学」 だと思います。 九世紀の半ばに起きたクリミア戦争が巻き込まれる人類初の総力戦とな会半 土裁 って、ヨーロッパの主要国はいずれ などでは、兵器の発達などもあって、 また、戦後の受け止めということ 学丿 も深刻なダメージを負います。そこ大ハ でいえば、戦後ドイツにおいても戦戦争がこれまでにない規模となり、 ュ で戦勝国イギリスのロイド・ジョー 犯裁判の受容の過程には複雑なもの被害も甚大なものになる。 がありました。それについては、後そこで「戦争のルール」が意識さジ首相とフランスのクレマンソー首 一 J れるようになり、一八九九年と一九 に詳しく述べたいと思います。 相は、開戦責任の追及を要求し、前卒割 〇七年にオランダのハーグで開かれドイツ皇帝のヴィル〈ルム二世を国乳 ライブツイヒの茶番劇 現が た万国平和会議で、「陸戦の法規慣際法廷で裁こうと主張します。 大てど 芝それには国内世論の影響も大京経な 日暮一一つの裁判の具体的な比較例に関する条約」が結ばれます。こ 東を 。授聞 に入る前に、まずは戦犯裁判、戦争こで硎されたのは、開戦時に宣戦きかった。ロイド・ジョージは、終 れ教新 ま助公 犯罪というものがどのように形成さ布告しなくてはいけないとか、戦闘戦直後の総選挙で「皇帝 ( カイザ↓ 生学中 県大 ( れたのかを振り返っておくと、理解員・非戦闘員の定義、捕虜虐待の禁を吊るせ ! ドイツは償うのだ」と 媛院』 、愛學 の助けになりますね。 止、毒の使用はいけないといった主訴えて、大勝していますね。つまり國ス 裁 了コ 戦勝国の国民も深刻な打撃を受けた 芝もともとは古代ローマの有名に戦争のやり方でした。 ク 日暮このハーグ諸条約では戦争状況で、開戦そのものを「悪」「犯け程は 2 な言葉に「敗者に災いあれ」がある す課 ように、敗者は勝者に何をされてもそのものは禁止されていません。当罪」として、ドイツにその責任を負既士 科 仕方ない、つまり戦後処理にルール時は「無差別戦争観」といって、戦わせようとしたわけです。 ば究、、 日暮それは、やはり総力戦の影し研岩 判などない甃長らく続いたわけで争は合法・違法の対象にならないと 京 いう考えが支配的だったからです。響ですね。単に軍事的な勝敗を争う すね。敗者であっても、一定の法の 東 だけではなく、「自分たちが正しく、 それが変わり始めたのが、第一次 較保護が与えられるべきだ、という枠 この戦争の責任は敵側にある」と啓 底組みが並したのは、やはり近代ョ世界大戦です。それまでの軍隊だけ ーロッパだったと思います。特に十が干戈を交える戦争から、国民全体発しないことには、国民を動員でき かんか
ろう。 日露戦争から戦軽会までを舞台と ーチャルな幻想を再生産し続けた作 それに対して、三島由紀夫は戦場した畢生の大作『豊饒の海』の第一一一家ーー、この両者はまさに日本の戦 から疎外された人間である。入隊検部『暁の寺』で、真珠湾攻撃の開始後文化の両極を指し示している。 査で誤診されて即日帰郷を命ぜられの報を聞いた主人公は、すぐさまイ 思想不信と破壊願望 たことが、後々まで彼の感情的負債ンドの輪廻哲学に思いを馳せ、只 になったことは、よく知られている。大空襲の廃墟をした際には、そ ところで、司馬や一一一島が活躍する 戦場で死ぬはずであった自分が戦こに自らの「輪廻転生の研究」を投傍らで、戦後の日本社会で哲学の地 後も生き延びて、なぜか時代の寵影する。それは戦場をファンタジー 位が失墜したことは注目に値する。 児になってしまったという不発感に変えることであった。三島はすで京都学派を筆頭に、則の有力な哲 は、そのまま戦後日本のちぐは に戦時中の作品「中世」において、学者たちが司馬の言う「国家的愚 ぐな状況ーーー敗戦とともに滅亡する応仁の乱で廃墟化した日本に高貴な行」に加担した以上、戦後日本が知 はずが、なぜかのうのうと生き延び美男子の霊を降ろそうとする権力者に対する不信感を抱え込んだとして て経済的繁栄を謳歌しているーーとを描いたが、『暁の寺』においても も不思議ではない。 