3 大論争に決着をつける Criminals 」が日本の級戦犯に当型戦犯」「種戦犯」と訳したほう しかも「平和に対する罪、のせい 「非主要戦争犯罪人 M 一 n 。 r が誤解されなかったでしようね。 で死刑になった級戦犯はいませ War CriminaIs 」が O 級戦犯に当 芝「人道に対する罪」は、連合国ん。死刑にするには「通例の戦争犯 たります。 民間人への組織的殲滅のみならず、罪」が不可欠でした。東条英機はバ 日暮現在の日本で誤解が多いの従来の戦争法規では処罰できない ターン死の行進や泰緬鉄道の捕虜虐 は、この級、級、 0 級の意味と「自国民に対する犯罪行為」や「戦待の責任によって死刑を宣告された 関係です。級戦犯が「罪がいちば前の行為」も含み、具体的にはナチし、文官で唯一死刑となった広田弘 ん重い」というイメージがありますによるユダヤ系ドイツ人や障害煮毅は南京事件時の外相として職務怠 が、犯罪の種類が違うだけで、「反体制派への集団殺戮や迫害の罪を慢の責任を問われたのです。 級犯罪が級犯罪よりも重大だ」と も追及するために考えられたもので 芝ニュルンベルクでも「平和に した。 いうわけではありません。 対する罪」だけでの死刑はありませ んね。 「級戦犯」とは、侵略戦争の計画、 予期せぬ展開も 淮 ~ 備、開始、遂行、共同謀議を国際 日暮「平和に対する罪」は侵略 法上の犯罪とする「平和に対する 日暮連合国も、日本の場合、ナ戦争という厄介な国際問題の新しい 罪」について起訴された者を指しまチのような民族・特定集団の絶滅意犯罪なので、それで死刑にすること す。「級戦犯」は、一般住民の殺図はなかったと判断していました。 を日独の両裁判所とも避けたのです 害や捕虜虐待など「通例の戦争犯 だから厳密にいえば 0 級の該当者はね。これに対して、処罰実績のある 罪」で起訴された者。「 0 級戦犯」 いないというので「級戦犯」と伝統的な戦争法規違反で死刑にすれ の「人道に対する罪」は、戦則・戦中一括されたのです。これもよく誤解ば、事後法批判をかわせます。 における一般住民の殺人・強制移送されますが、南京事件の有罪は級芝ニュルンベルク裁判は先に挙 などの非人道的行為、政治的・人種の戦争法規違反であり、判決は「人げた「平和に対する罪」「戦争犯罪」 的・宗教的な迫害です。むしろ「道に対する罪」を無視しました。 「人道に対する罪」、そして「共同謀
の兆しが見られるからです。私は、近い将来、キルギス軍の戦争でした。海軍に至っては、一八九四年、日清戦 とカザフ東部とタジキスタンとウズベクのフェルガナ盆争の黄海の海戦までさかのぼらなければならない。百二 地、それと新疆ウイグルにまたがる地域で、「第一一イス十年以上のプランクがあるわけです。つまりいま南沙や 尖閣で盛んに挑発している面々は、本当の戦争などまっ ラム国」ができる可能性は低くない、とみています。 たく知らない。 中国はウイグルに対して、弾圧一方の統治です。地域 戦前の日本にとって日中戦争が泥沼になったように、 住民とイスラム全体を敵に回していますから、第二のイ スラム国ができれば、住民にとって中国政府より歓迎す中国にとっては霙アジアが泥沼の戦場となってしまう かもしれません。 べき存在となる危険性があります。これは、非常に大き な恐怖です。マレーシア、インドネシア、フィリピンま で、イスラム・ベルトに沿って、「第二イスラム国」が 日本人が苦手な類比的思考 東南アジア全体へ南下してくる可能性があるからです。 地政学の常識からすれば、内陸部に不安定化のおそれ 本来は別々であるはずのものごとに類似性を見出すこ がある状況で、南沙や尖閣で挑発を繰り返すような余裕 は中国にはないはずです。しかし、中国は海洋進出を止とを類比的思考といいます。現代の中国と昭和の大日本 帝国のように、一見、時代も状況もかけ離れたようにみ 術めようとしません。 考 ある意味で、いまの中国は昭和の大日本帝国に似て来えるものに共通点を見出し分析するには、この類比的な の ているのではないでしようか。 思考が必要です。