老の日」だったせいもあったが、私は、小野さんの年のとり方に、一筋に針に頼って生きぬいて来た 人の、力強さのようなものを先ず感じさせられたのだった。 「渋谷でね、易者に声をかけられて、あんたはあと十年働けるといわれたことがありましてね、それ が今から九年前なんです。ですから、あたしはまだ来年までは仕事が出来るんだそうでございます 他人事のように笑っている。 ヘラの傷あとがいつばいについた仕事台の上に便箋をひろげ、小野さんはびっしりそこに何かを書 きこんでいられた。その横には、ちょっと片づけたという形で、濃紫の綸子の紋付の材料が、裏の白 羽二重といっしょに重ねられている。 「せつかくいらしてくださるので、順序よくお話するには、書いて整理した方がよいかと思いまして ね。昨夜から、こうして思いだすことを書きつけて見ましたのです。ちょっと読んでみましよう。も う字も忘れてしまいましてねー 小野さんのことばは、その物腰のように折目正しい。書いた文章もまた、 「 : : : その頃は男の子が十三、四歳になりますと、たいてい何かの職業を身につけさせるために弟子 入りをさせたものであります。私は、小柄でありますので、両親が居職がよいであろうと、小田原の 師足袋屋に弟子入りをさせました。私、十三歳の年のことでございます , 立といったふうな行儀のよいものであった。 小田原は小野さんの生れ故郷である。 足袋屋で一年ほどっとめているうちに、小野さんは天性、針を持っことがむいていたのか、みるみ
来る者は拒まずといった態度で、見たけりや見てな、しゃべりたけりやしゃべりな、ただし、おい らの仕事の手は金輪際止めやしないよといった調子である。 一度口を開けば、歯ぎれのいい江戸弁が、物凄い早ロで、パラバラッと飛びだしてくる。なるほ ど、下町の職人さんの生粋の江戸っ子ことばとは、こういう巻舌のこういうテンポだったのかと、田 舎者の私は大いに感嘆してしまった。 威勢のいいことおびただしく、三分の一くらい聞きもらしながら、そのくせ、たちまちこっちの心 が浮き浮き弾まされてくるから妙である。 神山さんの家は、代々すだれやさんで、昔から、京橋のこの場所に店を構えていたのだそうだ。 かのうしんみち 狩野新九郎とかいう絵描きさんがこの横町に住んでいたとかで、この横町を、「狩野新道」と呼び ならわしているそうな。 狩野新道のすだれやの子どもとして育った泰一さんは、物心ついて以来、じぶんもすだれやになる ことに一点の疑問も抱かなかったらしい 「おやじは、名人肌の人間でね、気にいらないお客のところは絶対いかなかったね。あたしもね、ま かしてくれる客はいいが、つべこべ意見をいわれると、もう厭だね」 ややはりこの町内に昔住んでいた中村竹四郎氏が、星ケ岡茶寮をやっていた時、神山さんに茶寮の簾 を頼みに来たことがあった。 す 神山さんが仕事に出かけると、星ケ岡茶寮には中村さんの女房役で北大路魯山人がいて、飾りつけ 一切に意見をのべる、簾についても魯山人は一家言あって、神山さんを前にあれこれ、意見を述べ、
あや に、人間の女に対する以上の妖しいいとしさに、むせかえると述懐する。氏の秘蔵の人形の中には、寂 しい女、理知的な女、あどけない女、なまめかしい女など、さまざまな表情を持った女たちがいる。 一見、白塗りで目も鼻も口も、まるで似たような型でありながら、その人形を作った人形師のそれそ れの女への思いがそこには凝縮していて、一つずつ、全くちがった個性と性格を滲ませているのが不 思議であった。 私はもしこれだけの人形を自分の座右に持っていたら、これらの人形を通して生れる空想の小宇宙 に、どれほどの時間、我を忘れることが出来ようかと思い、気がついたら、白髪の山姥のようになっ ていて、このあでやかな人形にとりまかれ、豪華な夢にうつつをぬかしている自分を想像してそっと したことであった。 それからまた四谷シモンという人形狂いがいる。ご存知唐十郎一座の名女形として、女の子たちを うならせているシモン美少年は、彼自身が人形のように美しい 私にとっては子供のような年齢のシモンちゃんを私は大のご贔屓だが、彼が役者でなくっても、私 は彼を一つの美的なオプジェとして愛好しただろうと思う。彼が人形狂いだと知ったのは、役者とし てのシモンちゃんを知ってからずいぶん後だった。雑誌のグラビアにのったシモン作の人形の妖しさ に一目で魅せられ、私は買いたいと申出た。 彼は売るとも売らないともいわず、 「とにかく、一度人形に会ってみたら : : : 」 といい、私を彼のア。 ( ートにつれていってくれた。遠い遠い道のりだったが、その車中、彼は・ほそ ぼそと、しゃべりつづけ、私を退屈させまいとしてくれる。人形になぜ憑かれたかという話や、カル