びたりと重なりあう。戦後日本社会 なお、戦争のまっただ中にあえて仏 この点で、司馬はまさに「戦後日 も自分自身も死に損ないの漫画的存教的な世界像を書き込んでいた。三本的」な言論人の典型であった。彼 在だというところに、三島の立脚点島は戦争 ( 戦場 ) を写生する気がま にとって、抽象的な知や思想はまる がある。天皇主義を掲げて「文化防ったくなかった。 で信用に値しなかった。例えば、彼 衛」を唱えたことも、所詮は三島一 司馬が「写生」を旨とした作家では一九六九年の梅棹忠夫との対談 流の虚構、すなわちお笑いにすぎなあったとすれば、三島は「虚構」 , で、日本史における「思想」は「ア 取り憑かれた作家である。戦場におルコール」のようなものにすぎず、 こうした「戦場からの疎外」は、 いてあらゆる甘い幻想を打ち砕かれ今後の日本人はその酩酊から覚め、 た作家と、戦場に行きそびれてヴァ世界に先駆けて「無思想時代」に入 三島の小説にも反映される。例えば、 228
結した後、日本の指導層は制海権も界大戦は、日本にはなじみの薄い総 て核の使用に対して抑制的だったこ日 制空権も失いながら恐ろしい無能とカ戦でした。国家の存亡をかけた総 とは人類にとって幸いなことでし学 朝鮮戦争でも、ベトナム戦争で 不決断によって犠牲を拡大します。カ戦では、振り下ろす拳をとどめる の ことが困難になります。各国は、国も核兵器の使用が検討されました 兵士達は無益な戦いで命を落とし、 国土は焦土と化しました。軍部は呪民を大量に動員する過程で、敵国をが、戦死亠薮が積みあがっても米国究 文のように本土決戦を唱え、ソ連仲悪魔化し、残虐の限りを尽くしたのは踏みとどまりました。仮に、学 戦争において、マッカ 1 サーの進言政割 介による終戦工作に希望を託しましでした。 学著 どおりトルーマンが中国に核攻撃を 。局面を打開するリーダーシップ 院員 広島・長崎が高めた核の抑止力 行っていたら、あるいはチャーチレ学究 はなく、降伏には天皇のご聖断を待 ノ大研と 学員よ っしかなかったのです。 広島と長崎の犠牲が大きな意味をの進言どおりソ連に先制核攻撃を行大客カ そんな状態だったのですから、米持ったのは、戦後の世界においてで っていたら、我々はまったく異なる東タ 。ン治 国が戦争の終結に相当の懸念を覚えした。広島と長崎での原爆の被害の戦後を生きたことでしよう。そもそれセ斑 ま究の 悲惨さは、日本国内では「核廃絶」も、我々の多くが存在しなかったか生研め ていたことは確かでしよう。米国に 年ンた ョの は当然、圧倒的な破壊を突きつけるの願いへと繋がりましたが、世界にもしれません。 ジ人 ビる 米国が抑制的であったこともあ 点ことで、日本の本土決戦の戦意を挫おいては核兵器の恐怖を目の当たり 、植民地の独立戦争に際しての英る政て のく意図がありました。ですから、降 にしたことで、その使用を抑制する 学し ら大望 一方、核抑止力を高める結果を生み仏も、東欧やアフガニスタンで戦っ 伏を確実にすることで原爆が米軍兵 う京絶 たソ連も核兵器を使用しませんでしみ東に 士の命を救ったということは事実だました。原爆の非人道性こそが、恐 キ た。六〇年代にかけて、戦後世界が ガろうと思います。 怖の核抑止に依存した「平和」をも ナ 平和のための仕組みを羶化してい 原爆がジェノサイドであった事実たらしたのでした。 マ く中で、核兵器の存在は不可欠でし シは消えませんが、両者は事実として 米国が圧倒的な核戦力を有してい た。ただし、それは原爆の犠牲を目 並び立っということです。第二次世 た四〇年代後半から五〇年代にかけ
