ていたのが、河北省銀行をはじめと密輸品を中国国内に横流しするなどを走る鉄道の沿線都市の駐屯が認め する、華北に拠点を置く銀行でした。 して、日中関係に新たな火種を生みられていました。しかし、豊台はそ 宋晢兀は支配下に置いた銀行に紙幣出しました。 のなかに含まれていませんでした。 一方、華北分離工作によって関東支那駐屯軍は条約違反であることは を発行させて、財源に充てていまし た。国民政府は華北分離工作をこれ軍が華北に影響力を広げたことを危わかっていましたが、臨時措置とい う名目で駐屯させました。 以上進展させないため、幣制改革で惧した日本政府は、一九三六年五月、 一九三七年七月七日、豊台の支那 通貨発行権を一手に握り、金融を通本来華北を管轄範囲とする支那駐屯 して華北を繋ぎ止めておく必要があ軍の兵力を三倍近く増員 ( 約六〇〇駐屯軍一個中隊が北平の西にある盧 りました。 〇人 ) して、関東軍との軍事バラン溝橋附近で夜間演習をしていたとこ スを見直しました。増員は日本側にろ、同地を守備していた第二十九軍 関東軍の対抗策が戦争を招いた とっては、これ以上中国と紛争を起と軍事衝突を起こしました。これが しかし、幣制改革はかえって関東こさないための措置でしたが、中国盧溝橋事件の始まりでした。関東軍 軍に華北分離工作を急がせる口実を側からみれば明らかな日本側の軍事の華北への「野心」を抑えるはずだ 与えました。 的威嚇でした。そのため、国民政府った支那駐屯軍の増兵が、皮肉なこ 戦 敗 一九三五年末、関東軍は知日派では外交ル 1 トを通して日本政府に抗とに八年に及ぶ日中戦争を引き起こ 黄郛に代わって非武装地帯を管理し議し、中国各地では増兵反対のデモす直接のきっかけとなりました。 さらに、そのもとをたどると、日 ていた殷汝耕を説得して、同地帯をが起きました。 妨 を領域とする冀東防共自治政府を盛並増兵を受けた支那駐屯軍は、兵舎本が幣制改革の対応を結果的に誤っ に収容しきれなかった一部部隊を北 たことが、日中関係を決定的に悪化 させました。 ほうだい させ、満洲事変を日中戦争へと繋げ 変国民政府の支配からの離脱を宣言平に程近い豊台に移駐させました。 た「ポイント・オプ・ノーリター 洲した冀東政府は冀東銀行券を発行し支那駐屯軍は中国側との条約によっ 満 ンとなったといえます。 て法幣に対抗したり、満洲から来たて、天津のほか、北平と山海関の間 いんじよこう
州戦の教訓」「現代概論」 ) 。 支那、「中支那」の各地域で利用し ことは、注意すべきである。 さて、国家総動員を要する事態と うる概算量、需給に関する「観察」、 そのほか、鉱物資源としては他に、 なれば、各種軍需資源の「自足」が記されている。ちなみに、この一鉛・亜鉛は華中、錫は華アルミ 体制が求められることとなる。だが七品目は当時重要とされた軍需資源ニウム・マグネシウムは満州など 永田のみるところ、日本の版図内でをほとんど網羅していた。 が、供給可能地域として挙げられて いる。 しうる国防資源は極めて貧弱な そこでの検討によれば、鉄鉱石、 状況にある。したがって自国領の近銑鉄、鋼鉄ともに、本土・での 石油は、航空機、戦車、艦船など 辺において必要な資源を確保してお生産額では大幅に不足し、不足分はの燃料として重要資源の一つだが、 かなければならないとの判断をもっ輸入に頼っている。だが、すべて満版図内での産出量すこぶる少なく、 ていた。この不足資源の供給先とし蒙、華北、華中の資源で充足するこ ほとんどを輸入に頼っている。満蒙 て、永田においては、満蒙をふくむとができる。また、石炭は、ほぼ自で撫順頁岩油 ( シェール・オイル系 ) 中国大陸が念頭におかれていた。 給しうるが優良炭が少ない。優良炭が産出されるが、その産額は不足分 永田は、主要な軍需不足資源のう は、華北・華中に多く、全体としての一割程度。華北・華中ともに多少 ち、ことに中国資源と関係の深いも戦時不足分は、満蒙・華北・華中での油田はあるが調査試験中の状況。 