242 自分の年と、自分の才能で、このけわしい人生をきり開いていく方向に進むことがいいの . ではないか と考え、「手記」の発表をすすめただけに、責任を感じはらはらしていた。「手記」・が出た時、そんな ことはそれまでしないのだけれども、川端氏あてお願いの手紙を書いた。ただ、どうか読んでやって 下さいというだけのお願いだったけれど、もし、氏が治子さんの文章に、才能を認め、その手記にか の女の決して逆境にそこなわれていない一筋きよらかに持ちつづけている純情と、高い品性を認めて 下さったならば、どんなにか治子さんの将来が力強く祝福されるだろうかと考えたのであった。 氏からは、折り返し長文の巻紙のお手紙をいただいた。その中に、治子さんの「手記」はすぐれた ものだし、美しいものだと激賞して下さってあった。私は自分のことをほめられたより嬉しく、涙が こぼれた。 この時氏は、批評家たちの意地悪い文章をがまんならないといった調子でけなされ、美しいものを 美しいと、よいものをよいと、素直に認めるのこそ批評なのに、どうして、・こんないたいけな少女 を、・こうまで・ことさら意地悪くいじめるのであろうかという意味のことを、烈しい文章で書かれてあ 私は氏があまりに治子さんの文章を認めて下さったので、治子さんを伴ってお礼に参上するのを、 つい行きそびれてしまった。治子さん自身も、氏のお心だけで感謝して ( 恐縮しきっていた。 馴れるということが、私は人にも自分にも一番嫌 . いである。治子さんに示して下さった氏の御好意 に、治子ざんはその生き方で応えるだろうし、いっか自然なめぐりあわせがあった時、お目にかかる のがいいのではないかと思っている。一年ごとに治子さんは美しく聡明に、そして情感の豊かな乙女 に成長している。いっか、治子さんに似合う矢絣なんかの着物を着せ、京都の町角あたりで、いぎな
美は乱調にあり、諧調は譌である。 大杉栄 三島さんからもらった最後の手紙は、昭和れ年 5 月 9 日、後 0 ー 6 時のスタンプが押してある。ロ ーマ字の署名が印刷してある対の封筒と便箋を用い、手紙は二つ折りの無罫の便箋一枚いつばいに書 かれていた。小学校の優等生の手のような、大きな、どこか稚さの残った闊達な文字が、私に大方一一 十年前の初めてもらった手紙を思いださせた。度々の引越しで失ったのもあるし、残っているのもあ る三島さんの手紙は、全部で十通に充たないから、たいていの内容は覚えている。 それでも一通だけ全く忘れきっていたのがあった。その手紙を私は全く偶然のことから十一月二十 友五日の午前十時頃、京都の家の二階の書庫で見つけたのだった。探し物があって、書庫にいた私は、 妙足にけつまずいたダンポールの箱を動かそうとして、その一番上に乗っている埃だらけのハトロン紙 の袋に気づいた。手紙と書いてあるので、つい手がのび中から旧手紙の束をひきだしてみたら、その 一番上に三島さんの手紙がのっていたのだ。 寄妙な友情
ように閑な人間とはちがうのだ。等々、喋りながら、私はまたしてもたまった要返信の手紙の山を見 る時以上の自己嫌悪におそわれてきた。向うも次第に恐れをなしたらしくことばも声もおとなしくな ってきて、おしまいは両方からあやまりあいでおさまり、秋になったら私はその読書会に出てゆくこ とで話は決着した。しかしことのおこりは反省するまでもなく私が返事をおこたっていたことにつき るのだ。私は昔はまめに手紙を書く方で、手紙の返事をおくらせたりするたちではなかった。 それがいつのまにか、手紙を書くのが嫌いになっていったのは、私が伝記を書きはじめたのと無関 係ではないように思われる。人の伝記を書く時は、どうしたって、その人の書いた手紙類や日記類を あさる。私は自分が死んだ後になって誰か個人に送ったプライベートな手紙が、どんな形にせよ、巷 に流れ、一つの資料として、読まれ、そこからあれこれ生前の生活を臆測されるのはたまらないと考 えるようになった。 自分がそうやって、誰かの生活を掘りおこしていることはこれも棚にあげて、私はそういう状態を 予想するとこまるのであった。 