明治の文豪の嫡孫である俊敏精鋭の若い批評家がある時こんな話をした。 「・ほくは、出来ることなら、まだ当分、いわゆる文壇という所に出たくないんです。外から見ている と、文壇に出入りをしはじめた作家たちは、まるでお座敷のかかるのを待っている芸者みたいに見え るんですよ。芸を覚えて、顔の手入れをして、いまかいまかとお座敷のかかるのを待っている。ひい きにしてくれる料亭から呼出しが来ると、いそいそとして着物を着かえ、ちゃらちゃら下駄をならし て出かけていく。ああはなりたくないし、文壇の外にいる方が、批評なんか自由に出来る気がするん です。それにぼくはまあ、暮しのことは幸い心配しないでいい境遇ですし」 彼がそんな話をしたのは、実は文豪の孫という名を恥ずかしめないだけの文学的才能が、彼の内に あることをすでに文壇の一部が認めていて、皮肉なことにちかごろ彼にお座敷がかかるからであっ はた。それに抵抗して、自分が流行りつ妓にならないようにとの自戒の弁と聞かれた。 彼の表現を借りれば、私は昭和三十一年、雑誌「新潮 , の同人雑誌賞をもらったのがお披露目で以 後半年あまりもたってはじめてお座敷がかかり、天にも上る心持になって「花芯」という踊りを必死 「実は : : : 」
「女」を書けるようになりたいと思った。 今、私は「人間」や「男」や「女ーの一切出て来ない小説、風景だけの、あるいは「物ーだけのあ る小説を読めたらどんなに感動するだろうと思いはじめている。そして出来れば、いっか自分がそん な小説を書くことが出来たら、どんなに素晴らしいだろうと思う。 今年に入ってから、 ' ある書き下しのため悶々としていて、いつでも頭に鉢をかぶったようだ。私は ことりかかると、かえって本をむさぼり読む、その書物の作品にヒントを得るとか、何か 自分が小説冫 を得たいというのではなく、書物にこもっている作家のエネルギーや気迫の反射から、自分の創作意 欲をかきたてたいからである。 ひとつの小説を書く度、目に見えなくても何か一枚自分から脱皮したい。そういう意味を持たない 小説は書きたくない。いっからそうはっきりと私が考えはじめたのか。何月何日といえなくても、私 がひとつの決意をして、中間雑誌の仕事と、きつばりと縁を切った歳月と関係がある。三年前にあた る。 その頃から、文芸雑誌に私はまた書かせてもらえるようになった。しかし、それらの雑誌の編集者 はたいてい、 「瀬戸内さんは瀬戸内さんらしい小説を書けばいいんであって、新しい小説とか実験小説とかいうも のはやらない方がいい」 という意味のことをいった。また、 「夏の終りのつづきはどうか」 ともいった。私は、あんまりいい顔をされないのを承知で、すすめられる私小説はもう書かなかっ
240 その夜以来、私は川端氏と御縁が出来たと思っている。 「かの子さんのことでよくして下さっているのを有難く思いますー というお手紙をいただいた時は、死後何十年もたって、こんな親身なことばを出してくれる知己を 得ていたかの子という人は何という幸福な人だろうと羨ましくなった。 ーし . し 人みしりしないし、物怖じしない私は、それ以来、偶然お目にかかる度、ちっとも怖がらず、 たいこともいいたい放題お話する。 いつお逢いしても、氏は私が近づいていくのを見とめられると、あの大きな目で、ぎろっと、私の 全身をみつめられ、顔じゅうに笑いをひろがらせて、いたずらっぽい目つきになり、どんな冗談をい ってやろうかというように待って下さる。 「この不良少女が」 とか 「この浮気者が」 などということばを、氏の大きな口から、軽い声ですらっといわれると、私はまるで「愛している よ」ということばでも聞かされたように、全身が熱くなり、心がふんわり軽くなってしまう。 ーへも、お茶屋へも、お寺へも御一緒したけれど、誰といっしょの時より私は気がはらない。時 間のたつのがわからないほど、のんびり出来る。私はわりあい神経質で気を遣う方なので、どこへい っても、たいてい神経のつかし。 、つなしで、一人になるとぐったり疲れが出るのに、川端氏にさそっ ていただいて遊んだ後だけは、帰って来ても浮き浮きしていて全身があたたまっていてとても愉し 遊びの名残りがこんなにいい ことは他の人との時にはない。 、 0
