九〇年頃より当時の日本政府は、一移送や慰安所の設置、慰安婦の衛生スクープとそれによる日本政府の混 貫して日本政府による慰安婦問題へ管理から軍事郵便貯金を用いた送金乱の僅か五日後に日韓首脳会談が予 の「関与」は存在しない、と繰り返等の多面において、日本政府が慰安定されていた事であった。当然の事 ながら、このスクープを受けて謝罪 し表明し、結果としてこれが後に誤婦問題に様々なレベルで「関与」し りである事が明らかになった事によていた事は当時既に知られていた資に追い込まれた日本政府の姿を見 て、韓国の慰安婦支援団体の活動は、 り自らの立場をずるずると後退させ料からも明らかだったからである。 る事になったからである。 そして今日ではよく知られている例を見ないレベルにまで活発化し、 重要なのは、これにより日本政府ように、このような日本政府の主張マスメディアも首脳会談において韓 が自ら、本来なら日韓基本条約によ が破綻する大きな切っ掛けとなった国政府がこの問題で日本政府を強く って全ての賠償問題は解決済みであのは、一九九二年一月一一日、「朝追及する事を要求する。 とはいえ、この段階ではまだ、日 る、と単純にできた筈の問題に日新聞」一面での「慰安所軍関与 ついて、新たな論点、 即ち慰安婦の示す資料」と題するスクープ記事だ本政府とその関係者は事態をそれ程 動員等の実態、という異なる論点を った。不思議な事に日本政府はこの探刻には考えていなかった。何故な 9 開いた事、しかもこの論点を慰安婦記事が出る前から、同じ資料の存在ら、日本政府同様、韓国政府が、慰安 仇の「動員」や慰安所の「経営」等のを知っていたが、当時の宮沢政権は婦問題を含むあらゆる問題は、日韓 これを放置した。その事は当時の彼基本条約及びその付属協定で「完全 具体的な形ではなく、「関与」とい う漠然とした形で開いた事だった。 等が自らの誤りの大きさを認識してかっ最終的に解決済み」という姿勢 冷 いなかった事を意味していた。結局、を維持している限り、少なくとも外 そして、少なくとも現在の観点か ぜ ら見れば、慰安婦に関わる政府の関このスクープにより宮沢政権は直ち交的には日本政府が韓国政府等に対 にこれまでの認識の訂正と、謝罪にする賠償等の支払いに追い込まれる 与は全く存在しない、という日本政 可能性はない筈だったからである。 安府の主張には無理があった。慰安所追い込まれた。 慰 だからこそこの一九九一一年一月の 加えて決定的であったのは、この 制度の設立や募集、更には慰安婦の コ 6 /
時の日本政府の「ギャンプル」の結 談が開かれたのと同じ一九九二年、で日本側に法的賠償を要求するとい 一一一月の大統領選挙に勝利した金泳う方針転換は、政権末期の状況が作果として作られた。言い換えるなら、 三が、翌九三年に慰安婦間題に対しり上げた一時的状況に過ぎなかっ九二年一月の日韓首脳会談にて盧泰 愚政府の協力を当てにして「ざっく て「物理的補償を要求しない、事をた、と見做した事になる。 とはいえ、金泳三政権による再度り謝る」事を選択した宮沢政権は、 明確にした事だった。つまり、この 段階で韓国政府は一旦、九二年一月の路線変更の重要性は当時の日本政九三年八月には新しく成立した金泳 以前の込即ち、日本政府と日韓府もよく理解していた。そしてだか三政権の共助を前提にして、再び 基本条約とその付属協定に関する理らこそ彼らはこの千載一遇の機会を「謝罪により事態を収拾する」事を 生かすべく、大きな「ギャンプル」目指した訳である。 解を共有する立場に戻った。 だからこそ、慰安婦問題は本来な を打つ事になる。即ち、当時の日本 シ里談話で決着しなかった理由 政府は「物理的補償を要求しない」ら、この河野談話により、少なくと そしてこのような状況を前提とし事の見返りとして、慰安婦の強制連も日韓両国政府の間では一つの決着 かかわ て、一九九三年八月の河野談話が作行に関わる日本政府の責任を認めるを見る筈だった。にも拘らず、この 9 られる事になる。このような金泳一一一事を求める韓国政府の要望に応える問題がこの後も混乱を極める事とな ったのには、二つの理由が存在した。 