女の作家仲間と話している時、自分の読書量が少いと思ったことはないし、これは大変だと、自分 のまだ知らない本のことを知らされてあわてることもない。けれども、男の作家や編集者と話してい ると、必ず、自分のまだ読んでいない本のことが話題に出て、あっとあわてることが多い。 男と女の頭の中がそれほど構造がちがっているとは思わない。しかし、私の知っている範囲では、 どうしても男の方が本を読む本能と持続力に恵まれているような気がしてならないのである。 本にも出逢いとめぐりあいの運命的なものがあって、その人間にとって、決定的な作用を及・ほすよ うな本は一生に、一冊か二冊のものだから、そうむやみに、新しい本を読みあさり、追いかける必要 もないという説も聞えてくる。たしかにその説にも一理があり、その通りだとうなずきながら、やは り私は人と人との出逢いが、これこそ、決定的で運命的出逢いだと思いこみながら、ある時期がくれ ば、そこに別れが待っていることがあり、次の人間との出逢いに、またしても運命的だと錯覚するこ とがあるのと同様、書物との出逢いも、読む側の成長や、変り方によって、それが唯一の出逢いでな かったと思うことが当然なのだと思う。 人間が死ぬまで、もうひとりの別の人間との出逢いを夢み、もうひとつのあり得た人生を心の中に 描きつづけるように、人と本の関係に於ても、まだ、自分にとって唯一のほんものには、めぐりあっ ていないのではないかという不安が、次の本に向かわせるのかもしれない。 人間が自分と正反対の人間や、自分にないものを持った人間に惹かれがちなように、本の場合も、 AJ むおよそ自分には無縁のようなスタイルを持った文章とか、内容のものに、強く惹かれるのも面白い 読 し、人がそれと意識せず、その時自分の体力に必要な食物、たとえば、疲れている時には、本能的 に、ビフテキに手がのびるとか、レモンをのみたがるとかいうように、自然に生理の欲する食物を見
跖日常生活を破壊的に無秩序に導くことによって、危機感をいっそう強め、そこからくる本能的な恐怖 のようなものを、ものを書く場のエネルギーにふりあてようとするのだろうか。家事をやり、育児を やり、尚その上で小説も書き、日常生活を整然と守れる女の小説家も次第にふえてくるのかもしれな い。小説というものは、そういう片手間で書けるもので、割のいい主婦のアル・ ( イトという感じが強 まっていくのかもしれない。けれども私は、たとえどんな突然変異で良妻賢母の場についても、まず、 小説を書き、その上で家事もやり育児もやるという順序でしか生活出来ない人間になっていることを 感じる。規則正しい仕事時間を守り、ランチタイムをとり、サラリーマンのように早寝早起を実行で きるというタイプの小説家も次第にふえてくる。その方が近代的な、合理的な小説家なのかもしれな 。けれども私はおそらく死ぬまで、無駄と、馬鹿な情熱や精力の労費をしつづけ、結局は我身を破 減に導く旧弊で頭の悪い小説家のタイプに終るだろうと覚悟している。 私にとっては、小説を書くという作業はやはり生活のすべてに先立ち、現実生活のすべてに犠牲を 強いる楽しい悪魔的な力を持ってせまってくる。 新潮昭和四十年一一月号
e ・・エリオットは人間の一生を「誕生と性交と死ーと、一言で言っているが、これを女の一生 という面から考えてみると、一層興味深いように思われる。 ポーヴォワールが、『第二の性』の中で執拗にとりあげて論じているのも、女の性が、男性という 主体から侵されるだけの客体としての、受身に終るあり方が、不当だという点である。 O ・ウイルソンは、性の衝動について人間の目的はオルガスムスを味わうことにあり、自然の目的 は生殖をするということにあり、その二つの目的の間隙の広さから、性の衝動に倒錯が多いのだとい のう論説に導していく。 性 性に対する自然の目的と、人間の目的の差に、現実的、具体的に悩まされるのは、男より女であ れる。理由は簡単明瞭で、生殖という自然の目的は、男より女に、はるかに、苛酷な肉体的重荷を負わ 放せるからである。 性の快楽を全く味わわず、ただ、男に一度貫通されただけで、妊娠したという女はまことに多い 健康な若い女ならば、たまたま交接の日が彼女の排卵期に当っていたら、官能的に、何の感動も快楽 解放されない性のために
持病の引越病が出て、またまた引越してしまった。東京へ出て十三年間に九回めの引越に当る。九 回というのは何となくハンパだから、やはりまだ、あと一回くらいは引越すのではないだろうか。 どうして私はこうも一所に落着きがなく、うろうろするのかと、今度の京都の新居へ行く列車の中 でも考えてみた。 亀井勝一郎氏によれば、「文学とは本質的に云って出家の業であり、出家とは身と心との無限漂泊 者の謂」であるそうな。とすれば、少くとも私は生れながら、「文学者 , になる資格の一つは具えて いるということになるのかもしれない。要するに私は日常生活の中にどうしても生れてくる安定ムー ドに馴れることが出来ないらしい。つまりは、家庭生活を営むためには本質的な失格者の素質を先天 的に持っているということだろう。 この四年間ほど、特に、中野の蔵のある家に移ってからの二年間は、私の自分の中のこの二つの宿 命的素質をないがしろにして、人並な家庭らしいものをつくろうと努力していた。それが、いかに自 分の本質をねじまげたおよそ無駄な努力であったかということを、ある日、突然、思いしらされてか 最後のもの