して下さる。 「谷崎が、瀬戸内さんにもというものですから」 とおっしやるお昼のお弁当は、すべて、銀座界隈の名の通った店のもので、私はひたすら恐縮して しまうのだ。正月訪問の時の話題に、食物の話が出て、 「このア。ハートもいいけれど、食堂の物が不美味いのには困るね。それにこのあたりは、美味いもの がなくってね と、やや甲高い、甘い声でおっしやったのを思いだすのだった。私はその時まで、アパートの地下 のグリルの食事を、結構安くて美味しいと、便利にして食べていたから、うかつな口を利かなくてよ かったと冷汗をかいたものだ。 正月の時は、たまたま夫人が外出中で、女中さんが、洋菓子と干菓子をだしてくれたが、私は、谷 崎氏の、指の出るようになった手の甲と手首だけを掩う毛糸の手袋でいたわられた右手で、直き直き 後で狂熱的 についで下さった紅茶に気をとられて、お菓子には一口も口をつけるゆとりがなかった。 / 谷崎ファンの河野多恵子に、なぜ、その時のお菓子を頂戴して帰って、わけて、れなかったとたいそ 文う恨まれたので、差入れのお弁当の時は、いつも彼女に電話するのに、不思議に、その時にかぎって、 下彼女は留守なのであった。縁というものは不思議なもので、谷崎氏のドアをなめて通るほどのファン 根でありながら、週に何度か私を訪れながら彼女は、遂に、谷崎氏にちらとも出逢わずにしまった。 っ夫人は進行中の新居の普請のことが当時最も気がかりの御様子だった。 「何しろ、和風と洋風と中国風が入っていなければならないので、大変なんですよ」 ということだった。一度、すっかり出来て来た設計図が谷崎氏の気に入らなくて、すっかりまたや ノ 91
宇野浩一一氏の「思ひ川」が、男の側から書いた一大恋愛小説であるように、 この一連の宇野千代氏 の作品も、一大恋愛小説だったのかもしれない。宇野千代氏は、別れを書こうとしたのではなく、永 い恋愛放浪の果にようやくつかみえた、変らない愛の至福、捨てられても裏ぎられても愛することの 出来る浄福を、ありきたりの「業 , というような角度からではなく、日本には珍しい恋愛小説として 書きたかったのではないだろうか。 そう思って読むと、最後の章の、男が自分の荷物をトラックにつみこんで、女の家から出てゆくの を見送る場面ーーーここを書きたいために、作者がこの小説を書きつづけてきたような気さえする圧巻 の、最後の行が、読み返されてくるのである。コレットのシェリの別れの場を思わず思いおこさせる 文章である。 「『行ってらっしゃい』『じやア、』鞄を下げたまま、低いくぐりを抜けて出て行った良人の姿は、ト ラックと電信柱の影になって、すぐに見えなくなった。私は走り出た。良人の姿を、もう一度見てお きたいと思ってでもゐるかのやうに。良人は振り返らなかった。 ; カっしりした肩つきも、一歩一歩、 足を踏みしめるやうな歩き方も、私には見馴れたものであった。そして、二度とこの家へは帰って来 ないことが分ってゐても、そのとき、私の心に浮んだものは、悲しみとは遠い、ある別のものであっ た。良人の行くところで始められる生活が、それを良人が望んだことによって、私にもまた、望まし いと思ひたかったからであった。」 読み終ったあとに残る余韻は、浄瑠璃の哀調に通じるものがある。この女は宇野千代氏が創った現 代版「おさん」であったかもしれない。 宇野千代氏が、無意識的にも意識的にも「女 . を描こうとしているのに対し、円地文子氏の「生き