なまめかしいという点では、きものは世界中の女の衣服の中では最高だと思う。 中国服も朝鮮服も、インドのサリ 1 も、東洋の女の着るものはすべて洋服よりなまめかしく、女を 美しく見せるけれど、きものほど女の姿体の欠点をかくし、それでいて、女の驅へのあらゆる想像を 男に喚起させる衣類はないように思う。 奈良朝から現代までの女のきものの中では、奈良朝までは洋服式だから、いわゆる日本のきものス タイルになったのは平安朝からとみなしていいが、平安朝には帯がないかわりに、女は袴をつけてい 私は日本のきものの中では元禄時代、桃山時代が最も理想的なスタイルではないかと思う。彦根屏 風の女のきもののなまめかしさと実用性はみのがせない。帯はああいう細帯が美しいし活動的だし、 袖はあのなぎがた形のまるみが軽快で優美である。衿のあわせかたも如何にも自然だし、裾の丈も自 由がきく。あれに壺装東の旅姿は最高に美しい。 どうしてきものデザイナーたちはあの美しさを現代に復活させないのかと不思議でならない。 あれなら、ついたけに仕立てると、今の洋服を着ている女の子たちでも何の造作もなく着られる し、好みの着かたを工夫出来よう。 あれには羽織はいらない。もし外へ出る時寒ければ、壺装東を改良したマントを羽織ればいい。 仕事も出来ようし、走りだすことも出来る。私は一一部式改良服というものなどには反対だし、おく みなしのきものなどというのにも反対である。しかしあの時代のきものを現代に再現するのは大賛成 である。 こ 0
53 櫛 くしは思いだすことがある。 娘の頃は地味づくりで、書生っぽい服装が似合ったし、好んでもいた叔母が、大丸髷に結いあげ て、緋鹿の子のてがらをかけ、大粒の珊瑚のかんざしや、べっ甲の櫛で髪をかざっているのがわたく しには珍しく、衿白粉の匂う首筋を、くつきりとぬきえもんにして、柔らかな絹の着物をまとってい るまるい肩先が、子供の目にもなまめいた美しさで、まぶしく映ったものだった。 たいてい、その丸い肩をふるわせて、叔母は、母の前でしおしおと泣いていた。 それでもわたくしをみると涙のたまった目で、笑いかけてくれようとする。 何日か、里代りにしてわたくしのうちへ逃げかえっている叔母を、夜更けに、美しいその夫が迎え に来て帰っていったりすることもあった。 「姑さんが華やいだ人だから : : : 」 そんな意味のことをわたくしの母が父に訴えて、叔母のあんまり幸でない、新婚を不憫がっていた のを聞いたこともあった。 長い歳月をかけて、叔母は、その結婚生活を守りぬき、華やぎすぎるほど若く美しかった姑も、年 と共に少しずつ、老いてゆき、ある朝、突然の死に見舞われていった。 愛妻を失って以来の舅はすっかり気力を失ってしま、 しいつのまにか、叔母は気丈なしつかりもの の主婦におさまっていて、内気な夫を扶け、一家の中心になっていったようだった。 叔母から突然に送られてきた小包みからは朱色のさめた繻子ばりの薄い小箱が出て来て、中には、 数枚の櫛と、笄やかんざしが入っていた。 「蔵の中の整理をしていたら、出て来たから送ります。かあさんの愛用したものです」 かあ