のについて検討を加えている。 補充しうる。 「支那資源によるも目下供給著しく そこでは、品目として、鉄鉱石、 鉄鉱石、銑鉄、鋼鉄の軍事上の用不足の状態にあり。速やかに燃料国 銑鉄、鋼鉄、鉛、錫、亜鉛、アルミ 途は、武器・弾薬のほか各種器具・ 策の樹立及之が実現を必要とする」、 ニウム、マグネシウム、石炭、石油機械用。石炭の用途は、主要な動力・ との観察が付されている。 など、一七品目の重要な軍需生産原熱発生源である。この四品目は、軍 石油に関しては、中国資源による 料をとりあげている。そして、それ需資源としては最も重要かつ大量に としながらも、必要分確保のはっき ぞれについて、軍事用の用途、「帝必要とするもので、すべて満蒙、中りした見通しが立てられていないと 国」内での生産の概況、「満蒙」「北 国北中部での確保が考えられている いえよう。当時北樺太の石油利権か 4
関係がその後も促進されれば、満洲国民政府の通貨金融政策で、これ以慌、そして華北分離工作によって再 事変後も日中間でくすぶっていた火後、中国の通貨制度は従来の銀本位び華北が戦乱に巻き込まれる可能性 が出てきたことに、華北に権益を持 制からイギリスポンドを基準とした 種を消せたかもしれません。 その一方で、一九三五年に入ると、管理通貨制度に移行しました。なぜっていたヨーロッパ列強は強い危機 感を抱きました。そのなかでもイギ 日中戦争勃発へと一則進するよう幣制改革が日中戦争を招いたのか。 リスは、炭鉱や海関などの権益に加 一九三〇年代に入ると、中国経済 な事態が華北で起こりました。同年 は世界恐慌の影響に加え、満洲事変え、華北が重要な輸出先であったこ 夏、関東軍は参謀本部の協力のもと、 非武装地帯を含む華北の分離独立をにより広大な満洲の市場が日本に奪とから、中国の経済と金融の早期回 目指す、いわゆる華北分離工作を始われたり、毎年の天災や戦乱などで復と華北情勢の安定を特に求めてい ました。 めました。そのおもな目的は、対ソ諸産業が破壊されたりしたことで、 これら中国の問題を解決するた 防衛にあたる満洲国の後背地である深刻な不況にみまわれました。 華北の安定、ならびに華北にある資さらに、一九三四年八月、アメリめ、イギリス政府は一九三五年六月、 力が物価引き上げ策の一環として、政府財政顧問・リースⅡロスの中 源の獲得でした。 銀買上法を実施すると、銀本位制で国派遣を決定しました。リースⅡロ 戦 なぜ、幣制改革を拒否したのか 敗 あった中国から大量の銀塊が流出しスはハーグ国際会議代表や国際連盟 ネ マ ました。その額は、同年中だけで一一経済委員会代表などを務めた、イギ このような華北をめぐる混沌とし リスきっての財政家で、一九三〇年 た状況のなか、満洲事変が日中戦争億五七〇〇万元にのぼりました。こ 妨 れは、前年の銀輸出額の十七・八倍代イギリスの対外経済政策に強い影 をへと至る「ポイント・オプ・ノーリ で、翌一九三五年六月末までにアメ響力を持っていました。 ターン、はいつであったのか。 九月、中国に向かったリースⅡロ リカが世界中から買い集めた銀の八 変筆頃は幣制改革がその分岐点では スは、その途中で日本に立ち寄り、 洲なかったかと考えます。幣制改革は割以上に達しました。 しげみつまもる たかはしこれきょ 満 中国経済の未曾有の不況と金融恐高橋是清蔵相や広田外相、重光葵 一九三五年十一月三日に発表された CD
論 距離を感じ、反発していたところだ けることは不可能ではなかった。だ されているといえよう。それが、永 つ 0 が、永田は当時の中国国民政府の「革田にとっての満州事変であり、その もちろん、このことは米英との提命外交」と排日姿勢のもとでは、実後の華北分離工作 ( 軍務局長在職中 ) 携をアプリオリに拒否するものでは際上それは困難だと判断していた。 たった。ただ、華北分離工作のさい なく、あくまでも敵対・提携関係の 永田のみるところ、中国国民政府 には、米英などの中国利権と衝突し フリー・ ハンドを確保しておこうとの弄器外交」は、排日侮日を引き ないよう、慎重な配慮がなされてい の意図からだった。