肌政権の意思表明を受けた当時の宮沢為に、それまでの「証言は証拠にな 一つはこの後、細川・羽田政権を 政権は再び韓国政府が今後も日本政らない , という自らの見解を覆して 府と日韓基本条約及びその付属協定まで、ソウル市内で一兀慰安婦への聞挟んで九四年に成立した村山政権 冷 に関する理解を共有するという前提き取り調査を実施し、それを一つのが、「女性のためのアジア平和国民 の下、賠償問題は放置して、歴史的根拠として慰安婦の強制連行を実質基金」 ( 通称「アジア女性基金」 ) によ 題 り、元慰安婦への実質的補償を目指 事実のみを疋する事で事態の収拾的に認めてゆく事になるのである。 した事であった。ここで注意しなけ 安を図ろうとする事になった。つまり、 周知のように、今日議論の対象と 慰 彼らは先の盧泰愚政権の慰安婦間題なっている河野談話はこのような当ればならないのは、この基金が韓国 サム キムョン みな
3 大論争に決着をつける な影響を及ぼした第一の理由は、こを持っ女性運動団体の緩やかな連合 る一九四五年以前の過去の出来事に れにより人々がそれまで抽象的にし体に過ぎなかったが、一九九〇年代関わる「請求権」ー・ーらまり植民地 か知られていなかった元慰安婦達の半ば頃には、この問題に対して絶大支配下における賠償等を含む金銭的 境遇を具体的に知ったからである。 な影響力を得るまでに成長する。基なやりとりに関わる問題ーーは、一 当時カミングアウトを果たした一兀慰盤になったのは先立つ一九八〇年代九六五年にされた日韓基本条約 安婦達は、ほぼ例外なく、その時点に展開された民主化運動の中での韓及びその付属協定にて「完全かっ最 で経済的に困難な状況に置かれてお国の市民運動団体、取り分け女性運終的に解決済み」、という立場を取 半世紀近くを経ていまだに苦し動団体の成長だった。こうして「元 っていたからである。一一 = ロうまでもな み続ける彼女等の姿は、当時の韓国慰安婦の存在を全面に押し出した支 く、この立場は一九六五年以降今日 の人々の深い同情を得た。 援団体が、日本政府に対して、裁判 まで、日本政府が取っている立場と 第二に、これにより実際の訴訟がや街頭活動の場で積極的に圧力をか同じであるから、この当時の日韓両 開始された事である。訴訟の被告と ける」という、今日ではお馴染みの国政府は、少なくとも法的な賠償に なった日本政府もまた、この問題に図式が成立する事になる。 関しては、慰安婦問題に対して同じ 対する公式見解を明らかにする事を 立場を取っていたことになる。 日本政府の稚拙な対処 余儀なくされ、日韓両国の間では日 だからこそ、この問題が勃発した 本政府の見解の妥当性を巡って激し とはいえ、元慰安婦のカミングア当時の韓国政府は、日本政府に対し が戦わされる事になった。 ウトと同時に、突然、現在と全く同て、事実関係の究明を求める一方で、 そして第三に、これを契機に、支じ状況が作り上げられたのか、と言法的賠償は要求しなかった。 援組織が急速に整備されていった事えばそれもそうではなかった。何故しかしながら、韓国政府の姿勢も この後、大きく変わっていった。そ である。例えば、九〇年に結成されなら、一九九一年に金学順がカミン ニ韓国挺身隊問題対策協議会 ( 挺グアウトした時点での韓国政府は、 の切っ掛けの一つは、当時の日本政 対協 ) 」は、当初はこの問題に関心現在とは異なり、日韓両国に横たわ府の稚拙な対処に求められる。即ち
かった。このため級容疑者の裁判第十一条で主権を回復する際、只裁判所も「連邦政府はいわれている は只裁判だけで終わったのです。裁判の判決を公式に受諾していま ところの戦争犯罪人に関する外国の ドイツではドイツ法廷での非ナチす。政府・外務省は、判決の適法性有罪判決を認めていない、と確認し 化裁判もありましたね。 に反対しない消極的容認という立場ています。 芝連合国から引き継いで、ドイで、独立後は戦犯管理と刑執行をし 一方、東ドイツのほうは戦後、反 ツの裁判所によるナチス犯罪の追及ながら、戦犯釈放に努力しました。 ファシズムの国として出発していま は続けられましたが、一九四八年頃 一九五一一年初め、連合国がこれとすから、むしろニュルンベルク条項 からドイツでは「戦勝国による裁同じ判決受諾を西ドイツに求めた事やナチス犯罪の時効廃止などを早く 判」、すなわち「勝者の裁き」であ実はアメリカ外交文書で知っていま から取り入れています。