それから間もなく、ある朝、私は勇ましい太鼓の音と軍靴の音を聞いた。重慶軍が北京へ還ったの だ。その翌日から胡同の壁のいたる所に、赤い伝単がはられた。仇に報いるに恩を以てすと書かれて あるその黒い文字は、私にはじめて身のすくむような生理的な恥しさを覚えさせた。それからまた、 私は、ある日の午后、はじめて外出し、天安門の広大な壁一杯に書かれた「還我山河」という文字を 見た時、身震いの出るような深い感動を味い、涙が出た。それは文字に命があったからだろう。しか し、私はその時、まだこの北京に還ることの出来ない延安の人々がいることについてよく知らなかっ 私にとって、中国が私の人生に重い意味を持ち、北京が私の文学の柱になっていることに気づいた のは、引揚げて離婚し、文学に頼って、生涯を生きようと新しい出発をして後のことである。戦後三 十年もたち、文筆で身をたて、十数年になるが、私はまだ一度も北京を再訪していない。あれこれ手 をつくせば行けないこともなかったと思うが、私には北京は激しいなっかしさと同時に、深い痛みを 持ってでないと思い出すことは出来ない。私は北京に四年も暮しながら、何と北京に無知だったか、 それにもまして何と自分の北京に於ける存在に無知だったかも思い知らされている。私は『余白の 春』で朴烈と金子文子を書き、大震災の頃の、日本人の朝鮮人虐殺の言語に絶する惨酷さを知った し、日本政府が朝鮮をどれほど圧迫し、虐待したかという歴史的事実もつぶさに知ることが出来た。 諒それらは私の全く知らない事であり、身に覚えのない事件ではあるけれど、私が日本人である以上、 の無関係だったとはいいきれないものがある。 『余白の春』を書く間じゅう、私は悲惨な朝鮮に私の住んだ中国のイメ 1 ジが重ってきてならなかっ た。しかも私は朝鮮に対ては少くとも自分の手を汚して罪を犯していないといえるけれど、中国に
認とも不安になり、この上なく不確かなものに見えてきて、それを一行、一文、きりくずしたくなって くる。 そんな時、同時代の世界の作家たちがひとりひとり、孤独の中で営んでいる小説の破壊作用にも見 える新しい小説づくりに興味をそそられる。 手さぐりでもいい、未完成でもいい、過去の、あるいは現在の自分の場や、技法に安心していない 作家の小説づくりが私には強い魅力を持って迫ってくる。 この原稿はデュラスについて書くようにといわれたのに、私は、自分のことばかり喋ってしまっ た。今年になって、私はひとつの小説を書こうとして四苦八苦していて、それが一向に進んでいな 。せまい牢の中に幽閉されているような気分で、いつでも身動き出来ない鎖につながれた気分でい る。そのせいか何を書こうとしても、自分のことになってしまうし、自分への問いになってしまう。 答は自分の書く小説でしか出て来ないのはわかっているのに、こんなぐちめいた声のつぶやきにな る。 デュラスに惹かれたのは彼女の小説の行間にこもる空白の部分である。かといって、私はデュラス に似た小説を書こうとも思わないし、書けもしないだろう。かって私がコレットに惹かれたのは、コ レットの中に自分の血とつながるようなものを見たからであり、今、デュラスが好きなのは、全く異 質なものへの憧れである。そして恋はいつでも異質なものと同化したいという欲求であるように思 のてつべんの部屋に囚人のように居据って窓からひとつの風景だけを見つめ 私は丘の上のアパ 1 ト ている。その限られた風景のすべてとせまいその部屋のなかだけを舐めるように書きたいという情熱
そうな勢いであったのに、二カ月で目白台をひきあげるというその最後の日、私ははじめて平林さん に挨拶にいった。同じ地下の部屋番号も三つしかちがわない隣組だったのだ。平林さんは取りちらか しているからといって、ロビーに出て来られて、ちょっと私たちは話をした。天井が低くて空気が悪 くて、土がないから厭になったと不機嫌な顔で噛んで吐きだすようにいい、 急ににつこりして、いた ずらつ。ほい目付で私を見られ、 「瀬戸内さん、うちの鳥がやかましくなかったですか ? 」 と訊く。私が鳥を飼ってられたのですかというと、 「ええ、九官鳥をつれてきてたんです。淋しいですからね。九官鳥にことばを教えたら、ばかみたい に一日中それをいうものだから . 「どんなことばですか」 「あのね、愛してます、愛してますっていうのよ。それからもうひとつ、あるの、幸福だわ、幸福だ わっていうんです , その時の平林さんのはにかんだ美しい笑顔を忘れることが出来ない。 その後、政治的な発言をしたり、学生運動についてなど、ぎよっとするようなことばや不可解な言 草動をされる平林さんを見る度、私はがっかりしながらも、九官鳥にひとりことばを教えこんでいる平 ん林さんを思い浮べると、その平林さんの方が私には信じられるような気がするのであった。 林あれは小堀さんと別れて間もなくのことであった。私は平林さんと座談会の帰り車に同乗して帰っ た。その時、平林さんは私の年を訊かれ、「若くていいわねえ、これからですねえ、私なんか、もう 酔生夢死ですよ」とつぶやかれた。その時の声の虚無的な口調は、それまで活力にみちた人という印
