結した後、日本の指導層は制海権も界大戦は、日本にはなじみの薄い総 て核の使用に対して抑制的だったこ日 制空権も失いながら恐ろしい無能とカ戦でした。国家の存亡をかけた総 とは人類にとって幸いなことでし学 朝鮮戦争でも、ベトナム戦争で 不決断によって犠牲を拡大します。カ戦では、振り下ろす拳をとどめる の ことが困難になります。各国は、国も核兵器の使用が検討されました 兵士達は無益な戦いで命を落とし、 国土は焦土と化しました。軍部は呪民を大量に動員する過程で、敵国をが、戦死亠薮が積みあがっても米国究 文のように本土決戦を唱え、ソ連仲悪魔化し、残虐の限りを尽くしたのは踏みとどまりました。仮に、学 戦争において、マッカ 1 サーの進言政割 介による終戦工作に希望を託しましでした。 学著 どおりトルーマンが中国に核攻撃を 。局面を打開するリーダーシップ 院員 広島・長崎が高めた核の抑止力 行っていたら、あるいはチャーチレ学究 はなく、降伏には天皇のご聖断を待 ノ大研と 学員よ っしかなかったのです。 広島と長崎の犠牲が大きな意味をの進言どおりソ連に先制核攻撃を行大客カ そんな状態だったのですから、米持ったのは、戦後の世界においてで っていたら、我々はまったく異なる東タ 。ン治 国が戦争の終結に相当の懸念を覚えした。広島と長崎での原爆の被害の戦後を生きたことでしよう。そもそれセ斑 ま究の 悲惨さは、日本国内では「核廃絶」も、我々の多くが存在しなかったか生研め ていたことは確かでしよう。米国に 年ンた ョの は当然、圧倒的な破壊を突きつけるの願いへと繋がりましたが、世界にもしれません。 ジ人 ビる 米国が抑制的であったこともあ 点ことで、日本の本土決戦の戦意を挫おいては核兵器の恐怖を目の当たり 、植民地の独立戦争に際しての英る政て のく意図がありました。ですから、降 にしたことで、その使用を抑制する 学し ら大望 一方、核抑止力を高める結果を生み仏も、東欧やアフガニスタンで戦っ 伏を確実にすることで原爆が米軍兵 う京絶 たソ連も核兵器を使用しませんでしみ東に 士の命を救ったということは事実だました。原爆の非人道性こそが、恐 キ た。六〇年代にかけて、戦後世界が ガろうと思います。 怖の核抑止に依存した「平和」をも ナ 平和のための仕組みを羶化してい 原爆がジェノサイドであった事実たらしたのでした。 マ く中で、核兵器の存在は不可欠でし シは消えませんが、両者は事実として 米国が圧倒的な核戦力を有してい た。ただし、それは原爆の犠牲を目 並び立っということです。第二次世 た四〇年代後半から五〇年代にかけ
学」 だと思います。 九世紀の半ばに起きたクリミア戦争が巻き込まれる人類初の総力戦とな会半 土裁 って、ヨーロッパの主要国はいずれ などでは、兵器の発達などもあって、 また、戦後の受け止めということ 学丿 も深刻なダメージを負います。そこ大ハ でいえば、戦後ドイツにおいても戦戦争がこれまでにない規模となり、 ュ で戦勝国イギリスのロイド・ジョー 犯裁判の受容の過程には複雑なもの被害も甚大なものになる。 がありました。それについては、後そこで「戦争のルール」が意識さジ首相とフランスのクレマンソー首 一 J れるようになり、一八九九年と一九 に詳しく述べたいと思います。 相は、開戦責任の追及を要求し、前卒割 〇七年にオランダのハーグで開かれドイツ皇帝のヴィル〈ルム二世を国乳 ライブツイヒの茶番劇 現が た万国平和会議で、「陸戦の法規慣際法廷で裁こうと主張します。 大てど 芝それには国内世論の影響も大京経な 日暮一一つの裁判の具体的な比較例に関する条約」が結ばれます。こ 東を 。授聞 に入る前に、まずは戦犯裁判、戦争こで硎されたのは、開戦時に宣戦きかった。ロイド・ジョージは、終 れ教新 ま助公 犯罪というものがどのように形成さ布告しなくてはいけないとか、戦闘戦直後の総選挙で「皇帝 ( カイザ↓ 生学中 県大 ( れたのかを振り返っておくと、理解員・非戦闘員の定義、捕虜虐待の禁を吊るせ ! ドイツは償うのだ」と 媛院』 、愛學 の助けになりますね。 止、毒の使用はいけないといった主訴えて、大勝していますね。