ノ 04 氏の言葉を借りれば、はじめて私は私の実生活上の危機意識を自覚し、そこからの救抜の希いを強 く抱いたからであった。 あんなに自分とは無縁のように素通りしていた私小説が身に沁みて読めるようにもなっていた。そ の頃、私は岩野泡鳴と近松秋江の私小説にほとんど肉体的な共感を覚えるほど捕えられもしていた。 岩野泡鳴のおっちょこちょいなあわて者ぶりや、得手勝手さや、独断、間の抜けさかげんや、蛮勇と う表現がふさわしいバイタリティに、自分と同質のものを直感したし、近松秋江のめめしさ極まり ない痴愚蒙昧に、人間存在の哀憐を痛感した。 「五欲煩悩迷妄の煉獄を経てきて、はじめて人間の事が透明に見えてくる」 と書いた秋江のことばに、目をはじかれたように思った。人間の逃れられない五欲煩悩迷妄の姿を 通して、人間の内部の暗黒の中にひそむものを見きわめたいというのが私の文学にかけた希いであっ 改めて「私小説論」というものを片つばしから読み直し、私小説という私小説をあさり読んだ。、、す ると、自分が如何に私小説家的感性を持ち、私小説家的発想をし、私小説家的生活危機を常に意識せ ず招きよせて生きてきたかということを発見した。 これほど、繰りかえし、執念深く、批評家という批評家が、取り組む私小説に、私はもっと謙虚に つきあうべきだと思った。 「夏の終り」を平野謙氏に認められたことが嬉しかった。六年前、誰よりも早く私の作家としての資 質を認めてくれた氏に、これで少くとも応えることが出来たという喜びだった。 「夏の終り」以後、私の実生活は、ますます私小説的生活危機が連続したため、私はその救抜意識に こ 0 エルレーズンク
刻みつけた。 その後、少し大人になってこの三つを読み直したとき、私は『女の一生』が一番類型的で、つまら ないのではないかと思った。 ところが、またそれから何年かたって、私が自分の人生の途上で、さまざまな迷路にさまよい、石 につまずき、多くの傷を負って、読み直したとき、私には『女の一生』が、実に深い人生の真理と真 実を描いているのに、今更のように驚かされた。 カチュ 1 シャのような境遇に生まれ、雇主の甥とのあやまちで、つまずく女は、今でも世の中には たくさんいる。エンマのように、夫以外の男との情事で破減する女もたくさんいる。けれども『女の 一生』のジャンヌのように、自分は何もしないのに、一生への夢が片はしから打ちくだかれ、人生に 裏切られつづけて生きる女は、最も多く、女のほとんどの運命をそれは代表しているといえる。 正直で素直で純情で、デリケートな神経を持っ娘が、不純で不正直で狡猾で、無神経な卑俗な世間 に泳ぎ出すとき、女の一生の不幸が始まるのである。しかもその世俗の代表が、最も身近な夫の中に 集約されて、女により添ってくる場合が、女の運命のほとんどなのである。 『アンナ・カレーニナ』のアンナも、『ポヴァリー夫人』のエンマも、共に女の不幸を代表している けれど、彼女たちはそれそれ、自分で選んだ行為の結果としての不幸である。それに対して、『女の 一生』のジャンヌの不幸は、どれもみな、他動的に襲いかかってきた、天災のような不幸で、防ぎよ うのないものだった。そして、今でも、何と多くの人妻が、女が、このジャンヌのような、他動的な 暴力的な不幸が襲いかかるのに、泣きながら堪えていることだろう。 あまりに、普遍的だから、かえって、小説に書きにくいようなありふれた物語を、モー
の可能性はほとんどないという設定なのかもしれない。二人とも、社会の他人の目や、道徳にこだわ らない自我を確固として持ったインテリだし、性の快楽に対する欲求も強く、それを享楽すること に、後ろめたい気持など抱いてはいない。 女が長い間、秘かに憧れつづけてきた理想の、男と対等の、自由な姿がそこにあるように思わされ る。それでいて、この二つの小説は、共に、重い悲恋として終っている。 二人のヒロインのたどった悲恋の相はそれぞれにちがうけれど、二つの小説から読後に受ける悲恋 の重量感は、ともに、これまでの、社会的にも心情的にも解放されていなかった、意識的にも無意識 的にも男の従属物でしかなかった女たちの運命の悲惨を描いた十九世紀の小説から受けるよりも、は るかに重々しい。 