このような観点起こし、県資源確保上、橋頭堡的た ( たとえば米英の鉄道・鉱山その他 は、武藤章、田中新一ら統制派系幕な意味をもっ満蒙の既得権益を危くの投資利権、英の海関支配などには手 するものだった。そのことからまた、 僚にも受け継がれる。 をつけず、原則として両国の通商活動 宇垣のスタンスと異なり、永田の戦時のさいの軍需資源全体の , 暑見を妨害しない ) 。中国全体の支配とい 場合は、米英との対立の可能性も考通しの確保についても、通常の外交うよりは、資源獲得が主要な目的だ 慮に入れ、中国の華北・華中をふく 交渉による方法では極めて困難な状ったからである。 めな暑圏形成を構想していたので況に追い込まれつつあると判断して だが、このような方向は、政党政 ある。 治や宇垣らの中国政策とは異なるも 永田はいう。「非道きわまる排日のであり、それらと厳しい緊張を引 満州事変と華北分離工作 侮日」のなか、「民族の生存権を確き起こす可能性をはらんでいた。 では、これらの中国資源確保の方保し、福利均分の主張を貫徹するに また、国内政治体制の問題につい はばか 法として、どのような具体的な方策何の憚るところがあろうぞ」 ( 永田ても、永田は、政党政治の方向に対 が考えられていたのだろうか。 「満蒙問題感懐の一端」『外交時報』第抗して、「純正公明」な軍部が国家 もし日中関係が安定しており、何六六八号、一九三一一年 ) 、と。 総動員論の観点から政治に積極的に らかの提携・同盟関係にあれば、戦時 ここに中国大陸からの資源確保の介入することを主張している。 下においても必要な資源の供給を受具体的方策の方向性は、おのずと示 永田はいう。国家総動員には挙国 4
昭和史大論争 外務次官らと会談し、日本側に中国と、国民政府関係者や中国財界要人なったことも意味していました。 への財政支援と中国幣制の改革に対らに幣制改革の実現に向けたアドバ もうひとつは、銀本位制のもと、 する協力を要請しました。このとき、 イスを行いました。このとき、中国で これまで銀塊を保有していた銀行が リースⅡロスは中国に満洲国を承認 は金融恐慌が深刻化し、紙幣の兌換独自に発行していた銀行券を回収 させる代わりに、満洲国に中国の負停止にまで追い詰められていました。 し、今後は国民政府が指定した中 債の一部を支払わせるという案を提 イギリスから一千万ポンドの借款央・中国・交通の三銀行 ( 翌年に中 示しました。 を得る約束を交わした国民政府は、 国農民銀行も加わる ) が発行する法定 これに対し、日本側は国民政府へ十一月三日、幣制緊自大下を発し、翌貨幣 ( 法幣 ) を統一通貨にしたこと の不信感から幣制改革は容易に成功四日から幣制改革を実施すると宣言でした。 しました。 しないと判断していました。また、 この法幣による通貨統一には、国 幣制改革を支持すると、華北分離工 この幣制改革で何が変わったの民政府のもうひとつの思惑がありま 作を妨害する恐れがあったことか か。ひとつは、銀本位制から管理通した。当時、華北では、関東軍が河 ら、リース日ロスの提案を認めず、貨制度に改め、その際、対外為替を北 省東部に侵攻した際に激しく抵抗 そうてつげん 協力も拒否しました。 一元Ⅱ一シリング一一ペンス半に固定した第一一十九軍軍長の宋晢元が軍事 すでに、満洲国圓と日本円との等したことでした。不安定な銀本位制実力者として擡頭していました。 価リンクに成功していた日本は、幣から脱却し、中国の通貨が当時世界幣制改革の実施から遡ること三カ 制改革失敗後、中国元も日本円とリの基軸通貨であったイギリスポンド月の一九三五年八月、北平市長に就 ンクさせて、中国経済にも影響力をとリンクしたことで、中国の金融恐任した宋晢兀に対し、華北分離工作 ほそうと考えていました。 慌は未曾有の危機からようやく抜けを進める関東軍は、宋哲元を工作後 日本側との交渉が不調に終わった出すことができました。一方で、ボにできあがる華北親日自治政権の指 リースⅡロスは、イギリス単独で改 ンドとのリンクは、イギリスが中国導者にしようと説得を始めました。 革にあたることを決め、中国に渡る経済に決定的な影響力を持っことに このとき、宋晢兀の軍事力を支え 4 CD
