とい一つと、 「そら、そうでつしやろ。、 しろのいの字も知らんときから、浄瑠璃の文句を全身にしみこませてるん でっさかい」 と笑う。笑うと女のように艶な目付きになる。この艶な目付きと、きびきびした素顔の男らしい動 きに魅せられて、簔助のまわりには、いつでも色つぼい尊が絶えたことがない。 「わてのこと、ほんまに女たらしや思うてはりますか。え ? 先生までそう思うてはりますか」 向いあって、正面から目の中を覗きこまれたことがあった。私はその目が女たらしの目だと笑っ こ 0 「もうかなわんわ」 簔助は投げた表情でいい、すねてみせた。 女たらしは、天性の素質の上に、大そうな努力がいるものだ。まずやさしさと、思いやりと、恋づ くりに励む演出力もいる。 簔助がもし女たらしなら、そういうものを一身に具えているのだろう。 簔助に捨てられた女は十指にあまるとか、襲名のとき、ひどい野次が大向うから飛んだとかいう伝 一 = 力ある もしそれがすべて本当なら、芸人としては誇っていいだろう。 藤十郎の恋で死んだお梶の悲恋は、悲恋だけが伝えられるけれど、藤十郎に恋されたと思いきめた 瞬間のお梶の女のいのちの喜びはないがしろにされている。その瞬間が、死に値するほどの充実をも たらしたという解釈もなりたつのである。
23 梅のきもの ているのではないだろうか。 そのきものを着てひとと会った時の空の色や木の葉のそよぎ、日の光、雨の音、会話も涙も、ため 息も、きものは、みんな吸いとって覚えている。 しのび会いに着たきものが忘れられないように、別れに着たきものは、もっと忘れられない。 きもの道楽で有名なあるひとに、そのひとの着古したきものを一枚人にあげてくれという話があっ た時、そのひとは新しく買ってならあげるけれど、着古したものは、一枚も手離すのはいやだと答え た。その人は、まるで物惜しみの強いけちな人のようにいわれた。本当にきものを愛する人なら、そ の人のように答えたくなるだろうと思う。好きで選び、手入れを重ねた愛着もさることながら、その きものを着た時の数々の思い出にとうてい別れがたい気持がからむだろう。 別れた男の胸もとに全く見覚えのないネクタイをみつけた時の女の気持のわびしさと、別れた女が 覚えのある思い出のきものを着ているのをふと町で見かけた時の男の気持のわびしさは、どちらがせ つなさの度が深いだろうかなど思いめぐらせてみたくなるのも、きものという女の皮膚にもう一つの 血が通っているせいかもしれない。
日本の花火の特徴は、盆がまるく大きくひらくことで、この色の美しさは世界に比類がないのだと 星の数や、星の芯の化学変化で、光は、牡丹の紅いになったり銀河の白金になったり新緑の緑やエ メラルドのグリーンになったりする。 空に打ちあげられる光の宝石でつづる巨大で華麗な詩であゑ花火師の頭の中は、精密な科学者の それであると同時に、詩人の持っナイ , ーヴな感受性を必要とするようだ。 所謂味のある花火が打ちあげられるようになるまで、どれくらいかかるのでしようかという問に対 し、高杉さんはまた「きりというものがありませんね。死ぬまで一人前なんてことはありませんよ」 AJ いう - 。 十六の年からこの道に入って、はじめて大きな玉にいどむ決心がついたのは、ついまだ十一年前だ とい、つ 0 花火は打ち上げるまで、成功か失敗かわからない。それに費す費用と時間と、労力を思えば、うか つに一発もはなてないという謙虚さこそ、職人のつつましさであり、本性であろう。 十一年前、はじめて二尺玉にいどんだ時は、熱海で打ち上げる瞬間まで、心配で、夜もよく眠れな かったという。 一番、仕事のしがいがあるのは、競技用の玉をひとり苦心してつくり、それが競技会で賞をとった 師 火時だったという。 尺玉以上ともなれば、テストする場所もないから、全くその瞬間まで、自分でも不安でならないの
千されていて、それにむしろをかぶせてむらしてあった。できた藍玉もたくさん貯蔵されていた。染 色家は多いけれど、染料の製作から染めまで、何ひとっ他人の手にかけずやり通している人はそうい ないのではないかと、あらためて、何の屈託もなさそうなのどかな表情をした質朴そのものの森さん の横顔を見直すのであった。 揚げ幕係り 倉沢小三郎さん、明治三十五年八月生れ、今年六十五歳の江戸っ子である。 とや 歌舞伎座の揚げ幕のある俗に鳥屋と呼ばれる所を訪れると、倉沢さんは、 「ちょっと失礼」 と、一礼しておいて鳥屋を出ていった。間もなく戻って来た倉沢さんは、濃紺の木綿のたつつけ姿 の小柄な驅を軽くかがめ、 「顔を洗って来ました。年寄になって目やになんか出してるとみぐるしいですからね」 A 」い一つ。 「一日中、朝から晩まで、この中に入って、ほとんどお陽さまを見ないので年よりずっと老けている 係でしよう げと気にする。いわれてつくづくながめても顔色は艶々と、小ざっぱり清潔で、一向に老人臭くな 、小柄だがひきしまった、いかにも敏捷な身のこなしをしている。 大正十二年の震災の時、倉沢さんは兵隊にとられていた。震災のため兵役義務が一年のばされ、十
