ていたのが、河北省銀行をはじめと密輸品を中国国内に横流しするなどを走る鉄道の沿線都市の駐屯が認め する、華北に拠点を置く銀行でした。 して、日中関係に新たな火種を生みられていました。しかし、豊台はそ 宋晢兀は支配下に置いた銀行に紙幣出しました。 のなかに含まれていませんでした。 一方、華北分離工作によって関東支那駐屯軍は条約違反であることは を発行させて、財源に充てていまし た。国民政府は華北分離工作をこれ軍が華北に影響力を広げたことを危わかっていましたが、臨時措置とい う名目で駐屯させました。 以上進展させないため、幣制改革で惧した日本政府は、一九三六年五月、 一九三七年七月七日、豊台の支那 通貨発行権を一手に握り、金融を通本来華北を管轄範囲とする支那駐屯 して華北を繋ぎ止めておく必要があ軍の兵力を三倍近く増員 ( 約六〇〇駐屯軍一個中隊が北平の西にある盧 りました。 〇人 ) して、関東軍との軍事バラン溝橋附近で夜間演習をしていたとこ スを見直しました。増員は日本側にろ、同地を守備していた第二十九軍 関東軍の対抗策が戦争を招いた とっては、これ以上中国と紛争を起と軍事衝突を起こしました。これが しかし、幣制改革はかえって関東こさないための措置でしたが、中国盧溝橋事件の始まりでした。関東軍 軍に華北分離工作を急がせる口実を側からみれば明らかな日本側の軍事の華北への「野心」を抑えるはずだ 与えました。 的威嚇でした。そのため、国民政府った支那駐屯軍の増兵が、皮肉なこ 戦 敗 一九三五年末、関東軍は知日派では外交ル 1 トを通して日本政府に抗とに八年に及ぶ日中戦争を引き起こ 黄郛に代わって非武装地帯を管理し議し、中国各地では増兵反対のデモす直接のきっかけとなりました。 さらに、そのもとをたどると、日 ていた殷汝耕を説得して、同地帯をが起きました。 妨 を領域とする冀東防共自治政府を盛並増兵を受けた支那駐屯軍は、兵舎本が幣制改革の対応を結果的に誤っ に収容しきれなかった一部部隊を北 たことが、日中関係を決定的に悪化 させました。 ほうだい させ、満洲事変を日中戦争へと繋げ 変国民政府の支配からの離脱を宣言平に程近い豊台に移駐させました。 た「ポイント・オプ・ノーリター 洲した冀東政府は冀東銀行券を発行し支那駐屯軍は中国側との条約によっ 満 ンとなったといえます。 て法幣に対抗したり、満洲から来たて、天津のほか、北平と山海関の間 いんじよこう
年表で読む歴史認識論争 志向、過去は一切不間に付すと発言。一一月なっている。一九九七年、中国系アメリカ人ジャーナリストのアイリス・ 一六日「韓国挺身隊問題対策協議会」結成。チャンは著書『ザ・レイプ・オプ・南京』にて、南京事件を「ホロコース 一九九一一月ニ一日韓国政府、慰安婦問題に対して「追ト」とし、日本軍が南京市民ニ六万人から三五万人を虐殺したと述べた。 加の補償等」の要求。八月一一日朝日新聞「元日本においては「大虐殺派」として、十数万人以上の虐殺があったとす 朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口開く」 ( 韓る論者は、洞富雄、藤原彰、笠原十九司、吉田裕、本多勝一など。 国特派員植村隆 ) 報道。一ニ月六日金学順を初中間派としては、秦郁彦 ( 約四万人前後 ) 板倉由明 ( 数千 5 ニ万人 ) 北村稔 め三名の元慰安婦ら ( 主任弁護士】高木健一 ) ( ニ万人弱の中国軍捕虜の殺害を指摘、一般市民への虐殺はないとする ) など。 が日本政府を提訴。 「まぼろし派」こと、南京での虐殺事件の証拠は存在しない、便衣兵 ( ゲ 一九九一一一月一一日朝日新聞、吉見義明中央大学教授リラ兵、中国人兵士が軍服を棄てて民衆に紛れ込み交戦を続けたもの ) の処刑は が慰安所に軍が関与していたことを示す旧軍あったにせよそれは戦時国際法上合法的であったとする説は、佐藤和男、 資料を発見と報じる。