あの戦争のを解く 満州事変から安倍談話まで 白 客 麗 敗戦によって、日本は大きく変わった。 新憲法が作られ、あの戦争は「悪とされた。 瑠者 学 弋日本はどう過去と向き合い 0 未来を築ナよ、、 , ーししのか戦争も高度成長も 政 治 際 3 知らない世代が熱い議論を交わした 政 国 今年は戦後七〇年の節目にあ いますが、学生にどのように「あの識論争がなされたことで、知見は増 たります。高度成長期以後に生まれ戦争を教えられていますか ? えたはずなのに、歴史認識が政治問 た世代が、昭和という時代と戦争を 白井どう教えるか以前の問題と題に直結させられたために、教育の どう捉えているのか。また、今なおして、基礎知識がない学生が増えて現場で近現代史を教えることが忌避 歴史認識などをめぐり国内外で様々 いるのは間違いありません。そもそされてしまったことです。総じて、 な議論が繰り広げられていますが、 も日本が米国と戦ったことや、日本昭和史をする前提が共有されて それにいかに向き合うべきか。今日 いないのです。 かいかに不条理な戦争をしたかを知 はそのようなテーマについて、三〇らない。その背景の一つは受験戦争浜崎僕が近現代史を考えるよう 代の論客の方々に論じ合っていただ が緩んだことでしよう。 になったのは、受験勉強ではなく、 くことにしました。 もう一つ原因として考えられるのぎりぎり戦争を体験していた祖父母 お三方は大学でも教鞭を執られては、近現代史について様々な歴史認との関係が大きかったですね。その 白井聡卩 兵崎洋介 家 評 批 芸 コ 42
洲事変、つまり柳条湖事件の以前とで、残った重臣たちもーーとりわけ 半藤もちろん本音ではそうで 以後でガラッと、それこそ一八〇度内大臣の木戸幸一がそうでしたがす。しかし対米強硬派の連中はそう 変わるんですね。新聞はたちまち陸 テロリズムをやたら恐れるよう考えたくはなかった。日米戦争宿命 軍の応援団になって、満洲の戦果をになる。それがますます統治システ論が支配していました。 はやし立てる。日本の人びとは、好ムの崩壊を進ませた。それにつけて 阿川満洲事変の悳則にヴァージ 戦的な新聞報道に煽られて高揚しても、国の行方を分かっ肝心な分岐点ニア大学へ留学した海軍きっての知 いくのです。 で、向かうべき方向を指し示すこと米派、大井篤元大佐は、仲間の中堅 船橋プレーキをかけるべきだっ ができた人物がことごとく暗殺され士官の多くが「アメリカ人は贅沢に たメディアも、林銑十郎に「越境将てしまったのは本当に残念でした。 なれているから、戦いが始まったら 軍」と喝采を送りました。これも大原敬、浜口雄幸、犬養毅・ : : ・。犬養すぐに戦意をなくすに違いない、と きな過ちです。 は満洲国反対でしたし、満洲事変の いうよ一つなことをしばしば口にして 阿川陸軍にはドイツ留学組が多とき、もし首相が浜口だったら展開 いたと回想しています。 かったのですが、ガバナンスを壊し はまた違っていたと思います。 もっとも一九三〇年代のアメリカ て再構築しようとした中堅幕僚に は、実際そう強くはなかったんです。 は、ロシア ) 器やローザ・ルクセン 陸海軍の 第一次大戦のときに軍備を増強しま プルクなどドイツ革命思想への憧れ したが、 戦後、急速に縮小した。し アメリカ観 があったのではないでしようか。 かも主な戦場は欧州でしたから、日 船橋五・一五事件、二・二六事 阿川先ほど艦隊派の論理をうか本人と同様、国民が総力戦をリアル 件といった軍部クーデターも、結局、がいましたが、海軍は最後までアメに経験したとは言い難い。第二次大 軍部内部のガバナンスが崩れていた リカと戦う気はなかったと思うので戦の前もまだ充分な軍備は整ってい ことのあらわれですね。そして首脳す。戦ったら負けるに決まっている ませんでした。ただし南北戦争のと や重臣が簡単に殺されていくなかのですから。 きの北軍以来、豊富な物量と産業技 コ 22