そして、西 るとの見方が強くなり、判決修正やしたが、結局、受け入れなかったと ドイツで旧ナチスの生き残りが政界 無差別釈放を求める声が強まってい いうのは本当に新しい知見です。 などに復帰すると、「犯罪者が要職 くのです。 芝西ドイツは一九五五年五月に に就いている」と攻撃を加えます。 主権回復を宣言しましたが、東西分ナチス批判を、冷戦下の政争の道具 判決を受諾しなかったドイツ 裁 断のために講和条約を結んでいない として利用したわけです。 べ 芝さらにいえば、あまり知られのです。一九五一年から五一一年にか 日暮日本政府は戦後一貫して東 ン ていないことですが、西ドイツの歴けて、英米仏からアデナウアー首相京裁判を容認してきました。敗戦直 代政府はニュルンベルクの判決を正 に対して、既決囚の身柄引渡しゃ刑後は幣暑重郎や吉田茂は自主的裁 式には受諾していないのです。 の執行に関する提案がありました 判をするつもりはなく、連合国の裁 裁 京 日暮芝さんの『ニュルンベルクが、アデナウアーの条件は、あくま 判に任せる立場でしたし、特に吉田 東 較裁判』にも書かれていますが、そのでニュルンベルク判決の承認がドイ は、里只裁判は対米協調への外交転 底事実には驚かされました。 ツに義務付けられないことでした。 換を円滑にすると考えました。それ 日本はサンフランシスコ講和条約また、一九五八年、ドイツ連邦曩局に先ほどの講和条約第十一条。 1 83
→ = → 3 大論争に決着をつける 日韓首脳会談ー こ際し日本側は「ざっ年一月一一一日、韓国の盧泰愚政権は 周知のように、今日の日韓両国の くりと謝っておきましよう」という遂に日本政府に慰安婦問題の「法的歴史認識間題、即ち慰安婦問題や世 方針で臨む事になった。そして実際、賠償」を求めた。この時こそ、韓国界遺産登録問題を巡って注目を浴び 宮沢はこの首脳会談で徹底的に謝っ政府がはじめて、一九六五年に締結ている徴用工問題等の多くは、日韓 た。その回数は当時の毎日新聞に現された日韓基本条約及びその付属協基本条約と一連の付属協定について われているだけでも、一月一四日か定に定められた「完全かっ最終的にの解釈と深く関わっている。 ら一八日までの五日間に合計一三解決済み」という規定には、例外が これら全ての問題について日本政 回、一七日の第一一次会談では、僅か一一ありうる、という、今日に繋がる新府は、日韓両国間に存在するあらゆ 三分のうちに八回にも及んでいる。 見解を示した瞬間であり、日韓両国る「請求権」に関わる間題は、これ だが、このような日本政府の姿勢政府の日韓基本条約に関わる理解が らの条約により「完全かっ最終的に を、当時の韓国政府は巧みに利用し大きく分かれていった。 解決済み」と解釈しているのに対し、 た。朝日新聞のスク 1 プ以前、日韓 こうして見ると、日韓関係におい韓国の政府や世論、さらに裁判所は 間の最大の懸案は韓国側の対日赤字て何故に慰安婦問題が大きな重要性この「完全かっ最終的に解決済み」 拡大問題であり、この問題で日本側を有しているかも理解できる。即ち に「例外」を認め、更にはその「例 の協力を得る事のできなかった韓国慰安婦問題は単にこの問題が戦時或外」の範囲を慰安婦のみならず他に 政府は、首脳会談を前にして、問題いは植民地支配期における女性の人も拡大して、現在に至っている。 の解決を強く求める韓国世論の圧力権に関わる重要な問題であるだけで 但しその事は、韓国政府の従軍慰 に直面していた。このような中、韓なく、植民地支配の清算に関わる基安婦問題に関わる姿勢がその後も一 国政府は突如として浮上した慰安婦本的な法的な枠組みである、日韓基貫していた事を意味しなかったし、 きゅ - つきょ 問題を急遽、首脳会談の中心的議題本条約とその付属協定の解釈に対すまた、それゆえにこそ慰安婦問題は に据え、議論のすり替えを図った。 る、日韓両国政府の見解を分ける更に複雑なものとなっていった。 そしてこの会談を受けて一九九一一「最前線」になっているのである。 重要だったのは、先の日韓首脳会 ノテウ