一月一三日加藤紘一官田中正明、東中野修道、阿羅健一、渡部昇一、小林よしのりなど。 房長官談話で慰安婦への軍関与を謝罪。一月日本政府は「日本軍の南京入城 ( 一九三七年 ) 後、非戦闘員の殺害や略 一六日韓国を訪間した宮澤喜一首相が「反省奪行為等があったことは否定できない」が「被害者の具体的な人数につい とお詫び」表明。五月一日発売の「正論」 ( 一ては諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難」との 九九一一年六月号 ) にて歴史家秦郁彦、吉田清治見解を示している。 が済州島で慰安婦狩りをした事実はないこと ③誤報から始まった歴史教科書問題 を立証。一〇月ニ三日今上天皇訪中。 一九九一一一三月一三日金泳三韓国大統領、慰安婦問題に 一九八ニ年六月ニ六日、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞等各紙は一斉に、 ついて日本に補償を要求しないと発言。八月文部省の教科書検定において「日本軍が華北を侵略」という記述が「日本 四日河野洋平官房長官「河野談話」発表。八軍が華北に進出」に書き換えられたという趣旨の報道を行った。 月ニ三日細川護煕首相、所信表明演説で「侵これは記者クラブ制度の中、煩雑な教科書検定の報道はマスコミ各社が 略行為や植民地支配」に対する「深い反省と分担して取材していたことから、日本テレビ記者が実教出版教科書で「華 おわび」を述べる。 北へ侵略」記述に改善意見が付記されたことと、帝国書院『世界史』で「東 一九九五七月一九日財団法人「女性のためのアジア平南アジアを侵略」を「東南アジアへ進出」とする検定書き換えがあったこ 和国民基金 ( アジア女性基金 ) 」発足。八月一とを混同したことから生まれた誤報だったのだが、どの社も裏付け調査を 五日社民党の村山富市首相「村山談話」発表。せずに報じたのが原因である。これに対し、中国政府は日本の新聞報道を
ましたから、樋口の見立てはなかなかあなどれません。 ご存じのように、集団的自衛権行使の例として、政府 地理的な条件というのは、人間には変えることができ はホルムズ海峡での機雷の撤去への協力を挙げました。 ません。そして、時代が経っても変わらない。だから地しかし、今年、日本の国会で安保法制の是非が争われて 政学的発想は、時代を超えて、応用が利くのです。 いるときに、国際社会では何が起きていたか。米英ロ中 則の日本では、地政学がそれなりに学ばれていまし 仏独の六カ国とイランが十三年間ものマラソン交渉の結 た。しかし、陸軍の対象はシベリアや大陸支配に向けら果、核開発問題の合意に至ったのです。 れ、海洋戦略はほとんどありませんでした。だから、南 日本の国力からすれば、その六カ国に加われないこと 方に進出して、イギリスの権益を侵しても、アメリカは自体、外交の失敗だと思いますが、それは別としても、 出てこないだろうといった甘い見通しを捨てられなかっ そんなタイミングで日本では、ホルムズ海峡にイランが たのです。南方への進出を真剣に考えるなら、英米不可機雷を仕掛けることを想定した議論をしているのです。 分を前提に検討しなければいけなかった。 しかもオマーンとイランの伝統的な友好関係を考えて また地政学では、縄張りと地理が極端に異なっている みても、オマーンの領海内にイランが機雷を設置すると のは危険だと考えます。たとえば、メインランドから遠 いうのは、日本の海上自衛隊とフィリピン海軍が衝突す く離れた土地を自らの縄張りにしてしまうと、余計なエ る可能性と同じぐらいの確率でしよう。