昭和史大論争 満洲事変と日中戦争が繋がった戦 争かどうか考えるうえで、重要な争 満洲事変「解決」を 点となるのが、一九三三年五月三十 タンクー 一日にされた塘沽停戦協定をど 妨けたマネー敗戦 う評価するかという問題です。同協 定は満洲事変以来続く日中両軍の戦 日中戦争突人の淵源は、英国財政家 闘を終結させることを目的に、日本 広中一成 リースⅱロス提案の新通貨にあった の在外派遣部隊である関東軍と中国 軍との間でされました。 日中戦争はいっ始まったのか。こ年七月七日に北平 ( 現在の北京 ) 近満洲事変を起こした関東軍は、一 う問われると、多くの日本人は一九郊で起きた盧溝橋事件からでした。 九三三年二月、満洲 ( 現在の中国東 ねつか 三一年九月十八日に起きた満洲事変はたして、十五年戦争史観で言わ 北部 ) の南部に位置する熱河省 ( 現 からと答えるでしよう。満洲事変にれるように、満洲事変と日中戦争は在の河北省北部 ) を攻略し、満洲国 より日本の中国侵略が始まり、日中一連の繋がった戦争であったのか。 の一部としました。その戦いは熱河 戦争へと至る中国との対立の火種が もし、繋がっていたとしたら、なぜ省だけに止まらず、関東軍は万里の 作り出されたと考えられているから満洲事変を終えられなかったのか。長城を突破し、河北省東部にまで戦 です。この歴史観を戦争が続いたお満洲事変が日中戦争へと至る決定的線を拡げました。 しようかいせき およその期間をとって、十五年戦争 ) ポイントはどこにあったのか。本稿 関東軍の進攻に対し、介石率い 史観といい、現在の日本の歴史教育では、満洲事変以降、日中両勢力のる国民政府は、敵対する中国共産党 にも採り入れられています。 接触点となった中国華北地方の情勢との戦いを優先し、関東軍とは抵抗 しかし、事実をたどると、実際に に着目しながら、以上の問いを検討を続けながら現地交渉で解決を図ろ 日中戦争が始まったのは、一九三七していきます。 うとしました。このとき、中国側で 三重大学共通教育センター非常勤講師
中国本土については米英と協調して らの入手量は、国内需要の一一割程度 米英協調を目指した宇垣構想 経済的な発展をはかるべきだとの姿 にすぎなかった。おそらく中国で必 ちなみに、一九二〇年代後半前後勢だった。米英ともに中国本土には 要量が確保できない場合には、同 盟・提携国からの入手などが考えら ( 政党政治期 ) の陸軍首脳に強い影響強い利害関心をもっていたからであ かずしげ 力をもった宇垣一成 ( 同時期に長期る。また、次期大戦のさいは、当然 れていたものと思われる。 間陸相に就任 ) も、長期の総力戦へ米英と提携することが想定されてい その他の資源も、多くは満蒙およ た ( ただし、宇垣は次期大戦を必ずし び華北・華中が供給可能地域とされの対処として軍の犠化と国家総動 ている ( 「現代陽概論」 ) 。 員の必要を主張していた。その点でも不可避だとはみていなかった ) 。 だが、永田からみれば、それでは このように永田は、ほとんどの不は永田も同様だったといえる。 だが宇垣は、基本戦略としてワシ大戦にさいして、国防上自主独立の 足軍需資源について、満蒙および華 ・華中からの供給によって確保可ントン体制を尊重し、米英との衝突立場を維持することができないこと になる。 はあくまでも避けるべきとの観点に 能であり、そこからの取得が必要だ たっていた 軍需資源を米英から輸入すること と考えていた。 したがって、主に対ソ戦の可能性を前提にしていれば、それに制約さ 永田にとって、中3@題は基本的 には国防資源確保の観点から考えらを念頭に、中国本土をふくまないかれ、提携関係も選択の余地なく米英 たちでの、日本・・満蒙・東部側とならざるをえない。