ノ 68 五嶋さんはもともと器用で、男の子でも針を持っことが嫌いではなかった。奉公にいった時には、 もう糸と針は自分用のを用意していて、足袋のほころびでも襦袢の破れでもみんな自分でつづってい た。それだけに、紐の組み方も覚えが早く、面白くて仕様がない。 朝は五時起き、夜は十時十一時までの勤めで、水汲みから子守りまでという奉公の辛さも、辛さと 感じない。 同僚の中では頭がいいし、読み書きも達者だというので、もう十六の年には外交をまかされるよう こよっこ。 元服させられて、小僧から小番頭にあがる。縞の着物に角帯をしめさせられ、羽織をもらって、腰 に煙草入れをさす。十六歳の大人は、煙草にむせながら、商売の取引には、煙草を吸って間をもたせ るというコツも修行しなければならない。 時には酒の相手になってくる。最初は、嫌いなのを無理にがまんして吸っていた煙草が、いつのま にか中毒症になるほど好きになってしまった。この上、酒までこの調子で腕が進んだら、身がもたな くなってしまう。十九の時、徴兵検査を受けたのをきっかけに、ぶつつりと酒を絶ってしまった。 「はあ、昔はのんきなものでしてねえ。兵隊の検査は二十一と決っておりましたが、私なんそは、戸 籍がまちがっているとか何とかで便宜上、十九で受けさせてくれました。おかげで二十一の時には、 もう店の営業一切をまかされて、全くの一人前になってしまいました」 二十一歳の時から五十八歳まで、その店の実質的な経営者として勤めあげた。 四十五歳の時、震災にあったが、その時は、自分の貯えまですっかりはきだして店の再建に協力し た。営業主任という名目だったが、五嶋さんは実質的には「自分の店」のような愛着を持っていた。
ある。お父さんの初代富本半平さんが、そもそも、堅気から幇間になったという粋人で、名人の名を ほしいままにして、大正七年四月、なくなって、半年後、十一月の一の酉に早くも豆幇間としておひ ろめをしている。十四歳の時である。 千代平という芸名で、チョッペイ、チョッ。ヘイと可愛がられたが、いわゆる幇間の半玉、または雛 やく い、つことにな 妓というのは、客が「どうも女の子はいいが、ガキは里心がついていけねえや」と、 り、まもなく豆幇間の制度はなくなってしまった。十七歳でもう一一代富本半平を襲名した。 「普通、吉原の幇間は十年丸がかえで、一年間礼奉公というのがしきたりでございましてね。そりや あ、ひどい修行です。わたくしは、師匠といっては決っていずまあ菅野米八という彰義隊上りの幇間 をおやじが大そう面倒をみまして、おかげでその人に、何かと世話になりました。へえ、一中節の菅 野でございます。富本の家元は、骨接のあの名倉病院の御家で持っていられまして、母とふたりで襲 名の御挨拶にあがったのを覚えております。芸をしこむといいましても、弟子入りすれば、師匠の家 のふき掃除から台所、使い走り、子供のお守り、何でもやらされ、その間に、見様見真似で覚えこむ というやり方は、ほかの芸道の内弟子さんとあまりかわりありません。わたくしはまあお袋がしつか り者でして、おやじのなくなった後も、家計をしつかり守っていて、金の不自由はさせられたことも なく、そういうきびしい修行をさせられたこともなくすぎてきましたが、それだけに、お互いには何 も教えあわないこの世界で、若い時から、一本立ちして、いうにいえない苦労は、まあいろいろとっ んでまいりました。 躾でございますか。ええそれは、もう格別きびしい世界で、色町だからこそ、いっそうそういうこ とはきびしいようでございます。土地の女に絶対手を出せない、手を出したら最後、その土地では働
らいましたが、実によくって、うま味があ 0 て、しゃちほこだ 0 た 0 てこれだけの仕事は出来やしな いと、うっとりしましたよ」 石合さんの話の中には、屡々うま味とか、味とかいうことばが入るのが耳につく。 「味」が出るか出ない 一つ一つの紋を手で描きこむこの徴妙な緻密な手仕事では、石合さんのいう かが生命なのだろう。 最近は、印刷の紋も出来、一時、手描紋の職人は脅威を感じたけれど、や 0 ばり印刷の紋には、き れいなだけで味がないということになり、手描紋の方に仕事が落ちついてきたそうな。 石合さんは、お父さんの仕事を見ていて、紋やになるのがいやでいやで何とか外の事をやりたいと 思いながら、いつのまにか紋やを継ぐようにな 0 てしま「たと笑 0 ている。 「弟子ですか。わりあいになり手はあるんですよ。染物屋や、呉服屋で、紋の必要なことを自覚して いる家で、息子に紋を仕込むというのもふえてきましてね。それに今は何しろ、割の合う仕事にな 0 ていますから。うちも弟子は二人置いていますー 六畳のアパートの窓ぎわに、石合さんの仕事机があり、その横にもう一つ机が並んでいる。その上 はきれいに片づけられているが、ついさ 0 きまで通いのお弟子さんが仕事をしていたのだという。し ・ほおこしの蒸気をたてるために水の入ったフラス = がかけてある火鉢が仕事場らしい雰囲気をつくっ ている。石合さんの仕事机には染料の小びんや、筆や、竹でつく「たぶんまわしや、はけやこてなど 絵とい 0 た道具類が整然と並んでいる。仕立上りの七五三のオレンジ色の女の子の友禅がその上にの 0 ていた。 「これ、化繊なんですよ。この頃はこんなものも多くなりましてね。私ははじめてなんですが、かえ