一通の手紙に書きあらわされている事柄や感情は、自分が手紙を書く場合を思いかえしてみると、 ーに感情を誇張しているか、時に たいてい、ひどく簡潔に事実をはしおっているか、あるいはオー は、事実よりはるかに感情を抑制しているかである。決して、事実は事実、の通り後世には伝わらな 手いのではないかと私は思うようになっている。伝記を書きあげた時、必ず一抹の無力感に捕われるの 記はそのためであるように思う。 日記にいたっては、もっと嘘が多い。最近永井荷風の断腸亭日乗について、その中のある日のこと をとりあげ、私はそこに書かれた訪問者から、その日の荷風の態度やいったことが、日記では全くそ
といった。その手紙は、私が半分やけになって、この際上京して、文学の道に入らなければ、私は 死ぬしかないだろう。そのためには、父が死んでくれる遺産があるなら、今私にその三分の一でもい いから上京して生活のめどがつくまでの資金に送ってくれと、脅迫がましい手紙を送ったものだっ た。その効果を私は十中八九まで、当てにもしていなかったのに、父はその手紙に相当ショックを受 けたらしく、 「馬鹿娘のために、もう一働きしなければならなくなった」 と、つきそいの看護婦だけにつげ、ひそかに療養のために建てていた別宅をぬけだして、町外れの 旅館へ巡業に来ていた「金毘羅灸 , というものを受けにいったのだった。もうストマイを何十本もう って、ほとんどよくなりかけていたのに、父は私の手紙であせったのであろう。頭のてつべんに大き な灸を据えられた瞬間、倒れて、そのまま、わが家へも帰れず、その場末の宿の一室で死んでしまっ た。もちろん、私は父の死目にも逢えなかった。父のズボンのポケットに入っていたという私の手紙 を見た時、私は父を殺したのは私だと重く実感した。子を捨て、父を殺し、私はいよいよ人非人とな っていく 。父はもちろん福田恆存氏の手紙に読みとった通り、私の文学的才能に見切りをつけたまま 死んでいる。 父の死んだ頃、大翠書院はすでにつぶれていて、私は京大の附属病院の小児科の研究室に勤めを移 の ノしていた。 ここでの仕事は、博士論文作成のための研究実験をする医者たちのため、シャーレや試験管を洗っ たり、実験用のラッテやマウスの面倒をみたり、培養基をつくったりすることだった。子供でも出来 るような仕事なので、給料は最低だったが、私には居心地のいい勤めだった。私の勤めぶりが認めら = ロ
し、思想的には進歩的な立場に立っ若い人たちばかりだった。私はいつでも彼等によってたかってや 彼等はもちろん、誰も私小説など書く者はいなかった。私は彼等に認めて つつけられる対象だった。 / もらえない小説を口惜しまぎれに福田氏に送ってしまったのであった。 福田恆存氏に私の原稿を送ったのは、氏の夫人が私の女子大時代の一年上級の友人だったというよ しみに甘えたものであった。 折りかえし福田氏から原稿用紙三枚にもびっしり書きこまれた丁寧なお返辞をいただいた。ところ が、そのお手紙が、どういう間ちがいからか、私の郷里にとどいてしまった。まだ私の父が結核の療 養をしながら退屈しきっている時だったので、父はさっさとその手紙を開封してしまい私より先に読 んでしまった。父は姉を呼びつけて手紙の中身は見せず、 「このお方はどういうお方じゃ」 「あら、偉い新進の批評家ですよ。だめじゃないのお父さん、勝手に晴美あての手紙を明けたりし 「何をいうか。まだ離婚も成立しとらんのに、男の分厚い手紙など来ては親として検閲するのは当り の 姉はもう黙ってしまった。父が退屈しのぎと好奇心で開いたのはわかっていたからである。父は不 ン 機嫌に語をついだ。 「要するにこの中身は晴美の小説はあかんということが婉曲に書いてある。あれはわしが小説などわ からんと思うて自分が天才か何そのようにわしをいいくるめて仕送りさせようと、最近あの手この手 1 一口