日本政府の地政 ネルギーが要るからです。今でいえば、アメリカが遠い 学レベルは、大正時代の空想小説ー こも及ばないとしか一一 = ロ 中東に兵を出したり、地理的に近いキューバと外交関係 いようがありません。 を持たなかったのは、地政学に反していた。そう考える と、いまアメリカが中東から事実上退き、キューバと関 地政学の目で中国を読む 係を正常化するのは、地政学に適った政策なのです。 ところが、今の日本は地政学的におかしなことばかり している。その代表的な例が、いま国会で審議されてい また現在、地政学の観点から世界を見たとき、要注意 る安保法制です。 なのは中国です。というのは霙アジアに、大きな変動 8
入試で学ぶ「あの戦争お 下してはいけないわけではありませんが、「輔弼」を受でいたことです。なぜ、急いでいたかというと、一九四 けるのが「憲政の常道」だったのですから。昭和天皇は 五 ( 昭和一一〇 ) 年の秋から憲法問題調査委員会だけでな そのことに非常に , 的で、英国の王様のようにつとめ 、政党や民間で新憲法草案が練られていたころ、日本 て立憲君主として振る舞おうとしていました。 の占領政策の曩咼決定機関として、戦勝国である米英中 しかし、原爆投下、ソ連の対日参戦という非常事態の ソを中心とする極東委員会が設置されようとしていたか なか、「輔弼」の任にあたるべき国務大臣たちが、「輔弼らです。極東委員会のなかには、オーストラリアなど、 できませんから、決めてください」と万歳をしてしまっ天皇を戦争犯罪人として起訴することを求めていた国々 た。昭和天皇に決断を投げてしまった。異態ですよ。 もあり、マッカーサーが進めていた新憲法制定に色々ロ ところが、ここで天皇が「聖断」を下したことが、明治を出してくるおそれがありました。マッカーサーはすで の元勲たちの懸念とは逆に、「国体」の維持につながり に日本統治を円滑に進めるために天皇制を残すことを決 ました。戦争を終わらせた聡明な君主として、国民から めていましたから、極東委員会が創設される前に、何と の支持や共感をつなぎとめることができたからです。 してでも新憲法を制定したかったのです。 「聖断」がなされず、昭和天皇が内閣や軍の「輔弼 , を これは満点でしよう。解答例を見てみましよう。 受けて、敗戦を承認しただけだったら、戦後、あれほど 「幣原内閣が当初提出した改正案は、天皇を統治権の総 の信望を得られたかどうか : 攬者とするなど大日本帝国憲法の微温的な改正にとどま ーーなるほど。では問二に進みましよう。日本国憲法っていた。極東委員会の活動開始が迫るなか、 oro は の成立についての問題です。 象徴天皇制を柱とする憲法草案を直接起草することで、 じようじ 片山これは松本烝治を委員長とする日本政府の憲法占領政策の主導権を握ろうとした。」 問題調査委員会がつくった改正案が、天皇が統治権を総 天から降ってきた憲法 攬することを認めるなど、には大日本帝国害 ~ 法と , ーー三はどうでしようか。 代わり映えしない、保守的なものに見えたからですね。 もう一つの理由は、マッカーサーが新憲法制定を急い 片山おそらく求められているのは、一兀東京帝国大学 しではら ( 〇 0 )