おそらく日本のインテリが一番弱いの は、この類比的な思考ではないでしようか。 え両者の共通点は、近代戦の経験から遠ざかっているこ 実は、ユダヤ教にしてもキリスト教にしてもイスラム とです。戦後、中国が経験した近代戦といえば、一九六 器 九年の中ソ国境における珍宝島 ( ダマンスキー島 ) 事件教にしても、その核心となる思考法は類比です。ものご 和と、一九七九年の中越戦争くらいでしよう。以来もう四との原型や規範はすべて聖書やコーランなどのテキスト 昭 に書かれているのですから、世界の様々な現象はそれに 半世紀、実戦を経験していません。しかもどちらも、陸 〇 )
はなかったかと思うのです。 争は長期の総力戦となり、そのコスる。ところが日本の昜昏は、総力戦 半藤海軍においては、権干トや犠牲は、どのような戦争目的をを概念としてしか理解していなかっ たのではないでしようか も超えることが明らかとなった、と 犯問題ですね。ロンドン条約をめぐ り海軍の対米強硬派、いわゆる艦隊指摘しています。それに伴い、抑止船橋そこで出口さんが指摘する 派が、政府が兵力量を制限して決め力の観念も変わった。それまでの抑ガバナンスの間題になるんですね。 るのは天皇の権を犯すものだと止力は、互いに相手に負けない戦力、昭和になるまでは海軍大臣の在任期 勝てる戦力を持っ必要があると考え間は比較的長かった。山本権兵衛、 盛んに政府を攻撃するようになる。 斎藤実、加藤友一一一郎と、いずれも七、 られていたが、これからは勝てなく 川田彼ら艦隊派が思い描いてい たのは、あくまでも日本海海戦型のても、総力戦ができる戦力と国力を八年やっています。陸軍に比べると 、と。どの国も総大臣の権威は相対的に強かったの 海上決戦なんですね。一方、山梨勝持っていればいい 之進、堀悌吉、古賀峯一といった、カ戦はやりたくないから、一撃で潰で、かなり押さえも利いていた。 半藤その加藤友三郎がワシント いわゆる条約派は第一次大戦を経てすことのできない国、総力戦となる ン軍縮条約の翌年、大正十一一年 もう総力戦の時代になったのだか国とは戦争をしなくなるだろうとい に死んでしまう。強硬派は重石がと ら、一回、一一回の決戦に勝っても勝うわけです。この論理にしたがえば、 れて、さあ、七割艦隊目指してやり 日本としてはアメリカに戦争を思い 負はつかない。総力戦、持久戦にな 戦ったとき、国力で勝るアメリカと戦とどまらせるだけの戦力と国力を維直しだ、日本海海戦型の艦隊決戦で カ 勝つんだ、となってしまった。 っても勝てないという認識を持って持すれば良かった。 いました。 日本海軍がアメリカを仮想敵国と 出口第一次世界大戦はほとんど ぜ していたことはご存じのとおりです では、どうすればいいか。アメリ 欧州で戦われましたから、彼らは総 カ戦を実際に体験し、戦禍の惨状をが、これはそもそも、日露戦争終結 櫺力の外交官、政治工のジョージ・ 敗ケナンは、第一次大戦の経験によっ見て、「これはかなり難儀ゃな」と直後の一九〇七年、「帝国国防方針」 失 が定められたときを発端としていま いう実感をともなって理解してい て、それ以後、先進工業国間での戦
昭和史大論争 れた蘭領インドシナからの石油購入 交渉も失敗してしまっており、この 戦前日本の石油政策 ままでは保有在庫を食いつぶすしか 方策がなくなる。いずれ行き詰まる 失敗の本質 ことは明白だったから、まさに「油 に始ま」った戦争だったといえる。 樺太、満州の大油田も活用できず では、戦則の日本は、この「石油 岩瀬昇 日本の運命を左右した最大の戦略物資 危機」にどのように対応しようと試 みたのか。そして、その失敗の源は 玉音放送を聞きながら、日本国民七万バレル / 日 ) であった戦前、国どこにあったのか。それを探ること の大多数が茫然自失となったあの日産原油は需要量の一割弱しか供給では、現代日本のエネルギー安全保障 から数カ月後、昭和天皇は「日米戦きず、八割ほどを米国からの輸入に政策のあり方を考えることにもつな がるだろう。 争は油に始まり油で終わった様なも頼っていた。 