そのように 山れており、満蒙および華北・華中が、 シベリアを範域とする・暑圏の形成提携関係においてあらかじめ選択を その供給先として重視されていた。 限定されれば、国防上の方針決定の とりわけ満蒙は、現実に日本の特殊を考えていた。 ハンドを確保することがで それは、資源上からも厳密な意味フリー・ 権益が集積し、多くの重要資源の供 罠 給地であり、華北・華中への橋頭堡での自給自足体制たりえず、不足軍きない。したがって国策決定の自主 の 独立性が失われる。 力として、枢要な位置を占めるものだ需物資は米英などからの輸入による 総 った。 この点が、宇垣に永田がもっとも 方向を想定していた。したがって、
満洲事変「解決」を妨げたマネー敗戦 0 0 了ど 交渉役に立ったのが、知日派で対日戦協定は関東軍の要求を全面的に受軍は速やかに軍事境界線の「以西及 修な け入れた内容となりました。 外交の経験を持っ黄郛でした。 以南の地区に一律に撤退し爾後同線 協定は全五項からなり、その趣旨を越えて前進せず」 ( 『日本外交年表後 関東軍に甘かった塘沽停戦協定 は、今後日中両軍が衝突しないよう、 並主要文書』 ) と定められたのに対し、 ろだい チャハル 一九三三年五月中旬、停戦交渉の河北省蘆台から察哈爾省延慶まで軍第 = 一項では、中国軍が第一項を遵守ガ ために北平を訪れた黄郛に対し、関事境界線を設置し、同線と長城線にしているかどうか確認したあと、関国ャ きとう 東軍は軍事的威圧を加えながら交渉囲まれた河北省東部 ( 略称は冀東 ) 東軍は「自主的に概ね長城の線に帰院セ 凡例 た。つまり、撤退期間や方法につい でした。これにより、華北にまで及 ・壺蘆島関 知著 海塘沽停戦区域 . ). んだ満洲事変はようやく終わりを告て、中国軍には厳しく、関東軍には愛 追加停戦区域 錦州 . ・省 れ代 秦渤自治政府区域 げ・ました。 甘く設定されていました。その結果、 ま現 ー国境 生近 ー省境 しかし、現在の戦争でもそうです関東軍の一部部隊は翌年になっても年 / 琩 : ' 万里長城際 中 ・台 が、停戦合意は破られやすいもので非武装地帯から撤退せず、中国側か 沽、年 + す。塘沽停戦協定は、結果から見れら反発を招きました。 徳翔 もうひとつは、非武装地帯の治安っ ) ば、満洲事変によってもたらされた 、・天津昭 、究 満承物 日中の戦火を消すことはできず、日を維持する中国製言察機関の問題で , 近州・省 高麗営 松中戦争を招来してしまいました。塘した。同機関設置の取り決めは、協 ろ士 北、定・赤 保 ( ーし力なる問題があ定第四項に明記されていました。同ひ博 沽停戦協定こま、、 ) ったのでしようか。 項では、その警察機関について、「日 ひとつは、非武装地帯となった河本軍の感情を刺戟するが如き武力団 年北省東部からの日中両軍の撤退方法体を用ふる事なし」 ( 同右 ) とあり 山西省 にありました。協定第一項で、中国ました。 多倫諾爾 ( 多倫 ) 0 北票 察哈爾省 小河子 ( 沽源 ) 綏遠省 平泉葉柏寿 独石 張家ロ ! ( 万全 ) : 懷来 こうふ
昭和史大論争 った分、それは時にきわめて理不尽中国を目にして、明確にその認識を米関係を楽観視するきらいがあっ 改めるようになった。 なものと感じられたのである。 た。満洲事変の首謀者がアメリカの アメリカは、日本を刺激するほど軍事介入は回避できると予測してい アメリカの中国認識を変えたもの たように、日中戦争 ) に至っても、日 の中国支援は慎重に避けており、日 本側は自らの中国政策に最終的には 日米対立の直接的な原因が中中戦争の初期を実質的に支えていた 題であったにもかかわらず、アメリのはソ連であった。アメリカは、自アメリカの理解が得られると考え、 力の対日姿勢は日本の侵略の深化に らがたいして支援していない中国をアメリカの仲介を自らに有利な停戦 への圧力とするという発想を持ち続 比例して硬化していったわけではな降伏させられない日本の姿を目に ナ , て、こ 0 。