から、決してこの順序を間違えるべ通りに善政を行うならばまだしも、 け、国民Ⅱ臣民にその存在感を知ら きではない、と佃沢は説い もし専制権力とその取り巻きが暗愚しめたが、総じて福沢の文明化構想 当面、西洋近代の流儀を採用して、 に陥ればどうなるか。判断ミスや失に則って国家建設を進めたと言って よいであろう。 一身の独立と一国の独立を両立・維政をチェックし正す仕組みが働か 持するという福沢の戦略に、一一重のず、社会全体が蒙る災厄は計り知れ 明治新政府にとっての悲願である 意味で立ちはだかったのが、旧い中ない ( 中国文明における王朝交代期の条約改正によって名実ともに欧米と 国文明の遺物であった。一つは、専混乱は総じてこのようなものである ) 。 対等な国家となるためには、西洋文 制権力が価値観や道徳の基準を独占 福沢は、価値を独占しようとする明の価値観からみて劣ることなき公 し多様性を阻む問題であり、もう一儒学的体制を「支那の神政府」と呼正な規範を整備して社会を運営し、 つは「華夷」「天下」秩序が、対等なび、日本は幸いにしてこの悪弊から経済発展を図ることが第一であり、 国家間関係を旨とする近代外交と著は免れていることを尊んだ。日本でその一つの達成点こそが大日本帝国 」こよる しく矛盾するという問題であった。 は武家政権が生じて以来、天皇と武憲法の発布・帝国議会の設ー 価値観の問題をめぐって、儒学思家に権威と権力が分散しており、し立憲主義への移行であった。 想の伝統は、人間そして万物を上下 たがって特定の存在が価値を独占せ 脱亜 " 脱華夷ーのための日清戦争 の秩序に固定し、価値を独占した権ず、自由に行動し考える多元的な空 え 力者に服従させる。しかし価値観を間が存在したからである。そこで福 国内において西洋と日本の折衷を 一元化すれば、あらゆる創意工夫や沢は、日本は中国文明と比べ、西洋図る以上、外交面において近代外交 競争は芽を削がれ、個人の進歩、文文明を採り入れて新境地へ進みやすに基づいて周辺国との関係を改め、 内 明の進歩、一国の独立という構想は い位置にあり、中国文明は一旦破綻主権の範囲を確定し、自立を図ろう 亜到底実現し得ない。 して根本的に悔悟しなければ生まれとするのは当然であった。そのため 脱 また、至高の専制権力が英明にし変わることは出来ないと喝破した。 には、清・とも対等な外交関係 新 て、「民に親しむ」という儒学の理想 明治新政府は天皇を元首と位置づを結ばなければならない。琉球のよ 241
調和は、ワシントン体制が安定してを支えていた状況の崩壊を意味した いの立て方自体に問題があると筆者 いるかどうかにかかっていたのだのである。 は考えている。小日本主義はワシン が、問題はワシントン体制が不安定 石橋は満洲事変後、「満洲国」建トン体制の時代に固有の産物だった ぜいじゃく だったことである。その脆弱性は日国を受けいれて「ここまで乗りかかのであるから、この体制が崩れた戦 英米三国の中国ナショナリズムへの った船なれば、今更棄て去るわけに時期にまで引き延ばして一貫性を問 うのは、適切ではないのである。 対応において露呈した。 は行かぬ」 ( 一九三二年二月二七日 一九二〇年代は、中国の国権回収「満蒙新国家の成立と我国民の対策」 ) 自立主義と経済合理主義 運動と日本を含む列強の既得権益と と従来の満洲放棄論から遠ざかって の対立が先鋭化した時代である。一 それでは、小日本主義よりもむし いった。一九三六年九月「世界開放 九二五年、上海で起きた五・三〇事主義を提げて」 ( 前掲 ) での植民地ろ、戦時期にも持続したというにふ 件は、日英に向けられた反帝国主義領有を前提とした議論 ま、この延長さわしい石橋の思想とは何だろう 運動に発展し、中国全土に拡大した。 上にあるといえる。こうして、戦時か。それは、小日本主義の構成要素 一九二六年七月には、蒋介石の国民期になると石橋は、植民地放棄論をでもあった〈自立主義〉と〈経済合 の 理主義〉である。つまり、小日本主 軍の北伐が開始され、一九二八核心とする小日本主義を主張しなく 義は、ワシントン体制というある特 年内には、国民政府による中国統一 なったのである。石橋のこの変化は、 何 どが完了した。 