のである」との認識を示された ( 『昭 その米国からの石油輸入が、昭和 進まない石油政策 和天皇独白録寺崎英成御用掛日記』十五年の夏には「部分許可制」に、 文藝春秋 ) 。たしかに日米開戦へと進翌十六年六月には「全面許可制」と 一九一四年に始まった第一次世界 む経緯、そしてその後の戦局におい なり、ついに八月一日には「全面禁大戦は石油の戦略的重要性を世界中 て、石油はまさに日本の死活を決す止」となってしまった。石油を中心 に知らしめた。自動車による兵員や る資源だった。 とした資源確保を目的とした南方進物資の輸送がロジスティックスに新 開戦直前の日本の石油事情を簡単出 ( 南部仏印進駐 ) は、かえってアメ天地を切り開き、戦車の威力は戦場 に確認しておこう。当時、平時の石 リカからの経済制裁を強化するばかの勢力図を一変させた。海では、英 キロリットル 油需要量が約四百万 / 年 ( 約りだった。しかも「日蘭会商」と呼ばチャ 1 チル海軍大臣の予見どおり、 エネルギー・アナリスト、 元三井石油開発常務 〔 0
というものです。たとえば、会議に がいちばん重視したのは、この侵略 ただし、こういう正当化の動機は、 戦争の犯罪Ⅱ「平和に対する罪」で ステイムソンの考えた裁判方式のさ 出席するとか、合意形成に参加した まざまな利点のひとつにすぎませ 事実さえあれば共同謀議の責任者にした。彼らは、「邪悪」なドイツと なります。立証責任を負う検察側の日本が侵略戦争を始め、それに対しん。「東京裁判は原爆投下をごまか 負担は軽くなるし、共同謀議者たちて連合国が「正義」の制裁を加えたすことが目的だった」といった見方 は、やはり単純すぎるでしようね。 という歴史の見方を描き出すこと を一網打尽にできます。 日暮このように決定したニュル ーネイズは、共同謀議で起訴すで、アメリカの正当性を確保しよう れば、多数のナチ戦犯を次々と有罪としました。 ンベルク裁判の基本的枠組みが只 にできると考えたわけですね。 アメリカの戦争の性格が「正義の裁判に転用されるのです。実際には そして残虐行為を裁くために導入戦争」ということになれば、都市へドイツと日本の政治の実態は全然違 いますが、「人道に対する罪」のよ された「共同謀議」がやがて「侵略の嵳別爆撃や原爆投下で一般市民 戦争の開始」にも拡大して適用されを殺戮した「戦争の方法」も致し方うに、強引な適用例もあります。 ることになりました。 そういえば、 << 級戦犯、級戦 ないものだったと正当化されます。 侵略戦争の起訴はステイムソンのもっとも、敵国の「侵略戦争」を公犯という言い方がありますね。これ はニュルンベルク裁判で使われた 2 側近から提案されたようです。連合式に認定するには「戦争に勝利する 級 (c1assA) 犯罪「平和に対する こと」が大前提ですけれど。 国の圧勝が見通せる状況で、一九二 八年の不戦条約を定義し直せば、侵先ほど総力戦は「国家の価値観や罪」、級犯罪「通例の戦争犯罪」、 0 級犯罪「人道に対する罪」を只 略戦争の開始や遂行の責任も処罰で正当性をめぐる戦争、でもあったと 裁 京 いう話をしましたが、ニュルンベル裁判でも用いたものですが、ドイツ きる、この千載一遇のチャンスを逃 東 ク・只裁判に、戦勝国の正当性をでは級戦犯、級戦犯という呼称 較してはならないというわけです。 比 底 は使われませんでした。 ステイムソンや、ニュルンベルク確保するという一面があったことも 裁判のアメリカ首席検事ジャクソン間違いないでしよう。 芝「主要戦争犯罪人 M 。 r wa 「