つまり國ス 裁 了コ 戦勝国の国民も深刻な打撃を受けた 芝もともとは古代ローマの有名に戦争のやり方でした。 ク 日暮このハーグ諸条約では戦争状況で、開戦そのものを「悪」「犯け程は 2 な言葉に「敗者に災いあれ」がある す課 ように、敗者は勝者に何をされてもそのものは禁止されていません。当罪」として、ドイツにその責任を負既士 科 仕方ない、つまり戦後処理にルール時は「無差別戦争観」といって、戦わせようとしたわけです。 ば究、、 日暮それは、やはり総力戦の影し研岩 判などない甃長らく続いたわけで争は合法・違法の対象にならないと 京 いう考えが支配的だったからです。響ですね。単に軍事的な勝敗を争う すね。敗者であっても、一定の法の 東 だけではなく、「自分たちが正しく、 それが変わり始めたのが、第一次 較保護が与えられるべきだ、という枠 この戦争の責任は敵側にある」と啓 底組みが並したのは、やはり近代ョ世界大戦です。それまでの軍隊だけ ーロッパだったと思います。特に十が干戈を交える戦争から、国民全体発しないことには、国民を動員でき かんか
洲事変、つまり柳条湖事件の以前とで、残った重臣たちもーーとりわけ 半藤もちろん本音ではそうで 以後でガラッと、それこそ一八〇度内大臣の木戸幸一がそうでしたがす。しかし対米強硬派の連中はそう 変わるんですね。新聞はたちまち陸 テロリズムをやたら恐れるよう考えたくはなかった。日米戦争宿命 軍の応援団になって、満洲の戦果をになる。それがますます統治システ論が支配していました。 はやし立てる。日本の人びとは、好ムの崩壊を進ませた。それにつけて 阿川満洲事変の悳則にヴァージ 戦的な新聞報道に煽られて高揚しても、国の行方を分かっ肝心な分岐点ニア大学へ留学した海軍きっての知 いくのです。 で、向かうべき方向を指し示すこと米派、大井篤元大佐は、仲間の中堅 船橋プレーキをかけるべきだっ ができた人物がことごとく暗殺され士官の多くが「アメリカ人は贅沢に たメディアも、林銑十郎に「越境将てしまったのは本当に残念でした。 なれているから、戦いが始まったら 軍」と喝采を送りました。これも大原敬、浜口雄幸、犬養毅・ : : ・。犬養すぐに戦意をなくすに違いない、と きな過ちです。 は満洲国反対でしたし、満洲事変の いうよ一つなことをしばしば口にして 阿川陸軍にはドイツ留学組が多とき、もし首相が浜口だったら展開 いたと回想しています。 かったのですが、ガバナンスを壊し はまた違っていたと思います。 もっとも一九三〇年代のアメリカ て再構築しようとした中堅幕僚に は、実際そう強くはなかったんです。 は、ロシア ) 器やローザ・ルクセン 陸海軍の 第一次大戦のときに軍備を増強しま プルクなどドイツ革命思想への憧れ したが、 戦後、急速に縮小した。し アメリカ観 があったのではないでしようか。 かも主な戦場は欧州でしたから、日 船橋五・一五事件、二・二六事 阿川先ほど艦隊派の論理をうか本人と同様、国民が総力戦をリアル 件といった軍部クーデターも、結局、がいましたが、海軍は最後までアメに経験したとは言い難い。第二次大 軍部内部のガバナンスが崩れていた リカと戦う気はなかったと思うので戦の前もまだ充分な軍備は整ってい ことのあらわれですね。そして首脳す。戦ったら負けるに決まっている ませんでした。ただし南北戦争のと や重臣が簡単に殺されていくなかのですから。 きの北軍以来、豊富な物量と産業技 コ 22
ろう。 日露戦争から戦軽会までを舞台と ーチャルな幻想を再生産し続けた作 それに対して、三島由紀夫は戦場した畢生の大作『豊饒の海』の第一一一家ーー、この両者はまさに日本の戦 から疎外された人間である。入隊検部『暁の寺』で、真珠湾攻撃の開始後文化の両極を指し示している。 査で誤診されて即日帰郷を命ぜられの報を聞いた主人公は、すぐさまイ 思想不信と破壊願望 たことが、後々まで彼の感情的負債ンドの輪廻哲学に思いを馳せ、只 になったことは、よく知られている。