ひびく。 揚げ幕が上り、花道に灯が入ると、大向うから、声がかかる。役者は、その声に励まされ、気持よ く舞台にかけ出していくことができる。 要するに、揚げ幕の仕事とは、スタ 1 トラインに立った役者に、出るきっかけを与える仕事であ る。万一、出鼻をくじかれたら、役者はいい芝居ができなくなる。 「六代目さんが可愛がって下さいましてね。一々、コッとかイキとかを手をとるようにしてのみこま せてくれました。日本一の揚げ幕の折り紙をつけていただいたのも六代目さんです。吉右衛門さんに も猿翁さんにも格別可愛がってもらいました。役者さんには、それそれ十人十色の癖がございまして ね。鳥屋での態度なんかも様々です。それをのみこんで、役者さんの神経をできるだけ、苛立たせな いよう、そして、イキがびたっと合って、気持よく舞台に送り出してあげるよう、それをするのが揚 げ幕の仕事ですが、どこをどうしろと、人に教えられるものでもありませんしねー と、淡々と衄る。 「敵役をなさる人は、案外、気難しい神経質な方が多いのですよ。そういう方には、特にこっちが気 をつかって鄭重に扱います。歌右衛門さんなんかは役柄のせいもあって、揚げ幕の中でも華やかで、 「出』も足をトンと鳴らして、「ハイツ』と合図が入ります。 係後継者ですか、作ってくれといわれているのですが、まだ全然おりません。地味な仕事ですしね。 げ今時の人にはどうですか」 倉沢さんがいなくなってしまえばもう、幕をひく人もいなくなる。、 しや、あかりをつけ、幕をあげ ることはできても、これほど役者とイキのあった幕の揚げ方のできる人がいなくなるだろう。
子さんがこんなに新鮮で愛らしいと知ったのは喜びだった。 大島がこんなになまめかしく清潔なきものだということも改めて知った愕きであった。 びと その後、美しい妓の、結城姿や大島姿に何度か接したが、そういう普段着の時、彼女たちの美しさ が、並々でなく磨きぬかれた美しさだったと悟らされることが多い。 それは彼女たちにとっては華やかなお座敷着は労働着であり、結城や大島の普段の中にだけ、仮面 でない素顔をのそかせるからだろう。そして不用意に逢って思わず示す、彼女たちの素顔はどの人も みな素直で、心やさしい、思いがけないほどっつましい心根の人たちであることを教えてくれるの 祗園の話でもうひとっ最近聞いたばかりのきものの秘話がある。 舞妓の水揚げということばがある。今はもう大っぴらには、そういうことを禁じた法律が出来てい るが、かっては、舞妓の水揚げは舞妓が当然通らなければならない一つの門だった。 好きでもない旦那に処女を買われるそのしきたりが、若い少女の心や軅にはどんなにこたえただろ 昔から万金をつんで水揚げはされた。その夜は舞妓の屋形では、かねてこの日のために用意してお おとこし いた、新しい長襦袢を儀式の夜の寝巻として、男衆に持たせて、お茶屋へ運びこむ。その上には生漉 の紙が二つ折にして分厚くのせられている。 水揚用の寝巻はたいてい緋の長襦袢だった。その長襦袢が一夜あけると、緋の色が目に見えるほど あせると、祇園ではいいったえられている。
5 ノ櫛 が一番わたくしの髪にはなじんでくれて、いうことを聞くようだ。 櫛はいろんなところで買ってみたけれど、上野の池の端の「十三や」の櫛が最も使いよい。もう七 十近くになる老人がつくっていて、その老人の櫛を使ったら最後、とてもセルロイドの櫛など使う気 がしなくなってしまった。 しい櫛は、髪の根に触れても柔らかくやさしく、決して神経をいらだたせない。 椿油と、髪自体の油がしみて、手垢もついて、べっ甲色になった櫛は、自分の肌の一部のようなな つかしさを感じさせる。 ソ連の旅にも、二度のヨーロッパの旅にも、わたくしは、この使い馴れている櫛は手放さなかっ この櫛のほかに、わたくしはほとんど飾ったこともない飾り櫛を何枚か持つようになっている。 買ったものもあるし、もらったものも多い 旅に出て、焼けのこった町の古道具屋などをのそくと、必ず、蒔絵の木櫛や、べっ甲の櫛が埃をか ぶって店のウインドウのすみにおしやられたり、光りのささない棚の中の箱の中にごちやごちゃとな げこまれていたりする。 もと そんなものの中から、一枚か二枚、気にいったものを需めてきて、拭きあげてみると、青い貝の肌 が底光りをたたえてあらわれてきたり、小鳥の目のような珊瑚の朱がぶつつと光りを放ってきたりす る。 その櫛をつくった職人の姿や、それをさしていた美しい女人の俤などが、一枚の可憐な櫛の中から 浮びあがってくるような気がする。 こ 0