中国の領土保全よりアメリカ人し、これまで日本を過大評価してい たことに気づいたのである。 の生命を尊重するのはある意味当然 これは日本側が「黙認」と「承認」の のことであり、日本との戦争を回避中国が自ら戦う力を持ち、ソ連が 距離を過小評価していたことによる。 たしかに日本政府が、現地陸軍の することはアメリカにとって最大の主たる支援国として矢面に立ってい る状況において、日本がアメリカに 華北分離工作を封じ込めることがで 課題であった。また、前にも触れた ように、アメリカの中国に対する評向かってくることはないと考えられきれば、「黙認」が「承認」に転化 た。自らが巻き込まれることがなけする可能性はゼロではなかった。し 価は一九三〇年代半ばまで大変低か かし、それに失敗したばかりでなく、 れば、中国が日本の侵略に抵抗する ことはアメリカにとって望ましいこ 日中戦争期にアメリカの中国評価の しかし、アメリカの対中認識は一 九三〇年代半ばに大きく変わる。そとであった。これを側面から支援す変化を認識することができなかった るため、それ以降、アメリカの対日 ことは日中戦争の泥沼化を促進し のきっかけは華北分離工作における 中国の予想外の奮闘であった。さら姿勢は次第に硬化していったのであた。 る。 軍事的に勝ちきれない戦争をアメ に、日中戦争勃発後、南京陥落にも リカの圧力を借りて終わらせるとい それに対して、日本側は総じて対 かかわらず屈服する様子を見せない
っていた。 方は、中国においてもナショナリズ 帰させるために制裁が発動されるこ ともなかった。 ところが、この可能性を消滅させムの台頭を促し、抗日運動の激化を 満洲事変が新しい国際的規範に与たのが一九三五年頃から現地陸軍に招いた。それによって資源に対する えた破壊的な影響にもかかわらず、よって行われた華北分離工作 ( 中国日本のアクセスも不安定化が懸念さ 北部の五省を中国国民政府から分離しれていた。 この段階で、日本の対英米関係が絶 とはいえ、実際にアクセスが不安 望的となったわけではない。英米両ようとする活動 ) だった。 満洲事変同様、華北分離工作にお定化したわけではない。平時におい 国には満洲事変後の状況を当面、黙 いても、軍部でさえ必ずしも一枚岩ては、貿易バランスのために諸国が 認する用意があったからである。こ の黙認は、彼らの中国認識から生じでその作戦を支持していたわけでは輸入制限をすることはあっても資源 ていた。当時、英米は中国に日本のないにもかかわらず、現地軍独走のを売らないわけではない。中国にお いても日本製品を買わないという不 軍事侵攻に独力で対抗できる実力は追認が繰り返された。その根底には、 ないと見なしていたし、中国が当面中国の資源を日本が必要としてお買運動はあっても、日本に資源を売 らないという不売運動があったわけ り、しかも友好的には入手し続ける の間は軍事的な抵抗をしないことが ン ではない。そもそも、日本に資源供 ことができないという認識があっ 合理的な選択だとさえ考えられてい シ 給をしているのは中国だけではなか ゼオ 先にも述べたように、第一次世界った。 中国が日本に抵抗する実力を手に ヾレレ凵 しかし、ひとたび戦争となれば、 知入れるまで、日本の侵略の結果を黙大戦までに進行したグロー は、総力戦という戦争形態をもたら安定的に入手できる保障はなかっ 認するという英米の選択と、国際社 。入手できたとしても、日本の海 会との関係を断ちきらずに満洲開発し、これに適応するために日本は安 を により総力戦体制を構築するという定的な資源供給を必要とした。しか軍力は世界第一一一位とはいえ、遠方か し、グローバル化の中で世界に普及らの輸送を確実に守ることができる 米日本軍部の都合がうまく整合し、相 日 対的な安定が続くという可能性は残した国民国家を理想形態とする考えかどうか不安なものであった。その ( 〇