言論弾圧による挫折と捉えるより 定の時期に出現した思想であり、石 国民政府の承認をめぐって日英米は、小日本主義を支えていたワシン橋の生涯全体に、より普遍的に見出 トン体制の動揺と崩壊が原因とみるせるのは、自立主義と経済合理主義 鉢三国の足並みが乱れ、ワシントン体 である、ということになる。 制は機能不全に陥り、日本は孤立しべきである。 では、戦時期に自立主義はどのよ 本稿の前半部に、「戦時期に小日 山ていく。そして満洲事変が勃発し、 うに展開されたのか。石橋は中国ナ 日本は戦時体制に入っていった。ワ本主義は一貫したのか、挫折したの 石 ショナリズムと日本の対立激化を前 シントン体制の崩壊は、小日本主義か ? 」と書いたが、実はこうした問 〔 0
したのだが、ナジブ首相は明確な返 れ、きびしい条件のもとで働かされ本側の認識の甘さだ。 原点は、市民団体などが世退産答を避けた。マレーシアはそれまで た」と記述しているのである。 事務レベルでの働きかけに好意的な 一方、韓国が世退産委員会での登録を目指そうという動きを始めた 、こ、こナこ、日 , 不側に 一〇年ほど前に遡る。当時から運動姿勢を見せてしオオしー 発言で「強制労働 (forced labor) 」 に携わってきた関係者によると、朝は大きな衝撃だった。 という表現を使おうとしたのは、国 日本は必死に巻き返しを図った 内世論を意識した可能性がある。韓鮮人徴用工の問題を韓国が問題視す が、簡単ではなかった。多くの国が ることは当初から懸念されており、 国内の関心が非常に高くなったた ま最初から外して「日本と韓国で話し合って解決策を め、なるべく強い表現を使う姿勢を徴用工のいた施設ー おこうという議論も出ていた。日本見つけてほしい」という反応で、欧 見せた方がいいという判断だろう。 州の委員国からは「日本の一一 = ロうこと は結局、一〇年前から心配されてい 法的な厳密さより政治的意味合い も分からないではないが、日本は を重視する韓国の社会風土が作用した問題でつまずいたということだ。 よ た面もあるようだ。韓国政府当局者イコモスの勧告に反発した韓国が ( 和解の ) 努力が足りないのではない え か」という声まで出たという。 は「ま「 ced labor] という言葉にそ五月上旬にロビー活動を始めてから そして、世界遺産委員会での韓国 れほど強くこだわったわけではない も、事情は似たようなものだった。 タ 日本が本腰を入れて韓国に対抗す側発一言を事前に詰め切れなかった甘 としながら、「韓国ではもともと強 国制徴用と呼んできた。日本側は法的るロビー活動を始めたのは、五月末さが、最後に大きな混乱を招くこと 韓 になったというわけだ。 になってからだ。政府関係者による に問題があるとか言うけど、素直に と、契機になったのは、同月一一五日結局、落としどころとなったのは、 反訳せば forced 一 abor でしよ」と振り に行われた安倍晋一一一首相とマレーシ従来からの日本の立場を再確認する 返った。 遺 水準だった。韓国との事前調整を行 アのナジブ首相との会談だった。 目についた日本の「甘さ 文 界 安倍首相は、世界遺産委員会の委っていれば、イコモスの勧豈則に同 世 じ内容で折り合っていただろう。 一連の騒動で目についたのは、日員国であるマレーシアに協力を要請 235