ける」状況は、日本国内における間 日本政府にこの問題の解決を求め、様の歴史認識問題へと波及していく 事になる。 題解決に向けての熱意を失わせる原 両国関係は紛糾する。 因であるのみならず、「韓国はアン このような中、要求を突き付けら 韓国はなせ約束を反故にするのか フェアな国家である」とする嫌韓感 れた日本政府は率先して解決案の作 とはいえ、このような状況は日本情の基盤の一つにさえなっている。 成に動き出し、一旦は水面下で韓国 それでは慰安婦問題、そしてそれ から見れば極めて理不尽に思える。 政府の「協調、の約束を取り付ける。 しかしながら、韓国政府はこの約束何故なら、状況の変化に応じて約束を取り巻く日韓関係は、どうしてこ を維持できず、結果として両国の合を反故にする韓国政府の姿勢は不誠のような状況になってしまったのだ 意は反故にされる。一九八七年の民実に見えるし、何よりも韓国の世論ろうか。明らかなのはそれが所謂 主化以後の韓国大統領の任期は一期や政府が、問題解決の為の「ゴール「嫌韓本」が指摘するような「韓国 五年と限られており、政権末期のレを動かし続ける」状況においては、人の特殊な民族性」によるものでは イムダック化が運命づけられている問題の最終的な解決そのものが不可ない、と言う事だ。既に述べたよう ヒヒに見えるからである。考えてみれに、一九六五年から現在までの五〇 事、そして何よりも民族主義的な世育 9 論が強い韓国においては、慰安婦問ば、日韓基本条約とその付属協定の年間のうち、九〇年代初頭までの最 題をはじめとする歴史認識問題にお条文そのものこそが日韓両の最初の一一五年間、韓国は日韓基本条約 及びその付属協定に関する解釈を維 人いて、世論の反対に抗して日本への重要な「約束」であった筈であり、 融和姿勢を維持するのが困難な事がその解釈が韓国側の事情により変わ持していたからである。「韓国人の 民族性」が九〇年代初頭に突如とし ること自体が不可解にも思える。 論その理由である。 ともあれ明らかなのは、このようて変化した、と言う事が不可能であ そしてこの結果、この慰安婦問題 題 を突破口とする形で、両国の日韓基な状況を続けていても、慰安婦間題る以上、「民族性、による説明が誤 りである事は明白である。 安本条約及びその付属協定に関する解の解決は容易ではない、という事で 慰 この点を考える上で重要なポイン 釈の溝は拡大し、その影響が他の同ある。韓国側が「ゴールを動かし続
論 韓国は最終的に、「強制労働」と と説明したため、今度は韓国メディ 一 ab 。 r を使うと第一条だけが連想さ いう一一 = 〕葉を草稿から削除することにアが「ごまかそうとしている」と反れて誤解を生みかねないので、 同意し、問題は決着した。 発。日本国内でも、「 forced ( 。 forced ( 0 work を使った」と説明し 日本政府代表の佐藤地ュネスコ大 wo 「 k 」という表現を間題視する声ている。 使が採択後に読み上げた英文の声明が出て日本政府は釈明に追われた。 宇都隆史外務政務官 ( 自民党参院 には「一九四〇年代にいくつかの施 日本の世論がもっとも混乱したの議員 ) は採択後、フェイスブックに 設において、その意思に反して連れは「強制労働 (ま「 ced labo 「 ) 」と「働「結果として元々外相会談で合意さ て来られ、厳しい環境の下で働かさ かされた (ま「 ced ( 。 wo 「 k) 」の違い れていたそのままのラインで決着し れた ()o 「 ced ( 。 work) 多くの半 だろう。一般的な感覚でいえば、ど た」と書き込んだ。声明の内容は、 島出身者等がいた」という内容が入ちらも「働くことを強いられた」と 日韓外相会談で合意された水準であ つ、 0 いう点で変わらないからだ。 って、最終局面で強い表現になった 韓国外務省は、「韓国人たちが本 ただ、日本政府の説明では「国際わけではないということだ。 人の意思に反して動員され、過酷な法的には大違い」ということになる。 「 forced ( 0 work 」というのは、日 条件下で強制的に労役したという厳 国際労働機関 (—=o) の強制労本として受け入れ可能な水準だっ 然たる歴史的事実を日本が事実上初働条約第一条は、加盟国に「強制労 た。