奥野 - みる会図書館


検索対象: 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い
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1. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

幻 2 奥野信太郎氏が急逝されてから、はや一年がすぎてしまった。この一年間の大学紛争を見ずになく なられた大学教授としての奥野さんは幸せだっただろうか。 生前の奥野さんとは年に一、二回しか逢わなかったのに、突然の奥野さんの訃報を新聞で見た時の 愕きは忘れられない。 なくなる直前まで、奥野さんは講演に出ていらして、人々は誰も、そんな奥野さんが、まもなく、 車の中で急逝されるようなことになるとは思いも及ばなかったという。如何にもあっけない、そして 如何にも飄然としたなくなり方は、生前の奥野さんに少しでも逢ったことのある人なら、まことに奥 野さんらしいなくなり方だと思っただろう。 人生が目に見えない縁の糸で結びあわされ、人の運命も生涯も、そういう縁の糸の綾で複雑に織り なされていると考えるなら、私と奥野さんもひとつの縁の糸でつなぎあわされていたようだった。 奥野さんの訃報に接して、私は誰にも話したことのなかった奥野さんとの、考えてみれば長い歳月 をつなぎとめていた縁の糸を、ひとりたぐりよせてみずにはいられなかった。なくなられた頃の奥野 青い支那服

2. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

と、まるい目をくるくる廻して、おかしそうに咽喉を鳴らされだ。 何かのグラビアで奥野夫人も拝見したが、奥野夫人は二十年前の楚々とした容姿に堂々とした貫禄 がそい、相変らず美しく、華やいで見受けられた。所帯のやつれなど微塵も窺えない夫人の面影を見 ると奥野さんの恐妻を看板にした良夫ぶりが窺えるのだった。 再会以後の奥野さんはテレビの「春夏秋冬」のレギ = ラーぶりを地でゆき、いつでもにこにこと駘 蕩とした雰囲気を漂わせカマトトか本気か分らない無邪気な面をむきだし、と・ほけたひょうきんさを 滲ませていた。 若い女子学生たちに取囲まれ、世にも幸福そうに目尻を下げたグラビアを見た時、わたしは久し振 りで往年の北京時代、生真面目な中国の学生たちに取囲まれ、質問攻めにあい、あんまり面白くもな さそうな謹厳そのものの表情で大学の近くを歩いていた奥野さんと、あの一度だけ見た。ヒカビカ光る 青い支那服姿の奥野さんをなぜだか生々しく思い出したものであった。 それから程なく奥野さんは亡くなられた。過労が原因の急逝だと伝えきいたが、奥野さんの急逝ぶ りには、妙に陰気なものがなく、ちょっとかくれん・ほしている子供が今にもバアと顔を出してきそう な不思議な明るさがあった。かりそめの遁世のような感じがして、生きていたらまたいっかどこかで ひょっくりめぐり逢えそうな気がしてならない。 那野武士のように頑丈だった風巻さんも奥野さんに先立って亡くなられ、夫人が風巻さんの思い出を 同人雑誌に書きつづけられているとかいう記事を新聞で見たのは、ついこの間のことである。あの世 青 とやらで、奥野さんは風巻さんに再会され、 「死んでみるのも、またいいもんですなア。こうして会えて」

3. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

て、まるい顔は大人という、ことばにふさわしく、実によく似合っていた。両手を胸の前にあわせ、互 いの袖口に掌をさしいれた形で、奥野さんは一行の真中につっ立っていた。殺気ばしって興奮した若 い夫の同僚たちに比べて、その時の奥野さんは妙に白々しい表情をしていた。一瞬の愕きと恐怖が静 まってみると、私は事態がのみこめ、怒りがこみあげてきた。赤ん坊を抱きかかえたまま、まるで襲 撃団の首領のようにみんなに押し出されて中央に立っている奥野さん目ざして進み、私は夢中で喋っ ていた。 、いらして下さい。仕事の 「どんな事情か知りませんが、お引き取り下さい。お話があるなら、昼 1 ことでしたら、大学内でなすって下さい、赤ん坊がおります。お引き取り下さい」 殺気ばしった夫の同僚たちが、生意気な私の方にむかってつめよりそうになった。奥野さんの蒼白 だった顔が、突然真赤になり、両手を広げ彼等をさえぎった。 「奥さん、失礼しました。おっしやる通りです。帰ります。今夜の無礼はおわびします。おやすみな 奥野さんは長い支那服の裾をひるがえして誰より先に部屋から駆け去っていった。 それから、大方一一十年すぎ、私は思いがけず、小説家のはしくれになっていた。 奥野さんは大学教授の肩書きの外に、テレビでも活躍されて飄々乎とした独特の持ち味で魅力をふ 那りまいていられた。 支 奥野さんがインタビ = アーとして、女を呼びだす対談があった。ある日、私にその御指名が廻りて 青 きた。 二十年ぶりで、私はテレビのスタジオで奥野さんと対面した。奥野さんの希望でその日、事前の打

4. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

幻 6 ちあわせは抜きにしてあった。 私が北京でいっしょだった夫と離婚したことも、あの時抱えていた赤ん坊とも離れていることも、 奥野さんは先刻御承知のようだった。 「感無量ですね、歳月を感じますね、何年になりますか、あれから」 そんな奥野さんのことばから始まった。私も奥野さんとテレビに出演しているということを忘れて 話しあっていた。 私は離婚後小説家を志した時、奥野さんに知られるのが恥ずかしく、奥野さんの主宰していらした 「三田文学」に紹介してくれるという人があったのを断わって、「文学者 . に入れてもらった話などし こ 0 「いや、あなたが、あの時の cn 夫人だということは、つい最近まで全然しらなかったのですよ。人生 は不思議だな、でもよくお互いに生きていましたね、生きていることよ、 をしいことですね。こういう出 逢いがひょっこり出来る」 そんな話も出た。 それ以来、私は、文学関係のパーティなどへも、のびのび出られるようになった。 奥野さんとはその後もテレビで何度か御一緒したり、座談会で逢ったりした。二人とも北京の話は ずいぶんしたし、当時の知人の消息などを伝えあったりしたけれど、あの夜のことは一度もふれなか 二十年たっているのに、奥野さんは不思議なほど昔と変らなかった。いっかそれを申しあげたら、 じじい 「すると、私は一一十年前から、こんな爺だったとあなたはおっしやるんですか」 っこ 0

5. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

214 のも評判だった。まもなく夫人たちにもお目にかかるようになったが、風巻夫人は大輪のダリヤのよ うな華やかな美貌の笑顔の殊に美しい人だった。数人のお子さんを産まれていることが信じられない ほど若々しかった。しかし奥野夫人の若さと美貌はその風巻夫人にひけをとらないばかりか、モダン なシックさに於ては更に一段と上に見うけられた。 二人の教授が揃って愛妻家というより恐妻家なのはたちまち察しられた。 私はよく、町を歩いている奥野さんを見かけた。一人で歩いていることはなく、いつでも、シング ルカットの衿足がほっそりと白い、宝塚のスターのような奥さんと、可愛らしい燕二ちゃんという坊 ちゃんづれだった。その三人づれの一家のかもしだす、一種のバタ臭いモダンな華やかさは、北京の 街角では、人々の目を惹き、ふりかえる人も少なくなかった。 そのまま、すぎれば、同じ大学に勤めているとはいえ、ほとんど無関係に終戦を迎えた筈だったの に、妙なことから、私と奥野さんは縁が出来てしまった。終戦前の落ちつきのない不穏な空気のせい か、当時、大学内の日系教授や講師の間にも、感情的なもつれや対立が生じ、私の夫は、奥野さんを とりまくグループと感情的に対立したらしく、ある深夜、突然、彼等数人の訪問を受けた。訪問とい えば聞えがいしが、襲撃といった方がふさわしいほど不穏な殺気ばしった訪問のしかたで、彼等はみ んないく分酒気を帯び興奮しきっていて、今のことばでいう夫を吊しあげるために襲ってきたらしか った。そんな状態に置かれていた夫の立場も露知らないほど幼稚な頼りない妻だった私は、生れて間 もない赤ん坊をかかえ、ふるえあがってしまった。 その時の奥野さんは目のさめるようなブルーの、艶々光る絹の支那服を足首までひきずるように長 く着ていられた。洋服だと小柄で、猫背に見える奥野さんが、裾広がりの支那服を召すと、堂々とし

6. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

さんの写真をつくづく見ながら、私がはじめてお逢いした頃の奥野さんと、ちっとも変っていないよ うに思われるのに気づいて、びつくりしてしまった。指を折ってみれば、はじめての出逢いの日は、 一一十三年も昔のことなのに。 昭和十九年の夏のことだった。北京の輔仁大学の学長細井次郎氏のお宅の応接間で私は奥野さんに はじめてお逢いした。 その頃、輔仁大学では、学内の日系教授陣を補強する目的で、内地の大学から、優秀な教授を招聘 えん することに成功した。その時、細井学長の招きに応じて一家をあげて渡燕されたのが、奥野信太郎教 授と、風巻景次郎教授の一一人だった。 たまたま、私は前年の秋、結婚して夫の任地の北京に渡っていた上、夫の勤めが、北京師範大学か なんうーず ら輔仁大学に移ったばかりだった。その上、家がなくて、細井家の南屋子に居候させてもらっていた ので、北京へ着いたばかりの両氏が、細井学長に着任の挨拶に見えられた時、その席に居あわせてい たのだった。二人の教授のことは、もう何カ月も前から、散々、細井家の応接間の話題になっていた から、私は既に勝手な親愛感を抱いていて、初対面のような気もしなかった。殊に、奥野さんは、北 京に関する含蓄のある随筆集を読んでいたからいっそう尊敬の念が強かった。二人の教授は今から思 えば四十をいくつかこえた頃だったのだろうか、まだ一一十すぎの私の目からは、堂々とした中年の紳 服 那士に見えた。風巻さんは偉丈夫ということばがふさわしい様な美男子で、奥野さんはその横に並ぶ いと、小柄で飄々と見えた。しかし、どこか野武士のようないかつい風巻さんに比べると、慶応教授だ った奥野さんの方が、都会的に洗練されていて、瀟洒なところがあった。 二人の教授は揃って若くて共に人をふりかえらせるような美人の奥さんを連れて渡燕されたという ほじん

7. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

に好感をもった。まるで初恋の相手について識りたがっている青年のような熱意と純情さがあったか らである。当時の氏においては、夫人はまだ充分神秘性を保っていられると見受けられた。私の小説 については、ついに一言も話しあうことはなかった。その方が私もよかった。二、三日中に桂離宮を 一緒に観ようという約束で別れたが、それは氏の都合で中止されたので、果さなかった。 その時、文学の話は一切しなかった筈なのに、私は福田氏に逢ったことで一層文学への熱情を高め てしまった。 氏は積極的に私に文学については話されなかったと同時に、私に小説家志望を中止するよう忠告も 意見ものべられなかった。例によって楽天的に自分の都合のいいようにそれを解釈し、私は見込みが ないとはいえないのだろうと考えた。後に、夫人を通じて宮本百合子氏の「伸子」と中野重治氏の 「歌のわかれ」や数冊の本を送っていただいた。 父が死んでまもなく、私は背水の陣をしいて、上京した。病院の図書室で書いて送った少女小説三 篇が三つの社にそれそれ採用になったというだけが生活のめどだった。父を殺したと思った時から、 私はもう実家の援助など一切あてにはすまいという覚悟を定めていた。 上京してまもなく、私は上野の美術館か、博物館で行われていた「近代文学」の講演会を聴きにい 記った。花田清輝氏の「錯乱の論理 , や「楕円の法則」などは「メルキ = ール , の連中と読んでいた し、野間宏氏の小説は彼等は聖書のように読んでいたので、私にも「近代文学」の人たちは使徒たち 楽のように見えた。私は最前列に陣ど 0 てその講演を聴いた。あんまり難しくてよくわからなか 0 たけ 極 れど、ずらりと雛壇のように舞台の両側に居並んだ佐々木基一氏や埴谷雄高氏たちの面々は本当に美 しかった。「文学者ー、をこんなにたくさん一時に眺め、しかも彼等がすべて水準以上の美男子だった

8. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

持病の引越病が出て、またまた引越してしまった。東京へ出て十三年間に九回めの引越に当る。九 回というのは何となくハンパだから、やはりまだ、あと一回くらいは引越すのではないだろうか。 どうして私はこうも一所に落着きがなく、うろうろするのかと、今度の京都の新居へ行く列車の中 でも考えてみた。 亀井勝一郎氏によれば、「文学とは本質的に云って出家の業であり、出家とは身と心との無限漂泊 者の謂」であるそうな。とすれば、少くとも私は生れながら、「文学者 , になる資格の一つは具えて いるということになるのかもしれない。要するに私は日常生活の中にどうしても生れてくる安定ムー ドに馴れることが出来ないらしい。つまりは、家庭生活を営むためには本質的な失格者の素質を先天 的に持っているということだろう。 この四年間ほど、特に、中野の蔵のある家に移ってからの二年間は、私の自分の中のこの二つの宿 命的素質をないがしろにして、人並な家庭らしいものをつくろうと努力していた。それが、いかに自 分の本質をねじまげたおよそ無駄な努力であったかということを、ある日、突然、思いしらされてか 最後のもの

9. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

はじめて吉行さんにお逢いしたのは新宿であった。数えてみればもう二十年近い昔である。新思潮・ の同人で村上兵衛さんと当時小学館に勤めていた野島良治さんと歩いていた時、どこかのバ 1 でばっ たり逢って、紹介してもらった。もう吉行さんは颯爽とした新進作家で、その美しさダンディさは匂 うようであった。私は当時、上野で開かれた「近代文学」の会の講演会に出かけていき、かぶりつき で聴いたものだが、その時は舞台に講師がずらりと椅子に一列に居並び、公開座談会形式の珍しい講 演であった。上京して間もない頃で、そんなにたくさん作家を目の当り見たのははじめてだったが、 近代文学の人たちの何れ劣らぬダンディなハンサムぶりにど肚をぬかれて、その日何の話を聞いたの かさつばり覚えていない。男の作家というのは姿形も美しいものなのだなあと、つくづく感心してし う . まった。それから間もない時に吉行さんにお逢いしたのだから、私はまたまたその美しさに圧倒され よ のてしまい、吉行さんの一挙手一投足に目を奪われていた。 吉行さんと別れた後、野島さんは厚い肩を前こごみにしてひとりごとのようにいった。 「ほんまにええ人やでえ、吉行さんは心のやさし小人や、あんな人そういいへんでえ、大好きや」 水のように

10. 瀬戸内晴美随筆選集〈1〉文学・自分への問い

といった。私はその頃、まだ、小説家としてやっていけるかどうか、海とも山ともわからない状態 で、子供雑誌に童話や少女小説を書いて暮している頃だった。髪は短く、洋服を着ていた。 江戸川乱歩氏といえば、私は子供の頃から氏の小説を読んで名前はっとに覚えていたが、逢いたい と思っていた作家ではなかった。「黄金仮面」という小説を、キングか、講談倶楽部で愛読したのは 小学生の頃で、そのさし絵の、。ヒェロじみた黄金仮面の不気味な顔は、今でも臉にはりついていた。 怖いものみたさで、よく乱歩氏を読んだが、そんな怖い小説を書く人は、書く本人も気味の悪いよ うな気がして逢いたいなどとは考えなかった。それでいて、私は小学館の仕事をしていた時、何でも 引き受けて、こともあろうに、探偵小説を男名前で書いたことがある。その上、それは半年か一年の 読切連載だった。ペンネームも忘れてしまった。何という不敵なことをしたかと、今でもそっとす 、、よ書けないなどと る。それを書く時、私は乱歩氏の「黄金仮面ーを思いだし、とてもあんな凄し説を 考えたものだ。後になって、平林たい子さんも、若い頃、探偵小説を書かれて生活の資にされたと知 った。私の子供の頃は推理小説とはいわず、探偵小説と呼んでいたと思う。そして名探偵といえば日 本のシャーロックホームズ、明智小五郎であった。 少女の頃、明智小五郎に憧れて、名探偵のお嫁さんになりたいものだと思ったものだ。 この間、テレビで、丸山明宏の黒蜥蜴を見て、明智小五郎にもお目にかかったが、私が少女の頃か から描いていた小五郎氏の方が、テレビの中の明智小五郎よりはるかにスマートで、美男子だったので わがっかりした。閑話休題。 さて、初めてお目にかかった乱歩氏は、ちょっと黄金仮面に似ていたが、一見柔和で陽気な老ゼン トルマンだった。その後私がお逢いした文学者の中では、今東光氏、中野好夫氏、稲垣足穂氏が、乱