私の知らなかった私がそこにいた。 着ないつもりだったから、帯を全く考えていなかった私はあわてて、似合う帯をあれこれさがしは じめた。梅の花の色の中のどれをとっても合うので、思いがけず、それに似合う帯がいくらでもある ことがわかった。 紬にはないやさしさが、しっとりとからだにまつわりついてくる。それは一種の官能の甘さを誘っ てくるようだった。 仕事の場に着ていく気持にはなれない。私はそれを着た日、偶然、十何年も会わずにいた昔の思い 出の中の人にめぐりあった。十何年前の私はきものなど着たことがなかった。パ ーマをかけた髪を首 すじで波うたせ、ぼってりと前髪をおろしていた。 彼は頭をひつつめに結び、梅の小紋のきものを着た私を見て、昔と同じ目をして笑った。十何年の 歳月のあとを彼の表情の中に探そうとして、私はとまどった。男はなぜ、女ほどに年齢の垢が表情や 皮膚にしみつかないのだろうか。美しい別れ方をしたわけではないけれど、憎みあい、呪いあうほど 心やからだをからませあった仲でもなかった。戦後の荒、々しいすさんだ空気の中で、ほんの短い時だ けれども傷だらけになっていた互いの心の痛手をなめあいいたわりあったなっかしさだけが残ってい こ 0 「変わりませんね、ちっとも 彼は昔と同じ口調でいった。私は思わずひくい笑い声をだしてしまった。 「わたくしだとすぐわかって ? 「わかりますよ、ちっとも変わっていない」
じゃありませんよ」 道具も粗末で、技術も下手なところから、ぎごちなく、粗い出来なのを、素朴だとか、カ勁いとか いうんだからかなわないということを、片岡さんは皮肉らしくさらりという。江戸 0 子らしく、芯か ら照れ屋らしい片岡さんは、この細工を見せてくれるまでになかなか時間がかか 0 たのであ 0 た。ふ たことめには大したもんじゃあありませんよと、こともなげにお 0 しやるのだが、決してことば通り ではなく、片岡さんの仕事が、め 0 たなことで、他人に真似出来るものではないことを、ちゃんと知 0 ていられるのである。頭や目だけで、鑑賞したり、考証したりする学者先生や美術評論家のことば を、おなかの中では笑 0 ていて、それも指先一つで、自在にこなしてみせる自信のほどはちゃんと誇 り高く胸にしまわれているのである。 小柄で、色艶がよく、頭髪がふさふさとして染めあげたように黒いので、とても若く見える。けれ ども明治一一十二年生れだとのことだから満で七十八歳の老翁である。こんな精巧な魔法のような仕事 をしてみせる手は女のように小さく、白く、指は短い この花びらのように薄い貝の元の姿の貝を見せられて、もう呆れてしま 0 てことばもなか 0 た。片 岡さんが両手でずしりとかかえた貝のかけらは、一冊の本くらいの肉の厚みを持 0 ていて、外側は、 手が切れそうに、、 こつごっとして青黒い。内側は、真白のなめらかな磨ぎすましたような照りをみせ ている。夜光貝だそうだ。この貝を白い象牙の板のように切り、磨いたものが、細工の素材として用 いられる。 片岡さんはそれも自分でや 0 ていたけれど、今は、京都で、貝を板材にするところがあ 0 て、それ を使 0 ているということだ。板のようにされた貝の厚さは、それでも五ミリくらいはある。それを紙
きせる作リ 明治三十一年生れ、六十九歳とは見えない色艶のいい吉田省吾さんは、私たちが行くのをアパート の二階の窓から首をのばして待っていてくれた。 もう息子さんたちは成人して、それそれ大学を出て職につき一家をかまえているので、ひとりのん きにアパ 1 ト暮しをして隠居仕事にきせるを作っている。 六畳の窓ぎわに古机一つ置き、そのまわりが仕事場になっている。両方の壁ぎわいつばい並べた所 帯道具の類が、びかびかに磨きこまれているところや、物の置方が整然と決っているところに、講釈 師の神田松鯉さんの二階借のすまいを訪ねていった時と似たような印象をうけた。 ただし、仕事机のまわりだけは、異様なほど、すべてが古色蒼然とした道具で構成されていて乱雑 な感じをうける。ところが、 「とにかく、ひとつ、つくるところを見せてあげましようか」 と、吉田さんが机に向い、つぎつぎと必要な道具をとりあげていくと、乱雑にみえたものの配置 が、ちゃんと定められた動かし難い位置におさまっていたことにすぐ気づかされるのである。子供の 作ままごとにつかうような小皿や、さびた。ヒンセットや、大小さまざまのやすりや、ガスをつかった足 せ押しふいごなどが吉田さんの手がふれたとたん、急にいきいきと生彩を帯びて、いのちにあふれてく る。まるで古道具屋の店先の埃だらけのがらくた類をとり集めたような感じのする道具の一つ一つ が、びつくりするような大切な機能を発揮する。