性描写はほとんどないし、あきらかに性を主題に表には打ちだしていないのだから、この二つの小 説を、文学と性について考える時持ち出すことは、当を得ていないように思われるにもかかわらず、 私はやはり、この二つの小説のヒロインのたどった悲恋の中に、二十世紀文学にまだ書きつがれてい めい、女の性と愛との鍵が、かくされていると思わずにはいられない。 の性は、人間の愛の中で、どんな役割をもっか。 性 私はこの主題に、小説を書きはじめの時から捕えられていて、今でもそこから放たれてはいない。 れ性が、人間の愛の中の重要な位置を占めることは今更いうまでもないけれども、人間が他の動物とち 放がうことは、性を、精神である程度、統治出来、統一出来るということだろう。と同時に、これだ け、知的であらゆる科学の分野では、はかりしれない進歩をとげつづけている人間が、性に関してだ けは、劫初以来、同じ姿勢の中に愛欲をとじこめ、そこだけは科学の圏外で、迷いつづけているとい
の条件である。たといどれほど女を売物にして、女らしいことを女でなければならぬ筆致で書きあら わしたところで、物を書くということは、精神的に男性的な要素がないかぎり不可能なことなのであ ・る。芯からなよなよと女らしい女は絶対女流作家にはなれない。何かのはずみで一時女流作家らしく 見えても芯から女らしい女は決してその位置を保つことは出来ない。物を書いて世間に発表するとい う作業そのものが既に男らしい戦闘的なことである。 美人てありすぎぬこと 倉橋由美子氏の作品がはじめて文壇にとりあげられた時、平野謙氏が彼女がべッビンかどうか気に かかるということを書いたため、様々な論議をおこした。平野氏の様な権威ある批評家でさえ女流作 家の容貌にそれほど関心を示すのであるからには、女流作家になるには美人であらねばならないなど 早合点したら悲劇である。 生来美人に生れてきた女というものは、男からチャホャされるチャンスが多いので、小説を書くな どという、地味な肉体労働をこっこっ根気よくつづけてゆく作業には向かないのである。 一人前になるまでに、同人雑誌時代、仲間の文学青年と恋愛沙汰をおこしたり、師匠と仰ぐ作家と ことをおこしたりしてしまう。その経験を傑作にものしてくれようと心では思い、何もかも自分の文 つのまにか、恋や情事に心を奪われ、生活を乱され 学の実験的試みであるなど考えている間に、い て、文学とは縁遠くなっていくケースが多い。 どっちかといえば醜女の執念のようなものの方が、ねばりがきいて、初志を貫くのに便利のようで ある。ちなみに林芙美子は男の中に入って一週間暮してざこ寝しても男に「女」を感じさせないほど 不細工だったと菊田一夫氏が述懐している。
佐多稲子さんの「くれない」の中で、ヒロインとその夫が夫婦げんかをする時、評論家の夫が小説 家の妻にむかって、「お前なんか本も買わないし、読まない」といって罵るところがある。妻も負け ずにくってかかるが、全篇悲劇的なこの小説の中で、私は何度読んでも、この条りにくると、何とな くおかしさがこみあげてきて、思わず笑ってしまうのである。 この条りのどこにユーモラスなところがあるのかわからないが、男は本質的に読書家で、知的とい われ書くことを職業にする女でさえ、男にくらべたら、読書量は絶対少いし、本来、本を買ったり んだりすることより、もっと実質的なことに心が適っているのだという永遠の法則がたくまずここに あらわれているのが、夫婦げんかの陰にこもったクライマックスに突如あらわれるから、おかしいの かもしれない。 もっとも、ここに「おかしみ」を感じるのは、私ひとりの感じ方で、作者はもちろん、他の読者 も、一向にそんな感じはおこさないところなのだろうか。私は自分が読書好きだし、本を買うのは何 を員うより心のみちたりる想いをするけれども、まだまだ自分の職業柄読書量が少いと思っている。 読むこと
講演旅行で同行する人は、虫の好かない人は困る。 たいてい主催者側は、その点よく察して、一応、同行者は、こういう人ですが、と相談の形で持ち かけるものである。 社の恒例の講演行で、この五月、能登方面へ出かけた時、同行は漫画家の岡部冬彦氏と、五味 康祐氏だった。岡部さんとはもう、何度か同じ様な旅を御一緒していて、氏の百科事典的博学に、私 はひたすら愕き畏れ、尊敬しているので、またあの愉しい博学の蘊蓄のお裾分けに預かれるのかと嬉 しかった。ただし、もう私は氏の博学の高説を頭から鵜のみに信じこんでいるわけではない。 男例えば氏は、医学であれ、薬学であれ、音楽、化学、物理学、何でも知らないものはない如く、専 棲門的な知識を持たれているようで、森羅万象のことごとく、掌を指す如く、科学的に説明してくれる し、まだ、市販されていない薬の名や効能まで教えてくれるし、海亀が交尾する時の時間や、亀の表 情まで説明してくれる。素直な私はひたすら傾聴しては、一から十まで、かっては信じこんでいた。 「瀬戸内さん、 xxxxx という薬知ってる」 悪魔の棲む男