3 大論争に決着をつける 意図はさまざまにしても、実は案 います。六三年にはフランクフルト 戦争犯罪に対する責任の認識を広げ 外、ドイツよりも日本のほうがよほで、ホロコーストに関わった収容所てきたということでしよう。 ど律義に連合国の戦犯裁判を受け入の幹部ら一一十一一人を被告とするアウ ドイツと日本の戦後を比較する れて、あの戦争を反省してきたとさ シュビッツ裁判が開かれるなかで、 と、ドイツの方が苛酷な状況に適応 しなければならなかったと思うので え言えるかもしれませんね。 ドイツ国民は少しずつホロコースト 芝ドイツでは一九五〇年代に の実態を認識するようになったのです。国は東西に分割され、冷戦の最前 は、むしろニュルンベルク裁判でのす。そこに東ドイツからの告発もあ線にも位置していた。冒頭に言われ 戦犯は「犠牲煮という見方が強ま いまって、六八年の反体制運動のな たように「直視しない日本、直視する ります。ナチの犯罪行為は悪いとし かで、ナチスだけではなく、一般のドイツ」というイメージが定着して ても、それはドイツ民族の名におい ドイツ人の戦争責任を問う動きが出 いるとすれば、ドイツはそうした厳 て祖国のためにやったことだと。そてきたのです。 しい国際環境の中で、むしろ冷戦以 一 1 一ル れにはホロコーストに対する事実認 西ドイツがナチス犯罪を含む計画後、戦争責任の問題を敏感に受け止 識が、まだ国民に広く浸透していな的な殺人 ( 謀殺罪 ) に時効を適用しめてきたからではないでしようか。 かったこともありました。 ないと決めるのは一九七九年のこと 日暮たしかに冷戦期のアメリカ に庇護された日本と、国際秩序の不 戦後ドイツがふたたびナチスの犯です。統一後の九五年に初めて開か 罪を強く意識するようになったきつれた「国防軍の犯罪展では、それ安定化でナショナリズムが強まる日 かけは、一九六一年のアイヒマン裁まで清廉潔白とされていたドイツ国本とでは、裁判の位相も変わります。 判でした。親衛隊中佐だったアドル防軍も虐殺行為などの戦争犯罪はも今後の日本が敏感になれるかどう フ・アイヒマンがイスラエルに捕らとより、ホロコースト犯罪にも手をか。戦後の日本とドイツ、東京裁判 一口 えられ、絶滅収容所への輸送計画の染めていたことが明るみにでまし とニ = ルンベルク裁判の比較検討を 伊 中枢だったことが法廷で明らかにな た。そのようにドイツも戦後の長い探めていくことで、まだまだ見えて 成 くるものがありそうですね。 構 りました。そして翌年に処刑されて時間をかけて紆余曲折を経ながら、 1 84
満州事変から安倍談話まで 考えるためには、その認識から出発行うという失敗を犯させたのです。 さえ、戦場での非日常的事件は語り いわゆる東京裁判とニュルンベル にくいし、子供もどう聞くべきかかするようにしています。 学生に強調するのは、第二次世界グ裁判で、日本とドイツに「平和に 分からない。その語りにくさこそが、 則と戦後の断絶であり、「ねじれ」大戦がヨーロッパにとっては、一一度対する罪」を問うた法律は、確かに ではないでしようか。 目の総力戦だったことです。初めて事後法ですが、第二次大戦において、程 課ち の本格的な総力戦となった第一次大日本とドイツが「攻撃的戦争」を行ゼた 博か 7 叶 / 、 ったこともまた確かです。「平和に 戦では、八〇〇万人以上の戦死者が あの戦争は 究の 出て、ヨーロッパは大きな衝撃を受対する罪」とは、「攻撃的戦争を行研想 何だったのか 学思 けました。そこで先に大規模な武力った罪」のことであり、それを違法工 理存 三浦自分や家族の体験から歴史攻撃を仕掛ける「攻撃的戦争化しよう、という国際的な取り組み会恆 社田 ひもと は、すでに第一一次大戦則から始まっ院湘 を繙くことも大切ですが、それをま (agg 「 essive wa 「 ) 」の違法化に努めま 大こ た別の視点から客観的に見たり、相 した。国家間で戦争がいったん始まていました。ですから、日本とドイ学割 大著 対化することも非常に重要です。特ると否応なく総力戦になる時代におツは、「開戦責任」を重く受け止め業 いては、それを始めた国の責任は非 るべきで、免れ得ないと思います。京講 に私が研究している国際関係を正確 勤 さらに言えば、総力戦は国民を総 に捉えるためには、自国中心の考え常に重いと考えられたからです。 れ非 方を離れる必要があります。 しかし、日本は第一次大戦に参戦動員しなければ戦えませんから、勝 則の日本は五大国の一角を占めはしたものの、総力戦としては経験者は敗者を「悪」にしなければなり晦 学 る、世界でそれなりに存在感のある しませんでしたから、国家間のもめません。