入試で学ぶ丁あの戦争」 うか。自分たちの憲法なのだから、血を流してでも守ろ い」と原理原則をなし崩しにするうちに「何でもあり」 になってしまう。 うとか、さらによくするために変えよう、という気概や 緊張感がない。 そのような道筋をたどって引き起こされた大日本帝国 もう一つの共通点は、どちらの憲法でもいちばんの根 の崩壊を見ていると、戦後の私たちは「絶対平和主義」 幹が曖眛にどうとでも解釈できるようになっていて、そ から「積極的平和主義」へと「平和」の拡大解釈によっ の部分から変調をきたしてゆくことです。明治憲法では て、再び同じ道を歩んでいるのではないかと思わされま す。 「天皇」、戦後憲法では「平和」です。 明治憲法の「天皇」は、プロイセン憲法下の皇帝のよ 大日本帝国には「敗戦」という明確な「終わり」 がありましたが、 うな能動的に主権を行使する君主として解釈することも 今の日本は冷戦以後の長いグダグダと できるし、英国憲法下の王のように議会や内閣の助言やした「終わり」を生きているのかもしれませんね。 承認にしたがって、受動的に振る舞う立憲君主として解 一九ニ 0 年代の米国がつくった国際秩序 釈することもできます。明治憲法からは、天皇主権説か ら天皇機関説、天皇親政から政党政治まで、幅広い解釈 次の問題は一九二〇年代に米国がつくった新しい が導き出せます。 国際秩序についてです。 先ほど述べたように明治政府の創設者たちは、「天皇」 問題ニ ( 京都大学文系ニ〇一一年度世界史 ) の位置づけをあえて曖味にして、その中間に宙吊りにし 問アメリカ合衆国は、第一次世界大戦後のパリ ておきました。曖眛であるがゆえに、状況に臨機応変に 講和会議で主導的な役割を演じながら、国際連盟に 対応できるともいえますが、場当たり的に状況に応じて、 参加せず、再び政治的孤立主義に回帰したともいわ 「天皇」を拡大解釈しているうちに思いもよらない方向 れる。しかし実際には、アメリカは一九ニ〇年代の に突っ走ってしまって、気づいたときには自分たちでも 政治的・経済的な国際秩序の形成に重要な役割を果 制御不能な地点にまで達してしまった。「世の中がこう たした。アメリカが関与することによって、どのよ なっているんだから、生きていくためには、しようがな うな政治的・経済的な国際秩序が形成されたのか。 CfD 0 )
出来事 悼施設を考える会」が発足。 神社参拝に関する「紳士協定」が中曽根内閣当時に口頭でなされたと述べ 二〇〇六七月ニ〇日日本経済新聞に「富田メモ」が公たが、当時の日本政府は協定の存在を否定している。 開される。八月一五日小泉純一郎首相、現職そして、戦後昭和天皇の靖国親拝は戦争終結三〇周年の一九七五年まで 総理としては一一一年ぶりに八月一五日の靖国数度にわたって行われたが、一九七五年一一月ニ一日を最後に、天皇親拝 参拝を行う。 は行われていない。この理由について、同年八月、三木武夫首相が戦後初 一一〇〇七一月末マイク・ホンダら七人の超党派米下院の首相による終戦記念日の参拝の後「私人として参拝」と発言したことが 議員が共同署名で米下院に慰安婦問題に対す原因とされていたが、ニ〇〇六年に発表された「富田メモ」 ( 元宮内庁長官 る日本政府の謝罪要求決議案を提出。ニ月一富田朝彦がつけていたメモのうち、一九八八年四月ニ八日の、靖国神社参拝に関す 五日米下院外交委員会公聴会で、元慰安婦一一一る昭和天皇の発言を記述したとされる部分 ) によれば、一九八八年の段階で、 名が証言。三月五日安倍晋一一一首相、国会で、「広昭和天皇が < 級戦犯の合祀に対し「私は或る時に、 < 級が合祀されその 義の強制性」はあったが、官憲が人さらいの上松岡、白取 ( 鳥 ) までもが」「だから私あれ以来参拝していない ように連行するような「狭義の強制性」はなそれが私の心だ」と記されてあることが報じられた。しかし、この富田メ かったと発言。三月三一日「アジア女性基金」モに対しては、疑う余地がなく、昭和天皇が合祀を不快に思っていたとい 解散。