満州事変から安倍談話まで 由と民主主義をもたらす一種の解放れたのは、一九八四年に野中郁次郎 クに自国中心にしてしまうと、失敗 軍として迎え、只裁判を「文明のさんらが発表した『失敗の本質』 の原因が見えなくなってしまうので よってでした。 裁き」として受け容れてきました。 はないでしようか。 白井さんが言うような「敗戦の総 日本の戦後の特質とは、戦争を戦 括」をして、指導者の責任を問うた略的に考えられないことだったと私 総括も反省も めには、あの戦争の進め方や失敗のは思うのです。あの戦争を学生に戦要らない 原因を戦略的に再検証しなければな略的に考えさせるためにまず私は、 りません。そうでなければ、指導層世界地図を見せます。日本を中心に 浜崎戦後日本の蹉跌として、白 がどこで間違ったか、あるいはどこすると、米国が西進してくるのに対井さんは「敗戦の総括」をしなかっ で国民の利益を損ねるような決断やして、中国や南洋の権益を守らなけ たこと、一一一浦さんは「戦略的な反省」 行動をしたかを問えませんから。でれば、という発想になります。でも、 ができなかったことを指摘しました も、それをすることは、「こうすれ米国は日本を極東に置いています。が、ここであえて極論すれば、僕は ば戦争にならなかった」、ひいては真珠湾攻撃が起きるまで、米国の最あの戦争について、総括も反省も要 「こうすれば勝てた」という可能性大の関心事はヨーロッパ戦線です。らないと考えているんです。 を考えることです。 ですから、「米国からの石油輸入を僕があの戦争を考えたときに行き ところが、あの戦争を頭から倫理止められた上に、最後通牒とも言え着くところは、「失敗したな」という 的な「悪」だとするならば、「こう るハル・ノートによって、日本は戦すごく単純な感想です。個人史にな すれば勝てた」と考えてはいけない争に追い込まれた」とよく言われまぞらえると、自分の失敗を思い出す ことになります。あの戦争を戦略的すが、それは日本の一方的な片思い ときは、「あのときの俺はなんてバ に考えることが、戦後長らくタブー で、米国はあの時点では、日本と戦力だったんだろう」と、非常に痛々し だったのは、そのためではないでし争などしたくなかったはずです。 い思いに駆られますね。そんな思い ようか。そのタブ 1 がようやく破ら 戦略的な反省まで、ドメスティッ のなかで、取り返しのつかない歴史 さてつ
歴史的証言 名将・今村均 歳長男が語る「父と戦争」 ラバウル戦を率い戦犯とされた父、技術将校だった長男 戦前・戦後を貫く見事な生き方がここにある 人格、見識などで、敵味方を問わず高い評価を受け 戦後、父、今村均に再会したのは昭和一一十五 ( 一九五〇 ) た今村均陸軍大将。ことにジャワにおける現地住民に年一月二十二日のことでした。父は戦時中もずっと南方 対する人道的対応や、多くの餓死者を出した南方戦線 に行っていましたから、七年一一一カ月ぶりということにな にあって、司〈工目として赴任したラバウルで自ら率先 ります。オーストラリア軍の軍事裁判で司令官としての して農地を耕し、自給態勢を築いて多くの兵士の命を責任を負い、禁錮十年という判決を受けた父は、巣鴨拘 救ったことから、「聖将」と称されることもあった。 置所で刑に服することとなり、日本に帰国したわけです。 さらには、戦後、南方での禁錮刑に服した後も、自宅やはり戦犯とされたおよそ七百人とともに帰ってきまし の敷地内に三畳の小さな離れを建て、終生、自ら謹慎 たが、病身の方も多い中、父は元気そうでした。ラバウル 生活を送ったことでも知られる。 にいる間、長く百姓生活をしていたからでしようか。 その今村均の長男、和男氏は今年九十七歳。昭和十 ところが、巣鴨に訪ねて行った母・久子と長男の私に 六年に陸軍に入り、航空担当の技術将校として戦争を会うなり、父はこう言ったのです。 体験した。父と子にとって、昭和の戦争とは何だった 「もういっぺん南方に行く。南方にはまだ苦労している のか。戦後七十年の時を経て、あらためて振り返って イ尸かいる。同じ服役するなら、日本ではなく、豪州刑 もらった 務所のあるマメス島 ( パプアニューギニア ) であるべきだ。 コ 32