動員された国民が納得しな ナ本 国でしたが、米国のように世界を主ごとの解決や帝国の拡張のために戦 いからです。総力戦の敗者は、この日 導する国ではありませんでした。そ争をしてもまだ許されると考えてい 勝者の言説をそのまま受け入れる必よ博 して、世界の中心はヨーロッパから ました。後発帝国だったがゆえの認要はありませんが、敗戦後も国際社き笋 さ。る ま了あ 米国に移りつつあった。あの戦争を識のズレが、日本に「攻撃的戦争」を会の一員として生きていくならば、 は修が 1 44
満州事変から安倍談話まで 由と民主主義をもたらす一種の解放れたのは、一九八四年に野中郁次郎 クに自国中心にしてしまうと、失敗 軍として迎え、只裁判を「文明のさんらが発表した『失敗の本質』 の原因が見えなくなってしまうので よってでした。 裁き」として受け容れてきました。 はないでしようか。 白井さんが言うような「敗戦の総 日本の戦後の特質とは、戦争を戦 括」をして、指導者の責任を問うた略的に考えられないことだったと私 総括も反省も めには、あの戦争の進め方や失敗のは思うのです。あの戦争を学生に戦要らない 原因を戦略的に再検証しなければな略的に考えさせるためにまず私は、 りません。そうでなければ、指導層世界地図を見せます。日本を中心に 浜崎戦後日本の蹉跌として、白 がどこで間違ったか、あるいはどこすると、米国が西進してくるのに対井さんは「敗戦の総括」をしなかっ で国民の利益を損ねるような決断やして、中国や南洋の権益を守らなけ たこと、一一一浦さんは「戦略的な反省」 行動をしたかを問えませんから。でれば、という発想になります。でも、 ができなかったことを指摘しました も、それをすることは、「こうすれ米国は日本を極東に置いています。が、ここであえて極論すれば、僕は ば戦争にならなかった」、ひいては真珠湾攻撃が起きるまで、米国の最あの戦争について、総括も反省も要 「こうすれば勝てた」という可能性大の関心事はヨーロッパ戦線です。らないと考えているんです。 を考えることです。 ですから、「米国からの石油輸入を僕があの戦争を考えたときに行き ところが、あの戦争を頭から倫理止められた上に、最後通牒とも言え着くところは、「失敗したな」という 的な「悪」だとするならば、「こう るハル・ノートによって、日本は戦すごく単純な感想です。個人史にな すれば勝てた」と考えてはいけない争に追い込まれた」とよく言われまぞらえると、自分の失敗を思い出す ことになります。あの戦争を戦略的すが、それは日本の一方的な片思い ときは、「あのときの俺はなんてバ に考えることが、戦後長らくタブー で、米国はあの時点では、日本と戦力だったんだろう」と、非常に痛々し だったのは、そのためではないでし争などしたくなかったはずです。 い思いに駆られますね。そんな思い ようか。そのタブ 1 がようやく破ら 戦略的な反省まで、ドメスティッ のなかで、取り返しのつかない歴史 さてつ
昭和史大論争 にして「残念ながら支那人には果し大陸への列強との共同投資を提案し しかしながら、このような石橋の て自国を統治する能力あるや」 ( 一た。 石橋は当初、「大東亜共栄圏」立案は、・満洲・中国といった 九三一一年二月六・一三日「支那に対す構想に否定的だったが、一九四一年日本の植民地・占領地への経済的支 る正しき認識と政策」 ) と中国側の責の対米英開戦以降は、米英との貿易配を当然視するものであった。しか 任能力に疑念を示すようになってい 関係が途絶したので、「大東亜共栄も戦時下の経済的支配は、単に経済 。石橋は中国民衆の抗日感情を過圏」内での「次善」の分業で対応しの範囲にとどまらず、軍事的支配と よ一つとした。 小評価していたのである。それでも、 分かちがたく結びついていた。石橋 「支那の自主独立を犯して、日支提 こうした戦時期の言論は、現状追はジャ 1 ナリストとして、日本の軍 携などの出来ようわけのない」 ( 一 認の連続にみえるかもしれない。 