日本は以前から「半島出身 めて言及」したと評価する報道資料働の廃止」を求めている。一方で第の徴用工が日本に連れてこられ、働 を発表した。韓国外務省は「強制労二条は、戦争や災害など「緊急の場かされた」ことは事実として認めて 働」という言葉を避けたものの、一 合」における労務は強制労働に含めきたからだ。「歴史修正主義的な内 部の韓国メディアは「強制労働を日 ないと規定する。 容だ」と韓国が反発した「新しい歴 本が初めて認めた」と報じた。 徴用は戦時に行われたことなので史教科書」 ( 改訂版市販本、一一〇〇五 一方で岸田文雄外相ら日本側は禁止対象ではないというのが日本政年 ) ですら、「多数の朝鮮人や中国 「強制労働を意味するものではない」府の立場だ。政府高官はま「 ced 人が、日本の鉱山などに連れてこら 234
入試で学ぶ「あの戦争」 源を運用することが可能となった。また、官制の上意下ナチスやファシスト党がつくった政治体制を学び、国民 達機関である大政翼賛会に諸政党が解散して参加したこ から選出された議会を足場に行政府と立法府を掌握する とで、議会政治は形骸化した。」 強大な権力をつくろうとした運動でした。でも、近衛が 「赤本」によると、東條英機内閣の下、一九四一一 ( 昭和この運動を始めたのは、独伊に共鳴したばかりでなく、 一七 ) 年に行われた「翼賛選挙」も答えになります。 冒頭でお話ししたように明治憲法下では、日本の権力は 片山それは忘れていました。「翼賛選挙」では、軍天皇の下で分立しすぎていて、すでに始まっていた第一一 部や政府の意向に忠実な議員だけで国会を構成するため 次世界大戦に対応する「強力政治」ができないと考えた 、大政翼賛会に参加した政治家による翼賛政治体制協からです。同時代の米国や英国も民主主義国家でありな 議会の推薦候補を衆議院の定数めいつばいまで出馬させ がら、総力戦体制を築くために、強大な権力を大統領や ました。推薦が受けられなかった候補は、立候補を断念首相に集中させていました。 させられたり、選挙運動を妨害されたりしたので、翼賛 新体制運動の失敗 選挙の結果、八割以上が翼賛政治体制協議会の議員で占 められました。 それに比べると、日本は立法府である議会の力が弱す 一九四〇年に始まった「新体制運動」によって、「大ぎました。日本国憲法では、国会は「国権の最高機関」 政翼賛会」が設立され、一九四一一年の「翼賛選挙」によ と位置づけられ、通例、衆議院で多数を占める党の党首 って、軍部や政府に批判的な勢力が一掃されて、「議会 が首相になる議院内閣制がとられていますが、大日本帝 の空洞化」が進んだ。日本もドイツのナチスやイタリア国は議院内閣制ではなく、明治憲法に議会と内閣や首相 のファシスト党が築いたような一党独裁体制となり、フ の関係を規定する条文はありませんでした。ですから、 アシズム国家となった。こんなふうに一息で説明される長らく首相や内閣は、議会と無関係に事実上、元老が選 ことが多いのですが、思想史を研究してきた私には違和んでいました。それが藩閥政治だと批判され、大正デモ 感が残ります。 クラシ 1 によって、国民が選んだ議会から首相や内閣が そもそも近衛文麿の「新体制運動」は、確かに近衛が選ばれるようになりました。こうして、一九一八 ( 大正七 )
、 3 大論争に決着をつける 側からの要請で作られたものでなかめ、同政権下では、村山のそれとは ら二三年を経た今日においては、最 った事である。結論から言うなら、異なる自民党内有力者の歴史認識間早韓国内では常識化するに至ってお このような日本政府からの追加的な題に関する発言が相次いだ。そして、 り、韓国の裁判所もこの理解を前提 「解決」への取り組みは、既に「解決、 このような状況に止めを刺す形にな として多くの判決を出している。 していたかも知れないこの問題ー ったのが、村山自身による国会での こうして見ると、結局、慰安婦間 もたら 「寝た子を起こす」効果を齎した。 「韓国併合は合法である」旨の発一言題を巡る今日までの展開に大きな影 二つ目は時を同じくして勃発し だった。