四月ニ六日米紙ワシントン・ポストにう説と、このメモだけでは判断しにくい、また、その後も春秋の例大祭に 在米韓国系団体が「 The Truth about Comfort 勅使が派遣され、皇族方が参拝されていた事実や、他の資料における天皇 Women ( 慰安婦の真実 ) 」と題した意見広告の発言と矛盾するなどの反論がある。 掲載。四月ニ七日訪米した安倍首相は「辛酸 ⑤あの戦争をとう捉えるか ? をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、 また総理として心から同情」「申し訳ないと林房雄の「大東亜戦争肯定論」は、六〇年代、最も早い時点で「太平洋 いう気持ちでいつばい」と表明。七月三〇日戦争」と呼称されるようになった先の戦争を、欧米植民地主義に対する日 米下院本会議、慰安婦間題に関する対日謝罪本およびアジアの抵抗として再評価しようとした試みであり、同時期の竹 要求決議を可決。 内好、高橋和巳ら異色の左派文化人によっても、戦前のアジア主義の再評 一一〇一一八月三〇日韓国の憲法裁判所が「韓国政府が価は行われていた。 日本軍慰安婦被生暑の賠償請求権に関し具体そして、敗戦を戦前の軍国主義からの解放と捉えていた戦後民主主義的 西暦
ソ 全会一致の決定が通例であることを先送りする可能性もあった。 が、日本側は、日韓外相会談の時点 も、日本には重荷だった。規定では、 「和をもって貴しとなす」というので「強制労働」という言葉を使わな圦樫 聞真 いことに合意したと理解していたか 投票を求めることも可能で、三分のは、日本特有の考えではない。国際 新の 日 会議の場でも無用な対立は嫌われら強く反発した。国民徴用令に基づ 一一以上が賛成すれば登録が決まるこ 毎日 年反 とになっている。だが、対立の表面る。先送りになった場合、日本は今く徴用は違法な「強制労働」に当た 業韓 化を嫌う議長国が来年の会議に審議年で委員国の任期が終わるのに、韓らないという日本政府の立場からは 国は来年も委員国に残るという事情受け入れられない表現だった。韓国部に bO , Ⅱ、 -6 意朝府な 学書 のの政う もあった。冷静に考えてみれば、日で元徴用工が起こしている訴訟に悪法著 そく本よ 0 、多日る 大職 影響を与えることも懸念された。 本にとって不利な条件がそろってい てたにき 塾現 いれ中で ところが、韓国側の説明は全く異義 。外相会談での決着に安堵したの 応て おさ戦解 にか大理 は、日本の方だろう。 なる。韓国政府当局者は「外相会談慶 , 働界て れど 0 よ 設で世い の時点で問題となっていたのは、日 まな え 施下次っ 生局 強制労働」を言い出した韓国 備 年支 本がどういう発言をするかだった。 ・ 1 0 ト境第と ク イ環、こ 日本は外相会談で fforced ( 。 work 』 状況が再び暗転したのは、韓国が タ サいたた のしまい 登録決定後の発言として準備した草という表現を使うと伝えてきたのみュ 史 っジ か厳、て 歴 0 0 国 稿に「強制労働 ()。「 ced labo 「 ) 」とで、韓国は登録に協力することにしか つ、とし よ 局 韓 刊 くれこ施る いう言葉が入っていたからだった。 た。韓国側の発言をどうするかなん岐 文いらた実あ 対 明に来いをで オて話はなかったけれど、日本側はさウ 日議事録にしか残らない意見陳述ご も声代てが策存配 7 月 が、国内世論向けに強い姿勢を見せ『韓国も同じ表現を使う』と理解し 団年れ等政所 ( ⅲ 産表連者用る 7 遺代四て身徴じä 0 ー 1 たようだ」と話す。 ておこうとしたようだ。 、し出も講 o 0 , ・む日剛 文 は反島てを・旧山ⅲⅡ 界 韓国がその通りに発言しても登録結局、外相会談での合意について 本本に半し置 世 日日思鮮と措ね市陶自体に支障がでるわけではなかった日韓の理解が異なっていたのだ。 233