事的要請に経済的に協力する側面を 九三九年一〇月七日「汪精衛氏の要しかし、石橋が日本の軍事的な支もっていた。戦時期の経済合理主義 求」 ) と述べ、中国の自立主義を理配拡大を批判したのは事実である。 は、結果として日本の戦争遂行を下 解しようと踏みとどまった。 率先して戦争を扇動した他のメデから支えることを意味したのであ る。 他方、石橋の経済合理主義は経済ィアとは明確に異なる。たとえば、 的な国益の追求として、戦時期にも「満支の重要性を忘るるなかれ」 戦後の日本は植民地や既得権益を 続いた。日本が自立を維持する ( 自 ( 一九四一一年一月一〇日 ) 、「鮮満支の喪失し、文字通りの「小日本」にな 立主義 ) ために、経済合理主義を主物的および人的資源を最高度に活った。政治家となった石橋が小日本 張したのである。石橋は、国際分業用することである」 ( 一九四四年一一主義を論じることはなくなっても、 が経済合理性にすぐれているという 月一五日「戦局の現状と本誌の使命」自立主義と経済合理主義の思想は彼 のが持論だったので、プロック経済『大陸東洋経済』 ) と書いたのは、南とともにあったのである。石橋は、 化に反対した。従来から日本にとっ方 ( 東南アジア方面 ) へのさらなる軍日本がアメリカに政治的に過度に依 て重要な貿易相手国であるという見事的支配の拡大を批判する意味があ存する姿勢を批判し、自民党内で 「対米自主」の立場をとった。それ 地から、英米協調路線を唱え、中国った。 ( 〇 LC)
処理要綱」です。武藤は永田の蘿ア・東南アジアの圏内全体で「自給ないだろうというわけです。 者ともいえる存在でした。そこには自足」して、白人帝国主義の奴隷的 川田ただし、もし戦いが長期化 仏印も香港・マレー半島も、オラン立場から解放するというのです。 すれば、アメリカは必ず介入してく ダ領インドネシアも確保するという この時点では、武藤らはイギリスると陸軍も見ていました。ですから 方針が示されていた。その際には、 はドイツに負けると予測しました。 ドイツと組んで、その前にイギリス 英国との戦争も不可避であるとして「時局処理要綱」では、ドイツが英を潰すという計画なのです。武藤ら いました。永田の試算では、中国を国に上陸した時、まさにそのタイミ はソ連との四カ国連〈榊想を考えて 支配すれば、四年間総力戦を続けら ングで、日本は南方に武力行使を開 いました。ドイツとソ連は独ソ不可 れるはずだったのですが、武藤が再始するとしています。逆に言えば、侵条約を結んでいる。早々にイギリ 計算をしてみると中国だけでは足り ドイツが英国を完全に叩いて欧州全スを潰せばアメリカを孤立させ、封 ないことが分かった。いちばん足り 土を占領してしまったら、あとから じ込めることができる。つまり、ア ないのは石油でした。航空戦力、機南進しても遅いと考えたのです。 メリカと戦わないための軍事同盟な 動戦力が進歩したため、石油の重要阿川武藤たちはこのとき「アメのです。この構想には、参謀本部の 度が高まっていたのです。 リカと事を構える可能性が生まれ田中新一作戦部長も陸相の東條英機 半藤戦艦だって石炭ではなく、 る」と判断していたでしようか ? も賛成しています。 石油に切り替わっていますからね。 船橋アメリカの出方について 船橋そこで昭和十五年九月に日 川田それから飛 ( をつくるアは、激しく見方が分かれた。いわゆ独伊三国軍事同盟をし、翌十六 ルミニウム、・目動 ~ 早のタイヤをつく る英米可分論と不可分論です。海軍年四月には日ソ中立条約が結ばれる るゴム。この三つが決定的に足りな は不可分論、陸軍は可分論でした。わけですね。 い。これらは全部東南アジアにある欧州が全面戦争しているのだから、 半藤私はずっと日独伊ソ四国同 んです。そこで武藤は大東亜生存圏日本が東南アジアの英軍を叩いて盟でアングロサクソンと対抗するな という概念を出してくる。東アジも、それだけではアメリカは出てこ どというバカな妄想は、外相の松岡 コ 26