でいってきとるが、この手紙ですべて。 ( ーだ。仕送りなそは金輪際せんからな。無駄金捨てるだけ阿 呆なことじゃ」 姉の事情報告と共に、福田氏の手紙がようやく私の許に廻送されてきた。それにはたしかに婉曲 な、大層気をつかった文章で、この原稿ではあなたに作家としての才能があるともいえるし、ないと もいえるという意味のことが書かれていた。父はないともいえるという方に重点を置いて読み、私は 根が楽天的だから、あるともいえるという方だけを強調して心に受けとめた。福田氏の手紙は作品そ のものについては一言もふれてはいられなかった。今、思いだしても、恥ずかしさのため一尺も飛び 上りたいような気のする下手くそな小説である。 父は私が夫の家を飛びだしてしまった時、 「お前は自分の子供を捨てて家を出るというような大それたことしでかした以上、もはや人間では御 座なく候、人間でないものは人非人に候、鬼に候、一度、人非人や鬼の世界に堕ちた以上は、今更人 間の世界に還るなどという女々しい根性は一切捨て候て、せめて徹底的に兇悪な人非人か鬼ならば大 鬼になられ候様それがお前の道と信じ候ー というようなあて字だらけの手紙をよこし、それは覚悟の前だろうと、私にびた一文の仕送りや援 助はその後一切断ちきってしまっていた。婚家にいた頃の私には無制限に援助してくれていただけ に、これには私は大いにあてが外れた。父は福田氏の手紙を見て間もなく死んだ。私が殺したも同然 だった。事実、父の葬式に帰った私に、姉は私がつい先日父宛に出した分厚い封書をつきつけ、一 「あんたが殺したのよ」
けて」というような手紙が来たりした。「ほくはいつでも無責任な煽動者ですから、その立場でいえ ば、あなたはビカレスクの書ける唯一の女流作家ですーとも「あなたの手紙のあの自在さ面白さが、 どうしてあなたの小説には出ないのでしよう , ともいってきてくれた。すると私が考えていたより三 島さんははじめの頃、私の小説をよく読んでくれていたのだろうか。極楽トンボというあだ名を送っ てきたのもその頃であった。 今度のことがあって、先ず思いだした手紙は、やはりその頃だと思うが、私が三島さんの禁色の完 成 ( 秘楽 ) を祝ってお手紙した時のことだ。私は例によってふざけた調子で「あなたはラディゲのよ うな天才だと思っていたけれど、私の辞書では天才は必ず夭折することになっている。あなたは『禁 色』を完成した後、もう一カ月もたつのにまだ、べンべンと生き長らえているからやつばり天才では なかったのですね , というようなことを書いた。すると ) 三島さんからすぐ返事が来て、 「自分もこの小説を書いている間は終るのが怖しく、終った瞬間、交通事故か、不測の病いにかか り、死ぬような予感がしていた。しかるに仰せの通り死なないので実は誰よりもがっかりしている」 という意味のことが、私以上のふざけた調子で書いてあった。しかし、それは三島さんの本音だと私 は読み、天才になりそこねた三島さんの傷ついたダンディズムに私は秘かに同情を寄せたのだった。 いつのまにか自分も小説書きの一人として、のれんをかかげるようになってからは、かえって遠慮 友が生れ、もうふざけた手紙など出せなくなり、私の方から距離を置くようになった。 妙私の身辺にもあれこれ変化が多く、私は始終引越ばかりしてまたたくうちに歳月が経っていった。 ほとんど逢わないし ( 無音のそういう歳月にも、私は遠くから三島さんに一種の友情を感じていた し、あちらも昔と変りない気持を持っていてくれ、るのがわかっていた。
机の上に返事を出さなければならない手紙が山のようにたまって、それを見る度、私は自己嫌悪が 生理的につのって、胃が痛いような気がしてくる。返信用往復 ( ガキの返事さえ、私は何十枚もため てしまうのである。人に頼んで出してもらえばいいではないかといわれもするが、代筆の返事は失礼 と思い、いっか、書こう、書かねばならぬと思ううちに日がたってしまう。つい先日も、読書会に講 演に来てくれという主婦から、物凄い怒りの手紙が来た。私が彼女に返事を書かないから、会員に面 子を失ったというのである。それは怒りにみちみち私を礼儀知らずの人非人の如くののしっていた。 さすがに私も自分の非は棚にあげて腹が立ち、彼女の家に電話をした。こんなことなら、早く電話で 断ればよかったとその時気がついたが後の祭りである。見知らぬ主婦は電話にでもこの上なく不愛想 で失礼であり、私はその声に、マイホーム主義のおよそ想像力の欠如した主婦の利己主義をみて、こ っちも負けずにどなりつけていた。返事がおくれたくらいでこんな無礼な手紙を朝受けとるのは暴力 である。人間はそれそれ自分の生活のリズムがあって、それが他人と一致しない時だってあるのは当 り前だ。私が自分で良心的な返事を書こうと思うからこそ、こうもおくれたのではないか。あなたの 日記と手紙