3 大論争に決着をつける 意図はさまざまにしても、実は案 います。六三年にはフランクフルト 戦争犯罪に対する責任の認識を広げ 外、ドイツよりも日本のほうがよほで、ホロコーストに関わった収容所てきたということでしよう。 ど律義に連合国の戦犯裁判を受け入の幹部ら一一十一一人を被告とするアウ ドイツと日本の戦後を比較する れて、あの戦争を反省してきたとさ シュビッツ裁判が開かれるなかで、 と、ドイツの方が苛酷な状況に適応 しなければならなかったと思うので え言えるかもしれませんね。 ドイツ国民は少しずつホロコースト 芝ドイツでは一九五〇年代に の実態を認識するようになったのです。国は東西に分割され、冷戦の最前 は、むしろニュルンベルク裁判でのす。そこに東ドイツからの告発もあ線にも位置していた。冒頭に言われ 戦犯は「犠牲煮という見方が強ま いまって、六八年の反体制運動のな たように「直視しない日本、直視する ります。ナチの犯罪行為は悪いとし かで、ナチスだけではなく、一般のドイツ」というイメージが定着して ても、それはドイツ民族の名におい ドイツ人の戦争責任を問う動きが出 いるとすれば、ドイツはそうした厳 て祖国のためにやったことだと。そてきたのです。 しい国際環境の中で、むしろ冷戦以 一 1 一ル れにはホロコーストに対する事実認 西ドイツがナチス犯罪を含む計画後、戦争責任の問題を敏感に受け止 識が、まだ国民に広く浸透していな的な殺人 ( 謀殺罪 ) に時効を適用しめてきたからではないでしようか。 かったこともありました。 ないと決めるのは一九七九年のこと 日暮たしかに冷戦期のアメリカ に庇護された日本と、国際秩序の不 戦後ドイツがふたたびナチスの犯です。統一後の九五年に初めて開か 罪を強く意識するようになったきつれた「国防軍の犯罪展では、それ安定化でナショナリズムが強まる日 かけは、一九六一年のアイヒマン裁まで清廉潔白とされていたドイツ国本とでは、裁判の位相も変わります。 判でした。親衛隊中佐だったアドル防軍も虐殺行為などの戦争犯罪はも今後の日本が敏感になれるかどう フ・アイヒマンがイスラエルに捕らとより、ホロコースト犯罪にも手をか。戦後の日本とドイツ、東京裁判 一口 えられ、絶滅収容所への輸送計画の染めていたことが明るみにでまし とニ = ルンベルク裁判の比較検討を 伊 中枢だったことが法廷で明らかにな た。そのようにドイツも戦後の長い探めていくことで、まだまだ見えて 成 くるものがありそうですね。 構 りました。そして翌年に処刑されて時間をかけて紆余曲折を経ながら、 1 84
するつもりはありませんが、「ナチ 果たされない。敗戦時点では、白井日本人が本当にいるでしようか。 白井そうかもしれない。ならば、 スが悪かった」で済ませてきたドイ さんが言う「敗戦の総括」は、やはり 無理だったのではないでしようか。 「一億総懺悔」が正しいのか。日本ツが過去を反省し、真摯に責任を引 白井当時可能だったかどうかはの戦後を見ていると、「敗戦の総括き受けようとする契機は、一九六八 を国家レベルでは何もしなかったが年の学生運動にありました。彼らは どうでもよい。今後やるかやらない 「お父さん、あのとき何をやってい かの問題です。敗戦時、日本は自らゆえに、まず敗けたことを否認し、 の責任を問うことに失敗した。