ャ うキーワードから、この答えを導くには、相当に出題者 タ 「成人男子が根こそぎ徴兵される中で、学生や未婚女子、 そんたく カ 外地からの強制労働者が労働力として期待された。国民の意図を忖度しなければなりませんね。実は引用されて 1 〇 5

4. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

昭和史大論争 、逆に海軍は陸軍に引きずられやしていながらも、結局は陸軍を止めは、海軍が強い塾打責任観念を持っ すくなってしまってしオ卩 ことにもつながる。 、こ。苅述した ることができないことに対する苛立 第一次三国同盟交渉において、陸海ちと諦めを、どこかに含んでいるよ 多くの海軍将校たちは、日本とア 軍の中堅層は一致して行動していた うに思われる。時期によって違いは メリカの国力の違いについて熟知し が、その理由を当時海寔宿臨時調査あるが、海軍将校の数は陸軍将校のており、アメリカとの戦争が非常に 課長であった高木惣吉は、「陸軍の五分の一程度であり、陸海軍の間で困難なものであることを理解してい 独断専行を或程度まで阻止するためは、政治力に雲泥の差があった。そた。だが、勝てる見込みが少ないか 一緒に行くやうな顔をして、一 のため、海軍は「軍人は政治に関わらといって、一度の戦闘も経ずに、 方に引きずって勝手な真似をさせま らず」というモラルを陸軍よりも強政治家に降伏を進言する軍人などは いといふ意図から出た」と述べてい く抱き、自己のアイデンティティと いない。海軍には毎年莫大な国家予 る ( 原田熊雄述『西園寺公と政局』 ) 。 することで、陸軍に対する自分たち算がつぎ込まれており、困難な戦争 海軍ができたのは、陸軍が推進すの誇りを維持していたのであった。 を少しでも有利に進めることができ る政策を止めることではなく、あく だが、この意識が、海軍の政治姿勢るよう、作戦計画を練り、訓練を実 までもその案に修正を加えることだをより消極的なものとしてしまうこ施していた。海軍にとって、開戦の けであった。だが、それでは陸軍のとになる。 決定は軍人が行う領域ではなく、政 進める政策の方向性までは変えるこ 治家の管掌範囲であると考えられ、 海軍の執行責任観念 そうであるがゆえに、自分たち以外 とができず、海軍は多くの場合、陸 軍の案を「合理的」に修正している 「軍人は政治に関わらず」といったのどこかが開戦を決定すれば、海軍 つもりでありながら、その内実は陸政治と軍事の棲み分け意識を強く持はそれを粛々と実行する方向に進ん 軍に追随しているだけであった。 っということは、自らが管掌する軍でいくことになるのであった。 さて、海軍の陸軍への強い対抗意事の領域、特に海軍が管掌すること さて、海軍が主観的には政治と軍 識は、自分たちを「合理的」と認識になるアメリカとの戦争について事の領域を明確に区別していたとし

5. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

一致が必要であり、それには政治経る。両派の抗争は、一タ会の分裂に の資源では、ボーキサイト ( アルミ 済社会における多くの欠陥を切除し よるもので、永田は統制派を率い、東ニウムの原料 ) 、石油、生ゴムなどが なければならない。だが、そのため条・武藤らはそのメンバーだった。 大量に不足することが判明した ( お には「非常の処置」を必要とし、そ このような永田の構想は、永田のもに、航空機や戦車の予想を超える大 れは従来の政治家のみにゆだねても死後、武藤、田中、東条など統制派量需要による ) 。それらは東南アジア 不可能である。したがって、「純正系の人々に受け継がれる。 から供給可能だった。そこから武藤 なお、永田がもし生きていれば、 は、東アジアのみならず東南アジア 公明にして力を有する軍部」が適当 な方法によって「為政者を督励す太平洋戦争は起こらなかったのではを含めた範域を日本の , 暑自足圏と ないかとの見方がある ( 永田構想のし、「大東亜生存圏」と名付けた。 る」ことが現下不可欠の要事である ( 永田「国防の根本義」「真崎甚三郎関もつ一定の合理性に比して、太平洋戦それが後の「大東亜共栄圏」となり、 係文書』、国立国会図聿贔所蔵 ) 、と。 争期の戦争指導があまりにも非合理的東条や田中にも共有される ( 拙著 『昭和陸軍全史』第 3 巻参照 ) 。 だったことが一つの背景 ) 。その点に このような永田の構想が、満州事 三人は、以前から、次期大戦不可避 変以降の昭和陸軍をリードしていく ついては、今の段階では確かなこと はいえない。ただ、永田の存在がな論や、日本もそれに必ず巻き込まれ ことになる。その後、陸軍パンフレ ット『国防の本義と其強化の提唱』ければ、当該時期に東条や武藤、田るとの判断をもっていた。国家総動 中らが陸軍を牽引する地位にはいな員論や、資源の , 暑自足と中国資源 山 ( 一九三四年 ) において、彼の考えは、 田戦時のみならず、平時における国家かっただろう。 の確保、軍の政治介入の必要性など についても認識を共有していた。し また、ヨーロッパで第一一次世界大 総動員実施の主張へと展開する ( 以 前は、平時には国家総動員の準備と計戦が始まると、武藤軍務局長は、永ずれも永田の影響によるものだった。 罠 永田なくして、太平洋戦争開戦ま 画のみで、実施は戦時 ) 。だが、軍務田の構想に基づき、資源の , 暑自足 の カ局長在任中の一九三五年、皇道派との観点から、あらためて不足資源をでの彼らの政策は考えられないもの 総 統制派の派閥抗争のなかで殺害され再調査した。その結果、日本・中国だったといえよう。 CO 4

6. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

論 距離を感じ、反発していたところだ けることは不可能ではなかった。だ されているといえよう。それが、永 つ 0 が、永田は当時の中国国民政府の「革田にとっての満州事変であり、その もちろん、このことは米英との提命外交」と排日姿勢のもとでは、実後の華北分離工作 ( 軍務局長在職中 ) 携をアプリオリに拒否するものでは際上それは困難だと判断していた。 たった。ただ、華北分離工作のさい なく、あくまでも敵対・提携関係の 永田のみるところ、中国国民政府 には、米英などの中国利権と衝突し フリー・ ハンドを確保しておこうとの弄器外交」は、排日侮日を引き ないよう、慎重な配慮がなされてい の意図からだった。このような観点起こし、県資源確保上、橋頭堡的た ( たとえば米英の鉄道・鉱山その他 は、武藤章、田中新一ら統制派系幕な意味をもっ満蒙の既得権益を危くの投資利権、英の海関支配などには手 するものだった。そのことからまた、 僚にも受け継がれる。 をつけず、原則として両国の通商活動 宇垣のスタンスと異なり、永田の戦時のさいの軍需資源全体の , 暑見を妨害しない ) 。中国全体の支配とい 場合は、米英との対立の可能性も考通しの確保についても、通常の外交うよりは、資源獲得が主要な目的だ 慮に入れ、中国の華北・華中をふく 交渉による方法では極めて困難な状ったからである。 めな暑圏形成を構想していたので況に追い込まれつつあると判断して だが、このような方向は、政党政 ある。 治や宇垣らの中国政策とは異なるも 永田はいう。「非道きわまる排日のであり、それらと厳しい緊張を引 満州事変と華北分離工作 侮日」のなか、「民族の生存権を確き起こす可能性をはらんでいた。 では、これらの中国資源確保の方保し、福利均分の主張を貫徹するに また、国内政治体制の問題につい はばか 法として、どのような具体的な方策何の憚るところがあろうぞ」 ( 永田ても、永田は、政党政治の方向に対 が考えられていたのだろうか。 「満蒙問題感懐の一端」『外交時報』第抗して、「純正公明」な軍部が国家 もし日中関係が安定しており、何六六八号、一九三一一年 ) 、と。 総動員論の観点から政治に積極的に らかの提携・同盟関係にあれば、戦時 ここに中国大陸からの資源確保の介入することを主張している。 下においても必要な資源の供給を受具体的方策の方向性は、おのずと示 永田はいう。国家総動員には挙国 4

7. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

州戦の教訓」「現代概論」 ) 。 支那、「中支那」の各地域で利用し ことは、注意すべきである。 さて、国家総動員を要する事態と うる概算量、需給に関する「観察」、 そのほか、鉱物資源としては他に、 なれば、各種軍需資源の「自足」が記されている。ちなみに、この一鉛・亜鉛は華中、錫は華アルミ 体制が求められることとなる。だが七品目は当時重要とされた軍需資源ニウム・マグネシウムは満州など 永田のみるところ、日本の版図内でをほとんど網羅していた。 が、供給可能地域として挙げられて いる。 しうる国防資源は極めて貧弱な そこでの検討によれば、鉄鉱石、 状況にある。したがって自国領の近銑鉄、鋼鉄ともに、本土・での 石油は、航空機、戦車、艦船など 辺において必要な資源を確保してお生産額では大幅に不足し、不足分はの燃料として重要資源の一つだが、 かなければならないとの判断をもっ輸入に頼っている。だが、すべて満版図内での産出量すこぶる少なく、 ていた。この不足資源の供給先とし蒙、華北、華中の資源で充足するこ ほとんどを輸入に頼っている。満蒙 て、永田においては、満蒙をふくむとができる。また、石炭は、ほぼ自で撫順頁岩油 ( シェール・オイル系 ) 中国大陸が念頭におかれていた。 給しうるが優良炭が少ない。優良炭が産出されるが、その産額は不足分 永田は、主要な軍需不足資源のう は、華北・華中に多く、全体としての一割程度。華北・華中ともに多少 ち、ことに中国資源と関係の深いも戦時不足分は、満蒙・華北・華中での油田はあるが調査試験中の状況。 のについて検討を加えている。 補充しうる。 「支那資源によるも目下供給著しく そこでは、品目として、鉄鉱石、 鉄鉱石、銑鉄、鋼鉄の軍事上の用不足の状態にあり。速やかに燃料国 銑鉄、鋼鉄、鉛、錫、亜鉛、アルミ 途は、武器・弾薬のほか各種器具・ 策の樹立及之が実現を必要とする」、 ニウム、マグネシウム、石炭、石油機械用。石炭の用途は、主要な動力・ との観察が付されている。 など、一七品目の重要な軍需生産原熱発生源である。この四品目は、軍 石油に関しては、中国資源による 料をとりあげている。そして、それ需資源としては最も重要かつ大量に としながらも、必要分確保のはっき ぞれについて、軍事用の用途、「帝必要とするもので、すべて満蒙、中りした見通しが立てられていないと 国」内での生産の概況、「満蒙」「北 国北中部での確保が考えられている いえよう。当時北樺太の石油利権か 4

8. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

したのだが、ナジブ首相は明確な返 れ、きびしい条件のもとで働かされ本側の認識の甘さだ。 原点は、市民団体などが世退産答を避けた。マレーシアはそれまで た」と記述しているのである。 事務レベルでの働きかけに好意的な 一方、韓国が世退産委員会での登録を目指そうという動きを始めた 、こ、こナこ、日 , 不側に 一〇年ほど前に遡る。当時から運動姿勢を見せてしオオしー 発言で「強制労働 (forced labor) 」 に携わってきた関係者によると、朝は大きな衝撃だった。 という表現を使おうとしたのは、国 日本は必死に巻き返しを図った 内世論を意識した可能性がある。韓鮮人徴用工の問題を韓国が問題視す が、簡単ではなかった。多くの国が ることは当初から懸念されており、 国内の関心が非常に高くなったた ま最初から外して「日本と韓国で話し合って解決策を め、なるべく強い表現を使う姿勢を徴用工のいた施設ー おこうという議論も出ていた。日本見つけてほしい」という反応で、欧 見せた方がいいという判断だろう。 州の委員国からは「日本の一一 = ロうこと は結局、一〇年前から心配されてい 法的な厳密さより政治的意味合い も分からないではないが、日本は を重視する韓国の社会風土が作用した問題でつまずいたということだ。 よ た面もあるようだ。韓国政府当局者イコモスの勧告に反発した韓国が ( 和解の ) 努力が足りないのではない え か」という声まで出たという。 は「ま「 ced labor] という言葉にそ五月上旬にロビー活動を始めてから そして、世界遺産委員会での韓国 れほど強くこだわったわけではない も、事情は似たようなものだった。 タ 日本が本腰を入れて韓国に対抗す側発一言を事前に詰め切れなかった甘 としながら、「韓国ではもともと強 国制徴用と呼んできた。日本側は法的るロビー活動を始めたのは、五月末さが、最後に大きな混乱を招くこと 韓 になったというわけだ。 になってからだ。政府関係者による に問題があるとか言うけど、素直に と、契機になったのは、同月一一五日結局、落としどころとなったのは、 反訳せば forced 一 abor でしよ」と振り に行われた安倍晋一一一首相とマレーシ従来からの日本の立場を再確認する 返った。 遺 水準だった。韓国との事前調整を行 アのナジブ首相との会談だった。 目についた日本の「甘さ 文 界 安倍首相は、世界遺産委員会の委っていれば、イコモスの勧豈則に同 世 じ内容で折り合っていただろう。 一連の騒動で目についたのは、日員国であるマレーシアに協力を要請 235

9. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

ける」状況は、日本国内における間 日本政府にこの問題の解決を求め、様の歴史認識問題へと波及していく 事になる。 題解決に向けての熱意を失わせる原 両国関係は紛糾する。 因であるのみならず、「韓国はアン このような中、要求を突き付けら 韓国はなせ約束を反故にするのか フェアな国家である」とする嫌韓感 れた日本政府は率先して解決案の作 とはいえ、このような状況は日本情の基盤の一つにさえなっている。 成に動き出し、一旦は水面下で韓国 それでは慰安婦問題、そしてそれ から見れば極めて理不尽に思える。 政府の「協調、の約束を取り付ける。 しかしながら、韓国政府はこの約束何故なら、状況の変化に応じて約束を取り巻く日韓関係は、どうしてこ を維持できず、結果として両国の合を反故にする韓国政府の姿勢は不誠のような状況になってしまったのだ 意は反故にされる。一九八七年の民実に見えるし、何よりも韓国の世論ろうか。明らかなのはそれが所謂 主化以後の韓国大統領の任期は一期や政府が、問題解決の為の「ゴール「嫌韓本」が指摘するような「韓国 五年と限られており、政権末期のレを動かし続ける」状況においては、人の特殊な民族性」によるものでは イムダック化が運命づけられている問題の最終的な解決そのものが不可ない、と言う事だ。既に述べたよう ヒヒに見えるからである。考えてみれに、一九六五年から現在までの五〇 事、そして何よりも民族主義的な世育 9 論が強い韓国においては、慰安婦問ば、日韓基本条約とその付属協定の年間のうち、九〇年代初頭までの最 題をはじめとする歴史認識問題にお条文そのものこそが日韓両の最初の一一五年間、韓国は日韓基本条約 及びその付属協定に関する解釈を維 人いて、世論の反対に抗して日本への重要な「約束」であった筈であり、 融和姿勢を維持するのが困難な事がその解釈が韓国側の事情により変わ持していたからである。「韓国人の 民族性」が九〇年代初頭に突如とし ること自体が不可解にも思える。 論その理由である。 ともあれ明らかなのは、このようて変化した、と言う事が不可能であ そしてこの結果、この慰安婦問題 題 を突破口とする形で、両国の日韓基な状況を続けていても、慰安婦間題る以上、「民族性、による説明が誤 りである事は明白である。 安本条約及びその付属協定に関する解の解決は容易ではない、という事で 慰 この点を考える上で重要なポイン 釈の溝は拡大し、その影響が他の同ある。韓国側が「ゴールを動かし続

10. 文藝春秋SPECIAL 2015年秋号 [雑誌]

ドイツの勝利に終わったかもしれま戦勝国の椅子に座ることになるから ンドンが猛爆され、炎上する姿が世 せん。日独伊三国同盟の交渉は、そです。そう、第一次世界大戦のとき 界に伝えられました。 のよ一つに。 ドイツ側は戦果を誇大に、損害をうした腎勢下で進められたのです。 もしドイツ側に立って勝利を得ら 過小に発表しており、宣伝を鵜呑み 「四国同盟という幻想 れれば、日本は英仏蘭の東洋植民地 にすれば「英国はまもなく屈服す ( ビルマ、インドシナ半島及びインドネ 同盟交渉の主役となった松岡とリ る」と確信する状況が作られていま シア ) に何らかの利権を得られるは ッペントロップは、偶然にも「日独 した。しかし実際には、航空戦での 伊ソ四国同盟」というほぼ同一の構ずですし、蒋介石国民政府への補給 損害比率はドイツ側が劣勢でした。 ルートは確実に遮断され、支那事変 ドイツは九月中旬までに英国本土へ想を持ち、その実現を望んでいまし の上陸作戦を断念したものの、このた。それは、ユーラシア大陸と日本は終結するでしよう。 を束ねる「汎ューラシア連合」を形何より、長年の宿敵であるソ連と 情報は日本には隠されていました。 とはいえ、九月初旬の時点で英国成することで戦争を抑止し、併せて同盟できれば、当時最大のリスクと 症の航空戦力が激しく損耗していたこ米英主導の世界秩序 ( その強大な海目されていた対ソ戦争を回避できま 飛とも事実でした。現代の視点で見て軍カ ) に対抗するという戦略であっす。「四国同盟」は、日本が抱える 頭の痛い課題を全て一挙に解決して たも、仮にヒトラーがソ連への進攻計たようです。 くれる魔法の道具と映ったのです。 この構想は後にソ連にも共有さ 画を放棄し、後述する「四国同盟 , を 唯一の、しかし決定的な問題は、 に参加して英国に圧迫を加え続けてれ、スターリンは大いに乗り気でし 盟 リッペントロップの意図に反してヒ た。日本国内でも、この「四国同盟」 同いれば、英国が和平に応じた可能性 トラーがソ連との戦争を望み、松岡 に一は十分にあったと思われます。さら構想への反対意見は目立ちません。 策 にいえば、このとき、英国の指導者仮に「四国同盟」が実現すれば、英がその危険性を真剣に考慮しなかっ 失 大が徹底抗戦を唱え続けたチャーチル国の屈服は確実性を増し、その後のたことでした。 最 結局、四一年六月、独ソ戦の開始 でなければ、「第一一次欧州大戦」は講和条約において日本は労せずして CI)