大空襲の廃墟をした際には、そ ところで、司馬や一一一島が活躍する 戦場で死ぬはずであった自分が戦こに自らの「輪廻転生の研究」を投傍らで、戦後の日本社会で哲学の地 後も生き延びて、なぜか時代の寵影する。それは戦場をファンタジー 位が失墜したことは注目に値する。 児になってしまったという不発感に変えることであった。三島はすで京都学派を筆頭に、則の有力な哲 は、そのまま戦後日本のちぐは に戦時中の作品「中世」において、学者たちが司馬の言う「国家的愚 ぐな状況ーーー敗戦とともに滅亡する応仁の乱で廃墟化した日本に高貴な行」に加担した以上、戦後日本が知 はずが、なぜかのうのうと生き延び美男子の霊を降ろそうとする権力者に対する不信感を抱え込んだとして て経済的繁栄を謳歌しているーーとを描いたが、『暁の寺』においても も不思議ではない。 びたりと重なりあう。戦後日本社会 なお、戦争のまっただ中にあえて仏 この点で、司馬はまさに「戦後日 も自分自身も死に損ないの漫画的存教的な世界像を書き込んでいた。三本的」な言論人の典型であった。彼 在だというところに、三島の立脚点島は戦争 ( 戦場 ) を写生する気がま にとって、抽象的な知や思想はまる がある。天皇主義を掲げて「文化防ったくなかった。 で信用に値しなかった。例えば、彼 衛」を唱えたことも、所詮は三島一 司馬が「写生」を旨とした作家では一九六九年の梅棹忠夫との対談 流の虚構、すなわちお笑いにすぎなあったとすれば、三島は「虚構」 , で、日本史における「思想」は「ア 取り憑かれた作家である。戦場におルコール」のようなものにすぎず、 こうした「戦場からの疎外」は、 いてあらゆる甘い幻想を打ち砕かれ今後の日本人はその酩酊から覚め、 た作家と、戦場に行きそびれてヴァ世界に先駆けて「無思想時代」に入 三島の小説にも反映される。例えば、 228
歴史的証言 名将・今村均 歳長男が語る「父と戦争」 ラバウル戦を率い戦犯とされた父、技術将校だった長男 戦前・戦後を貫く見事な生き方がここにある 人格、見識などで、敵味方を問わず高い評価を受け 戦後、父、今村均に再会したのは昭和一一十五 ( 一九五〇 ) た今村均陸軍大将。ことにジャワにおける現地住民に年一月二十二日のことでした。父は戦時中もずっと南方 対する人道的対応や、多くの餓死者を出した南方戦線 に行っていましたから、七年一一一カ月ぶりということにな にあって、司〈工目として赴任したラバウルで自ら率先 ります。オーストラリア軍の軍事裁判で司令官としての して農地を耕し、自給態勢を築いて多くの兵士の命を責任を負い、禁錮十年という判決を受けた父は、巣鴨拘 救ったことから、「聖将」と称されることもあった。 置所で刑に服することとなり、日本に帰国したわけです。 さらには、戦後、南方での禁錮刑に服した後も、自宅やはり戦犯とされたおよそ七百人とともに帰ってきまし の敷地内に三畳の小さな離れを建て、終生、自ら謹慎 たが、病身の方も多い中、父は元気そうでした。ラバウル 生活を送ったことでも知られる。 にいる間、長く百姓生活をしていたからでしようか。 その今村均の長男、和男氏は今年九十七歳。昭和十 ところが、巣鴨に訪ねて行った母・久子と長男の私に 六年に陸軍に入り、航空担当の技術将校として戦争を会うなり、父はこう言ったのです。 体験した。父と子にとって、昭和の戦争とは何だった 「もういっぺん南方に行く。南方にはまだ苦労している のか。戦後七十年の時を経て、あらためて振り返って イ尸かいる。同じ服役するなら、日本ではなく、豪州刑 もらった 務所のあるマメス島 ( パプアニューギニア ) であるべきだ。 コ 32