発言を切っ掛けに韓国内で響を与えているのは二つの要素、つ た、村山政権内部の歴史認識問題をは、「妄言」相次ぐ日本政府への不まり、日本国内における慰安婦問題 巡る混乱であった。重要だったのは、満が爆発し、金泳三政権もまたこれをはじめとする歴史認識問題に関わ 当時の村山政権が自民党・社会党・までの合意を反故にして、慰安婦問る論争と混乱した対応、そして、そ さきがけの三党連立政権であり、そ題に関する日本政府への協力を拒否れを切っ掛けとする韓国側、とりわ の中での村山が自民党に次ぐ第一一党していく事になる。 け韓国政府の日韓基本条約及びその である社会党の党首に過ぎなかった その後、慰安婦問題は、二〇〇一一一付属協定に関わる解釈の変化であ ノムヒョン 事である。にも拘らず、アジア諸国年に成立した盧武鉉政権が、人る、という事がわかる。 との歴史認識問題の解決こそ自らの原爆被害者問題と、サハリン残留韓 即ち、ここまで繰り広げられて来 首相としての最大の責務であると信国人問題と並ぶ形で、慰安婦問題をたのは次のような状況である。まず、 じる村山は、自らの政権内部におけ 日韓基本条約及びその付属協定の日本側において慰安婦問題を巡って る脆弱な政治的基盤を顧みず、この「解決」の枠外にあるものとして公硎が行われ、それに対して韓国側 問題に積極的に取り組んでいった。式に定めて現在に至っている。このの世論が大きく反応する。次いで自 結果として、自らの意向を無視されような慰安婦問題を日韓基本条約及らの世論に突き動かされる形で韓国 た形となった自民党内部では大きなびその付属協定の枠外に置く見方政府が動き出し、問題は日韓一一国間 不満が生まれる事になった。そのた は、盧泰愚政権の最初の方針転換かの外交問題に発展する。韓国政府は
昭和史大論争 外務次官らと会談し、日本側に中国と、国民政府関係者や中国財界要人なったことも意味していました。 への財政支援と中国幣制の改革に対らに幣制改革の実現に向けたアドバ もうひとつは、銀本位制のもと、 する協力を要請しました。このとき、 イスを行いました。このとき、中国で これまで銀塊を保有していた銀行が リースⅡロスは中国に満洲国を承認 は金融恐慌が深刻化し、紙幣の兌換独自に発行していた銀行券を回収 させる代わりに、満洲国に中国の負停止にまで追い詰められていました。 し、今後は国民政府が指定した中 債の一部を支払わせるという案を提 イギリスから一千万ポンドの借款央・中国・交通の三銀行 ( 翌年に中 示しました。 を得る約束を交わした国民政府は、 国農民銀行も加わる ) が発行する法定 これに対し、日本側は国民政府へ十一月三日、幣制緊自大下を発し、翌貨幣 ( 法幣 ) を統一通貨にしたこと の不信感から幣制改革は容易に成功四日から幣制改革を実施すると宣言でした。 しました。 しないと判断していました。また、 この法幣による通貨統一には、国 幣制改革を支持すると、華北分離工 この幣制改革で何が変わったの民政府のもうひとつの思惑がありま 作を妨害する恐れがあったことか か。ひとつは、銀本位制から管理通した。当時、華北では、関東軍が河 ら、リース日ロスの提案を認めず、貨制度に改め、その際、対外為替を北 省東部に侵攻した際に激しく抵抗 そうてつげん 協力も拒否しました。 一元Ⅱ一シリング一一ペンス半に固定した第一一十九軍軍長の宋晢元が軍事 すでに、満洲国圓と日本円との等したことでした。不安定な銀本位制実力者として擡頭していました。 価リンクに成功していた日本は、幣から脱却し、中国の通貨が当時世界幣制改革の実施から遡ること三カ 制改革失敗後、中国元も日本円とリの基軸通貨であったイギリスポンド月の一九三五年八月、北平市長に就 ンクさせて、中国経済にも影響力をとリンクしたことで、中国の金融恐任した宋晢兀に対し、華北分離工作 ほそうと考えていました。 慌は未曾有の危機からようやく抜けを進める関東軍は、宋哲元を工作後 日本側との交渉が不調に終わった出すことができました。一方で、ボにできあがる華北親日自治政権の指 リースⅡロスは、イギリス単独で改 ンドとのリンクは、イギリスが中国導者にしようと説得を始めました。 革にあたることを決め、中国に渡る経済に決定的な影響力を持っことに このとき、宋晢兀の軍事力を支え 4 CD