その覆い隠すことになった。でも、当然ましたか ? , というスローガンを掲 げて、父親世代の罪と責任を問い直 ことが戦後ずっと今まで尾を引いてそれに伴って、ボロが出てくるので、 いる。だから、今こそ政治的な儀式それをまた否認し、覆い隠す。そのしたんです。それが大きなうねりと として「敗戦の総括を行わなけれ連続だったように思えます。その負なって、「過去に目を閉ざす者は結 ばならない。それこそ本当の「戦後の連鎖を断ち切るためには、「敗戦局のところ現在にも盲目となりま の総括が必要なんです。 す」という一節で有名な一九八五年 レジームからの脱却」です。 たとえば、日米戦争開戦時に首相のワイツゼッカー大統領の演説に述 浜崎でも、「自分たちで裁く」と 言いながら、白井さんの主張はポツであり陸相だった東條英機に政治的べられたような認識を生み出してい きます。これに対して、戦後日本は ダム宣言そのものではありませんか。 な責任をとらせることで、逆にはじ つまり、悪いのは軍部など日本の指めて東條英機を気の毒な個人として「父殺し」をやっていないのです。 三浦私はむしろ「敗戦の総括」 導層だけで、日本国民ではない。国民慰霊することができます。それをや 瓢は善良だが、指導層に騙されただけ らないから、靖国神社に東條英機をを日本が自分たちの手でなかなかで まっ きなかったのは、過剰なまでにあの 祀ることが、いつまでも政治問題に 縛だと。僕は、そこには嘘があると思う。 の なってしまう。 戦争を倫理的な「悪」だと受け止め 日本国民が日本の指導層を裁くとし 争 「敗戦の総括」は今からやっても遅てしまったからだと思います。 のて、誰にその資格があるでしようか。 あ 実際、多くの日本人はを自 戦争に加担していないと言い切れるくありません。ドイツを過剰に美化
昭和史大論争 むこ 原爆投下とは、無辜の市民に対す る無差別の大量殺戮です。今日のど ヒロシマ・ナガサキ んな定義に当てはめたとしても、そ れはジェノサイドです。米国が原爆 核抑止の原占 投下に際してジェノサイドの罪に問 われず、今に至るまで問われないの 今もなお平和は核抑止ぬきには考えられない は、米国が戦勝国だからです。 そのような世界で日本がなしうることは何か ? 他方、原爆投下が戦争終結に影響 したということも否定しがたいでし 核兵器の存在ほど、広く日本国民罪であるという立場から、戦争の終よう。原爆の直接的な影響について に一種独特の感情を呼び起こすもの結を早め、結果的に多くの米軍兵士は諸説あります。原爆という新式爆 はないかもしれません。広島・長崎の命と、日本国民の命を助けたとい 弾の威力について認識が不十分であ における原爆投下の記憶は、文学やう立場まであります。原爆の無差別 った当時の状況を考えると、ソ連参 映画に刻印され、世代を超えて語りで圧倒的な破壊は、戦後日本の絶対戦の影響が大きかったという説も有 継がれてきました。原爆の記憶は、的平和主義の発想につながった一方力です。また、米国の意図について 日本人が戦争というものの存在をどで、例えば、中国は原爆の被害を強 も、戦争の早期終結よりも戦後秩序 のように捉え、アメリカという同盟調することは、戦争における日本のを主導するための対ソ連の牽制効果 国をどのように捉えるかということ 加害性に目をつむるものとして反発の方が重要であったという指摘もあ ります。 に大きな役割を果たしてきたのでしています。広島や長崎の記憶は、 す。 同盟国であるアメリカに対する友好 ただ、当時の日本政府の意思決定 広島・長崎への原爆投下をめぐる感情の底に沈殿する草の根の反米感のあり方は米国にはまったく理解さ れていませんでした。欧州戦線が終 評価については、人類史上最大の犯情を支えてきました。 国際政治学者 三浦瑠麗