292 最後の手紙は、実に数年ぶり いや十幾年ぶりで出した手紙だった。「英霊の声」を読んだ時、私 は不思議な感動が身を貫くのを感じた。それは実に久しぶりに三島さんらしい三島さんの小説を読ん だという気持のようでもあり、これまでと全くちがった三島さんの小説を読んだという気持でもあ 、私は混乱して何だかわからなくなった。しかし、行間から青い鬼火のようなものがめらめら燃え 上ってきて、私は背中が冷くなり、腕に粟を生じていた。その頃私はもとの質屋の蔵を改造して書斎 にしていたので、深夜、蔵の中にひとりとじこもって読んだせいもあるが、読み終った後、怖くて、 一瞬背後がふりむけなかった。 冥い海原に集う裏切られた怨念の固りの霊たちの幻が蔵の鉄格子外の闇の中にありありと居並んで 見えた。最後の四行が私に強い身震いをさせた。すぐ嶋中事件が思い出された。そういえば、あの小 説を載せるようにといったのは三島さんだったという噂を思い出した。 私は書かれた霊たちの怨念を全く文学的に読みとった。二・二六事件に結びつけるよりも戦争で散 華していったすべての英霊の怨嗟の声を聞いたのであった。戦後、これほどあからさまに、裏切った 人に対して、憤りをぶちまけた文章があったであろうか。いや、その人を、終りの四行のように扱っ た文章があったであろうか。私は三島さんが命を賭けたと思った。只ならぬ予感があった。その場 で、私は手紙を書いた。十幾年もの長い間、手紙を書かなくなっていたいいわけなど忘れて、書い た。何を書いたか全く覚えていない。ただ、最後の四行と、霊たちの姿が船弁慶の能舞台を思わせた ということを書いたのは覚えている。 折返し返事が届いた。冒頭に書いた手紙である。 「ーー ( 略 ) ーー半年ほど心に煮詰ってゐた作品ですが、どうも『こんなこと書いていいのかな』とい
しかし、三島さんは あれから二週間が経った。受けた衝撃は今尚薄れず、日と共に何か重いものを心の底に澱ませてい 。黒い雪が心の中に日もすがら、夜もすがら降りつづいているような気がする。事件に関する情報 は後から後から尽きないほど報道されつづけている。しかし、いくら情報が山と集められたところ で、真実のことはわからない。判らないことが多すぎる事件だ。 三島さんの檄文も辞世の歌も、あれだけ文章に凝った三島さんの書いたものとは信じ難かった。作 家として死にたくないといって今度の死を選ばれたというから、わざと作家らしからぬ檄文や辞世の 歌を遺したのかと思ってもみるが、なぜそれなら、作家としてのペンネームをそれらにつけたのだろ う。また三人の学生に三万円ずつ遺したというのはどういう計算なのか。わからないことだらけで、 どう納得のしようもない事件を他所に、三島さんの作品だけは仮面をかぶりきれない姿で遺されてい るように思われる。 所詮作家にとって作品を書くということは、蚕が命の糸をはきだしながら繭をつむぐように、やが ては完成された金色の繭が蚕の墓となるのと同じで、作品のひとっぴとつはやがて迎える滅びの仕度 であり、墓標の石積みなのではないかと思う。 最後の手紙はずっと私にとっては気がかりであった。一度このことについては三島さんと一対一で 友話しあいたいと思っていた。そればかりが今では心残りになってしまった。 妙これは私の出した手紙に、折りかえし返事をくれたものである。五月九日といえば、文芸雑誌が町 に出るのは六日か、七日だから、私がその月の「文芸」の「英霊の声」を読んですぐ出した手紙に対 する返事であった。こんなに早く電報のように手紙の往復をしていたのかと改めてその当時を思いか