を愉しむようにもなっている。しかし日本人が、わびとか、さびとかを好んで、華麗で鮮烈な色彩を 嫌ったというような意見はまちがっているのではないだろうか。 江戸時代、町人の妻女たちが、地味な渋い色目の着物をつけた時でも、緋鹿の子の帯や黄八丈の着 物を町娘は好んで身につけていたし、下着には赤をふんだんに用いてもいた。着物の表は地味にして もみ も、裏は紅絹をつけ、袖のふりに、どきっとするような色気をみせたのは、大正時代から、昭和のは じめまでもそうだった。 もちろん大奥や武家の上流の家庭では、平安朝に劣らない華やかな衣裳が使用されていたことは、 博物館に残っているその当時の衣裳を見てもしのばれる。 戦争中だけは、「贅沢は敵だ」という妙な標語がまかり通って、着物の長い袂を切らせたり、美し い色目のものはすべて簟笥にしまいこみ、着て出られないような風潮になった。 戦争の長い間、丁度娘時代を迎えた私は、衣料キップで着物を買うようなことを経験したが、着物 の袖を切ったり、黒っぽい着物を着たところで負ける戦争に勝てる道理はないのである。 色は、文化のしるしだと思う。その国の民度の高さも使用する色を見ればある程度はかられるので ないかと思う。原色の毒々しい色しか好まない人種と、複雑な微妙な色のわかる人種とでは、おの ずから教養のちがいがわかるというものだ。 精神薄弱児の好む色とか、狂人の好む色とかもあるという。正常な人間でも、心の沈んだ日と、昻 揚した日とでは、選ぶ色がちがうようだ。私は気分のひきたたない日にかぎって、派手な、明るい着 物を身につけ、顔に近いところに赤い色を持ってくるようにしている。するといつのまにか、気分が ひきたってきて意欲的になるからだ。
ろう。人形の魅力は、何といってもそのいじらしさとあわれさにあるように思う。男役より女役が、 女役より子役が得をするのも、その次第によるのではないだろうか。 踊りのある種のものや、道行なども、私には役者より人形の演じた方にはるかに心をそそられる場 合が多い。 八百屋お七が雪をあびながら、櫓にかけ上がろうとして、ずり落ちてはまたかけ上がり、次第に髪 もほどけ、心もそそろに乱れていく踊りの場面などは、人間の女形が、櫓にとりすがり、所謂人形ぶ りよろしく熱演してみせても、人形の演じるお七ほどにはどうしても可憐さが感じられない。肉体の ある人間の胴や脚の重さが、櫓からすべり落ちる時、その重量感を如実に感じさせてしまうのだ。そ れに比べて人形のお七は、髪ふり乱し、半狂乱になって必死に櫓にしがみつけばしがみつくほど、そ の嫗から肉体感が消えていき、お七の狂乱する魂だけがそこに燃える炎になって雪まで染め上げてい くように思えてくる。緋鹿の子の帯がゆれる度、それはお七の心の炎に見えるのだ。肉を持つ人門 が、魂の純粋さだけを見せたい時、肉のイメージを消すことが如何に難しいか。しかし、はじめから 肉のない人形は、魂だけを人形遣いが自分の心から移しこめればそれが可能になってくる。 よく女形の人形が、実在の人間より背をそらせすぎるとか、首を廻しすぎるとか非難される声を聞 ちく。写実を尊び、大仰なふりをつけるのは下品だといましめているらしい。しかし、元来、写実とい 女ってもそこにデフォルメがなければ、美も醜も際だちはしない。写真より絵の方が、時として、実物 楽に近く見える例はよくあることである。いや、むしろ、絵の方が、実物より実物らしいという場合す らある。小説でも、現実にあった通りを書きうっして、かえって嘘くさくなり、全くフィクションの ことを書いて、現実以上にリアリティを感じさせる場合の方が多い。何れも作者の腕次第という点に