3 大論争に決着をつける たことになる。事実、級戦犯遺族れているプーゲンビル島での戦没者 合祀問題とも関係している。 197 にさえも許可を取らない事後報告で の合祀を靖國神社は拒否している。 9 年 4 月、共同通信が東条英機ら 戦争末期、食糧が供給されないプ 柱の級戦犯が靖國神社にしれっとあった。 合祀されていたことをスクープとし 靖國神社のホームページには「国 ーゲンビル島で、食糧を求めて軍を て伝えた。 1978 年月日に合を守るために尊い生命を捧げられた抜け出した兵士が軍法会議にかけら れた。国は 1970 年と 1971 年 祀されたものの、批判の声を恐れた 246 万 6 千余柱の方々の神霊が、 神社が、公表をしてこなかったとい身分や勲功、男女の別なく、すべての戦傷病者戦没者遺族等援護法改正 うのだ。 祖国に殉じられた尊い神霊 ( 靖国ので、この軍法会議で刑死・獄死した 兵士たちを救済、彼らの公務死認定 級戦犯合祀は、 1978 年に宮大神 ) として斉しくお祀りされてい ます」と書かれている。 が可能となり、遺族は年金が受け取 司に就任した松平永芳の決断による だが、赤澤史朗の『戦没者合祀とれるようになった。だが、あくまで ものだ。彼は後年、「里只裁判史観」 も「大東亜戦争時代にこだわる靖 を否定するために級戦犯合祀に踏靖国神社』 ( 吉川弘文館 ) によれば、 み切ったとインタビューに答えてい 靖國神社が誰を合祀して、誰を合祀國神社はこの決定を不服とし、彼ら しないかに関して、首尾一貫した基の合祀を拒否することを表明した。 る。級戦犯に対する個人的シンパ また、原爆被生暑や空襲被圭暑も シーというよりも、とにかく「東 ~ 只準はなかったという。 靖國神社に祀られることはない。し 裁判史観」を否定したいというのが 戦後の靖國神社では、基本的には 彼の本心だったようだ ( 秦郁彦『靖戦闘員として「殉国」した人物が祭かし原爆被害にあった国民義勇隊昌 ( 国軽の祭神たち』新潮選書 ) 。 神として合祀されている。だが、対や、沖縄の戦斗協力者は合祀される つまり松平がインタビューで答え外戦争の戦没者全員が祀られている といった例外も存在する。 このように、靖國神社の合祀基準 たことを信じるなら、 << 級戦犯ム . ロ祀わけではない。 には矛盾が多い。赤澤によれば、神 は「英霊」に対する尊敬の念からで たとえば、違法な軍事裁判によっ 社がただの「慰霊」のための宗教施 はなく、政治的主張のために行われて刑死し、国からも「公務死」認定さ ひと コ 62
論 るということです。 無条件降伏するまで徹底的に叩くと 阻止することでした。戦略における いう、非常にシンプルな戦争観をも また、もし日本が戦術レベルでよ 三重の目的・目標」はそれだけで っています。アメリカの戦争がこの り巧く戦い、運も味方してミッドウ 致命的であり、目的の達成を著しく 困難なものとしますが、これは軍国エーで勝利していたとしても、日米ような「絶対戦争観」に基づくもの 日本にグランド・ストラテジーがな戦争の帰結が大きく変わっていたとである以上、仮に日本がミッドウェ 1 で勝利していたとしても、アメリ く、日本がどこへ向かうのか、そのは判断し難いものがあります。ミッ ドウェーを占領・確保すれば自ずと力が日本にとってより有利な条件で 目標が極めて曖眛であったことに起 因すると言えます。たとえば、開戦戦域が拡大して補給路が展延します講和に応じた可能性は極めて低かっ たと言わざるを得ません。 当初の戦略目標を見ても、陸軍は中が、軍令部の狙いはあくまで南太平 国大陸、海軍はフィジ 1 ・サモア・洋のシーレーンの確保であり、戦力海軍切っての知米派であった山本 ニューカレドニア、そして山本の連と補給路の更なる分散は免れ得ませでさえ、「真珠湾への奇襲攻撃でア 合艦隊はハワイであり、これではん。持久戦ともなれば日米の物的基メリカ艦隊を撃滅すれば、アメリカ 盤や工業生産力の実態から、日本が人は戦意を喪失する」という希望的 「戦力の集中」は極めて困難です。 観測に立っしかなかったように、日 いずれ自滅することは自明でした。 「戦力の集中」は孫子の時代から戦 さらに大きな問題は、より高次の本は「敵を知る」ことの重要性を軽 いの大原則とされており、クラウゼ 視していました。むしろ敵国の知識、 ヴィッツも「数の優位が戦闘の結果大局的な戦略レベルにありました。 それは当時の日本がアメリカの戦争或いは付き合いがあるだけで白い目 を左右する最も重要な要因であり、 で見るような空気があったと言えま 「決定的瞬間にはできるだけ多数の観をほとんど理解していなかったこ とです。アメリカは戦争と平和を明す。一方、アメリカには「敵国だか 軍隊を戦闘に集結させねばならな らこそ、まずは知識をもたなければ い , と述べています。つまり目標を確に区別し、過度に正邪を一一分する ならない、という健全なプラグマテ 達成するためには、もてる資源を一傾向があります。そして一度戦争が イズムがあり、実際に日本の専門家 極に集中して各個撃破する必要があ始まれば絶対に妥協はせず、相手が