290 親友のさんが、三島さんの手紙の英訳を頼まれるということになり、その二人から私の上京してい ることを聞いた三島さんが是非遊びに来るようにと言伝て来た。私は二人の友人と一緒に、はじめて 三島さんに逢った。 七月十二日のことで、雨もよいの日だった。この日の日記が遺っていて、当日のことをありありと 思い出すことが出来る。 入口で両手をついてきちんと折目正しい挨拶をされた三島さんは白絣にへこ帯で、見るからに不健 康そうな青年であった。鬚のそりあとが濃く、皮膚は濡れたように青白く光っていた。着物の裾が短 く、白い足が大きく見えた。着物の袖口からのそいている腕にびつくりするほど濃い毛が生えていた と日記に書いてある。思ったより大きな声で喋り、並外れて大きな声でよく笑った。 三島さんの風貌の中で逢わなければわからなかったのは二つの瞳だった。猫の目のように金色を帯 びた茶色の瞳が芯の底まで透明に見え、何かちろちろ炎が燃えつづけているようであった。人間の目 というより見たこともない森の奥にひそむ妖精か怪獣の目のように見えた。私はこれが天才の目かも しれないと思った。その目が時々硝子の目のように見えることもあった。不思議な人相の人だと思っ こ 0 「武蔵野夫人は新劇じゃなくて新派ですよ」とか、「堅塁奪取 , の噂などした。 「痛い靴」でこりて以来、私はもう一一度と、小説を見てもらおうなど思わず、その後も時折、相変ら ず浮世離れしたのんきな手紙ばかり出していた。 私は三鷹で禅林寺の近くに下宿していたから、鵐外と太宰の墓のことを書いていったら「太宰と聞 いただけで嘔吐が出る。尊敬する鵐外先生にはどうかお花をあげて下さい。太宰のお墓にはお尻をむ
もない長さで両手で持ちあげると、気味が悪いくらい軽かった。琴柱を外してあったが、指で弾く と、柔らかなやさしい音をたて ' 薄ガラスのような寒いきびしい京都の空気をりんりんとかき鳴らす のだった。 その僧はまた、和泉式部に関するあらゆるロ伝や、記録や筆跡を徹底的にしらべあげて、それを二 十帖近い本にまとめあげていた。もちろん、一々、毛筆でたんねんに書き記したものである。系図か ら、歌の分類から、写本の研究から、評釈まで、それは現代の文学博士論文としても、これ以上調べ きれないのではあるまいかというところまで調べつくされている。その仕事に十七年を費やしたとい うのも、もっともとうなずける大事業だった。そのあげく、式部の愛用したという琴の復元まで夢が のびていったのである。 その本 ( というよりノート ) が、偶然発見され、・古本市に出たのを、誠心院で一昨年落札したとい うのを私は幸運にも見せてもらうことが出来たのである。琴の軽さと妙音におどろいた私は、その名 もない僧の仕事のたんねんさに目をみはった。 図書館もない江戸時代に、これだけの仕事をたったひとりでだれの手助けもかりず、こっ・こつなし とげた僧の一念というものは、何によって支えられたのだろうか。執念にとりつかれるということば があるが、その仕事をみた時、執念とは、どうも外から来て、取りつく一種のばけもののような気が してそっとした。これだけの大事が、名誉も金も報酬としないで、人しれず、この誠心院の一ぐうで なしとげられた十七年間の密度というものを思うと胸苦しくさえなってきた。 初一念を通すとか、執念を貫くとかいうことばがよく使われる。どうも私には、それがその人の心 の中からわき出るもののような気がこのごろしないのである。人が何かに魅入られる時、たとえば、