本気で戦ったとは言い難い。たしかに上海では航空戦が績が良くて、メモをとるのがうまいとか、図上演習が上 あったり、重慶への爆撃もありましたが、彼我の力関係手で、なおかっそれを上手にパフォーマンスできるタイ に大きな差がありました。 プが中枢に起用されていきます。 日露戦争の次の近代戦は、ソ連軍と戦った昭和十四年 つまり、昭和の軍人は、戦争も含む行政を担当する役 のノモンハン事件なのです。ソ連の近代兵器を前に、戦人に過ぎなかったのです。 車戦でも航空戦でも惨敗を喫しました。その間の三十四 年間、日本陸軍はまともな近代戦を戦ったことのない軍 現場にツケを回す上司のキーワードは 隊だったのです。海軍に至っては、太平洋戦争まで近代 「工夫しろ」 戦の実戦体験がなかった。この断絶は大きなものがあり ました。 官僚化した軍隊が、どのような組織原理で動くのか。 ちなみに山本五十六は日露戦争時には、海軍兵学校を それが具体的に読み取れるのが、昭和三年に作られた 出たての少尉候補生として日本海海戦を経験していま「統帥綱領」と、昭和十三年に作られた「作戦要務令、 す。これに対して東条英機は一九〇五年三月に陸軍士官です。これは企画立案実行のためのマニュアルです。官 学校を卒業し、実戦を経験せぬまま、九月には戦争が終僚組織は必然的にマニュアル化するのです。 わっていました。つまり、太平洋戦争時には、中堅以下 なかでも、ここで紹介したいのは「作戦要務令」です。 「統帥綱領」は、統帥に当たる参謀本部第一課の陸大卒 の軍人はだれも総力戦を体験していなかったのです。こ れは、実戦のなかで日露戦争の体験を伝えられた世代は エリートしか見られない軍事機密でした。それに対して ほとんどいなかったことを意味します。 一般の兵士向けの「作戦要務令」には、まさに陸軍とい では、その三十四年の間に、日本軍に何が起きていた う組織そのものの精造があらわれています。 「作戦要務令」はマニュアルとしては実によく出来てい か。それは官僚化です。実戦のない軍隊で出世するのは、 ます。隊列の組み方から行軍、宿営、戦闘方法、戦中日 事務能力の高い人間です。実際の戦場に出て強いかどう かは、やったことがないから誰もわからない。学校の成誌の書き方から憲兵の仕事まで、これ一冊読めば全部わ
出来事 悼施設を考える会」が発足。 神社参拝に関する「紳士協定」が中曽根内閣当時に口頭でなされたと述べ 二〇〇六七月ニ〇日日本経済新聞に「富田メモ」が公たが、当時の日本政府は協定の存在を否定している。 開される。八月一五日小泉純一郎首相、現職そして、戦後昭和天皇の靖国親拝は戦争終結三〇周年の一九七五年まで 総理としては一一一年ぶりに八月一五日の靖国数度にわたって行われたが、一九七五年一一月ニ一日を最後に、天皇親拝 参拝を行う。 は行われていない。この理由について、同年八月、三木武夫首相が戦後初 一一〇〇七一月末マイク・ホンダら七人の超党派米下院の首相による終戦記念日の参拝の後「私人として参拝」と発言したことが 議員が共同署名で米下院に慰安婦問題に対す原因とされていたが、ニ〇〇六年に発表された「富田メモ」 ( 元宮内庁長官 る日本政府の謝罪要求決議案を提出。ニ月一富田朝彦がつけていたメモのうち、一九八八年四月ニ八日の、靖国神社参拝に関す 五日米下院外交委員会公聴会で、元慰安婦一一一る昭和天皇の発言を記述したとされる部分 ) によれば、一九八八年の段階で、 名が証言。三月五日安倍晋一一一首相、国会で、「広昭和天皇が < 級戦犯の合祀に対し「私は或る時に、 < 級が合祀されその 義の強制性」はあったが、官憲が人さらいの上松岡、白取 ( 鳥 ) までもが」「だから私あれ以来参拝していない ように連行するような「狭義の強制性」はなそれが私の心だ」と記されてあることが報じられた。しかし、この富田メ かったと発言。三月三一日「アジア女性基金」モに対しては、疑う余地がなく、昭和天皇が合祀を不快に思っていたとい 解散。四月ニ六日米紙ワシントン・ポストにう説と、このメモだけでは判断しにくい、また、その後も春秋の例大祭に 在米韓国系団体が「 The Truth about Comfort 勅使が派遣され、皇族方が参拝されていた事実や、他の資料における天皇 Women ( 慰安婦の真実 ) 」と題した意見広告の発言と矛盾するなどの反論がある。 掲載。四月ニ七日訪米した安倍首相は「辛酸 ⑤あの戦争をとう捉えるか ? をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、 また総理として心から同情」「申し訳ないと林房雄の「大東亜戦争肯定論」は、六〇年代、最も早い時点で「太平洋 いう気持ちでいつばい」と表明。七月三〇日戦争」と呼称されるようになった先の戦争を、欧米植民地主義に対する日 米下院本会議、慰安婦間題に関する対日謝罪本およびアジアの抵抗として再評価しようとした試みであり、同時期の竹 要求決議を可決。 内好、高橋和巳ら異色の左派文化人によっても、戦前のアジア主義の再評 一一〇一一八月三〇日韓国の憲法裁判所が「韓国政府が価は行われていた。 日本軍慰安婦被生暑の賠償請求権に関し具体そして、敗戦を戦前の軍国主義からの解放と捉えていた戦後民主主義的 西暦
安全保障と憲法 な影響を与えました。戦争の激化とともに、一九六九年 ナチスドイツのチェコ侵略などがこれに近い例でしょ に法改正で徴兵制が強化され、マジョリティである白人 第三に、嵳別戦争観。これは国益追求の手段として中間層とその家族を含めて、より多くの市民が戦場に送 戦争を認めるもので、いわば国家間の決闘のようなもの られるにつれて、反戦運動も拡大激化したのです ( 新著 で、当初は志願制だったとしたのは誤りで訂正します ) 。 として戦争を捉える考え方です。 第四が積極的正戦論。これは自分の信じる宗教・道 したがって徴兵制は絶対に無差別公平でなければなり ません。富裕層だろうと、政治家の家族だろうと徴兵逃 徳・イデオロギ 1 の実現のための武力行使を認めるもの れは許されない。開戦決定を左右するエリートとマジョ で、宗教的聖戦論や現代の体制干渉戦争に見られます。 私はこの四つのどれをも採りません。私の立場は消極 リティ自身に「血を流す」コストを負わせるべきです。 的正戦論、すなわち正当な戦争原因を自衛に限る考え方 同時に良心的兵否を認める必要があります。先述 です。この点でだけ言えば、修正主義的護憲派の専守防したように絶対平和主義者の自己決定は尊重する。ただ し、良心的拒否権の利己的濫用を抑止するために厳しい 衛と重なる。ただ大きく違うのは、安全保障体制のあり 方は憲法でなく民主的立法で決定し、憲法は「もし戦力代替的役務を課す。非武装で収の任務に就いたり、消 を保有するなら徴兵制を採用し、良心的拒否権を保障す防隊や被災地域の救護活動など、実質的に兵役に等しい リスクを引き受けることがそこでは求められます。 べし」という条件付け制約を課すべきだとする点です。 戦後七十年が経ち、日本の安全保障のあり方について カントは有名な『恒久平和のために』で、平和のため は、このままでいいのかという問題意識が国民の間にも の条件のひとつに共和制であることを挙げました。つま 相当に広がっています。私が言いたいのは、これ以上、 り君主制では王が勝手に戦争を始め、そのコストを払う のは国民です。しかし、共和制ならば、戦争が起きたら憲法九条をめぐる欺瞞的な議論にエネルギ 1 を浪費する のはもうやめにしませんか、ということ。この国の安全 兵士となって戦場に出る国民自身に決定権がある。自ら 保障を決定するのも、そのコストを負うのも、主権者で コストを負うのだから、戦争に真重になるはずだ、と。 ある我々日本国民なのですから。 実際にベトナム戦争でのアメリカでは、徴兵制が大き 2 〇 2